老いて🐕と暮らす

豆柴JOYと暮らし始めて、はや10か月。8年前に亡くなった義父が終の住処とした築25年の家、1階にJOYが住み、吹き抜けで繋がる2階に私が寝ている。女房と娘は玄関で繋がる母屋に住んでいる。JOYの生活範囲は居間の10畳、ジョイントマットを敷き詰め、簡易フェンスで囲んでいる。マットは彼の寝床近くが剥がされ、水場は水浸しにされる。仕方ないので、ペット用の防水厚手シートでその上を覆うようにしている。フェンスは、何度も脱走され、その都度補強した。柴犬を室内で飼う難しさ、大変さを味わった。最近は、ここをテリトリーと認識したのか、マット剥がしも脱走もしなくなった。今の彼の体とジャンプ力を持ってすれば、楽に乗り越えて逃げられるに違いない。居心地の良さにやっと気が付いてくれたのだろうか。居間は南と西に面し、庭の奥行きがあるので、日当たりがいい。庭を一望し、季節の移ろいを一番感じられる、我が家の一番良い場所。義父もこの部屋の中央に椅子を置き、どっかりと座り、ブランデー片手に庭を眺めながら、日向ぼっこを良くしていた。JOYもまた陽の光を全身に受け、寝そべりながら庭を眺めている。私は吹き吹けから日々大きくなっていくJOYをただ眺めている。老いの楽しみはこれに尽きる。一人寂しく暮らす義父に一度、犬を飼ったら如何ですかと聞いたことがある。犬は子供の飼うものだと一蹴された。昔からそういうものだと思い出された。私は、敢えて、今年高齢者の仲間入りとなったにも拘らず、犬を飼うことにした。老いを生き抜くための道先案内とするためだ。神の使いだった狼に最も近い柴犬こそ、死出の道を歩むために適役に違いない。豆柴を選んだのは可愛さゆえだ。最後には、豆柴JOYと楽しく、いつもの通り散歩するように、虹の橋を渡ってあちらの世界へ行きたいと思っている。

豆柴JOYが我が家にやってきたのは、生まれて2ヶ月目、桜が満開の春爛漫の4月初旬。私と女房と娘で霞ヶ浦近くのブリーダーさんの所まで迎えに行った。小さくて、僅か1kgほど。片手に収まる。車の中、JOYは私の懐にただ収まっていた。静かで、大人しい子だった。犬はワクチンを全て終えないと外へ出せない。来てから2ヶ月半を家の中で彼は鬱々たる生活を送った。その間、がっしり食べ、部屋じゅう跳び回って、あらゆるものを齧り、傷つけ、放っておくと粉々にしていた。紫陽花が咲き乱れる梅雨の6月中ば、散歩ができるようになって、外へ出ると、そこらじゅうを嗅ぎまくりながら、歩き回る。あの頃は月に1kgは大きくなっていた。散歩は朝と晩、それぞれ1時間では済まなかった。基本、朝は私が、晩は女房と娘で分担した。梅雨が明け、夾竹桃の咲く暑い夏が襲ってきた。散歩は朝5時からになり、晩は夜の8時過ぎからになった。勿論、雨の日も風の日も。夏も過ぎる頃、やんちゃでどうしようもなかった行動も落ち着きを見せ、顔つきも凛々しく、もはや豆柴と言えない、9kgに迫っている。見事な柴犬へと変貌を遂げている。もはや片手でなんか持てない。犬用リュックからも首から上が飛び出している。何せ抱き上げるのにもズシっとくる。いつの間にか、立場が逆転し、私の方が仕え、犬はお犬様になっていた。短くなった秋から燕子花咲く冬へ、もはや豆柴とは呼べないほど、JOYは大きくなった。若干遅くはなったけれど、去勢手術を受けてもらうことにした。これはJOYには申し訳ないが、彼のみを終生の友として生きてもらうことにしたからだ。私には残された時間がない。手術の前日病院に連れて行った。檻の中、悲しく鳴き声をいつまでも病院中に響かせていた君を置いてきたことが何より辛かった。

私は60歳で定年退職し、そのまま仕事にも就かず、65歳に達した今年3月から年金生活に入った。この間、生活の糧はほぼ退職金や満期になった保険を元にした預貯金が支えになった。借金の返済は50歳で終わっている。何とか犬を飼い、養うだけの貯蓄を残せた。一昨年母を亡くし、父も既に世を去っていて、人生の恩返しも終了した感がある。親しい友人以外、親戚であっても連絡を取り交わすこともなくなった。家族はそれぞれ自立し、負担も負債もなくなった。50代に苦しんだ癌も治まり、昨年は目や前立腺の手術があったが、無事乗り越えた。当座の死の恐怖は拭えた。一方で、義父から引き継いだ終の住処の身辺整理も終え、蟄居部屋とした。ここで、人生の坂道をゆっくり下りて行こうと、一人、気ままに隠居生活を送っている。コロナの所為もあり、ほぼ他人と接することもなく、家にいれば、誰とも話すことのない日々を暮らしている。この時間は穏やかで、波風の立たない死出の道に相応しいとも思っていた。もう思い残すこともない。やりたいこともやった。ただ、死の床に着くまでは、せめて、与えられた生を楽しみたい。常に前を向いて生きていたかった。生を実感できる場所が必要だった。それが山だった。山はまさに天国に近い。数年前から、一人山へ向かい、富士山の見える眺望を堪能している。足が動く限り、山を歩きたい。老いは何れにしても体力も気力も智力も奪っていく。山に登れなくなる時は来る。しかし最後まで安全、安心、確実に山へ向かいたい。犬を飼いたいと思ったのは、そのためだった。あと15年、80歳までは山へ向かいたい、生きたいと思った。丁度、犬の寿命と重なる。

豆柴JOYは今はまだ子供、とても山行きは無理。散歩から公園散策、ドッグランと徐々に外の環境への適応能力をつけていかなければならない。山で迷子になれば、取り返しつかない。山ではお互いの命を守るために一心同体でなければいけない。山で拒否柴は許されない。あっちでクンクン、こっちでクンクンも許されない。日暮れ前に下山しなければ命にかかわる。柴犬は1才で成犬になる。成犬になれば、落ち着き、飼い主への忠誠心が強くなると言われている。後もう少し、経験を積ませ、指示に従って行動する範囲を広げたい。JOYは基本的に社交的で、礼儀正しいので、このまま大きくなってくれれば良い。一方で、私自身の健康こそ問題だ。成長する犬と朽ち果てていく私、老いによる心と体の衰えは否めない。体力、気力、智力も維持していかなければならない。今まで以上に体に気をつけている。特に7年もの間、苦しんできた頻尿と睡眠障害との戦いだ。対処療法に頼ることを止めた。睡眠薬と鎮痛剤が腎臓機能の低下を引き起こしていたことが分かった。止めて正解だった。頻尿の改善は血糖値を下げる食生活の見直しと薬で戦っている。毎朝のJOYとの散歩がいい運動の習慣になっている。何よりJOYといることで心の癒しになっている。JOYの顔を見ていいるだけで、自然に笑みが溢れてくる。老いを迎えた人間が犬を飼うことによる効果が今、私の心と体にも現れてきている。今までにない声が響く。そう、老いに屈せず、生きよとの声だった。犬と暮らすとこうも変わるのかと実感している。JOYとの生活で、確かに私の生活は劇的に変わった。

東京都では60歳以上には保護犬を譲渡しないことになっている。これは高齢者が譲渡した犬を最後まで面倒見切れないとされているからだ。確かに、犬を飼った以上は、命が尽きるまで責任を負わなければならない。これは義務だ。高齢者にその責任を負えるのかという疑問符がつくのは当たり前だ。人間、歳を取れば、要介護の道へ突き進んでいく。年金生活に入れば、犬の面倒を見る経済的余裕もあるまい。身の回りの生活もままならなくなれば、家を売り、都営住宅や施設に入り、犬も飼えなくなる。そんな年寄りに犬を渡せるか。至極もっともで耳が痛い。この常識的な話に逆らって、更に高齢者の仲間入りしたばかりの老人が犬を飼うのは何故か。年寄りの冷や水は良くない。終始ごもっとも。しかし、定年まで精一杯働き、借金を返し、子育ても介護も終えた。歯を食いしばって生きてきた。海外で危ない橋を渡ったり、病気で死の淵を歩んだこともあった。何もかもなし終えて、安らぎの世界に入りたいと思うのは当然ではないか。これこそ老人の特権。人生の終着点まで、残された時間は決して長くはない。犬と生きることこそ、人生の安らぎを得る最良の手段ではないのか!と粋がってみても、実際、犬を飼うにあたっては、家族の合意があって初めて可能だった。老人にとって、命の終わりは突然訪れるお客のようなものだ。突然訪れてきて、天国へと連れ去っていく。これは避けられるものではない。万が一、私に何かあったとしても犬に迷惑をかけられない。必要なことは家族の支えに他ならない。幸せなことに、家族全員で豆柴JOYを迎え、皆で楽しく面倒見ている。豆柴JOYと虹の橋を渡るまで、山を一緒に堪能できるようになれたらもっと幸せだろう。あともう少し。

🐕の瞳にこめられた想い

このかわいい瞳が許されているのは子犬だけ。構ってほしい、オヤツが欲しい、なぜ遊んでくれないの、言葉で伝えられないもどかしい想いを込めている。ジーッとただひたすら見つめてくる。寂しげ、物欲しげ、恨めしげに私の顔の表情の変化を推し測っている。この瞳は人との長い交流の歴史の中で育まれた信頼関係が生み出した。遠い祖先にあたる狼にこの表情はできない。この表情は犬が人と共に生きてきた証。瞳は飼い主を信頼し、信頼に応じた態度を求めている。柴犬は遠く縄文犬の血を引く、狼に最も近い犬種にもかかわらず、この瞳で人と会話ができる。この関係は7千年以上に及ぶ。大陸から縄文人と共にこの島へ渡ってきた。新天地で生きるため、相棒以上の深い絆があった。野山を走り回って、狩りを助け、夜は獣の襲撃から人を守った。正に寝食を共にする運命共同体の一員だった。縄文遺跡に犬は丁寧に埋葬されている。骨折した痕跡がある犬もあった。狩に出られなくとも一生大事にされ、生活を共にしていたことがわかる。

日本人が縄文犬と歩んできた歴史は全てにおいて平坦ではなかった。戦争もなく平和と言われた原始的縄文時代は、2,500年前日本を襲った寒冷化の波で瓦解する。替わって、大陸から弥生人が稲作と漁撈、精銅、製鉄技術と共に渡ってきて、今の日本の礎を築く。一方で、弥生犬を連れてくる。縄文犬は縄文人共々歴史の闇へと消え去る。弥生犬には3つの仕事が与えられる。猟犬、番犬、そして食犬。食犬は、鎮護国家を目指し、仏教の教えに沿う1,350年前肉食禁止令によって緩和され、350年前の徳川幕府による生類憐みの令で救われようになるも、現代に至るまでこの役割は変わることはなかった。太平洋戦争下、逆に国家が牙を剥く。軍用犬として戦地に赴かせる以外に、戦争末期には畜犬献納運動を展開し、ペットの犬を供出させ、軍服に使う皮革としようとする。戦後の食糧難では、殺され、食べられていた。日本において犬を殺すことが全面的に禁じられるのは1973年動物愛護法の制定まで待たなければならなかった。僅か40数年前だ。ただ、今も食犬は禁じられていない縄文犬はこの7千年どう守られ、生き残ったのか?そして2,500年前にやってきた弥生犬はどうなったのか?

私が上海の浦東に住んでいた20数年前、普通に街で犬は食べられていた。通りの市場には処理された犬が吊ってある。冬の定番が犬肉の鍋で、食べると体が暖まると薦められた。中国にいた9年間、ザリガニだって、タウナギだって、ロバだって、ウだって、間違ってトノサマガエルだって食べた。ただ、どうしても”狗鍋”だけは食べられなかった。今もって理由がわからない。見るのも嫌だった。中国人から何故食べないのか、何度も聞かれた。彼らを説得する理由は『昔、徳川綱吉という将軍がいて、犬を食べてはならないと御触れを出した。食べれば罰されるので、それから日本人は食べる習慣を捨てた』全ての中国人がこの話で納得してくれた。しかし、私はそう言い訳しながら、はたしてそうだろうか?と自問し続けていた。中国では2008年に北京オリンピックが開催され、2010年に上海万博もあって、こういった世界に際立つ食生活は都会を中心に消えている。しかし、基本的に犬食は消えることはないだろう。何故なら、食文化は民族のアイデンティティーにつながる。近隣の韓国やベトナムも残している。15,000年前、狼から犬を生み出したのが中国であり、漢民族の食文化だけでなく、あらゆる文化に犬が絡んでいる。漢字のけものへん”“は横たわる犬を表している。神に捧げる生贄としての姿だ。犬は神に通ずる神聖な生き物だった。犬を食することにより神に近づく。犬は9,000年前には既に家畜としている。中華圏にとって犬食は伝統だ。食文化は往々にして神聖な部分を等閑にして伝わっていく。犬食文化は韓国に8,000年前には伝わっている。ベトナムには遺跡は見つかっていないが、犬のルーツから中国の山岳民族に辿り着く。紀元前より犬は食べられていた。日本には2,500年前に辿り着く。しかし、その頃には既に縄文文化があった。犬を食する文化はなかった。この文化はアボリジ二がオーストラリア大陸に縄文犬と同じルーツのディンゴを連れてきたことと繋がる。縄文犬同様大事にされ、食べられることはなかった。不思議なことに中国に隣接するモンゴル人も犬を食べることはなかった。遊牧の民と漂浪の民。海にしろ、砂漠にしろ旅する民は、いつも危険に対峙して生きていかなければならない。身を守ってくれる犬という相棒を死ぬまで一緒にしていたのではないか。神に捧げず、同胞とし、終生を共にした。

日本人には、縄文の痕跡はもはや10数%しか残っていない。もはや80数%は弥生以降渡来した東アジア人が占めている。しかも縄文人は文字を持っていなかった。文化の伝承はできなかった。日本の歴史は全て、渡来人によって作られたと言って過言ではない。例えば、「犬も歩けば棒に当たる」と言う諺を、我々は、動き回れば何かあるものだと考える。これは思いがけない幸運かもしれない。しかし、韓国では、今も犬を料理するのに棒を使うことを知っていれば、一寸先は闇とわかる。日本においても犬を食べていた証拠に違いない。更に縄文系がまだ色濃く残っている地域の人に犬を飼う人間が多いかというとそうでもない。例えば、人口比で犬をペットにしている人間が多いのは四国で、香川が1位、高知が4位。三重県は2位、いずれも渡来人の多い地域。しかも四国は弥生犬の遺伝子を一番多く持つ四国犬の産地でもある。決して縄文人の遺伝子が犬好きにしている訳ではないことがわかる。すると殺傷を禁じた仏教の教えに従ったかというと、弥生時代から連綿と続いてきた犬食の歴史の理由がつかない。仏教に従えば、あらゆる肉食はなかったはずで、禁止令が度々出される訳がない。韓国を例に挙げると、日本より早く、仏教を受け入れ、肉食禁止令も数限りなく出していて、宗教心も日本人以上にもかかわらず、犬を食べることをやめることはできない。決して他に食べ物がないからではない。ベトナムも同様。日本人の犬への見方が、やはり終生の相棒としてきた縄文人やアボリジニと同様の7,000年に及ぶ慣習からしかないことに辿り着く。

私の小さい頃、飼っていた雑種の犬は、ほぼ弥生犬の血筋だった。耳の垂れた細身のどこか悲しげな赤毛の中型犬だった。必ず残飯を食べ、文句も言わず、庭に放たれていた。子供のおもちゃであり、家の番犬だった。チャッピーという名だった。私が小さい頃テレビで放映されていたアニメの宇宙少年ソランに登場する🐿️の名前から取っている。僅か数年我々と生活し、事故で車に轢かれて、天に召された。私はその頃小さく、記憶に余りないのだが、仕事に忙しい父より、実際は母が面倒を良く見ていた。散歩も食事も母の役割だった。母はこの犬とのたわいもない会話を楽しんでいたことを思い出す。今も亡き母と一緒に仏壇にこの犬の遺影が飾られている。母は亡くなる前も姉の飼う犬と仲良く暮らしていた。思い出すと、祖母の家にも犬はいた。犬は当たり前のように庭で寝ていた。これが日本の原風景だったに違いない。弥生犬は生き延びた。庶民は受け入れていた。洋犬であろうと受け入れて、雑種を繰り返しながら、時には迫害されようと。血統書なんて関係ない。これが弥生犬の生きた2,500年ではなかったのか。

柴犬は、現在、日本犬としては最も飼われているペットにも拘らず、天然記念物に指定されている。日本固有種として認められ、国として守るべき犬にも拘らず、一般国民に命が委ねられ、販売され飼われていることになる。戦前、国粋主義の一貫として、日本犬が見直された。犬は人に忠義を尽くす。忠犬ハチ公を思い出す。その頃、日本犬はペットとしての価値は低かった。人がペットとして求めるのは愛玩用で、日本犬のような地味で単なる番犬向きや猟犬気質は合わなかった。明治以降、ペット好きはほぼ洋犬に走った。洋犬は愛玩用に人為的に作られた犬だった。今もこの流れは変わらない。その頃の主な日本犬は弥生犬であり、血統書もへったくれもない。ただ庶民の生活の中にいた雑種の番犬だった。洋犬との雑種も進み、純粋な日本犬を問うのであれば、山間僻地に向かわなければならなかった。其処彼処に柴犬はいた。柴とは野山に生える雑木、言わばどこでも見かける雑草のような犬だった。だからこそ、2,500年の間、最も原始的な縄文犬の血は実に守られていた。戦争があった、敗戦後の食糧難があった。柴犬として最初に認定を受けた石州犬、更に越の犬もその後滅んでいる。それでも彼らは雑草の如く生き延びる。柴犬に不動の地位をもたらしたのは2000年代に入ってからだ。これは国に関係ない。国境を容易に越えるブログの力、正にインターネットミームの力だ。ネットを通し、世界中に柴犬の魅力が認められる。名もない女性が発信した映像が、見るものの心を動かした。この柴犬は育てたブリーダーの破産から、市によって殺処分を受けるところだった。メス犬、名は”かぼす“昨年5月に18歳で天に召された。しかし、彼女の肖像は今尚、世界中に影響力を持って生き続ける。ドージ(DOGE)の名の元に。🇺🇸でトランプ大統領の下、イーロン・マスク氏は今年、政府効率化省(Department of Government Efficiency)を立ち上げる。これはDOGE、シンボルは柴犬”かぼす“なのだ。柴犬の魅力をイーロン・マスク氏は理解している。人為的に作られることなく、原種の狼の血を守り続けて、7000年生き延びた犬であることを。

柴犬の平均寿命は14才、日本人の平均寿命が84才に比べたら1/6。ただ、1昔前は10年生きたら良い方だった。狼の平均寿命も10年に過ぎない。今はワクチンを何種類も打ち、生活環境、食生活の改善が進み、長く生きられるようになった。柴犬の寿命は年々長くなり、20才以上生きた例もある。犬の中では長生きの種族、世界で堂々3位に君臨する。死亡原因は腫瘍、神経疾患、心臓病、どうも飼い主たる日本人の一生をコンパクトに表している気がしてならない。私は膀胱癌で苦しんだが、柴犬もなる。前立腺肥大だってある。癌については猫以上に人間に近い。因みに猫が日本で飼われるようになったのは1,300年前で、犬に比べたら新参者になる。ナショジオによると、『シカゴ大学を初めとする国際研究機関から集まった研究者らは、ヒトとイヌの遺伝子を調べ、複数の遺伝子グループが何千年にもわたり並行して進化していたことを発見した。これら遺伝子は、食事や消化、そして神経学上の作用や疾病などに関連するものだ。』人と犬が如何に一緒に生きてきたかの証明になる。我が娘はフランスから帰ってきて、初めて、ペットの豆柴JOYに会ったのに、既に躾を始めたのには驚いた。我が家で犬を飼うのは初めてだった。手を傷だらけにしながら、会話を楽しんでいる。これこそ、日本における長年に渡って培われた人と犬の絆を証明している。私が死んでも娘はこの犬を守り続けるだろう。孫も次の孫も犬と共に生きていくことが目に見えるようだ。虹の橋を豆柴JOYと渡りながら、見つめていきたいものだ。

参考資料:犬が持つ4つのDNA情報を分析し犬種ごとに分類するとこんな感じになる 誰もが弱い「子犬のような目」 人との交流で進化 日本の獣肉食の歴史 犬猫を食べる文化は日本にもあったのか? 犬はいつ日本に来たの? 犬と日本人との長い歴史  動物たちにぬくもりを! 日・中・韓三国の言語における犬文化の考察 北朝鮮「犬は散歩する相手ではなく、食べるもの」犬肉食禁止法を制定した韓国との違い 犬を食べるのは残虐なのか? インドのナガ族「犬肉はごちそうだ!」 ⽇本のイヌの歴史 ゆかしき世界 イヌとヒトは共に進化した

我が家に🐕”JOY”がやって来た

豆柴”JOY”、5日前、ブリーダーさんの所へ家族全員、車で迎えに行き、私が抱きかかえて連れてきた。女房が運転、娘が助手席。法規定の生後56日が過ぎている。購入残金のお支払いは車の中、子犬を抱きながら、ネットバンキングで、便利だ。この子との出会いは1ヶ月前。生まれて65回目の記念すべき年を迎えるにあたり、山行きの相棒を豆柴と定めた。豆柴は静かでコンパクト、山へ向かう電車や自転車でも乗せられるのではと思った。昨年、山で逢った豆柴が小さいながらも逞しかったことを憶えている。家族の合意の元に求めることとした。特に娘の合意が大事だった。老いさらばれた後を考えたからだ。もし先に亡くなっても犬を不幸にはできない。娘に後見人になってもらう。女房も娘も豆柴ならいいと言う。可愛いからに他ならない。更に昨年末、年金保険が満期になり、更に今月から公的年金も頂ける。犬を飼うと決めてから倹約にも努めた。子孫にお金を残しても仕方ない。寧ろ生きている間に使い切る覚悟を決めている。家族も諦めているようだ。遺族年金もあるじゃないか!(言い訳)

近くにペットショップがあるが、近所のフレンチブルドッグのブリーダーさんから犬を飼うならその母親に会うべきと言われていた。性格は母親似、これは人間にも言えるのだが、母親を見れば子がわかる。うちの娘も女房そっくりの性格になっている。世の中そういうものだ。ということで、母親に会うのであれば、ブリーダーから買うしかない。ネットで調べるとみんなのブリーダーが先ず目に入る。一番人気のサイトのようで、犬種別に全国のブリーダーさんと共に子犬の紹介と購入費用が紹介されている。他にも犬の飼い方、躾の仕方、ペット保険、微に入り細に入り、詳しく情報が散りばめられている。正にワンストップサイトになっている。最早、迷わずここから子犬とそのブリーダーさんを探すことにした。

子犬の購入費用は30万円以下(犬の生涯費用はこの10倍と聞いている)、車で行ける範囲内にあるブリーダーさんとした。会いに行き、迎えに行き、何かあったら相談に行くためとした。豆柴のブリーダーは何故か九州に多い。しかも安い。一方、東京と神奈川は高い。40万円以上、群馬、栃木も安いが遠い。高速料金もバカにならない。狙い目の埼玉、山梨にこの時、子犬が紹介されていなくて、丁度、茨城県南で高速から近いブリーダーさんが豆柴をサイトに275,000円で載せていた。生まれて1ヶ月の可愛い子犬だった。ブリーダーさんは稲崎真弓さん。予算、場所とも許容範囲内なので、迷うことなく、即予約し、家族全員で会いに行くこととした。

3月初旬、今年は三寒四温が激しく、暖かい日もあれば、寒い日もあり、雪の降る日さえあった。会いに行った日は少々寒かったが、晴れた日だった。常磐高速では事故が2件あり、若干遅れたが、無事ブリーダーさんのところに辿り着いた。霞ヶ浦の南、つくば学園都市に道路で繋がっていて、新興住宅地が広がっている。しかし、まだ耕作地も残っている、犬を育てる環境がまだ残っていると感じた。ブリーダーさんのお宅は犬のためにあるようで多くの豆柴に占領されていた。お目当ての子犬は、茶色で、コロコロと小さくて、面談室らしきところに連れて来られると、地べたでおどおどし、顔も上げず、早く兄弟のもとへ戻りたいのか、逃げ回って、面接にもならない。まだ生まれて1ヶ月なのだから仕方ない。子犬のご両親にもご挨拶した。母親と言われる方は茶色、元気に走り回っている。父親と紹介された方は黒毛、おっとりと構えている。私には両親かどうか判断できなかった。親の性格なぞ簡単にわかる訳ない。寧ろ、私が購入を決めたのは、垣間見られた家族関係だった。帰り際、子犬は兄弟の元に戻ると皆で丸まって寝ていた。この姿が余りにも愛おしくて、この子を引き取り、幸せにしたいと無性に思った。家族も同じ思いだった。前金は8万円、車の中でネットバンキングで支払った。

私は亡き義父の家の2階で寝ている。もう七回忌も過ぎた。この家の1階は誰もいない。この1階のリビングを全て子犬に渡すことにした。面談から帰って1ヶ月、準備に奔走した。8畳ほどにジョイントマットを敷き、ハウスを置いた。周囲にはワイヤネットを張った。庭への落下、他の部屋への突入、階段昇降を防止をするため。最終的にマットの隅にトイレシートを敷き詰めていくことになる。私が寝起きする2階はロフトになっていて、子犬の状況を確認できるようになっている。子犬にはいつも庭が見える。ここで2ヶ月半頑張ってもらう。築20年、クーラーは壊れ、ガスも止めていた。子犬を迎え入れるため、ダイソンのホット&クーラーを購入し、ガスも再開した。

待ちに待った引き取りの日、子犬は静かで、相変わらず下を向いている。なすがままという感じだった。引き取られていく運命を甘受しているのか。ただ、持ってきた子犬用のバッグに入ることだけは拒んだ。ブリーダーさんが抱っこして連れて行ったほうが良いと言われたので、そうしてみた。子犬は逆らわない。子犬の家族に別れも告げず、一緒に車に乗ってしまった。後悔が残る。ただ、子犬は、私の胸で2時間以上、哭きもせず、吠えもせず、暴れず、寝ている。なんて愛おしいのか、いよいよ我が家の一員になる。名前は”JOY”としていた。娘が付けた。YUKIの20年前にヒットした歌の名だ。

この唱の中で好きな歌詞を抜き出してみた。

いつか動かなくなる時まで遊んでね
百年先も傍にいたい

どんなに離れ離れでも
ふたりをつなぐ呪文はJ・O・Y

樫の木が揺れる日は、
すぐに思い出してね。私を。

死ぬまでドキドキしたいわ
死ぬまでワクワクしたいわ

この歌詞から娘は”JOY”を豆柴の名前として相応しいと思ったのではないだろうか。この歌に樫の木が出てくる。この木が意味するのは、どんな困難が訪れても、決して屈せず、揺るぎない意志を持っていること。樫の木は根がしっかりと地に根ざし、嵐が訪れても決して倒れることはない。忍耐強い。流石に人も犬も100歳までは無理だろう。ただ、死ぬまでこの豆柴と生きていきたい。”JOY”への永遠の愛を込める。私が死んでも、”JOY”に樫の木を見たら、私の愛が永遠だったことを思い出して欲しかった。”JOY”は賛美歌でもでてくる。Joy to the world、クリスマスキャロルの定番だが、実際、この曲は神学者Isaac Wattsが1719年に書いたイエスキリストの復活を祝う春の歌だった。

この歌で好きな言葉を記す。

罪と悲しみはもう増えるな、
イバラは地をはびこらせるな。
主は祝福を流すために来られる

世界平和を祈る歌。キリストを信じる人々よ、ロシアよ、目覚めよ!と言いたくなる。

他に忘れてはいけない歌、カリフォルニアで生まれたグループThree dog nightの歌うJoy to the worldがある。このグループ名は、アボリジニが寒さの厳しい夜に3匹の犬と寝るという風習にちなんだと言う。この3匹の犬はディンゴに違いなく、柴犬同様、狼に近い犬。親近感が持てる。この歌は1971年リリースで、ヒッピー色が強い。キャロルに対し、喜びを得るとは神から与えられるものではなく、プリミティブに愛し合うことだと言っている。宗教を超えた愛がここにある。

この歌で好きな言葉を記す。

もし私が世界の王なら
何をするか教えてあげよう
車だけじゃなく
障害も戦争もなくして
君と愛し合うんだ

世界に喜びを
男の子も女の子も皆に
深く青い海の魚たちにも
君と僕にも

あらゆる文明も障壁も戦争も乗り越えるのが愛。愛こそが普遍で、差別も偏見もなく、全てに喜びをもたらすと歌っている。愛と喜びが繋がっていることが分かる。

子犬は基本的なワクチンを打つまで、外を歩けない。庭もダメ。これからも厳しい2ヶ月半になる。生まれてから5ヶ月近くは家に閉じ込められることになる。我が家から🚲で20分ほど、小金井公園がある。この時期は桜の園になる。今日、桜が満開。愛犬家が集まる公園としても有名だ。春の陽の下、飛び跳ねる子犬ほど相応しく、可愛いものはない。公園の至る所でペットの撮影会が繰り広げていた。来年こそJOYの撮影会としたい。豆柴JOYと花吹雪の舞う桜の園で一緒に春を満喫したい。

豆柴JOYが我が家に来てから、家の中に新たな灯りがポッと点いた。この灯りは新たな希望であり、喜びだ。春の訪れをいち早く告げにきた。彼がいる限り、微笑みが我が家から消えることはない。彼を抱きしめるたびに喜びは増し、元気に飛び跳ねる姿を見ては嬉しくなる。無邪気な後ろ姿に心が暖かくなる。豆柴JOYは我が家に降りてきた天使のようだ。彼の一生は我々に比べ、短いには違いない。しかし、短かければ短いほど、家族の愛は濃くなる。愛おしさが更に増す。ペットと一緒に虹の橋を渡って来世に行きたくなる飼い主の気持ちを今実感しつつある。彼と生きる旅路は今始まった。

参考資料:樫の花言葉 | 大地に根ざす不屈の力が伝えるメッセージ

虹の橋を渡る

初めて、「虹の橋」という言葉を耳にしたのは数年前だった。可愛がっていたペットが虹の橋に行ってしまったと壮年の夫婦が仰っていた。話しの筋としては、亡くなったと言う意味かと思われた。その後も「虹の橋」の言葉を聞くことがあり、ペットが死んで、天国へ向かったと勝手に思い込んでいた。実際はもっと深い言葉と知ったのは自分がペットを家へ迎えることを決めた時だった。

65才を迎えたら🐕を飼おうと思っていた。還暦で定年退職し、この5年間、野には自転車、山には登山靴と十二分に走り、歩き回った。何も思い残すことはない。自分の人生を75年(父の亡くなった歳)+α(希望)としていた。いよいよ、”その時“が迫ってきている。🐕の平均寿命は14才、そこまでは生きたいと言うだけでなく、元気に生きる。🐕と一緒に余生を楽しみたいと思った。散歩し、花を愛で、山に登り、旅をする。自分が元気でなくては🐕と暮らせない。豆柴を選んだ理由はここにある。旅にはリュックに詰め、向かう。電車にもバスにも乗りたい。そして山へ向かう。日に2度の散歩、自分をも鍛える。様々な所に自転車で連れて行きたい。今までは1人気ままに訪ねていた所に🐕と一緒に。そして最後に虹の橋が待っている。この橋は🐕だけのものではない。実は、私も一緒に天国へ渡る橋なのだ。

虹の橋•••作者不詳の散文詩の主題として取り上げられ、1980年年代頃に作られたと考えられていた。この詩は、ペットを失った動物愛好家のあいだで広く知られるようになり、最初はアメリカで流布していたが、世界中に広がり、日本でもこの詩の原文や翻訳、またそのバリエーションも広がっていた。ところが1昨年の2023年にこの詩は1959年にスコットランドで当時19才の女性、エドナ・クライン・レキーさんが失った愛犬メイジャーのために書いたものと判明した。この詩の概要は下記の通り、

天国へと渡る「虹の橋」があります。

愛された動物たちは、この世に別れを告げ、この虹の橋の袂に辿り着きます。そこには緑の草原が広がり、多くの友達もいて、走り回り、思い切り遊べます。ぽかぽかと降り注ぐ日差しの下で美味しいごはんを食べ、綺麗な水を飲んでいます。病死だったり、寿命を全うした動物も、元気になり、活力に溢れています。怪我をしたり、不自由な体だった動物も、元の健康な体になり、生き生きしています。私達の記憶と夢の中にある、あの元気だったあの頃のように。

動物たちは、みな満足して安らいでいますが、1つだけ足りないものがあります。特別だったあの人がそばにいないのです。

ある日、あの子は急に立ち止まり、目を凝らします。キラキラ光る目が一点を見つめ、希望と喜びに体が震えます。突然、弾かれたように走り出します。草原の上を飛ぶように走ります。足が、もどかしく宙をかきます。早く、早く…

あなたを見つけたのです。

あなたとついに再会できたのです。固く固く抱き合います。もう2度と離れません。幸福のキスがあなたの顔に降り注ぎます。

あなたは優しく何度も体を撫でます。頭を撫でながら、信頼にあふれた真っ直ぐな目を覗き込みます。決して忘れることのなかった目を。

そして、あなたは虹の橋を渡り天国に向かいます。愛するあの子と一緒に。

虹を渡って天国に行くこと、そして天国に動物も行けること、これは従来の宗教にはない死の捉え方で、発想の元は、1939年公開された映画”オズの魔法”で使いで歌われた”虹の彼方にではないか?

私と同世代のハワイの歌手がいた。イズラエル・カアノイ・カマカヴィヴォオレ、彼は1997年6月26日 午前0時18分、愛する妻と一人娘を残したまま死去した。享年38歳。同年7月10日に行われた葬儀の日にはハワイ州旗が半旗掲揚となり、平日であったのにもかかわらず1万人以上が集まった。遺骨はハワイの海に散骨された。この様子がMVに流れている。彼の歌う”虹の彼方に“は涙なしでは見られない。虹の州ハワイならでは。ハワイは冬季驟雨が降り注ぐ、虹が発生しやすい状況を生み出す。🌈に逢えるとハッピーになれるとされている。私も数十年前、鯨を見に訪れた時、オアフ空港で早速🌈が迎えてくれた。この感動は忘れられない。

何処か、虹の彼方 青き空の遥か先
かつて子守唄で聞いた
思い描いた全ての夢が、
叶う場所がある

いつか、私は星に願う
目覚めると雲は遥か彼方に消えて

レモンの雫のようにすべての困難が
溶けてしまう
煙突を遥かに見下ろして
そこに私はいる

何処か、虹の彼方
青い鳥たちが飛ぶ
鳥たちは虹を越える
私だって一緒に越えられる

老いて死を迎えることは自然の摂理で、誰も抗うことはできない。今をどう生きるかが全てで、死んだら土塊に戻れば良い。問題は、死を迎えるまで、如何に苦しまず、楽しく、笑って、生を全うできるか。犬を面倒を見るのは大変ですよと心配する声が圧倒的に多い。もう私には親もいない。子も育った。時間は多分にある。借金はなく、物欲もなく、還暦まで必死に働いたおかげで死ぬまで困窮で苦しむこともない。長年の病気とも戦い、健全な体を得て、この年まで生き延びることができた。後は「虹の橋」をどう渡るかになっている。🐕こそ、この橋を渡る終の伴侶と見定めた。いよいよ明日迎えに行く。生の限り、最上で最良の愛をこの🐕に捧げたいと思っている。I love Joy forever and ever.

参考資料:虹の橋:歴史上最も影響力のある動物の哀悼文学の背後にある真実の物語 虹にまつわる話(神話・伝説・民話など) 虹の橋の詩はどんな物語? 

老いを生きる術4選🗻🛌🧔‍♂️🐕

いよいよ、政府公認の高齢者の仲間入りができる65歳👏👏👏!年金を満額戴けるようになる。ありがたい🥲。友人の中には既に鬼籍に入ったものもいる😭。一生懸命働き、税金を払い続けてきたにも拘らず、年金も貰えず、この世を去るのは実に寂しい。生きていさえすれば年金が下りてくる。年金のみで生活なんて到底できないが、生きていく足しにはなる。しかし、老いを迎えて生きていくことはそう生易しいものではない。老人はいつ死んでもおかしくない。運良く永らえたとしても呆けが襲ってくる。75歳以上で10人に1人80歳を超えると5人に1人認知症にかかる。問題は要介護75歳を超えるとほぼ4人に1人が認定を受けるようになる。自分のことができなくなった時、人生は自分のものではなくなる。楽しい年金生活なんてアッと言うまで、後は暗黒の世界が待っている。75歳がボーダーで、10年間がやりたいことをやれる正に勝負の時になる。今までの蓄えを全て注ぎ込むべきだ💪。尤も日本の男性の平均寿命は81歳なので、75歳で要介護になっても6年も我慢すれば永遠の安らぎの世界に入れる。老いを生きるとはどう言うことか?限られた時間と資産を見つめながら、衰える肉体と精神と知能と共に生を全うすることだ。生きるとは身の丈にあった人生の旅を楽しむこと。今を生きる喜びを噛み締めること。そのために何をすればいいのか?余計な鎧や兜は脱ぎ捨て、身軽になって一歩でも前に歩み続けること、そして老いを理由に全てを諦めないことそして何より終の伴侶を迎えることだ。

  1. 🗻は眺めるもの

老いてまず知らなければならないことは身の丈だろう。論語にあるように「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」、自らを弁え、決して若き日の幻想に溺れ、道を踏み外してはいけない。🗻は眺めるものであって、登るべきものではない。老いたるものは美を愛でる目はあるが、美を我が物にする力はもはや諦める。君子危うきに近寄らず。美しい景色に包まれ、美味しい空気を思い切り吸い、旅の終わりに、美味い酒と肴に舌鼓を打ち、温泉にどっぷり浸かる、それだけで良しとすべきだろう。身の丈に応じた登山計画と無理のしない山行き。老人は山へ向かう。何故ならそこに神はいる。天国が近い。死後の世界を垣間見られる。メジャーな山は若者に任せる。マイナーだって構わない。身の丈に応じた山を目指す。ヤマレコで紹介された🗻の見える山54座踏破をまず考えている。もう40座まで来ている。富士見不死身に通じる。吾も🗻を見て不死身にならん。🗻を様々な角度から見てきたが、顔がそれぞれ違うのが分かってきた。これがまたいい。あと14座、残りはほぼ静岡側になっている。どんなお顔を見せてくれるのか、今から楽しみだ。

2. 生きるための戦い(膀胱から前立腺から血糖値)…🛌ために

山へ向かうには体調を万全にしなければならない。老いは肉体の疲弊から忍び寄る。若気の至りで身体中、叩けば埃が出るのは当たり前。50歳代で抗癌治療から膀胱が萎縮した。間隙を縫って前立腺が我が物顔に肥大化した。膀胱を更に圧迫し、萎縮させる。頻尿が厳しくなる。夜、何度もトイレに起きなければならない。睡眠障害が心理的ストレスを引き起こし、血糖値を押し上げ、頻尿を更に誘発する。頻尿の相乗効果が起きていた。泌尿器科のクリニックに通っていたが、前立腺の肥大を抑える薬はもはや効かなかった。昨年1月、前立腺膀胱3倍になっている映像を見て、削除を決意した。3月に手術をする。半年経って、前立腺1/3になり、膀胱3倍に広がった。しかし、頻尿が治った訳ではない。抗癌治療による後遺症はそう簡単に治りはしない。相変わらず夜1回はトイレに起きている。ただ、頻度が減り、睡眠時間が最長5時間までいった。睡眠時間の確保は血糖値の押し下げに効果がある。あとは血糖値との戦いで頻尿を克服できる。そして、何より嬉しかったのは睡眠導入剤と鎮痛剤の量を半分にでき、泌尿器科クリニックに行く必要がなくなったことだ。手術を決して薦めたくないが、膀胱前立腺両方で苦しんでいる場合致し方ないと思う。

3. 髭🧔‍♂️は口ほどにものを言う

退職して髭🧔‍♂️を生やした。もうすぐ5年、老人に髭は有効と分かった。1番の効果は他者との距離が図れること。髭🧔‍♂️を生やしている人間に対し、大体の他人は構える。必ず不審人物と見る。大抵、そういう人間には近寄りたくない。マイナス効果だが、これで壁ができる。それでも近寄る人間は同種の人間と見ていい。同種の人間であれば話せるが、そうでなければ話す必要がない。2番目の効果は、世捨て人と思われ、相手にされなくなる。蔑む目で見られることもある。金のない人間を相手にする暇は世知辛い世の中にない。結果的に通俗社会との決別と自己の世界への耽溺に繋がった。女房子供からは嫌われた。貧相に見えるからだ。近寄らなくなった。一緒にも歩かない。これで自由になった。自分の世界に集中できる。あとは自分の世界の確立に他ならない。これが第3の効果。老人には残された時間がない。相手にされなくてけっこう。寧ろ老人は自分の残された人生に集中しなくてはならない。他人からどう見られようと我が道を行く決意が必要だ。髭🧔‍♂️を生やすことは老いを生きる必須アイテム。次に自ずと進むのが断捨離。世の中からfade outする準備。老人の孤独死の問題がクローズアップされているが、可哀想なのか?本来、老人は隠居し、孤独を楽しみ、孤独の中で死んでいくべきなのではないか。その死に方に問題がある。他人に迷惑をかけるから問題なのであって、そうではない死に向かう王道を歩むべきだ。煩わしい人間関係は清算すべきだ。これは友人、肉親、親戚に対しても関係を断つ。終活、スッキリする。定年を迎え、久し振りに友人に連絡を取った。彼らが恐れるのはまず会うことにある。用があるから会いたいのだろう。定年を迎えた友人が会いたいと言うのは、一様に職の紹介か、借金かと疑うようだ。最早関係のない旧友は煩わしさをもたらすものでしかない。一昨年、母と伯母を立て続けに失った。母は94歳、伯母は100歳を越えていた。親戚との繋がりがここで切れたと感じた。年とともに親戚付き合いの意味も失う。宗教上の繋がりや、共通する地域コミュニティーがあれば別だが、何も利害関係がなければ会話は成り立たない。老人は1人正に荒野に向かうか、山に向かうべきだ。フランク・シナトラのマイ・ウェイが心に響くのはなぜか。人生の終わりに思った通り生きた喜びを自分も唄い上げたいからだろう。


さて、どうやら終わりは近いらしい
人生の幕は閉じようとしている今
友よ、打ち明ける
私の本心を
精一杯生きた
人生の旅路をまっすぐに
そして、何よりも
他でもない自分のやり方で

後悔?ないと言ったら嘘になる
気にするほどではない
なすべきことはやった
やり尽くした
己の路を
迷った時はより注意深く
そして、何よりも
他でもない自分のやり方で

身の程知らずで挫けたこともあった
でもその経験があったからこそ、
全ての状況を冷静な判断を下してきた
どんな困難に直面しても、正々堂々と胸を張って生きてきた
他でもない自分のやり方で

何のために生まれ、何を得たのか
己の望むがままになっていなかったら、何を得たと言えるのか
自分が感じたままに生きた
他人の言うがままにならなかった
それが荒波に抗って生きた証だ
他でもない自分のやり方で

そうだ、これが私の生き様だった

参考資料:マイ・ウェイ 和訳 フランク・シナトラ

4. 終の伴侶は🐕

山で🐕に会ったのはほぼ一年前になる。🗻を拝みに精進湖畔から標高1,418mの三方分山に登る途中だった。愛知県から若い女性のお供で来ていた豆柴。ほぼ零℃の極寒の中、健気にご主人の前後して走る姿が今も目に焼き付いている。この女性、歩くのが滅法早い。正に山女の鏡。車中泊し、朝5時前に出発している。真っ暗な山の中、零下の世界。私が2kmほどヒーコラ、ヒーコラ、ストック頼りに蹌踉けながら歩いて山頂に向かっている中、既に標高1,714mの鬼ケ岳から王岳を巡って21kmも歩いている。滑る岩を飛び跳ねるように歩く。平気の平左、舌を巻く。連れそう🐕も大したもんだ。こんな小さな体で…恐れ入る。私が追い付いて来ないのを女性の後ろから覗いてきて、どうしたの?と見つめる。パノラマ台でまたお会いできたのだが、もう可愛いのなんのって。🗻を背景に写真を撮らせてもらった。この女性、いつも山には🐕を連れている。ブログ名もワンコと登山になっている。私もかくありなんとこの時思った。そもそも🐕は🐺。野山を走るのはお手のもの。何せ🐻も同じ仲間。🐕は🐻をも恐れない。40,000〜15,000年前、🐕は🐺から進化したと見られている。人間は🐕と共に生き、滅びずに済んだ。ネアンデルタール人は🐕を味方にすることができず滅びたとみられている。🐕は猟を助け、他の獣の襲撃から守ってくれる。そして何より人類最初の友人だった。柴犬は縄文犬の血を引く。縄文人と共にこの島へ一緒に渡ってきた。7,200年前から我々の先祖と共に生きている。仲良くない訳がない。柴犬こそ、終の伴侶になると確信した。寿命は12〜15年という。何とか一緒に余生を過ごせそうだ。私にもしものことがあれば女房、子供に見てもらう約束をした。私が65歳になるこの春に家族として迎えるつもりだ。

参考資料:犬と人間のつながりの歴史。どうして人間は犬と暮らすようになったの? 大昔、人類が生き延びたのは「犬のおかげ」だった?

