それでも熊と戦うのか?

今、日本はロシアとの対決姿勢をアジアで唯一鮮明にしている。これは米国の意向に従った陽動作戦の一つに過ぎないと信じる。日本は自国を守ることを米国に委任しているから仕方ない。しかし、忘れてはいけない、熊の恐ろしさを一番知っているのは戦った猟師だ。日本が最後に戦った国はどこか?米国でも中国でもない、今はロシアとなったソ連。日本が無条件降伏を世界に宣言した1945年8月15日の後もソ連は満洲、朝鮮、南樺太、千島列島に侵攻してくる。将に死体蹴りだ。宣戦布告はこの6日前、日本はソ連参戦によりポツダム宣言受諾を決めたのだが、彼らは戦闘を止めなかった。ソ連の参戦と報酬は6ヶ月前の2月に既にヤルタの密約として決まっていた。東京大空襲の前、既定路線だった。これが分かるのは関東軍を駆逐した満洲をソ連は領有せず、当時の中華民国に渡し、旅順港、大連港のみを収穫としたこと。一方、全樺太、千島列島を領有しながら、北海道には攻めてこなかったこと。米国のテリトリーである。侵攻した朝鮮半島を領有せず、一旦連合国、実際は米ソによる分割統治としたことである。太平洋戦争で相互の中立条約により日ソは戦火を交えていない。寧ろ日本は敗戦に向け対米講和の斡旋をソ連に頼み、逆に弱みを曝け出してしまう。頼む相手を間違えた。藪蛇、足元を見られ、中立条約を一方的に破棄され、火事場泥棒的に攻められる。しかし連合国側のソ連は密約に従っている。日本との条約違反も悪の枢軸国に対する連合国にとって正義。忘れてはいけない。日本はナチスと手を組んでいた。同じ枢軸国側であったナチスは独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に攻め入り独ソ戦に突入している。連合国側にとってソ連の条約違反はナチスへの仇討ちに等しい。然もソ連はドイツとの戦いで犠牲者 2700万人に及びながら勝利し、連合国としての確固たる地位を獲得している。後は戦勝国のうち分け前をどのくらいもらえるかになっていた。ソ連の違法行為や火事場泥棒を日本が裏切り行為と糾弾しても所詮負け犬の遠吠えに過ぎない。既にこの時に連合国側米英露中仏の5か国中心国連の枠組みが作られた。今も連合国支配は続いている。

ソ連対日参戦は原爆投下と共に大日本帝国の息の根を止めるに充分だった。ソ連は侵攻に総兵力147万人戦車・自走砲5250輌航空機5170機を投入してくる。対する関東軍は総兵力68万人。戦車は200輌、航空機は200機に過ぎなかった。戦力を東南アジア線戦に取られ、最早ソ連軍に対抗できる戦力は保持できてはいなかった。連合国側は全てお見通しであった。満州は所詮日本の傀儡政権に過ぎず、自国軍はなく、日本の敗北は即満州の消滅であった。朝鮮も然り、日本の敗北宣言した日は即解放記念日となる。結果として日本側の死者は将兵約8万、民間人約25万、捕虜約60万、散々たるものだった。

ソ連対日参戦の敗北の意味するものは、日本が最早死に体にあったからだけではなく、ソ連のナチス撃破以降、破竹の勢いの強さにあった。その後の中国国共内戦朝鮮戦争とソ連は社会主義国家の設立に成功し、アジアからアフリカ、中南米まで戦後の世界の枠組みも作っていく。世界の半分を社会主義国家として赤く染め上げる。しかし、これはソ連の社会主義という教条主義に見え隠れするロシア帝国本来の覇権主義があることを東欧の国々は見破っていく。中国もまた然り、ソ連から離れていく。更にソ連内部での経済の停滞、硬直化が進み、崩壊していく。社会主義経済の難しさがある。柔軟性のない経済は硬直停滞せざるを得ない。世界経済は既に欧米を中心にイノベーションの時代に突入していた。中央集権的な覇権主義に対してソ連内部の共和国においても反感が生じ、最早同じ船に乗らず独自の経済発展を模索する時期に来ていた。1989年にベルリンの壁は壊され、1991年に多くの共和国は離脱を遂げ、ソ連は崩壊した。しかしここで勘違いしてはいけない。ソ連は、単に覇権主義の純粋なDNAを有するロシアに戻ったに過ぎない。

