横濱⛵️山手西洋館💒港の見える丘公園⛲️山下公園から中華街🍜

2023年8月29日(火)、もう直ぐ9月というのに異様に暑い。天気の不安定な山を諦め、海を眺める港へ向かう。自分の原点に立ち戻る小さな旅。我が家から一番近い港、横濱へ。故郷の家の窓からは海が望めた。いつの間にか、人生が彷徨う旅になり、空に浮かぶ雲のように風に揉まれ、根無草のように世間の荒波を漂った。もはや故郷の家も思い出す縁も何も私には残っていない。全て消えた過去を手繰り寄せる心の港、もはや船出は最後となるであろう人生の港を横濱に求める。山手西洋館を巡り、外国人墓地を訪ね、港の見える丘公園を下って山下公園へ、近くの中華街で上海麺を食べる、それだけの旅と思ったのだが結構きつかった。

山手西洋館は坂の街に4ブロックに分かれて散在している。山手イタリア山庭園山手公園元町公園港の見える丘公園のブロックに西洋館はほぼ2軒ずつ立っている ブロックをつなぐくねくねとした道が方向性を誤らせ、上り下りして場所を見えなくする。坂を間違えて下りると暑い日は特にリカバリーがキツい。一旦下りると上る気力も失う。高級住宅地なので正式ルートを設定した標識が設置していない。一番大切なことは道を間違えないことなので、携帯電話のgoogle mapで自分の位置と向かう先を確認しながら歩くことだ。当てずっぽうや思い込みで歩いてはいけない近いと思って舐めてはいけない。住宅地という山の中を歩いている気がした。簡単に下りてはいけない。特に山手イタリア山庭園山手公園元町公園の3ブロックは離れている。歩いているうちにどこがどこなのかわからなくなる。中央にフェリス女学院カトリック山手教会があり、ここを抑えておくと心配ない。私は山手本通りを逆方向へ向かい、えらく遠回りしてしまった。歩かれる方はくれぐれもこういうことがないようにご注意を。

山手イタリア山庭園が一番駅に近い。京浜東北線石川町駅になる。ここで気をつけなければならない。googleでnaviすると駅の南口(中村川方面)から出てぐるっと大通りを回って正門へ向かう道を示す。決して従ってはいけない。遠回りになる。正解は駅の南口(山手イタリア山庭園方面)から大丸谷坂を上り東門を目指すこと。遥かに近い。但し、南口からは庭園は見えない。遥か丘の上。

山手イタリア山庭園東門は目立たない。住宅地に埋もれている。駅から向かう大丸谷坂沿いは景色も良く、建物も品が良い。気分も徐々に盛り上がってくる。上りはそれほどでもないが、何せ暑い。喉が乾く。まずブラフ18番館に入る。ここから望むみなとみらい21やベイブリッジが美しい。それから外交官の家へ。聳える塔に上れば富士山も見えるそうだ。残念ながら第三月曜日しか公開していない。山手西洋館全ての入館料が無料なのが嬉しい。しかもどの庭園も管理が行き届いているのが素晴らしい。ついつい外交官の家内のブラフ・ガーデンカフェで庭園を眺めながらイタリアン瓶ビール《モレッティ》を頂く。750円也。美味しかった。一休みに丁度いい。嘗てこの地にはイタリア領事館がおかれていた。庭園はイタリア風。両館は移築されてきたものだが、美しい庭園に見事にマッチしている。景色と共に西洋館を楽しむにはもってこいの場所であろう。次の山手公園へ向かう際は正門から抜け、山手本通りに出たらに道を上って向かう。ここで標識がない。私は右に向かって下ってしまい、ぐるっと回ることになった。間違ったと気がついても下りた道を上る気力がもはやなかった。実は山手イタリア山庭園でたまたま一緒になり、私がビールを優雅に飲んでいるうちに先に行ってしまった釜山から来ていた韓国人の女性2名の旅行者もこの道でベーリック・ホールへ向かう道を間違っている。私とは違い戻っていった。私も本当は戻るべきだった。ここではgoogleでnaviしたほうが良い。地元の人を見つけたらカトリック山手教会はどこですか?と聞くのもいいが、教会からまた分かりづらい坂を下りていくことになる。

 

山手公園日本最初の西洋式公園とのことで期待して行ったが、狭いことに驚いて、写真も撮らなかった。地元の方らしき人に伺うと公園の大部分はテニスコートで、これを含めると広大な土地になる。日本のローン・テニス発祥の地でもあり、英国から運んできた芝生が敷き詰められていた。今はクレーコートになっており、面影はない。旧山手68番館は山手公園管理センターになっており、横浜山手テニス発祥記念館が付設されている。説明員からテニスボールの芯が石、ネットの高さが150cmあったと聞き、跳ねない、飛ばないで、どうボールを打ち合ったのか、理解不能に陥る。山手公園から元町公園までは近道があったようだが、分からず。結局フェリス女学院から山手本通りに戻り、カトリック山手教会をぐるっと回っていくことになった。住宅地を縫う坂道が迷路。