老いを生きる術を紹介した。要はピンピンコロリを目指して、生きていくことだ。🛌を得ることにより、最低限の体をキープし、柵から抜け出して、自分らしく🧔‍♂️生きていく。1人では寂しいので、終の伴侶🐕を探し、一緒に山へ向かう。死ぬまで、下を見ず、前を向いて歩いていきたいものだ。🗻はその美しい姿を見せて、待っていてくれるに違いない。

海道ぐるっと半老人1人旅🛫🚌🚃🚲さざなみ→とびしま→しまなみ(ゆめしま経由)

  1. 日本三大サイクリングロード半老人一人旅制覇!🥳

瀬戸内海の島々を巡りたいと思っていた。日本三大サイクリングロードの一つのしまなみ海道。昨年は荒れた天候で諦めた。既に二つは走っている。10年前にビワイチ、2年前につくば霞ヶ浦りんりんロードビワイチMTB鈴鹿越えして琵琶湖へ向かった。まだ元気だった。🇺🇸GTのTimberline、兎に角重い。山を下るに速いが、上るにしんどい。タイヤが大きく、重心が高い。安定しないので、砂利やちょっとした段差で転ぶ。到底旅向きではない。長距離走もきつかった。格好がいいので、年甲斐もなく、意地で乗っていた。何とかビワイチ287.64km2泊3日でクリアできた。次に向かったのがつくば霞ヶ浦りんりんロード筑波山登山も絡めた。163.33kmを2泊3日で駆け抜けた。🚴で東京から筑波まで走り、山を登り🥾霞ヶ浦を周回して帰るには労多くして益少なしで、最早🚲で走れるのはサイクリングロードのみの時代が既に押し寄せていた。輪行と長距離走の両方に向いた🚲を思い描いた。結果的に辿り着いたのがランドナーの🇨🇦LouisGarneauのBeaconだった。メビウスの輪のようなハンドルで一時は一世を風靡したが、過去の話、何故か?この🚲の最大の特長は安定した長距離走行を可能にしたところにあり、丈夫だが、何せ重い!20kgある。輪行可能としても🚃移動が大変。階段でまずへこたれる。担いでホームを歩くのでも肩がしんどい、大きいので🚃の中でも顰蹙もの。倒したら怪我をさせる。日本の道路は決して🚲に優しくない。車中心だ。長距離を走ると分かるが、自転車は車道が基本と言われながら、必ず自動車専用道路が現れる。自転車走行レーンが車道に書いてあるが、右折レーンができると消される。トラックが停まっているのは自転車走行レーン上になる。🚲は仕方なく人の道を通る。時には階段が待っている。しかもサイクリングロードと言いながら車道兼用が多く、結局、車から邪魔もの扱いを受けて走らなければならなくなる。これが日本の現状。りんりんロードも霞ヶ浦周遊は一部で酷かった。休日は走るものではない。車道で自動車と対等に渡り合うには最早ロード🚴しかない。速さ、軽さ、細さが勝負の世界。のんびりゆっくり風景を楽しみながら走りたい人間には縁のない世界になる。狭い日本そんなに急いでどこ行くの?と言いたくなる。

   ②さざなみとびしましまなみゆめしま折り畳み自転車

しまなみ海道は広島。若い頃は野宿しながら東京から向かったこともある。しかし、もうそんな時代ではないし、私も年を取った。今さら、のんびり走るスタンスを変えるつもりもない。如何に早く広島に行き、サイクリングロードへ入るか、検討に入った。調べれば、瀬戸内海を楽しむには他にもさざなみとびしまゆめしまとサイクリングロードがある。折角遠くから行くのだから、5日間かけてゆっくり巡ることを考えた。金はないけど時間は一杯ある半老人の特権!尾道から海道はスタートする。どう行くか?何れにしても輪行を前提に🚲を替えることにした。輪行日本の文化で、津波神風のように世界の言葉になっている。🚲を折り畳んで袋に詰めて公共交通に乗るのは日本特有。ただ折り畳み自転車自体は欧米が発祥。ネットで調べると🇺🇸Dahonが軽くて有名のようだ。専門店を巡って、試乗した。乗り心地もいいが、私には高嶺の花。近所にサイクルベースあさひがある。言わば🚲屋さんのコンビニで至る所にある。前の🚲も全てここで買っている。偶々立ち寄った時、私と同じくらいの年のおじさんが折り畳み自転車の修理に来ていた。親切なおじさんで、私がジロジロこの自転車を見ていると軽いですよと持たせてくれた。確かに軽い!軽いとはいえ丈夫そうだった。ルノーのエンブレムが付いていた。ルノーは車だけではないことを初めて知った。しかしブランド物は高いと思った。帰って早速ネットで調べる。🇫🇷RenaultのLight10、5万円しない。今までの自転車の半分ほどの費用。今度はどう買うかになる。よくネットで購入される方がいるが、私は薦めない。なぜなら、必ず購入後トラブルが襲ってくるからだ。特に初期不良が多い。私は特にタイヤで苦しんだ。以前は長距離を走ることが多く、走行後、次の日にタイヤチューブのエアバルブの破損が多かった。以前購入の🚲は全てタイヤを交換している。この🚲を探し、3店舗を回ったが無い!天下のあさひとは言え、そう在庫を持っているものではない。どうもあさひのネットで店舗指定で購入し、オプション込みで引き取るやり方が正解だ。注文して2週間ばかりして店から連絡があり、引き取りに行く。全て装着済みで受け取れるのが嬉しい。オプションはペダルを折り畳み可能なものにしたこと、コンパクト収納と輪行袋保護のため。泥除けを装着、雨天対策。ハンドル前面にスマホホルダー装着、これは基本!夜間走行用ライト装着。この店舗扱いになるので、アフターケアもしてもらえるので安心だ。しかも引き取り時、折り畳みと組み立てのデモンステレーションをしてもらう。簡単そうだ。以前と違い専用工具もいらない。調整用六角レンチ1個、問題ない。輪行にはLouisGarneauのBeaconの大きいバッグを使う。ただ、フレーム色をblackで求めたが、在庫がないのでwhiteになった。しかし、なかなか、白も映える。丈夫にできていて、軸のずれはない。安定している。しかし、スピードは出ない。まあこれは求めてはいないので問題ないが。軽いので坂も楽だし、小回りも効く。7段ギヤがシンプル。折り畳みも組み立ても簡単。軽いので持ち運びが楽で、コンパクト収納、電車内で他人の邪魔にならないのがいい。カゴがつけられればもっといいと思うだけだ。おいおい考えよう。

2. 広島までどう向かうか?移動手段の選択

今度は広島までどう行くかになる。東京から尾道まで850km、安く上げるなら🚞と思ってしまうが、🚅代がバカにならない。早く予約すれば、🛫併用の方が断然安い。しかも早く、肉体的、精神的にも楽だ。実際、尾道まで小平🚉始発、🚅利用だと5時間半、18,954円かかる。🛫併用だと、🛬から🚌と🚃乗り継ぎで5時間、12,899円になる。往復で12,000円以上安くなる。難点は早く予約するので、天候リスクを負うこと。乗り換えの輪行移動が大変なこと。やはり遠方旅行の難しさ、厳しさがある。天気は運を天に任せるより致し方ない。長期予報はAccuWeatherに頼るしかないが、結構当てになる。前回の壱岐・対馬の旅は大当たり。実は今回も大当たりした。最終日若干の雨模様になるも全行程ほぼ🌞。決行日は盆明けの8月、平日(半老人の特権)を基本とし、勿論晴天予報の5日間で8/22〜26とした。ここから2ヶ月前の6/24に🛫を予約し、宿泊先の選定に入る。キャンセル期限の6/26に🌞予報の変わらないことを確認し、宿泊の予約に走る。

3. 宿泊先の選定

宿泊先を選ぶ条件はまず3点、眺望♨️リーズナブルな宿泊代。それにがあればもっと良い。高い金を出せば、全てが揃うのは分かる。しかし、心の贅沢を金の浪費で賄うべきではない慎ましい旅の中に見合わない贅沢を味わうと喜びは増大する。身の丈に応じた旅こそ全て。一つの旅を安い費用で済めば、次の旅に浮いた費用を回せる。旅のコツに違いない(半老人の言い訳)。一番安上がりが🚲の旅になるが、交通費のかからない一方で、心と体の健全を保つことに苦心しなければならない。途中倒れたら、全てがオジャンになる。1日の距離を延ばせば宿泊費を削れる。若いとはそれで良かった。サドルで股が擦れ、湿布を貼って走った時もあった。距離を稼ぐため、日の出前に出発し、暗くなるまで走ったこともあった。過労と睡眠不足で路上で自転車に乗ったまま倒れ、意識を失ったこともあった。今はこんなことをしないし、まずできない。過ぎたるは尚及ばざるが如し体への過度の負担は自滅への道年を取るとわかってくる。体への負担を軽くする1日の走行距離は60kmまでとした。PCのGoogle mapでコースを辿りながら宿泊先を探していった。これはサイクリストの基本、ルートから外れるとそれだけタイムロスと体力消耗に繋がるからだ。道が長くなればなるほど、道から離れて泊まらない。今回見つけた宿泊先は実に良かった。全てルート上で、距離もちょうどいい。宿泊費もリーズナブル、眺望も抜群、何より風呂が最高だった。いい選択だった。予約していく。基本はネット予約だが、民宿はネット予約のできない場合もある。そのときは直接電話し、交渉をする。上蒲刈島の民宿あこうさんは2人以上しか泊めないと言われ、そこをなんとかと頼み込んで泊めてもらうことにした。予算もはっきり言って、1泊2食で11,000円でお願いした。実際は10,700円に値引きしてもらった。美味い肴に酒込みで嬉しかった。旅の醍醐味はここにある。旅に出るとは往々にして見ず知らずのところへ単身乗り込むもの。出発前、宿泊先に直接連絡を取っておくと安心感が違う。旅先では何が起こるか分からない。不測の事態は双方に起きうる。事前に連絡し、確認は必要だ。私は🚲で向かうので、遅れる場合もあると連絡を入れておいた。今回は、最悪の場合を考えながらスケジュールを組んでおいた。明るいうちに宿泊先に着くことばかり考えていた。かと言って、冒険心はまだあり、🚲で上れる山であれば向かうことに躊躇しなかった。結構しんどかったが。

1泊目瀬戸内の宿 竹原シーサイド:ネット予約:素泊まり4,437円+電話予約朝食代1,200円 さざなみ街道尾道駅から29.8km、途中🐰島に渡る。 2泊目島宿 あこう:電話予約:2食付き11,000円とびしま海道上蒲刈島 竹原シーサイドから52.4km、途中大芝島を一周 3泊目しまなみプライムホテル今治:ネット予約:素泊まり11,430円+電話予約朝食代1,320円 しまなみ海道起点今治、岡村島から船、島宿 あこうから岡村港まで29.6km、途中物見台に上る。 4泊目瀬戸田垂水温泉:ネット予約:2食付き7,500円  しまなみプライムホテル今治から41.3km 途中亀老山展望公園に上る。最終日瀬戸田垂水温泉から尾道駅まで58km 途中ゆめしま海道に入る。

2024.08.22 羽田🛫…🛬広島🚌..白市🚉🚃..尾道🚉🚲さざなみ街道..忠海港🛥️..🐰島..🛥️忠海港🚲..瀬戸内の宿 竹原シーサイド

4. いよいよ出発 🛫に乗り遅れそうに、更に🥵、🚲トラブル、初日から大変!😰

出発の日、東京の空はどんよりとしていて、先行きに不安を感じるには十分だった。新しい🚲は軽い、🚉に着いて折り畳み、輪行袋に詰めるのに10分とかからない。階段も楽に昇り降りでき、車内でも幅をきかすこともない。尤も朝一の🚃だったからだが、時期も夏休みで、車内も空いていたのも幸いした。ただ、問題は羽田🛫だった。チェックインカウンターが分からず、モタモタしていたところ、間に合わないと言われた。次の便にして欲しいと言われた。輪行の場合、20分前にはチェックインしている必要があるそうで、輪行バックを担いで走らなければ間に合わなかったようだ。何とか載せて欲しいと頼み込んで、助けてもらったが、顰蹙ものだった。🛫の出発が遅れたのは私の所為かと思われ、肩身が狭くなる。いつも乗る前にサンドイッチを買うのだが、結局時間がない。🛬から降りても、輪行バックが荷物受け取りのベルトコンベアから流れてこない。係員に聞くとカウンターで別途受け取ることになっているそうで、これも聞いていなかった。バスに乗るのもギリギリ、白市🚉に店も何にもない。おかげで朝飯が食べられないまま、尾道🚉まで辿り着くことになった。ただ天気がいい。西に行くにつれ天気が回復していった。🗻が✈️から見えた。広島🛬からは青空が望めた。尾道🚉に着く頃には真夏の空、30℃は優に超える暑さになっていた。寧ろ熱中症に罹ったようで😵‍💫になる。食欲はないが、何か食べないと🚲を漕ぐ力が生まれない。尾道🚉の南口改札口を出て駅中央に私のような旅人向けに案内所がある。地元の方らしき女性が2名座っている。大助かりだ。食事ができるところを伺うと🚉隣りにパン屋さんがあるとのこと。早速向かう。リトルマーメイド、広島発祥のパン屋さん。輪行袋をそのまま外に立てかけ、兎に角腹に溜まるパンとミックスジュースを頂く、腹が落ち着いたところで、🚲を組み立てなければならない。専用の場所があるかもしれない、ということでまた案内所に逆戻り。やはりあった。👍しまなみ海道の起点と納得する。尾道🚉の南口は海に向かっている。海に向かって東側線路沿いに専用組立場、広い。しかし、🥵、日差しが違う。組み立てながら頭が😵‍💫してきた。出発前に駅のトイレに行き、顔を洗った。🚲はそばに停めた。さあ出発、走り出すとペダルが動かない。嫌な音がする。チェーンロックがギヤに絡んでいる。外すのを忘れていた。この時はまだ傷は浅かった。気を取り直すために駅の2階に上がってみる。駅舎は5年前に建て替えられたばかり。2階は見晴台ばかりか、バーもあり、宿泊施設にもなっている。🚲は駅前に停め置いた。海を越えて向島が望める。戻りはこの島からになる。気を引き締めて出発のつもりだった。🚲に跨り、思い切りペダルを踏んだ。ギヤが悲鳴を上げた。またやらかした。今度は致命的。完全にチェーンロックがギヤに挟まった。抜き出すのにロック部がちぎれた。ギヤもずれた。最早助けが必要だった。また案内所に戻る。3回目、自転車屋を聞く。海に面して専門店があるとのこと。駅を出て海沿いに左へ、渡し船の発着場の近くにあった。尾道ベース@レンタサイクルステーション、まだできて5年と新しい。入ると早速🚲を見てくれる。ギヤを補正してもらい、新しいチェーンロックを買って、現金で8千円ほど支払うことに。熱中症で頭もぼんやりしており、結果については致し方ない。出発前に🚲の整備もできて良かったと思わざるを得ない。尚、修理を待つ間休めるように、隣りにうまくできていてジュースを売っている。尾道ベース@2nd柑橘スカッシュ、500円、一気に飲む、搾りかすが残っているので、更に水を入れてもらい、搾りカスまで綺麗に食べた。これが効いた。頭がスッキリした。出発前に厄落としに成功。5日間頑張れると確信した。実際その通りだったから不思議だ。

5. さざなみ街道を走る  青い空と白い雲、そして藍色の海

さざなみ海道に入るといっても走るのはほぼ一般道でしかも都市間を繋ぐ幹線になる。兎にも角にも呉まで海岸線を走るのみ。一見走りたくなくなるが、さにあらず。この道にはこの道なりの醍醐味がある。他のサイクリングロードにはない、海の近さ、空の広さ、海と空の境を彩る島々の迫力静かな内海に漣を与える船影島々を繋ぐ橋、島には家並みが望め、生活の息吹を感じる内海なればこそ、防波堤が低いからだ。正にこの風景がこの道の生命線になる。この風景を望めないなら何のためにこの道を走るか分からない。この道を走るなら下記三点が基本、まず尾道から呉に向かう。左側を走るので、海を感じながら走れる。次に晴れの日を選ぶ、路肩ギリギリに防波堤、トラック、ダンプが走る危険な道。更により海を感じるため、国道から外れ、漁師町に入る。スマホのGoogle mapで海沿いの道を探しながら走る。行き止まりに要注意。小一時間丁度疲れて一休みしたい時に海沿いに喫茶店が現れる。カフェネジロ、一見アンティークショップと見紛うが、2階が喫茶店になっている。海を自分のものにできる時間を満喫できる。席が海に向かっており、行き交う船を見ながらコーヒーを飲むのは最高。このような店を探せるのはのんびり走る人間だからこその特権かもしれない。もう昼もだいぶ過ぎており、ランチをしても良かったのだが、🐰島で♨️に入りのんびり過ごそうとこの時は思っていた。甘かった。スタートが遅過ぎた。三原市街地は避け、海沿いに須波海岸に着く。この景色は極上。この暑いのに海に出ている人が少ない。既に海水浴場が閉じている。勿体無いような気がした。どこまでも広がる夏の青い空にすじ雲、うす雲、入道雲が迫力をもたらす。藍色の海は静かだが、潮の流れの速さを感じさせる小波が微妙に揺れ逆立っている。これも瀬戸内海ならでは。ただ、幸崎の先から電車道のみ海際を走り、車道が山に入っていく。これが勿体無い。🚲だけでも走れるようにできないものなのかと思ってしまう。

6. 🐰島 癒しの🏝️

小高い山を越え、🐰島へ向かう。正式名は大久野島、港は忠海、ここから渡し船に乗って🐰島へ 。忠海の桟橋に着いたのは最早午後3時前、丁度渡し船が着くところだった。島には国民休暇村があり、宿泊施設だけでなく、日帰り温泉もレストランもある。この時間で温泉に浸かって酒呑んでとやっていると、宿にちゃんと着けるかわからなくなる。温泉は諦めた。しかし🚲だけは港の駐輪場に置いた。時間があれば島を一周できたが、先もあるので、これも諦めた。遅くなったが、昼飯を取りたい。休みたい。それで我慢。急ぎ、往復の乗船チケットを購入し、船着場へ向かう。平日とはいえ夏休み、やはり家族連れが多い。🐰のサンクチュアリーのような島として有名。ただ、戦前は毒ガス製造を日本で唯一行っていた。1929年から1944年にかけて、のべ6,500人が働いていた。島中が毒ガス工場になり、汚染された。敗戦後は米軍に接収され、一時返還されたが、朝鮮戦争勃発と同時に再接収され、やっと1955年返還された。国有地として、現環境省管轄になり、1963年には国民休暇村が開設された。1971年に小学校で飼っていた🐰を8匹放したところ、今は900匹ほどになっている。尤もらしいが、何故🐰だったのか?何故野に放したのか誰が島いっぱいに増やしたのか?アナウサギは至る所に穴を掘る。誰も言わないが、見えない汚染検知のためとするのが自然。しかし、この🐰が思わぬ観光資源になった。SNSで海外に多くの🐰に触れ合える島と紹介される。アジアを中心に欧米からもこの島に訪れるようになる。🐰島なんて海外にはない。ピークで年間18,000人もの外国人がこの島を訪れている。何の因果関係か、海外との戦争のために毒ガス製造工場の島にし、無人島にするばかりか、動物の住めない島にした。敗戦後、汚染検知のため、🐰を入れ、増やした。結果、島の至る所で見られる🐰の無垢な姿を求め海外から人々が訪れ、島を蘇えらさせている。島を彷徨うと何処からも🐰が出てくる。至る所にいる。毒ガス障害死没者慰霊碑を撮影したのだが、後で🐰が一緒に写っているのには驚いた。彼らも薄々何故ここにいるのかわかっているのだろうか。写真の中でこの🐰はただこちらを真顔で見つめている。島の桟橋に着くと国民休暇村への送迎バスが待っている。多くの親子とバスに乗り込む。皆楽しそうだ。午後3時も過ぎ、休暇村に泊まるのだろう。夏休みのいい思い出になる。休暇村には大勢の海外の旅行客。どうも皆中国系、東南アジア系だ。円安の影響が世界中に訪日客を増やしている。🐰はアナウサギ、ヨーロッパ原産、彼らには珍しい🐰になる。勿論😺同様、元々日本やアジアにはいない世界の侵略的外来種になる。カイウサギとして江戸時代、オランダ人が連れてきたのが増えたのではと見られている。外にいる🐰を窓越しに見ながら遅いランチ。可愛いものだ。触らなくとも見るだけで癒される。桟橋へは歩いて戻ることにする。途中、🐰に餌をあげる数人の姿を見かける。多くは1人。子供ではない。慣れ親しんでいるかのように🐰に話しかけている。なんとなくわかってきた。この🐰たちを守っているのはこの常連さんたち。大きな袋を持っている。餌でいっぱいなんだろう。彼らの後ろ姿に孤独な影が見えた。つぶらな瞳、愛らしい動作、爪を立てることも、牙を剥くことも、吠えることもない。🐰の魅力は優しさの中にある🐰に餌をあげる代わりに癒しをもらっているのがわかる。だから何度でも来る。島を滅茶苦茶にしたのも国だが、癒しの場にしたのも国になる戦争をし、人を殺す権利を持つのも国だが、人に癒しの場を提供し続ける義務も国にはあることを忘れてはならない。そして😺も🐰も世界の侵略的外来種に挙げられながら、我々日本人は大事に飼っている。愛すべき動物に国境が関係ないことを島国の我々はよく知っているのではないか。そう思いながら、船に乗る。ふと気がつく、自分もまた孤独な旅人、この島で🐰に癒されに来たことを。

参考資料:大久野島における観光対象の変遷と観光行動

7. 瀬戸は日暮れて🎵

日暮前には街中のネットで調べた小料理屋に入り、美味い地酒と肴をと狙っていた。実際は、この店が夜の営業なしで当てに外れる。全てうまくいくとは限らない。今日泊まりの竹原シーサイドは周りに何もない。ただ、丘の上に佇むホテル。忠海は時間の止まったような街だ。平日の晩、飲める店がない。駅まで行けばあったとは思うのだが、いく力がなかった。小料理屋の近くにお好み焼き屋が見えた。懐かしい広島焼き、出張で広島に来た時は必ず新天地でお好み焼きだった。そんな時代もあった。最後の出張はいつだったか…全て忘却の彼方。竹原シーサイドへは住宅街を抜け、さざなみ海道へ戻る。夕暮れが迫っている。広島での1日目が終わろうとしている。ホテルのある丘の上から美しい瀬戸の夕凪を眺めた。青い空が赤く染まっていき、島陰が濃くなっていく、海は湖のように波を収めていく。静かに日は暮れようとしていた。無事ホテルに着けた。朝早く、東京を出て、今は瀬戸内海を眺めている。1日を長く感じた。このホテルは昭和の香り、忠海の町同様、時間が止まったかのようだ。料金もリーズナブルなので、旅人には嬉しい宿。部屋からの眺めもいい。全て海に向かっている。特に別棟の風呂から見る見るオーシャンビューは最高だ。夜景も美しいが、朝風呂に入って眺める瀬戸内海も。

2024.08.23 瀬戸内の宿 竹原シーサイド🚲..さざなみ海道..大芝島一周..安芸灘大橋 とびしま海道..下蒲刈島 白崎園..松濤園..蒲刈大橋..上蒲刈島 島宿あこう

8. さざなみ海道を魅力あるサイクリングロードにするには

さざなみ海道の2日目、初日30km、この日は安芸灘大橋まで40km、精一杯海岸線にしがみついてきたが、何せ工場が海に向かって伸びており、乗り越えることはできない。せめて漁村街に海を求めるが自ずと限界がある。竹原からは山が海際まで迫っている。とても海岸線どころではない。山越えはキツい。国道に戻り、峠越えになる。寂しいものだ。さざなみ海道を詠うのであれば、海岸線に自転車専用道を作るともっとサイクリストが集まるだろう。昨日、カフェやお好み焼き屋でも聞いたが、さざなみ海道をサイクリストが走る道とは誰も思っていないとおっしゃっていた。安全に走れる自転車専用道路を別に設けないと、サイクリストは集まらない。車道にペンキで🚲の絵を描いてお茶を濁しても認められないということだ。さざなみ海道の楽しみは一重に海に近くを走り、さざなみが聞こえるところにある。海際に是非自転車専用道路を設けることを検討願いたいと切に思う。世界のサイクリストが集まる道にし、🐰島と大芝島とセットで楽しめる観光ルートにしたらどうか?地元の活性化が生まれるのではないか?早急に検討すべきは車道と自転車道の分離、そして国道をサイクリストが避けられる道を設けること。山が迫っている海際にはサイクリスト専用道路を設置することではないか。ルート上の改善提案は3箇所を挙げる。

①安芸幸崎から忠海港に抜ける瀬戸内さざなみ線の脇に自転車専用道路を敷設する。

②竹原と赤崎の海岸線を繋げる橋の設置。竹原から安芸津にかけての海岸線から望む瀬戸内海の島々を楽しみ、赤崎のジャガイモ畑を望むコースとする。

③安浦から七浦海水浴場に抜ける県道465号線の開通。

老いの繰り言はこのくらいにして、山越えで安芸津に入る。楽しみにしていた🦪!かき小屋を目指す。なんと土日しか営業していないではないか!ネット情報をよく見ていなかったのが悪かった。仕方ないので、次の目的地大芝島へ向かう。ここならいいレストランはあるだろうと勝手に思った。

9. 大芝島  🚲で渡れる。眺めを満喫しながらのんびり一周

さざなみ海道で唯一🚲で渡れ一周できる島。周囲6km弱、一周1時間もかからない。この島は小さい上に海が近い。正にさざなみの島、湖に浮かぶ島のようだ。周りの島々を眺めながらのんびりゆっくり走れる。至る所にお地蔵さんが佇んでいる。車が擦れ違えないような細い道がこの島の海岸線を形作っている。山はほぼ柑橘畑。この小さな島に橋を作ったのもこの畑だろう。平日なので人影もない。遊ぶ浜辺がないからだろうか、夏休みを思い出させる子供達の姿も見かけない。レストランもやってない。島を一周しかけた時、民家の軒先に暖簾、看板に余白とある。不思議な雰囲気。飛び込んでみる。やはりレストランだった。ネットで見ると2年前に開店したばかり。しかも水木金のみ予約なしで食事可だった。今日は金曜日、助かった。ランチで2,530円はちと高いが、折角、島にきて何も食べず、寄らず、休まずでは寂しいものと思ったからに他ならない。こぢんまりした4人掛け6席が、昼時で満席に近く、座れて良かったくらい。店内の雰囲気も明るくていい。料理を載せている皿も食材を引き立てて趣味がいい。新鮮な食材で作られ、和洋折衷で、野菜が多くヘルシー、量もちょうどいい、美味しく頂いた。どうも島の雰囲気と古民家と料理がミスマッチが面白い。このレストランから橋まで近い。残念ながら、島の展望所に上り、❤️型の小芝島を見るルートを辿る気力が湧かなかった。先を急ぐことにした。安芸灘大橋に向かう。

10. さざなみ海道に別れ、安芸灘大橋からとびしま海道 下蒲刈島 白崎園

旅に出ると如何にリスクを減らすかが勝負になる。決して危ない道に入らない、選ばない、踏み込まないが大原則だ。本当は安浦から七浦海水浴場に抜ける県道465号線に向かいたかったが、google mapで調べると道は北側と南側で繋がらず、空白地帯になっている。航空写真で見ると、道は途中まであるようなのだが、個人の家で消えている。行ってみればわかるが、繋がっていなければ、戻らざるを得なくなり、タイムロスだけでなく、戻る精神的苦痛、体力の消耗になる。結局、国道185号線をそのまま安芸灘大橋へ向かった。途中、峠の茶屋で一休みする。豆な茶屋、オープンな雰囲気に誘われてお茶にする。やはり国道の路肩を走るのは嫌なものだ。ロードバイクであれば気にすることもないだろうが、折り畳み🚲はのんびりゆっくりなのだから、国道には全く似合わない。かと言って、橋へ向かう道をgoogle mapのナビに従って下道に入り、山越えで疲れ果てる。そのまま車道を走って向かうのが正解だった。 安芸灘大橋は有料になるが、人と自転車は無料で、歩道を抜ける。ここでさざなみ海道とお別れ、とびしま海道に入る。橋の上から下を見る。凄まじい潮の流れに漂う漁船が望める。女猫の瀬戸と呼ばれる海の難所、川の急流に浮かぶ小舟のようだ。遥か西に銀色に輝く潮の流れに抗って進むタンカーの姿が見える。海は最早渦巻く川のようだ。内海は確かに穏やかなさざなみを立てているのみに見えるが、内なる渦巻く潮の流れは、外海にはない恐怖の対象だ。潮見ができないと瀬戸内海を渡り切ることはできない。海峡は細く、至る所に岩礁がある。流れに耐えられない船は岩に打ち付けられ遭難する。ここに海賊が生まれる素地があったのが分かる。そればかりではない。文化は瀬戸内海を通して、西の九州から東の大和へ引き継がれた。この渦巻く流れは多くの阻害をもたらしたに違いない。しかし、阻害こそ、乗り越える技術の発展を産む。航海、造船、気象、あらゆる海洋技術の母になった。瀬戸内海が造船業で栄えた理由がわかる。橋を渡ると異様なモニュメントが迎えてくれる。 天を突くオレンジ色の二本の異形のエンタシス柱、「生」土・火・知・空・水と題している。陶芸家、今井眞正氏の作。安芸灘大橋の架設を記念して建てられた。24年前(2000年)になる。二本の柱は、影響しあい、共に発展していく “つながり”の重要さを表現し、その原料には下蒲刈の土、本州の土、下蒲刈島と古より縁のある朝鮮半島の土が使われ、三位一体とし、釉薬にも島のミカンの木を灰にしたものが使われている。まるで巨大な炎立つかのようだ。このモニュメントの意味するものは、三位一体となった土から生まれ、炎の如く共に発展していくことにより、空と水の違いを知るだろうか?2008年、上蒲刈島と豊島が豊島大橋で繋がり、本土側と岡村島までのとびしま海道が完成する。更に岡村島から大崎上島を繋げる計画や大三島まで繋げる計画もある。大三島を繋げれば、芸予諸島を一周でき、さざなみとびしましまなみの三海道の活性化が図れるだろう。モニュメントに魅せられて白崎園に長居してしまった。最早午後4時近くなっており、後2時間で今日の宿泊先上蒲刈島に渡り、 島宿あこうに着かなければならない。しかし、どうしても1箇所立ち寄りたいところがあった。

参考資料:安芸灘大橋について 土から生まれる命の輝き 安芸灘諸島連絡架橋 離島架橋に伴う島嶼市場の経済学的考察 離島架橋について

11. 松濤園 美しい庭園に善隣外交の歴史が蘇る

この旅の20日ほど前に対馬を訪れている。の残影を求めた旅だった。1世紀から5世紀にかけて500年に渡り、は対馬を挟んで韓国の南岸から九州北部にかけて栄えた海洋国家だった。韓国南岸は新羅に征服され、九州北岸はヤマト王権に組み込まれて消滅していった。その中で、いかなる形においても唯一生き延びたのが対馬だった。国と国が対峙する微妙な位置にあって、このリスクを逆手に、独自のバランス感覚で国境の島として生き残る術を見出していった。それが徳川時代の朝鮮通信使の取りもちだった。世は鎖国の時代だった。唯一許されたのが朝鮮通信使の往来だった。幕府は許可のみで、接待は同行する対馬藩と通行する藩持ちで、負担は大きかった。しかし、この負担が後の時代になって、別の形で貢献することになる。これがユネスコによる記憶遺産に認定される。平和に貢献した歴史として残った。対馬には朝鮮通信使歴史館がある。多くの韓国人が見にきている。失われた過去を求めて。対馬も朝鮮までも明治政府に取り込まれた過去があるが、この善隣外交の歴史が250年の時を経て、2017年に世界に認められた。この足跡をまたこの下蒲刈島に来て確認できた。しかも対馬以上に詳細に調べられ、しかも立派に展示されていることに驚いた。松濤園1990年にオープンしており、対馬の歴史館開設の31年前で、温度差の違いに圧倒される。更に驚かされるのは、庭園の見事さだ。三之瀬瀬戸に面して和風庭園は広がり、韓国の石像を随所に配している。展示施設は江戸期から明治にかけて建てられた4件の家を移設したもので、見て回っているとタイムスリップした感覚を覚える。正に感動ものだ。展示を見ながら、海と空を同時に眺めるのも乙なものだ。この風景はなかなか、他では拝めない。1636年、通信使の一員の趙龍州が残した漢詩が石に刻まれていたのを見た。

蒲刈で出た忍冬酒は玉椀に琥珀濃まやか
しばらく唇に入ると李白がうたったように大道に通じる、             一石呑んで奇才の胸中を吐くこともない、ほんの少しでこと足りる、
昔中山では一飲千日も酔うという酒を作ったが、この酒に比べるとまるで小さい。  蒲萄酒が使者によって中国に伝わったように、忍冬酒の秘伝がここに伝わって、   こうした香りよき、こき酒がさかづきに満ちたのであろう

どのような酒か、リュックなので、途中で落とすと悲惨になるので、極力酒は買わないことにしているが、これは買わざるを得ない。もう閉館時間が迫ってきており、帰り際に受付に頼んで購入。家に帰ってから封を開け、早速飲んでみた。正に薬酒、江戸の甘い香り。何処で作っているのか見ると岐阜の犬山!今は小島醸造のみで作って売っている。江戸時代でも蒲刈島では作っていない。作っていたのは他に浜松、紀州になる。しかも元々朝鮮の酒、この酒を日本で作ったのは朝鮮出兵時に連れてきた捕虜と伝わっている。この詩の意味が分かる。朝鮮通信使の目的は豊臣秀吉の朝鮮人捕虜の返還要求で始まっている。要は趙龍州が言いたかったのは、この酒は朝鮮人が伝えたものだと言うこと。

参考資料:文化の香りただよう庭園の島、下蒲刈島/松濤園・蘭島閣美術館・白雪楼 歴史と文化のガーデンアイランド下蒲刈島 引き継ごう朝鮮通信使の記憶 松濤園 朝鮮通信使ナビ in 呉市 しもかまがり

12. 島宿あこう 美しき瀬戸の風景、最良の酒と肴

蒲刈大橋に着いたのが17時半前、タイムリミットの18時に島宿あこうに着けるか、不安。兎に角急ぐ、仏ヶ崎展望台に行けず、残念。何と宿は近かった。住宅街を抜けて、湾沿いに走ると夕日に映える民宿が坂の上に見える。大きな看板もある。ホッとした。宿の入り口のボードには私の名前まで。1人で申し訳ない。オーナーは初老のご夫婦、私より上のよう、わざわざ、外に出られて、自転車を宿の中に入れていいとのご指示。民宿の暖かい雰囲気を感じる。先にお風呂を推められ、入ることに。風呂からは、真正面に、潮流みはらし台がデーンと。夕日に映える湯船に浸かって、最高の景色を堪能する。朝は入れないのが残念だが、尚、夜も9時まで。これは厳しい。部屋もいい。海が近い。宿泊客は、私以外サイクリスト2名と家族連れ大人数のみ。お聞きすると海外からの顧客が直接連絡してきて泊まられるそうで、次の日から海外のお客が続くとのこと。オーナーにさぞや大変でしょうねと聞くと何と問題ないとおっしゃる。オーナーのオープンなお人柄が全てを超えられて意思疎通を可能にしている。だけでなく、私のようなゴリ押しの客は海外にいないのが本当だろう。これが国際的ルールになる。世界中でSNSの映像が流れる。連絡先も確認できる。宿泊費、移動コストに見合う安全、衛生、環境を踏まえ、美味しい料理と美しい風景が楽しめるのであれば、行かない手はないとなるだろう。円安もまた追い風になる。今年はコロナも明け、史上最高の海外からの顧客数を記録するのではないか?しかし瀬戸内海にとって将来全て薔薇色という訳ではない。オーナー夫婦の話では漁師の話として魚が取れない話が出てきた。漁に出ても取れない日が続いているらしい。実際、数値的にみても瀬戸内海の漁獲量は年々減って、1980年代のピーク時に比べ、3割に縮小している。正に瀬戸際の瀬戸内海漁業となっている。この原因は地球温暖化による海水温の上昇。海岸の埋立、護岸整備による藻場・干潟の減少、内海ということで厳しい排水規制による海の浄化から魚の餌が失われているのか?”水清ければ魚棲まず“なのか?確かに海に小魚が見えなかった。私は伊勢にいたことがある。湾内には必ず小魚がいた。何処が違うのか?伊勢の漁師が言っていた。漁師は山で食っている。山に木を植えるのも漁師の仕事だと。この木も落葉広葉樹でなければならない。瀬戸内海の問題は森林植生の問題が大きい。常緑針葉樹では海を豊かにはできない。柑橘類、杉、檜や松では海は肥沃にはならない。ここに瀬戸内海独自の問題がある。乾燥した気候の問題もある。この問題は赤潮で顕在化した公害汚染より深刻なのではないか。海は美しいだけでなく豊かでなければならない。漁業の6割は海面養殖に頼っている。瀬戸内海はまるで養殖池になったかのようだ。晩御飯は広島西條鶴 一家だんらん1合、肴も旨い。翌日は愛媛に渡る。

参考資料:瀬戸際の瀬戸内漁業 漁獲量ピークの3割 瀬戸内海の現況等について 瀬戸内海の環境 瀬戸内海の環境保全 瀬戸内海再生方策 豊かで美しい瀬戸内海をめざして~里海としての再生~ 豊かで美しい自然環境を保全・再生する国土づくり 「茶色の食物連鎖」と「緑の食物連鎖」 瀬戸内海の貧栄養化について

2024.08.24 上蒲刈島 島宿あこう🚲 とびしま海道..物見橋公園 展望台..県民の浜..豊島大橋..豊島 あび資料展示室..しまcafeきたたに..豊浜大橋..大崎下島 御手洗 閑月庵新豊..平羅橋..中の瀬戸大橋..岡村大橋..岡村島 人待瀬戸展望台..岡村港⛴️..今治港🚲..しまなみプライムホテル今治 やきとり 山鳥

13. 上蒲刈島 物見橋公園 展望台から壮大な風景

とびしま海道に自転車専用道路はない。車道を走っていてもさざなみ海道と違い、車の量が少ないので危険を感じることはない。道も整備されている。ただ、ほぼ人も歩いていないし、サイクリストさえも見かけなかった。何故だろうか?今日は上蒲刈島の四国に面する南側を走る。更に島の真ん中近くの標高140mにある物見橋公園 展望台へ上る。実際はその手前の物見台に行きたかったのだが、看板がないので入り口が分からず素通りした。しかも展望台も立ち入り禁止になっていたのには驚いた。ただ、道は荒れていない。物見橋も問題なく渡れる。観光地は道を含めて、人が来ないと荒れるものだ。この橋も最早、交通の手段としては使われていないだろう。展望台も立ち入り禁止になって6年になる。なのに道が整備されているのは、物見橋からの景色を愛する人がいるからなのかもしれない。昔は島の北と南を繋ぐ重要な橋だった。今は下の車道が整備され、トンネルができ、お役御免になった。しかしここからの景色は永遠。また海岸に戻り、県民の浜から夏の海を望み、次の島へ向かう。

14. 豊島 あび漁 あびはどこへ消えたのか?