嘗てのロシア帝国は世界の1/6を占める2,280万㎢の領土を有していた。ソ連時代であっても2,240万㎢の領土は確保していた。新生ロシアは1,710万㎢と栄光のロシア帝国に比べると約1/4の領土を失うこととなる。それでも世界一の面積を有する国で、次のカナダが998万㎢1.7倍になる。広大な土地がロシアにもたらしたものは豊富な天然資源。石油、石炭は世界三位の埋蔵量、天然ガスに至っては1581兆立方フィートで、全世界の1/4を 占め世界最大。 これは二位のイラン(16%)を大きく引き離している。外貨の半分は鉱物資源で得ている。ヨーロッパからアジアにまたがる大地は各地で採れる鉱物資源を安く早く大量に需要先に供給できるメリットをもたらしている。広大な大地はロシアの生きる。大地の恩恵をどの国より受けている。従って、天から与えられた恩恵を独り占めするため、時によっては、天の要求以上に戦わなければならない分けても鉱物資源の確保を重視し、供給網や市場を脅かす国には内戦を誘発し、分断弱体化させ、反政府勢力への軍事的資金的支援によって政府転覆へと誘導する。それがジョージアとウクライナであった。今、ロシアが紛争地域として抱えているのは、他にモルドバとの沿ドニエストル共和国問題と日本との北方領土問題であることを忘れてはならない。ロシアの侵略は紛争を利用する。紛争地域からの支援要請を口実に戦争を開始する。これがロシアの常套手段だ。

ジョージア1/3に及ぶ地域がロシア軍によって分断された。ソ連時代黒海の真珠と嘗て言われたアブハジア自治共和国は1999年にジョージアから独立を宣言しているが、ロシアの後押しなしではありえない話で、単なる民族問題で分断されたかと言うと怪しい。アブハジアでは45%がジョージア人であり、アブハズ人に至っては17.8%のみだった。南オセチア自治州についてはロシア内の北オセチアとの統合オセチアとしての独立が主眼であったが、ロシアからは拒否されている。2008年、南オセチアへのロシア軍増強を見たジョージア軍がロシア軍と武力衝突に及び、戦争に発展した。将にロシア得意の喉元に匕首、結果としてジョージアは敗北し、両共和国をロシアは独立を承認し、ロシア軍は平和維持を目的に常駐し、この地域のロシア化を進めている。後のウクライナ戦争とは違い、ロシアはジョージアとの全面戦争とはしていない。ウクライナはこれを見て油断した。アゼルバイジャンにおけるナゴルノカルバル自治州はアゼルバイジャンにありながらアルメニア系住民の多い地域で、長く続くこの紛争にロシアは介入し、軍隊をジョージアの各自治州同様派遣している。アゼルバイジャンジョージアが欧米向けのBTCパイプラインがカスピ海から地中海へ敷設し、ロシア経由を避けたことに原因があると見られている。ただ、ロシアは2020年アゼルバイジャンと停戦合意に至っており、自治州の縮小を認めている。全面戦争には至っていない。喉元に匕首で終わっているが、恐ろしい脅しには違いない。モルドバにある沿ドニエストル共和国もロシア軍が駐留し、睨みを利かしている。モルドバルーマニアに近づきすぎないためであったが、今はウクライナにも向いている。ロシアはクリミアと繋げ、回廊を築こうとしている。ウクライナは四面楚歌になる。ウクライナには更に厳しい締め付けが待っていた。国連が認めないとしても常任理事国のロシアは拒否権の行使ができる。

2014年ルガンスクドネツクの両人民共和国がウクライナに独立宣言した。親ロシア派による建国宣言で、歴史的に鉄鋼業の集積地で、ロシアからの労働者移民の多い地域ではあった。同様に独立宣言を行ったのがクリミア共和国で、鉱物資源の多いアゾフ海や黒海沖を抑えるためにも重要な拠点である。こちらは独立し、即ロシアに帰属を求めることになる。クリミア半島西南にはロシアの軍港セヴァストポリがあり、ここも特別市としてロシア連邦へと組み入れられる。欧米は独立を認めず、ロシア制裁に入ったのは周知のことだ。ルガンスクドネツクをロシアが独立国と承認したのはウクライナへの侵攻の数日前で、同時に相互支援協定も結んでいる。国連憲章の集団的自衛権を根拠に両国を守るためウクライナを制裁する、即ち武力侵攻を正当化するためだ。将に詭弁第三国内の分離独立を求める地域の独立を第三国の了承なしに認め、支援協定を元にその国を侵攻することは正しいということになる。ソ連時代の覇権主義が蘇った。ウクライナにとっても東部地域は重要な稼ぎ頭であり、更にクリミア半島は黒海の要所を失う意味でそうおいそれと手放すことはできない。しかし牙を剥いた熊は恐ろしい。ロシアからヨーロッパに向かうパイプラインはほぼウクライナ経由になっており、何としても抑える必要もあった。

