


国破れて 山河あり 城春にして 草木深し 時に感じ 花にも涙を濺ぎ 別れを恨み 鳥にも心を驚かす
人類は愚かにも戦争を繰り返してきた。人類の歴史は戦争の歴史でもある。人は自らを守るために国を作る。国を律し秩序を守るために法を作る。この法律は自国にとっては絶対で正義である。だが、自国の正義は必ずしも他国はとって正義ではない。にもかかわらず一方的な自国への忠節が他国攻撃の後ろ盾になる。資源や領土を奪っても自国のためであれば構わない。他国の人間はいくら殺してもいい。罪は問われない。人が一人殺しても罪だが、国が行う大量殺人は正義。全て自国の正義の名の下に戦争を繰り返す。今も殺し合いは続いている。戦禍から逃れた人々は安住の地を求め国外へと向かわざるを得ない。Exodus。また安住の地を目指して…
朝鮮半島の三国時代を彩った高句麗、百済が滅ぼされて1400年以上の時が過ぎた。難を逃れ日本に渡った人々は4〜5千人。海を渡る逃避行は大変だったろう。飛行機もフェリーもない時代だ。泳いで渡れる距離ではけしてない。日本に桃源郷を作れたのだろうか?日本で平和に暮らすことができたのだろうか?生きて故郷に戻ることはできたのだろうか?受け入れた我々は様々なGIFTを頂いた。味噌と麹。これはかけがえのない宝になった。時が流れ、1279年に元によって滅ぼされた宋から醤油と日本酒を新たに作る技術を僧侶が日本に運んできてくれた。我々の文化は自らのみでは生まれ得なかった。特に食の文化は人類の長年培った叡智から生まれたことを忘れてはならない。食は食材のみではできない。人を介して初めて伝わり、育むことができる貴重な宝である。
今もウクライナ戦争の収束が見えない。人間の奢りは戦争という形で繰り返す。文明や科学技術の進歩は戦争を助長するものなのか?平和とは自国のためだけにあり、戦争によって自国が勝ちとるものと人類は今も信じているのだろうか?。自国のために他国の人間は殺すべきと思っているのだろうか?我々もかつて戦争を起し、敗戦により全てを失った歴史を持つにもかかわらず、今の国民の多くは軍備増強に賛成のようだ。また戦争に突き進むことを厭わないのだろうか?戦争で失うものは決して小さくはない。今や先人のGIFTさえ失わざるを得ない瀬戸際に立たされている。これは市場原理に従わざるを得ない悲しい性にも起因するのだが。会話が失われた時、戦争は起きる。武器を持つ前にしなければならないことがある。



醤油なしでは寿司は食べられない。鰻の蒲焼きは醤油抜きではできない。蕎麦もつけ汁のベースは醤油。秋刀魚の塩焼きには醤油、納豆にも出し醤油、卵かけご飯にも醤油、天ぷらにも醤油出汁。醤油なしの和食はありえない。そして、今や醤油は日本ばかりか、世界中に香味づけ調味料として使われている。英語ではSoy sauceと言うが、このSoyは日本語読みの醤油からきていて、大豆を意味する。醤油が元の大豆を意味するまで認められたと言うこと。しかし醤油を醤油たらしめるのは大豆のみにあらず。実に他の材料と作り方の妙に隠されているのをご存知だろうか?


醤油には大豆以上に小麦が含まれている。小麦は炒ってあり、芳ばしく、甘い香りづけになる。大豆は脂分が抜かれ、煮て、旨味を抽出してある。あっさりした味わいに酸味が加わり、消臭効果をもたらす。これらの材料が麹を使って醸造され、甘みとコクがもたらされている。熟成は8ヶ月以上になる。このレシピに辿り着くまで実に1千年の時が必要だった。だいたい、麹も醸造技術も元々日本にはなかった。小麦も主食にはなれなかった端役。正直、小麦を挽く石臼さえ一般に普及していなかった。日本は稲作と共に発展した。米そのままの粒を食す文化で、小麦を食す粉の文化ではなかった。しかも小麦の生産に適した乾燥した大地ではなかった。麹は麦から生まれた。日本には元々ない、西域の人々の知恵である。もし仮に日本で醤油が生まれたとしたら何故麦を使ったのか?不思議に思わないか?そして、大豆から醤を作る術もなかった。北方民族の知恵。しかし、どうやって日本の醤油は本家食いまで可能になったのか?









