
闇が光に対峙する世界であることは明確である。光は正義であり、生きる道標である。闇は悪であり、闇の中で道は見えない。一方、光に対する影はどうか。影は光によって生まれ、ある意味、対照的な存在である。光がある限り影は必ず生まれる。光に影は忠実に着いてくる。しかし、この影を光が作り出した闇とみたらどうか。光が強いほど影は濃くなる。言い換えれば光が強くなればなるほど、作りだす闇は深くなるのである。この闇は光と共に増殖し正反対の世界を裏で醸し出していく。
人は光を求め、光と共に歩みながら、一方で闇を作り出していく。一見不合理で矛盾することが同時に起こしてしまう。これは悲しいことではあるが、人間の世界で当たり前になる。正にルネ・マグリットの「光の帝国」の世界である。青空の下に夜の世界が描き出されている。絵の中で街灯が夜の世界を照らしている。空は美しく青く澄み渡っている。昼と夜が交錯する。そして光と闇という相反する世界が共存する。人は光を求めながら実際は闇の中にいる。街の灯りは水面に影を落とす。それでも闇の力に勝てない。
信じる光が宗教・民族・国家であれば、相拮抗する宗教・民族・国家があれば否定せざるを得ない。自身の信ずる宗教・民族・国家こそ光であり、光が強くなればなるほど、相対する宗教は邪教であり、相対する民族や国家は蔑むべきであり、闇の中で消さなければ逆に消される論理に陥りやすい。民族浄化、宗教の名を元にした大虐殺、戦争。自らの光の本質を見極めなければ、罠に落ちていく、闇の中で光に反するものへの排除殺戮が行われる。正に光と影の世界となる。
政治であれば、民主主義という名の元に最大公約数の票を得たとき、相対する少数勢力は闇の中で消される。為政者の力が強くなればなるほど光と同様に闇は深くなる。光の中で闇は見えない。汚職が為政者の忖度の名の元に行われる。最大公約数を取れば許される論理である。大衆の多数決による票が根拠であり、誰も個々にまで逆らうことはできなくなる。権力=金である。金は自ずと権力維持のためばらまかれる。民衆は金で踊らされる。金があれば誰も文句は言わない。それが違法であっても。これが政治の光と影の関係だ。更に恐ろしいことは政治が一つの宗教、民族、強力な国家権力(軍)と結びついた時である。光の中に属さない勢力は影の中で排除対象の危機に陥る。民主主義という名の元の暴力、安定を求めるが故の手段としての暴力である。
会社経営であれば、闇と言われる資本主義の中でトップに立つ人間は光という利益の最大化の名の元に別の闇の世界で事業や人の切り捨てを実施する。合理化が大きな旗印になる。手っ取り早く利益の最大化に結びつくからである。利益の最大化、株主への還元、経営資産の温存拡大こそ、企業経営の目標である。取締役は往々に認める。これは人権無視の非情な闇の世界でもある。しかし誰も咎めるものはいない。最大公約数の従業員は守られるが、不要と烙印を押された少数の従業員は消されていく。
光が一元化されると影の存在が見え憎くなる。常に光があれば影も生まれることを見なければならない。強者を光とすると弱者が影となる場合もある。光が強すぎると回りが見えなくなる。これが光の怖さである。影を見ると逆に光の本筋が分かる。影があまりにも深い闇であれば、この光は偽物である。光という名の元に邪道がまかりとおる。騙されてはいけない。光は全ての人に平等に分け隔てなく射すものでなくてはならない。一元化された光には多様性は認められない。あらゆる方向から光が射しこんでいなければ平等な光にはならない。
ブログ村に登録しました。このブログが少しでも心に届きましたら下のバナーをクリック頂けませんか。
コメントを投稿するにはログインしてください。