自転車の旅、旅路の果て

人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し急ぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
勝つことを知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり

徳川家康の遺訓は正に我が自転車の旅への御言葉。旅の荷を背負い、坂をえっちらおっちら上り、下る。そして息を吐く。黙々とペダルを踏み続ければいい。自転車の旅は正に人生の旅只管耐えるのみ、けして急がず、焦らず、愚痴らず、誰に抜かれようと我が道を行く

1.若かりし頃:広島へ 1979-1984

小さい頃、自転車に乗りながら考えた。この道は何処まで続くのだろう。自転車に乗れば何処までも行ける。田舎の一本道は野を越え山を越え何処までも続く。未知の世界。しかし現実はそう甘くない。自転車の旅が実現したのは学生時代、41年前。東京-仙台往復602kmから。3泊4日。仙台迄は旧水戸街道の国道6号線を只管走る海岸線沿いの平坦な初心者コース。1970年代後半、若者の旅は自転車。飛行機に乗るなんて贅沢の極み、海外なんて以ての外、かと言って新幹線も高嶺の花、夜行の鈍行が当たり前。そして何より混とんとした時代だった。学生運動への不信から宗教への誘いが忍び寄っていた。現実から逃避し、”青年は荒野を目指す”がブームだった。思い通りにならない世の中、せめて自分の世界を広げたい。世の中とはどんなものか、”何でも見てやろう”と相なる。金はないけど自由はあった。バイト代で自転車を買い、旅費を捻出する。その頃の道は整備されてなく、危険がいつも隣り合わせだった。若気の至りから東京に戻る道で旧奥州道の4号線を白河の関に向かい、何を血迷ったか、また水戸街道へ、勿来の関に抜けたくなった。酷道と言われた289号。あの頃3桁の国道は国道ではなかった。だいたい関所を横断するなんてえのは愚の骨頂。関所破りもいいとこだ。夕闇迫る山道で、車を避けて側溝に前輪を嵌め、前後輪が接吻し、山に突っ込んだ。股間はハンドルの軸に。血だらけだった。あの頃の自転車はまだ安かった長距離走行用日本製ランドナー、後輪にバック2個とフロントバック、坂道でスピードが増すことを分かっていなかった。運よく通りかかった地元の軽トラのおっちゃんに助けてもらい、病院へ。何とか止血してもらい、事なきを得た。自転車はくっついた両輪を引き離した。フレームはクロモリ軽くて丈夫だった。東京に戻り、旅は続く。気にはしない。

暁に富士

東京から広島まで938kmを6日間、1981年8月6日の原爆記念式典に出てみたいとの一心で向かった、基本は野宿、浜松の神社で寝ていたところ、朝早くお百度を踏む人がおり、たたき起こされた。名古屋では日中、睡眠不足でいつの間にか自転車を横転させ寝ていた。京都では照り付ける真夏の太陽で大火傷を負った。もう諦めようと思った大阪の峠で原爆に遇い広島から逃げてきたと言うおばさんに会ってしまい、旅を続けざるを得なくなった。今思うと良くも広島に着けたと思う。ゼミの先生が倒れ、急遽広島から輪行し新幹線で帰った。更に東京-直江津-富山-能登一周-枚方1,093kmを7日間。枚方から急に呼び出された会社面接のためやはり輪行し夜行電車で帰った。学生時代の自転車旅行は熱かった。闇雲に走った記憶がある。社会人になって流石に野宿はなくなったが旅は続いた。紀伊半島を桑名-大阪844kmを5日間、潮岬は行けども行けども辿り着かない、深い山の先だった。四国を徳島-松山860kmを4日間、足摺岬で雨が横から降ってきたのには驚いた。自転車は下りて押さざるを得なくなった。旅は楽しいばかりではない、苦しいことが多かった。でもやめられなかった。道は永遠に続くと思われた

最初の自転車の旅

2.挫折・癌の克服:日光は遠く 2010-2012

挫折の時が来る。腰を痛めた、更に時代はバブルに突入した。六本木で遊び呆ける誘惑に勝てなくなった。弾けると同時に現実に戻り、貯金もなく結婚し、家を建て、子供が生まれる、仕事も忙しくなる。住宅ローンは返さなくてはならない。育児の義務、目の前の現実が自転車と言う夢を追いかけることを許さなくなった。そうこうするうちに国内景気暗転から海外出張へ、更に海外単身赴任が追いかけてきた。毎日が必死だった。当に自転車の旅は頭の中から消えていた。最後の旅から既に25年が過ぎていた。ひょんなことから忘れかけていた夢を思い出す時が来る。8年に及ぶ海外単身赴任から帰り50才を迎えた時、が見つかった。手術した。リハビリは散歩、そして体力が戻ったころ自転車で近所を回ることにした。ママチャリならぬ、パパチャリ、ブリヂストンの三段変速のシティサイクルだ。いつの間にかまた自転車の旅にのめり込んでいた。道はまた目の前に広がった

