曼珠沙華と🎑高麗巾着田

2023年10月2日(月)埼玉県日高市の巾着田の曼珠沙華は満開だった。西武線の高麗駅からそう遠くはない。この時期は人の流れに従って行けば、間違いなく着く。と言っても通年であれば、9月いっぱいがシーズンなので時期ハズレのはず。このブログが公開される頃には花は流石に散っている。今年は猛暑続きで秋が来ない。やっと彼岸を過ぎて彼岸花満開になる。これから秋はどうなっていくのか?心配になる。

この巾着田曼珠沙華公園には500万本曼珠沙華が咲き誇っている。高麗川から巾着田を守る堤の雑木林の下、湧き立つ赤い絨毯だ。面積は55,000㎡、東京ドーム1個分より広い。巾着田は220,000㎡、公園が1/4占めることになる。入場料は500円、以前は300円だったが….paypayで払えるようになったも時代の流れか。18年前2005年に開園した。その頃で100万本曼珠沙華が既に咲き誇っていたのだからこの壮観さが分かる。本数は更に増えているとされ、既に800万本咲いている説もある。曼珠沙華は中国から稲作とともに渡ってきたとされている。日本には雄株しかなく、種では増えない。自生する球根から株分けし、徐々にしか増えていかない。本家中国語の曼珠沙華のwikipediaでも紹介しているくらいなので世界的にも名だたる曼珠沙華の公園であることがわかる。私も中国の蘇州に駐在していた頃、秋の田んぼの畔に咲く曼珠沙華に郷愁を覚えたことを思い出す。しかし、高麗巾着田の如く見事な赤い絨毯を拝んだことはない。平凡な日本の田んぼの畔道の元風景に近かった。

今回訪れた10月初旬は中国の国慶節にあたり、多くの中国人が公園に来ていた。花の名を聞いてみた。台湾人は曼珠沙華、黒竜江省の人は彼岸花とそれぞれ日本語の中国語読みで教えてくれた。因みに黒竜江省の方は故郷で見たことがなかった。ドイツ人のカップルにも聞いてみたら、まずヨーロッパでは見ない花とそれぞれおっしゃっていた。韓国人にはお会いできなかったが、後でお会いし、お聞きすると曼珠沙華は日本の名であって、韓国では相思花と教えて頂いた。葉は花を思い、花は葉を思う。からきている。曼珠沙華は花が咲き、花が散った後、葉が出る。そして葉が球根へと変わっていく。確かに中国でも南に咲く花、不思議なことに朝鮮、台湾、沖縄でも日本本土のように自生し根付かなかった。日本では南西諸島から北海道まで自生しているから不思議。稲作の広がりと同時に各地の田んぼの畔に咲くようになったと言われているが、寧ろ、これ以上に日本への仏教の伝来と寺の各地への広がり、信仰の人々への普及が深く関係するのではないか?寺の参道の曼珠沙華が一番絵になる理由が分かる。

曼珠沙華梵語(サンスクリット語)でmanjusaka、釈迦が法華経を説かれたことを祝す天から降った花(四華)の一つ、白蓮華紅蓮華曼陀羅華と共に天上の花。曼陀羅華は白い朝鮮朝顔が当てられ、曼珠沙華には彼岸花の赤い花が当てられた。彼岸花の原産地、中国では、球根を生薬としてきた。中国名がこれを表している。石蒜。色気がない。日本のように寺の山門に見ることもない。これは百合と同じ。百合の漢字の意味は球根が幾重にも重なることに由来する。中国では百合は今も球根がメイン、日本は花がメイン。曼珠沙華は韓国ではどうか、主に全羅南道(元百済の地)の仏教寺院においては石蒜花と呼び、日本のように愛でている。しかし全国一斉に咲いている花ではない。李氏朝鮮時代に儒教を国教とし、1392年から約500年間仏教を排斥する。仏教は中国から朝鮮の百済を経て日本に受け入れられた。同時に曼珠沙華も中国から百済経由で生薬として日本にもたらされたのではないか?日本では曼珠沙華の名が初めて登場するのは室町時代になる。臨済宗の高僧、心田清播が心田詩藁(1394‐1428頃)に記しているのが初見になる。仏教伝来が538年。900年もの長い間、中国同様、生薬とのみ看做されていたのか、一般に開放されていなかったことは十分考えられる。これは、酒にも当てはまる。酒はお神酒として一般人は公開されず、千年もの間製造法さえ公にされなかった。日本の寺では石蒜を生薬として引き継がれた。これは朝鮮に通ずるものがある。寺では参道から墓場まで彼岸花が秋を彩る。生薬の栽培のおこぼれだった。室町以降、禅宗、日蓮宗、浄土宗は、武士・農民・商工業者などの信仰を得て、都市や農村に広まっていき、全国各地には信者の寄付によって数多くの寺が建てられ、地域の人々の信仰の中心となっていった。曼珠沙華は寺の建立とともに農家の田んぼにも植えられ、鼠避けになった。球根はそのままでは毒になるからだ。朝鮮と日本に違いはここにある。ただ、花の名に朝鮮経由で日本に来た歴史は残った。