元町公園の入口に当たるベーリック・ホールカトリック山手教会からさして遠くはない。山手本通り沿いに素直に歩いていけば自然に辿り着く。元町公園の一角にあたる。特長は各所に獅子像が刻んであることか。堂々として見事だ。もはや午後2時過ぎ、昼食を取っていないので、適当なカフェを探す。隣りがエリスマン邸。粋なカフェ「カフェ・エリスマン」が入ってすぐにあり、見学前に入る。サンルームで元町公園の森を望みながらコーヒーを楽しめる。飲んだのはエリスマン・ブレンド、横濱は日本のコーヒー文化発祥の地でもあったことを初めて知った。暑くて食欲もない。キッシュをランチとした。コーヒーとセットで1,300円になる。景色にマッチして美味しさが倍増する。ごちそうさま。元町公園を左手に山手本通りを越えて粋なカフェが見える。えの木てい。更に隣が山手234番館。元の外国人向けのアパルトメントだったところ。雰囲気がある。

山手本通りを更に下ると、右手に山手資料館が見える。拝観料は無料だった。一見の価値あり。隣りは雰囲気のあるフレンチレストラン山手十番館。店は中休みのようで入れなかった。左手に外国人墓地が見える。案内板に何故か?外国人墓地の”“が消されている。横濱山手の施設は無料でオープンだが、この外国人墓地だけは別格のようだ。入るのが大変だ。何故か、8月に入れないしかも入れるのは土・日・祭日(雨天を除く)12時00分~16時00分のみ。外国人墓地の維持管理のための募金(500円程度)が必要。因みに何故か1月も入れない外国人墓地資料館は入館料を無料 としているが、募金公開時は500円程度お支払い下さい。となる。開館時間:09時00分~17時00分、但し、月曜日・火曜日は休館日となる。従い、今回、墓地も資料館も入れなかった。これは墓地関係者以外についてで、関係者は入れるようだ。確かに墓地の管理は難しい。関係のない人間は無闇に立ち入らないのが基本。私も松本清張の「黄色い風土」を読まなければ来なかったかも知れない。日本人は有名な人間のお墓を詣でる習慣があるようだが、墓地が個人の来世の住まいとすると現世でもそうであるように個人の家に勝手に上がり込むことは避けるべきだろう。

横濱山手西洋館を訪ねる旅もいよいよ最終章。西洋館の最後の訪問先となる横濱市イギリス館山手111番館港の見える丘公園にある。山手本通りをそのまま歩けば突き当たる。横濱山手は決して一つの丘ではない。イタリア山からアメリカ山フランス山へと谷が区切っている。アメリカ山へは墓地に沿って向かう。今回は西洋館もないので行かなかった。正直な話。行く気力を失った。アメリカ山からは谷越えで港の見える丘公園フランス山へ入る、坂を下り、上らなければならない。暑くてもはや苦しい。兎も角最後の西洋館へ。横濱市イギリス館は元イギリス領事館だけに威厳のある建物で、他の西洋館と趣を異にする。残念なことに海の近くではあるが、海が望めない。ただ、庭は見事なイングリッシュ・ローズ・ガーデン。ベイブリッジが望め、素晴らしい風景が広がる。流石だ。山手111番館は対照的にこじんまりしている。1階のロビーから2階まで吹き抜けになっており、西洋風な雰囲気を醸し出している。ただ、残念なことに2階には平日上がれないとのこと。上からの風景も楽しみたかったのだが。イングリッシュガーデンを抜け、展望台に上がると海に向かって旗が掲げてある。U・W旗。「安全な航行を祈る」という意味。旗の下に説明板があり、ジブリ映画の「コクリコ坂から」航海の最中に行方不明になった父が安全に戻ってくることを祈って、海の見える庭にこの旗を毎日掲げていたことに因む。この映画は12年前に公開、舞台は横濱山手、西洋館がイメージとして使われている。港の見える丘公園に正に相応しい旗。いつまでも展望台の上から港に向かい、風に靡いていて欲しい。港の見える丘公園はフランス山まで緑の中、遊歩道で繋がっている。フランス領事館跡は廃墟となり草生している。なんとも寂しい。この地は生麦事件を発端に1863年からフランス軍が駐屯し、何と1971年まで凡そ108年フランスのものだった。因みに生麦事件ではフランス人は刺されていない。刺されたのはイギリス人とアメリカ人。尚、元イギリス領事館も1864年から1969年まで実際イギリスが105年所有していたというから驚かされる。しかし、イギリスとフランスで領事館跡の風景が余りにも違いすぎるのは何故だろうか?フランス山の説明看板に渡り蝶のアサギマダラが止まっていた。時代が止まっている。1947年に建物が消失してから実に76年もこの地は眠っている。元町・中華街駅が近い。不思議な静寂。港に向かう。堀川を越える歩道橋のフランス橋を渡る。堀川の上には首都高も走っており、その下を潜る。東京の品川のような風景。この風景は寂しい。

