
S君は転校生だった。確か小学5年の時だった。もう半世紀も前のことだ。忘れて当たり前。北関東の田舎の小学校、転校生は目立つ。異文化を持ってくる。東京から来た或る転校生は厳しい寒さの中で半ズボンだった。背が高く足は長く、髪型もテレビで見たマッシュルームカット。話し方もテレビと同じ。都会の子。僕らは継ぎ接ぎだらけの長ズボン。S君も一緒だったけど何処か違っていた。また何処からどうして引っ越ししてきたのか話すことはなかった。彼が住んでいたのは4階建ての小さな新築アパート、崖下の新開地。おたまじゃくしを取りに行っていたので憶えている。妙に大人びた子供。力の源はニンニク、朝からプンプンだった。彼の肉体的な卓越さ、背は大きくはないが、内に秘めた”力”、しかも寡黙だった。喧嘩はしないが、睨みが鋭く、相手はたじろいた。気は短いが、怒ると黙るタイプだった。
田舎なのでほぼ全員がそのまま同じ地域の中学校に上がる。あの頃は有無を言わさず坊主。彼もそうた。私と一緒のサッカー部。田舎の小さな学校だったので陸上部なんてない。所属する運動部から選抜され大会に出ていた。彼は走れば一番、砲丸投げも距離が違う、すぐ学校の代表になった。他校に伍して勝てるのは彼だけだった。しかし不思議だったのは県大会に出ることがなかった。彼は不平をこぼしたことがない。鮮明に憶えている。中3の時、国体があり、サッカーの会場はこの田舎が舞台となった。その時天皇陛下を初めて見た。我々が国旗掲揚を担ったが、その脇に鎮座。その時、S君は既に運動部には背を向けていた。彼は感情を外に出さないが明らかに田舎の体質を嫌っていた。体罰や虐めもあった。不合理な精神論に基づいた練習、びんたやケツバット、彼は勉学にシフトしていた。成績は当初中ぐらいだったのが高校受験が近づくにつれ、彼は成績をぐんぐん上げていった。彼は全ての高校に受かった。いつのまにか頭脳まで先に行っていた。私はと言うとサッカー部を補欠で終わり、高校は第一、第二志望にも落ち、近くの私立高校にかろうじて受かり通うことになった。彼のその後の消息を聞くことはなかった。忘れていた。彼を理解するには余りにも私は田舎に染まり、幼なすぎた。彼に親友がいた記憶はない。いつも一人だった。
高校ではある事件があった。誘拐だった。同学年の友人の妹が誘拐され、悲しい結末をむかえることとなった。犯人は親戚だった。友人の父親は地域では有名な実業家であり、在日朝鮮人だった。犯人は日本人で妬みから犯行を計画したようだ。悲惨な事件の裏に醜い僻み、妬みがあった。友人は限られた友人としか話すことのない生徒だった。クラスが違うが、クリスチャン系のこじんまりした学校だったので、皆の中で分け隔てを感じることはなかった。何故このような事件が起きたのか、学校では教えてくれない闇をその時感じた。

大学に入り、初めて都会暮らしとなった。田舎にはない人種のルツボ。様々な人々が集まっている。義務教育を越えた現実の世界が見えるようになる。歴史の表と裏の世界。当たり前が何故当たり前なのか考え始めた。日本は何故、高度経済成長を遂げられたのか。何故平和なのか。一方、隣国、韓国では軍政を12年に渡り布いていた朴正熙大統領が暗殺され、春が来るかと思っていたところ全斗煥司令官によって軍政に戻る。そのような中、学生による光州事件が起きる。1980年5月、41年前。日本の学生の中で連帯しようと言う流れがあった。あの頃の韓国は今の北朝鮮以上に軍事独裁だったと記憶している。金大中氏が朴大統領により日本で拉致され、今度は死刑にされようとしていた。そんな時代であった。民主化へのコミットは日本側から多くの声があったことを記さなければならない。今の従軍慰安婦の問題の提起もこの時代の日本からだ。韓国の国民には自由に発言する機会は与えられていなかった。私たち学生の中で今の日本があるのは、韓国の犠牲によるものと言うより強い意志があった。韓国大使館へ金大中氏の減刑を求めデモに参加した記憶がある。金大中氏は米国に逃れ、減刑され、この18年後に大統領になられた。民主化支援は日本からだった。