豊島橋を越える。島の北側に沿って走る。一昨日走ったルートを対岸に臨む。穏やかな海。小島が浮かぶ。大きな港町に入っていく。豊浜、対岸もまた同じ豊浜、瀬戸を通し、豊かな漁師町を形成していたことが伺える。この漁師町の今と昔に出会えるのが資料館になる。あび資料展示室は港に面した立派な公民館の中にある。あびとは北からの渡り鳥で、漁との結びつきがすぐには理解し難い。何故渡り鳥如きで資料館があるのか?兎も角入ってみる。鵜であれば魚を獲らせる漁法があるので理解できる。あびは越冬のために数千の大群でこの浜にやってきて、大好物のイカナゴを求め海に潜った。追われるイカナゴ阿鼻叫喚した。海底にいる鯛、スズキも刺激され、捕食しようと海面に上がってきた。そこに漁師が餌を垂らし、釣ってしまうという江戸時代から300年続いた伝統漁法。なるほど、海老で鯛を釣るならぬ、あびで鯛を釣る、世界でも類稀な漁法で、鵜飼のような動物虐待と見なされることもない。正に鳥の狩りに便乗して漁をする古人の知恵一つの漁夫の利だ。しかし、この漁法も1986年(昭和61年)以降できなくなる。弱点が露呈する。あびの飛来数の激減。主役の活躍がなければこの漁は成り立たない。原因として高速船の運行であびが脅かされたこともあろうが、何より、餌の問題ではないか?この年を境に魚介類が瀬戸内海で獲れなくなっている。イカナゴは、海砂採取により海底が荒れ、生態系が破壊されたことなどが挙げられている。いずれにしても自然は一度バランスが崩れると元に戻ることは容易ではないことが分かる。自然破壊の怖さがここにある。港に面したしまcafeきたたにで一休み、みかんジュースでビタミン補給、もう次の橋が見える。豊浜大橋、三角形に組み上げた鋼材で橋を形作っている。この三角形が船の帆に見えて、空と海に映える。美しいハーモニーを奏でる。

参考資料:あび渡来群游海面 あび漁 

15. 大崎下島御手洗 閑月庵新豊..平羅橋..平羅島..中の瀬戸大橋..中ノ島..岡村大橋..人待瀬戸展望台..岡村港⛴️..今治港

大崎下島の御手洗は、江戸時代、西廻海運を巡る船乗りが風待ち、潮待ちのために留まった港町だ。豊浜大橋から入ると一番遠い、全く島の反対側。次の島に渡る橋を左手に見て、来年3月一杯で休止が決まっている高速船の着く大長港を越え、尚、先に行く。最東端が御手洗。目の前の瀬戸を挟んで岡村島、南は斎灘を挟んで愛媛 今治。街には江戸の風情が今も残る。そぞろ歩くと時間の止まった風景に出会える。通りに面した家々の格子戸が往時の繁栄を物語っている。海に面した道を走っていくと粋な店に出会う。閑月庵新豊、江戸末期に建てられた旅館を改造し、ゲストハウスと食事処を提供している。土日月曜日しか食事処を開けていないらしく、この日が日曜日で助かった。海鮮賄い丼を頂いた。料理も美味しかったが、何より、店全体が醸し出す江戸時代の趣がいい。格子戸を通して外からと内から見る風景のあまりの違いに感動する。外から見ると内側は何も見えない。内側から景色を見ると、格子戸が邪魔しない。寧ろ独自の光と影を醸し出す。風景に一幅の絵を見るかのように感じる。不思議な感覚。この港町の繁栄は江戸時代で終わりを告げる。帆船の時代の終焉とともに。風待ちも潮待ちも必要のない時代が来てしまった。もはや時代もこの御手洗の光彩を待ってはくれなかった。これが、この街に反映した江戸時代を封じ込めた。忘れ去られた街が今、江戸時代へのノスタルジーとともに訪れる人をタイムスリップさせる。ただ、惜しむらくはここへ通じるとびしま海道のどん詰まりが近いということだ。四国に向かう場合、橋を渡り岡村港から今治港までの船で向かう。船便は1日8便しかない。乗船代870円、更に自転車には190円、車には最低2,100円余計に掛かる。但し、1日4便は旅客船なので車は載せられない。かかる時間は1時間20分、一方広島へ向かう場合、竹原便は来年3月で休止になる。今でも大長港から竹原港まで1日6便のみ。乗船代1,510円、尚、船はフェリーではないので自転車、車とも載せられない。かかる時間はほぼ45分、これでは観光客を呼ぶのは難しい。私も土曜日に来たが、観光客の少なさに驚いた。しまなみ海道と比べると雲泥の差だ。とびしま海道を活かすには終点の岡村島から小大下島、大下島と大三島を繋げる3本の橋が必要だしまなみ海道と繋げることにより、東北へ向かえば尾道、南に向かえば今治に通じる。更にさざなみ海道を介して繋がる。島渡りのトライアングルが完成する。自転車だけでなく車も走れれば、住民の生活環境の改善にも繋がるだろう。島の過疎化も防げるに違いない。繋がることによって経済は活性化される。サイクリストもしまなみ海道から流れてくる。常に観光客は旅のバラエティーと利便性を求めている。無人島の平羅島、中ノ島を渡り、岡村大橋中央でいよいよ愛媛県に入る。岡村島に入ると人待瀬戸展望台が右手に、縁結びとあるが、広島県と愛媛県をつなぐ岡村大橋が縁結びなのだろう。ここから港までが結構ある。岡村港に着いたのは15時半だった。15:50で大三島の宗方港経由で今治港へ行こうと思っていた。後で考えると、高く付くし、寧ろ16:15発の直行便より遅くなる。乗らなくて正解だった。急いては事を仕損じる。港の係員に確認して良かった。この係員に時間があるので喫茶店を聞くと、ハッキリとないと言われ、参った。乗船客も少ない。港の前には岡村小学校僻地集会所があり、隣はスーパー。警察官が港に来ていて、話を伺うと、小中学校が一緒になっていて13名ほどしか生徒はいない。小学生は新移住者の3人の子供。この島では60歳代でも若い方と言われたのには流石に驚いた。人口は250人弱、65歳以上が7割近いそうで、毎年1割減っているとのこと。大変だ。あまりに交通の便が悪い。橋は必要と感じた。船は時間通りというか、出航時間が早い。乗客が少ないので見切り。小大下島、大下島と巡って今治港へと向かう。全て見切り出航で、人がいないと即出航になる。早く来ていないと大変だと思った。しかし、風景は美しい。来島海峡大橋を眺め。潜って港に向かう。海峡には渦が巻き、潮の流れを感じる。船からだと海が近い。迫力も増す。船から橋を見上げると、この美しさ、大きさと高さに圧倒される。明日はこの橋を渡るのかと思うと、高所恐怖症の自分には怖くなる。落ちはしまいが。橋に見惚れていて、最後まで来島の存在に気が付かなかった。来島は村上水軍の城があった。本当に小さい島、これで海峡の名になるのだから、いかに水軍が凄かったの証明になる。とびしま海道は岡村島までで、今治からはしまなみ海道になる。海道がリンクすると次の何かが生まれていく気がしている。まだまだ可能性がある海道と感じた。島々にはそれぞれ特長があり、名所があり、景色があり、惹きつけるものがある。これを引き立たせるのが、海であり、空であり、流れる雲、浮かぶ船に違いない

16. 今治港🚲..しまなみプライムホテル今治 やきとり 山鳥

今治港に着き、早速ホテルに向かう。途中、広場でサッカーのパブリックビューイングが開催されており、すごい熱気を感じた。なんとJ3のFC今治の応援だ。この時はJ2に昇格しそうとは知らず、来年クラブ史上初めてJ2で戦うことになることが後でわかった。雰囲気をこの時感じた。今治からだとおいそれと東京や名古屋くんだりまで行くのは大変だ。J1に昇格すれば行かざるを得なくなるだろうが、まあパブリックビューイングの応援は当たり前なのだろう。200人以上集まって盛り上がっていた。いずれにしても来年勝負。楽しみに違いない。今日泊まるのはしまなみプライムホテル今治 今年3月できたばかり。全てが新しい。welcome drink まで準備していたのには驚いた。インド人が2人で出来上がっていた。海外の客も多い。イスラエル人の女性と挨拶したのにはびっくりした。いいホテルは海外にも早く紹介される。最上階に展望風呂があり、今治の景色を堪能できる。楽しみだが、まずは呑みに行かなければならない。ネットで焼き鳥が有名と聞いている。私のポリシーとして店の予約はしていない。何故なら、ネット情報を鵜呑みせず、まずはネット紹介の飲み屋に行き、自分の目で良ければ入ると決めている。週末、しかもサッカーの応援団の酒盛りで酒屋に雪崩れ込んでくるのも恐怖だったので狙いの店に急ぎ向かう。やきとり 山鳥は狙いの店の2番目で、1番目は呆気なく断られた。これは盛り込み済み。カウンターで1人地酒1杯と肴、もう年で、量はいけないので、値の張らない看板料理を頼んでいく。これで腹一杯になれば良しとする形。店のオススメの品書を見ていると”ナゴヤ“とある。マスターに聞くとフグとのこと。何故フグが名古屋なのか?フグは名古屋に限るだろうか?秋刀魚は目黒に限るの乗りか?フグと言えば下関のはず。今は北海道の生産量が一番らしいが。ふぐ料理は関西で、名古屋のフグ料理は聞いたことがない。若い頃であれば、すぐピンと来たに違いない。昔確かに聞いたことがある。そう遥か昔。年を取るとシナプスがなかなかくっ付かない。この言い回しは瀬戸内海特有らしい。尾張名古屋は城で持つが頭に浮かべれば、分かる。尾張と終わり、もっと言えば、美濃尾張、身の終わりだ。ふぐ毒の致死量は、0.5~2mg、これは青酸カリの約1,250倍。考えてみれば、フグ食を禁止したのも、村上水軍を滅ぼしたのも豊臣秀吉、瀬戸内海でフグを持ってまわしたようなナゴヤと呼ぶ理由も分かる。酒は梅錦、愛媛の酒造。なんとビールを作っている。ドイツ黒ビールボック、雄ヤギだ。深いコク、世界三大醸造酒はワインとビールと日本酒、最近は味わいが一体化しているように感じる。醸造を極めれば同じ味わいを作り上げるのか。今治は鳥皮が有名だが、違いをこの店で教えてくれる。ぷりぷり感がまず違う。これは厚みからくるものだろうが、口一杯に広がる味わい、全て普通に食べている鶏皮を凌駕する。ビールで正解。流石日本三大やきとりの一つ。最早大満足でホテルに向かう。天上風呂が待っている。風呂の階にランドリーが並んでいる。便利!サイクリスト向けのホテルなので、自転車もホテルの中に置け、洗濯も配慮している。眺望も言うことなし。部屋も最高、朝風呂も入れ、朝食はバイキング、しまなみ海道を走り切る力をもらった。

2024.08.25 しまなみプライムホテル今治 🚲 しまなみ海道..来島海峡大橋..大島 道の駅 よしうみいきいき館 ..亀老山展望公園..村上海賊ミュージアム..能島水軍レストラン..伯方・大島大橋..伯方島..道の駅 伯方S・Cパーク..大三島橋..大三島 大山祇神社..サイクリストの聖地石碑..多々羅大橋..生口島..瀬戸田サンセットビーチ..瀬戸田垂水温泉

17. いよいよ世界のしまなみ海道へ 来島海峡大橋から

“bicycle routes top10 in the world”とネットで検索すると、ほぼ必ずShimanami Kaido – Japanがでてくる。🚲は欧米で生まれた。欧米にはサイクリングツアーを楽しむ文化がある。これは歴史に裏付けられた正真正銘の文化だ。日本に浸透するのは高度経済成長を経験した60年代以降で、欧米からツアー用🚲が入るようになってからだ。自ずとサイクリングロードなんて観念がなかった。日本ではまず流通経済を加速させる車道ありきで、単なる遊び道具の🚲のために専用道路設置なんて考えも及ばなかった。バブルが弾け、経済成長が翳りを迎えた時、箱物行政、車道整備に一段落した地方自治体が目指したのが、観光業の育成で、90年代後半から2000年代初頭にサイクリングロードが各地に広がる。しまなみ海道ビワイチもほぼ同時期に名を売るようになっている。ただ欧米と違うのは自然を満喫し、時には喘ぎながら走るルートとなっていない。あくまでも日本らしく生活道路の延長上の観光用なので、誰でもどんな自転車でも走れる。これがいいところだろう。要は素人向きなのだ。片意地は不要。だからいろんなサイクリストが走っている。私もその1人、折り畳み自転車に半袖半ズボン、リュックを背負って走った。何の問題もなかった。私のようにしまなみ海道を往復しない人間は是非、今治から尾道を目指した方がいい。橋上のすれ違う道は左が海側になる。一般道は細いので気にしなくても良いが、橋からの景色を優先すると北上すべきとなる。何故なら、しまなみ海道の最も堪能すべきは橋からの壮大な景色になる。瀬戸内海は確かに内海だが、海に変わりはない。海を渡る景色はすごい迫力になる。まして長大なる橋を渡る。橋からの眺望なくしてしまなみ海道は語れない。特に来島海峡大橋は全長4,105m高さ65m。正に天上を走る感覚を覚える。空が近く、雲の流れを身近に感じる。眼下に海峡の潮の流れ、船の行き来、遠く重なる島陰を望む。自転車で走る喜びは風を感じ、風景に一体化することだ。疲れれば休めば良い。景色を目に留めたければ止まって眺めれば良い。更にしまなみ海道の魅力はサイクリストを飽きさせない風景の妙にある。6つの島を渡りながら70kmを走ることにより、橋を渡る度にワクワク感をライダーに起こさせる。琵琶湖も霞ヶ浦も広い湖なので、単調な風景を見続けることになる。途中どうしても眠くなる。それがない。橋も美しい。上るのはしんどいが、山に上るのとは違い、先は知れているし、取付道路はすべて勾配3.0%で設計されている。橋の美しさは筆舌につき難い。ハープのようであったり、帆のようであったり、タワーのように凛々しい。渡る島にはそれぞれ特長があり、名所旧跡、美味しいものがある。これを見て食べて回るのもいい。飽きない。

来島海峡大橋から大島へ、橋から下りると道の駅 よしうみいきいき館がある。ここで一休み、駐輪場に自転車を停める。高齢のおじいちゃんが年紀の入ったロード自転車を立て掛けて、着古したサイクリンウェアを着てベンチに座っている。挨拶すると、今日もいい天気になる、スマホで雲行きを示されて、ニコリともせずおっしゃる。私もこのおじいちゃんみたいに元気で走り続けたい。店に入り、みかんジャムや振り掛けの小瓶数個をお土産に買う。スマホ決済可能が嬉しい。酒瓶をリュックに入れているので、そう多くは買えない。店を出て、自転車へ、店のおばちゃんが飛んできた。スマホ忘れましたよ、と。バックに買った物を詰めた後、置き忘れたようだ。感謝、スマホ抜きには生きていけない。スマホナビで島を渡っている。写真もログも全てスマホに入っている。無くしては路頭に迷う。助かりました。自転車に戻る。もうあのおじいちゃんはいない。老いが忍び寄っている。しかし、まだまだ戦わなければならない。まだしまなみ海道の旅は始まったばかり。坂道を上る。2人の青年の乗る自転車に追いついた。若いフィリピン人男性達だった。英語で挨拶を交わす。今治の工場で働いているとのこと。今日は日曜日、休みなので借りて走ってきたとのこと。オンボロ自転車だ。彼らは気にしない。着の身着のままの格好だ。年を聞かれた。64歳というと、驚いて、フィリピンでは家で寝ている年だと言われた。急にビートルズのWhen I’m sixty fourが口から出てきた。そうか、最早64歳なんだと改めて認識した。彼らと離れて更に山へ向かう。亀老山

僕が年をとって髪も薄くなっても、バレンタインや、誕生日にカードやワインをくれるかい?夜中の3時までに帰らなかったら追い出すかい?必要としてくれるかい?料理も作ってくれるかい?僕が64歳になっても?

何とか女房に捨てられることなく、この年まで生きさせてもらっている。

参考資料:Top 10 Most Beautiful Roads In The World To Ride A Bike The ten most impressive bicycle routes in the world 7 best bike routes in the world The best and most beautiful cycling routes in the world Here are the 30 Most Beautiful Bicycle Routes in the World The 30 most picturesque cycling routes around the world 18 of the world’s best (long distance) cycling routes 10 of the Most Beautiful Cycling Routes in the World Top 10 Scenic Bike Routes Worldwide 

18. 亀老山絶景が待っている。ただ、本当にきつかった。😓

亀老山は標高307.8m、結構な高さだ。フィリピン人たちとゆっくり坂道を上っていた時、抜いて行った若いお嬢さんがいた。いい自転車。ロードタイプ、道に迷っているようで、立ち止まっては携帯で地図を確認している。どうも私と同じ山へ向かっているようだ。私は暑いので、スマアホナビに従い、抜け道して山へ向かう。お嬢さんは後から来て、また私を抜いていった。軽やかだ。他にも二人組の香港人が抜いていく。電動自転車を借りたのか、サイクリングスーツとヘルメット、きまっている。山道の電動自転車は大変だ。気をつけるように言った。重いので、踏み込めなくなるととコケる。日本は電動アシストなので、慣れないと大変だ。中国の電動自転車は踏み込む必要がない。理解しているか心配になった。亀老山は山頂まで4km、傾斜5-9%、最後は15%まで上がる。この道の酷さは遊びを設けていないこと。ひたすら路肩を上るのみ。車のための道。5日分の荷物、更にお土産の酒、瓶類を詰め込んだリュックを背負い、折り畳み自転車七段変速でふらつきながらも上る。真夏の太陽が否が応でも照り付け、身体中、シャツ、パンツ全てから汗が被たたり落ちてくる、昔取った杵柄は最早通用しない。私を抜き去ったお嬢さんも途中休んでいた。きつそうだ。ロードサイクルでそうなのだから。香港のお兄ちゃんたちも同様、途中休んでいる。”加油”と元気付けてあげた。尤も彼らは山頂へは私より先に着いている。萎える心と体と気力との葛藤に打ち勝ち、私も何とか上り切る。喜びは山頂、眼前に広がる景色に望んで爆発する。しまなみ海道1番の眺望に違いない。空との境界線を夏の雲が引いている。島々と船と橋が潮の流れを遮って、くっきりと紺青の海を湧き立たせている。正に迫力ある空と雲と海の競演だ。この展望台の素晴らしさは広く、開放的なところだ。先に辿り着いていたお嬢さんも満足そう。東京目黒から今春就職し、赴任先が広島だったので、初めてしまなみ海道を走ったそうだ。香港人も疲れ切っていたが満足そうだ。しかし、海外でもこの山は有名なのだろうか?香港でもこんな山に登ったと記憶しているが。展望台の下の茶屋でポカリをがぶ飲みしながら、店のおばちゃんの話を聞くとを、展望台ができて丁度30年、最初は車のお客さんだけだったが、しまなみ海道サイクリングロードが有名になって、自転車で上がってくる客が増えたそうで、こんな急な坂を誰も自転車で登ってくるとは思わなかったとのこと。そりゃそうだ。同じく自転車で上がってきた青年が話に入ってきた。船乗りになる勉強をしに長崎から来ているそうで、何度かしまなみ海道を走っているとのこと。これから村上海賊ミュージアムに海岸沿いに向かうと言うと、彼も海岸沿いを走って伯方島に向かう由。尤も彼は若く、自転車はランドナーの太いタイヤは着けてはいるが、ロードタイプだ。一緒に走れる訳が無い。

19. 村上海賊ミュージアム 海に生きた海賊の歴史を辿る

村上海賊ミュージアムは大島観光の目玉であり、亀老山の次と決めていた。島の北東にあり、南東にある亀老山からは地図上でパッと見、東海岸を走れば早く着くと思った。海際は景色もいいだろう。単純な話。しかし、実際はそう単純ではない。亀老山で会った若人達から遅れ、東海岸に向かう。何と、あの長崎から来ている青年が私を待っている。いやあ、私のスピードをどう思っているのか。並走してくれるようだ。先に行ってもいいよと言っても、後ろに付いてくる。どうもこの道を薦めた責任を感じているようだ。彼は来たことがあると言っていた。アップダウンの続く細い道で、とても海沿いの道に思えない。灌木を縫って走り、時々海が覗く程度。正にlong and winding roadになる。人家もほぼ見えない。とてもメジャーなしまなみ海道とはほぼ遠い。途中、大きな船着場を抜ける。自販機があったのは嬉しい。汗だくだ。また山に入り、上り切って、下りていくと右手に大きなミュージアムが見えてくる。青年は私に別れを告げる。こんなキツい道ではなかったと弁明するが、時期が悪かったと私は言った。確かに真夏に走る道ではない。ミュージアムに着く頃にはもう昼時で、丁度ミュージアムに面して海側に能島水軍レストランがある。覗いてみる。満席だ。何と香港の若者2名の姿が見えた。美味しそうに食べている。ここにも来ているのには驚いた。結構入り口で並んでいるので、ミュージアムを先にした。彼らも勿論、後からミュージアムに来ている。

ミュージアムの名称では村上海賊になっている。我々の記憶に残っている名は村上水軍で、これは1588年に豊臣秀吉の出した海賊停止令によって村上氏が海賊ではなく水軍として生き延びたからだ。何故、今また海賊に戻ったかというと、2016年日本遺産認定を受けたのが村上氏の栄光の時代、海賊だった頃のことだからだ。海賊と言ってもカリブの海賊のように略奪、殺戮を働くものではなく、瀬戸内海を独自の水軍で水先案内や警護を行い、更に貿易で糧を得、力を有した豪族。世に出たのは南北朝時代1349年のことで、織田氏と毛利氏との1576年木津川口の戦いで名を馳せる事になる。ただ、これが打上げ花火に過ぎず、覇権を征することはなかった。織田、豊臣、徳川という天下取りに靡く歴史の趨勢の中で流されていく。村上氏がこの地で海賊とし、栄えたのはほぼ230年、丁度日本の中世後期に当たる。群雄割拠の時代に生きた武士の軍団だった。海に生き、海を舞台に覇権を握ったところは日本の元になる倭に繋がる。そして倭と同様、覇権に拘らず、歴史に埋もれていく。彼らは三島村上氏と呼ばれた。因島・能島・来島の三島をそれぞれ根城にし、海峡を制し、権力基盤とした。ミュージアムがあるのは能島村上氏の領地、海賊王と呼ばれた村上武吉の牙城であった。しまなみ海道は彼らの領地を巡る事になる。最終地は因島。城がある。ミュージアムには香港人も来ていた。2度あることは3度ある。何と彼らと会うのはここだけではなかった。もう午後2時になる。能島水軍レストランに戻り、奮発して鯛飯にウニ、生卵をつけた。精がつく。海を眺めながら遅いランチとなる。先は長い。伯方・大島大橋を渡って伯方島へ向かう。途中、海に浮かぶ能島に城跡が眺められる。決して大きくない。海を見張る砦にしていたのではないだろうか?

参考資料:瀬戸内海に見る村上水軍の歴史的役割 秘境!!村上水軍が活躍した海。来島・能島・因島!! 村上水軍の一族

20. 伯方・大島大橋を渡って伯方島..道の駅 伯方S・Cパーク..大三島橋を渡って..大三島.. 大山祇神社..サイクリストの聖地石碑

元々の計画では昼頃には大三島に渡り、大山祇神社の参道で美味いものでも食べ、のんびりして、多々羅大橋を越えて、生口島の瀬戸田温泉に向かうことにしていた。まず、亀老山登山がこの甘い考えを吹き飛ばした。更に厳しい道なりに村上海賊ミュージアムへ向かい、タイムロスした。ここでもう午後2時になる。致し方なく、ここで昼飯、計画は瓦解した。兎も角、午後6時には民宿に着かなくてはならない。伯方・大島大橋を渡って伯方島に着く。どうしても伯方と言ったら塩!塩ソフトを食べなくてはならない。道の駅 伯方S・Cパークで海を見ながら塩ソフト。しまなみ海道は海あり山あり、そして浜あり。浜があるからのんびりできる。サイクリストにとって一番の憩いの場になる。伯方の浜は最高だった。多々羅大橋の袂に辿り着いたのが午後4時、もうそのまま温泉に向かうか、それとも予定通り神社に向かうか、悩んだ。結局予定を優先した。大三島に渡りながら大山祇神社に寄らないのは片手落ちになる。何せ、大山祇神社には謎がある。 大三島は瀬戸内海の芸予諸島中央に位置する最も大きな島、そこで何故、山の神大山津見神を祀っているのか?しかも全国に1万余りの分社を従える三島神社総本山であって日本総鎮守三島と山の神の関係は?そもそも三つの島とは?誰でも疑問に思うものだ。兎も角向かう。三村峠を越えるまでが大変だが、上ってしまったら降りるのみになる。全て車道だが、それほど車は走っていない。島の北北東から南南西に抜ける。神社は西に向かっている。もしかして朝鮮半島を広島・山口を越えて見ているのかもしれない。対馬の和多津美神社を思い出していた。神は海を越えてやってきた。神社に着くと何と香港から来ていた青年達がいるではないか、今日はこの近くに泊まるとのこと。まさか3度も会うとは思いもしなかった。彼らはこの神社をどう見ているのか、じっくり聞きたかったが、残念ながら時間がない。最早午後5時に近かかった。サイクリストの聖地石碑に着いたのが、午後5時半、着くのは6時過ぎる。ここで民宿に到着の遅れることを連絡する。群馬から来ているというメンバーが写真を撮っている。微笑ましい。モデルは若い女性がいい。サイクリストの未来は若い彼らに託されている。この石碑はちょうど10年前の2014年しまなみ海道と台湾日月潭サイクリングコースによる姉妹自転車道協定の締結と、サイクリング大会「サイクリングしまなみ」の開催を記念して立てられている。この地には、台湾自転車メーカーのGIANT会長の劉金標氏も訪れている。10年前のサイクリング大会は元々、彼らの主催だった。会長が愛媛県知事に初対面で言った言葉がいい。「自転車は人々に健康をプレゼントする、生きがいをプレゼントする、友情をプレゼントする。ここに切り口はある。にぎわいは後から付いてくる自転車は単なる移動手段ではなく、環境にも配慮したライフスタイルと一体化したツールといった見方に間違いはない。しまなみ海道の世界的成功は正に台湾からの支援があった。今やGIANTバイクは年間生産台数650万台以上で世界最大のシェアを誇っている。一方、しまなみ海道は世界に名だたるサイクリングロードになった。

参考資料:まるで海の上を走っているみたい…しまなみ海道に世界中からサイクリストが集まるようになったワケ

21. 大山祇神社は韓国沖の三島の神を祀っていた

大山祇神社は元々大三島神社と呼ばれていた。伊予国風土記の逸文によると、「坐す神の御名は大山津見神。一名は和多志の大神なり。この神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇(仁徳)の御世に顕れましき。この神、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋に坐しき云々。御嶋といふは、津の国の御嶋の名なり。」風土記から、大山津見神は、仁徳天皇の世、4世紀末から5世紀前半の時代に摂津に鎮座したことになる。摂津に今もある三島鴨神社4世紀半に創建されたという。何れにしても大三島神社はその時代に創建された。百済の神を誰が伝えたのか?何故摂津に入り、神社を創建し、また大三島にも神社を建てたのか?三島鴨神社が創建された時期に、同じく摂津に三島古墳群が築かれた。世界一の古墳を有する和泉の百舌鳥古墳群が現れる遥か前になる。この三島野の地にヤマト王権に先駆けた王権が樹立されたと見るべきだろう。これが加羅の支援を受けた朝鮮半島南部から九州の北部にかけて力を持った倭国ではなかったのか?この時期は加羅全盛の時代に重なる。百済の一部もまた加羅だった。難波を征するにあたり、潮流の激しい瀬戸内海を漕ぎ切るため拠点を持つ。これが大三島だった。大三島は一つの島であって、島の名は寧ろ大三島神社から来ている。伊豆の三島も三嶋大社から来ている。伊予国風土記では摂津三島を御嶋と読んでいる。三島野の地を遜って御嶋と呼んだとも思えるが、中洲の地を三島と呼ぶのは不自然で、しかも瀬戸内の島には正統を表すを付け、大三島としたことが解せない。一体三島はどこにあるのか?風土記には、奉じている大山津見神百済の神で、別名が和多志の大神としている。和多津美(海神)に似ている。倭と共に渡ってきた神ではないか?⛩️は神社より古く、神の通る道とされている。⛩️は、ニつ以上の並んでいる。⛩️の方向に向かえば、神の辿った道が見える。海洋民族だけに方向に間違いはない。対馬では2つの別々の和多津美神社の⛩️が加羅巨済島の加背港を指していた。同じように百済のどこかの島の港を指しているのではないか?そこからこの神社を奉納した人々は渡ってきたということになる。google mapで二の⛩️から一の⛩️を繋げ、更にその線を延ばす。阿奈波神社を抜け、瀬戸内海、広島、山口、対馬を掠め、朝鮮半島と済州島の間の所安島の港にぶつかった。何と地図上に他に二島が見える。三つの島だ。大山津見神は現在の全羅南道莞島郡の所安諸島蘆花島所安島甫吉島の神ではないのか?大三島には百済からの帰化人の記録はない。この三島は当時加羅に属し、倭人の住む島であった。倭人は海洋民族であり、ルーツを中国の江南の地。氏神信仰を持ち、これが今の神道へと繋がっていく。氏神信仰の総元締めが日本総鎮守大山津見神信仰の原点が大三島にあり、倭人の支配地として、水軍を擁していたのではないか。これが村上水軍の元になった。白村江の戦い以降、ヤマト王権が山城を瀬戸内海に沿って、海を睨むかのように設けている理由が分かる。山城を作ったのは百済人。大三島の封じ込めだ。倭国は神馬を初めて持ち込み、神道で民を取り込み支配権を得ていた。倭国500年続いた。この名残が今もある。これを否定せず、更に仏教を取り入れ、神仏混淆により、ヤマト王権は民を支配していく。宗教は今も昔も統治の道具になる。倭国の神道は日本に根付いた。これは日本古来の原始宗教と結びついたおかげだ。倭国の歴史は今どこにも残っていない。焚書したのか否か、ただ、遺跡や古墳、神社の中に残るが現王権は全てを開示させていない。ヤマト王権倭国の歴史を自らの歴史にすりかえ、日本書紀を編纂する。倭国の歴史をヤマト王権のものとした。倭国の歴史もまた韓国では封印されている。倭国は悪しき日本の象徴とされている。中国においても倭は蔑みの対象になっている。所安島には独立運動で日本に迫害された記念碑を守り、🇰🇷国旗は捧げない日はない。倭国が見直される日は来るのだろうか?倭国は日中韓を繋げた国だった。

参考資料:三島野古墳群 三島・大山祇信仰とは何か しまなみ海道の中心、大三島に鎮座する「日本総鎮守」大山祇神社 大山祇神社と三嶋大社 御嶋・熊野の岑 日本に残るニライカナイを求めて 第3回 大三島・大山祇神社 莞島の旅[201912_01] – 「抗日の地、解放の島」所安島 蘆花島ってどんなところ?

22. 多々羅大橋を渡り、生口島瀬戸田サンセットビーチ そして 瀬戸田垂水温泉

多々羅大橋は、嘗て世界最長だった斜張橋、100本ほどのワイヤが塔から橋へ左右に渡され、橋を支えている。桁橋にはない、空を突き刺すような存在感と奥行きを与えている。吊り橋は一本のワイヤの曲線美になるが、斜張橋は全て直線美になる。見ていて飽きない。橋の袂に着いたのは最早午後6時前、夕暮れが迫っている。それでも夏は日が長いので助かる。まあ予定通り大山祇神社まで行けたので良しとする。本来であれば、大三島を左回りにぐるっと巡りたかったが、贅沢は言えない。橋の下では潮が渦巻いている。すごい迫力だ。さあ急いで、4日目の宿泊先、 瀬戸田垂水温泉に向かう。いよいよ愛媛県から広島県に戻る。ぐるっと海道一人旅も最後の晩になる。半老人よく頑張った。最後のご褒美が大好きな温泉というところが嬉しい。宿泊先には若干遅れると連絡を入れており、瀬戸田に着き、浜辺に出る。なんて美しい夕暮れか。有名な瀬戸田サンセットビーチとは知らなかった。夕日を見ながら1人ビールジョッキーを掲げ飲んでいるおっさんを見かける。良く見ると人形だ。しかしいい風景、写真に収める。孤独な老人には夕暮れ時が良く似合う。老人は人生の夕暮れ時に佇んでいる。日が暮れて、何も見えなくなっていく。過去も未来も消えていく。闇が身を包むと人生の最後を迎える。死は永遠に日が昇らない闇の世界。ゆっくり眠れていいじゃないか。温泉は近く、浜辺にある。着くと私と同じ世代のようなオーナーが迎えてくれた。午後6時を10分ほど過ぎたくらいだった。申し訳ないが、先にお風呂に入れてもらう。リーズナブルな宿泊費ながら、部屋は広いし、窓から浜辺を通し、海が望める。内海は波の音がしない。海の近くなのに静かなのが不思議に感じる。海に映える夕焼けが美しい。風呂も浜に面している。窓から望む景色に息を呑む。静かな内海に映える沈む夕陽の美しさ。まさに時間の止まった風景になる。この風景を拝めるだけでもここに泊まって良かったと思う。疲れも吹っ飛んだ。宿泊客は日曜日でもあり、私以外2組、1組は青年2人、静かな関西人だった。車で来ていた。今時の若者は他人と話すことを好まない。関係ない人間とは接したくない気持ちもわかる。1組は女性一人旅、年齢は私に近いように感じた。愛知県から来ており、レンタサイクルで尾道から今治に抜ける由、なんと今治から松山に抜け、更に佐多岬から大分に渡り、友人を訪ね、九州を巡る旅に入るとのこと。台風が襲ってくる天気予報をご存知か、気になった。次の朝、この旅で唯一の私の写真を撮って頂いた。私の想像だが、彼女も人生の区切りがつき旅に出たいと思われたのではないか?旅慣れされている方とは見えなかった。

2024.08.26 生口島瀬戸田垂水温泉🚲 しまなみ海道..洲江港⛴️..岩城島小漕港🚲ゆめしま海道..岩城橋..生名島..生名橋..佐島 ゆめしま海道佐島展望所..弓削大橋..弓削島 馬立の鼻..上弓削港⛴️..因島家老渡港🚲..やまねカフェ..因島水軍城 本丸..因島大橋..向島 尾道駅前行き乗船場(富浜)⛴️..尾道

22. ゆめしま海道へ向かう

ゆめしま海道は愛媛県越智郡上島町の島を渡る道。岩城橋が一昨年の2022年に開通し、岩城島生名島佐島弓削島の4島を通して走れるようになったばかり。新しい道とはいえ、最初の2島佐島弓削島を渡る橋は1996年28年前。次の2島生名島佐島を渡る橋は2011年13年前と長い年月をかけて繋げてきた。そもそも島を繋げる計画は1969年に立てられている。なんと全島架橋に55年もかけている。正にゆめしま海道は、全ての島民の長年の夢を叶えた海道になる。やっとここまできた感があるが、ここで終えた訳ではない。次はしまなみ海道ゆめしま海道を繋げることになる。因島生名島の距離は最短で252km弱、4島最短の佐島弓削島間255kmより狭い。島民の生活の利便性向上も考えると計り知れないものがある。尾道、今治と4島が繋がることになる。小さな橋だが、未来へ向けた大きな架け橋になるだろう。橋は島がある限り繋がっていく。生口島の洲江港から岩城島まで⛴️で向かう。瀬戸田垂水温泉からは生口島を右回りで向かった方が早い。しかし敢えて今回時計回りで向かった。単純な話、来た道を戻りたくなかった。また、右回りだと生口橋を臨んでから行ける。しまなみ海道から外れるので、サイクリストも見かけない。夏休み期間中の平日なので、車も少ない。のんびり走った。今日は旅の最終日、夜の便で広島空港から東京に帰る。尾道からまた輪行、今日は旅の最長距離58kmを走るので、尾道で温泉でもと思っていたが、到着時刻次第で諦めることも視野に入れていた。飛行機に間に合わなかったら目も当てられない。運がいいことにこれまで雨に一度も降られていない。暑いは暑いが、自転車に乗っている間は風がある。体調もいい。なんとか乗り切れそうだ。瀬戸田垂水温泉を出たのが朝8時、洲江港に着いたのが9時半、9:40発の⛴️に丁度間に合った。行きはラッキーだった。岩城島の小漕港まで10分かからない。正に小漕ぎになる。内海なので波もない。海もそう荒れない。揚子江を20年前、常熟から南通の港に渡った時を思い出す。今は蘇通大橋ができ渡しもなくなっている。この橋も斜張橋だった。あの頃世界一最長だった多々羅大橋を抜いていた。今はロシアの橋に抜かれている。揚子江の渡し船も降車用ランプウェイは下ろしたままだった。大河も瀬戸内海も波がない。⛴️のランプウェイに”ようきたのう“と大きく書いてあるのが微笑ましい。