仕事は閑職となった。リーマンショックの余波で海外事業再生の目もなくなった。仕事に揉まれ続けた会社人生は50才を境にすっかり変わった。幸せなことに全てのローンの支払いが終わった。自分の義務は子供たちを無事学校だけは卒業させることだけ、後10年。斯くも長い不在から家族とは疎遠になった。癌もいつ再発するか分からない。死も身近に感じていた。自分に素直に生きること、好きなことをして死にたい。原点に戻った。自転車だった。週末の自転車の旅が生活の中心になった。先ずは近くの自転車道を走り、更に近くの川沿いを下流に或いは上流に遡った。 癌 の再発や仕事を失う恐怖、閑職という孤独から逃れる唯一の楽しみになった。シティサイクルなのでスピードも出ない。のんびりゆっくり走る。何も考えない。このころの自転車の旅は現実逃避だけ、ほとんど写真が残っていない。行った先のリストだけ。正に心の旅だった。家を中心に日帰りで行ける範囲に限った。必ず帰って来る。

元気になると更に一泊の範囲で何処まで行けるか試してみた。いざ鎌倉。家の近くを鎌倉街道が走っている。真南に走れば鎌倉56km、折角だから、湘南を楽しんでみようと平塚まで向かいそこから相模川を遡って帰ってきた。勿論パパチャリ、 2日で167km。2012年8月、52才。今度は真東に進路をとった。真東に向かうと丁度銚子犬吠埼だった。道は平坦。しかし距離がある。135km。途中雨に降られた。雨に勝つ体力は最早失われていた。それでも夜7時には九十九里を下り、大網白里に着けた。1日178km走った。鎌倉往復以上の距離を1日で駆け抜けた。帰りは千葉市を抜けた。小高い丘を越えるとすぐ千葉市に。アッと言う間。結局2日で271km走った。翌月には真西の甲府に向かう。112km。鎌倉までの距離の2倍、しかも笹子峠 (1.090m) がある。流石にきつい。更に戻りで欲を出して河口湖に向かう。御坂峠(1.520m)越え。その名の通り坂また坂なのだ。嫌になった。甲府でホウトウを、富士吉田でうどんを食べたことだけは満足している。2日の旅で253kmだった。2週間休んで、今度は真北に向かった。日光である。日光街道を突っ走れば着く。135km、銚子犬吠埼と同距離、最後きつくなるが、何とかなると思われた。しかし、埼玉、茨城を越え、栃木の野木あたりで股が痛くなった。蓄積なのかもしれない。サドルとの摩擦で、擦り切れたようだ。湿布は貼れないので、サロメチールを塗ってみた。何と痛みが消えた。びっくりした。足も何度も攣ったが、これもサロメチールで乗り越えた。日光から霧降高原へ、そこに泊まり、良せばいいのに足尾経由で帰ることにした。山へ入る。行けども行けども日光、日光は今や関東一の面積。栃木県の23%が日光。堪らない。足尾で渡良瀬渓谷沿いに下りることになる。これは気持ちいい。群馬桐生で渡良瀬川とお別れし、利根川へ、越えれば埼玉、結局この旅で埼玉をV字縦断した。 2日の旅で280km走り切った。東西南北を走り終えた時点で次の目標を東西南北の間、北東、北西、南東、南西に向かうこととした。北東は日立、北西は軽井沢、南東は品川、南西は富士だった。南東方向は近い。アクアラインを自転車で越えることはできないので諦めた。日立も軽井沢も昔行っているので大丈夫と判断した。あれから30年、年が違う。10月になり、先ず日立に向かう。距離は最長の往復299kmになった。久慈港近くのホテルに泊まったが、津波の被害で久慈港は壊滅的被害を受けたことを知った。平坦な道は年をとっても耐えられるものだ。軽井沢は碓井峠だけ、はるかに道は良くなっており、難なく越えられた。往復264km、冬が迫っていた。富士は年明けとしたが、自分に左遷の雰囲気が漂っていた。最早夢も希望もなく、仕事の狭間で鬱状態だった。上の人間は分るもの。翌年、春を待たず三重県に転勤となった。単身赴任が待っている。結果的に富士はお預けとなった。そして人生の旅路は続く

パパチャリでのリハビリサイクリング

3.復活の四日市:海から山へ走る 2013-2014

記憶の断片断片を紡いでいくと思い出が絵となって表れてくる。しかし何時の間にか記憶が曖昧糢糊に、絵が漠然とし、元の記憶さえも忘却の彼方に消えていくのが落ちだ。全てが失われる前に少しでも記憶の断片を拾い集める。失った過去が蘇るかもしれない。三重県には2013年から2年。閑職、北窓際の席、工場中二階、冬は底冷えが襲う。無毛な資料作成、退職まで耐えた。救いはサイクリング、温泉そして登山だった。工場からは釈迦ケ岳が真正面に、涅槃の姿だった。心の安らぎだった。住んでいた四日市は伊勢湾に臨み、鈴鹿山脈が間近に迫っている。海から様々な街道が山に向かって走っていた。越えれば琵琶湖を通し日本海へ。北陸、東海を繋ぎ、伊勢への入口となる。鈴鹿山脈は1,000m級で海近くでせり上がり、街道に峠を提供した。山頂からは伊勢湾を越えて知多半島まで眺められた。江戸・戦国、平安、奈良、飛鳥を辿るような風景に出会えた。神話の世界である。東京にはない歴史を感じる風景だった。東海道八風街道の交差する港近くに一人住んだ。静かな港町。八風街道は菰野を抜け、八風峠で鈴鹿山脈を越える。越えれば旧八日市、そして琵琶湖に着く。古の主要街道の一つ。八風の謂れは古く伊勢の国譲りからきている。伊勢の名の元になった伊勢津彦が帝に対し「今夜八風を起し海の水を吹き波に乗り東に去りぬ」と言い去ったと言う。一説には長野県の諏訪に行ったとされる。私の運命は伊勢の神の御導きなのか、その後、伊勢から諏訪の地に居を移すことになる。