2月24日に戦争状態に入ったロシアのウクライナへの侵略は東部ドネツクからマリオポリを陥落させ、クリミア、ヘルソンまで達している。この戦争は2014年のドンバス戦争の当然の帰結と見える。最早怒る熊の牙を抜くことはできない。ウクライナも必死に防戦せざるを得ない。NATOは全面的に支援し続けるであろう。ロシアはこの戦争により完全に信用を失う。どういう結末になろうとロシアの権威は失墜する。ソ連時代から築いてきた国連における地位は各段に落ちるだろう。国連の体制の見直しも行われる可能性まで起きている。ただ、日本の立場として気を付けなければならないのは手負いの熊に気を付けろということだ。ロシアはけして領土は拡張するが、失うことは許さない。おいそれと北方領土を言うと手痛いしっぺ返しが飛んでくる。それが熊の怖さだ。日露戦争でロシアに勝ったと勘違いしたことが、太平洋戦争の悲劇を生んだことを忘れてはいけない。熊は必ず牙を剥いて襲ってくる。そんなに甘い国ではない。今は後ろ盾となっている米国も日本に対し、米国の許せる範疇でしか安全を保障しないであろう。米国もニカラグア、ベトナム、イラン、イラク、アフガニスタンで敗北し、方向転換を図らざるを得なくなった。矩を踰えてはならない

ロシアの侵略戦争によりウクライナの民間人の死者は3000人を超えている。軍人の死者は民間人より実際少ない。この対価に値する成果を生み出せるのか?ウクライナ政府は国民に回答を出さなければならない。戦争は外交の失敗であり、戦争の前に解決しなければならないことがある。ウクライナの大統領はロシアの大統領と戦争を開始するまで会話がなかったことが最大の問題ではなかったのかということだ。一方ロシア軍の死者は傭兵を含め23000人を超えている。攻めている側の方が死者が多いことはこの戦争が割の合う戦争ではなかったことを示している。「起こりうる流血に対する全責任は、すべてウクライナの領土を支配する政権の良心にある」とロシアの大統領はこう述べてウクライナ爆撃を開始したのだが……..戦争は両国にとり悲劇以外の何物も生みださない同じ民族同士で殺し合う意味と結末をはたして両国は理解しているのであろうか?

新型コロナ蔓延から学ぶこと

我々は学ばなければならない

2020年1月日本国内で新型コロナウィルス感染者が初めて確認されて丸2年が経った。2021年11月に収まりかけたにも拘らず、オミクロン株の急襲から、日本中への蔓延という新たなフレーズに入っている。けして収まらない新型感染症のパンデミックが我々に示唆するものは何か、我々はパンデミックに向き合ったこの2年間の経験から真摯に学び、そして後世に伝えなければならない。何が良くて何が悪かったか。判断を下すのは我々の子孫である。今までがそうであったようにこれからも我々はパンデミックと戦い続けなければならない。過去は未来の先生である。まずは如何に我々がパンデミックと戦ってきたか振り返ってみたい。

1656年に描かれたローマの医師。ヨーロッパにおける17世紀のペストの大流行の際、医師は、クチバシ付きマスク、革手袋、長いコートを着用し、感染を防ごうとした。不吉で象徴的なその姿は、今日でもよく知られている。(PHOTOGRAPH BY ARTEFACT, ALAMY)
ペスト菌から身を守る術

1.ペスト

我々人類の発展の歴史は常に疫病との戦いと共にあった。ペストから天然痘そしてインフルエンザ新型コロナ。避けては通れないであった。その中でも疫病の代名詞となっているのはペスト黒死病として恐れられ、ペスト菌ノミを介して血を侵し、敗血症を起こし、全身が壊死していく恐ろしい病気。凡そ7000年前に人への感染の痕跡がある。場所はラトビア、地中海に面した東欧、そして最初のパンデミックは1347年、4年間蔓延し、累計2億の人が世界中で亡くなった。そのころ世界は3億7千万の人口に過ぎなかったのであるから半分以上の命がを失われたと言えるだろう。このペスト、そのころの中国を起源としシルクロードを通し、世界中に広がった。新型コロナに似ていないか?このパンデミックにより日本でどのくらい亡くなったかというと皆無である。何故か?元寇の失敗で中国との国境が閉ざされたからである。ペストには有効なワクチンは今もない。罹った人間に近寄らなければ良いとしか言えない。検疫という言葉はペストによって生まれた。治療は今も抗生物質の注射しかない。この治療が実証されたのは1894年136年前に過ぎないのである。最初にパンデミックから何と1729年過ぎている。人類はペストへの恐怖と戦い続けてきた。1927年以降日本での感染者は出ていないが、アフリカアジアでは今もなお感染者が出ており、2010年~2015年、3248人が感染し、584人が亡くなっている。失われない死の恐怖が今も続いている。

