府中市郷土の森⛲️梅🌸まつり、武蔵國国府の栄枯盛衰🕊️

府中市郷土の森公園は、市立公園ながら石神井公園より広い33ha、早春は多摩川沿いに130種1,300本の梅が咲き乱れる。本数では高尾梅郷1万本には敵わないが、種類の多さでは東京1。高尾梅郷はほぼ白梅で、次に見事な世田谷羽根木公園18種650本。多彩な紅梅、白梅、枝垂れ梅、梅の香りが、風に舞う花びらと共に早春の訪れを告げる。府中は流石、嘗て武蔵国国府、いわば古の都の面目躍如か。奈良の梅も見事ではあるが、この東京にも匹敵するとも劣らない梅の園がある。さすが東の都と思われる。ただ、この広大な公園が国司の庭園跡などではなく、砂利採掘場跡だったことには驚かされる。

府中は、8〜10世紀300年に渡り武蔵国国府として鎮座した。埼玉と横浜、川崎を含む上野国に匹敵する広大な地の中心だった。しかし、律令制の崩壊からヤマト王権の中央集権機能が失われ、役割を終える。いつどのようになのか、明確でなくなるほど廃れ、何と20世紀まで場所がどこだったのかさえ分からなくなる。国府は1,000年の眠りについた。発掘され、明確になったのはわずか50年ほど前に過ぎない。府中の名前は国府があったという言い伝えが由来。府中が何故国府になり、歴史から消えたのか?歴史の中に答えはある。国府が設置される以前7世紀まで関東は上野国が中心であり、ヤマト王権の一角を担っていた。西の都に通じる道は上野国から信濃、美濃、近江を越える東山道を使った。都から海を越えていく場合は、下総国から利根川経由で向かう。古墳文化から府中のある多摩、秩父はこの文化の流れから外れる。大規模古墳は正に上総から利根川以北になる。府中の地が国府として選ばれたのは、東山道東海道を繋ぐ武蔵道の接点に相応しく、背にした多摩川を通して江戸湾につながることだ。府中は関東ローム層の武蔵野台地の上にあり、乾燥した土壌が開拓を阻んだ土地だった。江戸時代に府中用水が流れるまで稲作ができる土地ではなかった。直轄地の栄枯盛衰は一重に政権側の求心力に左右される。平将門の乱を何とか凌いだが、武士による鎌倉幕府の樹立が衰退へ向けたプロローグで、武蔵の中心は鎌倉に流れる。国府跡の大國魂神社の正面に立つ源義家像が嫌味に見えなくもない。彼の子孫の源頼朝、足利尊氏こそ府中に変わる鎌倉府275年の歴史を刻むことになる。戦国時代に入り、平将門の流れを汲む秩父一族の畠山河越豊嶋江戸が武蔵において覇権を拡大していくのは歴史のいたずらか?群雄割拠を制するため太田道灌は1457年江戸城を江戸湾の入江に築く。徳川家康は関八州太守として1590年に入城し、江戸城を中心に幕藩体制を築いていく。最早、エピローグ。以降国府が府中に戻ることなく、江戸の時代となる。国府だった府中は歴史の狭間に消えていく。甲州街道の一宿場町になり、更に明治以降、一時期神奈川県に編入され、甲府と東京を繋ぐJR中央線からも外される。府中はさびれてしまったのか?さにあらず。府中の名を今一度世に知らしめたのは、凡そ100年前の関東大震災からの首都の復興を支えた多摩川の砂利の供給だった。

府中は多摩川を背にし、河岸段丘が市を横断する。多摩川岸が凡そ市の面積の半分を占める。江戸時代から続く多摩川河口の砂利採取が明治に入り、より上流の府中近辺まで遡っていた。拡大する鉄道網に砂利は不可欠である。1910年、府中に初めて敷かれた鉄道の東京砂利鉄道(国鉄下川原線となり1976年廃線)、1916年に調布から多摩川原まで開通した京王電気軌道(現京王相模原線)、1922年にできた多摩鉄道(現西武多摩川線)。1929年に分倍河原 – 立川間を開業した南武鉄道(現JR南武線)、府中の砂利を巡って4社が凌ぎを削っていたことが分かる。1923年関東大震災が東京と横浜を襲う。地震に煉瓦造りが耐えられないことが分かり、コンクリートの採用が進む。コンクリートには砂利を混ぜて強度を持たせるため、未曾有の砂利採取ブームが府中に押し寄せることになる。この乱開発により、府中の多摩川縁は砂利穴だらけになり、水質汚濁、取水困難等の農漁業への悪影響が生じる。砂利採取への規制強化が厳しくなり、1964年には全面禁止となる。嵐は過ぎ去った。広大な是政の砂利集積場は1954年に多摩川競艇場に、東京砂利鉄道の終点にあった砂利採掘場跡は1968年に府中市郷土の森公園へと生まれ変わることになる。東京砂利鉄道軌道跡は今や公園や緑道になっている。心地よい一本道。ここを蒸気機関車が走っていたとは思えない。