八風峠は鈴鹿山脈を越える峠の中で一番高い標高940m、古の風景を残す八風道を直走り朝明川そして田光川沿いを上っていく。自転車は 八風 キャンプ場に停め、峠入口から歩いて向かうことになる。後はほぼ登山だ。登る途中2つの小さな石の墓標が続けて目に入る。江戸時代文化年間わずか14歳で亡くなった伊左衛門と嘉助の墓。約200年前雪の中。村に戻る途中遭難死した。江戸時代の亡霊に出会える。細い葛折の山道、どう人馬一体となったキャラバン隊が近江から来て登り下りしたのだろうか?光景がタイムスリップする。登りつめると八風峠、眼下に時間が止まったような菰野の街並みが望める。忘れられない思い出だ。2013年10月。これ以降自転車で山に向かい、入山場所に自転車を括り付け、靴を履き替え、ストックを握り山頂に登る。戻るときは、途中温泉に入って体を休める。下る坂で体いっぱい浴びる潮風が何と心地よいことか。サイクリングと登山を両方楽しめる至極の時を味わえた。

自転車で山に向かい、靴を履き替え登る。潮風を全身に浴び下る。温泉に入る。鈴鹿セブンマウンテン、自転車と登山両方楽しめるのはここだけではないだろうか?

北から花の藤原岳(1,140m)、員弁川沿いに走り、聖宝寺に自転車を停める。帰りは露天風呂が最高、六石温泉 あじさいの湯 http://www.rk-hotel.com/

眺望の竜ヶ岳 (1,100m) 、宇賀川支流を遡り、石榑峠(690m)に自転車を停める。 帰りは様々なお風呂が楽しめる三滝温泉満殿の湯http://www.mantennoyu.net/

遠くから見るのとは大違いガレの釈迦ヶ岳 (1,092m) 千種街道を走り、中尾根登山口に自転車を停める。 帰りは登山口すぐ下の眺望が最高 三休の湯 http://33thank-you.com/

奇岩怪石を楽しめる御在所岳 (1,212m) 湯の山街道を走り、表道登山口に自転車を停める。 帰りは登山口すぐ下の眺望が最高 湯の山温泉希望荘 http://kibousoh.or.jp/

頂上の岩が魅力の鎌ケ岳 (1,161m) 、やはり湯の山街道を走り、武平峠(815m)に自転車を停める。 帰りは同じく 湯の山温泉 希望荘 http://kibousoh.or.jp/

少々キツイ雨乞岳 (1,238m) 、 やはり湯の山街道を走り、武平峠(815m)に 自転車を停める。 帰りは 同じく 湯の山温泉 希望荘 http://kibousoh.or.jp/

登りやすい入道ケ岳 (906m) 、紅葉で有名な宮妻峡まで走り、椿大神社に自転車を停める。 帰りは 三滝温泉満殿の湯 http://www.mantennoyu.net/

鈴鹿セブンマウンテン

四日市からの最初の自転車旅行は伊勢志摩往復216km。2013年7月、鳥羽相差温泉に泊まって帰ってきた。忘れられない思い出がある。伊勢神宮の入口、猿田彦神社で自転車のキーを失くした。携帯電話で近くの自転車屋を探し、助けを求めた。バンでおじいちゃんが来てくれた。自転車ごと店まで運び。鍵ごと交換となる。待っている間に何気なく店の中を眺めるとローバーの伊勢の代理店証明の古い英文の看板、110年前の明治44年。ローバーミニで有名だが、安全型自転車を世に出し一世を風靡したのは英国ローバーである。それまではフランスで発明された前輪が巨大な不安定なもの。安全型は今の自転車の原型、両輪が同じ大きさに並ぶ。大正期に小型軽量な自動車が開発されるまで自転車が明治期の運搬の主流だった。明治時代には伊勢まで既に本場英国から自転車は輸入され、販売されていたことに驚かされた。自動車は昔汽車だった。今でも中国では自動車を汽車と呼ぶ。蒸気機関車がルーツ。大砲を移動させるためにフランスで開発された、馬ではきつい作業。蒸気で動かすため巨大なボイラーを載せることが必要だった。それで汽車だ。1769年自転車が開発される遥か50年近く前であり、日本では名称が似ているので同じルーツに思えるが、全く当初より違うものであった。中国では自動車は自動運転車、日本の汽車は火車と呼ぶ。蒸気機関車のルーツが中国古代の火車から来ているからか?更に自転車は中国では自行車キックバイクがルーツ、ペダル無し、足で地面を蹴って走るからか。伊勢地方では自転車をケッタと呼ぶが、ここからきているかは分からない。尚、最早ローバーはブランドのみの会社。大阪で日本の販売会社が自転車を組み立て販売している。自転車から展開し、一世を風靡した自動車部門はと言うとやはりブランドのみ。ローバーミニはBMW。他はタタモーターズ。自転車業界が似ているのはブランドのみが多いということ。旅から帰ってパパチャリから卒業すべく、マウンテンバイクを購入、米国のブランドGT。後で分かったが、全て中国製、然もどこで作らせているか分らなかった。格好はいいのだが、最後は錆びだらけ、パンクに悩まされ、購入した店からは段差を避けろと言われ、タイヤを全て交換する羽目に、最後は廃棄。今頃アフリカに行ってるのか?今乗っているのはカナダルイガノビーコン、ランドナーの草分け、これも日本の販売店が組み立てている。ボルトの緩み、パーツの傷み、販売店組み立ての問題と諦めざるを得ない。たまたま山で会ったカナダ人に聞くと知らないと言う。彼は富士の自転車が好きだと言う。懐かしい有名ブランドだが、これも全て米国製になっている。ただ中国で乗っていたジャイアントだけは純正だった。パンクも錆びもなくいい走りで、日本で2万円で売れた。今思うと友人に長野で渡してしまったが、ブリヂストンのパパチャリは丈夫でパンクもなくしっかりしていて速かった。ブランドだけでなくどこでパーツを作り、組み立てているか、品質管理は誰がしているかが問題なのだろう。

