本州最北端下北半島を巡る🛫羽田⇄三沢🛬+レンタ🚙 薬研♨️→恐山♨️→鍋臥山🐢→仏ヶ浦🐵→大間崎🐟→尻屋崎🐴旅

下北半島の魅力:生きるとは旅することコロナ禍で耐えた2年半、リストアップしていた場所をぼちぼち回り始めている。凡そそう言う場所は自分に縁もゆかりも無く、遠く、交通の便が悪く、訪れる費用も掛かるものだ。本州の最果て下北半島、東京から直線距離でほぼ636km、ほぼ広島までの距離になる。最北端マグロ🐟の一本釣りで有名な大間崎、北海道は目と鼻の先。最東北寒立🐴で有名な尻屋崎。そして霊の集まる恐山💀、奇岩で有名な仏ヶ浦⛰、近くには北限の🐒がいる。想像を絶する風景が広がる。一度は行きたかった場所だ。そしてこの地で忘れてはいけないのは♨️❗️特に恐山の秘湯だ。ただ、最初に申し述べておく。この旅は下北行き当たりばったり、後で反省しきりになった。実際行かれる方は、事前にしもきたTABIあしすと下北ナビを見てから行かれると今回私のようなミスを犯すことはないでしょう。

旅の手段:下北半島を周回する🚃はない、周遊🚌を待つのも侘しい。若い時であれば🚲で回ったろう。危険を犯す勇気を最早失った。ツアーが一番交通費削減に役立つ、しかも観光の要所を抑え、美味しい食事を提供してくれる。宿泊先も間違いがない。一方、家から🚙で全国を回る旅に出る手もある。日本各地を車中泊をしながら回っている同世代以上の👴をこの旅でも見掛けた。費用や手間を掛けず、自由気ままに旅ができる魅力がある。私には残念ながらそれほど勇気も力も自信もない。下北半島に辿り着くまでに疲れ切ってしまうだろう。現地でレンタ🚙を借りて回れば、まだ楽だ。小回りが効き、時間を計算できる。旅の自由度は増す。余裕が生まれれば冒険心が起きる。しかし慣れない道行きは危険を伴い、通行止めの道へ導かれることも多い。宿泊先もミスが伴う。旅に何を求めるかで形態は変わる。1ヶ所のみであれば交通費の削減のみのツアーを選び、周遊であれば🚙もしくは🚲。実際、この旅ではレンタ🚙を選び、3日間運転しただけでクタクタ、最終日は居眠り運転でもしそうになった。総走行距離は400kmを越えた。隅から隅まで走り切った。下北半島の面積は1,876.82km²伊豆半島より大きい。滞在日数と宿泊先をどうするか?避けて通れないのが恐山💀、そして大間崎、ここにそれぞれ一泊し、一周すると決めた。♨️もある。のんびりゆっくりだ。失敗したらそれまで、一人旅にミスはつきものと諦める。

旅のキー:まず訪れるシーズンを選択。恐山💀は🍁が美しいと聞いていた。猛暑で🍁は例年より遅れるだろうと10月末でいいと高を括って、長期天気予報をチェックしていた。旅の前提は🌞❗️☔︎🌨🌬は以ての外、興醒め以外の何者でもない。天気が悪いと景色を楽しめない。寒くて旅先で風邪をひいたら事だ。悪天候は🚙事故を生む。君子危に近寄らず。天気予報を睨んで9月末動く。10月末の下北半島の天気は概ね🌞。早速宿泊先を当たる。恐山💀の宿泊先は宿坊で、直接電話し、予約を取らなければならない。吉祥閣。冷たい事務的な女性の言葉が響く。10月末は満室、何と10月一杯で山は閉じ、春を待つことになる。10月末近くで空いているのは23日とのこと、もはやこの日しかなく、予定を繰り上げるしかない。急遽予約を入れる。天気と🍁が微妙だが致し方ない。24日を大間泊、マグロ🐟と♨️と風景これさえ揃っていたら大満足。google mapで見つけた町営大間温泉海峡保養センター、本州最北端の♨️。丘の上、勝手に美味いマグロ🐟と壮大な景色の中の露天風呂を想像してしまったのがいけなかった。即直接連絡し、宿泊予約をする。恐山の宿坊に比べ、対応は段違いに優しい。ここに。恐山宿泊は現金のみの12,000円、大間は9,900円カード可だった。うまい値段設定。インターネットで調べるとなぜか9,020円になっている。いずれにしても朝夕食込みで1万円を切る予算を想定している旅行者には飛びつく価格設定。