就職難だった。それでも何とかメーカーに就職ができた。韓国のことは忘れてしまった。入社して7年、世間はいつの間にかバブル経済に溺れるようになった。世間はゆるゆるの状態で、私の様な若輩でもお門違いな誘惑に嵌るようになっていた。韓国に遊びに行ったのもこのころだ。初めてだった。何故行ったのか?招待された。新宿歌舞伎町の飲み屋、たまたま入った韓国人の店だった。そこで金大中氏の話になり、デモに参加した話をした。是非韓国に来て欲しいと誘われた。名は忘れたが、日本語のうまい韓国人だった。ソウルの金浦空港で待つ。観光案内をしようとのことだった。韓国は全斗煥大統領が民主化の流れに抗しきれず、1988年に選挙が行われ、正に新時代の船出の頃だった。

1991年4月、もう30年前。私にとって初めてのアジアの海外がお隣り韓国だった。金浦空港はニンニクの匂いで迎えられる。軍政の残り香が随所に漂っていた。驚いたのはソウルでの真昼間の空襲警報だ。実際、訓練だとは言われてもビビる、地下道に逃げる訓練があった。戦闘機の離着陸が可能なように通りが広く、戦車が走った。北朝鮮との戦争状態は続いている。勿論今も。日本人は私一人、好奇の目で見られていた。大邱では昼間から通りで酒を勧められた。2つに割った瓢箪に白い濁り酒をなみなみと注ぎ、白いゴマをその上に捲いてくれた。美味い!どぶろくの発泡酒。2,3杯飲ませて頂いた。言葉は通じないが、嬉しかった。日本でマッコリが流行ったときこれかと知った。一番驚いたのはディスコで踊る女性の姿であった。独特の腰をくねらす踊り。笑ったが、世界で韓流のブームの片鱗をこの時見たと記憶している。慶州では仏国寺に案内された。この寺の石碑に豊臣秀吉の名があることに驚いた。この寺も豊臣秀吉に焼かれたとあった。約430年前である。教科書にある朝鮮出兵とはこのことで、単なる出兵ではない。加藤清正の虎退治のみではなかった。私はこの後、アジアを仕事で回ることになるが、教科書にはないアジアにおける日本の姿を随所で見ることになる。凄まじかった。
1998年に海外営業担当となった。その頃、韓国は最大の顧客であった。しかしアジア通貨危機以降雲行きがどうも怪しくなっていた。ライバルがドイツからやってきていた。どうやってきたのか?訪韓し、探るもつかめず、結局、海外に駐在するまで分からなかった。韓国国内の主な顧客に商品説明会に代理店と回る。驚かされたのが熱心な若いエンジニアの姿であった。私は日本語で説明すると理解している。しかし話すことはない。ただ聞いている。ハングル文字に翻訳された技術資料は少ない、皆、技術資料は日本語を勉強し、そのまま読んでいるそうだ。日本語だけではない、英文もまた、彼らの海外の技術を吸収するスピードは速い。彼らの激しさを垣間見ることができた。大田で労働争議を見たが、激しい、ピケを張りそこからシュプレヒコール、デモ、投石、恐ろしくて近寄れない。韓国の冬は寒い、-10℃極寒の中、北朝鮮との国境近く、戦車を見ながら冷めた肴をつまみに眞露を飲んだことが思い出される。ソウルからすぐのところに国境はある。わずか30km東京横浜間の距離に過ぎない。北朝鮮は韓国にとって一番近くて遠い国。
2002年に日韓ワールドカップが開催された。韓国の代理店の連中とユニフォームを交換し、お互いの国を応援することにした。日本ではユニフォームというと高い。裏生地が着いていて3000円位した。それを何着か送った。韓国から送ってきたのは1000円くらいのTシャツみたいなユニフォームだった。余りの違いに愕然とした。日韓関係は蜜月を迎えていた。冬ソナが流行り、日本からおばさんたちが挙って撮影現場を回るツアーがあった。韓国出張で、仁川空港であんなに日本人のおばさんたちを見たのはあの頃くらいでなかったのか。空港でバスに乗る前にたばこタイムと喫煙室に皆一斉に向かうのを呆気に取られてみていた。
私は2002年から上海に拠点を移した。韓国から指摘された価格のギャップを埋めるコスト削減のためだ。韓国の代理店のメンバーも大挙して上海にやってきた。観光バスをチャーターし、私も乗れと言う。何処へ?三・一独立宣言の後臨時政府をこの上海に初めて置いたという、その場所が残っていると言う。韓国人は上海に来た時必ず訪れるという。歴代大統領もまた。驚いたことにきちっと管理されて残っている。1919年4月から80年以上過ぎている。しかも日中戦争前である。新天地の近く。日本人は先ずいかない。上海の虹口には魯迅公園がある。その中に有料で入る梅園がある。そこもまた韓国人の訪れる場所だ。私は知らないで入った。何と韓国青年による爆弾テロの舞台であった。1932年上海事変の後、天長節をこの公園で祝ったという。白川陸軍大将は亡くなり、上海公使の重光葵は片足を失った。後1945年9月2日米国戦艦ミズーリ甲板にて降伏文書に調印をした日本の全権大使となる。大韓民国臨時政府は最終的に重慶まで逃げ延び終戦を迎えることとなる。26年間、三・一独立宣言を守ったということだろう。尚、独立宣言の起草は神田駿河台のYMCAであった。上海で爆弾テロをおこなったのは尹奉吉。独立運動の義士の一人として国立孝昌公園に祀られている。韓国が独立するために熾烈に日本と戦ったかと言うことを理解しなければならない。日本には他国から独立を勝ち取るという経験がないため理解できない。