伊勢志摩から戻って、一週間後には知多半島一周に出かけた。半島の先の南知多温泉に泊まり170kmの周遊、高低差はないが、名古屋を抜けるのが大変。自動車中心の道で自転車が通れない。時に自転車を担いで歩道橋を登らなければならない。翌年2014年4月、東海道を鈴鹿峠(367m)を越え、近江を抜け、京都三条大橋まで往復した。実に33年ぶり。山科の凄まじい木賃宿に泊まる、往復217kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30127.html 戻りの鈴鹿峠からの下り道、夕闇が迫る中、大雨に襲われ、前輪からの凄まじい飛沫と前面に吹き荒れる雨とで全く前が見えない状態となる。ひたすら恐ろしかった。翌月には津から初瀬街道に入り、青山峠(477m)を越え、赤目四十八瀧を見て、室生寺そして長谷寺まで、帰りは伊賀に入り、加太峠(309m)を越えて東海道を帰ってきた。長谷寺近くの街道筋の旅籠に泊まった、 往復215km 。街道筋は煩く眠れず、初瀬街道は大阪からお伊勢参りに向かうルート、大阪人は長谷寺参りで伊勢詣の代わりとし、戻った由、伊勢はあまりに遠い。次のターゲットは敦賀だった。伊勢湾は琵琶湖を挟んで敦賀湾と本州の一番のくびれ、日本海が一番近いところだ。敦賀に行き、日本海を拝みたい。木曽三川沿いに関ケ原に入り、不破の関を越えれば琵琶湖は近い、後は鯖街道に抜け、深坂峠(364m)を越えればもう敦賀、長谷寺から帰って1ヶ月経たないで出かけた。往復234kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30160.html丁度往復にはいい距離だった。氣比の松原で日本海に臨み感無量であった。敦賀で道路建設で温泉が出たと言うトンネル温泉に泊まった。ここまでは1泊2日の旅だったが、次の浜名湖までから2泊3日になっていく。東海道沿いに浜名湖までは苦にならないと思われたが、欲が出た。渥美半島一周を追加した。知多半島を一周したから渥美半島もと思っただけ。浜名湖に臨む弁天島温泉と豊橋では温泉付きビジネスホテルに泊まる。3日で450km走った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30171.html伊良湖岬で撮ってもらった写真が残っている。マウンテンバイクなので、荷は全て登山リュックに入れていた。このころが一番絶好調であった。54歳、癌の再発ももうないと信じていた。体重も60㎏代に落としていた。また人生をやり直そうと思っていた時期だった。まだやれる。9月に入って木曽妻籠馬篭まで中山道を走ることにする。3日で往復249kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30272.html妻籠で民宿、恵那峡でホテルに泊まる。妻籠の民宿はこおしんづかhttp://kooshinzuka.jyunken.co.jp/english/?fbclid=IwAR30rtb2pVQ9qWvAj4mBbGf1seHRe8S_8tUoV3JT0BIVRVi6m01Q3lRK6BE宿泊はポーランド人の老夫婦の家族と私のみ。老夫婦と言っても私と余り年は変わらない、あと、娘夫婦と子供2人。1週間泊まっているという。全く日本語はできない。しかも日本は初めて。何故、木曽に?インターネットで英語のサイトがあり、予約できるからだと言う。民宿は価格的にもリーズナブル、しかも日本の原風景を堪能できる。おじいちゃんたっての要望だったという。体調が優れないようで、もう最初で最後の海外旅行かもしれないとおっしゃっていた。石畳の旧中山道では日本人が誰もいない中、オーストラリアのツアー客が大勢歩いていた。朝散歩すると会ったのはドイツ人親子、馬篭のレストランにはスペインから新婚旅行のカップルのみの団体さん。毎年このレストランに来る由、驚きの連続だ。誰も日本語を解せない。最果て極東の国にどういう生活があるのか?どのような人々が暮らすのか?新型コロナ禍から欧米の旅人は戻ってくるのだろうか?年末近く会社生活もリセットに向けラストスパートに入っていた。11月に入り、琵琶湖一周に向かう。鞍掛峠(791m)を下りれば多賀大社、伊勢神宮、天照大神の生みの親、伊邪那岐、伊邪那美を祀る。神話を辿る。下りた琵琶湖岸は彦根、ここから一周241kmだ。平坦な道、山は北部のみ、最後の旅に相応しく3日間いい天気だった。奥琵琶の温泉に1泊し、彦根で湖畔のホテルに泊まって来た道を戻った。日本一の湖は穏やかで広く、静か、走っているうちに眠くなる、只管眠気に耐えて走った。四日市最後の旅を快適なサイクリングで閉じられたことが嬉しかった。3日間352km走り切った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30275.html