下北半島:まずは宿泊先は押さえたところで、東京から下北半島へ向かう手段を考える。旅先へは朝一番に着き、早く行動を起こす。何が起こるかわからない。不測の事態に備えるのが鉄則。🛫だと朝一で7:50羽田から一番下北半島に近い三沢空港へ9:10着が最短。🚅の最短は6:32発七戸十和田着9:34、チケット代は🛫の場合、往復32,508円、🚅の場合、往復33,620円、到着時間、費用とも🛫に分がある。最も費用についてはモノレール代が別途かかるので、費用的にはトントンになる。家の出発時間は、🛫の場合、空港に30分前には着いていなければならなく、モノレールの乗車時間もあって大差なくなる。航空便のうまさは早く予約すれば安くなる。特に平日が安い。往復4,000円値引きも可能。但し予約が遅くなれば🚅より大幅に高くなるので要注意。要は早く動くこと。しかし天気が重要なので、1か月予報に応じて即取るべきになる。尚、羽田空港から三沢便は搭乗口35、バスで🛫に向かうことになり、早く搭乗口へ向かわなければならない。朝食を安く上げたい場合、搭乗口に降りる手前のコンビニ脇の自販でサンドイッチを買うべき。☕️はいらない。✈️内で飲める。この自販が見えず、コンビニでおにぎり弁当とお茶を買ってしまった。これはこれで美味しかった。🛫のメリットはインターネットでチケット購入と同時にレンタ🚙を選んで予約できること。私は迷わず禁煙、一番安いハイブリッド🚙を選ぶ。空港からすぐに乗れ、帰りも空港まで🚙となる。無駄な動きがなくなる。費用は3日間で29,040円也。もう一つの🛫のメリットは窓からの眺望、朝であれば🗻が望め、途中、岩手山、猪苗代湖と空の窓から美しい風景を堪能できる。インターネットで早く手配できれば、翼を避け、後方の窓側の席を取ることができる。帰りは地上に散りばめられる街の光の眩さが目に焼きつく。安ければ🛫に勝るものはない。早く手配することが肝心。三沢空港には若干遅れ、9:38に着く。三沢空港は米軍基地にある。朝早くから、見たこともない戦闘機が凄まじい轟音、地響きを挙げて何度も滑走路の脇で離着陸を繰り返している。空港に着くと米軍兵が迷彩服で誰か赴任してくるのか、大勢で待っている。正に壮観な最前線の雰囲気を感じた。飾られていた行燈こけしが和洋折衷には驚かされた。レンタカーショップは到着口近くにある。こぢんまりした空港。🚙は空港脇に停めてあった。いよいよ出発。温泉♨️が空港を出たばかりのところにあるのを見逃さなかった。

薬研温泉:恐山💀まで100kmある。🚙で約2時間、まだ午前中、時間がある。薬研♨️まで足を伸ばし、昼食を取ることを考えた。下北半島の中央の平地部を走り、津軽海峡に抜けてから山に入って行くようで、恐山💀に向かう距離と変わらない。Google mapにはかっぱの湯が出ていた。道路脇の案内図を見ると老人福祉センターの奥にあるように書いてある。間違えてここのお風呂に入ってしまった。案内図に立ったのが12:23pmだ。かっぱの湯は13:00からは女性のみで、入れなくなったことが後でわかった。これも後で気が付いたが、老人福祉センターの看板にはかっぱふれあいの湯と書いてあった。しかし、230円で狭いがいい湯に入れた。受付の人に食事をするところを聞くと、すぐ先にレストハウスがあるのでそこへ行くといい。と言われた。早速向かう。途中かっぱの湯の案内看板が左に見えた。道を右に折れてすぐ、ログハウス風のレストハウス、なかなかいい雰囲気だ。足湯が外にあり、川に下りれば露天風呂。夫婦かっぱの湯。全てかっぱの湯を表しているからややこしい。既に湯疲れしているので入らなかった。同じ230円になっている。安い。昼は地元豚を使ったネギ味噌豚丼750円を🍁と共に頂く。事前に良くかっぱの湯を調べてくれば、無料の露天風呂のかっぱの湯に入れた。レストハウスに男性の旅行客がかっぱの湯の入れる時間を聞いているのを耳にしてやっと自分の勘違いに気が付いた。情けないが後の祭り。