牛頭天王

2.天然痘

疫病の中でも日本での戦いが長く深刻だったのが天然痘だ。ペストと違うのはラクダの疱瘡に由来し、人のDNAにより変異した天然痘ウィルスが元で、感染者との接触や疱瘡の飛沫によってに感染し、膿疱が全身を侵し、肺まで達した時、死に至る病である。仏教伝来と共に6世紀中頃朝鮮から伝播したとみられている。パンデミックが起きたのは737年、その頃の総人口450万の3割100~150万の命が失われたという。日本において中国の医書を元にした種痘が天然痘に有効と実証されたのは江戸後期の1789年であり、人痘法では天然痘に罹った人の膿を乾燥させ粉末にして鼻から注入するため、数%重症化する問題あった。一般に普及するのは牛痘法、即ちワクチンが出島を通して入るまで待たなければならなかった。実際、江戸で公けにワクチン接種が行われるようになったのは1858年である。更に明治以降も数度天然痘の蔓延があった。戦後ワクチン接種が進む中で1955年の完全撲滅まで天然痘の伝播から何と1400年以上の長きに渡って日本人を苦しめてきた。全くなす術がなく、宗教に助けを求めざるを得なかった。しかし神も仏も勝てない。最後に頼ることになったのが牛頭天王でなる。この神、実際は疫病神である。毒を持って毒を制する。将にワクチンに通じるものがある。ワクチンも牛痘由来のDNAウィルスを使う。天然痘から牛が人を救ってくれることを予感したのであろうか?不思議でならない。牛頭天王は明治の国家神道によって駆逐されることになる。名は失せ、天王神社或いは八坂神社(祇園神社)、或いは御霊信仰と結びつき、天神天満宮として残ってる。明治政府の意向に沿い素戔嗚尊菅原道真に取って代わられているが、実際は疫病と戦った牛頭天王を祀っている。天王は天皇のみとなり、見事に消された神である。名残は祭りとして、祇園祭蘇民祭天王祭八王子祭、或いは地名に残ることになる。祇園八王子天王洲と民衆は疫病から救ってくれる神を忘れはしないのである。

ワクチン接種で牛が体から

天然痘3100年前のエジプトのファラオ、ラムセス5世の遺体に見られた痕跡で最初とされる。最大のパンデミック1520年に新大陸としてヨーロッパによって征服される北中米、南米大陸で起きる。日本と同様、免疫がない中米のアステカや南米のインカ両帝国の先住民の人々はなす術ないまま、遂には新大陸で5600万の命が奪われることになる。征服される前のアステカの2520万の人口が107万に、インカは887万が60万に、最終的に95%の先住民の命が失われる。これは全てが天然痘によるものではないが、ヨーロッパからもたらされた疫病が要因であった。天然痘はペストが東から西へ向かったのと違い、西から東に向かう。2つの大きなパンデミックは交錯して世界中に蔓延した。天然痘との戦いは42年前の1980年5月8日WHOの地球上からの天然痘根絶宣言を持って終結を迎える。3000年以上戦った末、ワクチン接種が大きな要因として勝利となる。

戦争がパンデミックを引き起こす

3.インフルエンザ

20世紀を特長付けるパンデミックはインフルエンザであろう。20世紀は世界戦争の世紀であり、ウィルス蔓延の素地を作る世紀でもあった。20世紀初頭に起きた第一次大戦インフルエンザパンデミックを引き起こす。米国は途中参戦にも拘らず、ウィルスに感染した米兵が主戦場のヨーロッパに向かうことにより。参戦していた各国の兵隊にうつし、世界中にインフルエンザウィルスを撒き散らしたと推測されている。中立国であったスペインから悲惨な現状が報道されることにより、スペインかぜと不名誉な名を残すことになる。戦争はインフルエンザの蔓延により兵站が立ち行かなくなり、結果として早く収束することにはなったが、感染による死者は世界中に広がり、累計1億にも達することになる。スペインかぜ1918年6月から1919年4月まで波を作りながら世界中を蹂躙する。その頃ワクチンもなく、なぜ収束したか、今も分からないままだ。

渡り鳥がインフルエンザウィルスを運んでくる

ウィルスは北極圏、南極圏至るところに1千万以上眠っている。毎年ガンカモ渡り鳥が餌と一緒に啄み、せっせと運んでくる。そのフンが鳥インフルエンザを引き起こす。このままでは人間に感染しないが、アヒルを介すことにより変異し、人間にも感染する。では何故、渡り鳥はウィルスに感染し死なないのか?これは数万年の歴史の中で免疫ができているからだ。鳥が6600万年前滅んだ恐竜の進化形であることを思い出させる。人間も数万年というスタンスで考えれば、渡り鳥のように免疫を得られるかもしれない。スペインかぜの収束という謎は一種の免疫が自然に人間に備わったからかもしれない。ただ、今尚、インフルエンザウィルス変異を重ね、収束せず、毎年数万の人の命を奪い続けている。ワクチンを今は毎年打ち続けることにより凌ぐことしかできないのが現状だ。