四日市を起点にした自転車の旅

4.変転の茅野:八ヶ岳とフォッサマグナ 2015-2016

人生は何が起こるか分からない。全く青天の霹靂で運命は往々にして動かされる。四日市で長野県の茅野の会社から来ないか、オファーが飛び込んだ。蘇州に会社がある。任せたいとのこと。茅野の英文名はCHINO、スペイン語で中国のこと。茅野は諏訪大社近く、伊勢の神との関係もユニークだ。天皇から追われ、最後は諏訪にと言う神話だ。何か縁があるかもしれない。と言うことで、窓際の会社を去り、長野県の茅野に初めて移り住んだ。縁も因もない土地、2015年2月、真冬に引っ越した。その寒さに圧倒された。氷の世界だった。しかし春になると一斉に花が咲き、鳥が囀り、水音が響き、高原に生命が躍動する。夏は新緑、秋は紅葉、自然に恵まれた高地は空気が美味しい、景色が素晴らしい。が洗われる。がうまい。勿論も美味い。山菜野菜蕎麦、酒の抓み、申し分ない。温泉も毎日楽しめる。今でも新蕎麦祭りには女房を連れて行っている。仕事が順調で母が病に倒れなかったら、今も居たに違いない。四日市にいた時と違い、海外出張が多く、旅行にはほぼ行けなかった。ただ、近場を走れば旅気分に浸れた。八ヶ岳は目の前、川沿いを下れば諏訪湖清里蓼科霧ヶ峰も自転車、日帰りで充分行けた。2年間はあっと言う間だった。茅野での生活は人生において一瞬煌めいたダイヤモンドのようだった。この煌めきはもう戻らない。一番の自慢は と北 の八ヶ岳を自転車で一周したこと、フォッサマグナを糸魚川まで往復したことだろう。初めての茅野での夏は、東京まで自転車で帰ってみた。甲州道をまっしぐら、往復330kmを駆け抜けた。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30301.html 翌年夏、東京に住む母が倒れた。姉兄で面倒を見てもらうことに、老々介護だ。申し訳ない気持ちで一杯だった。そろそろ茅野も潮時のようだった。冬には戻る予定で、急ぎ自転車旅行を再開する。思い残すことなきように。しかし、母の体は思うようにならない。屡帰らざるを得ない。致し方ない。まずは と北の八ヶ岳を自転車で一周 だった。2016年7月、9月に回る。既に山は制覇している。麦草峠(2,120m)が両方の起点。メルヘン街道を東に松原湖へ向け下りていく。横岳が噴火しできた湖だ。小さな海のようになったので小海町千曲川沿いに海尻海ノ口へ、相当な噴火であったと想像される。東から見る八ヶ岳は一番高い赤岳しか見えない。茅野からだと赤岳が見えず、阿弥陀岳が全面となる。野辺山を越えると山梨に入る、清里を抜ける八ヶ岳高原ラインを西に向かう。鉢巻道路に入って長野県に戻り、原町を越えて茅野の我が家に戻る。一周105kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30322.html 北はビーナスラインから蓼科スカイラインを走って蓼科山をぐるっと回り大河原峠(2,093m)を目指し、ガレの中を走り抜け麦草峠に戻りメルヘン街道を西に帰るルートとなる。一周91kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30333.html 八ヶ岳を様々な角度から眺められる山好きには堪らないサイクリングコース。

小松左京の書いた「日本沈没」で一躍有名になったのが日本を中央で分断するフォッサマグナ。茅野は糸魚川静岡構造線上中央に位置する。丁度西南日本と分岐するライン。日本が沈没していくのは諏訪湖からだ。先ずは地層が一番見え、迫力あるルートを糸魚川へ辿る。諏訪湖から塩尻峠 (999m) を越え、松本、安曇野、大町と高瀬川を糸魚川に向け下っていく。塩尻峠は分水嶺、峠の水は北へ流れれば、日本海へ、南に流れれば太平洋に下る。壮大な日本地図上を走る。これが茅野最後の旅となった。2016年10月、3日間、白馬の温泉に2泊し、293km走り切った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30359.html