紀元前3世紀には纏められた中国の周礼によると、醤は周王朝の時代、3000年前には料理に既に使われていた。干肉を塩と麹と酒で漬けた肉醤。驚くべきはこの時点で既に麹と酒が揃っていた。中国の麹には5000年の歴史があるという。恐るべし。その頃の日本は有史前の縄文時代。周は790年という中国最長の王朝であったが、紀元前256年に秦によって滅ぼされる。醤油の元になる穀醤が確認できるのは斉民要術、1500年前、醤(ひしお)の上澄みの醤清と言われていたとある。南北時代の北魏の時代。朝鮮では高句麗・百済・新羅の三国時代、日本は飛鳥時代。北魏は、西域から中国に小麦文化をもたらした騎馬民族の国々五胡十六国時代を制し、華北に148年間君臨するも内乱により崩壊し、西暦534年に滅びる。日本には程遠い国だ。大陸の進んだ文化を得るには物だけではなく、技術、即ち作り、提供できる人の存在が欠かせない。中国から弥生人が米と共にやってきて今の日本に稲作文化を培ったように。文化の伝承は一重に人にある。

中国の醸造技術を伝えたのは百済。高句麗と新羅に対抗し、生き残るためその時代の中国と日本との関係を重視し、後ろ盾にしていた。百済は4世紀前半に馬韓から発し、最盛期の4世紀後半に中国江南を征した東晋から仏教を受け入れ、日本の今につながるヤマト王権の確立に寄与した。養蚕、機織り、鉄器、鋳造、漢字、文化、特に仏教を6世紀初頭に日本に伝えている。仏教徒が肉を忌み嫌うため、肉醤ではなく、北魏の穀醤を伝えたと考えるのが自然。全て中国山東半島を経由する。百済から山東半島は目と鼻の先、一番近い中国。百済は高句麗、新羅、更に唐の圧力に屈し、西暦660年に高句麗に先んじて滅ぶ。後ろ盾としていた中国から斬られる悲劇。
1300年前、日本では奈良時代に醤は唐由来と高麗由来とに分けているが、唐由来とは寧ろ北魏そして百済由来の穀醤が元であり、高麗由来は味噌、高句麗滅亡後亡命してきた渡来人が伝えた。味噌や汁は高句麗の古朝鮮語に由来する。中国に味噌というものはない。全て醤になる。汁は湯だ。高句麗は中国東北部扶餘に発し、紀元前37年には漢から独立している。5世紀に最盛期を迎え、百済滅亡後、唐と新羅の挟み撃ちで西暦668年に滅ぶ。この味噌には麹を必要としなかった。自然発酵だった。日本独特の醤油の味わいを作り出したのが、百済からの日本酒の醸造技術だ。高句麗からの味噌と百済からの醸造技術が相まって日本独特の醤油を作り出していく。