東京は1944年11月24日から1945年8月15日まで計106回もの米軍機による空襲を受け、被災者は約310万人、死者は11万5千人に及んだ。府中も同じ東京ではあったが、爆撃を受けていない。府中がもし尚、国府であれば、狙われて当たり前。もはや国府ではない府中は被災を避けることができた。府中には軍事工場もなく、狙うべき大型都市でもなかった。軍事施設はあったが、米軍は占領後を考えて他同様、爆撃を行なっていない。全てではないが、陸軍施設は今や府中の森公園になっている。府中市は今や人口26万人、東京多摩地域の3番手、八王子、町田に次ぐ、生活実感値満足度は多摩地域で武蔵野市に次ぐ2番手になっている。大きな理由は、図書館や公⺠館、児童館などの数が多い、充実している(1位)、公園や遊歩道、児童館など、⼦育てに適した施設が多い(1位)になる。府中は国府の権威を失ったことにより、住む人に快適さをもたらした。正に名を捨て実を取った。

私の楽しみは梅を眺めながら、ベンチに座り、缶酎ハイ。メジロが梅の花の彼処に見え隠れしながら可愛い姿を現してくれる。梅には春の定番だが、この組み合わせをまず見ることはまずない。梅がそもそも中国から来たので梅に鶯と言ったのは中国ではないかとも言われるが、そもそもメジロは日本の鳥だ。中国ではむしろ梅にになる。我々関東人はなかなかを見ることはできない。私も山で一度見かけたくらいだ。南の鳥。は臆病で姿を現さないし、虫を食べる鳥なので、この時期、梅に群れることはない。何故梅に関係のないを持ってきたのか?が春を呼ぶ鳥だったからだ。鳴き声のホーホーホケキョは法華経に通ずる。この時期、梅に群れ、花の蜜をせっせと啄む姿を見せるのがメジロ。羽の色も明るい鶯色。梅にメジロと改むべきか?そう思わせる愛おしさがある。不思議なことに我々の視覚に合わせ、鶯色はメジロの色に変わっている。元々鶯色は地味な色の代名詞だった。真実を見る目を誤魔化すことはできない。春はメジロに違いない。時代とともに人の見る目も変わる。昔のしがらみに固執するものではない。府中の武蔵国府としての栄枯盛衰も砂利に振り回された時代も美しい梅園が全てを置き換えている。我々にとって今美しい梅を愛でさせてくれることが府中の魅力全てになる。

1962年リリースされた曲がある。「ターン・ターン・ターン」(Turn! Turn! Turn! (To Everything There Is a Season))この歌は、ピート・シーガーが旧約聖書の『コヘレトの言葉』第3章をもとにして書いた曲。この曲で最終章で歌われる歌詞が好きだ。我々の真実を見る目がここにある。

To Everything (Turn, Turn, Turn)
There is a season (Turn, Turn, Turn)
And a time to every purpose, under Heaven

A time to gain, a time to lose
A time to rend, a time to sew
A time for love, a time for hate
A time for peace, I swear it’s not too late

すべての物事は移りゆく、季節も移りゆく、神の摂理に従って、得られる時もあれば、失う時もある、引き裂かれる時も縫い合わされる時もある。愛する時もあれば憎み合う時もある。平和を求めることだけは、決してまだ手遅れではない

参考資料:郷土の森博物館はプラネタリウムからレトロ建物まである「森の博物館」【東京・府中市】 府中郷土の森博物館 第39回多摩めぐり 武蔵国府は1300年前、なぜ府中に? 国府跡・大國魂神社と砂利電・競馬場をめぐる 武蔵国国府はなぜ府中に置かれたか(710年)? 1300年前の府中の謎を探る 府中市について 府中の歴史 古墳時代の武蔵国 関東の古墳 東京(旧武蔵国)の地方史 江戸以前の武蔵野 関東大震災の復興を支えた多摩川「砂利鉄道」と今も残る「砂利穴」とは 砂利採掘――多摩川の荒廃 路線バス小史234.府中市郷土の森公園 東京の住⺠⽣活実感値トップの街は2年連続武蔵野市 うぐいす色(鶯色)の歴史

投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。