茅野を起点とした自転車の旅

5.中国へ:昆山水郷古鎮を巡る 2017-2018

旅の終わりは呆気ない。年末会社を去り、東京に戻ることとした。茅野での仕事はやり切った。飄々と生きてきた人生、東京でも成るように成ると思っていた。帰ったら母の面倒を見て、最後の職探しと思っていた。60歳まであと3年ある。しかし思いも寄らないことが起きる。私の帰りを心待ちにしていた義父が呆気なく亡くなった。帰って来たその晩、一緒に酒を飲んでいて倒れそのままだった。母のため帰って来たがまさか義父の最後の杯を交わすために帰ることになろうとは。就活は義父が天国から手を差し伸べてくれたのか、ある商社よりオファーがあり、即決まった。義父の弔いの四十九日目に仕事に就く。生まれて初めての商社、慣れるもへったくれもない、米国企業との取引から、上海の関連会社とのやり取りまで言われるがまま熟した。半年が過ぎた頃上海昆山兼務の長期出張となる。上海はホテル代が高い。昆山に仮住まいすることに。昆山から中国新幹線高鉄で上海は一駅、高速バスでも往復が安い。小一時間の辛抱。上海まで3時間弱、4時間ほどで着ける。時差は1時間。朝の便で行けば昼過ぎには昆山だ。実は長期戦を覚悟していた。日本に仕事はもうそうはあるまい。あわよくば中国で定年を迎えたい。しかしそんなに現実は甘くない。滞在ビザが切れる頃帰還命令が下ることに。昆山生活も私の会社人生に射した最後の一筋の光だった。過去への惜別の機会を神様がくれたに過ぎなかった。住まいは市政府の目の前、交通の要所。ただ生活するのに足が必要だった。蘇州への昆山は有名な台湾の自転車メーカーのジャイアントの工場がある。早速特約店より買うことにする。本物の中国製のジャイアントだった。ニューモデルだった。日本では売っていないマウンテンバイク仕様。また自転車に跨った。ただ、月に一度は日本に戻っており、既に酷使していた体が悲鳴を上げていたようだ。潮時が近い。滞在期間は8カ月となった。昆山は広大で美しい水郷地帯にある。ほぼ山がない。東京23区の1.37倍の面積にたった17%の人口。サイクリングには最適な環境だが、怖いのは高速道路に自転車のレーンがあると言うこと、運を天に任すしかない。昆山市の市政府近くに住む。

亭林園:最初に昆山を昆山足らしめる所に行く。唯一と思える山がある。玉峰山、高さ80m、昆山を一望できるが、ほぼ霞んでいて見えない。昆山と言えば昆曲。玉三郎の「牡丹亭」を蘇州で見たことがあるが、朗々と歌い上げる姿が美しい。これが歌舞伎の元になった。この迫力ある舞台に上ることができる。2017年10月,秋深まるころだった。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/tinglin-park-76186

千燈古鎮:派手さはないが、赤い塔とアーチ状の石橋のバランスが絵になる2500年の歴史を有する水郷。塔は秦峰塔、石橋は恒昇橋、川は呉淞川の支流千燈浦昆曲の故郷でもある。昆山の歴史を感じる古鎮。自転車は呉淞川沿いに走り着く。11月半ば、秋深まる静けさを感じる。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/qiandeng-ancient-town-76189

周荘:屋外の舞台で昆曲が楽しめる。初めて見た時、胸が高鳴った。忘れてはいない。11月末、自転車で向かう。着いた時間が遅すぎた。次回に持ち越すことに、しかし最悪なことにその次回では演じることがなく、結局昆山にいる間に見ることは叶わなかった。一番メジャーな水郷古鎮である。明・清時代商業で栄えた跡が残っている。忘れてならないのが万三蹄だ。豚の太腿の醤油煮だ。トロトロこってり、やみつきの味、しかしボリューム過剰、一人で食べるには多すぎる。打包して2,3日掛けて家で食べることになる。翌年昆山を去る日が決まって、最後に訪れた時食べたのは万三蹄と麺、これが最高の取り合わせ、出汁の利いたトロトロの肉が細い麺と絡み、最高の味わい.地酒の紹興酒で頂いた。これで最後かと思うと万感の思いが胸に込み上げた。https://jp.trip.com/travel-guide/city-77/tourist-attractions/business-district-11892/

陽澄湖水上公園陽澄湖と言えば上海蟹に尽きるが、景色もいい。一番のパターンは蟹を食べながら風景も頼むこと。公園も各所にあり、また菜館や賓館も併せて風景の一つとなり目も楽しませ、サイクリング、散歩コースも整備、心も癒してくれる。12月に自転車で行ったが、季節外れで逆に静かで良かった。こういった楽しみ方もあると教えてくれた。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/yangcheng-lake/yangcheng-lake-water-park-92228

昆山城市公園:2018年4月、昆山市政府の真ん前の広大な公園が一段と華やぐ。昆山城市公園。池の端に咲く花が春を告げている。日本の花と同じで違和感がない。元々日本にある花が中国由来が多いのだから当たり前。花海棠、花言葉は豊艶、楊貴妃の愛した花、香が芳しい。水の都に相応しく池の面に花が映える。住まいから近く、会社に行く通り道だったので、随分お世話になった。特に公園に沿って西洋料理のレストランが並んでいて、週末の楽しみだった。忘れもしない拿波里西餐厅。日本では滅多にお目にかからないグルジアのワインが飲めた。日本語で言うとナポリレストランでイタリア料理なのかなと思うんだけれど、何故かグルジアワインの店だった。ブルーチーズもあったのには驚いた。店では受けないので、信じられない価格で譲ってもらい、毎晩のワインの抓みにしていた。感謝。店主は中国人の若い女性で日本語ペラペラ、カラオケ店にいたらしく、元常連の日本人が来ていたようだ。もう店は閉じているようでグーグっても出てこない。残念だ。店に飾っていたグルジアの綺麗な空のボトルを数本もらった。今も部屋に飾っている。因みに今は日本ではグルジアをジョージアと呼ぶように言われているらしいが、中国ではロシア語のグルジと呼んでいたのを憶えている。昆山は上海に近くしかも台湾に一早く門戸を開いた開発区だったため、外国人向けの店が多い。異国にて更に遠くの異国に思いを馳せた。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/city-park-85584/

