は”そら“と”くう“と両方読める。空を”そら“と読むか”くう“と読むかで、全く違うイメージになる。”そら“にはただ遠く明るい未来を感じ、”くう“には虚無的で難解な無常観を感じる。2つの異なったイメージは不思議に”“で一緒になることが分かる。

塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた「空」

そら”は元々は地や人の上の全て、天井、天道、天国、神にもなる。は余りに漠然とし、大きく、広すぎる。天と地の間を身近に表すものが必要だった。それが”そら“。ヒントは天空にある。天空は天の下の限りなき空間の下の広大な空間を示した。が我々を包む大きな傘とするとその下は何もない、の世界に見える。即ち大空である。天空から天と地の間に置いた。そら”である。の本意はくう=何も存在しない、本来、見ることも触ることも感じることもできないが、実際は何かある。は”そら“の意を得て単なる虚無から無限に、空虚から空間虚空としての有へと大きな広がりを持つこととなった。”そら“にはがあり、が流れ、が降り、稲妻が走り、が渡る。は幻想を生み、は恐れを生む。が昇り、沈む。が彩を与え、々が無限の宇宙を表す。山々に日の光は陰影を与え、美しさを表現する。の美しさは色の変化にある。夜明けの朝の空は蜜柑色、昼間はく。夕暮れに近づきまた蜜柑色になり、夕焼がく染め上げ、色になって夕闇となる。

くう“を表す言葉として一番相応しいのが色即是空。色あるもの全ては空虚般若心経に記されている。仏教の神髄とはゼロの元になった言葉で、ではない。器がありその中が空っぽと言う意味になる。満たせば元に戻る。空即是色、即ち存在としての空がある。全否定の全く何もないとの違いがここにある。この世は空しいがお終いではない。悟りなさい悟れば道は拓かれる。ということだ。ゼロを発見したのは仏教発祥の地インドである。数字の国、お金を発明した中国でさえ、ゼロを発見することはなかった。10と言う数字は一桁の0(ゼロ)があって初めて“十”となる。ゼロは必要なのだ。くれぐれもではない。1にも2にもなる。実在としての無,即ち空。例えば空気がそうだ。空気があるから人間は生きられる。見えないが、空気はある。”そら“に通じるものがある。”そらの色の美しさは、”くう“即ち大気の存在があって初めて変化する。何もなければ美しい色には変化しない。の光が大気圏の粒子に反射し、”そら“に光の7色それぞれの拡散性の違いによって色を着けるのだ。”そら“の色は大気圏にぶつかる光の角度と距離によって刻々と変わる、”そら“は蜜柑色から青、赤、紫に変化する、これは将に光と大気が織りなす幻想に過ぎない。雲の白さもの光の造りだした色に過ぎない。正に”そらの色全ては幻想実体のない色そのものだ。”そら“と”くう“が正にで結びつく。

乾徳山山頂からの富士

地球をリンゴに例えると大気圏はリンゴの皮の半分にもならないくらい薄い。その中で我々は生きている。山に登ると遮るものがない。空は更に広く、美しく感じる。標高が高くなるにつれの青さが増し、の白さを浮き立てるだけでなく、下界をもくっきり映し出す。空に近づきたくて山に登るのかもしれない。大気圏の薄さに我々の存在の呆気なさを感じる。全ては幻想色即是空。だからこそ我々は山に登り、儚い自分の存在を知る。塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた言葉「空、森羅万象、空より生じ、空に帰す」宗堂。深い。胸に沁みる。そうか皆、最後はに戻るんだ。このは”そら“と”くう“。

投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。

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