参考資料:造船業不況により島が沈むと言われた島 つながる上島4島 半世紀見た夢実現

23. ゆめしま海道 空と海の狭間、3つの橋を渡り4島を巡る

小漕港から自転車を漕ぎ出したのは9:50am.スマホナビに従って、岩城橋まで、住宅街を抜けていく。綺麗に整備されてはいるが坂道になっていて、寧ろ、海岸線を走れば良かったかもしれない。海岸線に古い造船所が見えたので避けたところはあるが、長江港の脇を走れたはず、まあ後の祭りだが。選んだ道は山の裾野を走るので、結構アップダウンがあった。岩城橋に着いたのが、10:20am. 30分ほどで着く。この橋の怖さは高さと歩道がないこと。高さは最高で45.5m15階建てビルの高さになる。路肩を走る。路肩は怖いので車道を走る。まあ車は少ないのでいいが、跳ねられて橋から落ちたらと考えるとゾッとする。高所恐怖症の自分にとっては堪らない。橋の長さは735m、ひたすら耐える。しかしこれは序の口。あと2つの橋が待っている。生名島に入り、コンビニで水分補給、子供達がいる。和気藹々。そこへ欧米人数人が町所有のライトバンに乗ってやってきた。英語教師とのこと。驚いた。こんな離島に欧米人が数人も英語を子供達に教えにきている。対岸が因島、世界シェアトップクラスの造船所が近い。生名島はそこで働く人々の住む島で、住宅街が発達している。正に粋な島。生名橋は海岸線を走ると見えてくる。橋の長さは515m、高さも最高で24.5m岩城橋よりは21mほど低いが、それでも海までビル8階の高さ。やはり路肩を走る。問題は防護柵が1mと低く、6本の円筒のみ、外へ広がるデザインでできている。不安定さを増大する。正に落下の恐怖を味わう。足が震えた。強風の時、果たして渡れるの?佐島へ渡るとゆめしま海道佐島展望所が左手に見えてくる。とびしま海道やしまなみ海道と違い、名所旧跡や砂浜が道沿いにないので、ひたすら車道を走る形になる。佐島はあっという間に終わり、弓削大橋に辿り着く。この橋の長さは980mと距離は長いが片側に自転車道と歩道が設けてある。高さは21mあり、防護柵もそれほど高くはないが、防護柵から離れて走れるので、恐怖感が違う。弓削島に着いたのが11:15am、ここは愛媛県の北端で、更に北端が馬立の鼻になる。折角なので最北端に向かう。馬立の鼻には何もない。ただ静けさのみ。途中防波堤アート「天の花」も見られるが、全て単なる島の風景の一部に過ぎない。因島までは上弓削港からの⛴️になる。頻繁に出ていると聞いており、ついついのんびりしてしまい、墓穴を掘った。12時台の船便が減らされていた。昼休みかな?急げば間に合った。後悔先に立たず。10分差で船が出ていた。50分待つことに。桟橋には何もない。地元の高校生らしき体格のいい学生1人が自転車を傍に佇んでいる。真夏の太陽が照り付ける。とても私は耐えられない。日陰を探し、右往左往すると道を挟んで、トイレのある休憩所が見つかる。助かった。中途半端な時間待ちなのでどこへも行かなかった。自販機で買ったポカリを飲んでいた。近くに食事をするところがない。あっても平日特に月曜休みが多い。桟橋を見ていた。何とあの学生はそのまま立っている。暑くないのか?ついに船が来るまで彼はそのまま立っていた。すごい忍耐力だ。船で「暑くなかったのですか?」と聞くと、気にしないと言っていた。正に島人の忍耐強さを感じた。あの橋だって怖くないし、橋から自殺なんて考えも及ばないのだろう。平日昼下がり、船に乗っているのは学生、私も含めて4名ほど。因島家老渡港には10分とかからないで着く。

参考資料:初めてのゆめしま海道・船×自転車の旅 愛媛県 開通した岩城橋と生名橋・弓削大橋の3斜張橋で地域振興を 造船業の現状と課題 生名橋 弓削大橋

24. 因島やまねカフェ驚き🦑のペペロンチーノから迫力の因島水軍城 本丸

因島家老渡港に着いたのは13:20昼はここと決めていたやまねカフェ、スマホナビで向かうも、全くの住宅街にあるのには驚いた。普通の民家がカフェになっている。しかも古民家。ここでパスタ料理なの?物凄いギャップ感。頼んだのは🦑とキャベツの麦塩麹パスタとサラダのセット、1,080円也、客は他に3人の小さい娘をあやすお母さんのみ。娘が初めてGWに行った沖縄にまた行きたいと言っている。因島に住んでいても、また島に行きたいのかと思わず突っ込みたくなったが、確かに島に住んでいると、また別の島に行きたくなる。次々と島渡りをしたくなる。島の良さをしている島人だから言えるのかもしれない。料理はなかなか来ない。のんびりした時間が過ぎる。やっと来ると山盛りのパスタ!量が半端ない。体力を使うと歳をとっても量を熟せるものだ。一皿平らげた。腹も一杯。さあ、城に向かう。因島水軍城 本丸じゃ!いざ出陣、1人だが。山越えしなければならないと3人娘のお母さんに言われていたので覚悟はしていたが、流石にきつかった。途中トンネルに入るのが慰み。大山峠を越えることになる。あとは山の裾野に沿って下りていく。因島の中央に出る。城は何処に?案内板は山の上を指している。きつい坂が待っている。遙か坂の上、山上に城がある。この城は因島村上氏の菩提寺の金蓮寺が1983年に建てたもの。全く新しい。村上氏族は能島、因島、来島の三島をそれぞれ根城にした。因島以外は小さな島だが、共に城は全く残っていない。そもそも城が必要だったのか?5日間の旅を終えようとして分かった。海に囲まれている彼らは潮がよめ、周りの地形を熟知している。瀬戸内海を知らない人間が通ろうとするとまず島と岬の区別がつかない。島の間を越せばいいが、岬の先は入江で、潮の満ち引きに巻き込まれると二進も三進も行かなくなる。村上氏にとって海は城壁だけでなく堀にもなった。島が城塞そのもの。攻めるものを島陰から見つけ叩けばいいのであって、目立つ建物は敵の目印になり、攻められる対象にもなる。もし攻められても、余計なものがなければ、海に家財諸共逃げればいいのだ。だから立派な城は必要なかったのが正解。因島の城は菩提寺として昔の英華を伝える金字塔が欲しかったからに過ぎない。それはそれとして認めた方がいい。地方で城を作り続けている訳がわかる。また香港から来ているお兄ちゃんたちに会えるかと思ったが、流石に奇跡は起きなかった。因島水軍城は博物館にもなっており、一見の価値あり、自転車は流石に城までは運べない。山門の脇に停めた。登るのが大変だが、下りる時は寺に向かって下りる。墓の中を抜ける。古い時代の墓もあるが、墓誌名がない。時間がない。城を出たのは既に16時に近かった。最早、温泉なぞ行けない。因島に別れを告げ、最後の島、向島へ向かう。

25. 因島から向島、島々との別れの時、尾道で最後の晩餐

城のある町から、向島まで渡る因島大橋へは坂をやはり下りていく。旅の5日目に初めて雨がポツリポツリ降り出した。大したことはない。お湿り程度に過ぎなかった。やっと浜沿いに着く。海に八重子島が望め、その先に島々を従えた因島大橋が美しい。吊り橋で橋桁が2重になっているのは上を車、下を自転車と人が通るため。安全だが、橋からの景色は芳しくない。檻の中を走るようだ。余程、ゆめしま大橋のざっくばらんな橋の方がいいが、交通量も多く、無理なのであろう。向島に渡ると有名な心臓破りの坂が待っている。幸谷峠を越える道、最後の難関になる。これを越えれば、渡し船の乗れる富浜桟橋に一直線になる。因島大橋に着いたのが16:15、桟橋に着いたのが16:50、丁度、渡し船が出発するところだった。滑り込んだ。船は学生や地元の人々で混み合っている。帰宅の時間に近い。この旅も終わる。無事終えることが何より嬉しい。無理をしなかったことが一番良かったに違いない。自転車を畳み尾道駅から電車に乗って、バスに乗り換え、空港を目指す。尾道駅発の時間は18:42、乗車まで1時間半以上ある。温泉に向かう時間はないが、シャワーを浴びて、着替えをし、酒を飲んで、ラーメンを食べる時間は取れそうだった。尾道駅前の桟橋に着いたが、駅が分からない。道ゆく人に聞いてやっと分かった。目の前だった。初日同様、駅の中の案内所に向かう。シャワー室の場所を聞く。何と今上陸した桟橋のすぐ近くのOnomichi U2 前にあるとのこと。何故この施設がU2なのか、有名なロックグループとは全く関係ない。県営上屋(うわや)2号倉庫という名称だった海運倉庫をリノベーションしたから。丁度10年前の2014年3月にオープンしている。Onomichi U2横コインシャワーはトイレも綺麗でスッキリ。さあ祝杯は駅上カフェレストラン&バー 舷 -GEN-で、自転車は一度駐輪場に停めた。畳むのは簡単だが、荷物になる。どうしても🦪が食べたかった。そして桜尾ジンと鯛のカルバッチョを付けて2,530円也。🦪も鯛もジンが最高に合った。大満足!更に尾道と言えばラーメン!駅に並んであるのが素敵、尾道ラーメン たにに向かう。シンプルに尾道ラーメンを頼む。汁に浮かぶ背脂がいい味わいを醸し出す。旅の締めとしては最高だった。あとは自転車を畳み、電車に揺られ、空港を目指す。車窓から眺める瀬戸内海の夕陽のなんと美しいこと。真っ赤に染まる海も格別なものだ。

25. 旅を終えて、未来に夢をつなぐ道と橋を

海道ぐるっと一人旅、5日間211.1km走った。来年は高齢者の仲間入り、年金を晴れてもらえる。この年で頑張ったのは一重にやれるうちにやりたいことを片付ける気持ちからだ。50代に癌を経験し、なんとか凌いできた。今年は前立腺の手術も熟し、健全な体へと少しは近付いた気持ちでいた。一方、若い頃碌な生活をしてこなかった付けで身体中、叩けばどこか埃が出る。無理ができない。友人の中でも既に鬼籍にいち早く入った輩もいる。天国からいつお呼びがかかっても不思議ではない年になった。若い頃、自転車が好きで好きでたまらなかった。その頃はサイクリングロードなんて整備されていなかった。整備された頃には既に勝手に遊べる年ではなくなった。やっと50代になって窓際に座れ、子も大きくなり、借金もなくなり、自由な時間を持てるようになった。遅ればせながら、やっと三大サイクリングロードを回れるようになる。しかし、時間と自由はあっても体力も気力も財力も失っている。今回の真夏の長旅はこたえたが、準備に手間と時間をかけたおかげでなんとか無事終えることができた。何より天気に恵まれた。神に感謝するしかない。

最後に老いの繰り言をひとしきり。しまなみ海道はまだまだ面白くなる。世界のサイクリストをもっと惹きつける広がりと可能性がある。これはサイクリストのためだけではない、旅人や住民にとってもだ。この道の良さは海と島と空の醸し出す風景にある。この風景の広がりは永遠だ。この風景を守り育てるにはが必要だ。ゆめしま海道半世紀かけて作り上げてきたように、全ての海道をつなぐの設置を訴えたい。まず とびしま海道の終点の岡村島しまなみ海道大三島を繋げることだ。これでさざなみ海道と共に海道のトライアングルが完成する。尾道今治が海道で繋がる。交流の地になるだろう。島の住民も増えるに違いない。住民の利便性の改善。特に岡村島の過疎化の問題の解決に繋がるのではないか?次はゆめしま海道しまなみ海道を繋げる橋が必要だ。これは生名島因島間に橋を架けることで解決する。距離は251.58m、ゆめしま海道のどの橋よりも短い。可能に違いない。ゆめしま海道に訪れるサイクリストが増えることに間違いない。住民の利便性も格段に改善される。尾道も近くなる。全ての海道が繋がることにより未来への夢が繋がる。

更に言うなら、瀬戸大橋への歩道、自転車道の敷設だ。今年、橋上で電車が架線事故により止まり、乗客が5時間半も車内に閉じ込められている。もし歩道が敷設されていたらこのようなことはない。早急に歩道を敷設すべきであり、この機会に自転車道も合わせて敷設すべきだ。このことで岡山倉敷香川坂出が繋がる。自転車で渡れることは観光の誘致にも繋がる。朗報もある。淡路島と徳島を繋ぐ大鳴門大橋に4年後の2028年、自転車道が敷設される。もし明石海峡大橋に自転車道が付設されればセトイチアワイチが完成されることになる。是非、検討すべきではないか。但し、問題がある。広島、岡山側の自転車道の改善が優先すべきになる。四国側はお遍路道があり、旅人への配慮ができている。しかし、広島、岡山側は工業地帯であり、サイクリストにとって走る環境にない。経済は全てに優先される。サイクリストをどう守るか、サイクリストにとって魅力ある道にどうすればできるか、さざなみ海道を走って分かった。まず車道に青ペンキで自転車道を作るだけではダメで、自転車専用道を各所に設けるべきだ。線路への付設や、橋の設置、幹線道路を自転車がなるべく通らなくて済む道の設置等、改善すべきだ。さざなみ海道は美しい海岸線を走る。ただ、危険を伴ってはのんびり走れない。是非配慮できたら、この海道の魅力も増すに違いない。セトイチさざなみ海道も含まれることになろう。

もう私もまた走れるとは思っていない。ただ、少子高齢化の環境の中で、島々の人々にはまだ将来の夢が描ける。1時間近くも船を待ち、桟橋に佇んでいた高校生の姿が忘れられない。世紀かけて島々を繋げたのだから、あと1世紀かけても橋を架け続けるのはなんでもない。要は立ち止まってはいけないことだろう

倭が生きる、壱岐で元祖😤焼酎🥃対馬で蕎麦🥢を食う🛫🚲🚙🥾

1.倭とは何ぞや は海からやってきた。

真夏の旅にでる。3月初旬に肥大化した前立腺の切削手術をし、頻尿との戦いに狼煙を上げたが、既に体を蝕んでいた睡眠不足からくる内臓の衰弱で体が悲鳴を上げ、白旗を挙げざるを得なくなった。睡眠不足は実に恐ろしき魔界だ。医師の指示による投薬と禁酒断油の生活を5月下旬より1ヶ月送った。未だ快調とは言えない。投薬も続けている。何故旅に出るのか?また九州に戻りたかったからだ。3月末、死ぬ前にどうしても成し遂げたかった九州縦断旅行を決行し、日本の文化形成の歴史は九州に始まったことを確信した。九州は中国語では最も大きな国。中国人は自国を九州と呼ぶ。は最大、十になると零に戻ってしまうからだ。は同音で、同じ意味にとる。つまり最も偉大な悠久の地だ。この地に紀元前5世紀、中国江南の地から難を逃れた海洋の民が流れつく。稲作と漁撈を糧とした集落を作り、弥生時代が花開く。吉野ヶ里遺跡にその面影を残す。更にこの地をまとめ、を築くのは朝鮮半島南岸に辿り着いた同じ民族だ。彼らは1世紀伽耶の地に鉄の国家を築き上げる。由来の青銅器を作る技術も兼ね備えていた。鬼に金棒だ。は圧倒的武力で対馬壱岐、更に九州北部を翼下に治め、大阪の地まで勢力を伸ばす。を纏める原動力は卑弥呼の鬼道、ツングースの族・の信じたシャーマニズム、これが現在の神道に繋がっていく。彼らは大陸から🐴を連れてきた。畿内の豪族は初めて見るその姿に恐れ慄いた。🐴は神の化身と見えた。5世紀初頭、圧倒的武力を見せつけ、大阪の地を制する。更に、高句麗と戦いを繰り広げた。戦前日本が三韓征伐を盛んに吹聴したが、これはがなそうとしたことだ。この頃、宋書に登場する倭の五王が朝鮮半島における自国の権限を求めているが、記紀には記していない。ヤマト王権ではなく、の王だ。政権奪取も覚束なく、安寧な地にいたヤマト王権が朝鮮半島まで権益を伸ばし、兵隊を送り込むなぞあり得る話ではなく、実際ヤマト王権による徴兵、派兵、兵站強化の事実もない。世界最大の前方後円墳、堺の大仙陵古墳人が築いた。巨大な古墳は王崇拝のためだけでなく、権力誇示のランドマークだった。古墳時代とは群雄割拠の時代と見るべきだ。そしての全盛期だった。朝鮮半島の伽耶に古墳群を形成し、百済に前方後円墳を築く。は戦線を伸ばしすぎた。ヤマト王権により528年に筑紫の族王の磐井を斃され、新羅によって532年百済562年大伽耶が滅ぼされると、の力は削がれる。7世紀初頭に追い込まれた壱岐に古墳群を残し、歴史上、忽然と消える。663年百済白村江の戦いの敗北以降、ヤマト王権百済の残党と手を組んで、日本におけるの覇権を奪う。8世紀初頭にヤマト王権が倭であったことを内外に示す記紀が纏められた。鵜呑みにすると分からなくなるは完全に抹殺されたのだろうか?否、時を経て、14世紀倭寇となって最後の叛逆の狼煙をあげる。これがとしての最後の戦いだった。海人は歴史の中で黙して語らないが….今も尚、壱岐対馬に影を残しているに違いない。復活を夢見て。

2.壱岐・対馬に倭の残影を求める 倭は今も….

神道で結びついた海人による国家だ。北は南朝鮮の伽耶、南は九州北部とし、壱岐対馬が繋げていた。対馬は接点に位置し、壱岐は豊かな風土で、中心に位置した。日本から朝鮮、中国へ渡る飛石状の海の道の駅。新羅、唐へ渡る最も重要で安全なルート。この道は遣唐使から遣新羅使、更に朝鮮通信使の通る道として1,500年、人とモノ、文化の行き交う道、架け橋となった。空の道のない時代、安全な海の道は貴重だった。一方、国境の島として、戦乱が起きれば、いの一番に矢面に立たされる。元寇を真っ先に受け、一転し、自ら倭寇となる。対馬宗氏は国境の支配者としては稀有な存在だ。なんと鎌倉時代から600年の長期政権を築いている。権力を持ち堪えた理由は元寇以降、明と清が日本に攻めることを恐れたこと。朝鮮も引き続き、明と清の勢力下に入っていたこと、日本についても豊臣秀吉以降、大陸進出の野望を捨て、鎖国へと向かったこと。経済的には両国の海禁政策の中で日朝の二国間貿易を牛耳られたからだけではない。何より倭の血が脈々と残っていたからだ。伽耶の地に倭館を置き、朝鮮通信使を招聘し、江戸までの案内役を勤めている。独自外交だ。その為には国書偽装、改竄まで弄している。明治維新は対馬宗氏の既得特権を剥ぎ取った。外交特権は国家のものとなった。海の道から空の道へ、大都市の空港が直接結ばれ、大型タンカーが海を跨ぎ、貿易港を直接結ぶ。海の道の駅は、交通、物流、経済の大きな流れから外され、嘗ての架け橋としての大舞台から下ろされつつある。最早お役御免なのだろうか?百聞は一見に如かず、行って見るしかない。

参考資料:地名が語る日本のルーツ34倭王済の都は大阪の百舌鳥(モズ) 「任那日本府」とは何か~朝鮮半島における倭人の勢力~ 古墳は語る(4) ~甕棺葬の起源地 古墳は語る(16)~古代天皇陵の謎 古墳は語る(18)~「前方後円墳体制は」なかった!? 古墳は語る(25)~朝鮮半島の前方後円墳の被葬者は誰? 古代の日本と加耶 邪馬台国は韓半島高霊の地 朝鮮半島南部の倭人の痕跡 高句麗と倭国・大和の戦い 百済の役の亡命者に関する一考察・・・亡命百済人の活動を中心に 【青銅器祭祀とは】弥生時代の「まつり」についてわかりやすく解説 朝鮮半島南部の倭人の痕跡 「倭」「倭人」について

3.壱岐・対馬への道、天気が全て!🌞こそ命

旅の準備は早ければ早いほど、🛫代を安く済ませ、最良の宿泊先を押さえられるのはわかっている。しかし、早ければ早いほど天気が読めない。☔️の旅路こそ虚しいものはない。梅☔️が明けるだろう7月末を壱岐・対馬の旅と決めていた。準備の開始は6月初旬、果たしてうまくいくか?6/6に長期天気予報サイトAccuWeather(これしかない)で7月末の天気予報を見る。7/15海の日から5日間雲はあるが晴れの天気予報。まだ夏休みに入っていない。毎日が日曜日の年金受給者にとっては安上がりな平日旅行がいい。🛫のチェック、何せ一番高く付くのは🛫代なのだから。一番安くて早いのはpeachの7:30am成田発だが、私の住む東京の多摩、小平からでは7:22着が精一杯。しかもギリギリ。🚃が少しでも遅れればout。🚃賃も3,059円かかる。🛫代が10,890円更に座席指定840円も必要なので、計14,789円、羽田発で間に合うのがskymarkの7:35amの便になる。🛫代が11,480円で、羽田までの🚃賃が849円、計12,329円、結局、出発時間はそれほど変わらず、羽田発であれば2,460円安く上がる。時間的余裕も嬉しい。因みに🚅で博多まで行くと小平から22,534円かかる。最短でも博多駅着が11:09amなので、10,305円も高く付き、到着時間は🛫であれば福岡空港9:20着で🚅は1時間半遅くなる。博多港まで🚇空港線を使えば、中洲川端🚉で降りて歩くので2駅と50円の差。戻りはどうか?peachは11,090+座席指定840+電車代差695 計12,625円。skymark羽田着便は16,080円なので、3,455円 。やはり安いのは成田着便になるが、21時着としても小平に帰ると午前様、もし🛫の発着が遅れたら最悪成田に泊まらなければなくなる。リスクを負ってまで安い便にしがみつくことはない。帰り便こそ羽田にすべきになる。要は成田便が安い訳で、成田に近い人は福岡に行くのが便利と分かる。致し方ない。行きも帰りも羽田便をまず予約する。支払いは4日後の6/10、今年は梅☔️入りが遅く、梅☔️明けもままならなくなった。という訳で天気予報も支払いの段になって変わっている。海の日から5日間のうち、最後の3日間が曇りがち。昨年一昨年と梅☔️明けは7/22,23と遅くなっている。今年も左にあらん。と言うことで、まずは他の週をあたってみると7/28〜8/1が雲はあってもまだマシ。🛫代も当初より2,800円上がるだけ。予約し直すも、また4日後支払う段になって、7/31が☔️の予報に変わっている。振り回されているが、安全を見て宿泊数を1日増やす。対馬に3泊し、1日予備日とした。🛫代は往復32,160円、当初の計画より4,600円加算となった。また4日後支払う段になって、☔️の予報がなくなったのには驚かされた。支払い終えたのは6/16、決定まで10日かかった。ここでオチがつく。何と出発前日になり、座席指定の取り忘れが発覚する。予約先決で席を後回しにしていたのを忘れていた。全く情けない。急ぎ取る。勿論窓際なし。行きは通路側もない。帰りは通路側になる。夏休み期間致し方あるまい。しかし、天気予報は6日間🌞になっている。対馬から韓国釜山が望めるだろうか、希望が膨らむ。

4.壱岐・対馬の旅のbest choice 移動手段と宿泊先予約

壱岐・対馬へ渡るには✈️か⛴️になるが、コストを優先し、⛴️としたが、時間的にも本数から見ても安いフェリーはなく、超高速船になる。何と往復費用は✈️代並みだ。博多〜壱岐、壱岐〜対馬各6,390円、対馬〜博多10.500円、計24,280円、1割引きで21,852円(実際の請求はガソリン価格下落による値引きで16,690円になった。5千円以上安くなる。)予約は1ヶ月前になる。壱岐はレンタルの電動バイクで回りたかったが、たまたまお休みで、電動アシストサイクルにする。3日間で3,850円、乗り捨て代550円、計4,400円。宿泊は1泊目、湯本温泉の旅館長山6,600円(朝食のみ)、2泊目、海を望む繁屋千賀荘10,400円(朝食のみ)、対馬はレンタカーで回る。ダイハツ軽、4日間で10,148円、宿泊は3泊目、海に望む温泉の対馬グランドホテル14,850円(朝食のみ)、4泊目、厳原繁華街の東横INN7,700円(朝食のみ)、5泊目、港に望む DAEMADO HOTEL 6,449円、交通費70,988円、5泊6日の宿泊費45,999円、計116,987円、さあ存分に楽しもうぞ。

5.いよいよ出発 羽田🛫→🛬福岡..🚇福岡空港🚉..🚈..中洲川端🚉..🥵..博多港 兎に角暑い!

🛫のチケットは出発の前日、Eメールで送られてくる。QRコードのみ。搭乗手続きは読み取り機に翳せば済む。スマホさえあればいい。チケットを探す手間がない。便利な時代が来たとつくづく思う。定刻通り7:35amに羽田🛫を飛び立つ。朝飯は機内で、空港の自販機で買ったサンドウィッチ300円のみ。☕️は機内サービス。惜しむらくは空の雲、機内から🗻が見えなかった。まあ全てが完璧とはいかない。福岡🛬まで2時間もかからない。🛬から外に出ないで、9:46amの🚇に乗る。🛳️は10:50am。中洲川端🚉に着いたのが9:55am、まだ小一時間ある。博多埠頭🛳️ターミナルまで、博多川沿いにゆっくり柳に風の風情を楽しみながら歩いた。しかし、何せ暑い!川沿いは陽を遮るものがない。頼りとする風もない。💦だくになる。🛳️ポートへ着くなり、スーパーでカット🍍と冷えた缶酎ハイ、🍓大福を買って、齧り付く。最早、暑くて訳がわからなくなる。予定通りに超高速🛳️に乗る。潮風を受けてを期待したが、何と、指定していた最上階(2階)最前列は前方が操縦室になるため壁、しかもシートベルトをつけなければならない。窓越しに景色なんて風情もあったものではない。荷物だけを置き、後方の席から風景を眺めることとした。日曜日の昼着便だけに飛行機と違い、船便はまだ余裕がある。勿論帰りの指定席も前方に操縦室のない1階へと変えることにした。今思うとこれがこの旅のケチのツケ始めだった。

6.旅は全てが上手くいかない、壱岐とは?対馬とは?壱岐と対馬は陽と陰、内と外

好事魔多し、この旅にこそ言える。壱岐・対馬の6日間は嵐の谷間で連日🌞に恵まれた。私の旅人生でこんなに天候に恵まれたことはない。風雨に曝されながら自転車を漕ぎ続けたことが何度あったか知れない。現在の天気予報の精度の良さと自分の運に感謝しなければならない。しかも東京より涼しい。最高温度30℃、この時期梅雨が抜けない北日本を除いて本州四国九州に熱波が襲っていたが、壱岐・対馬は沖縄同様、例外的に涼しかった。大陸からの風だったのか、浜風に癒された。ただ、天気運が悪運をも持ってきたようだ。壱岐では、初日からスマホの充電ケーブルが切れ、2日目に自転車がパンク、更に転倒、3日目、対馬に渡ってすぐに昼飯抜き、4日目は山で遭難し、5日目は水と飯を求め、彷徨った。連日トラブルに巻き込まれた。対馬は緑溢れ、美しい、しかし、人影がない。壱岐はまだ至る所に自販機があったからいいが、対馬はほぼない。山中にコンビニもちょっとした店もない。助けを求めて、彷徨わなければならない。島旅の厳しさを味わった。因みに壱岐の人口密度は164人/km²(独立市の島としては宮古、江田島、淡路、石垣に次ぐ5位)、面積は134km²(約山手線内2個分)、対馬に至っては37人/km²707km²、因みに東京23区は15,708人/km²、622km²(奄美大島より若干小さく、淡路島より大きい)で対馬の方が大きいにも関わらず、東京23区との人口密度比0.2%(独立市の島しては一番低い)と如何に人がいないかがわかる。対馬は壱岐と比較しても面積はほぼ5倍、逆に人口密度はほぼ1/5になる。対馬は89%が森林。農地は1.1%、いかに生活をするのが大変かわかる。壱岐の森林は36%、農地が27%を占めている。バランスがいい。 如何に壱岐と対馬が対照的か分かる。まるで陰と陽、内と外の関係にも思える。これは行ってみて余計感じる。

2024.07.28 1日目:壱岐郷ノ浦港🚲→岳ノ辻展望台🐬鼻👹の足跡湯本温泉

7.郷ノ浦港🚲→岳ノ辻展望台我々は何処から来たのか?

この日に郷ノ浦祇園山笠が開催されているとは露知らず、港の賑わいに驚くばかりだった。楽しみにしていたターミナル2階の髭達磨でのランチは予約満席とのことで断られた。港で体制を整えて旅に臨む目論見がまず消えた。致し方ない。レンタ🚲を借りに観光案内所に向かう。途中明日の辰の島への船の確認が必要とのことで勝本漁協に電話を入れる。何と船は朝1番の9時には出ない。10時からとのこと。知床の遊覧船事故から観光船管理が厳しくなり、1隻が修理に入った由、この出発時間の確認が結果的に功を奏することになる。因みに私は電動アシストの🚲に乗ったことがない。中国で電動🚲に乗っていたが、アシストではなく、言わば電動バイクで、電池が切れたらペダルを漕ぐものだった。従ってほぼペダルは使わない。電動アシスト🚲の運転の難しさは漕がなければ動かないということで、急な坂道を登る途中で、ペダルを踏み切れなくなった時どうなるかだ。モーターを装着した🚲は兎に角重い!坂道は余計キツくなる。正にこの悪夢を2日後に経験することになる。🚲には他にも致命的な弱点がある。これもその日に経験する。電動アシスト🚲は電動バイクより電池が持ち、安く借りられ、ガソリン代もかからない。実際、旅の途中で電池切れはなかった。普通の🚲より体力消耗が避けられ、地球にやさしい乗り物であることに間違いない。難なく壱岐最高峰岳の辻までは上れた。この🚲で山手線が2つスッポリ入る壱岐の島を回る。周囲191kmある。結構ハードだ。早速出発、岳ノ辻展望台方向に向かうと、祭りで賑わう浜で生うに丼の幟が旗めいていた。みうらやとある。ちょっと覗くと、空いてる席がある。懐かしいお座席だ。相席で座らせてもらえた。昼過ぎで若干落ち着きを取り戻した頃合いだったかも知れない。赤うに丼が今の旬で、いくらか忘れたが、大金を出してまで食べたいとは思わなかったので、うに飯定食1,250円を頼んだ。これが美味い。うに飯は勿論、アオサの味噌汁や壱州豆腐や和物がいい味を出していた。特に豆腐、硬さと甘さ、これは何だ!大豆が凝縮されて出す味わいに違いない。料理でも劇と同じで端役にこそ旨みがある。岳ノ辻展望台へは住宅地を抜けていく。九十九折りの坂を上り切ると、島々に囲まれた郷ノ浦の街並みが望める。山頂近くまで🚲で上れるのが嬉しい。岳ノ辻展望台からは遠く九州の山並みも眺められた。祭りのためか、人影は少ない。3人の女性が話しているのが聞こえる。長崎からのエア便のトラブルについて話していたので、観光客とわかる。確認すると1人は壱岐の女性で、蒙古に襲われた歴史を話している。私に腕の内側に短い横線があるか?聞いてこられた。私は生まれて初めて、この線の存在を知った。両腕にくっきりとある。これは九州で主に話題になる話らしい。彼女が言うには壱岐の人間は蒙古人に蹂躙された。この線は蒙古人の血を引くことの証明らしい。親父は四国の出で、お袋は蝦夷系だ。尤も四国には帰化人が多く住んでいたので、その系列かも知れない。この話を聞いただけでも大陸に近い九州の人々が自分のルーツを探っていることが分かる。大陸との接点に生きているからだろう。我々東国の人間は、ルーツに関係なく、生きている。言わば自分の歴史に無頓着なのだが、琉球、熊襲、朝鮮、中国などの渡来人で構成される日本の西域の人々は民族の血に敏感なのかも知れない。

8.🐬鼻 そしてスマホトラブル

ここから🐬鼻まで只管下りていく。風は緑色、空は夏色、眼下の海は群青色、空気は潮の香り、人影もなく、風景を遮るものがないほぼ一本道。ただ、🐬鼻はその姿を簡単には見せてはくれない。壱岐島の南端。案内板が見えて、初めてその存在を知ることになる。初瀬海豚鼻とある。ただそれだけ。案内板の先に下草を刈ったのみの道なき道が見える。岬に通じるのだろうか?全く人影は見えない。蛇でも出そうな道で、只管歩くと眼前に海が広がった。岬の先端に来たようだ。鼻は岬を意味する海に向かって突起のこと。しかし、実際の🐬の鼻は頭上の穴のみで、寧ろ嘴のことだよねと突っ込みたくなる。最南端なので九州の山々、福岡、佐賀、長崎まで望める。迫力ある風景だった。観光地は往々にして人寄せパンダになりがちだが、壱岐は下草は刈るが、後はあるがままに見なさい、そして勝手に感動しなさいと言っているかのようだ。壱岐の粋たる所以なのだろう。次は最西端に向かう。海沿いに郷ノ浦に戻り、👹の足跡へ。ナビはスマホ任せだ。因みに買い物の支払いもpaypayなので、これもスマホ頼み。スマホでlogデータも取っている。写真もビデオも皆スマホ。バッテリー切れが一番怖い。なので補助バッテリーは安全のため2個持っている。そろそろスマホ自体のバッテリーが切れそうになっている。ビデオもそうだが、logデータを取っているとバッテリーの消耗が激しくなる。急ぎ補助バッテリーと繋げた。ところがスマホのバッテリーの残量が上がらない。寧ろ減っている。バッテリーが暑さでやられたか?一応新しいバッテリーでも充電が切れる。おかしいと充電ケーブルを見ると裂けている。ケーブルがやられたようだ。新しいものを買わなければならないので、郷ノ浦に戻る。祭り最骨頂で、電気屋が開いていない。街の人は親切だ。コンビニならと言う。なんと丘の上。街中から離れている。コンビニは島に5軒しかないそうで、一番近いのが丘の上。そこから遠回りになるが、👹の足跡に向かえる道がある。行ってみると、売っていた。助かった。最早16時過ぎ、🐵岩へは行くのを諦めることにした。明日にするしかない。今日は🦍岩で我慢しよう。

9.微笑む🦍岩👹の足跡 👹の名がデイ、韓国語の”“?

微笑む🦍岩に着いたのが17時、日が長くて助かる。人っ子一人いない島の最西端。芝生の先に岩はあった。よく整備されている。西陽が眩しい。ただ、暗くなったら危険に違いない。波音が凄い。対馬海峡、日本海の荒波には違いない。👹の足跡は岩と波の共演で足跡を作り出している。👹の名がデイ、何のことはない、韓国語の”“だ。鯨を獲るために踏ん張った足跡と言う。壱岐には👹伝説が多い。多くの古墳群が鬼の棲家と見られた。古墳群を築いた記録がない。豊かな土地に遥か昔誰が住んでいたのか?それは倭人だったに違いない。何故記録を残さなかったのか?消されたのか?消したのか?蒙古軍も壱岐を拠点とし、博多を攻めている。対馬は山。食に困ったに違いない。壱岐は長崎県内でも諫早に次ぐ豊かな稲作地帯だ。

10.湯本♨️離島留学壱岐焼酎 焼酎は元寇の産物?

暗くなる前に湯本♨️に着かなければならない。急ぐ。壱岐の粋なところは、コンビニがない代わりに水を補給してくれる自販機が心憎いばかりに道路脇に設置してあることだ。水こそ命、力の源。おかげで何とか18時過ぎには着くことができた。西の壱岐は日の入りも遅い。まだ明るかった。湯本♨️は壱岐唯一の♨️だが、驚いたことに温泉街らしきものがない。港にも関わらず、特有の活気もない。学校を中心に民家が点在している。1,700年続く湯治場なのだろうか?全く色気のない街だった。港の丘の上、稲荷神社に上がる石段を照らす提灯の群れが揺れて寧ろ艶っぽいくらいだった。尤も人口3万弱の島で奥座敷とはいかないだろうが、と言っても結構宿泊代は高く、しかも満室ばかりだった。旅館は数軒、私が選んだ旅館長山は海に近く、お風呂が良さそうなので選んだが、何故か旅館サイトで予約できない。HPがあるので、直接電話し、予約した。晩御飯は賄いがこの時勢いないのでと断られた。朝食のみで宿泊代は、当初6,750円と言われたが、請求は6,600円、通常は宿泊を受け入れていないとのこと、私の場合、旅館で預かっているお子さんが夏休みで、この前日に福岡の家に帰られるので受け入れて頂いたと後から分かった。湯本♨️の源泉は個々の旅館が持っており、個人経営で成り立っている。設備投資も大変だろう。設備維持のため、離島留学を謳い、都会から来られる子供達を受け入れ、切り盛りしている感じだ。道理で過疎化が進む中で、学校を中心に温泉街がある理由が分かる。健全なのは子供中心だからだろう。壱岐は離島留学に適している。都会の喧騒より自然の静寂が子供が自分なりに考える時間をもたらすに違いない。驚いたことに、壱岐、対馬高校でも離島留学を掲げ、積極的に韓国語、中国語を売りにしている。韓国、中国の大学への進学の実績も掲げている。日中韓は共に少子高齢化の問題に直面している。打破するには、若者の交流による東アジア文化の強化しかない。壱岐・対馬は正に日本の窓口として一番相応しい。ここに架け橋としてのの歴史が生きるに違いない。話は湯本♨️に戻る。源泉温度は69℃もある。普通の温泉で35℃ほど、とてもそのまま入れない。旅館長山では朝風呂は無理と言われた。冷ますのが大変。75℃に達していると言われた。何せ源泉が旅館の裏なので、建屋まで熱が伝わってくる。夏なのに何でボイラーを焚いているのかと思ったほどだ。湯は赤褐色で鉄分が多く、塩辛い。濃厚な♨️だ。泊り客は私一人、疲れを癒すに最高だった。しかし温泉が勿体無いと思った。これだけ湧き出る湯、温泉発電でも可能ではないか?この地域の電力を全て賄える湯量とも思えたが。晩飯は旅館で薦められた寿司・割烹のしな川へ。歩いてすぐ、小学校の斜め前だった。

壱岐の焼酎ロックでまず頼む。どうしても呑みたかった。ん〜ん、実にまろやか。しかもスッキリしている。米麹で麦を発酵し、蒸留させて作っている。これが壱岐焼酎の特徴だ。まろやかさは米由来、スッキリ感は麦からきている。いいとこ取りだ。堪らない。壱岐の焼酎は江戸時代に粕取り焼酎として始まる。米粕を蒸留させた酒だ。蒸留酒13世紀に遡って、蒙古が2回目の元寇1281年弘安の役で日本に向かう際、高麗安東に伝え、更に元寇の際、壱岐に2ヶ月居座った際、やはり伝えたのではないか。高麗での製法はマッコリを蒸留させ、保存の効く上に旨みを凝縮させたソジュ(焼酒)にしている。言わばドブロクを蒸留した酒。アルコール40度消毒用としても使われた。壱岐で蒙古や高麗の兵の中で疫病が蔓延した。傷ついた兵士のために消毒が必要だった。ソジュ(焼酒)が壱岐で作られた理由がここにある。下って1795年、平戸藩から壱岐の酒造業者に消毒用に荒生(アラキ)の焼酎として確保する通達がでている。アラキとは蒙古が伝えたアラブ由来の蒸留酒である。壱岐において500年以上に渡って蒸留酒の製法は守られていた。4世紀後半に百済から北魏由来の醸造技術がヤマト王権にもたらされ、更に13世紀には高麗から蒙古由来の蒸留技術が壱岐に伝えられることになる。朝鮮半島を通して日本酒が生まれ、更に焼酎が生まれる。壱岐・対馬は酒についても橋渡しの役割を担っている。焼酎の歴史は沖縄の泡盛からとなっている。1575年の薩摩の記録が最初になる。このほぼ300年前の壱岐の焼酎の発祥の歴史は残されていない。ただ、焼酎という言葉が朝鮮経由で入ってきた証拠として残っているのではないか。泡盛は与那国島の花酒に起源を持つとみられる。この酒もアラキ同様アルコール度数が60度と半端ない。壱岐焼酎が米麹に麦を原料とした理由は江戸時代、米が年貢として取られたため、麦を原料にせざるを得なかったからとしているが、寧ろ麦を選んだ理由はマッコリを蒸留した歴史にあるのではないか?マッコリは元々麦麹を使っている。マッコリの旨さはにあった。ドブロクにはない旨さだ。これを古の人は憶えていたのではないか?もっと穿って見れば、百済より前に神道と共にマッコリを壱岐にもたらしたのではないか?神道には御神酒が必ず必要だ。壱岐でまず御神酒作りから始めたことが容易に想像できる。壱岐には自ら歴史を記した書物がない。ただ、御神酒から焼酎への流れは自然だ。御神酒作りは秘技とされ、日本酒が生まれるまで1千年というときの流れが必要だった。これは本地垂迹による坊さんによる醸造技術の暴露という形で生まれた。同じようなことが壱岐で起きていても不思議ではない。壱岐では醸造から蒸留へと一足飛びしたことは想像に難くない。マッコリの美味さを知った人間はアラキの製法からソジュ、焼酎へ辿り着くのは早かっただろう。

店の女将が寿司を握るかと聞いてきたが、断った。この美味い酒と刺身で十分だった。日も暮れかけてきた。惹きつけられるように浜辺に出、夕焼けを迎えに外海の見えるところまで出た。美しい風景だった。後で有名な湯本湾の日暮れと知った。1日目の締めは熱い温泉に2度浸かり、ぐっすり寝た。今日だけで40km走った。

参考資料:韓国の焼酎 ソジュ 麦焼酎の元祖、壱岐焼酎とは? 安東焼酎 米焼酎が最初!ザビエルの時代から続く焼酎の歴史とは?