弇山園(太倉公園):この”弇”は入口は狭いが中は広い意味か。蓋として覆う意味もあり、日本でも戦後、””が当てられる前はバルブとしても使われた。本来の ”” は冠、ときに武士を表す。日本ではそうは使わず、”“や”“や”“や”“の省略に使われたので話がややこしい。本来、当、務官、理士は当、務官、理士。花は花護士は護士。髪は髪 。因みに中国では当のことは便当という。日本で戦後の簡体字化の例。中国の簡体字を笑えない。庭園は春爛漫、花蘇芳から牡丹、咲き誇っていた。胡弓の音に合わせ踊る人々が微笑ましい。昆山から東に向かい走ってすぐ着く。太倉市一の名園。 侮るなかれ800年以上の歴史を有する。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/taicang/people-s-park-87393

錦渓:昆山中心から南西に25km 花で彩られた運河に沿って走る。一面の菜の花畑、品のいい桐の花。昆山から自転車で向かう。南宋皇帝孝宗の妻陳妃の眠る地。1162年彼女はこの地で亡くなり、愛した五保湖に水葬され、水上の墓と寺が建立されたのが始まりと言う。湖上の橋が荘厳で美しい。三亭橋と言い、今も渡ることができる。水路が張り巡らされ、石橋が繋いでいる。川面を眺めながらお茶を楽しめる。https://jp.trip.com/travel-guide/city-77/tourist-attractions/business-district-11948/奥灶面の故郷と言われている。オウゾウメンと呼ぶ。かまどに奥義があると読める。スープは田鰻の骨、草魚の頭、鱗、鴨、鶏をじっくり煮込んで作るそうだ。不思議と臭みがない。麺は蛋を練り込んだ細い素麺。長浜ラーメンほど固くはないが似ている。見た目は濃いがあっさり食べられるラーメンだ。昔上海に居た頃、昆山に仕事で来ると現地スタッフは必ず駅前でまずラーメンと言う。昆山面は昔から有名だった。中国十大麺の一つに挙げられている。他の九麺は、蘭州 牛肉麺 、河南 烩麺、北京 炸酱麺、山西 刀削麺、杭州 片儿川麺、鎮江 鍋蓋麺、成都 坦々麺、武漢 干熱麺、延吉 冷麺。私は最後の延吉に行っていないので冷麺のみ食したことがない。延吉は吉林省の朝鮮族自治州の市。吉林に一度訪問した際、朝鮮族の方と冷麺を食べたが酸味がいい。焼肉の後は必ず冷麺。あっさりすっきりである。蘭州も勿論言ってないが、上海では普通に食べていた。イスラム教徒の作る麺、その場で麺を打って作ってくれるところが好きだった。

https://www.chineselyrics.org/chineseramenranking/

中国では犬も猫も日本に比べたら少ない。飼い犬は大体愛玩犬で首輪をつけていない。狆クシャな顔と胴長短足が多い。中国原産の愛玩犬はシーズー、狆、ペキニーズ、確かに人間の顔みたいにしている。この旅では面白いので写真として残してみた。

甪直: 錦渓から北北西に12km走ると甪直(Luzhi)に着く。昆山から呉中区に入る。平坦で村々を眺めながら走る。道に迷うこともない。真っすぐな道。車さえ気を付ければ済む。中国の早い電動バイクにはあっと言う間に抜かれていく。門を抜けると一角獣の像は迎えてくれる。甪端、守り神、六角を守るという。こじんまりしたところがいいが、結構奥が深く、公園のようになっていて楽しめる。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/luzhi-ancient-town-82716

柏盧公園:高鉄(新幹線)の昆山南駅から見える教会が10年前から気になっていた。公園にポツンと片隅にある古びたそして寂れた教会。いつも通るたびにどうしてと思っていた。赴任先の旧事務所がこの公園近く、自転車通勤なので寄ってみる。何と立派に公園まで全て見事に変わった。壮大荘厳な教会と風景を一体化した公園。教会は蘇った。昨年完成したという。蘇州新区に三元一村がある。カトリック教会があり、訪れたことがある。三元一とは三位一体の意味だとはっと気が着いた。1853年から1864年太平天国が南京を主都とし蘇州を含め江南を治めた。キリスト教を教条としていた国だった。上海もそうだが、教会が美しい。欧米の香を醸しだしている。中国は仏教をインド、ペルシャから、共産主義をドイツ、ロシアから取り入れ、見事カストマイズと言うか、最早、中国オリジナルにしている。そして嘗てキリスト教も太平天国がカストマイズしようとした。それが江南の地に今も残っているのではないか。

