
私は北の海で育った。小学校の夏休みは毎日のように海で泳いでいた。家からはいつも海が見えていた。3歳年上の兄と二人で自転車で下りていく、海パンをはいたまま、小1時間で海岸に。あの頃海は美しかった。どこまでも青く、水は透きとおり、波は穏やかだった。真夏の太陽は眩しく照り輝き、青い空を圧倒する真っ白な入道雲がわき上がっていた。どんなに暑くても海の中は涼しい。突然の夕立がこようとお構いなし。潜り、泳ぎ、疲れたら浮く、海に抱かれていた。海は母のようだった。しかし、故郷は遠きにありて思うもの。東日本大震災の後、数十年ぶりに訪れた海にもうその優しさはなかった。泳ぐものはいない。海岸に設置されたプールで泳ぐそうだ。寂しい。
私は長じて東京に出、働くころに海は遠のいた。寧ろバブル時覚えたダイビングに海を求めた。沖縄に行った。私の海が蘇った。ダイビングには不思議な浮遊感がある。海中から空を見上げると自分は海を通り越え、空に浮いているかのように思える。海底が地上になる。海中は静かな透きとおった空のような世界。日の光は海中からも見えている。呼吸を止め泡を立てなければ海にいることを忘れる。酸素欠乏から思考も止まる。首を絞められた時の快感に近い。更に空と海が一体化する幻想の世界に入り込める。魚が鳥のように、人も海で鳥になれる。至極の時を過ごすことができる。しかし、沖縄は遠い。近くに海はない。いつも海を感じていたかった。結婚し、家族を持つ、仕事は更に忙しくなる。家を持ち、毎月のローン、子供の教育費、縛りが増えていく。単身赴任、会社への責任。海に行く時間は更に限られた。

海は人生のロマン。忘れられない。戻りたい。その時、一人その想いに浸れる空間があった。トイレだ。最初に載せた写真は実にトイレの中。TALBOTの”OUT OF THE BLUE” ザトウクジラのポスターを正面に飾った。クジラが空に跳ぶ迫力の写真。私の一番お気に入り。昔から自分の部屋に飾っていた。クジラは4900万年前に陸を捨て海に入っていった。クジラのブリーチングは海から空へ新たな挑戦を見せているかのようだ。だから好きなのだ。この慣れ親しんだポスターに海中を遊泳するマンタのポスターシール、イルカのブランデーボトルを置き、蔓柄のバリ風デザインのモロッコランプで明るく照らすようにした。狭い空間でリアルな世界を醸し出すにはこの装飾が一番であると2年かけて選ぶ。
誰にでも失いたくない思い出はある。得てして美化されるが、過程はともかく、その時得た”美”は永遠だ。感覚として。一度自然の中で見たクジラ、マンタ、イルカは生き生きと泳いでいる、飛び跳ねている、私の脳裏に確かに刻まれている。これは真実の美である。これを一人の時自分の空間に再現したい。邪魔されたくない。自分だけの空間、それは正にトイレではないか。
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