恐山💀彷徨:薬研温泉から車で山を抜け、30分ほどで着く。まるで裏の抜け道のようだ。近付くと硫黄の匂いですぐ分かる。至る所で火山性ガスの噴煙が見える。ただ、噴火して1万年以上というからこの風景は遠い縄文、アイヌの時代から変わっていない。中央の宇曽利山湖はアイヌ語の窪みの意に由来し、宇曽利から恐れに転じ、恐山と呼ばれるようになったと言う。四方を山に囲まれ、有毒な亜硫酸ガスによって草木も生えない真っ白な火山岩に覆われている。宇曽利山湖はどこまでも碧い。見守る山々は緑。神聖さと不気味さを両方兼ね備えているような地。恐山💀を巡るに小一時間もあれば十分、白い岩の間に仏を訪ね、ひたすら彷徨う。風を知る風車は音をたて、回り続ける。静寂の世界。死後の世界はかくありなん。恐山を訪れる理由は亡くなった人に会いに来るため。もはや形を失っている現実の世界では難しい。恐山💀に行けば会える。心の中の面影を探し求める。面影が心の中にある限り、亡くなった人は永遠に生き続ける。

恐山💀秘湯:恐山菩提寺のお坊さんがいみじくもおっしゃっていた。恐山💀の魅力は三つ。一つは何もない。二つ目は遠い。三つ目が♨️。正に何もない。地の果て、山の彼方、インターネット、携帯電話が通じない。テレビがない。勿論コンビニもない。下界との音信、関係が断たれる。あるのは最良の♨️のみ。我々が求める恐山はここにある。あらゆる煩悩から解き放たれ、この先にあるのは温泉。ゆったりとお湯に浸かれば、この世の憂さを忘れさせてくれる。♨️に浸かる時、心は無になり、体は湯に溶けていく。人生最良の時。人はになって初めてのありがたみが分かる。薄い緑がかった乳白色の、肌にまとわりつかない熱い湯は体や心を癒すには最適だ。硫黄の匂いは体に染み込み、数日取れない。素朴な木造の掘立小屋の温泉がまず境内にある。男湯と女湯両方があり、禊に通じるのか。不思議な光景。正面の地蔵堂に向かって左側に奥から女湯、2つの冷抜の湯小滝の湯、右側が男湯、薬師の湯冷抜の湯はどうも混浴だったようだ。男湯はひっきりなしに入っているが、女湯に入っているのを見かけることはなかった。確かに境内とは言え、オープンな場所にある掘立小屋で裸になるのは危険な感じがする。混浴の花染の湯は宿坊の奥、宿泊時、聞くまで場所がわからなかった。更に宿坊の中には大浴場「御法の湯」がある。温めだが、広々とし、のんびり入れる。宿泊客のみ入浴可となる。できれば露天風呂が欲しかった。修理中の露天風呂が見えたが、狭そうで物足りない。やはり外の空気と景色を同時に堪能したいと思うのは私だけだろうか?