2024.07.29 2日目:湯本温泉🚲→🐒岩…勝本漁港🛥️↔️辰の島 🚲→🐬パーク男嶽神社一支国博物館千賀荘

11.湯本温泉🚲→🐒岩そしてパンク勇健雄健を救う縁

旅館長山の朝食は最高に美味かった。特にアラカブ(カサゴ)の味噌汁には恐れ入った。魚1匹の旨みが味噌汁に溶け込んでいる。贅沢の極み。朝7時から朝食にして頂いた。道を急ぐ。昨日行けなかった🐒岩を目指す。10時には勝本漁港に辿り着かなければならない。辰の島遊覧が待っている。昼は勝本漁港、壱岐の最北端に🐬を見に行く。7時半過ぎに旅館を出る。相変わらずいい天気、潮風が心地良い。🐒岩は湯本湾沿いに幹線を戻り、黒崎半島に入る。道は整備され、花壇まで心憎い。民家は道路に面していない。奥まった所に点在している。人気を感じない。長閑な風景の中を走る。半島の先端部にある猿岩を目指す。その前に観音岩を見てみるかと欲が出たが、何せ道が分からない。🚲で彷徨っているい間にやらかしたかもしれない。最悪のケース。🐒岩までは難なく行ったが、段々と後ろのタイヤが薄くなっていく感じがした。空気が抜けるまでさほどかからなかった。パンクだ。よりによって朝まだ早い8時半、自転車屋はまだやっていない。スマホで調べると、今から向かう滝本に自転車屋はない。押して向かっても無ければどうしようもない。しかも、辰の島へ向かう船に間に合わなくなる。窮地に追い込まれた。この時、なんと🛵がこちらに走ってくるのが見えた。が降りてきた。の助けだ!ヒッチハイクさながらに手を振り、助けて下さいと叫んだ。驚かれて🛵を停め、来てくれた。初老の方で、作業着姿で如何にも地元の雰囲気だった。状況を説明すると🚲を運ぶため、家まで🛻を取りに戻ってくれた。お聞きすると🐒岩近くに田んぼがあり、見に行く途中だった由。戻るや否や、記念に?写真を撮りましょうと言う。丁度黒崎砲台跡入り口だった。🚲を🛻に載せ、観光案内所に代車を求めるのが正解と思われたので、郷ノ浦と芦辺にあるのでどちらがいいか?助けて下さった方はまず近い郷ノ浦に行くべきとおっしゃった。振り出しに戻る。11km、20分ほどで着く。代車はあり、パンク修理代1,100円を支払う。書類にサインをしたのを見ていた助けて下さった方が驚きの声をあげている。私の名前は雄健という。64年間生きてきて同じ名前に会ったことはなかった。英語で言うと受ける名前で重宝だった。英語ではI can u canと説明する。勿論欧米人にこの名はまずない。通信教育の会社ucanが出てきて盛んにユーキャンを標榜するが、欧米人が聞くとあなたはできない!と言っているように聞こえる。ucanは英語で発音するとユーケンなのだ。ユーキャンと言うとyou can’tとなる。通信教育の会社でありながら、あんたはできへんはないやろ。気を付けて下さい!中国でもこの名は見かけなかった。字数が多い漢字は名前に使うのが嫌われるらしい。日本人でもまず会ったことはなかった。お寺の坊主かとよく言われたものだ。健雄の間違いかとも。ところで私を助けて下さった方の名前が私と同じ発音の勇健だった。この方も初めて同じ発音の名前を見たと言われた。いやあこちらも驚いた。純粋に壱岐の方で、私には縁もゆかりもない。偶々助けを求めた方が同音の名前だったとは。年は私より4つ上で、日本郵便を引退され、昨年御尊父を亡くされ、遺された田畑を見ると同時にドローンを使った農薬散布の推進に力を入れられいるとのこと。結局、🚲を載せて猿岩から郷ノ浦、更に勝本港まで26.5kmも走って頂いたことになる。ガソリン代を申し述べなければならなかった。どうもすみませんでした。おかげで辰の島遊覧の船には十分間に合うように着けてもらいました。お礼にアイスコーヒーをご馳走させて頂きました。レンタサイクルで致命的になるのがパンクだ。壱岐島は観光案内所でサービスを行っている。これは壱岐の受け入れ港の郷ノ浦芦辺印通寺の3箇所で、滝本が抜けている。せめて滝本港、できれば湯本港にもレンタサイクルのサービスステーションを設けて欲しいものだ。旅人は最悪の場合でも対処ねせば先に進めないのだから。

11.辰の島そして🐬パーク🐬魚の神の使い

勝本漁港から遊覧船に乗る客は圧倒的に家族連れ、ほぼ海水浴が目的になる。辰の島の入江には、日本の水浴場百選に選ばれた砂浜が広がる。遊覧+辰の島上陸で2,500円、10時出発、帰港は11:50、最短で正味2時間かからない。🏖️に着く前に40分ほど島の周囲を巡る。エメラルドグリーンの海が沖縄のようだ。夏の海は何処までも穏やか、日本海の荒々しさを感じない。潮風が心地よい。遊覧船は波を切って走る。島の断崖絶壁に近づき、海の宮殿の穴倉に波に飲み込まれそうになりながら突っ込む瞬間は息を呑む。これは正直者にしか見えない観音様を拝むためだったらしいが、私には全くわからなかった。最後に🦣岩を見てこのツアーも終わり、辰の島に上陸することになる。船着場から海水浴場までは堤防の上を歩いていく。ふと岸側を見ると道から外れ、海豚慰霊の碑が立っている。これが44年前までこの入江で毎冬、1千頭の🐬ので真っ赤に染めていたことへの悔恨の標とは誰も気が付かない。遥か60年前、1960年代、滝本港はブリの大量で湧き返っていた。ところが1970年代に入って一転してブリが取れなくなる。原因を漁民は回遊する🐬が増えた所為と思い込んだ。🐬を海のギャングと呼び、撲滅を叫ぶ。🐬駆除が官民一体となって行われる。辰の島の入江を舞台に追い込み漁法が採用され、1977年から4年間で4,330頭駆除した。海外の自然保護団体が世界に報道した。この愚行が収束するのはD.L.ケイト氏が漁網を切り、300頭の🐬を逃してからになる。彼の行為の是非は兎も角、世界中の耳目が辰の島に集中することになった。駆除の名を借りた大量の野生生物の殺傷。夏は子供達が遊ぶ浜辺で、冬になると抵抗のできない動物を大量に殺すのが許されるのか。🐬に罪はあるのか?🐬駆除に一匹当たり政府から1万円を支給し、肥料にするための粉砕機の費用まで補助する始末、 一方で、ブリを🐬は捕食しない。イルカは英語名bottlenose dolphin、細い嘴は小魚を食べるためのものであって、ブリのような大型の魚を食べるのに適していない。更にブリは国全体の捕獲量として今も減少していない。何故🐬は駆除されなければならなかったのか?D.L.ケイト氏の言葉を記す。「辰の島はこの地球の苦境を象徴する。龍の優しさは、美しい環境と調和した平和な生活、あらゆる人類を含む全ての生物との共存の可能性を表す。龍の恐ろしさは、自分以外は大切にせず、阻むものすべてを食い尽す自己中心的な暴走には、絶滅という唯一の結末しかない我々は自らの内に潜む悪魔を克服できるのか、それともこの美しい地球を破滅させるのか。イルカが答えを持っているかもしれない。」もはや🐬もブリさえも大挙して壱岐に近寄ることはなくなった。🐬を我々はイルカと呼ぶ。イルは古語の魚、は鹿。鹿は神の使いであり、魚の神の使いになる。これはアシカに対になる。アシカのアはやはり古語の海、シカは鹿、海の鹿、海の神の使い。今、天草では野生🐬との共生を図ろうとしている。古の倭人は潜水漁を得意としていた。🐬漁師の守神だった。天草の人々は忘れることはなかった。壱岐の島民が🐬との共生を願った施設がある。壱岐イルカパーク&リゾートだ。勝本漁港から湾沿いに静かな東海岸に抜け、串山半島を左手に北へ道沿いに向かうと忽然と現れる。港からは2.6kmほど。雰囲気のある喫茶店が併設されている。生簀に数匹の🐬が泳いでいる。人懐こい、5年前にリニューアルオープンした。傍目に🐬との共生がこれで可能だろうか?勝本漁港が🐬との真の共生を取り戻すことができるとするならば、湾に🐬が自然に戻ってきた時に違いない。

参考資料:無人島観光に興奮 壱岐イルカ事件 壱岐のイルカ事件 壱岐のイルカとイルカの被害 ドラゴンの島 イルカとは 人にもイルカにも優しい海の実現

勝本漁港近くに湾の景色を楽しみながら美味いものが食べられる店がある。海神(わたつみ)。お土産屋さんと一緒になったお店。リキをつけるため、昼食は奮発して海神プレミアム、壱岐牛ローストビーフ・生うに・お刺身・壱州豆腐・あおさの味噌汁・ごはん・漬物・小鉢、税込4,400円を食した。流石、いい味出してます。私には少し贅沢だったでしょうか?

12.山岳信仰が残る 男嶽神社(🚲コケる)🐮😺🐴は壱岐から一支国博物館壱岐古墳に倭の終焉繁屋千賀荘

壱岐は兎に角、神社が多い。大小祠を合わせるとは超えると言う。明治時代、神社合祀の嵐で統廃合が進んだはずなのだが、壱岐は別格、神社発祥の地。人が先祖を崇拝する氏神信仰から神社は生まれ、稲荷、八幡、住吉等、連綿と繋がっている。更に明治維新により禁止された祇園信仰山岳信仰も壱岐には残っている。郷ノ浦祇園山笠を初日に見たばかりだ。そしてイルカパークより向かった男嶽神社は戦前はおいそれと入山も叶わない山岳信仰に基づいた神社。壱岐の最初の神を祀っている。急坂を登ってやっと辿り着ける。なんとこの坂で電動アシスト🚲でコケた。この🚲は重い!漕げないとアシストするモーターは動かない。🚲は止まれば、コケる。自然の理。私は若かりしころ柔道をしていたので、自然に受け身をするので、いつも大事には至らない。昔取った杵柄になる。要は🚲と心中しないこと。受け身ができず、大怪我につながる。今回も🚲は倒さなかった。スタンドを立たせた。私だけ一回転半した。勿論腕に傷、絆創膏は常時持っており、手袋もしていたので凌げた。最悪のことを考えていてうまくいくこともある。男嶽神社からの景色は最高だった。猿田彦を祀っているので🐒の石像を一杯奉納している。因みに壱岐に🐒はいない。女嶽神社に向かったが、また急坂が見える。ナヨって諦めた。両神社を拝めば、良縁を望めるらしいが、最早そんな年ではない。この日は晩泊まる繁屋千賀荘まで22.2km走らなければならない。壱岐の東岸を北から南へ、🐬パークを出たのが午後2時前だった。更に一支国博物館も寄りたかった。道を急ぐ。途中何度も🐮さんに挨拶する。牛舎が点在する。人は見かけないが、🐮さんがこちらを見ている。ブランド🐮だ。島全体で13,000頭総人口の半分以上になる。🐷さんや🐔さんも🐴さんも見かけなかった。野良😺野良🐶が飛び出してくるのには驚かされた。田んぼからはイタチ。壱岐では家が通りにほぼ面していない。藪や林の先に隠れ、点在している。ご近所付き合いは遠くて大変だろう。川はないが、田んぼがある。豊富な地下水脈があり、土もいいのか。この風景は対馬ではほぼ見られない。面白いの😺!対馬にはヤマ😺イエ😺もいるが、壱岐にはイエ😺のみ、しかも日本最古になる2,000年前に勝本港に近いカラカミ遺跡で確認されている。イエ😺がアジアにやっと辿り着いたこの時代に早くも壱岐で確認できるとは!因みにツシマヤマネコ10万年前には対馬に既に生息している。不思議なことにこの後😺は九州、本州にはやってこない。市民権を得るのは平安時代で、🐭駆除のため中国から人為的に連れてきて初めて。700年の時を待たなければならなかった。一支国博物館に着いたのが午後4時近くになった。最早のんびりできない。壱岐を魏志倭人伝では一支(一大)国と記している。博物館の名前はこれに従っている。倭人伝には、「竹木、叢林が多く、三千ばかりの家があり、やや田地があるが、水田を耕しても食料とするには足らず、やはり南や北と交易して暮らしている」とある。博物館の展望台から見る原の辻遺跡は壮大な田畑に囲まれており、倭人伝の記した風景とは違和感を覚える。紀元前2世紀には既に🐮や🐴がいたことが証明されており、稲作に大きな役割を担っていたことは推測される。有明海に面した弥生遺跡の吉野ヶ里遺跡に🐮や🐴の痕跡は見つかっていない。何故海を渡らなかったのか?魏志倭人伝においても邪馬台国には🐮や🐴はいないとしている。壱岐は大陸との交易基地としての利益は更に大きかったことが寧ろ伺える。力がなければ6世紀末から7世紀にかけて256基も古墳を遺すことはできない。この古墳の意味するものは何か。これこそアジアの海を股に掛け栄華に浴した倭の終焉ではなかったか?一支国博物館を見て感じたことは、想像して復元したジオラマはあるが、その時代に記したものがない。歴史を証明する文書が残されていない。消されたのか、消したのか、繁栄の時代を生きた倭人自ら記した証は何処にいったのか。壱岐の迫力ある眺望をあるがままに受け止めるようににただ遺跡の迫力によって受け入れよと言っているかのようだ。暗くなる前に繁屋千賀荘に着きたかった。倭人伝にある竹木、叢林を越えて、急ぎ向かう。まさに崖の上、浜辺に向かってこの民宿はあった。部屋から、そして風呂からの眺望は間近に海を感じる迫力あるものだった。贅沢の極み。宿泊代朝食込みで10,400円に応える宿、更に晩御飯は別途注文したが、壱岐焼酎1杯込みで5,500円、壱岐牛、サザエ、海藻小鉢、刺身が堪らなく美味しい。決してこの価格は高くない。朝飯もまたまた壱岐豆腐、海苔、納豆、玄界灘のもの、島産はやはり美味いものだ。

参考資料:壱岐の歴史と文化 壱岐の神社 神社、神社信仰の起源 弥生時代のネコとネズミ 原の辻遺跡高元石田高原地区 (2002年度) 出土動物遺存体 魏志倭人伝を考える―牛・馬・カササギについて― なぜ前方後円墳は『記・紀』に描かれていないのか

2024.7.30 3日目:千賀荘🚲→小島神社はらほげ地蔵左京鼻壱岐の華酒造所龍神崎園地→芦辺港🛳️→対馬厳原港🚙→内山峠展望台鮎もどし自然公園豆酘崎小茂田濱神社対馬グランドホテル

13. 千賀荘🚲→小島神社はらほげ地蔵左京鼻

対馬行きの🛳️は11:40amに出る。壱岐とも今日でお別れ。芦辺港には安全を見て11時半に着くよう目指す。距離は昨日の午後より若干長い23km、宿は朝8時に出る。目指すは内海湾、更に島の最東端、左京鼻。今日もいい天気、3日連続の晴れ、東京より涼しい。今年は東北以外異常な暑さで、どうも沖縄と壱岐対馬のみ30℃で収まっている。何せ🚲で走っていても島風が心地いい。他の地域との温度差はこの風の差に違いない。海に囲まれた島は渡る風次第、春一番も壱岐で生まれた言葉。最も漁師にとっては恐ろしい春の到来が起こす恐怖の突風だったが。夏の朝日が海を銀色に輝かせている。湾に沿って東に向かうと右手に小島が見えてくる。中洲が島につながっているのが見えて、初めて、壱岐のモン・サン・ミシェルとわかる。案内板も見える。渡りたかったが、満潮に近づいているようで中洲も1/3が海になっていた。ふと見ると家族連れが中洲に取り残されている。大丈夫なのか?子供が4人で両親が一緒か。無邪気に遊んでいるが。案内板の近くに大きなバンが停めてあり、大阪ナンバーだ。旅の家族なのだろう。他に人は見えない。潮の満ち引きで洲が出てくるくらいなので浅瀬なのだろうと声もかけず、先を急ぐことにした。ただ、母親のスカートの裾の長いことだけが気になった。もう一つ、小島神社がある島は前小島で、昔は小島がもう一つあったようで、私が立っている案内板がある場所になる。堤防に囲まれ、見る影もないことに驚かされた。堤防沿いの道は車道だが、車が走っていない。勿論人影もない。時間が止まったかのようだ。漁港までは一本道、はらほげ地蔵は湾に向かって佇んでいる。六地蔵。それぞれ大きさが違い、風化が激しい。潮は引いているので近くまで寄って表情を確認しようとしたが、ほぼ頭はない。作られたのは室町時代というから500年以上風雨に晒されている。健気に波に向かって立つ後ろ姿が愛おしくなる。彼らの姿に壱岐の島人の生き様が重なって見える。六地蔵は八幡浦漁港の西に位置し、左京鼻までは漁港を抜け、さらに東へ丘を越えて向かう。例によって、急に視界が広がり、何の衒いもない光景に包まれる。危うく通り過ぎるところ。岬の先端に鳥居が見え、左手の海に有名な観音柱が覗いている。左京鼻に着いたらしい。岬の先端まで下草が払われ、眺望が効くように配慮されている。好きなように自然を堪能してくださいと言っているかあのようだ。壱岐の粋、ここにあり、この迫力に息を呑む。残念ながら時間がないので、先を急ぐ。また小島神社の見える堤防のそばに戻り、壱岐の華酒造所に向かう。中洲に取り残された家族連れはもういない。車も無くなっていた。無事、次の旅先に向かったのだろう。ホッとした。

14. 壱岐の華酒造所🚲→龍神崎園地(元寇古戦場)→芦辺港

壱岐には7つの酒造所がある。ほぼ島の南側に集中しており、残念ながら回るルートから外れ、🚲の旅では御法度。郷ノ浦にもう一泊でもしていれば、全酒造所を巡り、見学し、味比べするのもいいが、酒のために1日を費やすのも気が引ける。次の旅、対馬が待っている。せめて1ヶ所くらい雰囲気を味わいたく、芦辺港に向かう途中にある壱岐の華酒造所に寄ることにした。124年続く酒造所は趣も違う。時間がなく酒造の見学はできなかったが、店内見学だけで十分、伝統の重みを感じた。店の方でもサイクリストに期待はしていないようだ。さあ旅は続く。港に🚲を返す前に元寇の古戦場跡を見に行く。幹線を走り、浜に面した港の丘にある。竜神崎園地の少弐資時の墓と仙人塚、ここにも戦場となった証拠はない。言い伝えのみで、墓も碑も大正時代に作られた。発掘されているスタッフを見かける。伺うと「何も出てこない。」実際彼がどう戦ったのか、わからない。実際、蒙古軍は弘安の役で壱岐を占領し、博多を攻める基地にしている。当時の世界最大の艦隊が集結した。4万の兵と900艘の船。なす術はない。は史上世界最大で最強の国。港の前に少弐資時の馬上像があるが、壱岐の島の戦いは海上で戦われ、元軍を駆逐するが、海戦で彼は亡くなった。歴史では語られないが、元寇がもたらした無秩序は壱岐・対馬に倭寇を生み出した。高麗、元共に倭寇の来襲に手を焼くことになる。略奪のしっぺ返しはやはり略奪だった。しかし、が蘇った。これは海を股にかける海人の集結だった。倭寇は日本人だけでなく、朝鮮人、中国人と国を超えて拡大する。国境を越えてこそ倭。対馬は倭寇の巣窟といわれた島、何が待っているか。レンタ🚲を観光案内所に返し、🛳️ポートで壱岐との別れの盃、船は時間通りやってくる。

15. 対馬厳原港🚙→内山峠展望台鮎もどし自然公園豆酘崎小茂田濱神社元寇の目的対馬グランドホテル

壱岐の芦辺港を11:40amに出航、対馬の厳原港着は12:45pm、なんと博多から壱岐の郷ノ浦港までと同じくらい遠い。韓国が近づいているのを感じる。島の先端で測ると対馬は壱岐より釜山が近い。昼食は港で寿司と決めていた。その時、対馬は食事をとるのが厳しいとは思いも及ばなかった。実際はまでも。島が近づく。緑あふれる急峻な山と岩壁に守られた島、人を容易に寄せ付けない雰囲気。海上の要塞。正に第一印象通りだった。港に着くとレンタカー屋さんが迎えに来ている。船から降りた客は概ね車に引き寄せられている。市街地は離れている。港にも山は迫っている。レンタカー屋さんに港の近くの寿司屋に歩いて行きたいと言うと、車で行くのがいいといわれた。駐車場が必ずあるとのこと。車は一番安かったダイハツタフト、山道には到底向いていない。後で悔やむことに。兎に角、寿司屋に向かう。なんと開いていない。火曜日は休み。よく調べておくべきだった。今日の午後の行程は73km、時間は限られているので、市街地に向かわず、そのまま下島の周遊に向かう。これが甘かった。道沿いにカフェも食事処なぞない。あっても休み。観光地であっても、平日はやっていないか、開いてても午後2時くらいには店を閉めてしまう。この日は従って昼飯抜きになる。因みに市街地以外コンビニ、自販機がない。尤も市街地も限られる。対馬での4日間これで苦しむ。道は基本的に細い、信号機がない。対向車と素直に擦れ違えない道が多い。これに関係なく、地元ドライバーは飛ばす。無茶苦茶怖い。青森の下北半島を走ったことがあるが、これより怖い。但し、車の量は圧倒的に少ない。だから寧ろ安全なのかもしれないが、もし自損事故で動けなくなった時、助けてくれない恐怖心がくる。内山峠展望台に向かう道がそうだった。一本の細い道を只管走り続ける。対向車が来ないことを祈り続けた。まるで山を抜ける舗装された林道の如き、魏志倭人伝にある「土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し」が未だ生きている。標高430mの展望台に一人立った時はほっとした。しかし人っ子一人いない観光地は寂しいものだ。眺望は凄いが、山また山の風景で海が遠い。次の目的地は鮎もどし自然公園、只管下りる。幹線に戻ると公園は近い。世にも珍しい一枚岩を川が流れる公園。駐車場は満車状態。吊り橋が渡してあり、川の情景が望める。子供達が嬉々として流れる川に身を任せている。失われた夏の風景がここにある。見ているのは私のみではなかった。若いカップル、日本人ではない。私より前にここを離れた。車のナンバープレートに”わ”の文字がある。次の目的地は豆酘崎、読めない地名。朝鮮海峡に突き出した岬。対馬の最南西になる。向かっているのは私だけではなかった。彼らの車が前を行く。遅い。後ろを走るのが嫌で、山道に向かう。恐ろしい道だった。対向車があれば擦れ違えない道。なんとか乗り切ったが、岬までは結局同じような道だった。彼らの車は岬の前で一緒になった。観光客の大半は韓国人。大型バスで動く、もしくはレンタカー、韓国と中国は車が右側走行になる。私も中国に長く居たので、運転はしなかったが、車移動が多く、体が憶えてしまった。日本で車を運転する際、ちょっとしたことで反対車線に入ってしまう。乗っている家族が驚いて、注意しなければ危ういことになった。彼らもそうだろう。レンタカーを見たら注意することになる。こんな凄い道、韓国にあるのだろうか?岬でアンニョン(安寧)と声を掛ける、韓国語で挨拶を交わしてくれた。因みに豆酘崎で会ったのは彼らだけだった。岬から眺める景色は壱岐に比べ標高が高いだけに迫力が違う。海の色もエメラルドグリーンではなく濃い群青色、荒々しさを感じる。岬は一周できる。迫力ある風景を堪能するにはもってこいの場所だ。最早午後3時を過ぎており、暗くなる前に対馬下島を一周したいので先を急ぐことにした。次は元寇文永の役で最初の対馬襲来の地、小茂田濱神社宗助国の終焉の地。元寇文永の役で始まるが、侵略は1274年11月4日~19日半月のみで、忽然と彼らは玄界灘から消えている。対馬にはこの2/39日間も留まっている。何故か?小茂田浜は江戸時代に干拓が行われるまで小さな入江で、船団を置いて上陸し、全土を制圧する場所ではない。次の元寇弘安の役は7年後の1281年6月8日〜8月22日の2ヶ月半の戦闘を繰り広げる。主戦場は博多湾。この時、対馬は素通りしたと見るべきだ。上陸したのが「高麗史節要」によると”世界村大明浦”になっており、これを対馬佐賀の明神浦としていたが、この地はないし、対馬の上島の佐賀の浦と仮定しても襲来する理由は見当たらない。しかも戦闘を交えたのは出航後3日目、蒙古軍は今の韓国の馬山港から出航している。対馬は目と鼻の先で1日もあれば十分の距離だ。しかも日本側は対馬で誰が戦ったのか分からない。元では武将2名を失っているにも拘らず。寧ろ、主戦場の志賀島大明神に直接向かい、上陸を図ったとすべきだ。要は元寇の対馬侵略目的は対馬銀山のみで、刀伊の入寇同様、銀が欲しかった。宗助国以下一族郎党が守ろうとしたのは国ではない!だ!対馬は自然の要塞であって、攻めるに固すぎる。Ghost of Tsushimaはあくまでもゲームであって、人の命を賭してまで攻防の必要がある島ではるまい。神社も浜辺も閑散としていた。宗助国の銅像だけは新しく見事だった。一度厳原に向かい、本日の宿泊先対馬グランドホテルに向かう。山越えになる。途中、明日お邪魔する予定の蕎麦屋を見かけるが、既に閉めている。厳原の市街地に入らず、幹線を北上し、トンネルを越え、小さな港へ下りる前に右に折れる。丘の上にホテルはある。海に面し、眺望がいい。下島では貴重な温泉の入れる老舗ホテル。晩飯はオーシャンビューレストランで対馬名物穴子天丼1,485円と白嶽生酒1,210円を注文。昼飯抜きで奮発した。穴子天丼は胸焼けもので、年を感じる。酒はスッキリして美味い。やはり 年なりの食事しかできない。 温泉に寝る前にまた入り、明日に備える。明日は久しぶりの山行きになる。

参考資料:蒙古襲来と神風 小茂田 元寇と鉱害を乗り越え、米とノドグロの産地は観光の新たな時代へ

2024.07.31 4日目:対馬グランドホテル🚙→🥾白嶽→🚙金田城跡対州そば匠対馬博物館対馬朝鮮通信使歴史館東横INN対馬厳原対玄

16. 🥾白嶽🚙遭難

壱岐で男嶽神社に詣で、対馬で白嶽に登る。失われた山岳信仰がここにある。遠い昔、山伏の歩いた道。登っていれば分かる。登る人間の気持ちを理解して作られた道。急坂の先には必ず遊びを設けている。修験道とはかくありなん。 登山道は決して自然にできた道ではない。山の登り方を知る古の人が安全なルートを探し出し、道として残してくれたものだ。急坂が続けば体力が消耗し、心も折れる。少しでも負担を減らせば楽に登れる。可能にするのが急坂となだらかな道の繰り返し。一息できる。次の急坂への心と体の準備ができる。修験の道には心憎い気配りがある。だから安心して登れる。白嶽の山頂は大きな岩、這い上がって攀じ登る。高所恐怖症の私には堪らない。山頂でも震えが止まらない。しかし、目を見張る眺望には登る意義ありと納得する。半端ない迫力。巨大な島だけに海と山と半島、囲む島々の美しさが眼前に迫ってくる。これだけの風景を味わえるのは他にはないのではないか。遮るものはない。山岳信仰に触れる喜びがここにある。神がかる風景。平日の登山は静か、駐車場で見かけた3人の山女たちはまだ登ってこない。岩から下りる時に擦れ違う。挨拶すると神奈川県から来ているとのこと。更に一人男性にすれ違った。静岡から来ているとのこと。後で🚙にお乗せすることになろうとはこの時思いも寄らなかった。擦れ違ったのはこの2組のみ。駐車場に下りる際、昨年も同時期に遭難者が出ている注意喚起の通知が目に入る。この時、気を許したのがいけなかったのかもしれない。この後が大変だった。山では全てGPSに従って歩いているので滅多なことでは道に迷わない。ところが🚙に乗った途端、忘れた。どうせ戻る道、山なので一本道だろうと勝手に思い込んだ。カーナビも登山道では使えない。🚙道ではないからだ。結局、V字カーブを見逃し、ドツボへの道を突き進んだ。山は個人のもので、決して登る人のためのものではない。道もまた然り、通常は仕事に使っている訳で、何のための道なのか、冷静に考えるべきであった。私が向かったのは採石場。2箇所も。最後は岩場に嵌り、二進も三進も行かなくなり、助けを呼ぼうと思ったが、全く人気がない。森閑とした採石場に一人きり、震えが止まらない。抜け出すためにタイヤの周りの石を取り除いた。車体の下はガリガリになり、修理費を払わなければならないが、実際、7万円取られることになる。命が優先で、アクセルを踏みながら、タイヤを左右に動かし、もがくだけもがいた。岩場から抜け出せた。後は登山時、道に迷った時と同じように来た道を戻る。これが正解だった。V字路に気が付いた。ラッキーとしか言いようがない。予定通り、金田城跡へ向かう。

参考資料:日本固有の山岳信仰はどのようにして日本の諸宗教と習合して修験道になっていったか

17. 金田城跡 防人の詩が聞こえる

金田城は浅芽湾の南岸、島々に囲まれた城山の山頂に築かれている。朝鮮海峡からは充分に離れ、奥まった場所で 対岸からは見えない。ただ、標高は273mと外海に面する山々より25m以上高い。朝鮮半島から対馬に向かう船隊が充分に望める。迫れば狼煙をあげ、臨戦体制を執れるだろう。自然の要塞。しかし、殺伐とした城跡に一人立ってみると違和感を感じる。水も作物も採れるようなところではない。とても人が住める場所ではない。一方で、城壁は見事な石垣で山頂から海まで伸びている。天守閣がない、正に砦だ。何処を守るためのものだったのか?自然の要塞に立派な城壁が必要なのか?築いたのは日本書紀によると天皇の命を受けた故郷を失われた百済人。飛鳥時代の665年663年にヤマト王権は百済再興のため朝鮮の白村江に兵を派遣し、唐と新羅の連合軍に大敗する。更に日本に攻めてくるのではないか?国家は存亡の危機に立ったのか?どうも違う。対馬への要塞の築城は九州北部から奈良高松の後。国家存亡の危機を謳いながら、地盤強化内部統制を図っていた。この城はヤマト王権が対馬海峡側に入植させた対馬下県直の領の後背地だ。嘗て、対馬はの時代より朝鮮半島の対岸伽耶との交易で栄えていた。中心は朝鮮海峡に面する港。弥生時代の遺跡の数から見ても圧倒的に上島一宮から浅芽湾北岸に集中している。倭の本拠地だった。この地は対馬県直が納めていたはずなのに歴史上からこの名が消されている。対馬下県直対馬県直になる。この山城から睨んでいたのは全盛を誇っていた対馬の中心地だった。ヤマト王権は同様に古代山城を、九州北部に17、瀬戸内海に11、畿内に2総計30箇所に築く。何故これほどまでに築城が必要だったのか?防人も伸長著しい東国から90年にわたり壱岐・対馬を中心に3千人集結させた。これは毒をもって毒を制す。古墳時代に拡大した勢力を去勢させ、生かさず殺さず戦略だった。ヤマト王権樹立に向けて体制を整えるためだ。唐も新羅も攻めてくることはなかった。全て倭を封じ込めるためのものだった。701年、大宝律令によって法と税で彼らを縛り上げ、晴れて日本国を立ち上げる。百済人を利用し、防人の犠牲によって日本は生まれることになる。旧唐書に記している。「日本とは倭とは別であり、小さな国であったが、倭の地を併合して、大きくなった」辺境の地に来てみると見えてくるものがある。聞こえてくるものもある。防人の詩、映画二百三高地の主題歌。日露戦争で多くの日本兵の命を奪ったロシアの旅順要塞を攻略する戦いを描いた映画だ。この戦いで日本側の戦死者数約15,400名、戦傷者数約44,000名。 ロシア側戦死者数約16,000名、戦傷約30,000名の悲劇を生む。欧米に踊らされた戦争だった。残ったのは欧米に対する多額の借金だ。これはウクライナにも通じる。戦の後に残るのは多額の借金だということ私はこの地に立ったことがある。中国の大連にあり、車で上れる。見渡しの良い海に面した潮風の流れる丘の上、ここで、この地に全く縁もゆかりもない防人は死んだ。戦ったのは同じように派兵されただけのコサック騎兵だ。多くはウクライナ人だった。防人とは尖兵となり、前線で戦わなければならない。殺戮の是非を問うことはできない国のために戦うのみ。ウクライナの歌姫ナターシャ・グジーさんがバンドゥーラを弾きながら歌う防人の詩が心を打つ。今ウクライナはロシアとの戦争に多くの戦士を失っている。ロシアも然り。国同士の戦いとしながらも戦っているのは防人同士。要は殺し合いなのだ。これを我々は忘れてはならない。この詩の歌詞が心に沁みる。

海は死にますか 山は死にますか?
春は死にますか 秋は死にますか?
愛は死にますか 心は死にますか?
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか?

参考資料:古代山城は日本を守る防衛ラインだったのか? 倭国の防衛 白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか? 「白村江の戦」後の天智朝外交 前方後円墳築造周縁域としての対馬 魏志倭人伝~青銅器王国・対馬~ 対馬海峡島嶼部における縄文晩期から弥生時代にかけての様相 「日本」はいつ生まれたのか? 東国防人復活要請の背景

18. 対州そば匠 いりやきそばの味の妙

縄文時代、米や麦がなかった。代わりに何を食べていたか。雑穀、黍、粟、稗、どれも食卓から消えていった。唯一残っているのが蕎麦、日本人の主食としては一番歴史が長い。縄文時代前期より9千年以上食べられてきた。とは言え、蕎麦は硬い殻があり、食べるには粉引きしなければならない。石臼のなかった日本では他の雑穀に比べ地位は低かった。対馬には日本在来種が残っているという。元々蕎麦自体が中国そして朝鮮から渡ってきたもので、在来種というのも変だが、蒙古馬由来の対州馬も日本在来種であり、要は日本に渡ってきたそのままを残しているものとなる。対州そば、今回の対馬の食旅1番の目的だ。実際、対馬では食べられる店が少ないことに驚かされる。食事処自体が少ないのだが、蕎麦屋がない。wikipediaに気になる分析があった。国境の島・対馬には韓国からの観光客が多く訪れるが、対州そばは韓国人の嗜好とは合わず、市場に限りがあった。ネットに必ず出てくる対州そば匠に行く。金田城跡から道路に出たのは1時半過ぎ、昨日も閉めていたので、確認のため電話を入れた。正解だった 2時半でオーダーストップ。間に合わないかもしれない。着くまで閉めないで欲しいと頼み込んだ。待っていてくれるとのこと。ホッとしたが、道は最短コース、また細い山道だ。怖いなんて言ってられない。突っ走った。何と対向車がない、信号もない、人家も人気もない、それだけではない、コンビニも自販機もない。水場がない、白嶽から下りてから水を一滴も飲んでいない。旅行者に厳しい島。決して生優しい観光地ではない。最大の顧客は韓国人で、皆ほぼバスで移動する。すると途中降りない。従って、店はいらないということか、妙に納得する。2時半をちょっと過ぎていた。電話を入れておいて良かった。元は道の駅?広く、清潔感がある。店の人にまずお礼をする。全て女性、高齢な方が多い。地元のお姉様方のようだ。酒が欲しかったが、運転が待っている。しかも山道、厳原までは遠い。とても呑む勇気が生まれない。水をまず頼んでがぶ飲みする。冷静さを取り戻し、メニューに目を通す。いりやきそばが目に入る。何だろう。地鶏とある。単品にしては950円と少々高い気がするが、ラーメンのノリだ。後で調べると、2年前より200円上がっている。併せて蕎麦がきも頼む。350円、当たり前の価格。もう閉店間際で平日、客は地元の方ではないのが分かる。3組ほど。仕事で来ているのか。船に乗っていたのもビジネスマンが多かった。対馬に遊びにくるのは韓国人が多い。蕎麦の個人当たり消費量は圧倒的に韓国だ。冷麺が中心。冷麺蕎麦、ツナギを使う。私は江戸の花二八蕎麦誕生は朝鮮通信使がツナギを伝えてくれたお陰と思っている。蕎麦にツナギは当たり前、しかもソールフードはそんなに高くないものだ。いりやきそばは、鳥もつと野菜がメイン、そしてツナギなしの十割蕎麦。対馬は蕎麦の店より饂飩の店が多い。そしてソールフードろくべえがある。これは島原と対馬しかない、干したサツマイモで作った麺、保存食にもなる。飢饉の時の恩がある。いりやきそばと基本同じ出汁の麺料理、どう見てもろくべえに分がある。饂飩は麺としての歴史で分がある。残念ながら蕎麦屋の少ない理由がわかる。対馬では蕎麦は個々の家で守られ、ハレの時に食す。風習の中で蕎麦は生きている。いりやきそばは、鳥と椎茸の出汁がきいている透明な汁、蕎麦が饂飩の世界に入り込んだ感じだ。一口目で饂飩汁と思ってしまう。これには蕎麦の食材としての歴史にある。蕎麦は麺としての歴史は饂飩より確かに浅いが、蕎麦がきとして食べられていた歴史は遥かに長い。古くは、同じく朝鮮から渡ってきた味噌そして醤油に浸して食べていた。関西に出汁の文化が生まれてもこの食の文化を縄文時代に繁栄した東日本は受け入れられなかった。東日本で饂飩を出し汁で食べることは許しても蕎麦だけは折れなかった。蕎麦はそれだけ日本の原初的食材といえよう。これが蕎麦の古い形が残る対馬で出し汁で食すことに驚かされた。尤も朝鮮古来の冷麺もまた出し汁だ。対馬の透明で美味しい汁は麺を汁で食す時の味の最高の引き出し方を教えているに違いない。朝鮮通信使が美味しい出し汁の作り方を伝えたのかも知れない。朝鮮では皿を持って汁を飲んではいけない。ところが、冷麺の汁だけは皿を持って全部飲んでも良いことになっている。それほどこの汁が美味いことを彼らは知っている。いりやきそばの美味さは出し汁の旨さと具の新鮮さ、これに馴染む十割蕎麦のキレの良さにある。一気に汁と具と蕎麦を平らげた。疲れが一気に吹っ飛んだ感じがする。