日本において麹を使った醸造酒が確認できるのは古事記に記された応神天皇の時代に来朝した百済人の須須許里の天皇への献上、4世紀後半から5世紀初頭になる。延喜式によると西暦927年にはヤマト朝廷は造酒司を神社に置き、宮中の酒と麹を守り管理する体制を敷く。しかし、律令制の崩壊により15世紀に下って、この役割は北野天満宮を中心にした麹座に引き継がれる。宮中から市中へ、麹の製造および販売まで広めることになる。麹は勿論菌。悪性の場合、病原菌になる。他に雑菌が紛れ込む場合もある。顕微鏡のない時代、良性か否か、判断は難しかった。日本に伝わった麹菌は最早中国、朝鮮でも醸造に使われていない。扱いは更に難しい散麹。日本以外では増植力のあるクモノスカビを主にして餅麹を作り醸造に使っている。散麹から安定して麹菌を作れるようになるまで、けして生優しいものではなかった。安定した麹作りを可能にしたのは平安時代末期に編み出された木灰を使った種麹の養生からになる。この木灰は、面白いことに江戸時代初期に日本酒を透明にすることに利用される。木灰の殺菌浄化作用が正に日本の麹作りと酒作りに生かされることになる。活性炭の素晴らしさだ。この醸造技術が唯一の日本の技術として他の追従を許さず、今も醤油、日本酒市場を瀬戸際で守っていることに間違いない。
麹による醸造技術の進化は百済から伝わった仏教と深く関わっていく。日本では仏教公伝から鎮護国家の名の下、寺院が拡大し、神社を本治垂迹により一体化させていくが、酒を禁ずる仏教とはいえ、神社の御神酒作りまで止める訳にはいかなかった。酒を薬と位置づけし、酒造を寺院で取り込んでいく。直接中国の醸造技術に接することができた僧侶により僧坊酒を生み出し、醸造酒として完成度の高い日本酒を作り出してくことになる。北野天満宮の麹座の独占をやめさせることに比叡山延暦寺が絡んでいたことは十分納得させられる。15世紀末に奈良菩提山正暦寺や河内天野山金剛寺における僧坊酒の酒造における秘伝の醸造技術を御酒之日記が記している。米麹を極め、この麹は日本が選んだ高句麗由来の味噌の味と質までも変える。米麹を通して日本酒と味噌がつながっていく。美味くならないはずがない。


12世紀に華北から蒙古族に押し出され江南に下った南宋が北方の小麦由来の麹による醤油を完成させる。首都は今の杭州、江南の南。水に恵まれた豊な水郷の街。更に江南の米を融合させた甘い紹興酒を生み出し、濃厚な米酢を編み出し、料理に欠かせない材料を作り出していく。西暦1266年頃書かれた山家清供に醤油が記載されている。今も江南の水郷古鎮ではこの醤油料理を楽しめる。紅焼肉は、外はプリプリ、中はトロトロの豚の角煮。有名なのは東坡肉で、北宋時代の詩人蘇東坡の名を残す料理、紹興酒と氷砂糖と醤油で味付けされている。日本の豚の角煮との大きな違いは濃厚な味わい。老抽と言う醤油が照りと甘いとろみを醸し出している。日本で言えば伊勢うどんのタレを思わせる、溜まり醤油。古の醤油は斯ありなん。ここで紹興酒は鰻の蒲焼における照りを醸し出す役割になる。ここに黒酢が加わり酢豚が生まれることになる。因みに私のお気に入りは紅焼蹄膀。豚の後ろ足の太腿。アイスバインの醤油煮。鶏のもも肉を豚に変えたもの。骨をしゃぶりながら、濃厚な味わいが楽しめる。これが入ったラーメンも最高。紹興酒をちびりちびり呑みながら水郷でアンニュイな時を過ごしたことを思い出す。