恐山宿坊吉祥閣:還暦を過ぎて、初めて宿坊に泊まる。死が見えてきて仏教に帰依することを検討し始めたわけではない。母が今春亡くなり、供養を求めて来たわけでもない。ただ、恐山💀に泊まるには宿坊しかない。全く宗教心を私は持っていない。坊さんと接した機会は他人の葬式のみ、仏教そのものに興味も、坐禅を組んだこともない。母は葬式なしで送った。私もそうしてもらうつもりだ。恐山吉祥閣は想像していた宿坊とは大きく違う。新しく広大で掃除の行き届いた研修所の如き。お坊さんの修行のために建てられたのか、これが月末まで観光客の予約で埋まっているというのだから驚きだ。宿泊費に含まれる朝夕食は粗食の精進料理なので、肉魚類は出ないし、酒は勿論提供されない。お風呂以外のサービスはない。2階にある個室の部屋には布団が既に敷いてある。これで12,000円は高くないかと思われよう。しかし、ものは考えようで、安いホテルに泊まったとしても晩飯に酒、地産のツマミと重ねれば12,000円はいってしまう。特に酒は煩悩の最たるもので値段に際限はない。これにツマミが浪費として追いかけてくる。これがなくれば金が消えていくことがない。しかし、枯れた半老人には酒以外に楽しみはない。酒なしで眠れるか!それがぐっすりなのだ。睡眠導入剤なしで、消灯の22時を待たず、20時には寝ていたと思われる。というのは意識がなくなったのでいつ寝たかわからないのが正直な話。夕食が18時、酒なし、余興なしであっという間に終わり、後、一人風呂に再度入る。外湯は怖くて入れないので、内湯1つ、入ると眠くなる。あらゆる誘惑が周りにない。諦めの極致。無の世界静寂が全てになる。相変わらずトイレには数度起きたが(トイレは部屋に付いている)、心地良い睡眠だ。静寂こそ枕の友になる。朝5時より入浴可。既に寒いが、室内は暖かい。広々とした内湯を独り占め、どっぷり浸かり、目を覚ます。外湯は流石に寒そうなので、寄る年波に勝てず、心臓をケアし、やめる。私以外宿泊しているのは11名。内男性4名、一番若いのは一人宿泊していたシンガポール人の青年。今時殊勝な若人がいるものだ。平日でもあり、中高年が多いのも頷けるが。ほぼ東京方面から来ていたようだ。静寂の中で声をかけるのも憚れる感じがしていた。何故宿坊に泊まられたかは伺っていない。朝6時半からお勤め。地蔵堂への行き方が分からず、往生した。場所の案内はなく、早めに人を見て動かなければ、付いていけない。親切な案内者なぞいない。祈祷の間、坐禅を組まなければならないのかと思ったが、胡座でも良いようで助かった。祈祷で名が読まれるとハッとする。なるほど宿泊代に祈祷代込みと分かる瞬間。お経は長くない。お堂もそれほど寒くない。尤も防寒着を来ていたのが正解。尚、浴衣羽織なぞ宿坊では御法度。祈祷が終わると供養になり。本堂に移る。本堂は山門の脇にあり、地蔵堂に比べ質素で古く、小ぢんまりした感を受ける。入ってまず驚く。数多くの遺影、遺品、遺服が飾られている。遺影は若い方もいれば、お年寄りまで、勿論ニコリともしないで参列者を眺めている。遺服は着古された物が多い。全く関係ないのだが、亡くなられた方々の生きていた頃の姿を想像してしまう。不思議な感じだ。参列者が増える。朝早くから来られている方々がいる。お坊さんは依頼を受けた方々の故人供養をしている。声明を初めて身近に接する。お経を四人のお坊さんが好き勝手に読んでいるようだが、低音部、中音部に分けられ、音程の変化、終わり方に荘厳さを醸し出している。なかなかの迫力。これが民衆の心を掴む仏教の包容力なのだろう。勿論何を言っているのか分からない。恐山というとイタコがまず頭に浮かぶ。イタコは亡き人になりきり、自然の言葉で会いたい人に話しかけ、安寧を与える。お坊さんは遠い世界の言葉で救いを求める人に幻想的な安寧を与える。個と公でバランスを取って求める人に救いを与えるのではないか。もはやイタコは常駐はしていないので要注意。このお勤めが終わると食事になる。7時半、10分前には呼ばれる。全てが早く進むので要注意。食事前に五観の偈を唱えさせられる。これが音階は取れない。お経自体が日本語ではない。中国語から来ているので、独特のイントネーションがある。関西人には向いているのであろう。そういえば説教を頂いたお坊さんは全て関西人、食事も関西風味付けだった。ここで関西人に接するのは曹洞宗本山の永平寺の関連からなのだろうか。食事を終え、出発の準備に入る。恐山の宿坊に泊まり、無を知り、そして無に帰る喜びを知った。これは掛け替えのない経験だった。これを胸に一人旅を続ける。次は何処へ。