スペインかぜとマスクで立ち向かう

インフルエンザ禍の歴史は長く、古代エジプトにも記録されているが、この名の通り、季節性一過性流行り病として歴史の中に埋もれていく。スペインかぜというパンデミックにより、初めて怖さが認識された。従来は感冒の一種とされ。かかる時期を耐えれば済んでいた。日本においてもスペインかぜで39万人の命を奪われた。見過ごせなくなった。変異ごとにワクチンを開発せざるを得なくなる。スペインかぜへの対抗策として生まれたのがマスク着用である。医療用を一般人も着けることとなる。これしかなかった。何とも心許なかった。

コロナウィルスを運んでくるコウモリ

4.新型コロナ(COVID-19)

コロナウィルスもインフルエンザウィルス同様、パンデミックを起こす前は単なる感冒として見られていたに過ぎない。江戸時代にも流行り病として記録に残っている。21世紀に入って、中国でのSARS、中東でのMERSの出現により危機感が募ることになるが、今回の新型コロナ感染拡大により最早、従来の見方を一変せざるを得なくなった。怖さは変異の早さと感染力の強さにある。将にパンデミックの申し子のように振る舞う。感染元はいずれもコウモリの可能性が高い。コウモリから動物に感染し、人に感染することとなる。この動物は中間宿主と呼ばれる。SARSがハクビシン、MERSはラクダ。新型コロナはセンザンコウが疑われている。何れにしてもコウモリがインフルエンザの渡り鳥のように飛んで自然界のウィルスを集めてくる。変異が中間宿主、そして人の遺伝子を介して進行する。動物から人へ、人から人へ、地域から地域へ、際限なく変異していくかのようだ。いつごろ、この変異が解け、落ち着くのか、ワクチンを打ちながら、待つしかない。最早宗教に頼る時代は終わった。しかし、変異が次から次へと起こると対応するワクチンととのいたちごっこが始まり、際限なくワクチンの開発が必要になる可能性もある。インフルエンザ同様だ。渡り鳥のように自然抗体が生まれるまで耐えるしかないのか。そして、強化すべきは検疫にある。外から如何に感染者が入らないようにするかである。世界の感染者は4.4億人、死者は既に600万人に達する。日本の感染者は500万人、死者は24000人。第二のインフルエンザにしない努力が必要だ。

新型コロナ感染者数日中比較

2019年9月、武漢の河南海鮮市場近辺での新規発症が見られ、感染拡大は11月、日本への感染は早かった。2020年1月には武漢から東京に帰ってきた邦人に感染が見られ、瞬く間に旅行者を通し日本へと広がったが、パンデミックとはならない。これは早い時期に中国でのパンデミック収束が成功したことと入国における検疫が功を奏した結果である。2003年のSARSの経験が生きた。パンデミックの危機を迎えたのは東京オリンピック開催時期前だ。先月世界中を沸かせた北京冬季オリンピックが終わり、次のパラリンピックを待つばかりだが、東京と北京の違いは新型コロナのパンデミック対策の違いにある。日本はオモテナシの国だ。コロナ対策が甘過ぎた。実際、日本のパンデミックの原因は東京だ。その後収束するが、北京においては全くパンデミックは起きていない。オミクロン株蔓延はデルタ株よりきついはずにも拘らずである。オリンピックを開催するのであれば、開催前から戒厳令を布くくらいの徹底策が必要だった。結果として無用なコロナ蔓延を日本にもたらす結果となる。中国との差が歴然であることを誰も認めようとはしない。オリンピックを開催するということは選手だけではなく、運営側の安全を前提にしなければならない。日本の提唱したバブル形式ピンホールだらけだった。然もこの時期まだ国民全員にワクチン接種がいき渡っていない。全対象者の2割程度に過ぎない。しかも特に危険な若者には全くと言っていいほど辿り着いていなかった。ピンホールだらけのバブル形式の受け入れ体制の中、ワクチンの防御なしでオリンピックを迎えることになった。全く暴挙としか言いようがない。都民ファーストがオリンピックファーストにいつの間にか置き換わった。https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/olympic_paralympic_infection/https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000809571.pdf

一方、北京オリンピックにおけるバブル形式は鋼鉄のバブルだ。抜け道がない。パンデミックを防ぐにはこの手法しかなかったであろう。https://number.bunshun.jp/articles/-/851870?page=3

