Pitié

わたしたちの神に帰りなさい。 豊かに赦してくださるからである。 イザヤ 55:7,旧約聖書

彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。イザヤ 2:4,旧約聖書

何故いがみ合うのか?何故赦せないのか?いがみ合う先に何があるというのか?そして何故自ら死に向かうのか、日韓民族の中に不思議な共通点を感じる。いがみあい、赦せない、行き場のないストレスの先に自らに死を課してしまう。共通点は自殺率の高さだ。精神的心理的な負のスパイラルに陥ると最早抜けきれなくなり、自殺へと向かう。他人を赦せない人間は自分までも赦すことができない。自らの死が最終的な安らぎとする。しかし、何故自からの死に向かうのか?他に道は残っていないのか?死を選ぶ理由は何処にあるのか?この民族に共通の独特の死生観があるのか?いがみ合いを止める道はあるのか?お互いを赦すことをできるのか?

宗教を信じるものは自殺しないという。現にイスラム教徒の自殺率は低い。キリスト教徒も仏教徒も然り。命は神から与えられたものとする。命を粗末にするものは神への冒涜である。神の名の元に死してはいけない。自殺も他殺も否定される。しかし宗教だけが人を救うものだろうか?宗教の名の元に現に殺人は行われている。国家間の戦争にも見え隠れするのは宗教対立だ。ある宗教が正とすると別の宗教は正ではなくなる。お互い信じる神以外は許せない。そこに正当性を求めた宗教戦争が生まれる。危険な対立となる。同じ宗教内でも対立は生まれる。シーア派とスンニ派、正当性を求めると話がややこしくなる。更に言えば、イスラム教もキリスト教もユダヤ教も聖地は一緒である。同じ神より生まれたと言っても過言ではない。何故いがみ合うのか?の問題は戻っていく。

医師が語る、3月に自殺者が増えるのはなぜ? (3ページ目):トピックス:日経Gooday(グッデイ)

死に寛容な宗教は自殺を敢えて否定していない。仏教がそうかもしれないが、苦しみを救うことこそ仏教の目的であり、究極の形に死がある。安易な死は否定される。やはり死に走るのは無宗教の人間に多いとなる。韓国、日本ともに似ているのはイスラム教、ヒンズー教、仏教とも全てではないことである。神道を含めた原典や教条なき信仰が約半数を占めている。アニミズムである。ここに自殺の誘惑が入り込んでくる。この信仰に自殺への明確な否定を示すものはない。死の誘惑に対し歯止めがない。個人の問題にされる。自殺をするかしないかは個々の考え方に頼るしかない。

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宗教は経典を通し、明確に人の道を示し、社会における人間の在り方を説くが、信仰にはそういったものはない。全て個々の問題に立ちることはない。普遍的な正義は混とんとした中にある。救いは何処にあるのか?宗教は救いを求めたものに道を与え、信ずるものに魂の平和を与える。神道は信仰であり、宗教とは言えない。経典無き祝詞のみ、正に空の世界である。尚、お賽銭は仏教からきている。鳥居もまた然り中国でも韓国でも同じようなものがある。けして日本独自のものとは思えない。神道は民族のための信仰である。個々の魂を信仰によって癒すものではない。自ら死すことを否定させるものではない。神に祈っても神は何も教えない。ただ自ら答えを見出していかなければならない。神はただ黙って見ているだけである。

原点にもどるべきである。朝鮮半島と日本、国境に関係ない同じ文化圏であった。国境ができたのは高々160年前である。お互いの文化の交流は1600年以上である。朝鮮半島なしで今の日本の文化はありえない。理解しなければならない。恩讐の彼方に何が見えるのか、本来のあるべき姿だ。越えなくてはいけない。お互いを認め合い高め合うこと。差別ではない、違いを認めた上で、もっと上なるところへ高め合う。もっと言おう、分断されているのは朝鮮半島だけではないモンゴルもである。責任は何処にあるのか?旧宗主国たる日本である。世界中で分断された残された国はこの2つである。どうすればいいのか、日本は考えなければならない。責任を感じた上で何ができるのか?この二か国に平和をもたらすことを考えなければならない。拉致問題、領土問題、徴用工問題、慰安婦問題、これを解決するのはアメリカではない。日本自らである。本来の歴史勉強をもっと海外との関係で見直さなければならない。何故このように問題が拗れたのか、今一度冷静になって考え直さなければならない。何故原爆が落とされたのか、原因があって結果がある。胸に手を当てて過去を反省し、どうすれば東アジアに平和が来るのか、考えなければならない時が来ている。

自ら死を選ぶ精神的心理的負のスパイラルを乗り越えるのは民族の融合が必要だ。助け合う本来の姿に戻り乗り越えなければ解決にはならない。宗教には頼らず、本来のウラルアルタイ語の文化圏としてお互いに助け合わなければならない。敵対に解決を見出すことはできない。差別に平等な関係は見いだせない。奈良のナラは韓国語で国を表す。日本で一番多い八幡神社は遠く朝鮮から来た神を祀っている。この事実を冷静に受け止め、日本民族の歴史を今一度見直す時期に来ている。日本も韓国も本来死を自ら選ぶ民族ではない。現状に行き詰まっているからに死を選んでしまうに過ぎない。宗教を越える共通の民族としてお互いに理解し合い、朝鮮、モンゴルの問題に話し合っていくべきだろう。コミュニケーションこそ平和への唯一の道なのだ。

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投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。

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