
山頂から眺めると下界は風景の一部となり何も見えなくなる。眼前にあるのは美しく何処までも続く天上と自分のみ感じられる悠久の世界である。いつまでもこの恍惚の世界に浸りたいがそうはいかない、夜になれば光の無い暗黒の闇が待っている。気温は下がり体温は奪われる。食べ物もない。獣にはとても勝てない世界。下りていかなければならない。道に迷う、方向が違う、日が暮れる、足が攣る、恐怖が襲ってくる。山で一人で生きることはできない。下界があっての天上であることを忘れてはならない。山頂の快感は一時の幸せに過ぎない。しかし、人はこの幻想に嵌ってしまう。抜けられなくなる。山の上の魅力。いつまでも人はこの幻想に身を任せていたいもの。

トップに登りつめると人は下が見えなくなってくる。山上と同じ恍惚の世界である。ライバルを蹴落とし、全ての権力を握る。更に一度得た権力を守るために保身に走り、利権強化を図り、富を集中させる。回りにNOと言わない人間を集める。自分の地位を脅かす人間に対し徹底した排除を行い、台頭するものには陰湿な差別行為を行い、貶める。自己正当化と他人の差別を同時に推し進める。自己中心の世界だ、特に怖いのは上級国民となった人間だ。国のトップになれば、何をしても許される、法的拘束力を持つのは国家権力で、味方に着ければ怖いものなしである。過信から来る慢心である。しかし実際は他者がいて世界が成り立っていることが見えない。また世界は一国だけでは成り立たない。世界の目は更に厳しい。価値観や利害が別のところに往々にしてある。原則を貫かないと人間の世界はあらぬ方向に進みやすいのは人類の歴史の中で学んだこと。全ては個人的幻想が間違いを犯す。忘れていけないのはトップだけで世の中は動いていない。支える国民が常にいて初めてトップ足るということだ。

彼らの問題は他者に対する目である。役に立つ人間かそうでない人間かまず判断する。その上で、生かすか殺すか決める。冷めた目である。政治家は保身に役立つか、票で判断し、その上で利権に役立つか考える。役に立たないこと、対抗する者に利益を渡すことに時間は割きたくない。全てが思い通りにならない場合、往々にして彼らは部下の所為にするか、敵対勢力の所為、少なくとも自分の責任外を主張する。秘書や役人には忖度を求め、応じたものに一定の地位を与える。忖度とは自分の直接の命令と言う証拠が残らない、責任外で行われるのでので都合がいい。結果、咎められても勝手に忖度した方が悪いのである。自己に責任は及ばない。自己都合に適した間接的な命令である。

彼らが人を使うテクニックは人を動かす幻想である。きれいごとを並べる、けしてネガティブなことは言わない。人を信じさせ、納得させる話術である。自分の政治的力と実績、多くは部下のもたらしたもの、選挙民の貢いだもの、親から受け継いだ看板、地盤、鞄である。幻想は幻想を生む。彼らの頭を支配しているのは選民思想であり、自意識過剰。トップに居るものは守られる。選挙に勝てば全て許される。禊である。問題は勝つ手法である。選挙民に対するものと関係ない市民には別の態度を取る。これが地方選挙の怖さである。世論動向や常識が往々にして些末な意見として無視される。議会の大多数を握れば勝ちなのだ。多数決の怖さでもある。
桜の会は何のために利用されたのか?普通の人々に有名人と接する機会を与え、自分の力の凄さを見せつける。票稼ぎ意外の何物でもない。或いは、地方の選挙に1億5千万の選挙費用が注ぎ込まれた。ばらまいた人間も悪いが、支出を認めた方もおかしくないか?ライバルの排除のえげつないやり方に思えてならない。忘れてならないのは政治資金も国民の血税で賄われているということだ。或いは、忖度を時の言葉にしたモリカケ問題は闇に葬られようとしている。人事を使った巧妙な術策で、麻雀でフリテンになった検事長の定年延長策や意に沿わない学者達を取り除こうとした日本学術会議会員任命問題、保身テクニックの最たるものだ。

北方領土の日は何のためにあるのか?領土の選択は今の住民に権利があることは知っているのか?今住んでいる住民を追い出すつもりなのか?戦後75年領土返還は利害関係を持つ地域住民を黙らせる詭弁に過ぎなくなっているのでは?一方で領土問題は愛国心を鼓舞する一番の道具になる。一番の猫じゃらしだ。竹島の日も然り。竹島を取って何の利益を得られるのか?利害関係を持つ地域住民を黙らせる詭弁である。全て幻想の上に立ってコトを運ぼうとしている。北朝鮮拉致問題についても被害者を取り戻すというアナウンスのみで、実質的施策はない。幻想でお茶を濁しているとしか見えない。或いは、自主憲法の制定を叫びながら、米政府依存を前提に全てを運んでいるのでは?全て国民を幻想という猫じゃらしで操っているとしか思えない。健全な対外関係を構築しなければ、永遠に恒久平和は絵に描いた餅になる。また戦争をしたいと言う輩に対し国民は果たして”うん”と言うだろうか?
彼らが好むのが差別だ。優越感に浸るに一番良いのは他者を貶めるのが手っ取り早い。選民思想から来る、日本は天皇中心の神の国と言う意識である。一民族一国家を標榜しており、少数民族の存在を今も認めていない。実際、日本には他に朝鮮系民族とアイヌ系民族、中華系民族で成り立っている。人口の減少の流れの中で多民族国家を認めていかなければならない。国の存亡に拘る問題だ。大和民族絶対と言う幻想を打ち砕かないとこの国は遅かれ早かれ、生き残れなくなっている。民族の浄化ではなく多様化こそ求められているのは自明の理であり、世の趨勢なのだ。不思議なのは「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」これは女性に対する差別以上に自分を頂点にして反する意見を持つ人間に対する差別である。同質集団を守るには取り巻きだけの理事会にすべきと暗に言っている。他者を卑下することにより、幻想的なトップ主導を守りたかったに過ぎない。後釜にも彼の息が必ず掛かるようにするのが一流の政治家たる由縁に違いない。

騙されてはいけない。いつまでも人は山頂にいられるものではない。幻想に踊らされてはいけない。それがトップに居る人間の見る目、上級国民と言われる人間の考え方であるということを。多数決、民主主義と言う言葉はある意味幻想を生むということだ。選ばれた人間が堕落しないという保証はない。権力は腐敗する。まして長きに渡ってトップにいることは危険な人間に豹変するということだ。人間は神になれない。欲望には勝てない。幻想にのみ人は生きられない。
ブログ村に登録しました。このブログが少しでも心に届きましたら下のバナーをクリック頂けませんか。
コメントを投稿するにはログインしてください。