更に追い打ちをかけたのがオミクロン株の蔓延だ。これも水際対策の不手際だ。内なる外国にしてやられたとしか言いようがない。検疫強化、海外からの渡航者の受け入れを禁止し、国民に不要不急の外出を禁じた中で、昨年12月15日沖縄米軍基地からクラスターが襲ってくる。それが山口岩国基地に感染し、本土攻撃が開始された。将に寝耳に水だ。オミクロン株の蔓延は米国を中心にした欧米・インド中心である。日本は米国からの感染によって始まった。在日米軍は日米地位協定によって、日本の検疫外で、検疫義務から外されている。米国で感染した人間でも自由に日本に入り、外でマスク無しで遊び、飲める訳だ。オミクロン株の世界的蔓延を理由に米国は本件の責任逃れをし、地位協定の見直しに応じることはないし、日本の現政権も地位協定の見直しに及び腰であることに将来の恐怖を覚えるしかない。占領軍優先は敗戦国の宿命である

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/76599.html

3月に入って感染状況
2度のパンデミックは東京と沖縄で起きた

原因があって結果がある。結果から原因を辿ることが重要だ。細菌学の権威ルイ・パスツールが証明した通り、腐敗は菌があって始めて起こるものであると言うこと。市中感染はその前に外からウィルスを持ってきた人間がいたからとなる。検疫をしっかりしていれば起こりえない。何処で検疫逃れが起きたか追及しなければならない。島国は海外からのウィルス伝播を防ぎやすい。今回のパンデミックの原因は例外を許したことにある。オリンピック内なる外国の存在に甘いオモテナシをしたことである。これを肝に銘じ日本人は歩み続けるべきだろう。人類の英知がワクチンを生んだ。体の状態により打てない場合があっても、打てる人間は打つべきであろう、自然抗体が渡り鳥のように生まれるまでは。人も何れ鳥のように飛べる時が来るかもしれない。その時ウィルスは怖くなくなるに違いない。

は”そら“と”くう“と両方読める。空を”そら“と読むか”くう“と読むかで、全く違うイメージになる。”そら“にはただ遠く明るい未来を感じ、”くう“には虚無的で難解な無常観を感じる。2つの異なったイメージは不思議に”“で一緒になることが分かる。

塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた「空」

そら”は元々は地や人の上の全て、天井、天道、天国、神にもなる。は余りに漠然とし、大きく、広すぎる。天と地の間を身近に表すものが必要だった。それが”そら“。ヒントは天空にある。天空は天の下の限りなき空間の下の広大な空間を示した。が我々を包む大きな傘とするとその下は何もない、の世界に見える。即ち大空である。天空から天と地の間に置いた。そら”である。の本意はくう=何も存在しない、本来、見ることも触ることも感じることもできないが、実際は何かある。は”そら“の意を得て単なる虚無から無限に、空虚から空間虚空としての有へと大きな広がりを持つこととなった。”そら“にはがあり、が流れ、が降り、稲妻が走り、が渡る。は幻想を生み、は恐れを生む。が昇り、沈む。が彩を与え、々が無限の宇宙を表す。山々に日の光は陰影を与え、美しさを表現する。の美しさは色の変化にある。夜明けの朝の空は蜜柑色、昼間はく。夕暮れに近づきまた蜜柑色になり、夕焼がく染め上げ、色になって夕闇となる。

くう“を表す言葉として一番相応しいのが色即是空。色あるもの全ては空虚般若心経に記されている。仏教の神髄とはゼロの元になった言葉で、ではない。器がありその中が空っぽと言う意味になる。満たせば元に戻る。空即是色、即ち存在としての空がある。全否定の全く何もないとの違いがここにある。この世は空しいがお終いではない。悟りなさい悟れば道は拓かれる。ということだ。ゼロを発見したのは仏教発祥の地インドである。数字の国、お金を発明した中国でさえ、ゼロを発見することはなかった。10と言う数字は一桁の0(ゼロ)があって初めて“十”となる。ゼロは必要なのだ。くれぐれもではない。1にも2にもなる。実在としての無,即ち空。例えば空気がそうだ。空気があるから人間は生きられる。見えないが、空気はある。”そら“に通じるものがある。”そらの色の美しさは、”くう“即ち大気の存在があって初めて変化する。何もなければ美しい色には変化しない。の光が大気圏の粒子に反射し、”そら“に光の7色それぞれの拡散性の違いによって色を着けるのだ。”そら“の色は大気圏にぶつかる光の角度と距離によって刻々と変わる、”そら“は蜜柑色から青、赤、紫に変化する、これは将に光と大気が織りなす幻想に過ぎない。雲の白さもの光の造りだした色に過ぎない。正に”そらの色全ては幻想実体のない色そのものだ。”そら“と”くう“が正にで結びつく。