日本に醤油を伝えたのは入宋した僧侶だ。宋では禅宗の隆盛を迎えていた。禅宗の教えでは修行と同様に食を重視する。日本に帰った僧侶は寺を舞台に、宋で学んだ料理法を元に今までの味噌を変え、新たに醤油を作り上げる。これは寺において精進料理を完成させるために必須だった。禅宗の修業と食を結びつけた教えは鎌倉時代を戦い抜く武士の心を掴む。精進料理は仏教の枠を越え、惣菜のみ食す健康食として我々日本人の心を今も掴んでいる。醤油は麦麹を醸造して生まれる。醤油を最初に文献上確認できるのは西暦1568年に書かれた奈良興福寺多聞院日記になる。ただ、伝承によると13世紀末に、南宋鎮江の金山寺もしくは杭州の径山寺で作られていた刻んだ野菜を醤につけ込む製法を、紀州由良興国寺の開祖・心地覚心が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌として広め、この味噌の溜りを醤油としたらしい。中国には味噌はない。ましてこのような醤も見たことはないが、醤を麦麹で作り、そこから溜まり醤油を醸造するのは正に中国の溜まり醤油の製造法であり、南宋の醤油醸造技法の伝播となっている。実際、日本では醤油とは言わず、溜りと呼んでいた。この溜りは16世紀初頭には禅宗そして精進料理と共に日本中に広まり、各地に様々な醤油を生み出していく。これを可能にしたのは木灰を使った種麹作りにより安定して品質の良い麹が供給できるようになったこと、麹の独占と専売制がなくなり、種麹屋から自由に購入できるようになったこと、麹で結びついた酒造設備の大木桶を使えることになったことだ。日本酒と醤油はここで結びつき、美味しさを追求していく。江戸時代中期まで中心は日本の胃袋、関西であった。




醤油は溜りから淡口、更に濃口へ、様々な食事に合うように改良が加えてられていく。花開いたのは19世紀に入った江戸時代後期。広大な関東平原が小麦と大豆を供給する。行徳で塩業が栄える。一方で醤油を必要とする食の文化が万能なタレを要求した。銚子には黒潮に乗って和歌山から醤油製造のプロが渡ってきた。ヤマサ醤油を生む。野田は水運を利用し、小麦、大豆、塩が手に入り易いだけでなく江戸には江戸川でつながる地の利があった。世界に名だたるキッコーマンを生み出す。ムラサキと呼ばれた赤紫色、香り、コク、旨みが食材を活かす域に達した。やっと江戸の庶民は醤油を手に入れることになった。江戸への人口集中と市場拡大が後押ししたのはいうまでもない。関西からの下りものでは味、価格、量ともに納得できなかったのである。我々も今、この恩恵を受けることになる。この濃口醤油は醤油全体の80%を占めることになる。大量生産から海外市場が開けることになる。時代も移り、原価を下げるため小麦も大豆も輸入、大豆は更に脱脂加工品となる。






今や日本の醤油市場はピーク時の54%に縮小し、醤油工場は1950年6000社あったものが1/6近くに激減している。海外に活路を見出さずを得ない。原材料の大豆の93%、小麦の86%は輸入に頼っている。日本に残ったのは先人が苦労して作り上げた散麹による醸造技術のみだ。日本は敗戦により、米国に醤油市場も抑えられた。今や輸入大豆の74%、輸入小麦の49%は米国産、しかも醤油の海外市場の19%が米国向けだ。海外市場を米国に渡す日も遠くはないのかもしれない。戦争の結果として失われるものが大きいことを理解しなくてはならない。

醤油は200年も変わらず味と香りとコクと色を守ってきた。今変わらなければならない岐路に立っている。日本酒は、変わらない紹興酒を置き去りにしてイノベーションを重ね、ビール、ワインと共に世界三大醸造酒の一つになっている。醤油はこの醸造技術から生まれたソースだ。吉田ソースはミリンと醤油をミックスすることにより米国で名だたる企業になった。これがヒントになるのではないか。
参考資料:しょうゆの歴史を紐解く 醤油を使い分けると食はもっと楽しくなる 醤から醤油へ 中国の黄麹菌によるバラ麹の酒 日本醤油の起源と歴史 麹から見た中国の酒と日本の酒 日本・中国・東南アジアの伝統的酒類と麹 中国の製麹技術について 種麹(麹菌)の研究・製造 中国醤油の歴史 中国の醤油事情について 中国と日本を結んだ仏教僧 日本酒はワインと同じ醸造酒。蒸留酒や、その他のお酒との違いについても紹介 麹カビの今昔物語り 醤と豉 16世紀寺院の発酵食品づくり 酒と神仏と金融、三者の深い関係 醤油業界の現状と課題 醤油の輸出動向 アメリカ大豆の魅力 小麦粉を知る 東アジアの酒
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