フランス橋は湾曲しながら横濱人形の家へと誘う。入館は午後4時半まで。もはや時は過ぎていた。1927年米国から12,739体の青い目の人形が船で贈られてきた。全て横浜港に着いている。そこから全国の幼稚園、学校に配られたが、96年を経て、現在残っているのは345体のみ。戦禍を掻い潜った人形は3%に過ぎない。横浜では60体以上配られたが、現存するのは7体。人形は各自パスポートを持っており、特徴と名前が記してあった。1980年に横浜市へ本町小学校から寄贈された1人形ブロッソンが大々的な横濱人形の家建設へと市を動かした。西町小学校に残されたポーリー横濱人形の家から山下公園へとつなぐ橋の名として残っている。人形を愛する子どもたちは決して戦争を欲しない。人形は平和の使者であり、人形を愛する子どもたちこそ天から与えられた平和の使者に他ならない。何故なら戦争は罪なきか弱きものから殺していくものだからだ。如何なる戦争も例え正義の名の下に悪と戦うものであっても結局はか弱きものを苦しめるものになる。港は海外との架け橋となる。あらゆる文化は人とものを通して、港から入ってくる。横浜が多くのものの発祥の地になっているのは江戸時代の最初の開国の地、港だったからだ。閉鎖された文化は何ものも生み出さない。衰退の原因になる。異文化と接することにより新たな文化を生み出す。衣食住全てにおいて画期的なものは異文化に接して初めて生まれる。人も然り、混じり合うことにより遺伝子は強くなる。一方、港は人の出会いと別れの場になる赤い靴はいていた女の子の像が山下公園にある。時代に揉まれ流されても、生きていかなければならない、何もまだわからないだろう女の子と異国人にこの女の子を渡さなければならなかった親の辛さを慮るからこの唄が心に染みる。正に港は行くものと送るものの別れの場になる。時代に翻弄されて生きてきた自分の人生を振り返って見る。この人生で良かったのか?港とはこういう所に違いない。山下公園の北西突端に今年4月に開店した店があるThe Wharf House Yamashita、湾を望みながら様々なビールが飲める。1杯1,000円と若干高いが、つまみも美味しく、至極の時を過ごせる。今回黒ビール(ハマクロM350ml)とパテドカンパーニュ、きゅうりのピクルスを頂いた。なかなかうまい。計2,680円になったが、これに相当する風景と食事だった。最終寄港地は 中華街。東南アジア最大の中華街。上海麺を食べて帰ることとした。まず関帝廟に挨拶。いつ見てもこの迫力に圧倒される。久しぶりの中華街だったが、店の半分は占いの店に変わっていたことに驚いた。時代は変わる。食だけの文化は終焉なのだろうか?天后宮を拝み、帰りの石川駅に近い上海餐店を探し入る。名は記さない。私には上海で一人中国語のみの菜単から想像して注文するのが向いているようだ。あの頃の自分が懐かしい。葱油拌麺が欲しいと言ったら、店の老板娘が、私も家でよく食べるが、店にはないと上海語で断られた。仕方ないので胡麻で和えた葱麺を選んだ。980円也。味は日本の中華麺。上海人が湯麺をこの横濱に持ってきた。上海人は商売が上手い。日本各地に店を広げ、日本人の口に合う中華そばを生みだした。これがラーメンに繋がっていく。上海の湯麺は確かに醤油味、酸味がある。小さい頃食べた中華そばの味。

中国語で横浜の浜の漢字は小川の意味。正解は濱。中国では簡体字で滨を使う。時代はそう簡単に動かない。しかし、変わり続けないと衰退は起こる。昨年、聘珍楼の本店が閉じた中華街。横濱も変わり続けるのだろうか?横濱山手はノスタルジーの街だった。美しい庭園とタイムスリップしたような建物。訪ねるものを魅了する雰囲気がある。上海や天津の租界地を思わせる。神戸ほどの規模ではない。YouTubeで魅力ある庭園、建物を回遊し、山手から山下、中華街まで変化に飛んだ面白みをアピールできる。まだフランス領事館を甦らせる余地もある。魅力あるカフェ、レストランもある。まだまだ次のステップが残っているところが羨ましい。


投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。