乾徳山山頂からの富士

地球をリンゴに例えると大気圏はリンゴの皮の半分にもならないくらい薄い。その中で我々は生きている。山に登ると遮るものがない。空は更に広く、美しく感じる。標高が高くなるにつれの青さが増し、の白さを浮き立てるだけでなく、下界をもくっきり映し出す。空に近づきたくて山に登るのかもしれない。大気圏の薄さに我々の存在の呆気なさを感じる。全ては幻想色即是空。だからこそ我々は山に登り、儚い自分の存在を知る。塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた言葉「空、森羅万象、空より生じ、空に帰す」宗堂。深い。胸に沁みる。そうか皆、最後はに戻るんだ。このは”そら“と”くう“。

中華そばのなぜ

55年以上前、ラーメンなぞなかった。あるのは中華そばだった。しかも、中華そばは中華料理店で食べるもの。つまりラーメン屋なるものもなかった。中華そばは中華料理の一つで、けしてメインにはならなかった。まずチャーハン。チャーハンがあって初めて中華そばだった。しかも中華そばの汁はチャーハンについてくるプチスープ。甘酸っぱい澄んだ鶏ガラ醤油味。これにシャキシャキの刻みネギ。これが全く中華の味だった。日本にはなかった今も忘れられない味。家族で週末になると中華料理を街中まで食べに行くのが楽しみだった。店の名は珍珍亭。街角にあり、摩天楼の如き町一番の立派さで、外には街頭テレビがあった。イの一番に中華料理の主菜、チャーハンは外せない。そして中華そばになる。皿とどんぶりの縁には必ずグルグル模様、雷紋があった。家にもこのどんぶりと皿があった。これが中華料理の基本。器と料理が表裏一体だった。最早失われた光景と思いきや未だ残っていた。町中華だ。町中華はほぼ日本人の店主、中国なぞ行ったことがないし、中国自体に興味もない。顧客対象はあくまでも日本人。中華料理を継承しながら、中国とは全く無関係。只管、日本の中で全く日本的な中華料理文化を継承している。

中華そばが他の中華料理を押しのけ、主役に躍り出たのは日本の地域に根ざした味を生み出す麺と具とスープの三位一体の七変化の妙だった。更に即席麺を世に出す。中華そばの偉大さは日本に根付き、中国本国から離れ、日本独特のラーメン文化を創り出し、一方で世界中にインスタントラーメン文化をもたらしたことにある。チャーハンの端役だったのが、主役に躍り出て世界を席巻したことに驚かされる。

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日本生まれの中華どんぶりと皿

私は中国に長く駐在した。東から北、西、南至るところででラーメンを食べた。しかし、雷紋のインパクトあるデザインのどんぶりや皿を何処でも見たことはなかった。インターネットで調べると、何と日本オリジナルだった。考案したのは浅草かっぱ橋陶器卸商と言うから驚きだ。古九谷焼のデザインが元という。道理で我が家にもあった訳だ。今でもインタネットで購入できる。料理は器からという。中国趣味の器により日本の中華が本場の味に仕上がっている錯覚を起こさせることに一役買っているのに違いない。

https://athleterecipe.com/column/21/articles/1872055

そもそも中華そばは中国の蕎麦のような麺料理の意味。中国ではありえない具が乗っていた。理由は中国の味付けに少しでも近づけるための苦肉の策。コスト日持ちを考えて編み出した赤いチャーチューナルト。更に日本人の拘る蕎麦の具を掛け合わせた意地が見えるのが海苔。中華そばは蕎麦ではない。寧ろ、うどんや素麺に近い。なのにそばと呼ぶのは何故?中華そばからラーメンになったのは何故?何処が違うのか?考えれば考えるほど不思議な魅力が尽きない中華そばは今や日本のソールフードとなった。

昔ながらの味!横浜といえば【赤い叉焼(チャーシュー)】 | 中華工場直売所 好(ハオ)の店長ブログ横浜名物赤い炭火焼豚
昔懐かしい赤いチャーシュウ

1.赤いチャーシュー:小さいころ、中華そばのチャーシューの縁が何故赤いのか、不思議に思っていた。中国でもラーメンに赤いチャーシューが入っていたのを見たことがない。このチャーシューは中国では明炉叉焼と言い、広東料理では飲茶の点心。焼いて紅糟に漬け込むので、日持ちするし、甘い味と色合いと固めの弾力ある食感がチャーハンに向いていて、切り刻んで入れていたのが焼き豚チャーハン。これを大きく切ったものが中華そばに入っている。両方に使えて経済的。こりゃ、チャーハンのスープの中華そば兼用と一緒。但し、焼いて干してあるため固く、柔らかな肉を寧ろ好む日本人の嗜好から煮込んだ三枚肉に今は変わってきている。正式に言うと最早チャーシュー(焼き豚)ではなくなったということ。

