侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館

2007年12月13日、侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館はリニュアールされた。13年前である。私はこの日初めて訪ねた。ずっとリニューアルのため閉館していたからである。初めて南京に来た時は中国人の部下と顧客訪問で来た。その時、顧客対応を巡って部下を叱った。その時彼は私に言った。『ここは南京だ』ただで済まないような言いっぷりだったことを憶えている。記念館再開の年、南京に日本軍が占領した日から丁度70年であった。天気は良く、青い空の元、凄い人だった。私はただ圧倒されるばかりだった。30万人の犠牲者の文字が大きく張り出され、日本軍の怖さを知るに十分であった。日本語の説明も自然であった。説明資料も日本語があり、日本人の支援があったことを窺わせていた。来ている日本人は私だけだろうか?様子を見ていたが、最後まで分からなかった。反日運動の折り上海にいたが、黙っていれば分からないと部下に言われたが、その通り黙って見て回った。中国人の列は永遠に続くかのようだった。

私はアジアを韓国からインドネシアまで隈なく歩いていたので、日本軍の進駐、殺戮の話、残虐な面を嫌と言うほど聞いていた。謝れば良いと何度も言われた。因みに、私の義務学校での勉強では、戦争の話は米国との太平洋戦争が始まりで、1941年12月8日の真珠湾攻撃で1945年8月15日の天皇の玉音放送で終わりを告げている。しかし実際、1937年7月7日盧溝橋事件から中国の宣戦布告の無いまま戦争は始まっており、北京から上海、広州まで永遠と1945年9月9日南京における降伏調印をするまで戦争は終わらなかった。もっと言えば1931年9月18日の柳条湖事件から始まる満州事変まで日中戦争は遡ることになる。よくも14年も戦争をしていたものだ。ドイツがロシアに攻め入って戦争に負けたように、日本も米国に負けなくとも、いずれ中国に負けるだろうと予測していた軍人がいたと聞いている。実際、重慶の陥落はできなかった。私も中国の武漢から重慶まで営業に行っているが、よくぞここまで日本軍が攻めたものだと感心するぐらい遠い。上海から重慶は上海から東京とほぼ同じ距離になる。武漢だって遠い。東京から岡山くらいある。台湾からとしてもゼロ戦は良くも往復したとこれにも感心させられた。因みにゼロ戦の名前を一躍世界的に有名にしたのは日中戦争であって、日米戦争ではない。要は日本の戦争は1941年の遥か10年前に始まっていた。疲弊するはず。市街地無差別爆撃と言うとB29を日本人は思い出すが、既に日本軍は中国の南昌、南京、広徳、杭州で各都市で既に行っている。日本はゼロ戦により中国の制空権を握った。しかし結果的に勝つことはできなかった。これが真実だ。北京、上海、広州は抑えられても。

戦争は軍対軍が基本だった。しかし日中戦争で日本軍は市民を巻き添えにした。日米戦争では人間を武器と一体とした。カミカゼ特攻隊だ。1937年の話に戻る。日本軍人による100人斬り競争があった。野田少尉と向井少尉の上海から南京に向けて日本刀で何人斬るか競争したという話。上海から南京まで300km、東京から仙台までくらいある。その間戦争をしながら行軍する。南京攻略のためだ。南京大虐殺はこれにつながる。2人の少尉は勝つために斬って斬って殺し捲ったのだろうか、単なる武勇伝で終われば一笑に付せるが、彼らはこれで戦後南京に呼び戻され死刑になる。戦争とは大量殺人が法的に許される。国家間の戦いだからだ。国家の名の元の殺し合い。誰も広島・長崎に原爆を落としたり、東京空襲をしたB29に乗った軍人を罰すことができるだろうか?しかし彼らは死刑になった。本当に100人を日本刀で斬れたのか、疑問なのは間違いない。数字の一人歩き、南京大虐殺の20万人と同じだ。

ここで考えなければならない。数字の裏で真実が見え隠れする。軍は殺戮のために編成されれば、殺すのは至上命令になる。殺された側の人間は記憶に刻まれるということだ。被害者意識である。一方殺す側の人間にも罪悪感が生まれる。ここに殺戮の現実が浮かび上がってくる。野田少尉の部下望月氏の回想。

「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。
この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいながら、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。
今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。
終戦后、連合軍は両少尉を如何に処置したか、ここで”潜行三千里”の著者、元参謀辻政信大佐の手記を引用してみる。
彼は敗戦の報を知って、戦犯をのがれるためビルマ、タイ、仏印、昆明、重慶へとのがれ南京に至って支那の重臣の庇護の許に、混乱する状況下で共産軍毛沢東に対処する戦略をアドバイスしていた。それから戦犯容疑が時効となり日本に帰ってきたときのことである。
野田・向井両少佐(※3)が南京虐殺の下手人として連行されてきた。この二人は、一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証據不十分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお陰で、どんなに弁明しても採上げられず、ただ新聞と小説を証據として断罪にされた。
永い間の戦争で中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無であることは勿論であるが、証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。
両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石になろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。
年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって”天皇陛下万才”を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった。
(「私の支那事変」望月五三郎著私家版1985年P43-45)

野田少尉も向井少尉も赦せないのか。今も遺族は裁判で彼らの無実を訴え、戦っている。何故なら100人と言う数字の信憑性にある。しかし敢えて言おう、事実は事実として日本軍の戦地での戦いとしてそうせざるを得ない体質があったのではということだ。彼らの遺書がすべてではないのか、私にはそう思えてならない。

野田少尉の遺文(wikipediaより抜粋)

一 日本国民に告ぐ
私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。
只、今般中国の裁判に於いて俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。
たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みやアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。
東洋の隣国がお互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以ってしても解ります。
今後は恩讐を越えて誠心を以って中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいのです。
中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。
至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
西郷さんは『敬天愛人』と申しました。何卒中国を愛して頂きます。
愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中国提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以って神が教示されたのです。
日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は『愛』と『至誠』です。
此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。
桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。

野田少尉自筆の遺書

死刑に臨みての辞世

 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩はしましたる事に就き厚く御礼申し上げます。
 只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜はりましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以つて残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みをはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 野田毅

私は大連の二百三高地も行っている。日本は日露戦争も実に中国で戦っている。訪れてみると納得する。しかし何故中国はこの地を残し、後世に何を伝えようとしているのか?戦争の傷跡を見せ、戦争の悲惨さを見せることが一番重要だということだ。拉致問題、慰安婦問題、民族差別、領土問題、過去の戦争を振り返らず殊更事なき主義を決めつける政府の何と浅はかなことか、後世に伝えるものは何もないのでしょうか?

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投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。

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