中国に駐在した8年間、何故ドイツ製が日本製を凌駕してきたか、分かりつつあった。品質的に日本製に対抗できるのはドイツ製だ。しかしドイツは遠い、しかも規格が違う。中国の規格は米国の規格とロシアの規格を採用していた。台湾と韓国は日本の規格を採用していた。両国が中国に進出するにあたり、ロシア規格に近いドイツ規格を採用した。それが本国においても日本規格の代替となっていく。大量に中国で使用されるため、台湾は在庫を置くようになった。量が多ければ輸出経費が下げられ輸入品としては安くなる。それが韓国にも流れることとなった。それで価格で勝てなくなる。それが答えだった。ドイツは日本には規格が違うため入って来ないがより需要が見込める中国、韓国、台湾の市場を抑えた。尤もインドネシア、シンガポールも既にドイツ製に流れていた。結論は見えていた。中国で頑張るしか、ドイツ製とは戦えないということであった。しかし、結局、韓国は中国製を認めることはなかった。日本純正に拘った。私の中国駐在もリーマンショックの到来と共に終わりを告げた。私の努力も気泡に消えた。

あれから10年、日韓関係は最悪になりつつある。ここまでお互い反目し合うとは思いもしなかった。残念だが、私の時代は既に終わっている。後世に託すしかない。望みがあるとしたら、韓国ドラマ「愛の不時着」にあるかもしれない。北朝鮮と韓国の同民族のいがみ合いがどう解消されていくのか、日本は世界で今一番危険な関係の中でどう巻き込まれていくのか、このドラマが日本人に少しでも目を覚ます機会を与えてくれればと思う。ドラマ以上に憎み合う骨肉の戦いにならなければよいのだが。日韓関係は深く、長い相関関係の歴史に彩られてきた。日本の有史前より多くの文化は朝鮮半島から渡ってきた。我々日本人の中に朝鮮人の血が流れていないとは言い切れない。その位密接であった。
S君が実は韓国人であったかどうかは分からない。しかし、彼の中に異邦人の影を見ていた。彼はけして同じ時間を共有しようとはしなかった。寧ろ避けていた。彼の負けず嫌いは凄まじかった。半世紀前、サッカーでは韓国に勝てなかった。ワールドカップ出場も赤い壁で阻まれ続けていた現実がある。今でこそ少しは勝てるようになってきたが、今もって大きく負け越していることが証だ。韓国の建国の歴史から言って、我々が敵であったことは明確である。しかし恩讐の彼方に未来はある。過去を乗り越えて未来はできる。過去を見つめ直し、同じ民族の血を共有できる日が来ることを祈って止まない。S君は最早あの田舎にはいないだろう。こういう私も田舎を捨て、東京に生きている。『ふるさとは遠きにありて思ふもの』けして戻ることはない。故郷は心で思うだけに過ぎないと室生犀星はこの詩『小景異情』に込めている。人生に後戻りはない。今を生きるべきなのだ。
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