母はなぜ?

先月、早春の穏やかな日に母が亡くなった。今年、府中の郷土の森の梅はひときわ見事だった。母にひと目見せたかった。花を二人で愛でたのは、2年前、飛鳥山の桜が最後だった。カメラに向かってニコリと笑って、指でピースがお得意のポーズだった。既に心疾患から車椅子生活を余儀なくしていた。昨年末、施設でろくに歩きもできないのになぜか車椅子から立ち上がり、少しでも歩けたのか?転んで大腿骨を折った。もはや心臓も腎臓も弱っており、輸血の必要な人工骨置換手術ができなかった。痛みに耐えかね、衰弱し、食事を拒否する。死出の旅路を選んでしまったようだ。それでも2ヶ月踏ん張った。6月で94歳になるはずだった。転んだのが結局致命傷になった。なぜ母は車椅子から立ち上がり、歩こうとしたのか?転ぶことがなければもっと長生きできだろうに。

母は7年前、初夏の夕暮れ時に池袋の家に歩いて帰る道で心筋梗塞に襲われる。倒れた時、道ゆく人に助けられた。血だらけ、瀕死の状態で救急車によって病院に担ぎ込まれる。応急処置を受け、一命をとりとめる。既に87歳、もうダメかと思ったが、蘇った。ところが、やっと元気になったと思ったら、胆嚢が詰まり、カテーテル手術。腎臓が弱くなり、昨年末は尿毒症になりかけた。最後は乳癌にもなっていた。この間、転んだのは三度になる。その都度病院に担ぎ込まれ、入院し、治療し、帰ってきた。私は不死鳥と呼んでいた。人騒がせな母とも呼んでいた。母が倒れた時、私は長野にいた。その年末、長野の会社を辞め東京に帰ってきた。母のためでもあった。母は病院の味気ない食事と生活が嫌いだった。池袋のデパートでの食事が好きだった。家には私の姉になる娘とその子である孫と飼い犬が待っていた。入院時の合言葉は池袋に帰ろうだった。いつも歯を食いしばって耐えていた。苦しいのにいつも微笑みを忘れることはなかった。最後は仏のようだった。つくづく母は強いと思った。

母は認知症にはかかっていなかった。”とし”なりのボケ具合に過ぎなかった。終始お金のことを気にしていたし、家族の負担も気にしていた。私は東京で再就職した会社を3年前に定年退職し、月1度の母の病院通いの運転手になった。診察の後は必ず池袋のデパートでの食事。母の好きなものを姉や姪と一緒に食べ、楽しい時を過ごし、家まで送っていた。母は昨年の春、家の中で最初の転倒で大腿骨を骨折する。病院で手術するも思うように歩けなくなった。その頃はまだ手術ができた。歩けなくなった母は施設に入ることになる。施設は池袋の家の近くで、すぐにでも戻れると本人は思っていたようだ。最後の食事の際も歩けるようになったら家に帰れるからねと言った。母は聞いていた。そのくらい元気だった、気持ちだけは。

母は昭和という激動の時代、戦争の中で育ち、戦後の混乱から父と共に高度経済成長と共に生き、子を育て、孫の面倒をみて、最後はコロナに翻弄される人生を送った。母は地方都市の町なかで生まれ、明るい町なかで過ごすことが何より好きだった。子供の頃母の実家に行く度によく買い物に連れて行ってもらった。私のためというより母の自由な時間を満喫するためのものだった。父は技術者で、日本の技術立国を夢み、常に新たな材料を求め、生きていた。母が家計を守っていた。父は現役のまま倒れ、母が看取った。父の死は日本の高度経済成長の終焉を迎えた頃で、父は中国の勃興と日本の凋落を知らずに逝った。バブルは弾けたとはいえ、余力がまだあった時代だった。私は両親の期待外れ、希望する学校には入れず、二流の人生を送った。親のコネで就職し、警察のお世話にはならなかったが、結局親の恩に報いるような身分には遂になれなかった。父が亡くなり、コネの糸が切れた時点で会社を辞め、新たな道を歩き、やはり挫折する形で、会社生活を終えた。50歳でガンになり心が折れた。母から怒られた。親より早く死ぬのは親不孝だ。母の叱咤のお陰か知らないが何とか生きながらえた。

私はバブルの申し子のようで、給料はほぼ遊びに使っていた。貯蓄はほぼ”0”。母に金を家に入れろと叱られ、毎月生活費として支払った。これが私が定年になった時、満期として返ってくる。母は年金保険として積み立てていてくれた。遊び人の私に結婚しろと煩かった。見合いの話をしつこく持ってきた。嫌気がさし、自分で社内で女房を見つけたのだが、女房が一人っ子の理由で反対した。最後は父が推してくれ、結婚できたが、結婚後、アパート暮らしの私に史上最低の金利時代に突入した時、家を建てろとお金を渡してくれたのは母だった。