参考資料:対馬のそば 

19. 対馬博物館対馬朝鮮通信使歴史館東横INN対馬厳原対玄

対州そば匠は島の西側の小茂田浜濱神社にもはや近く、島の東の厳原までは山越えになる。昨日と同じ道のりだが、今日は街中へ入る。博物館を2つ巡る。もう午後2時半過ぎ、博物館は午後4時半で閉まる。急がなければならない。カーナビによると今日泊まる東横INN対馬厳原対馬博物館対馬朝鮮通信使歴史館も近い。それだけでも安心する。街中に入る。博物館の位置は分かるも入口がわからない。求めて走るうちに立派な門に辿り着く。車で通り抜けられる。後で金石城の櫓門と分かる。1990年に復元された。宗家は城を築かず、門を天守閣の代わりにしていた。流石に迫力を感じる。門をくぐると右手に博物館の回廊のようなエントランスが見えてくる。車をどこに停めるのか?全く案内がない。駐車場を求めて、車を更に走らせると広場の駐車場がある。ここに停めていいのか分からないが、何せ時間がない。怒られれば謝るしかない。急いでエントランスから博物館の受付へ、入館料を払って中へ。博物館は外観も中身も確かに立派だが、何故か浮いている感じがする。2022年開館したばかりらしく、全てが新しく、見事だが、何かが足らない。これは一支国博物館が余りに凄かったからかも知れない。尤も私は博物館は滅多に行かないし、余程じゃないと行かないので偉そうなことは言えない。ただ、感じたのは、この博物館で、対馬という悠久の歴史を刻んできた国としての重みというか、魅力を感じることができなかった。宗家7百年の歩み、対馬銀山の歴史、対馬と朝鮮の貿易の中身、元寇倭寇と対馬、知りたい対馬の歴史が物の展示で終わっている。少なくとも一支国博物には島民の息遣いが感じられ、この島の生き生きとした魅力を感じることができた。印象に残らない博物館の一つではないか?これだけのロケーションで勿体無いと思うのだが。印象に残ったのは寧ろプチ展示の盆踊りの風習だった。男だけしかも長男のみで盆踊りをすることに興味を抱いた。何故そうなのか?もっと知りたかった。一つ言えることは、対馬は侍の多く住む国だったということ、農地が少なく、農家に力はなく、百姓一揆のない珍しい国だったということだ。早々に対馬朝鮮通信使歴史館に向かう。歩いていけるかと思い、金石城の櫓門に向かい、金石川沿いに城址公園内を歩いていくと橋がなく、渡れない。夏の日差しは厳しい。博物館もほぼ見学者がいなかった。公園内もと思っていたが、何と20名ほどの集団がいる。日傘を指している中年の女性、がたいの大きな男性、かつての日本の農協集団と違い、年寄りではない、中高年から若年層の韓国人観光客だ。女性のガイドが一名、石碑の前で説明している。彼らは熱心にかどうか分からないが、耳を傾けている。暑いのに大変だ。彼らが説明を受けていたのは対馬宗家第37代当主宗武志氏と朝鮮王朝の李家第26代国王高宗氏の王女徳恵翁主が結婚し、1931年対馬に訪れたことを記念する石碑だった。この時、既に宗家は明治維新によって対馬を追われた。伯爵家となり、東京目黒に住む。戦後は伯爵家も剥奪されている。一方、朝鮮王朝も1910年に日本に併合され、既にこの時滅亡している。李王家はこれ以降、日本に取り込まれ、敗戦後は日本だけでなく大韓民国の国籍まで失う羽目に陥る。ツアー客はどう感じているのだろうか?真夏の暑さ、西に位置する島は日が長い。対馬朝鮮通信使歴史館までは結構歩かなければならない。金石城の櫓門まで戻り、金石川を越えて、沿って道を上って行くことになる。堪らない。駐車場に戻り、車で向かう。すると川沿いに集団が歩かされている。彼らだ。私と一緒で歴史館へ向かうのだろう。可哀想に。お先に向かわせてもらう。2021年にこの歴史館はできている。博物館より1年早い。展示場自体は広くはない。1フロアとビデオ鑑賞室、寧ろ狭さを感じる。大人数に対応できる施設ではない。瀬戸内の蒲刈島松濤園に比較すると雲泥の差だ。朝鮮通信使2017年にユネスコの世界の記憶に選ばれている。概要は「朝鮮通信使文書 17世紀から19世紀にかけての朝鮮と日本の平和構築文化交流の歴史」が、1607年から1811年にかけて12回、日本幕府の要請により朝鮮から日本に派遣された外交使節団に関する資料で構成されている。両国で保管されている対象文書は、外交文書、旅行記録、文化交流記録などであり、いずれも両国の和解相互理解の促進、外交・文化・産業の各分野での交流における通信使団の重要性を物語っている。通信使は、16世紀後半の豊臣秀吉の朝鮮侵略により断絶していた両国の外交関係を回復し、平和関係を維持するのに貢献した。登録までの経緯、韓国・釜山市の外郭団体「釜山文化財団」が2012年に共同申請を日本側に打診、対馬市を中心とした朝鮮通信使縁地連絡協議会がこれに応え、2015年に共同で申請し、2年後にユネスコにより認められた。この協議会は北は栃木県日光、東京、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、兵庫、岡山、広島、山口、福岡、そして長崎壱岐・対馬の13都府県の17自治体で構成されている。朝鮮通信使は、凡そ200年の間に最大500人8ヶ月掛けてソウルと江戸を12往復した。日本各地に相当な印象を残したかが分かる。しかもこの世界の記憶登録への申請が日本ではなく、韓国釜山から提案されたことだ。日本と同様に朝鮮通信使の重要性を理解しているのが韓国ということだ。恩讐の彼方に真実を残そうとしている姿は素晴らしい。対馬藩の儒学者雨森芳洲の唱えた「誠信交隣」(互いに欺かず、争わず、真実をもって交わること)の言葉の重さを実感する。そして何より、対馬と釜山は失われたの同じ民族だったことだ。国を超えて通じるものがある。韓国からのツアー客が歴史館にやっと辿り着いた。ビデオ視聴室には到底入りきれない。ツアーコンダクターの若き女性と話を交わす。流暢な日本語を話すが、対馬以外は知らないとのこと。日本語も韓国で勉強した由。ツアーで来られた韓国人が興味あるのは免税店であることは容易に理解できる。訪日客の半分は日帰りだ。しかし、少しでも日本に接し、理解してもらうのが、国境の島としての対馬の役割でもあると思われた。平和があって、初めて国境の島の安全は保たれる。そのためにも対馬の博物館や歴史館の韓国人の目線に合わせた充実化が望まれる。ユネスコ憲章の冒頭「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」が思い出される。重要なのはコミュニケーション(意思疎通)に違いない。歴史館を後にし、今晩宿泊の東横INN対馬厳原に向かう。ビジネスマンの泊まるホテルだが、ここにも韓国人観光客が来ている。コロナ禍からインバウンド旅行業界は完全に蘇っている。駐車場も予約制とは知らなかった。道路を挟んで対馬市交流センターの駐車場に停める。1泊950 円也。致し方ない。旅は続く。ホテルから海は望めるが、これは通路からのみ。夜はネットで目星をつけていた飲み屋に歩いて向かう。魚が美味いとのこと。予約はしていない。ネット情報とかけ離れている場合があるので、現地で確認して入るようにしている。平日なので、カウンターであれば座れるはずと見ていた。厳原の飲み屋街は川沿いに密集しているが、目指した対玄は川から道一本離れている。川の流れは見えない。昨日は地酒の白嶽を堪能したので、この日は焼酎対馬やまねことした。すっきりした味わいがいい。酒の肴に合う。刺身の盛り合わせ、カサゴの唐揚げ、つまみ3種で計5,130円也。まあ夜はこんなものでしょ。今日は色々あり過ぎて、疲れ果てて対馬2日目が終わった。兎に角、天気がいい。夜空を見上げ、島一人旅の喜びに浸る。ホテルは近い。東横INN対馬厳原のいいところは、ビジネスマン向けなのでコインランドリーが敷設されているところだ。助かる。ただ朝飯はバイキング形式で並ばなければならない。脅されてはいたが、長蛇の列には参った。朝に食べておかないと、実際、対馬は水と食の確保が大変なのだ。

参考資料:長崎の城 金石城 朝鮮通信使、その“善隣友好・平和外交”に学ぶ 激変する隣国 日韓関係展望 文化から平和を考える-釜山国際文化フォーラムに出席して 「誠信外交」に尽くした雨森芳洲の思想を読み解く展示 滋賀県長浜市

2024.08.01 5日目:東横INN対馬厳原🚙→⛩️和多都美神社→🥾烏帽子岳展望所→⛩️対馬國一之宮 海神神社→🐴目保呂ダム馬事公園🇯🇵最北西端→😺対馬野生生物保護センター🇰🇷展望所上対馬♨️渚の湯DAEMADO HOTEL →🥃対馬久兵衛商店

20. 和多都美神社の5連⛩️は韓国の巨済島につながる

和多都美神社へは東横INN対馬厳原から🚙で1時間ちょっとで着く。ホテルの前の幹線をそのまま北へ走り、万関🌉を越え、下島から上島へ渡る。更に仁位川を渡らず、左に折れ、川沿いを走る。大⛩️を潜れば、右手に5連の⛩️が海に向かって並んでいるのが見える。左手には三柱⛩️、更に社と、神社へと辿り着く。海を正面に凛と立つ姿はまさに海神の神社に相応しい。⛩️は一直線に海の果てに向かっている。どこまで行くのか?ネットで調べると韓国の巨済島朝鮮半島に一番近い島。ここから先祖は海を渡って対馬にやってきたのか?わたつみ渡津神と読める。魏志倭人伝によると、「朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、韓の国々を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国に到着する。そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国に到着する。居るところは絶島で、広さ四百余里平方ばかり、その土地は、山は険しく、深林が多く、道路は獣のふみわけ道のようである。千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。」魏志倭人伝を正とするならば、対馬の対岸もであり、狗邪韓国巨済島を通し、対馬に渡っていたことが分かる。対馬で最も古く、由緒ある神社の意味がわかる。今、🛳で繋がっている韓国の釜山もであり、対馬と同族だった。対馬は古より朝鮮半島との交易で暮らしていた。韓国に近い上島の港が倭の時代栄え、対馬の中心であった。この五連⛩️の意味がわかる。境内に向かう。平日にもかかわらず人が多い、特に女性が。どうも御朱印が有名らしい。宮司もいる。話しかけると何故か睨まれた。不審者に思われた。まあ良しとして、嫌に韓国語の看板が目に付く。読めない。後で翻訳してみると「韓国人出入り禁止」とある。多くのUtubeチャンネルでこの件を取り上げている。参考に”頼むぜエディタ氏”のものを上記にお見せする。確かに酷いことを韓国人が犯している。しかし、一部の観光客の罪に対し全ての韓国人が責任を取れとはおかしくないか?もしこれが日本人に対し日本語で書かれていたら関係なく見たものは悲しくならないか?個別犯罪を人種や民族や国籍の所為にしてはいけない。美しい風景に接した時、少しでも相応しくないものは見たくないものだ。見た途端、興醒めする。対馬藩の朝鮮通信使招聘による200年に及ぶ日韓の平和な時代の構築。更にこの記録をユネスコの世界記憶遺産に韓国釜山と共同で対馬市が登録させた功績が吹っ飛んでしまう。正に対馬の光と影を見た。対馬は10年で人口が半分になっている。この危機的状況に経済的活路を海外に求める努力をしている。魅力のない島は更に縮小に向かわざるを得なくなると危惧せざるを得ない。一方、神社も島民の減少という危機的状況で氏子を増やさなければならない。門戸を広げないと後はない。神道を誰にでも認められる宗教にすべきではないか。そのためにはこの神秘性や一過性のブームの御朱印のみに頼らず、神道をより多くの人間に理解してもらう説明が必要であり、遠くの親戚より近くの友人を増やすべきではないのか?重要なことは話し合い相手に理解してもらう努力同じが流れている話せば分からないはずはない例え格式ある神社であっても相手を理解し、歩み寄る心がまず必要トイレをきれいに利用してもらうためにはまず感謝の心を伝える。いつもきれいにお使い頂きありがとうございますから始めるべきではないか?その上で神道のエチケットを理解をしてもらうべきで、何も知らない人間に頭ごなしに道理を押し付けることは無理ではないか。万人に通じるような普遍的真理を説き、教え導くことが宗教の基本。もう国家神道の時代ではない。神社は宗教法人で、土地も社も私人のものではなく、神社本庁管理になる。従って免税の恩恵を受けている。この韓国人立ち入り禁止も神社本庁判断なのか、問題になろう。尤も神社にとって重要なのは御朱印を求めてくれる顧客であって、関係ない方(私も含めて)には寄ってほしくないのも理解できる。同じように対馬にとって重要なのは、多くのお金を落としてくれる大勢の韓国旅行者であって、少数の日本人旅行者はどうでもいいのも理解できる。もっと言えば、韓国旅行者にはお金をより落とす街中に来て欲しく、関係ない場所には来て欲しくないと思っているのだろう。しかし対馬の本当の魅力は来て欲しくないところにある。

参考資料:対馬の神々が証する古代海路 邪馬台国への道のり 

21. 🥾烏帽子岳展望所から🇰🇷の山々を望む

今日も太陽が眩しい。この旅で一度も雨に降られていない。曇りなき空。毎日🌞は旅を数倍楽しくする。しかし、問題は季節、真夏だ。汗をかく、喉が渇く。水分の補給は欠かせない。観光地に欠かせないのが自販機になる。ところが対馬に限ってはない、見かけない。驚いたのが、烏帽子岳に向かう途中、神話の里自然公園の入り口にあった自販機、お金を入れてもうんともすんとも、入れた小銭が帰ってくるのみ、何じゃこりゃ。もはや諦める他ない。車を更に走らせる。展望所へ向かう道が通行止めになっている。ここも諦め、ナビで調べると先に港がある。流石に自販機はあろう。向かう道は烏帽子岳の裾野。登り口の道標が左手にチラと見えた。水無しの山登りは命取りと急ぐ。閑散とした港に着く。佐志賀港。自販機ばかりか人っ子一人見えない。数軒の人家が堤防に囲まれた浜辺に沿う、静か、波の音もしない。丁度、船着場におじいちゃんを見かける。この近くに自販機ありませんか?と車を降りて伺う。ニコニコして首を横に振っている。この先の港は?ただ、おじいちゃんは私に家に来いとおっしゃる。立派な家。店をやってるようではない。家の外で待っていると、何と腕一杯に飲み物、アイスを持ってきてくれた。おいくらでしょうか?いらない。おじいちゃんはおばあちゃんと二人暮らしとのこと。一階は雨戸を閉めている。広い家のようだ。子や孫は島にはいないとのこと。お金をお渡しするのは心配りに反するようで、お礼のみでお別れする。見ず知らずの不審者の私に助けの手を差し伸べてくれて、感謝の気持ちをどう表して良いか。壱岐でパンク事故、対馬で水、島人の助けで、やっと旅を続けている。旅人にとってそこに住む人々の親切が何よりの助け。無事帰ることができた時、その方々の顔が浮かぶ。旅のいい思い出とその顔がダブル。行って良かったとつくづく思われる瞬間だ。頂いたのはポカリ、アイス、野菜ジュース、お茶、これがなんと本日の昼飯になる。この後、遂に開いている食事処を見つけられなかった。一気に頂いたものを腹に収める、元気百倍、烏帽子岳に登る勇気が湧いてきたから不思議。登山口に戻り、車を道端に停め、山に入った。標高176m、それほどの高さではないが、一気に登る道は結構しんどい。ただ、登山道は整備されている。地元の方が頻繁に登っている道なのだろう。すぐわかる。登りやすい一本道だからだ。山頂の展望台は素晴らしい。この展望台の良さは360度見渡せるだけではない。対馬全体像を確認でき、東西南北の特色ある風景が楽しめ、遥か韓国の山並みまで望める。巨済島の山々。500m級の山が連なる。どこか対馬に似ている。呼応しているかのようだ。烏帽子岳は対馬の中心。浅茅湾の北岸、東には対馬海峡、西には朝鮮海峡が広がり、複雑な入り江と無数の島々の景観に、白嶽も凛々しい姿を見せてくれる。この日、私以外登るものはいなかった。全てを独り占め、力水を授けてくれた港のおじいちゃんに感謝

22. ⛩️対馬國一之宮 海神神社 2つのわたつみ神社の鳥居の先は同じ韓国の巨済島だった。

烏帽子岳から下りて、⛩️対馬國一之宮 海神神社に🚙で向かう。来た道を辿り、仁位川を渡る。幹線に出たら、北へ、30分程走ると街中へ出る。峰町。倭の時代の中心としての面影をみる。家一軒一軒が大きい。嘗ては朝鮮との交易で栄えたのだろう。三根川が流れ、湾を形成している。目指す神社は更に山を越え、より朝鮮海峡に近い西の湾に面する。小さな集落を抜けると海に向かって公園になっている。駐車場がある。和多都美神社と違い人気がない。閑散としている。ただ奥が深い。鳥居から山に向かって参道が延びており、御神体は山の趣。蝉の声が煩い。宮司もいないようだ。御朱印は和多都美神社に渡している。一の⛩️を潜ると廃屋が目に入る。参道は石積みになっていない。いったい、対馬国の一乃宮なのか?927年に纏められた延喜式神名帳によると海神神社もまた和多都美神社になっている。最も古い和多都美神社はその頃、陸から行けなかった。格式高い奥の院だったに違いない。Googleマップでこの2つの神社の⛩️の方向を探ってみる。何と同じ韓国の巨済島加背港に辿り着く。魏志倭人伝に記された対馬に向かう倭の北岸にある狗邪韓国の港がここか?ここから海神としての倭人がやって来たのだろうか?紀元前5世紀に滅ぼされたの民は、中国の江南から北へ、青島から朝鮮半島に渡った。そして南へ、1,850kmの旅を終え、1世紀に半島南から九州北部に渡る広大なの国を作る。これは、時は下るが、同じルーツのの民がやはりに追われ、今度は南に進路を取り、ベトナムに国を作り、タイシンガポールマレーシアインドネシアに華僑支配を繰り広げたのに呼応する。対馬はの中心に位置する。を繋げたのは対馬。正にの軸だった。最終的にはは難波まで辿り着き、8世紀のヤマト王権による日本建国へと繋がっていく。和多都美神社の⛩️の意味するものが如何に重いかだ。

参考資料:東アジアにおける「海域」と国家 「任那日本府」とは何か~朝鮮半島における倭人の勢力~ 任那日本府と倭について 延喜式神名帳にみる和多都美神社

23. 目保呂ダム馬事公園、在来🐴の悲しき後ろ姿を見る

対馬と言えばやはり🐴。対州馬と呼ばれる、日本の在来種の元に位置する。日本には元々🐴はいない。蒙古からやってきて1,300年、日本という環境の中で独自の進化を遂げた。🐴は船旅に弱い、朝鮮半島から最短の対馬経由で渡ってきたことがDNAから確認されている。ヤマト勢力を抑えるために連れてきたのは明白だ。最も古い馬の骨が見つかったのは壱岐の原の辻遺跡だが、一番多いのはが制覇したヤマトの地だ。古墳時代中期、5世紀初頭、伽耶の全盛期であって、が大阪に最も偉大な古墳を作った時期になる。ヤマト勢力は🐴を恐れ慄いたに違いない。この時の🐴の姿に最も近いのが対州馬、是非会いに行かなければならない。海神神社からは🚙で30分ほど、公園なので食事でもできるところもあろうかと期待する。既に昼を回っての出発。道は幹線から外れ、仁田川沿いを遡っていく、ダムを右手に見て、更に上流へと向かう。心細くなった頃、右手の崖下に🐴小屋が見えてくる。黒髪の🐴が大きい瞳でこちらを見ている。対州馬、広い馬場では、数頭が風に鬣を靡かせ、夏の陽射しを浴びながら、揺蕩う時間を楽しんでいる。この公園には30頭ほど、今、彼らは絶滅の危機にある。60年前、島内に千頭以上暮らしていたのが最早50頭を切っている。この公園にいる対州馬が対馬で一番多い。振り返れば、確かに最早彼らの時代ではない。全ては耕運機、軽トラに置き替えられている。お役御免。馬は古墳時代、権威の象徴になり、神馬として崇められ、重要な移動手段になる。やがて戦いの舞台に立たせられ、弓矢の飛び交う中走らされた。馬が脅威となり、日本を動かした時代もあった。平和な江戸時代には伝馬になり、農耕馬になった。明治以降、海外の馬に伍する軍馬が必要になった。軍部は優良な在来馬に品種改良を強要した。品種改良と言うと聞こえが良いが、簡単に言うと在来種の牡馬の去勢と体力優位な欧米の牡馬を持ってきて種付けだ。今、在来種として残ることができたのは駄馬のみだ。結果として、在来馬の雄だった南部馬絶滅した。軍用に向かない駄馬は農民と共に地を這って生き残れた。しかし、彼らも今また耕運機、軽トラに追われ風前の灯だ。数千キロ離れた故郷から連れて来られ、1,300年間、見知らぬ土地に適応し、新たな種を作り、根を張り、戦火を潜り抜け、種の危機に接しながら、農耕に汗し、奉仕してきたにも拘らず、呆気なく、捨てられるとは何とも辛く悲しい日本の馬の歴史ではないか。夏の平日の昼下がり、私以外誰もいない馬場と馬小屋。対州馬のみ私を見つめている。食べるところなんてない。

参考資料:対州馬の歴史 日本在来馬の歴史的変遷と現状 南部馬の歴史

24. 😺対馬野生生物保護センター ツシマヤマネコは寝ている。絶滅の危機に立ち向かう術は最早ないのか?

🐴事公園から😺に会いに対馬野生生物保護センターに向かう。🇯🇵最北西端棹崎公園内にあり、🚙で1時間以上かかる。仁田川を下り、幹線に戻る。北へ進路を選び、トンネルを抜け、山越え、幹線から離れ、佐護川を下る。港に入る手間、左手に山に向かう細い道が見える。見逃しそうだ。例によって🚙が擦れ違えるのかと思えるほどの狭い道。上っていく。観光地に向かう道とは思えない。行き着く先が棹崎公園の駐車場になる。そこに🚙を停め、対馬野生生物保護センターまで歩くことにした。行ってみてわかるのだが、見るための施設ではなく、知るための施設。入り口も地味、中も事務所を改良した雰囲気で広くはない。展示物もの保存の重要さがわかるようになっている。奥に1匹 ツシマヤマネコが飼育されている。夜行性なので、案の定、寝ている。福岡生まれ。野生であれば飼えない。野生の😺は島内のみ100頭弱しかいない。正に絶滅危惧種。時々車に轢かれて亡くなられている由。しかも野生では9年しか生きられない。肉食であっても山に木の実が少なくなれば生きていけない。木の実を食べる小動物を食べるからだ。限られた島の中で、食物連鎖ピラミッドの頂点に位置するツシマヤマネコは個体数が絞られるだけに、環境の影響を一番受けやすいことになる。実のならない杉や檜を人間が増やす限り生き残るのは大変になる。済州島では同じ種のヤマネコが近年絶滅している。ツシマヤマネコ10万年前には既に対馬にいた。彼らは海を渡れない。どうやって対馬に来たか?日本が大陸棚で朝鮮半島に繋がっていたのがこの地だったから。山であった対馬にも済州島にも😺は住んでいた。アムールヤマネコ、北方のベンガルヤマネコ。間氷期の終わりに海が上昇し、東シナ海と日本海がつながり、山は島になり、彼らは孤立する。厳しい島の環境の中で今唯一残っているのがツシマヤマネコ。彼らを守ったのは対馬の90%を占める原生林であり、自然だった。同じように日本にはもう一種のイリオモテヤマネコがいる。こちらは、八重山諸島が大陸に繋がっていた台湾の半島になっていた時に、ベンガルヤマネコが生息しており、海の引いた西表島に残った😺だ。宮古島石垣島のヤマネコは有史前に絶滅しており、残るは台湾西表島になっている。台湾には500頭前後残っているようだが、西表島は今、100頭前後と危機的状態が変わらない。狭い地理的条件で、😺の生きていく環境を保つことが非常に厳しいことがわかる。同様に対馬という決して恵まれた環境の中で生き抜くには自然を守ることの重要性をツシマヤマネコを通してひしひしと感じる。

韓国にもアムールヤマネコが生息している。対馬野生生物保護センターの指導員に韓国の状況をお聞きしたが、交流がないようだ。台湾西表島は積極的に交流を図っているにも拘らず、韓国対馬の交流がないのには違和感を持つ。台湾はヤマネコを石虎と呼ぶ。韓国では中国呼びの彪猫や日本と同じ山猫と呼んでいる。対馬と同種であり、交流は安全弁になると思うのだが。韓国のutubeを見ると癒されるのでこのブログに貼り付けた。

参考資料:イエネコ・ヤマネコの過去・未来 遺伝子からみたイリオモテヤマネコと
ツシマヤマネコの渡来と進化起源
 ヤマネコが語る西表島の生態系 森の声 台湾の絶滅危惧動物

25. 🇯🇵最北西端🇰🇷展望所 海外との接点に対馬がある。朝鮮半島がすぐそこに 巨済島と釜山、発展した韓国から多くの旅行者が来る。目的は買い物

🇯🇵の最も北西にあるとはどういうことだろうか?北の果てなら択捉島、南の果ては沖ノ鳥島、東の果ては南鳥島、西の果ては与那国島。国の果てであれば、他国に接するところ。北は🇷🇺、東と南は🇺🇸、西は🇹🇼になる。一番近いのは🇷🇺ウルップ島で僅か40km、次が🇹🇼で110km、🇺🇸とは沖ノ鳥島から北マリアナ諸島ウラカス島914kmとなるが、実際行くとなると話は別。どの島間で🛳️✈️も運行していない。しかも国の果てまで辿り着くのさえ覚束ないのが事実。東西南北の果てがそのまま海外につながっていない。ところが、果てで唯一海外と直接🛳️で繋がっているところがある。ここ対馬北西の果てになり、他国の🇰🇷に49.5km、🛳️で往復5時間、平日往復23,000円。近くて、早くて、安くて、気軽に行ける。対馬までも🛳️✈️で安近短に行ける。これは逆も真也で、🇰🇷側からも一番近い国は🇯🇵で、やはりこれが対馬。地続きの北朝鮮があるではないかと言われるが、只今休戦中!おいそれと行けない。🇨🇳へは、🇰🇷最西端の白翎島から黄海を渡り威海までの179kmが最短。🇯🇵🇰🇷は容易に交流できる一番近い国同士になる。民族文化宗教言語においても一番近い国同士。実際、見た目で区別できないのが真実。それだけに軋轢が生じる理があるのも真実。対馬は正に両国にとって海外交流の場として重要な位置を占めることがわかる。実際、対岸同士で繋がっていた古い歴史がある。一方、が紛争を巻き起こしていたことも事実。

🇯🇵最北西端の碑から🇰🇷を望み、巨済島の山並みが間近に迫ってくるのを眺めると倭の海の道を実感する。来るまでは対馬から眺められるのは釜山と思っていたが、実際は巨済島であり、この500m級の山々を望めることが分かった。巨済島の大きさは401.6㎢、壱岐の3倍、対馬の2/3に届かないが、人口は壱岐の10倍余りの234,000人20万都市だ。🇰🇷では済州島に次ぐ大きさ。釜山とは海底トンネルと大橋で繋がっている。対馬から釜山のビル群を望むのは次に訪れる🇰🇷展望所になる。ここは対馬の最北端に近い。たどり着くのが大変だった。小一時間のドライブだが、鰐浦からトンネルを抜けず、山を縫って走る道をナビは示す。その通りに走るとエグい道が待っている。小型車でも岩場をスレスレに通り抜ける箇所が登場し、心臓が凍りそうになる。わざとそうしているのか、そう思いたくないが、勘弁して欲しい道だ。展望所は立派で駐車場も広いが、どうもギクシャクしている観がある。来て欲しいのか、寧ろ近寄る勿れなのか、何れにしても周りは食事処も店も自販機も圧倒的に少ない。壱岐との差が大きすぎる。来るなら覚悟せい、みたいな感じだ。🇰🇷展望所は、望郷の年から韓国人が建てたのかと思えるほど韓国の建物のようだ。眺めも素晴らしい。少し霞がかっていたが、くっきりと釜山の街並みというか、壮大なビル群が見える。最初に釜山を訪ねたのは日本がバブルで踊りまくり、韓国へのキーセン旅行に現を抜かしていた頃。もうそれから35年も経つ。いつの間にか、韓国は今世紀にかけて2度の通貨危機、リーマンショックを乗り越え、一人当たりGDPが日本に並ぶくらいに成長してきている。これを如実に表す風景。釜山の面積は対馬より若干大きい位だが、人口は330万と対馬の120倍近くになる。但し、この人口では福岡県の65%程度で程度で大したことがないと感じるかもしれない。しかし、ここに近隣の蔚山や大邱が入ると1千万以上になり北部九州の総人口に匹敵することになる。高々26,000人に過ぎない対馬にとって大きな脅威に感じるのは当たり前。それでなくとも人口が減り続け、消滅可能性自治体の一つとして名が上がっている。2018年には韓国人観光客は40万人を突破している。対馬人口の15倍以上の韓国人が来ているということだ。一方法人旅行者は低位安定で、この年は3人に2人は韓国人の旅行者だった。何故韓国旅行者が多いか、簡単だ。対馬が韓国から見て海外だということ。輸入品を免税で買えるメリットに尽きる。対馬に魅力がない訳ではないが、それ以上に海外の優れ物を安く欲しがる人間が増えているからだ。今年は、輸出貿易管理規制の緩和、コロナが落ち着き円安ウォン高の傾向、政治的にも親日にシフトしていることからこの数字を軽く超えるだろう。実際、2023年14万を既にに越えている。しかし、インバウンドによって対馬の景気全体への影響が期待できない。免税であり、韓国の旅行業者が全て利益を持って行ってしまっているのが現実。🇰🇷展望所には私以外、やはり韓国人の家族連れがきていた。年頃の娘を連れた老夫婦。レンタカーだった。遠く釜山を望み、満足して、何処かへ消えていった。

参考資料:「お隣の国」は本当に韓国?地図上で一番近い国を比べてみた 国境離島って? 「消滅可能性自治体」マップと一覧 韓国の地方消滅と公共機関移転政策分析 

26. →上対馬♨️渚の湯DAEMADO HOTEL 対馬久兵衛商店 🇰🇷で流行っている🇯🇵の酒に😳😳😳

対馬の北端を走る。山を越えると港、更に山を越え港、これが対馬の風景。海が道で、町と町をつなぐのは船だった。リアス式海岸なので、入江が深い。港として最適。生業の中心は漁業。海には強いが陸には弱い。道路の改善が進まない理由がここにある。上対馬♨️渚の湯は海際、海水浴場、キャンプ場の近く、夏とは言え平日の夕方近く、地元のおじいちゃんたちがのんびり湯に浸かっている。風呂で眼前に広がる海原をスマホで撮っていると、睨まれた。すみませんと頭を下げるとニコリ。韓国人に思われている。そうこうしているうちに多くの若者がお風呂に入ってくる。勿論韓国人旅行者。いつもの風景なのだろう。おじいちゃんたちは黙って見ている。

ここまで来ると比田勝港は近い。🚙で8分ほど、対馬の国際港、多くの韓国人はここから上陸する。この日泊まるのはDAEMADO HOTEL “DAEMADO”は韓国語で対馬島。対は”テ”馬は”マ”島は”ド”と発音する。ハングルのローマ字表記は少々ややこしい。DAEは”テ”と発音する。日本ではDAE表記はないので、DEと読んで、出窓があるホテルと勘違いした。フロントに立つ韓国人に確認し、やっとわかった。かと言って”대마도”と書かれていたら読めない。尤も対馬をツシマと読むこと自体、日本語を理解しないと難しい。ツシマは津島、船着場の島で、この島を意味づける漢字として対馬を採用したに違いない。日本語読みと漢字表記が一致しないところに日本語の面白さ、難しさがある。異国に峙し、が来た島だと強調したに違いない。ホテルには狭いが駐車場がある。宿泊客はほとんど韓国人。今晩もいっぱいのようで、別途予約した朝食は取れないとのこと。参った。部屋は決して広くない。ビジネスホテルのようだ。綺麗でさっぱりしている。流石に日本だからか、韓国独特のオンドルルームにはなっていない。上海では韓国ホテルが安い。泊まると驚く、部屋が真っ暗、しかし床暖房で暖かい。不思議な世界に入る感じだ。日本には密閉された空間は喜ばれない。湿度が高く、風を呼び込む構造が家の基本だったからだろう。

チェックインして夜の比田勝に繰り出す。暮れ泥む街、潮風が心地良い。目指すはネットで調べた対馬久兵衛商店 、通りからちょっと入るが、韓国カラーの看板でわかりやすい。午後6時も過ぎ、店はほぼ満席。地元の人が多い。小料理屋の雰囲気、カウンターに1人入り込めたので、ラッキーだった。後から来た韓国人の子供連れは断れられたが、辛抱強く待つようだ。カップルも来ており、並んでいる。私は対馬焼酎こっぽうもんをロックで頼み、摘みでちびりちびり始めた。疲れ過ぎて食欲も失った。そうこうしているうちに隣が空いて、韓国人の若いカップルが座った。彼らは勿論日本語はできないが、英語は話せた。蔚山から来ていると言っていた。日本は2度目で最初はディズニーランドだったこと。ニューリッチを感じさせる雰囲気、こう言う若者が韓国には増えている。英語を駆使する韓国人に横浜でも会った。勿論彼らは日本語を知らない。こちらも韓国語は解せない。隣国同士だが、意思疎通は英語に頼らざるを得ない。尤も英語は便利な言葉で簡単な意思疎通であればこれで済む。しかし相互理解を深めるのは更に相手の文化に踏み込む勇気と時間が必要になる。旅の出会いにはこの時間が必要だ。彼らも日本人とは初めて話したようで、興味津々のようだった。日本の酒が美味しいという。韓国の若い世代の間で流行っているとのこと。これがハイボール😳!他に何か美味しい酒を紹介して欲しいと言われた。韓国には爆弾酒の習慣があるので、何を言うか!と思ってしまった。爆弾酒は焼酎にビールを注ぎ、泡立てるか、ビールにウィスキーを落として飲むかで、炭酸水にウィスキーを混ぜて飲むハイボールは単にアルコール度を下げるに過ぎないと思った。だが、どうもそうではないらしい。このハイボールはサントリーのこと。20年前、上海で烏龍茶はサントリーのことを思い出した。上海人はお茶と言えば緑茶、基本的に烏龍茶は飲まない。ところがサントリーがペットボトルで烏龍茶を売り出した。これが受けた。お茶はその頃買うものではないと言うのが常識で、自ら作って日本由来の魔法瓶に入れて飲んでいたものだ。しかし茶を淹れるのは面倒で、安いペットボトルで十分となって、ペットボトルで売っているお茶、烏龍茶を飲み出した。上海で売れていた烏龍茶は砂糖入りだったのに驚いた。売るくらいだったら味ぐらいつけろと言ったところか。韓国で売れているハイボールも単に炭酸水で割るのではなくて甘いトニックウォーターを使う。しかもウィスキーはモルトと高い。ここが上海との差だ。日本でハイボールが流行ったのは、バブルの頃、バーでバーボンをハイボールで飲むのがステータスだったと憶えている。それと一緒なのかもしれない。バブルが弾け、バーボンの替りに焼酎をソーダ割りしたハイボールを缶で飲む酎ハイが一世を風靡する。結局、安酒に戻る。この市場に価格を下げて角ハイボール缶をサントリーが仕掛けてきているのが日本の現状。まさか焼酎の本場本元、韓国にまでハイボールで勝負を仕掛けているとは知らなかった。若いカップルに私が薦めたのは対馬の焼酎と日本酒、しかし考えてみれば、全て韓国から来たものだった。事のついでにこのカップルにこちらが質問をしてみた。和多津美神社の例の韓国人出入り禁止の看板の映像を見せて、感想を聞かせて欲しいと言ってみた。既に知っているようで、悲しい事だと言う。おそらく、韓国では神社については大日本帝国占領下の強制参拝を学ばされていると思われた。しかし、今の若い人にとっては朝鮮戦争前の話はどうでもいいような感じも受けた。否、朝鮮戦争でさえ、遠い話になっているのかもしれない。若い人は大体において今を生きている。反日の動きがあれば、それに迎合するが、それがなければ、どうでもいい。今の生活をどう維持するか、如何に楽しく生活できるかが一番重要な問題になる。そして彼らには徴兵制の義務がある。最低1年半は通常の楽しい生活から切り離される。常に軍事強国の北朝鮮と向き合わなければならない。韓国で生きる限り、正にストレスの中で生きなくてはならない。海外で暴走する韓国の若者の気持ちがわからなくもない。海外の脅威を、米国の進駐軍以外、海を越し、間接的に対峙している我々にとって理解するのは難しいかもしれない。もう焼酎も2杯目、ロックなので効いてきた。料理を忙しく作っていた店のマスターが急に私に向かって話すのを止めろ、女性が嫌な顔をしていると言ってきた。驚いた。絡んでいた訳でもない。彼氏もいる。確かに私の隣に女性が座っていた。ただ話をしていたのは男性の方で女性はほとんど話に入っていなかった。スマホで撮った和多津美神社の韓国人立ち入り禁止の看板の映像を見せ、どう思うか聞いたくらいだ。対馬で撮った映像だ。カッときた。勘定を払って、帰ることにした。要は韓国人の客の方が店としては大事な訳で、何処の馬の骨とも分からぬ日本人の一見さんはどうでもいいことになる。振り返るともっともな話だ。反日、コロナを越えて、やっと帰ってきてくれた韓国人旅行者を大切にしたい。1千万市場だ。不快な思いを伝播させたくない。この店の顧客は韓国人の旅行者であって、日本人の気まぐれ旅行者はいらない。ここに対馬の集客の限界を感じた。全てがウェルカムではない。店の人間に最後まで暖かみを感じることはなかった。

2024.08.01 6日目:旅の終わり DAEMADO HOTEL →🌉万関展望台→🙏万松院ふれあい処つしま→厳原港🛳️..博多港..🥵..中洲川端🚉..🚈..福岡空港🚉福岡🛫→🛬羽田

27. DAEMADO HOTEL →🌉万関展望台 島人との出会い、そして、万感迫る迫力ある風景

ホテルで朝食を取れず、帰りの港に向かうがてらカフェを求め、朝8時前に出発した。対馬に来てから昼飯抜きが多かったので、今度は朝飯抜きになるのか、嫌な予感が頭を横切る。案の定、比田勝にはカフェどころか食べる店もない。厳しい現実。また山から港、港から山の道が待っている。対向車がやっと擦れ違うような細い道をなんと凄いスピードで車が向かってくる。しかも図体のでかい観光バスまでもすっ飛ばしてくる。恐ろしい。何を急いでいるのか?対馬を4日間走ってきたが、これだけ多くの対向車を見たことがない。どうも韓国からの観光者を比田勝港へ迎えに行くのに急いでいるのだろう。堪らない。店もなく、人もいない道。旅も終わりに近づき、ガソリンが切れかけている。どうするか、長い道のり、ガス欠は命取りになる。ただ、船には必ず給油が必要で、小さな船着場であっても必ず給油所があるはずだと。都会のガソリンスタンドを想定せず、給油機を探した。あった!小さな船着場に接するところに。車を停めた。ただ、人がいない。裏に古い昭和の香りがする木造の民家がある。木の引き戸を開けると店だ。菓子パンやジュースが見えた。声をかけると奥からおじさんが来てくれた。ガソリンを入れてもらう。菓子パンに過ぎないが、朝飯にありつける。しかも最終日にやっと島の人に直接、話を聞く機会が得られた。掻い摘んでご紹介しよう。「道の整備が進まないのは、島の人口減少の中で、工事にあたる多額の費用に見合うのか、政治的議論の中で後回しにされている」とのこと。確かに韓国から買い物に来るのみの観光客のために道を整備するのは割りが合わない。訪日客の半分は日帰りで帰っていくのだから。彼らが島の経済に貢献するためには、長期滞在し、島を巡ってもらわなければならない。ただ現状で、危険な島に魅力を感じて長居してくれるだろうか?「島民は物資が乏しい時代は釜山まで船で買い出しに行っていた」とのこと。密入出国など関係ない、海に国境はないということ。円で買い物したのだろうか?コミュニケーションはどうとっていたのか?今も昔も倭の血が両国をつなげている証明と感じた。韓国人の観光客も昔の伽耶の人々ではないのか?親近感を感じて対馬に来ているのではないか?そんな疑問が頭を掠める。「今や、林業の生きる道は中国、韓国への木材の輸出」円安が追い風になっている。大陸に近い対馬にとってチャンスだ。対馬にとってやはり深い森は財産。出航の時間は決まっている。後ろ髪を引かれる思いでお礼とお別れを告げ、🚙に乗り込む。万関展望台へ向かう。まずは、その前に上島と下島をつなぐ万関🌉へ。その袂に着く。🌉は見えないが、大型観光バスが10台ほど幹線から外れた細い道の脇に駐車している。トイレがあり、コーヒーを売っている店がある。なんと客は皆、韓国人だ。アイスを食べている若い家族に何処から来ているのかと聞くと昌原という。釜山の隣りの市だ。決して釜山から皆来ている訳ではない。日本に来る観光客に広がりを持っている。数百人がここで降り、何処にいるのか?どうも歩いて🌉に向かっている。後から分かったが、一部は歩いて万関展望台に向かっていたようだ。大型バスでは上れない。近くに駐車場もない。従って細い道の脇に停めていた訳。展望台へ向かう道が分かりづらい。やはり幹線から反対側に細い道があり、急坂を🚙で上っていく。韓国人観光客も歩いて登っていた。大型バスではこりゃ無理だ。流石に万関展望台から望む風景は見事!感動する。登るに価値ありだ。一番嬉しいのは🌉も見えること以上に白嶽金田城跡のある城山両方を望めることだ。迫力満点!上島の最南端に位置するだけに下島の北端の山々を眺めることになる。晴れていて良かった。最後は対馬の宗主の墓に詣で謝意を伝えることとする。厳原の万松院に向かう。上島にお別れし、下島に戻る。

参考資料:対馬の林業 対馬の輸出振興 日本の木材輸出 舟志の森 

28. →🙏万松院 宗家600年の重みを感じる

万松院宗氏の菩提寺。一昨日訪れた対馬朝鮮通信使歴史館を左手に見て、更に金石川を遡ったところ、行き止まりに大きな門が見える。また例によって韓国人旅行団が暑い中、門の脇でガイドの話を聞いている。入れないのか?左にあらず、拝観料が必要で、誰も入る人はいないようだ。山門の脇から覗くと、人影がない。門の外で挨拶して帰るか悩んだが、やはり墓前に参ろうと決めた。これが礼儀だ。静寂に包まれて入る。山門は閉じたまま、通れない。寺にまず入る。三具足がお出迎え、朝鮮国王から贈られたとの説明が手書きの貼り紙には驚かされる。国宝級ではないのか?墓所はお寺から広くはない庭を経て、山門脇を抜ける。両端に灯籠を携えた石段が何処までも上に延びている。時間が止まったかのようだ。圧倒される人為的で壮大な光景に息を呑む。上るほどに右手左手に墓所が見える。墓の凄みは宗家の歴史の重み。宗家が初めて歴史上に名を刻んだのは元寇との最初の戦いにおける宗助国の壮絶な死だ。彼は八つ裂きにされたのか、御首塚、御胴塚、手足塚が蒙古軍の上陸した小茂田の地に散在する。鎌倉幕府より恩賞によって守護の地位を確実なものにする。これにより600年という国境の島として生きる道を極める歴史を刻んでいく。実際、宗家の出自は明かではない。しかし、この元寇という国どうしの覇権争いから支配権を確立したこと自体が宗家のその後の身の処し方を決める。如何に国境紛争を丸く収めるか、あったとしても火の粉を如何に浴びないか、大事に至らなくするかになる。そして、 何より大切なことは平時に国際紛争の元を断つことだった。これが江戸時代に花が咲く朝鮮通信使だった。朝鮮との信頼関係が構築できていなければできない。受け入れる徳川幕府に対しても接待する体制を構築させなければ実施は困難だ。まして鎖国の時代、反発もあったろう。並大抵の努力ではできない。釜山に倭館を運営し、京都、江戸に藩邸を置いていた。元々財政の基盤となる稲作ができず、貿易に生きた藩政は、幕末には多額の藩債を残し、台所は火の車になっていた。資源の乏しい一島のみで外交を担う難しさがある。ただ、対馬の生きる道を宗家の600年が指し示していることに間違いはない。墓前は蝉の声しか聞こえない。韓国人観光客が来るところではない。百雁木と呼ばれる123段の石段と350の灯籠が宗主としての威厳を残すのみ。