虎丘~閶門~平江路:2018年5月、日本への帰任が決まり、急ぎ、悔いなきよう急ぎ蘇州に自転車で向かう。もう戻れない。最後の中国の旅と観念した。虎丘から山塘街を抜け、 閶門平江路に寄って戻るルート。蘇州は世界遺産が世界一多く、愛すべき庭園がある。拙政園留園網師園滄浪亭獅子林、しかし時間がない。5月末滞在ビザが切れる。昆山からほぼ40km西、陽澄湖岸を抜け、只管漕げば着く。道は全くの平坦。戻りは娄江沿いに走る。されば昆山へは分かり易い。 虎丘の魅力は一言で言えば、蘇州の魅力を一カ所で感じられる、悠久の歴史と静寂の風景。緑溢れる丘にパゴダ、周りには河が流れ、静かに時は流れる。よく丘に登り、翡翠山荘の2階でお茶を飲みながら下行く観光客を眺めた。この時間を忘れられない。パゴダは3度傾いた斜塔。積み重ねた歴史の重みを感じる。 虎丘を南東に旧市街地に下る川沿いの道に白居易が開いた山塘街があり、一挙に旧市街モードに入る。 閶門を越えれば正に旧市街。閶門の上には茶屋があり、景色を楽しみながらお茶を飲める。この高さは蘇州の迫力の歴史を物語る。ここからが本当の姑蘇となる。東に西中市という旧市場街を抜け、平江路 を目指す。 平江河沿いの古い町並みが残る憩いの場。茶屋が多く、車が入れない細い道、拙政園獅子林が近い。しかしゆったり川を眺めお茶するなら平江路だろう。駆け足で蘇州とお別れ、これでもう思い残すことはない。 虎丘:https://jp.trip.com/travel-guide/suzhou/tiger-hill-76159/travel-image-27529809/ 山塘街:https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/shantang-street-81719 平江路:https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/pingjiang-road-87769

昆山の旅はここで終わる。8ヶ月が短いと言ったら然り、しかし以前の蘇州上海駐在を含めると足掛け9年になった。今回はサイクリングができ、駐在時代の友人に再会し、思い出の地を訪ねることができた。最後の中国になったことを神に感謝すべきだろう。それは日本に戻って判る。

6.旅路の果て:原点への回帰

中国から帰還し、体の不調は感じなかったが、念のため人間ドックを受け、何もないことを確認する。しかし、癌はどうか、専門医に診てもらうと何と再発していた。前回と違い自覚症状がないがすぐ切るように言われた。入院、手術、前回同様もう大丈夫と高を括っていたが甘かった。癌細胞が消えない。抗癌治療が続く。半年頑張った。苦痛睡眠障害に悩まされた。癌自体は痛くも痒くもなかったが、寧ろ抗癌治療で苦しんだ。過ぎたるは及ばざるが如し癌細胞は自分の細胞の変異であり、抗癌治療は自分の細胞を切り刻んでいく。最早精神的に仕事に耐えられなった。抗癌治療を勝手に辞めた。何とか乗り越えられないものか?原点に戻ろう。旅路の果てに辿り着いたのが我が家だったもう一度自転車。気が着けば後1年で定年の60才だ。健康のためなら命も捨てる。これは中国駐在時上司から言われた言葉だった。生きるためには健康を勝ち取ること。仕事で鬱になったこともある。全てを忘れペダルを漕ぐと頭の中が空っぽになる。自然と一体になる瞬間がある。全くのストレスフリー、余計なことを考えない。車では楽しめない風景が広がる。風の音が聞こえ、日の光を浴びる。刻々と景色は変わり、自分だけの空間に入っていく、邪魔されることはない、自由。鳥の囀り、木々のざわめき、川のせせらぎ、光と影のゆらぎ、子供たちのはしゃぎ声、のんびりゆっくり行けばよい。以前のような無理なサイクリングはやめた。敵は砂利、段差、水溜り、自動車をなるべく避け、走る。そうこうするうちに定年の時が近づいた。最早決めていた。定年延長を会社は盾に下働きを求めてくる。新型コロナが蔓延し始めていた。仕事の継続はリスクの押しつけを予感した。潔く辞める。辞めた日に羽が背中に生えた。最早自由だ。全ての人間関係を断ち切ってみることにした。自転車もマウンテンバイクから輪行用ランドナーに変えることにした。新たな旅への準備、原点への復帰。今目の前にあるのは、旅の地図だけだ。癌に襲われた50才の頃を思い出し、同じルートを走っている。以前と違うのは、単に心の旅に終わらせず、記録に残すこと、SNSへの投稿。web上の遺言と思っている。いいものをいいと伝えたい

東京に戻って今も続く自転車の旅

後何年走れるか。知力気力体力が続く限り走りたい。何処で息絶えるか分からない。40年前初めて旅に出た国道6号線は2011年の福島原発事故のため自転車では走り抜けられない。東日本大震災はこのルートを地図上から消し去った。道は容易く閉じるものだ。今はコロナ禍が全て交流の道を閉じている。道は何処までも続くが、環境はそうはさせない。私の体もいつまで持ちこたえるか分からない。睡眠障害は続いている。癌の怖さは再発と転移だ。心残りは富士への道だ。何故か全ての機会を逸している。刻んでも行こうと思っている。只管コロナ禍の去るのを待っている。諦めない限り旅は続く。そう信じて前を向いている。

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投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。

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