仏教に由来する曼陀羅曼珠沙の字を当たり前に”“と読んでいるが、明らかに日本語ではない。日本語であれば”“か”“になる。よしんば少なくとも”“だ。中国語、満州語、モンゴル語、朝鮮語、梵語(サンスクリット語)であれば”ファ“か”“になる。何故”“なのか?お経を思い出して欲しい。南無妙法蓮経のは”“になる。本来仏教の言葉であれば中国語由来の”ファ“か”“になるべきだ。考えられるのは経由した朝鮮だ。しかし、朝鮮語に濁音はないが、実際には濁音が入って聞こえる言葉がある。例えばカル、カムサムニダ、ハンル、濁音に聞こえる。同様に華(花)はゴッ(kkot)になる。このゴッが日本でに変化したと見るのが自然だ。日本語では華(花)が”“か”“に当たり、はなく、に近い”“になった。朝鮮では◯△花では◯△ファ“と読む。例えば日本でムクと言うが、朝鮮語ではムクファになる。花の”ファ“読みは漢字語といい、日本人が鳳仙花をホウセン、中華をチュウと読むのに相当する。日本人の花をハナと言うように朝鮮語で読むのであれば、花はゴッ(kkot)になる。仏教言葉として日本に朝鮮語読みが伝わり、残ったと言えよう。曼陀羅朝鮮朝顔と呼ぶことにも縁を感じないか?

花をゲと呼ぶものは木槿石楠花沈丁花紫丁花白丁花金鳳花紫雲英がある。全て朝鮮経由とは限らないが、外来種となる。我々日本人は海外から遥々渡ってきた美しい花を天から降りてきた花としての称号、を付けてきたのだろう。日本には外来文化と渡来人を認め、受け入れ、一緒に歩んできた誇るべき歴史がある。正に曼珠沙華咲き誇る高麗の地がそうであった。

高麗の地は高句麗からの渡来人によって初めて開拓された。716年1300年以上も前になる。奈良時代。この地は稲作に適していなかった。縄文時代の遺跡群に比べ、弥生時代から古墳時代の遺跡が少ないことからわかる。背面に外秩父山地が迫り、巾着田のある高麗川は古より暴れ川で田畑ができる環境ではなく、まして曼珠沙華が咲くような土地ではなかった。巾着田に曼珠沙華が数百万咲き乱れるようになったのも元々ダムとするために1972年に当時の日高町がこの地を買い上げたことに発するくらいだ。結局、土地買収が進まず、住民が育てた曼珠沙華は守られ、2005年晴れて公園となった経緯がある。

そもそもこの地が高麗と呼ばれたのはヤマト王権高句麗を高麗と呼び、高句麗から来た人々にこの土地を渡し、高麗郡とした名残にある。1935年時点での当郡の面積は現さいたま市面積(217.43k㎡)を大きく上回る262.03k㎡、人口は当時の浦和市人口(44,328人)を凌駕する64,358人であった。しかし、この地まで高句麗からは1,240km、一番近い海の東京湾まで60kmも離れている。ヤマト王権はどうしてこの地に国を追われた彼らを住むようにさせたのか?彼らは、どうやってこの地を世界一に違いない曼珠沙華の花が咲く集落へと変えていったのか?高句麗は668年、唐と新羅によって滅ぼされている。彼らに帰る国はもはやなかった。彼らを支えたのはいち早く信仰として受け入れた仏教の力ではなかったか?