参考資料:<対馬探訪2023> 9.元寇の舞台をめぐる③いざ、英雄たちの足跡さがし

29. ふれあい処つしま ろくべえはどうやって生まれたか、孝行芋の繋がりせんだんご

島を去る前にどうしても食べたかったものがある。ろくべえ、対馬の郷土料理だ。島原にもあるが、そちらは六兵衛、漢字。どうも本家は島原だが、対馬の方は元が深い。せんから作り上げていく。せんとはサツマイモを4ヶ月掛け、発酵させ、団子状にし、乾燥させ、保存食にしたものだ。麺状にしたものがろくべえで、蕎麦同様、やはりつなぎなして作る。食感は蕎麦にはない、むちむち、ぷりぷり感がある。澱粉麺特有のもの。言わば、太平燕涼粉チャプチェの味わい。春雨に近いが、少々違う。麺の重み。かみごたえに違いない。サツマイモ本来の粘りが生きている。色は淡い黒で、一瞬、蒟蒻を連想させるが、味わいが違う。汁は対州蕎麦同様、椎茸、鶏ガラ。薄口醤油の出汁で半透明。これも麺に馴染んで美味い。対馬ではサツマイモを孝行芋と呼んでいる。土地が痩せ、耕地も狭い対馬では荒れた土地でもサツマイモは育ち、更にせんとして保存食に生まれ変わり、島民の命を支えた。正に孝行芋の名に相応しい。この名はなんと津島の訛りのままサツマイモを表す韓国語になる、고구마(コグマ)。朝鮮通信使の一つの功績といえよう。ろくべえを食べたのは、万松院から通りに戻り、幹線にぶつかる観光情報館 ふれあい処つしま内のつしにゃんキッチン。駐車場が狭いので苦労したが、なんとか停められた。お土産屋も併設しており、便利だ。ろくべえの他にも食べていなかった穴子かつこれをセットで、計1,500円也。これに酒でもあれば最高なのだが、🚙なので我慢。対馬最後の食事となる。大満足。

参考資料:諸国産物帳にみる対馬国”孝行いも”の実態について―日韓食文化交流― 日本へのサツマイモ伝播ルートについての考察―南蛮食文化の交流によるバタータス・ルートの提唱― 対馬で作られるサツマイモ原料の伝統発酵食品「せんだんご」の不思議 対馬の伝統食をつなぐせん 「せんだんご」製造工程中の菌叢解析

30. 旅の終わりに 厳原港🛳️..博多港..🥵..中洲川端🚉..🚈..福岡空港🚉福岡🛫→🛬羽田

6日間の壱岐・対馬の旅はあっという間だった。スマホトラブル、🚲パンクや転倒、🚙で山道で遭難したり、水を求め彷徨う危機はあったが、ほぼ予定通りに回れた。これは一重に天気に恵まれたから。連日🌞には神に感謝以外の何ものもない。事前に長期予報で晴れの日が続く日を狙ったことはあるが、いつ台風が襲ってくるか、正に天気は水物。この旅の準備に4ヶ月を要した。神のご加護はこの準備期間に対するものかとも思っている。旅の目的はについてもっと知りたかったことに尽きる。の最後は壱岐対馬に違いない。は歴史の中で🇯🇵のことのみ意味するようになってしまったが、🇯🇵🇰🇷両国の共通する遺跡の数々から朝鮮半島南部から九州北部に跨る海洋民族国家を築いたことがわかる。彼らは歴史を自ら書き残さなかった。安住の地を求め、🇨🇳江南の地から北へ東へ海を渡り、朝鮮半島を南下し、精銅から製鉄の文化を伝え、鉄は国家也を実現した。ツングースの地からは鬼道をもたらし、神道の礎を築いた。稲作を九州の地に根づかせ、弥生文化を花開かせたのも彼らだ。正に日本の礎を築いた。そして、領土がヤマト王権、新羅、百済に奪われる中で、中心に位置した壱岐・対馬が、唯一、倭の真髄を残した。この旅で、この想いは確信に変わった。の辿った海の道が見えた。和多都美神社対馬國一之宮 海神神社の⛩️の向いている方向が一致して朝鮮半島で対馬に一番近い巨済島の加背港だった。倭人の先達海神として対馬に祀られた。更に豊かな土地を求め、壱岐に地盤を固める。紀元前2世紀には壱岐には🐮🐴が、2,000年前には家😺が連れて来られていた。全て🇯🇵最古になる。1世紀には巨済島の後背地に伽耶の国を作り上げ、稲作で栄える北部九州の邪馬台国と呼応し、を作り上げた。更に西日本を従え、5世紀初頭、大阪の地まで領土とする。鉄製武器はある。大きな力は🐎だった。初めて見るこの姿にヤマト王権は恐れ慄いて従った。しかし、所詮海洋民族である彼らは国を纏めることなく、百済、新羅、ヤマト王権の前に屈服する。堺に世界一の古墳を残し、彼らは消えた、壱岐に256基の古墳を残して。ヤマト王権は百済の残党と共に山城を要所に築き、東国から徴兵した防人を壱岐・対馬に置いて、の残党を締め上げていく。を最も恐れたのは覇権を継承したヤマト王権だった。の覇権の歴史はヤマト王権の為したものとして記紀の中で塗り替えられた。常に残るのは勝者の歴史であり、敗者の歴史は闇に葬られる。旧唐書に記した通り「日本とは倭とは別であり、小さな国であったが、倭の地を併合して、大きくなった

対馬からは朝鮮半島が間近に望める。壱岐からは九州が間近に望める。正に倭の海路もまた完成する。を一つにしたのは海神信仰だ。今も🇯🇵に信仰が残る。八幡住吉宗像神社、海神を祀る神社だ。神社が残る限りは我々の心の中では消えることはない。我々🇯🇵人が海を愛してやまないのはの血がそうさせているのではないか。そして、今も多くの🇰🇷人が対馬を訪れる。多くは元の伽耶の地から来ている。この数は🇯🇵人以上だ。彼らは失われたの歴史を遺伝子で感じているのではないだろうか。

ふれあい処つしまから🚙をレンタカー屋さんに返しに行く。港の近く。無事、対馬の旅を終える。山で遭難し傷つけた🚙の修理費は7万円。大きな出費だ。この旅で20万円が吹っ飛んだ。しかし、失った💰以上にちっぽけな我が人生に大きな実りを与えてくれた旅だった。我々は何処から来て何処へ向かうのか、一つの回答をこの旅が教えてくれた。🛳️は厳原港を時間通り13:15出航した。帰りも壱岐経由、博多港に着いたのは15:30、18:40発の🛫、時間的に余裕があるので、また例によって🚇の中洲川端🚉に歩いて向かう。真夏の博多は暑い。💦だくになって🚉に飛び込む。🛫前に晩飯を済ませるといってもつまみに焼酎と決めている。空港で🛫を眺めながら酒を飲むのが元々好きで、辛子蓮根とカンパチ刺身、鶏もも焼きをお供に焼酎のロックと決め込んだ。九州最後の晩餐。余りにも贅沢な時だとニヤッと笑ってしまう。最高の旅だった。

1人旅には予期せぬトラブルが往々にして襲いかかる。どう凌ぎ切るか、まずは精一杯足掻いて抜け出すことを考える。それでもダメな場合、助けを求めるしかない。この時、手を差し伸べる仏の如き人がいる。普通、見ず知らずの人間を誰が救うだろうか?変な旅人に近寄ってくれるだろうか?盗人かもしれない。そう疑うのが普通だ。旅人は野垂れ死するものだ。この旅で2度も救われた。壱岐猿岩近くでの🚲パンクで二進も三進も行かなくなっていた時に🛻で運んで頂いた中尾さん、名前が同じゆうけんには驚いた。2度目は対馬佐志賀港近くで水を求め彷徨っていた私に水ばかりか、アイス、野菜ジュースまで渡してくれたおじいちゃん、頂いた全てが私の昼飯になりました。ありがとうございました。無事、旅を終えたのもこの御仁達のおかげです

🛫九州の旅🚙..知念特攻✈️..指宿♨️..吉野ヶ里⛲️..由布院♨️..磨崖仏🕉️..🐻😢..日本の歴史の光陰を辿る旅

1.日本の歴史の光と影が九州にある。行かずに死ねるか!

3月初旬に手術を受け、体調は万全ではなかった。主治医の”旅くらいならいいでしょ”との言葉を受け、既に予約していた🛫で鹿児島に向かい、レンタ🚙で佐賀経由で大分まで、九州をほぼ縦断する。🕊️冥土の土産にどうしても巡りたかった。類稀なる温泉指宿♨️由布院♨️を拠点に743kmを3月28日から2泊3日で走り抜ける。何故九州か?日本と大陸の接点であり、朝鮮と中国と日本の文化の交差点。ここに弥生文化が生まれる。言わば日本の文化の原点、この風情が味わえる吉野ヶ里遺跡。更に我々の精神を培った宗教の原点山岳信仰を今に残す臼杵国東磨崖仏、失われた神仏混淆祈りの場。一方、太平洋戦争で多くの若者の命を奪った特攻隊の基地知覧。決して赦されない遺恨の地。自然に恵まれながら何故か九州には🐻がいない。我々は九州から徐々に東に向かって🐻を絶滅に追いやっている。自然が悲鳴をあげ、我々を花粉症で苦しめる。戦後の植林政策が自然の秩序を破壊していることに気がつかない我々は歴史の中で何を得て、何を失ったのか。九州には日本の歴史の光陰が遺る、弥生の初めから2,400年に及ぶその光景を辿りたい。行かずに死ねるか!然らばいつ行くか。🌸の候。何故か?🌸こそ特攻隊の心、散り際の美しさ。知覧にこそ相応しい。🌸前線は東京から一度南に向かい、北上する。ソメイヨシノを基本とするからで、江戸生まれの壮大な🌸は華麗な姿で日本を席巻した。地球温暖化で年々開花が早まっている。知覧の🌸は3月末に咲くと見越した。旅を決めたのは手術の日の3日前の3月1日だったが、まだ迷っていた。天気がまず心配だった。春に3日の晴れ間なし

2.九州への旅の準備

鹿児島は東京から950km旭川までと変わらない。🛫で2時間。チケット代が馬鹿にならない。一番安いのはソラシドエア。初めてなのでネットのサイトからの手配の要領を得ない。予約して4日以内に支払わなければならない。うっかりしていた。何せ予約して2日後入院した。3月1日時点で、チケットは、鹿児島行きが7:25am羽田発で17,870円、大分からの戻りが19:45pm発で22,370円、往復30,240円、空席がある。🛫は早く予約すればするほど安くなるが、早ければ早いほど天気予報は当たらない。遠方への旅の難しさがここにある。雨中の旅ほど虚しいことはない。鹿児島の🌸の開花予測を前に焦っていた。旅の準備は現地の天気予測から交通手段宿泊先の確保になる。AccuWeatherの月間天気予報を見ると、鹿児島の天気が微妙だった。28日が曇りで次の日から雨になる。芳しくない。🌸の開花予測も当たるのか?天気予報は、当たるも八卦、当たらぬも八卦。宿泊の予算は1泊10,000円をベース、条件は露天風呂があり、眺望が良いホテルもしくは旅館とした。温泉名でネット検索。旅行サイトがゾロゾロ出てくるので希望条件で、空室がある一番安いホテルを探す。指宿は海上ホテル9,329円(朝食込み)、由布院は由布岳を眺望する秀峰館11,057円(素泊まり)。旅行サイトで予約する。この時点で秀峰館がキャンセル不可と気が付かなかった。手術を何とか終え、出発予定の10日前にはやっと体も癒えてきて、🌸前線をチェックする。東京は例年より遅くなっている。3月末で🌸が咲かないかもしれない。月末の天気も安定していない。出発の時点で体調が元に戻るか不安だ。🛫の予約が取り消されているのにやっと気が付いた。日程をずらそうかと思ったが、秀峰館の予約がキャンセル不可になっている。信じられないことに、予約した時点でお金が取られていた再度飛行機の予約を試みた。空席がある。行きが34,270円、戻りが29,970円、往復64,240円とチケット代が2倍以上になっている。後の祭り。仕方ない。腹を決めた。レンタ🚙も予約した。40,950円、ここで旅費は125,576円に確定した。これにガソリン代、高速料金、食事代で総支出は16万円ほどになろう。遠距離温泉旅行は支出も跳ね上がる。どうしても行きたかった九州の地だ。出発当日、体調は回復気味で、医者の言う通り、旅くらいでは耐えられそうになっていた。さすが医者だ。わかっている。空はどんよりとし、今にも雨が降りそうだ。ハイキングウェア&シューズ、登山リュックで向かう。雨仕様の格好で荷物を背負うので傘がさせ、荷物を濡らさない。しかも寒い。東京はまだ🌸が咲いていない。ソラシドエアの受付窓口も搭乗口も隅扱い。滑走路も🛫で橋を渡った先になっている。なかなか飛ばない。侘しさを感じる。勿論、機内食はないので、搭乗口近くの自販機でサンドイッチ300円、スタバでコーヒーとワッフル計658円を購入し、機内に持ち込んで朝食とする。隣に座った若いお兄さんは初めての鹿児島とのこと。私も30数年ぶり。独身時代、友人と2人で九州各地の🍜名店巡りの旅以来になる。昔は九州のご当地🍜が流行っていた。鹿児島はざぼんラーメンだったことを思い出した。隣の若いのは出張で知覧に🍵の買い付けとのこと。日本一の🍵所らしい。鹿児島🛬から知覧を抜け、指宿まで100kmある。ほぼ往復する。重大なミスを犯した。ETCカードを忘れてきた。

3.知念特攻平和会館

鹿児島🛬に着いたのは予定より若干遅れ、9時半を過ぎていた。空はどんよりとして、雨は降っていないが、寒い。南なので少しは暖かいと思っていたが、陽が照らないとやはり寒い。レンタ🚙会社が見当たらない。全く案内がない。電話をすると迎えの🚌が来るとのこと。レンタ🚙会社への送迎🚏があるのには驚いた。🛬の外には足湯もある。予想を越えた大きな🛬だった。送迎🚌に乗るのはほぼビジネスマンのようで、8名ほどになる。支払いを済ませ、新車の如き5ナンバーの車に乗り込む。🚙は大分ナンバーになっている。温泉旅行であれば大分↔️鹿児島は定石ルートだろう。他にも大分ナンバーを見かける。さあ、まずは知念特攻平和会館まで72km、羽田から茅ヶ崎までの距離と同じ。結構な距離だ。九州自動車道から指宿スカイラインへ入る。ETCカードを忘れたので、高く付く上に都度料金を支払う。3回に分け、1,420円だった。しかし、有料道路の良いところは道に迷わず行け、しかも必ず展望所がある。桜島を🌸とともに望めたことが嬉しかった。何と、東京より早く🌸が咲いている。先週末より咲き始めたとのこと。これが一番ラッキーだった。雨が降ってきたが、最初はそれほどでもなかった。知念特攻平和会館には11時半頃着いた。春休みで子供たちも多かったが、欧米からの訪問者も多く、何が彼らを惹きつけるのか聞きたくもなった。知覧特攻平和会館は知覧平和公園の中にある。駐車場に向かう門口の🌸は見事だった。🌸の下の灯籠がどうしても特攻兵に見えてくるのが堪らない。どんよりとした空から小雨が降り出した。寂しい雨だった。私は遥か昔に霞ヶ浦予科練平和会館を訪れている。予科練から飛行訓練もそこそこに年端もいかない飛行兵が特攻兵になった。彼らはどう戦地へ向かい、死んでいったのか?実際、霞ヶ浦は海軍、知念は陸軍なので、全く別部隊。昔は空軍なんてなかった。薩摩半島の鹿屋から予科練卒兵は出撃しており、圧倒的に知念に比べ戦死者が多い。だが、特攻兵として出撃する姿は一緒だ。飛び立つ彼らの姿を思い浮かべたかった。この記念館は、特攻隊員がよく通った茶屋の鳥濱トメさんが、米軍に爆撃され跡形もなくなった基地跡に鎮魂のための木切れの慰霊碑を立てたことに始まる。今や年間72万人が訪れる。私には亡くなった特攻兵が我々を呼んでいるとしか思えない。もはや鳥濱トメさんも亡くなり、孫の代になっているが、茶屋が記念館の敷地内に移り、我々に食事を提供してくれる。知覧茶屋。茶そば釜飯(めんたいシャケ)1,750円、釜飯がホクホクしていて美味い。お土産屋さんもやっており、運転中に眠くならないように昔懐かしいボンタンアメを8個入り10ケースを買う。この飴は100年近い歴史。オブラートに包んであり、包みごと食べられる。甘みが丁度良いのだが、歯の詰め物が即取れた。運転中ずっと舐めていたが、眠気だけでなく、風邪も吹っ飛んでいく。2日でなくなった。

4.特攻兵は神国の武器として死んだ

ここ知覧から出撃した陸軍の特攻機は405機、406名亡くなっている。海軍は特攻隊として神風特別攻撃隊を最初に組織し、1944年10月のフィリピンレイテ沖海戦で連合国艦隊に大きな損害を与えた。543機の飛行機、671名の特攻兵を失いながら、米軍の艦艇を22隻を沈没、110隻を損傷させる。通常航空攻撃の3.6倍の撃破率、失った戦闘機が全体の14%で済む。特攻成功率は23.5%であった。陸海軍参謀本部として特攻作戦を正式に採用する。優秀なパイロットを失うリスクを度外視した。ひたすら効果効率を優先し、人の価値を無視する。結果として何と敗戦までの10ヶ月間で4,000名を戦死させる。突撃成功率は沖縄戦で特攻成功率は7.9%に落ちている。今も自爆テロを英語でkamikazeと呼んでいるのをご存知だろうか?日本の特攻を同じにするなとの声がよく聞かれるが、人命軽視と効果と効率を重要視する考えは全く同じなのだ。日本軍は他にも特殊潜航艇や人間魚雷、人間ロケット、地上戦における人間爆弾など様々な自爆戦を試みている。神風だけではない。この作戦による死者は6,400人とされている。神風特攻隊の平均年齢は21.5歳の若者だった。この自爆戦は苦し紛れの戦略ではない。歴とした作戦だ。山本五十六海軍大将1934年の時点で既に「飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と記者に話している。特攻と言う自死への恐怖を軽視した言葉になる。誰もこの言及を咎めるものはいない。この作戦を成功に導いたのは国粋主義的信仰を国民に敷いたことだ。日本は明治維新以降、宗教の上に天皇を生き神にした国家神道を据え、神がかったアジアにおける常勝神話を国民に植え込んだ。新しい国家として、帝国主義戦争に勝ち残るため、少ない資源、国家予算、武力を補うためには国民の犠牲と奉仕が必要だった。国民への労苦の報いは戦利品としての領土と資源と金だった。一部の国民は確かに生活は豊かになった。貧しい国民は新しい領土に向かった。実に1894年の日清戦争からほぼ半世紀に渡って、軍は国際紛争に国民を巻き込む。情報を統制し、不都合な情報は流さず、ひたすら国民を軍旗の元に置く政策を展開する。かつての防人を現代に呼び覚ましたが、より悲惨なことは近代戦により、死を前提にした戦いをも国民に強いることになった。米軍のモートン・デヨ少将は「(特攻隊員の任務は)ミサイルを誘導することである。彼はミサイルの生きている部品であり、その結果僅かばかりの生存の可能性もなく、仮借ない鋼鉄を破壊するために突入することになる。」特攻隊が死んでいったのは国のためでも、平和の礎になるためでもない。特攻隊は大日本帝国が幻想として作り上げられた神国大東亜共栄圏建設のために、単なる武器として死に、無謀な帝国主義への挑戦の犠牲になった。大東亜共栄圏とは日本をトップにした東アジアの再編であり、欧米の植民地からの解放と同時に日本が欧米に成り変わることの正当化に他ならない。日本は敗戦により真夏の夢と230万人の若い働き手をも失う。これは幻想としての明治維新が押し立てた神国の敗北だ。

5.塚本太郎少尉の伝えたかったこと

特攻隊の声

79年前、特攻死の2ヶ月前に残した学徒兵の生の声をYouTube「回天 二つの心」で聞くことができる。塚本太郎少尉の声。慶大生として学徒出陣し、21歳で人間魚雷回天と共に西太平洋に消えた。彼が特攻に成功したか否か、分かっていない。成功したとしても彼は魚雷の真っ暗な縦70cm横53cmの操縦席に座り、操縦桿をただ握り、海の中をまっすぐに敵艦に突っ込むだけになる。魚雷と一体化するのみ。彼が大学で勉強した学問がこの特攻で何の意味をなしたのか?何のために勉強したのか?勉学に尽くした日々が虚しく魚雷と共に飛んでいく。回天に搭乗し、特攻し、亡くなった特攻兵は106名成功率2%、報われたのは3名に満たない。彼が遺した言葉は二つの想いを言ったのではない。実は一貫している。無駄死にへの怒りであり、日本を破滅へと向かわせたこの戦争への恨みであり、故郷へ帰れない辛さだ。文章に起こしてみる。

父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。 本当にありがとう。 こんな我儘なものを、よくもまあ本当にありがとう。 僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。 愉快に勉強し、みんなにうんと御恩返しをしなければならないんだ。春は春風が都の空に躍り、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしが溢れている。昔は懐かしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下にすすきを取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。 雪が降り出す とみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。 こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。 喧嘩したり争ったりしても心の 中ではいつでも手を握りあって。

しかし僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人日本人、自分の血の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹きが脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。そして今、怨敵を撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日あの瞬間から、我々は、我々青年は余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力の全てをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃攘せよ。親父の、お祖父さんの、曾お祖父さんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃剣を閃かして進め。日章旗を翻して前進せよ。 至尊の御命令である、日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いているみなさんさようなら。元気で征きます。

彼は何度も日本人を連呼し、大東亜の建設のために戦えと叫ぶが、死を賭してまで戦う意味があるのかを言及しない。これは彼自身が矛盾を感じているからだ。1941年12月8日に至尊の御命令で米英に対し宣戦布告し。大東亜共栄圏を標榜し、米仏英蘭領まで戦線を拡大した。資源を持たない国が広大な海と島と大地で長期戦を続けることは耐えられないのは明らかで、今や当然ながら敗戦の危機にある。彼が前段で氏神様を出してくるところに本音がある。我々にとって一番重要なのは氏神様に守られた故郷であって、大東亜ではない。大東亜の天地もそこに住む十億の民の誰も日本人を招いていない。自分は無駄死にすることを理解して建前を言っている。「回天 二つの心」で彼の同世代の老人の言葉を聞けばわかる。洗脳犬死に。彼らだけは彼の遺した言葉の意味がわかる。大日本帝国は国家としての求心力を高め、列強と戦うため、天皇を現人神とした神国を創出していく。これは1,300年培った神仏混淆の文化を否定するばかりか、旧来の神道を排除するため神社の名まで変え、統廃合した。神道は自然崇拝とそれぞれの土地の氏神の崇拝で始まっている。これを元々天皇が作った国家であったことにするため、矛盾する信仰を破壊、隠滅した。梓巫女修験道陰陽道祇園信仰権現信仰を廃する。神道を国教としたかったが、仏教界からの圧力で宗教ではなく、国民の信仰とした。民衆の心の拠り所を失わせ、彷徨える心を海外覇権の幻想によって昇華させようとする。国民に三韓征伐から征服拡大へ、聞こえの良い大東亜共栄圏を標榜し、半世紀の戦いを正当化する。三千年のフィクションとしての歴史を作り上げ、実際、建国から73年、1941年12月8日に越えてはいけない国境を越えた小国は破滅への道を歩み出していくことになる。そして、敗戦後の今も、宗教破壊の亡霊は偏狭的合理主義として我々の心に棲みついている。

6.長崎鼻から指宿温泉

知覧から薩摩半島最南端にある長崎鼻に向かう。開聞岳が見たかった。特攻隊の映画には必ず出てくる富士山を思わせる独立峰。特攻兵は開聞岳を富士を見て、日本に決別し、涅槃に通じるパゴダとして、この世に別れを告げ、飛び立っていった。目に浮かぶようだ。長崎鼻からは海に浮かぶ島のように見える。小雨が降る中で、雲間の開聞岳だった。南国の薩摩富士、北限ソテツを従えて、荘厳に聳え立っていた。雨が凄まじくなってきた。ホテルの近くに砂むし会館がある。夕方も近く、2階のラーメン屋に期待し、直接向かう。駐車場が通りを挟んで住宅街にある。雨の日はきつい。砂むしは別府で経験しているが、凄まじい雨の中、外の砂浜でどう寝転んで、砂に埋まるのか、しかも外は寒い浜辺になる。驚いたことに平日にもかかわらず、観光客が多い。海外からが半分くらいだろうか?何せ世界でも珍しい砂むし、言わば自然の砂を使った蒸し風呂。施設はお世辞にも綺麗とは言えない。相当年季が入っている。70年近い歴史と建て替えて30年近い。館内もどこが入口なのか、出口なのか、説明がない。海外からの旅行客も困惑している。中は撮影できないのでお見せできないが、まずは浴衣に着替える。中はスッポンポン。これは男女とも。雨の中、この姿で置きサンダルを引っ掛け、貸してもらった小さな傘を差し、堤防沿いに砂浜に出る。ブルーシートに覆われたほったて小屋に向かい、外で立ちながら順番を待つ。穴を掘るのも埋めるのも地元のおじちゃんおばちゃんから若い衆まで平等に受け持つようだ。順番が来たら、呼ばれ、掘られた溝に横たわる。すると早速、顔に掛からないように普通の大きなスコップで体に砂を掛け、埋める。全く説明はないが、掛け時計を見て10分経ったら自分で砂を掻き分け出なさいと言う。後は何も言ってこない。時間も自分で計る。出るのも自由。埋まるまで寒いのだが、砂を掛けられるうちに暖かくなり、完全に埋まるとじわじわと熱さが攻めてくる。汗が吹き出してくる。しかし眠ってはいけない。動かないと背中とお尻に低音火傷の危険性がある。適当に体の下の砂を動かす必要がある。これをすると10分以上寝ていられる。私は20分ほど堪能できた。要は砂で温度調整が必要。砂むしの楽しみについては、砂むし温泉のまち指宿をクリックして下さい。堪能後、体を洗って。温泉に浸かり終了になる。階上のラーメン屋は3時半で終わっていたのか、それとも休業だったのか?わからない。全く不思議な会館だった。タオル持参だったので、浴衣+砂むし+温泉で1,100円で済む。砂の中で孵化して這い出る生まれたばかりの海亀の気持ちを味わう感じか。大雨のなか車に戻り、9,329円で予約した指宿海上ホテルにチェックイン、食事をどうにかと言うと、今日は団体さんで一杯でダメとのこと。なんとベトナムのハノイから2日続けて20数名の観光客が来ている。2年半ぶりに鹿児島まで直行便が復活したらしい。そう言えば砂むし会館に大挙して来ていたのが彼らだった。香港人そっくりなので、広東語で話しかけたら、キョトンとして見返された。日本人に初めて声を掛けられたような顔をしていた。ハノイ人だった。ホーチミンは3度ほど行っていたので、彼らの言葉はタイの言葉に似ていると思っていた。ハノイとホーチミン、1,100km離れている。羽田とソールほど、こりゃ言葉も違うのも当然か。砂むし温泉にさぞや驚かれたに違いない。2泊3日だそうで、あとは何処に向かわれるのか?東アジアは曲がりなりにも平和が訪れている。1991年の中越戦争解決から33年、東アジアに戦火が押し寄せることはなかった。特にベトナムは1965年の実質米国との戦争から26年間戦禍に苦しんできたから尚更だ。平和は微妙なバランスの上に成り立っている。このバランスを保つのは国家間の会話の継続だ。理解し合い、武力ではなく問題を会話で解決する国家間の忍耐力に頼るしかない。冷たい雨の中、紹介してもらった指宿駅西口近くの長寿庵。地場の食材、旬の物に舌鼓。旅の喜びはここにある。帰る頃には雨も上がっていた。部屋もゆったり。海に面している。潮騒が否が応でも旅情を掻き立てる。最上階に♨️、朝風呂で景色を堪能。朝食の美味しいこと。地場の食材が並んでいる。もう量は食べられないので、少量の食材を盛り合わせし、粥と一緒に食す。この朝食は絶品。2日目はいよいよ九州縦断。現代から弥生時代へタイムスリップする。

7.吉野ヶ里歴史公園

2日目は指宿から吉野ヶ里遺跡、そして由布院まで431km、🚙を跳ばした。九州をほぼ縦断。東京琵琶湖間の距離。錦江湾沿いに北上し、市街地を避け、谷山ICから九州縦貫自動車道に入る。高速料金は東脊振ICまで6,090円、そこから湯布院ICまで2,930円、ガソリン代は3,473円になる。やっと桜島が望めた。青空が広がる、昨日とは打って変わって、いい天気、旅日和。熊本を越えていくが、トンネルが多く、景色は見えない。道は走りやすい一本道。福岡に入り、佐賀に抜けるまではほぼ平地になる。東脊振ICで下り、国道385号線を真っ直ぐ走れば、駐車場の案内が見える。吉野ヶ里遺跡は公園になっている。吉野ヶ里歴史公園、面積は117ha。なんと東京ドーム25個分。新宿御苑2個分になる。勿論日本一広い遺跡、しかもまだ未開園エリアまである凄さ。とにかく広大だ。駐車場も臨時も含めて4つある。この遺跡の素晴らしさは広さだけでない。日本における倭の成立過程を見られる。一番近い北口駐車場に入った。係員が即飛んできて、入口に近い駐車場を教えてくれる。私のような焦る旅人が多いのだろう。道の先、東口が正解で、センターがある。そこにレストランがある。まず腹拵え、古代米天ぷらうどんセット1,300円也。青森の三内丸山遺跡に遥か昔に訪れたことを思い出していた。縄文時代の遺跡で、BC3,900~2,200年の1,700年の歴史、吉野ヶ里遺跡弥生時代、BC500年~AC300年800年の歴史になる。面積や人口の違いはあるにせよ、大きな違いは、入口から周囲にかけての物々しさだ。堀が巡らされ、乱杭が防御柵になっている。言わば城壁。物騒な時代だったことが分かる。縄文の13,000年は平和な時代で殺し合うことがなかったという。確かに均等に食べ物に乏しく、寿命も短く、生きることに精一杯で奪い合うものがなかったからというが、野生動物でも秩序を守るために殺戮はあるので、一概にこれだけで殺し合いがなかったとは言い切れない。逆に人は豊かになり、長生きでき、余裕が生まれると、人のものが欲しくなり、殺し合いをするものなのだろうか。こんなことを言うと世の中殺し合いばかりになってしまう。吉野ヶ里遺跡の物々しさは、正に渡来人の砦の証明だ。生きるのが精一杯の縄文の世界に豊かな世界を持ち込み、言葉の壁もあった。異民族の軋轢も生じただろう。稲作のできる土地も少なかった。豊かな土地の奪い合いも生じた。彼らもテリトリーを拡大し、増える人口を支えることも考えていた。攻めれば守らなければならない。朝鮮半島は既に戦争状態に堕ちっており、日本に伝播していたことが考えられる。物見櫓が再現されており、最盛期は5,600人ほど住んでいた環濠集落であった。倭からヤマトへ移る時代にこの地は捨てられ、壕は埋められ、墓のみ残った。何が起き、何故こうなったか、謎のまま残っている。

8.は元々日本ではなかった

遺跡に向かうには川を渡る。田手川、この川は今でこそ久留米川の支流になっているが、1,800年前まで有明海に直接流れ込んでいた。尤も、その頃はこの吉野ヶ里も有明海に面していたことになる。田手川の源流は脊振山蛤岳(863m)、越えれば支流を経て那珂川、下ると最短で博多湾に出られる。今で言えば高速道路。博多湾の目と鼻の先に朝鮮半島釜山まで対馬を挟んで218kmに過ぎない。距離は広島鹿児島までと変わらない。同様に、ソウル大阪が同距離、上海那覇新潟東京も同距離圏になる。大陸から古より様々な文化が日本に入ってくる時、博多は登竜門だった。紀元前5世紀、吉野ヶ里の地が選ばれ800年に渡り育まれた理由がここにある。切り開いたのは倭人を我々は日本の昔の名と思っているが、実際は中国の揚子江河口を起源とする海人族稲作から裸潜水漁撈を得意とし、断髪、黥面(入墨)、龍蛇信仰太陽神崇拝鳥崇拜の文化を有する人々。この遺伝子を一番引き継いでいるのが日本では北部九州の人々になる。福岡で35.3%、正に弥生文化の申し子となる。私は上海と蘇州に9年近くいたが、文化的、人種的に親近感を持てた理由が今わかる。彼らは1,000kmも離れた日本に稲作と共に漁法宗教までももたらす。紀元前473年春秋時代に敗れたの民が新天地を求め、四散する。海を渡り、朝鮮半島北部九州に辿り着く。吉野ヶ里の地と結びつく。彼らは有明海から直接上陸しただろう。吉野ヶ里出土の人骨からのDNAが検出される。として最初に歴史を刻むのが何と朝鮮半島の南、伽耶の地。北九州のと結びついていたことが弥生式土器や古墳の存在でわかる。この時、は日本のみを指していない1世紀、伽耶の高霊で鉄を産する。この地を制したの力が超大になる。3世紀卑弥呼5世紀倭の五王伽耶由来の王権と見るべきだ。6世紀に朝鮮半島の伽耶が高句麗と新羅に飲み込まれて歴史の闇に消えていき、ヤマト王権が確立するまで、北部九州が朝鮮半島と結びつき、を形成していた。これで中国や朝鮮によるに関する史料がわかりやすくなる。特に5世紀倭・高句麗戦争を戦ったのがヤマト王権ではなく、伽耶であれば、朝鮮半島内の覇権争いであることがわかる。ヤマト王権の主張する三韓征伐はここに由来する。この時代、日本の鉄器、青銅器の数を見ても明らかに北部九州に集中している。ほぼ全てが朝鮮半島由来のもの。ヤマト王権の実質的な確立は6世紀であり、とても挑戦に出兵できる力はなかった。朝鮮半島と日本の固い結びつきの原点は両方に跨るの存在だった。ヤマト王権はの権益を継いだに違いない。どう引き継いだのか?空白の150年につながる。日本の日本書紀、古事記が編まれたのは8世紀。神話と伝承で構成され、どこまで真実なのか分からない。検証もせず、学校で今も教えている。後世には史実をきちっと伝えるべきではないのか?何故、中国の資料をのみに頼るのか?邪馬台国論争も加熱しているが、中国の古の資料に対する議論に終始している。天は自ら助くる者を助くという。まず足元の国内の古墳の発掘、分析から始めるべきであろう。埼玉古墳群で発掘された金錯銘鉄剣の如きが見つかる可能性もある。現存する世界最古の王朝を標榜するのであれば、きちっと世界に対しても科学的に裏付けられた根拠を示すべきだろう。まず古墳は後世に残す遺跡として、国民に解放すべきではないか古墳は天皇の墓と同時に臣民であった国民なしでは築けなかったものである。国民には知る権利がある。天皇には史実を証明する義務がある。歴史を神話として曖昧模糊にしたままに残す時代は過ぎている。隠すから怪しまれる全ての古墳を開放し、史実確認後、スウェーデンのように国立公園にしてはどうか、令和記念公園を各地に設けることこそ、国民の希望に沿うものではないか?