釜臥山:パゴダか?下北半島をむつ湾から始めて望んだ時、一番高い山の頂きに聳える白い建造物。恐山からも見える。崇高なパゴダと土地を知らぬ人間は誰でも思うに違いない。崇高な恐山の風景を望む仏塔として見るのが一番相応しい。この山は下北半島最高峰の釜臥山と後から知った。標高878.2mになる。東京の日の出山ほどの高さになる。高尾山より余程高い。この山頂まで車で行けるとはそのとき思わなかった。恐山からむつ市に向かう途中に右に折れる道がある。かまぶせパノラマライン、平日早い時間だったのですれ違う車もない。途中途中に展望地がある。車を停め、見晴らすと恐山から下北半島の東半分、陸奥湾、津軽海峡、更に北海道まで、広大な景色が眼下に広がる。道は山頂まで続き、釜臥山展望台まで続いている。山頂のパゴダが巨大レーダーと初めてわかる。通称ガメラレーダー🐢。確かに亀の甲羅🐢の如き突起。13年前に設置され、海外からの発射されるミサイルを追いかける。180億円の代物だ。追いかけてどうするのか?発射されたらその時点でお終いじゃないのと突っ込みたくなる。ミサイルなき平和な世界になること。ガメラレーダー🐢が平和の祈りを込めた真のパゴダに生まれ変わること、これこそ国民の祈りだ。

九艘泊:下北半島を時計回りに半周し、次の宿泊先最北端の大間岬へ向かう。釜臥山から3時間半コース、9時過ぎに出た。日没前に着けば良い。むつ市を抜け、半島南の海岸縁を走る。何処まで行けるか、何とか半島を一周できるのではと淡い期待をしていた。まず第一歩。行き止まりは南西端の九艘泊。抜け道がありそうだが….。海岸からは津軽半島。更に津軽富士の岩木山が勇姿を見せてくれる。陸奥湾沿いの道は気持ちいい一本道だった。九艘泊に辿り着き、ナビで再度確認してみるとやはり大間岬へ抜ける道が出てこない。やはり、く◯ーッ止まりか!海岸に向かって猿顔の岩が見えた。悔しいが王道の国道の分岐点脇野沢港まで戻ることにした。確かに下北半島を舐めていた。下北半島の西岸は森深い絶壁と認識していなかった。極北の猿はここにいる。地元の人に聞くと2年前の大雨で最短ルートは通れなくなっている。向かわなくて正解だったようだ。更に川内まで戻らなければならない。昼になっており、港の近くのフェリーのチケット売り場の脇のレストラン「ドーム」に入る。そいの煮付けが美味しいと薦められた。そいはメバルの仲間なので煮付けはうまかろう。1,200円と若干高めとは思ったが、頼むことにした。基本、冬の魚なので、やはり少々早かったかと…。川内渓谷沿いにかわうち湖沿いに海に戻っていく。まずは仏ヶ浦を目指す。

仏ヶ浦:かわうち湖から川に添い漁港に下り、また崖沿いに上っていくと、看板が目立たないが、仏ヶ浦駐車場案内が左手に見えてくる。見逃しそうな看板。駐車場は20台も停められるか否かの大きさ。平日だったので、数台も停まっていない。観光バスも見ない。店もない、観光案内も休憩所もない、舗装もしていない狭い道を降りていくと見晴し台があり、やっと眼下に仏ヶ浦が見渡せる。更に階段を下り、浜辺に着くと数10mの巨岩、奇岩が林立している。迫力が凄まじい。海が荒れれば到底歩けないだろう。波打ち際近く、岩を渡り歩きながら巨岩を見て歩く。正に壮観。道ができるまで船からしか見られなかったようだ。やはり山を下り、身近に見ると迫力が違う。この風景は、1500万年前に海底火山から噴出した火山灰が海岸に押し固められ、それが雨や波で削り取られて作り出された。自然が作り出した芸術的造形物になる。緑色凝灰岩でできている。同じ白い世界でも今も噴煙を上げ続ける恐山とは趣が異なる迫力がある。仏ヶ浦からは海岸に沿って走る。大間岬は近い。途中、🐒を見かける。群れで道路を渡っている。一匹のみ残り、私の車に背を向けて道路脇に佇んむ。なかなか振り向いてくれない。シャッターチャンスを待つ。何故背を向けて座っているのか、分からない。見ざる聞かざる言わざるの教えを守っているのか?やっと振り向いてくれたのでパチリ。車から降りてはいけないようだ。敵もさるもの引っ掻くもの、近寄ってはならない。しかし北限の猿だけに暖かそうな毛に覆われてますな。