父は滅多に説教を打つ人間ではなかった。ただ、母を泣かすことはするなと言っていた。義父は母が倒れた時に早く行き面倒を見よと言っていた。もう父も義父も亡くなっている。義母も早くにこの世を去っていた。私が母のために最後の時を迎えるまで尽くしたのは、両方の父の頼みを聞いた母は唯一の過去を繋ぐ”えにし”だった。母がいなくなって私と過去を繋ぐしがらみみたいなものが全てなくなった。余生は”家”に縛られることなく生きられるのではないか。母の親戚も遠く、兄弟も最早多く亡くなっている。親戚とは何なのか?血のつながりとは何なのか?生活空間を別としている中で急に密な関係を構築できるのだろうか?最早関係は空虚になり、離れていくのは道理に違いない。

母は朝起きたら雨の日以外、窓を全部開ける。寒いも暑いも関係ない。まず開ける。寝てられない。寝坊は許さない。夜は早く寝ろと煩い。口癖は”可惜馬鹿は起きて働け”だった。母が死の床に就いた時、私は自然にこの言葉が口に出た。”可惜馬鹿は起きて働け”母にこれ以上苦しまずゆっくり眠って欲しかった。私も直ぐそばに行くのだからと告げた。もう私も既にこの世にお別れをする年になっている。この世に未練もなくなってきている。母の元へ行く。

母は葬式はいらない。家族に看取られてもらうだけで良い。この世を去る時、讃美歌を唄って送ってくれるだけで良いと言ったことだけは記憶にある。施設に入り、同年齢の友人や親族とも疎遠になっただけでなく、子供達に負担を掛けさせたくないという気持ちの現れでもあったろう。思い起こすと父は必ず神棚に祈りを捧げていたが、葬式は仏式を希望した。我が家は特定の寺の檀家にはなっていないが、父には葬式を挙げていただいたお坊さんより戒名をもらい、位牌に刻んでいる。葬儀は母が取り仕切り、墓は都の墓地にある。父と母で建てた墓。姉はクリスチャン、兄は神道系の宗教徒。私は全く宗教に興味はない。日本の仏教は葬式仏教と言われる。亡くなると戒名、位牌、そして葬式と共に仏壇が待っている。全て莫大な費用が請求される。母は父が亡くなった時、全てを成し終えて、自分にはもう結構と思ったのかもしれない。コロナ禍の中で人を集めるのが忍びなく、家族葬の流れができたことも否めない。戒名とは仏教に帰依し、仏教徒になるため名を改めたことに由来し、決して死んだから付けるものではない。仏教徒でなければ戒名はいらない。位牌は元々仏教にはなく、儒教からきた。仏壇は亡くなった方のためにある訳ではなく、仏のためにある。故人を偲んで仏壇を設け、お祈りするのはお門違いだ。戒名をつけるのであれば生前であり、仏教に帰依してのち、仏の弟子として自らの葬儀に向かうべきなのだろう。

母は歩けるようになれば家に帰れる。この施設から出られ、日常生活を取り戻し、自由に好きなものが食べられる。家には好きな孫と犬が待っている。施設に払う家族の金銭的負担も軽減できる。もはや大腿骨を折ってボルトが入って思うように動かなくなった足、体重を支え切れない細い手、失われた体力を考えなかった。それより、このまま寝たきりになりたくなかった。母は人に生かされるより生きようとした。いつものように朝、窓を開け、外の空気を入れる。いつもの台所に立ち、好きなものを作り、子と孫にご馳走する。一緒に笑い食べる。散歩に行き、変わりゆく池袋の街並みを眺める。何でもない日常に戻る。それだけ考えていた。母にとって寝たきりで長生きをするより、自分の望み通りに自ら生きることこそ意味がある。しかし、これは叶わぬ夢だった。車椅子から立ち上がり、一歩を踏み出すのが精一杯だった。

私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません、死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています。

私は朝起きるとカーテンを開け、雨が降っていない限り窓を開ける。空から母が笑って私を見ていてくれる。私も遅かれ早かれ、その元に向かう。死が近かろうが、遠かろうが気にしない。私の残影は娘たちにつながる。それだけでいい。私は与えられた生を全うする。山に登る、旅に出る。未知の世界に舵を切り続ける。なお生きよと母の声が聞こえる。死は幻である。今生きていることが全てだ。死は無であり、自分にとって価値はない。生にこそ価値があり、死後の世界をとやかく言うべきものではない。葬式に金をかける必要はない。その金は子供達のものだ。自由に使いなさい。私も風になる、母のように。

投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。

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