高麗の地に集められたのは、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7か国に住んでいた高句麗人1,799人、彼らの役割は単に開拓農民で済まされなかった。日本を仏教による鎮護国家としての礎を築くことだった。日本建国は701年大宝律令の制定に依る。国号として日本、君主号としての天皇、年号としての大宝が揃い、律令国家として体裁を整える。足らないのは貨幣制度。自前の銅がなく、更に精錬技術もなかった。唐に倣った銅銭を作るため、発掘作業が各地で行われ、遂に秩父の黒谷で708年に鉱脈が発見される。この場所は極秘とされた。銅精錬の技術は高句麗からの渡来人の力に寄った。日本最初の流通銅貨和銅開珎が生まれる。高句麗人の高麗への移住はこの8年後になる。目的は銅山管理と752年奈良の大仏建立のための銅精錬技術の伝播にあった。高麗の地は高麗川を遡れば秩父黒谷への最短の地にあたる。銅精製物の極秘に運搬するため高麗川を下り、越辺川入間川を経て、荒川、そして江戸湾に搬出される。古において川の役割は大量輸送のための高速道路に当たる。高麗川は大きな役割を担った。741年、聖武天皇の国家鎮護のための全国における寺の建立の要請に応え、高麗の地には3つの寺が建立された。女影寺、大寺と高岡寺になる。古代朝鮮では紀元前1000年には既に青銅器を作っていた。秩父黒谷で銅の鉱脈が見つかるまで、全て朝鮮、中国から輸入していた。自前で青銅を作るには彼らの助けがどうしても必要だった。仏像、仏具に青銅は使われる。高句麗は朝鮮においても仏教の先進国でもあった。鎮護国家を作り上げている。372年、中国の前秦より仏教を公伝し、有名な好太王(広開土王)は国家の再興に成功する。新生日本は正に高句麗の助けを求めていた。これが高麗で試されることになった。彼らは大和王権の要請に応えることになった。

実際、彼岸花は曼珠沙華ではない。何故なら、彼岸花は中国由来の花。仏陀の生まれた国の花ではない。蓮華も曼荼羅花も南アジア由来の花。仏教で言うと曼珠沙華は赤い花というだけなのだ。しかし、秋の彼岸の時、真っ赤に咲き誇る石蒜だったこの花は曼珠沙華という名をもらって輝きを増した。高麗巾着田に咲き誇る曼珠沙華は元々高句麗から来た人々が生薬のために寺に植えた花だった。荒れた土地、暴れ川と戦い、田畑を広げることに成功した彼らは、仏への感謝の意味を込め、天の花として曼珠沙華と呼び、川縁の篠竹を切り、大事に育てた。遠く離れ、もう帰れない、今はなき故郷を思い出す縁にしていたかもしれない。そう思うと500万本という曼珠沙華の燃えたぎる美しさが心に痛むほどわかる気がしてくる。

参考資料:「日本人」の嫌いな花&「韓国人」の嫌いな花(その3) 「日本人」の嫌いな花&「韓国人」の嫌いな花(その4) 「花」は韓国語で「꽃コッ」 紅灯がついたように明るい花 在日朝鮮人 曼珠沙華とは? 彼岸花 彼岸花=壱師(イチシ) 説の怪 曼珠沙華、彼岸花、石蒜 曼珠沙華の由来 曼珠沙華 石蒜 巾着田の曼珠沙華群 日本一のヒガンバナ群生「巾着田」の誕生秘話 高麗郡建郡1300年の歴史と文化 早わかり高麗郡入門 高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯 銅の歴史 日本史編 高麗山聖天院勝楽寺 女影廃寺跡・大寺廃寺跡・高岡廃寺跡 朝鮮の仏教 新仏教の発展 

投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。