大間崎:日暮れが迫っていた。着いたのは16:40。大間町についてから大間崎までが結構長い。間に合ってよかった。本州最北端、海の彼方に北海道を一望する。松前藩を北の大地に築き上げた下北半島の雄、蠣崎氏は570年前この風景を見ていたはずだ。南部藩に追われ、100年に及ぶアイヌとの戦いを制した。一番近い函館汐首岬までの距離は17.5km、橋を掛けるには近くて遠い距離。厳しい冬の風雪にどう安全を確保できるのか、北特有の問題が橋の敷設を阻んでいる。もはや日が暮れる。予約している宿泊先大間温泉海峡保養センターへ向かう。マグロを期待して丘の上へ。期待した海は望めない。温泉施設はリニューアルされているが、内風呂で眺望もない。泊まる部屋の名がまぐろになっており、夕食に思わず期待する。なんと付いていた夕食にはマグロ2切れのみ、ハッキリ言ってがっかりした。酒以外にマグロ刺身盛りを頼む。3,000円と言われた。なかなか美味かった。なお、部屋にはトイレと洗面所がない。窓の外には駐車場。景色はない。隣りの部屋のテレビ、電話、会話、全ての音が筒抜けには驚いた。壁が薄いまぐろの部屋は部屋と部屋とに挟まれており、両方の部屋の音がダダ漏れ。これで朝夕食込みの9,800円に3,000円に酒代600円と思っていたら会計は15,420円。素直に現金で払ってしまった。領収書をもらわなかったのも悪かった。このブログを書くので電話で後で確認した。何とまぐろの部屋は高くなって10,820円マグロ3,850円、酒海鳴り1合600円、入湯税150円が内訳と当たり前のように言われた。この施設のサイトを見ると宿泊代は9,020円+入湯税150円とある。まぐろの部屋は1,800円高くなっていることになる。マグロの刺身盛りは時価のようで、サイトでも記載ない。この施設は町営だが、実際は業者に任せている。道理で調子がいいと思っていた。大間町が観光開発のため、温泉を掘り当て40年前に開館して始まっている。本当の温泉宿に泊まるのであれば、隣町の下風呂温泉まで足を伸ばすべきだった。何れにしても後の祭り。旅は続く、尻屋崎に向かう。

尻屋崎:いよいよ最後の岬に到着。下北半島の最東端、本州の最北東端(本州最東端は岩手県三陸海岸の魹ヶ埼)。灯台の近くに石碑があり「本州最涯尻屋崎」と彫ってある。このは後でと後で分かったが、最涯が最果ての意とは知らなかった、確かに最涯の方が最果てより”さいはて“感がある。本州の最北端が大間崎とすると角の如く突き出した尻屋崎は本州の最涯の地だ。尻屋崎の灯台には300円で上れる。レンガ製、東北で一番古い灯台で、東日本大震災でもびくともしなかったそうだ。恐れ入る。灯台の上から太平洋を仰ぎ、遥か北海道をも望む。但し、灯台付近に会いたかった寒立馬🐴がいない。寒立馬🐴というくらいだから冬しかいないのかと思ったが、今は灯台付近には放牧されていない。人との接触で事故が数度あり、危険なので取りやめているそうだ。岬エリアに車の入るゲート脇に牧場があり、馬を見かけたことを思い出す。しかしスマートな黒馬🐴だった。サラブレッドかと思っていたが、左にあらず、寒立馬🐴だったようだ。岬を周り、会いに行くことにする。寒立馬🐴と呼ばれるようになったのは僅か53年前。それまでは野放馬🐴と呼んでいた。単なる農耕馬🐴の放し飼いに過ぎなかったのであろう。きっかけは尻屋小学校の岩佐勉校長が年頭の書き初め会で「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」と詠んだことによる。詠まれている筑紫が原は灯台の立つ野原になる。日の出の到来に勇み嘶く寒立馬🐴は筑紫が原に吹き荒れる嵐なぞものともしないという歌の意になろう。その頃、既に寒立馬🐴は絶滅危惧の状態に追い込まれていた。数頭しか残っていなかった。哀愁を込めた歌だったに違いない。今でこそ40頭にまで戻しているが、その頃は絶滅を待つしかない悲哀を込められている。だが、寧ろこの歌が詠まれた尻屋小学校が廃校になっていた。14年前になる。もはや東通村にある小学校は1校のみとなっている。馬どころか人がいなくなっている。寒立馬🐴は今は失われた南部馬🐴の血を引く。南部馬は武士が愛した軍馬だった。明治以降、更に国策で馬の大型化を図り、大型外来種交配を推し進め、在来牡馬の去勢によって純粋血統を失うに至った。絶滅を迎えたのは約100年以上も前になる。最後に残った野馬だった寒立馬🐴に望みを託すことになる。しかし、もはや、軍馬は勿論、馬車馬、農耕馬の役割は終わっている。明治以降、家畜としての馬🐴はほぼ全滅状況に追い込まれている。今は種の保存にのみ躍起になっているしかないのが現状。日本には元々馬がいなかった。1,700年前、大和王権の設立を支えたのが大陸から連れてきた馬🐴だった。それ以来、馬は為政者を支え続ける。武士の対等、戦には必ず馬🐴がいた。こればかりでない。物流、農耕をも担ってきた。もはやお役御免で済むのか、また馬🐴のない日本に戻るのか、日本在来馬🐴全てが瀬戸際に追い込まれていることだけは間違いない。ゲート脇にいたのはどうも種馬だったようで、別の場所に20頭ほどの寒立馬🐴が群れていた。越冬放牧地らしい。仔馬もいた。のんびり草を食んでいた。のどかな風景。彼らが絶滅間際で生き残ることができたのは、寒立馬という名を得たお陰ではないのか?この名が下北半島に生きる人々の心をグッと掴んだ。冬の寒さをモノともせず生きてきた、最涯の地、下北に生きる我々も同じ寒立馬だと気がついたに違いない。守らなければならない。下北とも別れの時が来た。六ヶ所村から三沢空港に向かう。

