台北の奥座敷北投温泉の渓谷に掛かる橋の袂に粋なカフェがあった。ウィンドウに飾られたカラフルなティーポットに魅せられた。2015年7月初旬、散歩には少々蒸し暑い昼下がりだった。10名入れば一杯、アンティークな雰囲気に懐かしさを感じた。コーヒーのメニューはモカ、ブルーマウンテン、ブラジル、ブレンド、勿論中国語なのだが、定番が似ている。窓際に座り雰囲気を楽しむ。頼んだブレンドコーヒーの味も香も日本。台湾に来て日本を味わえるとは。あれからもう5年、この店もなくなっているようだ。店の名は記憶にない。
日本語のコーヒーはオランダ語”KOFFIE”である。江戸時代に薬とされ、洋学者で医師宇田川榕庵に珈琲と命名された。中国では王偏を口偏に変え、咖啡とした。珈琲では中国語読みでjiabeiでカフェとは読めない。それで咖啡(kafei)をあてた。中国人は日本人ほどコーヒーを飲まない。お茶発祥の地の誇りがある。元々中国でコーヒーを広めたのは台湾人である。上島咖啡が先駆者。一見日本の喫茶店かと思ってしまう名前。今はスターバックス更に中国の会社ラッキンに置き変えられている。米資本のファーストフードの進出、ビジネスマンのライフスタイルの欧米化が中国人の食生活を変えた。日本では喫茶店で珈琲を飲むが、彼らがコーヒーを飲むのは咖啡店である。中国の喫茶店は下写真にようにのんびりお茶をお菓子と共に味わうところである。コーヒーはまずでないし、合わない。

日本の喫茶店にこのお茶の楽しみはない。まず一杯のコーヒーか、紅茶であろう。中国には泡茶という習慣がある。何度でも茶葉にお湯を継ぎ足し、茶の味をとことん楽しむのである。この泡の意味は注ぐという意味で単に泡立てるのではない。半日居ても飽きないようになっている。お菓子は食べ放題であのころで600円くらいだった。何とも優雅な習慣だ。日本のお茶で泡茶ができない。茶葉を蒸してしまい、お湯を注ぐ度に変わる味わいを消してしまうからだ。日本人のせっかちなところを表すものと伊勢茶の博物館で伺った。お湯を入れてすぐに茶を味わいたいためにそうしたようだ。淹れたてを楽しむ。ここにコーヒーを受け入れる素地があったと言えないか。
淹れたてが実にいい。コーヒーの醍醐味。中国でも毎日自分でコーヒーを淹れていた。ドリップ式である。豆はUCCの輸入粗挽き缶、フィルターはMelita。お湯を注ぐその瞬間に広がる香り、口に含んだ時の味わい。掛け替えの無い自分の時間である。バッハのコーヒーカンタータをご存じだろうか。
第4曲 アリア
(リースヒェン)
ああ、コーヒーの味の何と甘いこと!
千のキスよりまだ甘い、
マスカットよりもっと柔らか。
コーヒー、コーヒー、コーヒーなしじゃやってけない。
私を何とかしようと思ったら、
コーヒーをくれるだけでOKよ。
正にコーヒーを愛する心をバッハは表している。私が若いころバロック喫茶があった。私はしがない予備校生、親元を離れ一人仙台にいた。毎日予備校に行かずともバロックを聞きながらコーヒーを飲んでいた。バロック喫茶は地下にあった。異次元の世界に下りていく。椅子は全て壁に向かっていた。壁には大きなスピーカーが4台。常にバロックが流れていた。それだけである。淹れたてのコーヒーを頂ける。一杯350円だったと記憶している。開店の10時から閉店まで好きな科目のみ勉強しながらバロックを聞き、コーヒーを数杯飲み、悦に入る。そして満足して帰るのだ。
バロックの旋律は心に沁みる。コーヒーの風味を高めてくれる。自分を見つめる、一人静かに、その時バロック音楽の旋律は深く深くコーヒーと共に私の魂を誘ってくれる。自分はどうあるべきか、どうすべきか、そしてあるがままに任せよと。
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