9.由布院温泉

吉野ヶ里から東脊振ICに戻り、今度は九州横断自動車道に入る。湯布院ICまで1時間ほど、途中東脊振ICへの入口を間違え、遠回りしたが、夕方5時半には由布院温泉に入った。布院温泉は由布市の布院町にあるからややこしい。この夜は素泊まりで11,057円の秀峰館、屋上露天風呂が楽しみだった。チェックインし、車を置いて早速、湯布院の街に繰り出す。ホテルは参宮通りにあり、駅前通りに出る。街ゆく人を見ながら呑める店を探す。まだ夜も早かったので、窓際の席が空いてる店を見つけた。ねんりん、大分と言えば鳥尽くし、鳥天、鶏皮餃子、そして麦焼酎二階堂、締めに豊後汁(何故かほうとうに似ていた)計3,690円也。美味いけど量が多い。もう満腹で湯の坪街道まで足を伸ばせなかった。ホテルに帰り、早速露天風呂に向かう。タイから日本に初めて来た私より上の年の老人と愛媛から来ていた小学生が2人が露天風呂に入っていた。英語ができない2人が会話を試みていたところが面白かった。会話が何故か盛り上がる。なんとドラゴンボールの話だった。私はあまりこの漫画を知らない。彼らは登場人物の名前とアクションで盛り上がっている。日本の素晴らしさはアニメにあるのだと思った。私の小さい頃はアニメは米国のものだった。手塚治虫がディズニーの真似をして稚拙なアニメをTVで作り上げた時代に育っている。海外では日本🟰アニメになってきている。隔世の感ありだ。日本が悪の枢軸国のイメージから抜け出たのはアニメのおかげだろう。中国でも何故日本語に興味を持ったのか。若者に聞くと必ずアニメに流れる日本語をわかりたいからと言っていたことを思い出す。我々は極東の島国に暮らす。多くの文化が海を渡ってやってくる。閉じることは簡単だが、敢えて勇気を持って受け入れれば、次のものを生み出す面白みを知っている。アニメという成功例から学ぶことは多い。湯布院は韓国人が多い。食事処もホテルも挨拶すると韓国人だった。兎に角、アジア人が多い。やはり九州の魅力は温泉そして、風情に違いない。日本の顔が東京であれば、安らぎの心は九州にある。しかも美味い酒と魚と肉がある。洗練された趣はないが、寧ろ素朴な土臭いアジアの心がある。だからアジアの各地から来るのだろう。誇るべきは焼酎。焼酎こそ九州の顔だ。安酒の代名詞で、今でもお世話になっている。蒸留酒でありながら、ウィスキーやブランデーと違い、癖がなく、基本は薄めて飲む。いちばんの魅力は、香で料理の邪魔をしないというところだろう。鹿児島は芋、大分は麦、熊本は米、宮崎は蕎麦となり、日本酒を九州ではほぼ飲まない。右手に由布岳を望みながら街中に入る。オーバーツーリズムが騒がれている。円安が引き金になり、過度の旅行客の群れが観光地に押し寄せている。オフシーズンや平日に閑散としている街に溢れるような外国人の観光客。どうしたら良いのか?観光客が来ることにより儲かっている業者が必ずいるはずで、どうすれば良いか、自治体はその対策を儲かっている業者に考えさせるべきだ。観光客が来なくなったらおしまいなので必死で対策を練るに違いない。人が集まる場所であれば公園や喫茶店や出店の設置で更に儲けを膨らますことを考えるべきだ。河口湖の黒幕張りは愚の骨頂。私も山登りで良く河口湖周遊バスを利用するが、運賃がえらく高い。多くの海外からの顧客の需要があの高いバスを頻繁に走れるようにしている。道路に溢れる観光客を誘導する対策をバス会社に考えさせるべきなのに、売り物の富士の景色を見えなくすることは売り物に傷をつけるのと同じは思わないのだろうか。由布院温泉も平日というのに人が多い。桜の季節だからだろうか、勿論、温泉もいい。朝風呂にもゆったり入った。山の景色がいい。初日、指宿は海の見えるホテル、二日目、由布院は山に囲まれたホテル、海と山両方を味わえた旅になった。ただ、由布院を素泊まりにしたのは、朝食を格別の景色の中で食べたかったからだ。金鱗湖湖畔にある喫茶店、CAFE LA RUCHE、朝の湖の静謐さの中でコーヒーを味わうのも格別だ。金鱗湖は一周わずか340m、30分程でぐるっと回れる。山間はまだ早春の彩りになる。のんびり回って喫茶店で朝食とした。クロワッサンセット、1,400円、少々高い気がしたが、景色堪能代でトントンなのかもしれない。老夫婦が犬と一緒に食事をしていると思ってよく見ると犬はロボットだった。時代を感じる。

10.磨崖仏巡礼から帰路に着く

さあいよいよ旅の最終盤、念願の磨崖仏群巡り、別府湾を望んで旬の魚を食し、大分空港から19:45pm発の🛫で帰る。全ては見られない。大分県には84ヶ所400体、日本全国の8割を占める。到底1日やそこらでは無理。何故そんなにも大分県に集中しているのか。ネットで調べる限りでは、相当朽ち果てているようだ。磨崖仏の今を知りたくて主要な所を回る。まずは臼杵から。メインは国東だが、磨崖仏の代名詞はやはり臼杵石仏。国東半島へは結構離れている。熊野磨崖仏までの距離は高速で77km、1時間以上はかかる。湯布院ICから九州横断自動車道に入り、日出JCで東九州自動車道を右へ、臼杵ICを下りるが、やはり71km、1時間コースだ。とても臼杵でのんびり昼食をとはいかない。国東半島へ向かう高速の別府湾PAで昼食。別府湾を望んで若竹うどんとシラス丼1,540円。なかなか景色も良く、春の旬が美味かった。高速代は臼杵ICまで1,970円、臼杵から農業文化公園ICまで1,820円、ガソリン代はこの日、3,230円になる。走行距離はトータル227km。大分空港近くには食事をするところはない。空港内の食事もいいが、別府湾の海の幸を味わうため磨崖仏群から別れ、また杵築に向かう。私が巡った国東の磨崖仏は国指定のもののみ。ルート的には何故か一直線に並んでいる。時間的には助かる。晩御飯は🛫の時間があるため、早めに済ました。🚙のため酒が飲めない。当初狙っていたKITSUKI TERRACEが15時まででとても間に合わない。近くのやはり別府湾沿いの魚市魚座とした。海に望み、新鮮な魚介類を網に乗せ焼いて食べるのは格別だった。定番の炭火焼きコースに真牡蠣1皿追加、ノンアルビール1杯で5,190円、ご飯は食べきれなかった。胃の矩を越えていた。別府湾に沈む太陽は美しかった。もう帰らなければならない。

臼杵石仏

臼杵石仏は正式には臼杵磨崖仏。臼杵IC近くに臼杵大仏がある。間違って行ってしまった。ナビに出てくるのでややこしい。全くの”詐欺紛い仏”臼杵石仏はここより若干山側に外れるが、それでも臼杵ICに近い。駐車場が煎餅屋の前。山郷の風景が広がり、古い土産物屋の軒先の小川沿いを抜けていく。昭和の雰囲気だ。古園石仏群の内の一体で、他にも山王山石仏群、ホキ石仏第一群、第二群と壮観な磨崖仏に会うことができる。生まれて64年、初めて、臼杵石仏に対面するも、若き日に受けたイメージを払拭することはなかなかできない。地面に置かれた首だけの石仏。今は国宝に指定されているが、これは胴体を整備し、首を載せたからのようだ。痛ましい姿の方が時の流れを感じるが、国宝には値しない。300年前にはもう既に首は落ちている。石仏の悲しさを感じる。確かに石仏群の多くは傷だらけだ。日本は地震大国であり、岩をそのまま削った石仏はこの影響をモロに受ける。堪らないのは理解できる。像自体は見事に修復されており、新たに首を載せたとは思えない。ただ脇侍は悲惨だ。首以外は削り出し棒状態で、如何にも載せたのみと見える。完全に体が崩れ、復元できなかったのだろう。平安から鎌倉時代にかけて彫られた磨崖仏、もはや一千年の月日が過ぎ去ろうとしている。臼杵のほぼ全ての磨崖仏は左手を失っている。体も傷だらけだ。修復に修復を重ねたに違いない。品のあるお顔だけ美しく、我々に慈悲の心を投げかけている。あたかも塑像で作られたと見紛うばかりだ。京都奈良の仏像に負けない威厳と迫力がある。

②国東半島の磨崖仏

国東の磨崖仏は臼杵石仏と違い、けして芸術品の数々ではない。仏を信じるものが、祈りを込め一刀一刀彫ったに違いない。だから時を超えて心を打つのだろう。熊野磨崖仏は平安末期に、福真磨崖仏鍋山磨崖仏は鎌倉時代に、元宮磨崖仏川中不動は室町時代に、150年の間にコツコツ作り上げている。修験僧の祈りの対象とするため。熊野磨崖仏への登りは正に修験の場に相応しい。沢登り、石渡り、熊野三山や出羽三山で見た風景だった。我々が山に登っていて感じるのは嘗て修験僧が切り拓いた登山道の素晴らしさだ。山を知り尽くしているからこそできる。我々が安心して山に登れるのは正に彼らのおかげだ。山の名に愛宕、権現、妙見、阿弥陀、釈迦、天狗、不動、毘沙門、普賢等の名があれば、彼らが名付けた山。修験道は道教、仏教、神道で成り立っている。根幹にあるのは山岳信仰。日本の75%は山に囲まれている。彼らは山に生きた。山は我々に恵みを与える。美しい水、空気、木、緑、食物、鉱物も。彼らは我々へ山への愛を教えた。ところが、明治維新によりこれが途絶える。明治5年(1873)の修験宗廃止令。修験道は教義仏教に組み込まれていく。彼らがいなくなり、山を守るものはいなくなった。150年以上、山は荒れるにまかせている。荒れるとはどういうことか?人間が山のあるべき姿を失わせるということ。人間が好き勝手に山の秩序を乱せば、他の動物は滅ぶか、逆襲を試みてくるしかなくなる。山を知るものは山が荒れていることがわかる。エゾオオカミは1896年に、ニホンオオカミは1905年に姿を消している。🐻を第二の🐺にするのか?今瀬戸際にいると言わざるを得ない。忘れてはいけない。🐺も🐻も我々日本人は神とし崇めていた。自然崇拝を基本とした我々の伝統を踏み躙った明治維新は日本に近代的な発展をもたらす一方で、世界戦争へと突き進み、多くの犠牲者を生み、全てを壊滅させ終わったはずなのだが、今も亡霊のように我々の心を掴んでいる。これが偏狭的合理主義として自然を破壊し続けている。山を埋め尽くす人工林杉や檜、ソーラーパネルを見よ。如何に山の本来の姿を失わせているか。杉や檜は過大な花粉を撒き散らし、ソーラーパネルは山崩れの危険性をもたらしている。今も尚、乱開発は続いている。🐻に棲家も食べ物も取り上げている。山に行けば分かる。我々日本人の魂の故郷は山にある。今一度、基本に戻り、山を昔の風景に戻さなければならない。そう磨崖仏は我々に訴えかけているようでならない。

11.九州で🐻は既に絶滅した。🐻を日本から滅ぼしていいのか

九州のツキノワグマは1941年にオスが捕獲され、1957年に子グマの死骸が見つかり、1987年11月のオスの死骸発見を最後に絶滅したとされた。もはや36年になる。中国人はくまモンが好きだ。日本人が🐼が好きなのと似ている。隣の芝生みたいなものか。一度、くまモン好きの中国人に言ってみた。熊本には🐻がいないんだよ。本当に驚いていた。何故🐻が絶滅したのか?九州を車で実際走ると緑豊かな島で、🐻がいないなんて思えない。これには戦後の植林政策が深く関わっている。建築用材として売れ、使え、成長が早いを全国で植える施策を打ったからだ。特に九州、東北で顕著で、この影響から九州で🐻が消え、東北では🐻被害が起きている。食の問題だ。九州には元々🐻の餌になるどんぐりが少なかった。照葉樹の椎や樫が多く、どんぐりがあまりならない。どんぐりの多い広葉落葉樹のブナが少ない。そこへ来て、戦後はどんぐりのならないを植林したため、🐻は食を失い、消えざるを得なかった。正に🐻の絶滅は人間の所為だ。この悲劇は西から東へ広がる。四国及び中国も同様に照葉樹が多く、どんぐりが少ない。のブナ林への侵食は🐻の絶滅に即結びつく。深刻な問題になっている。


ブナ林の見事な秋田と岩手には元々🐻が山に、👨‍🦰は平地にと住み分けをしていた。建築用材に向かないブナに換え、を植え流ようになった。今や50年、安い輸入材に追われ、伐採されないため、山が荒れている。食を求めた🐻が街中まで下りて行き人を襲うようになっている。これを政府は”今年は🐻の餌になるドングリが不作だ”と誤魔化している。実際、秋田の🐻被害は人工林の広がる場所で起きている。山に登ると分かるが、常緑のに覆われた山は日も当たらず、殺風景な景色になる。儲からない山にはソーラーパネルの設置が進んでいる。正に🐻の生きる世界からは遠い。修験僧が見たら卒倒する風景だ。過度に植えられたからは花粉が膨大に飛び、春は地獄になる。

 

我々の信じる神とは、本来は八百万の神だった。それを近代国家を実現するためにさも一神教かのように教育され、幻想を抱かされ、偏狭的合理主義に基づいた考えを教え込まれた。今一度、修験道の諭した原点に戻って神を見直す時が来ているのではないか?原点とは自然であって、神とは自然の中の生き物だ。日本語本来の”カミ”は、動詞のクム(籠む・隠む)や名詞のクマ(隈・)が変化して”カミ”になったという。何としても🐻を守る!山を本来の姿に戻し、🐻を山に返すことが今我々の最低限すべきことだ。二度とニホンオオカミのように絶滅させてはならない。これこそ本来の日本人の義務に違いない。杉や檜の山から生命に優しいブナの林の山へ戻すことから始めなければならない。

参考資料:特攻6400人の悲劇「戦争の不条理」伝え 戦争の「犠牲」のリアリティー:当事者不在の政治の行く末にあるもの 特攻とは何だったのか 若者を死に向かわせた作戦 「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩 「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか? 日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由 これは何かの冗談ですか?日本人が知らない「大日本帝国の終戦構想」 ペンを操縦桿に持ち替え…学徒搭乗員が戦った死と隣り合わせの激戦 特攻 戦術でなく「儀礼」  国民が期待、やめられず 【海外の見方】特攻、米兵士らは「狂信的な自爆戦術」と恐れる 靖国問題の解決を阻むアンチノミー 東洋のハワイとも呼ばれる指宿温泉!その歴史に触れる 指宿温泉の歴史はどこまで遡れば良いのでしょう? 日本の焼酎の歴史 隼人の抵抗1300年記念シンポジウム資料集 わからんから面白い魏志倭人伝 稲作の伝来 高句麗の南下によって生まれた「倭国大乱」 弥生人の身体的特徴 倭人が来た道 日本人の起源:“倭人”のルーツは中国大陸の呉・越 倭と倭人(中国の文献から見た) 松本清張も注目!邪馬台国はどこにあったの? 魏志倭人伝から見える日本 倭王や倭軍は大伽耶の人々 宮内庁、お前もか! 宮内庁が開示を拒む陵墓の記録 明治五年修験宗廃止をめぐる一考察 日本の修験道 磨崖仏100選Ⅰ 臼杵石仏とは 国宝臼杵石仏の「アタマ、どげーするん?」論争 宇佐八幡はなぜ天皇家の祖廟か 突然ですが、問題です。日本の山の木は 森林・林業とスギ・ヒノキ花粉に関するQ&A 森林の多面的機能と我が国の森林整備 国民病の花粉症、実は戦後の植林政策の失敗の放置だった!? 花粉症発症率ランキング 秋田県現存植生図 森の学校2023 クマ問題を考える講座 ツキノワグマの生態と人身被害防止 クマってどんな動物 第3章 森林 くまもりNEWS 【緊急署名】クマを指定管理鳥獣にせず、人とクマが遭遇しない対策をお願いします 日本のカミと神聖感覚

🛌眠ることは🕊️生きること💧頻尿との戦い(膀胱抗癌治療から前立腺手術の間で)

今でも憶えている。「誰でも年をとれば頻尿になる。少々眠れないくらい当たり前、諦めることですね。」泌尿器科で有名な公立病院の担当医から言われた言葉。老人が夜間頻尿でいかに苦しんでいるか、夜間頻尿がいかに老人の命の奪っているか、この時私も知らなかった。自分自身が経験するようになるまで….6年前、この病院の泌尿器科部長のサイドビジネスの駅前クリニックで受けた抗癌治療だった膀胱癌BCG注入治療の副作用で、膀胱は萎縮し、過活動化し、頻尿で苦しむことになった。2,3時間に1回はトイレに行かなければなくなった。これは夜中でも。

私は膀胱癌で2010年、2018年と2度の手術を受けている。最初の癌が見つかったのはやはりこの駅前クリニックで、中国の8年に及ぶ単身生活の果て、帰国後生じた陰嚢の腫れの検診からである。医者は膀胱をエコー検診し「見つけた」と嬉しそうに叫んだ。癌だった。まだこの時は膀胱内面の表在性のTaで済んだ。この公立病院での経尿道的膀胱腫瘍切除術(TURBT)によって下半身麻酔下、切除手術を受け、ことなきを得た。陰嚢の腫れはリンパ腺を通して膀胱内の異常を伝えたものだったのだろう。全ては繋がっているはず。しかし、8年後にまた癌が襲ってきた。膀胱癌は再発する可能性が高い。この癌を見つけたのもこのクリニックで。中国にやはり1年間駐在し、全くの症状なしで、またはないだろうと一応確認のために診てもらったところ、医師のメモに“T2”とのみ書かれていた。浸潤性で寧ろ厄介な癌細胞だった。最悪の場合、膀胱全摘出になると言われた。戦わざるを得ない。手術から1ヶ月で膀胱内に癌細胞が残り、抗癌治療が始まる。これがまた地獄だった。

膀胱癌BCG注入治療とは。誰もが知っているBCGつまり牛型結核菌ワクチンを膀胱内に封入し、刺激を受けた自分の免疫細胞のマクロファージが癌細胞を貪食・破壊する。結核菌と膀胱癌が頭の中で中々結びつかないが、要は同じ毒をもって毒を制すという考え方で人の中の抗原抗体反応を利用する。結果として膀胱内で免疫細胞が菌と癌細胞と戦うため、強い炎症反応がおきる。膀胱内はカオス状態だ。それでも完治率は6割。5分5分よりはまだマシなレベル。「毎週1回注入し、6~8回繰り返す。 注入終了後も1~3年間は注入を維持した方がよいとの推奨があるが、具体的なスケジュールは定まっておらず、実際に完遂率が低い副作用も高頻度にみられるなどの問題点もある」とされる。この副作用とは「頻尿,排尿痛などの膀胱萎縮膀胱刺激症状,発熱,易疲労感などの全身症状,皮疹,関節痛などのアレルギー反応が軽微なものを含めると8割の患者に起こり、患者の生活に少なからず弊害をもたらすことが推測される」完治率より副作用に苦しむ率が高いことが分かる。このクリニックの医師が良く言っていた。「この治療はアメリカで効果が確認されている」日本人の好きな常套句だ。抗癌治療により如何に患者が副作用に苛まれるか?医師は成果を求め、副作用を軽きに見る傾向がある癌は治ったが、その後をどうするのか?一方、BCG治療の辛さは筆舌に尽くし難い。性器の先から管を通し、注射でワクチンを膀胱内に注入する。両足が固定され、拷問にも似た治療。勿論麻酔なしで行われる。注入後は1時間トイレを我慢し、ワクチンが膀胱内に染み渡るのを待つ。膀胱がじわーっと熱くなり、重い疼痛が襲ってくる。私のように耐えられなくなり、治療途中で辞退する患者が多いのも当り前。尿道に管を通すのが痛いだけでなくワクチン接種により膀胱内が燃えるように痛くなるのは勿論、看護師の前でイチモツを晒し、性器に管の通す痛みに耐える姿を見せなければならない恥辱感がある。マゾヒスト、露出性癖であればいいが、残念ながらその気が私にはない。看護師が見ている。101匹わんちゃんに出てくるクルエラにそっくりだった。偶然に駅のホームで再会したことがある。看護師は私服を着ていると分からないものだ。どこかで会ったと思ったが、思い出せない。向こうから「また来て下さいと言われた。誰なのか?誠に申し訳ないが、2度と会いたくない看護師だった。クリニックがその後なくなったと公立病院の担当医師から聞いて初めて思い出した。私はこの治療を7週連続で受け、それでも癌細胞が消えないため、1週置いて、2週連続を2回、次は隔週で5回、効果を確認し、月1度になった。精神的にも肉体的にも限界がきていた。一回6,000円の治療は18回に及ぶ。この治療は通常2ヶ月、6〜8回である。治療を始めて8ヶ月、おかげで癌細胞は消えていた。もういい加減にしろと言いたかったが、医者は止めに半年更に続けようと言ってきた。何も言わず、微笑みを返し、ダマテンで逃げる決意を固めた。この苦しみを医者は分からない。この公立病院も手術専門の如きなので、私の面倒を見るのが怪しかったが、クリニックの過激治療を話し、飛び込んだら受け入れてくれた。経営者だった泌尿器科部長も公立病院を去っていた。私の担当医が代わりに部長になっていた。癌の再発が5年間なかったことが確認され、昨年9月に卒業となった。公立病院の割に治療費が高かったので助かった。癌の再発がないことのみを半年に一回診る。抗癌治療による副作用に対する治療は何もしなかった。慢性膀胱炎過活動膀胱による睡眠障害が私を苦しめた。夜、トイレに何度も起きる。体が冷える。布団も冷え切っている。震えが止まらず眠れなくなる。朝までまんじりともできない。慢性の睡眠不足が心を蝕む。集中力が途切れる。理由の分からない脱力感も襲っていた。全てにおいて投げやりになる。仕事に支障をきたした。今考えても定年までの1年半よく耐えたものだ。失禁倦怠感虚無感無気力、全てが襲ってきていた。抗癌治療とは癌を殺すと同時に自らを削ることになる。副作用という悪魔に取り憑かれた。更に追い討ちをかけたのが、小さくなった膀胱の隙間を埋めるかのような魔物の登場だった。

睡眠障害から逃れる術を探していた。会社を定年で退職し、職探しも諦め、山行きを楽しむようになって、ストレスがなくなった。ただ夜間頻尿だけはどうしようもない。心底眠りたかった。眠れれば何かできると思った。1年ほど前、血糖値を改善するクリニックに受診した際、処方された睡眠薬にハマった。ベルソムラである。夜2,3度起きるが、短い時間の睡眠が深くできた。この薬の良さは2度寝まで効くことだ。6時間効果がある。睡眠薬を求め、膀胱の状況確認も兼ね、近所の泌尿器科クリニックに通うことにした。初回の血液検査でPSAの数値が高いこと、正常値は4ng/ml(もしくは2.5ng/ml以下)が4.77ng/mlであった。前立腺が既に肥大が凄まじいとは指摘された。いつの間にか、頻尿が酷くなっていたのも真実だった。まさか、踏んだり蹴ったりになるとは。医者が言った。「切ることを前提に投薬治療をしましょう」前立腺肥大症に伴う排尿障害を改善する薬を毎朝飲む指示を受ける。夜は睡眠薬。要は経過観察のみだった。毎月、膀胱の容量を超音波で調べ、薬を処方する。対処療法のみで過活動膀胱慢性膀胱炎前立腺肥大に対して根本的治療の試みは全くなかった。何故か、急激に過活動膀胱が酷くなり、頻尿に更に苦しむようになった。原因は分からない。半年でPSAは1.64倍に跳ね上がった。1年間で0.8ng/ml 以上数値の悪化で精査が必要とされているが、半年で既に3.03ng/mlも上昇していた。トイレは日中10回夜間3回、1時間半に1回はトイレに行くようになった。正常な人は日中3回、夜間0〜1回、夢のようである。前立腺癌か、前立腺肥大か、判断を下すため、今年1月25日MRI検査を受ける。右上の映像を見てほしい。前立腺の大きさは正常であれば胡桃状で直径30mmほど。私のは65,2mm2.2倍、貧弱な膀胱を押し上げ、抗癌治療により萎縮した膀胱の3倍ほどになっていた。見事なハート型に育っていた。前立腺肥大が膀胱を刺激し、更に過活動にし、頻尿を悪化させたようだ。このクリニックに通っていた半年は何だったのか?クリニックの医師は手術をするのであれば削除する技術を持つ病院を紹介すると言ってきた。待ってましたと言わんばかりだ。こちらもこの医師から逃げる機会と思っていた。

この医師は当初より手術はHoLEPを前提に考えていたようで、紹介してきた病院もこの専門医だった。降って湧いたような不幸だが、一番に安全で、肉体的、精神的負担が如何に少ない手術とするか、自分で検討する。癌ではないので、致命的な病でも手術でもない。保険も効く。頼みとする生命保険の対象手術でもあった。時代と共に手術も進化する。ネットで調べると電子メスからレーザーへ、更にレーザーも切除から蒸散へと移ってきている。緑色ライトを使うPVP治療で、出血が少なく、4日ほどの入院で済む。再発が懸念されるが、その頃は虹の向こうにいるだろう。

生命保険で10万円下りる。健康保険で高額医療は57,600円までに抑えられる。後は保険適応外費用の差額ベッド代、病院食になる。後はこのクリニックの紹介してきた病院がPVP治療をしてもらえるかになった。電話で確認したところ対応できかねるとのこと。今は便利なことに、ネットで前立腺肥大症の治療実績が調べられる。どの病院が東京で一番前立腺肥大手術を行っているか?圧倒的に長久保病院になる。2022年度実績で237件と他を引き離して多い。何故だろうか?病院は国立の矢川駅から7分、個室7室を含む22床、泌尿器科に特化している。開院し22年ほど、けして新しくはない。PVP治療が専門とのこと。早速電話すると対応がいい。紹介状には院長名で提出して欲しいと言ってきた。費用は9万円ほどと言っていた。他は15万円ほどと言っていたので、コスト面のメリット、入院日数4日は、他が5〜7日と言っていたので、手術の手間、肉体的負担の軽さに魅力があるのではないだろうか?紹介状の書き換えにクリニックから千円ほど取られたが、自分の負担を考えると致し方ない。手切れ金になるか。長久保病院に初めて行ったのが2月9日。まだ寒かった。電話で予約し、午前11時に指定された。1階70名が座れるほどの待合室は老人で満席状態。おじいちゃんが9割。この風景は安心させるものだった。対応の良い病院でなければ気の短いおじいちゃんは来ない。時間が止まったような場所だった。往診には40分ほど待たされる。診断はすぐ、手術をいつするかだけ。最短で3月4日でどうですか?と聞かれた。自分の誕生日になるが、構わないのでお願いした。生まれ変わるにはGood Timingと感じた。前日14時に入って欲しい。上手くいけば3泊4日で帰れるとのこと。覚悟を決めた

3月3日は日曜日だった。南武線に立川駅で乗り換え、病院のある矢川駅を過ぎ、谷保駅に昼前に着く。谷保天満宮に向かう。2時には病院に着かなければならない。明日いよいよ手術。最後の短い娑婆の自由を味わう。梅を見るには遅すぎた。無事手術が終わるように祈るために来た訳でもない。折角、矢川に入院するのだから久しぶりに谷保の雰囲気を味わいに来ただけ。病院には歩いて行ける距離。途中ランチして最後の酒と美味い飯を食す。谷保天満宮は東日本最古の天神で、菅原道真が太宰府で亡くなった903年に三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるというが、道武氏が実際、三男だった史実はなく、この地に流刑になった子もいない。摩訶不思議な関東三大天神の一つ。他の天神が亀戸湯島とあまりにも有名で都会的な雰囲気があるが、この天神は野暮天の元になったと言われるくらい、地味で質素で目立たない。谷保は元々”や“と読む。”や“では野暮ったいということで”や“としたらしい。ただ谷保天満宮はやと読む。宮司に何故やなのか伺ったところ。から来ているのではと言われた。色々な説があって、どれが定かか分からないのが本当。近くで食事をしたのが千丑茶屋。3月一杯で店を閉じているが、雰囲気のある古民家レストランだったので残念。自家製コーヒー酎で贅沢なペペロンチーノを頂く。千丑とは昔の地名からで、流石、天神脇で、牛に因んでいる。病院のある場所は矢川、駅から西立川駅方面に向かうと矢川緑地がある。嘘か誠か?矢の如く早い流れから矢川と呼ばれたようで、その面影は今やない。用水路と見紛う小川が細々。国立の昔を残す風景になる。病院には住宅街をのんびり歩いて、矢川駅に近づくと道の左側に見えた。4階建の私立病院、これでもMRI、手術用ロボットを有しているから驚かされる。

日曜なので裏口から入る。受付で3階にエレベーターで上がるように指示される。3階全てが入院患者向けになっている。中央に看護師の詰め所。シャワー室も見えた。個室はトイレ付きで1泊16,500円、一流ホテル並みの宿泊料金だ。私と一緒に入院した方は個室だった。ちょっと見、格別お金持ちには見えなかった。私くらいのお年の方だ。3泊で49,500円はちょっと勿体無い気がする。勿論高額療養費対象外で自費になる。実際入院費は自己負担限度額の57,600円に食事代2,300円で計59,900円、これに個室代を追加すると109,400円。保険100,000円が下りてくるので、9,400円だけ掛かるに過ぎない。個室でも良かった気はするが、後の祭り。実際は4人部屋、2人が既に窓際に。お二人とも聞いてみると同世代だった。お一人は膀胱癌の手術を昨年末別の病院で受け、更にこちらで前立腺手術を受けられている。私に似ている。ただ、膀胱癌手術は初めてとのこと。私より苦しみは少ない。しかしPSAの数値が長年20以上だった由、これで良く前立腺癌ではなかったことに驚かされた。彼の手術は一昨日で元気そうに次の日退院された。羨ましい。私もかくありなんと思われた。実際、前立腺癌が怪しまれる数値は単なるPSAではなく、フリーPSA/トータルPSA比になる。いくらPSAが低くともこの比が高ければ癌の疑いが濃くなる。この後、生検を受けにこられた方がいて、分かった次第。もう一人の方は前立腺癌で全摘出されていた。それでも1週間入院して私と同じ日に退院された。とにかく傍目で見て苦しそうだった。私は入口近く、看護師から説明を受け、3時過ぎにシャワーを浴びる。4階から🗻が望められるようなので眺めるも見えず。病室から隣のマンション脇に🗻が夕日に照り輝きみえる。同室の患者さんが教えてくれた。早速上に行き外から拝む。朝また見に行こうとしたら看護師に見つかり屋上へ入るのはダメとのこと。屋上を開放すべきと思われた。がっかり。次の日に手術、下半身麻酔は手術室で院長自ら打っていた。大きな病院では麻酔医がいて見守るが、この病院ではそのようなことがなく、不安だった。この不安が後ほど的中する。手術は医師が手動でレーザーを動かし、膀胱下の尿道に沿って前立腺を蒸散させていく。出血の少ない手術と言いながら、やはり血は吹き出している。映像を見ながら、1時間ほどで終了。手術後も腰下感触がない。4時間。急にアレルギーが襲ってきた。鼻が詰まり、くしゃみが止まらない。更に喘息になった。酸素を入れてもらったが、尚息が苦しい。堪らない。6時間で足の感触が戻る、痛み若干。兎に角辛い、耐えるしかない。腹が張るのが堪らない。辛い。鎮痛剤投与で治ったが、喘息が堪らない。アラフィラキシーと後で分かった。半身麻酔剤にはキシロカイン1%5mlが使われている。これは副作用としてアレルギーを持つ人間にアラフィラキシーを起こす場合がある。私以外もこの麻酔剤投与でくしゃみをしている人間がいたのを覚えている。鼻と喉、両方苦しい、夜になってやっと夜勤医師からサルタノールをもらい事なきを得たが、看護師の態度に不信感を持つ。4人部屋なので静かにしろと言う。しかし、苦しんでいるにもかかわらず、何もしてはくれない。二言目には絶対安静と言ってベッドに寝ていろと言いながら、何も喘息に対し処置せず、医師の指示を待てという。苦しくて居ても立っても居られない。便意を催し、トイレに行ったが、これがまずかった。ステントがずれたようだ。性器の先が居た堪れなく痛くなった。ロキソニンをもらう。これで凌げればいいのだが…もう0時になる…堪らない一日になった…64回目の誕生日だった。また真夜中また喘息の発作、吸入して凌ぐ、尿管が外れているのか、ほぼ漏れる、寝るどころでは既になくなった…朝を待つしかない。看護師も逃げる、当たり前だ。代わりのおしめをもらえない。アメニティに金を入れてない…そりゃそうなのだが…もってこいと言っていなかったのが問題、ここの病院は患者を人として扱わないのが問題、糞尿にまみれて死んで行く、そう思えた。次の朝、担当医の院長にこの喘息に襲われた経緯を説明しても、環境が変わった所為にしたのには驚かされた。この病院では患者の自前の薬で賄うことを基本にしており、喘息のエアゾールも事前に準備すべきだったと言われたことに青ざめた。以前は使っていたが、吸入器なぞもはや使用せず、咳止めで十分だった。持参した咳止めではとても喘息に勝てなかった。半身とはいえ麻酔の怖さに改めて恐れ慄いた。医師が麻酔の副作用に対する意識を持っていたのか?甚だ疑問だ。患者に対し説明もない。8年前の膀胱癌の手術時、最後まで経緯を見ていたのは医師ではない麻酔医だった。麻酔の内容の説明も事前にあった。この病院では患者にとってのこの重要なインフォームドコンセントそしてアラフィラキシーに対応する処置を想定していなかった。既に朝一番でステンドが外された。自由になる。もはや鼻水も喘息も去っていた。ただ頻尿甚だし、放尿時の尿道の痛み耐え難し。1時間毎に尿意が襲う。寝ている間も襲ってくる。睡眠剤で短時間の眠りを深くするしかない。これは以前も同様ではあるが、1時間に1度のトイレは流石にキツい。シャワーを浴びいることができ、ホッとする。次の日、予定通り許可を受け、退院となる。医師からの指示はキツイ。3日間はシャワーのみ、10日間は酒、コーヒー禁止、自転車、登山、体への負担のかかる運動は当面禁止。但し、月末の旅行は大丈夫とのこと。手術から20日で痛みはなくなる。しかし相変わらず血尿、但し、痛み止め睡眠薬で久しぶりに5時間寝れた。画期的だ。

今回の手術で前立腺にポッカリ穴が空いた。膀胱が前立腺中央部まで広がったようだ。尿の溜まる量は増えたが、膀胱にコントロールする力がなくなり、したくなった途端、あっという間に出てしまう。尿が溜まり切る前にトイレに行かないと漏らす。ちょっとした下腹部の刺激でも尿は漏れ出る。逆に刺激を感じなければ、極限までトイレに行かなくて済む。覚醒を抑える睡眠薬、刺激を抑える痛み止めを寝る前に飲めば、夜間頻尿が抑えられることがわかった。問題は膀胱の内尿道括約筋の機能低下を外尿道括約筋で如何に補えるかになってくる。この筋肉は骨盤底筋であり、鍛えるしかない。頻尿との戦いもこれに依ることがわかった。

50歳以上で2人に1人は夜間頻尿に苦しんでいる。これが実際、寿命を縮める原因となっている。医者が夜間頻尿を諦めろということは患者の人としての楽しい生活を諦めろということだ。夜眠れない苦しみは耐えられるものではない。確かに死ねば、永久にぐっすり眠れるわけで、それまで待てというのが医者の言いたいことだったのかもしれない。医者が病を治すのは何のためなのだろうか?単に病を治すことのみに目を向けば、患者の肉体的、精神的、心理的負担を無視することになりかねない。病を治すことで、患者が生きていく限り、死の恐怖を味わわせることになってしまえば、この治療が正しいのか?医者が見るのは治療による短期的成果であって、患者のQOL自体を得てして無視していることが多い。QOLとは ひとりひとりの人生の内容の質社会的にみた生活の質』のことを指し、日常生活や社会生活のあり方を自らの意思で決定し、生活の目標や生活様式を選択できることであり、本人が身体的、精神的、社会的、文化的に満足できる豊かな生活を送ることを意味する。私が受けた抗癌治療が正に私のQOLの無視だった。医者は常に患者に対し、インフォームドコンセントを実施し、本来であれば最悪の場合アラフィラキシー等が起きることを説明し、対処する義務がある。前立腺手術ではこのことを無視していた。医者は常に治療の意図と意図に合わない場合が起きることを想定しなければならない。死の恐怖を味わうのは常に患者なのだから。

手術からほぼ1ヶ月経ち、残尿感もなくなり、眠りも深くなっている。あと2ヶ月で削り取った部分に新たな尿管膜が再生するのを待っている。そして薬なき深い睡眠が可能になることをひたすら願っている。6年間の睡眠を求めた戦いに勝利宣言する時がくることを今は祈るのみだ。眠ることは生きること、安らぎの時を取り戻すことだ。

参考資料:夜間頻尿 高齢だからと諦めない「頻尿」の原因と治療・放置は重症化のリスクも 頻尿(夜間頻尿)、尿失禁 膀胱がんの治療について 尿路上皮がんの治療の種類と副作用・合併症 特集「膀胱がん」 第1回 ~初発筋層非浸潤性膀胱がんとBCG療法~ 特集 膀胱がん 第2回「BCG抵抗性となった筋層非浸潤性膀胱がんの治療選択」 膀胱がんの薬物療法の副作用 外来でBCG膀胱内注入療法を受けている患者のQOL 前立腺肥大症の低侵襲治療“レーザー前立腺蒸散術”とは キシロカイン アナフィラキシーの症状のグレード(軽度・中等度・重症)について解説

府中市郷土の森⛲️梅🌸まつり、武蔵國国府の栄枯盛衰🕊️

府中市郷土の森公園は、市立公園ながら石神井公園より広い33ha、早春は多摩川沿いに130種1,300本の梅が咲き乱れる。本数では高尾梅郷1万本には敵わないが、種類の多さでは東京1。高尾梅郷はほぼ白梅で、次に見事な世田谷羽根木公園18種650本。多彩な紅梅、白梅、枝垂れ梅、梅の香りが、風に舞う花びらと共に早春の訪れを告げる。府中は流石、嘗て武蔵国国府、いわば古の都の面目躍如か。奈良の梅も見事ではあるが、この東京にも匹敵するとも劣らない梅の園がある。さすが東の都と思われる。ただ、この広大な公園が国司の庭園跡などではなく、砂利採掘場跡だったことには驚かされる。

府中は、8〜10世紀300年に渡り武蔵国国府として鎮座した。埼玉と横浜、川崎を含む上野国に匹敵する広大な地の中心だった。しかし、律令制の崩壊からヤマト王権の中央集権機能が失われ、役割を終える。いつどのようになのか、明確でなくなるほど廃れ、何と20世紀まで場所がどこだったのかさえ分からなくなる。国府は1,000年の眠りについた。発掘され、明確になったのはわずか50年ほど前に過ぎない。府中の名前は国府があったという言い伝えが由来。府中が何故国府になり、歴史から消えたのか?歴史の中に答えはある。国府が設置される以前7世紀まで関東は上野国が中心であり、ヤマト王権の一角を担っていた。西の都に通じる道は上野国から信濃、美濃、近江を越える東山道を使った。都から海を越えていく場合は、下総国から利根川経由で向かう。古墳文化から府中のある多摩、秩父はこの文化の流れから外れる。大規模古墳は正に上総から利根川以北になる。府中の地が国府として選ばれたのは、東山道東海道を繋ぐ武蔵道の接点に相応しく、背にした多摩川を通して江戸湾につながることだ。府中は関東ローム層の武蔵野台地の上にあり、乾燥した土壌が開拓を阻んだ土地だった。江戸時代に府中用水が流れるまで稲作ができる土地ではなかった。直轄地の栄枯盛衰は一重に政権側の求心力に左右される。平将門の乱を何とか凌いだが、武士による鎌倉幕府の樹立が衰退へ向けたプロローグで、武蔵の中心は鎌倉に流れる。国府跡の大國魂神社の正面に立つ源義家像が嫌味に見えなくもない。彼の子孫の源頼朝、足利尊氏こそ府中に変わる鎌倉府275年の歴史を刻むことになる。戦国時代に入り、平将門の流れを汲む秩父一族の畠山河越豊嶋江戸が武蔵において覇権を拡大していくのは歴史のいたずらか?群雄割拠を制するため太田道灌は1457年江戸城を江戸湾の入江に築く。徳川家康は関八州太守として1590年に入城し、江戸城を中心に幕藩体制を築いていく。最早、エピローグ。以降国府が府中に戻ることなく、江戸の時代となる。国府だった府中は歴史の狭間に消えていく。甲州街道の一宿場町になり、更に明治以降、一時期神奈川県に編入され、甲府と東京を繋ぐJR中央線からも外される。府中はさびれてしまったのか?さにあらず。府中の名を今一度世に知らしめたのは、凡そ100年前の関東大震災からの首都の復興を支えた多摩川の砂利の供給だった。

府中は多摩川を背にし、河岸段丘が市を横断する。多摩川岸が凡そ市の面積の半分を占める。江戸時代から続く多摩川河口の砂利採取が明治に入り、より上流の府中近辺まで遡っていた。拡大する鉄道網に砂利は不可欠である。1910年、府中に初めて敷かれた鉄道の東京砂利鉄道(国鉄下川原線となり1976年廃線)、1916年に調布から多摩川原まで開通した京王電気軌道(現京王相模原線)、1922年にできた多摩鉄道(現西武多摩川線)。1929年に分倍河原 – 立川間を開業した南武鉄道(現JR南武線)、府中の砂利を巡って4社が凌ぎを削っていたことが分かる。1923年関東大震災が東京と横浜を襲う。地震に煉瓦造りが耐えられないことが分かり、コンクリートの採用が進む。コンクリートには砂利を混ぜて強度を持たせるため、未曾有の砂利採取ブームが府中に押し寄せることになる。この乱開発により、府中の多摩川縁は砂利穴だらけになり、水質汚濁、取水困難等の農漁業への悪影響が生じる。砂利採取への規制強化が厳しくなり、1964年には全面禁止となる。嵐は過ぎ去った。広大な是政の砂利集積場は1954年に多摩川競艇場に、東京砂利鉄道の終点にあった砂利採掘場跡は1968年に府中市郷土の森公園へと生まれ変わることになる。東京砂利鉄道軌道跡は今や公園や緑道になっている。心地よい一本道。ここを蒸気機関車が走っていたとは思えない。

東京は1944年11月24日から1945年8月15日まで計106回もの米軍機による空襲を受け、被災者は約310万人、死者は11万5千人に及んだ。府中も同じ東京ではあったが、爆撃を受けていない。府中がもし尚、国府であれば、狙われて当たり前。もはや国府ではない府中は被災を避けることができた。府中には軍事工場もなく、狙うべき大型都市でもなかった。軍事施設はあったが、米軍は占領後を考えて他同様、爆撃を行なっていない。全てではないが、陸軍施設は今や府中の森公園になっている。府中市は今や人口26万人、東京多摩地域の3番手、八王子、町田に次ぐ、生活実感値満足度は多摩地域で武蔵野市に次ぐ2番手になっている。大きな理由は、図書館や公⺠館、児童館などの数が多い、充実している(1位)、公園や遊歩道、児童館など、⼦育てに適した施設が多い(1位)になる。府中は国府の権威を失ったことにより、住む人に快適さをもたらした。正に名を捨て実を取った。

私の楽しみは梅を眺めながら、ベンチに座り、缶酎ハイ。メジロが梅の花の彼処に見え隠れしながら可愛い姿を現してくれる。梅には春の定番だが、この組み合わせをまず見ることはまずない。梅がそもそも中国から来たので梅に鶯と言ったのは中国ではないかとも言われるが、そもそもメジロは日本の鳥だ。中国ではむしろ梅にになる。我々関東人はなかなかを見ることはできない。私も山で一度見かけたくらいだ。南の鳥。は臆病で姿を現さないし、虫を食べる鳥なので、この時期、梅に群れることはない。何故梅に関係のないを持ってきたのか?が春を呼ぶ鳥だったからだ。鳴き声のホーホーホケキョは法華経に通ずる。この時期、梅に群れ、花の蜜をせっせと啄む姿を見せるのがメジロ。羽の色も明るい鶯色。梅にメジロと改むべきか?そう思わせる愛おしさがある。不思議なことに我々の視覚に合わせ、鶯色はメジロの色に変わっている。元々鶯色は地味な色の代名詞だった。真実を見る目を誤魔化すことはできない。春はメジロに違いない。時代とともに人の見る目も変わる。昔のしがらみに固執するものではない。府中の武蔵国府としての栄枯盛衰も砂利に振り回された時代も美しい梅園が全てを置き換えている。我々にとって今美しい梅を愛でさせてくれることが府中の魅力全てになる。

1962年リリースされた曲がある。「ターン・ターン・ターン」(Turn! Turn! Turn! (To Everything There Is a Season))この歌は、ピート・シーガーが旧約聖書の『コヘレトの言葉』第3章をもとにして書いた曲。この曲で最終章で歌われる歌詞が好きだ。我々の真実を見る目がここにある。

To Everything (Turn, Turn, Turn)
There is a season (Turn, Turn, Turn)
And a time to every purpose, under Heaven

A time to gain, a time to lose
A time to rend, a time to sew
A time for love, a time for hate
A time for peace, I swear it’s not too late

すべての物事は移りゆく、季節も移りゆく、神の摂理に従って、得られる時もあれば、失う時もある、引き裂かれる時も縫い合わされる時もある。愛する時もあれば憎み合う時もある。平和を求めることだけは、決してまだ手遅れではない

参考資料:郷土の森博物館はプラネタリウムからレトロ建物まである「森の博物館」【東京・府中市】 府中郷土の森博物館 第39回多摩めぐり 武蔵国府は1300年前、なぜ府中に? 国府跡・大國魂神社と砂利電・競馬場をめぐる 武蔵国国府はなぜ府中に置かれたか(710年)? 1300年前の府中の謎を探る 府中市について 府中の歴史 古墳時代の武蔵国 関東の古墳 東京(旧武蔵国)の地方史 江戸以前の武蔵野 関東大震災の復興を支えた多摩川「砂利鉄道」と今も残る「砂利穴」とは 砂利採掘――多摩川の荒廃 路線バス小史234.府中市郷土の森公園 東京の住⺠⽣活実感値トップの街は2年連続武蔵野市 うぐいす色(鶯色)の歴史