三沢空港まで:東通村と六ヶ所村を越える。太平洋に面した海岸線、実に92km東通原発六ヶ所村核燃料再処理工場が左手に見えなければならないが見ることはなかった。ひっきりなしにダンプが走っている。居眠り運転なんかしたら、即さようならの世界。東通村から六ヶ所村に入るまでほぼ木々に隠れた平坦な道を走る。海も見えず、人気もない。実際は射爆場も隠れていたらしい。行きのむつ湾側とは大違いであった。三沢基地は遠くはない。実際、30kmの距離、六ヶ所村から1時間も掛からない。爆音を挙げる戦闘機が思い出された。航空基地と核施設が隣り合っている。こんな危険なところがあるのだろうか?正に火薬庫同士が並んでいる。6年前北朝鮮が盛んに日本海側にミサイルを飛ばしてきたが、どうも三沢基地への攻撃を想定して撃っていたらしい。ミサイルは自国を守るため、軍事基地を狙う。三沢基地はロシア、北朝鮮を攻撃対象とした最前線の航空基地になる。狙われて当たり前なのだが、撃ってきたミサイルが外れて核施設に当たった場合を想定しているのだろうか?それだけではない。戦闘機が核施設を誤爆したらどうなるのか?考えてみてゾーッとした。リスクを考えたら安心して住める場所とは思えない。基地の島、沖縄には少なくとも核施設はない。知らなかったが、更に大間にも原発を建設しており、中間処分施設も敷設計画を立てている。むつ湾岸にも設置検討中とある。そこには自衛隊航空基地がある。

帰る便は16:50発、三沢空港には14時に着いた。🚙を返し、出発時にみつけていた空港近くの三沢空港温泉に入ることにする。入館料400円は安い。石鹸、シャンプーがないのには驚いたが、まあいい湯。小一時間で出て、空港で食べていなかったホタテのフライ、そしてハイボール、無事に帰れた体へのご褒美。酒を飲みながら考える。

戦闘機F-16(1機$15M=時価22億5千万円)16機F-35A(1機$77.9M=時価116億8千5百万円)33機の騒音は100Dbを超える。これは高架下にいて電車が通り過ぎる音と同じという。話なんか聞こえない。耳がおかしくなる。「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」下北の人々は耐えてを待つのであろうか?平和のバランスが崩れた時、国を守るために戦争をする。守るのは国体であって辺境の力なき人々は排除されても構わなくなる。地域住民移転の話は進むだろう。国防のため、地域は犠牲になる。これは沖縄に限った話ではない。国防を増強すればするほど、敗戦リスクは減るかもしれないが、逆に開戦リスクが増大し、国民負担があらゆる面で拡大する。国民が減る一方で国防を増強すれば、守るのは国民ではないことが更にわかってくる。下北に春は来るのであろうか?原発の稼働を国に訴えている東通村の村長の姿が侘しくテレビに写っていた。国策に寄り添ってはいるが、村民の真の安全につながるかは疑問に思える。下北は何処へ向かうのか。

投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。