創世記第一章 はじめに神は天と地とを創造された。地に形はなく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

旧約聖書の冒頭。二日目に空を作り、三日目に海と大地を、四日目に太陽と月と星をもたらし、五日目に海に生物を空に舞う鳥を、六日目に地に生物をそしてこれらを司る人を創造し、神は世界の創生を終える。全ての始まりに天と地そして光が創造される。日も星も月も火もなくこの光源は何処に?この光の意味するものは何なのか?

トルストイは「光あるうちに光の中を歩め」を新約聖書ヨハネによる福音書12章35節イエスの言葉から主題を求め、書き記したものと言われている。「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、闇においつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は自分がどこに行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。」トルストイの思いは末文に記されている。「ひとたびまっすぐな道を見つけた以上、神と共にその上を歩んで、過ぎ去ったことも、大きいことも、小さいことも考えぬが良い。神にとっては、全て行けるものは相等しい。ただ一つの神と、一つの命があるのみだ。ユリウスはようよう安心して…喜びのうちになお20年くらした後、肉体の死が訪れて来たのも覚えなかった。」理想とする死である。正に光は人を導く神の御子の導き、闇を引き裂く道標ではないか。これで旧約聖書の光の意味が理解できるようになる。

光を絶対的普遍的価値とするとき対極に位置する価値を認めるべきか。小林多喜二が田口たきに1925年3月2日に出した手紙にある「闇があるから光がある」闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分かる。世の中は幸福ばかりで満ちているものではない。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。この言葉は、坂村真民の詩にある、「本当に光を知るためには本当に闇を知らねばならぬ」「闇深ければ光もまた強し」に通じる。

光は、それがどこから来るかを考えない人をも照らす。光の前に人は皆平等である。暗闇の中で生きてきたとしても光はいつも差し込んでくる。私はこの光を生きている証としてこの光の中を生きていきたい。

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投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。

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