川を渡る風を楽しむ。川辺の花々木々の騒めきに風を聞き、体いっぱいに風を感じ、川面のさざ波に風を見る。上海、蘇州にいたときも川辺をどこまでも自転車で走っていた。大陸の川はゆったり流れ、悠久の時の流れを教えてくれた。海は遠く、山は遥か、川は人々の生活と一体化し、のんびりしたものだった。大人(たいじん)はせこせこしてはいけない。自分のペースで自転車を漕いでいく。川辺で茶を楽しむことは忘れてはならない。東京に戻ってもこの考えを踏襲している。自転車はもう体の一部。相変わらず、のんびり走っている。川辺をゆっくりとどこまでも。
ここに一冊の本がある。私が10年前日本に帰還し、病から復帰した時に早速リハビリの参考にしようとした本である。重信秀年氏著「自然を楽しむ多摩緑の散歩道」(メイツ出版2010年版)である。多摩地域の散歩道として50カ所を紹介している。正にお誂えの本を見つけたものである。新刊であった。今も十分参考になると思うが、面白いことに紹介されているのは川辺が多い。川辺は歩きやすく、散歩道として最適な証明になる。多摩川、浅川、秋川、神田川、石神井川は別格として、特に野川、仙川、乞田川、大栗川、平井川を知る機会になった。川ではないが、玉川上水、野火止用水、千川上水と自転車で走るようになった。
川辺は憩いの場、魚、鳥、犬、猫も。自然に身近に接する場でもある。子どもにとって遊びの場にもなる。触れ合い、安らぎを求め集まる。集う人々によって渡る風は何色にも変わる。それぞれに川は楽しめる。楽しみ方は幾通りも生まれる。一方で川は脅威ともなる。氾濫し、全てを押し流す。海より川で人の溺れることが如何に多いことか。川の怖さは接していなければ分からない。川は常に接していなければならない。人工的で安全なテーマパークに行くより、近くの川で遊んだほうが、自然の成り立ち、素晴らしさ、脅威をも知ることができる。

古より川は飲み水をもたらし、土地を育み、作物に滋養を与え、生き物の糧を供給してきた。それだけではない。川は物流の手段でもあった。山から石、木材、石灰を運んだ。川の動力から水車が利用され、精錬、粉挽、更に電力を供給してきた。江戸幕府に繁栄をもたらしたのは治水である。日本の近代化に貢献したのも治水ある。遊水池で荒川の氾濫を抑え、利根川を東京湾から霞ヶ浦に流れを変えた。荒川と多摩川の中間に玉川上水を流し、安定して飲み水を江戸に供給した。川の恩恵は今も生きている。
川辺であれば土手があり、その上を自転車は走ることができる。今、道は華かに整備され、自動車社会を後押ししている。非効率な人力で走る乗り物には振り向きもしない。経済発展に貢献するものではない。道路への投資は経済活動の推進に役立つものでなくてはならない。人に安らぎをもたらし、憩いを与え、息抜きを可能にできるのは川辺の道、土手に違いない。今こそ治水を見直し、川を人が安心して遊べる自然の学校へと戻す知恵こそ必要ではないか。江戸時代の知恵をもう一度見直す時が来ている。
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