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ナルトとむきエビ

2.ナルト:中華料理に何故ナルトなのか?疑問に思っていた。勿論中国でラーメンにナルトなんて見たことはない。関西でも元々ないらしい。まして徳島の鳴門とは関係ない。中華料理ではむきエビが基本。しかし、コストからみるとかまぼこが断然安い。チャーハンではナルトが細かく切られて入っている。赤と白の色合い優しい触感海老の代替となる。しかもナルトはかまぼこに比べつなぎが多く、かまぼこの魚臭がなく、ぷりぷり感が少ない。中華料理にも合う。関東煮に入っている代表的かまぼこで汁の味を引き立てる。皆さんご存知か?関東煮の由来は中国広東煲湯からとか、山東省の魚丸を煮たものから始まったとか、将に中国と縁がある。本筋のかまぼこほど存在や味を主張せず嫌味にならない。中華そばでは、大きく輪切りしたナルトのデザインがどんぶりの縁の雷紋とマッチする。チャーハン、中華そば両方で使えるところに味噌がある。チャーシューに繋がる使われ方だ。ナルトが採用された訳がここにある。今もナルトは生きている。嫌味の無さデザイン的面白みも大きい実に理にかなった具なのだ。そして今や中華そばになくてはならない存在https://www.kibun.co.jp/knowledge/neri/basics/zukan/narutomaki/index.html

東京ラーメンの再現 ワンコインver.@自作ラーメン レシピ&作り方 | ラーメン探究日記箱根そばが「かけそば回数券」の販売再開 期間限定で割引に - 小田原箱根経済新聞基本となる“かけうどん”“うどんつゆ”のレシピ/作り方:白ごはん.com
中華そばと蕎麦とうどん

3.海苔:中華そばには海苔。これは蕎麦とうどんのワカメに呼応する。鳥ガラのスープにワカメは合わない。然らば海苔。あくまでも黒のアクセントに拘る日本食の特長を出している。中華そばは浅草で生まれた。海苔は浅草の誇り、忘れざるべきものだ。然もワカメと違い、海苔に嫌味がない中華そばの味を邪魔することはない。ナルトとかまぼこの違いにも通じる。

定期航路を見る|公文書にみる明治日本のアジア関与 -対外インフラと外政ネットワーク-日本商船・船名考 (ⅩⅩⅩⅩⅦ)
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1875年に始まる横浜上海定期航路の運行。日本で中華そばを誕生させたかん水と職人が上海から。

4.中華そばは何故そばなのか?:中華そばは勿論蕎麦ではない。蕎麦粉からではなく、純然たる小麦粉で作る。従って素麺やうどんの仲間である。然るにそばと呼ぶのは中華そば麺の細さとこしにあっただろう。それでは沖縄のそーきそばはどうなのか。太さはどう見てもうどん。実際、そーきそば中華そばが名の元。日本蕎麦とは関係ない。沖縄の中華そばの意。それでは素麺うどんと言わないのは何故か?違いはかん水を使っているか否かに過ぎないのだがこれが大きい。かん水が曲者。小麦粉を様々な形と色、食感、香に変える。中身の濃さを変えるだけで札幌ラーメンから喜多方ラーメン、九州ラーメンと変幻自在。正に魔法の水。かん水は梘水と書く。或いは鹹水。これは蒙古の鹹湖の水を用いたからで、この水で小麦粉を捏ねたとき独特の麺が生まれた。中国の麺の誕生。1700年以上前と言う。かん水はカリウム、ナトリウム、リン酸のアルカリ混合液で、戦後、日本は中国から入らなくなり、独自製造することになる。それまでは中国からの輸入。安定供給を可能にしたのが1875年に始まる上海と横浜をつなぐ日本初めての海外定期航路だった。定期航路の大きな意味合いはかん水輸入のみならず、中華料理の具材から道具、何より大きかったのは中国の料理人、麺職人の来日が可能になったことだ。横浜に中華街が生まれる契機にもなる、1910年横浜税関職員だった尾崎貫一氏が浅草に初めて中華料理屋来々軒を開店した。出したのは焼売とワンタンと柳麺(ラウメン)であった。料理長は上海人だ。今も祐天寺で続く来々軒はこの上海人の系譜でつながっている。柳面は細くこしがあり、まるで蕎麦の如きだったろう。上海人は細い麺を好む。味は正に甘酸っぱい澄んだ鶏ガラ醤油味。昔懐かしい中華そばの汁。私の追い求めた中華そばの味は上海で今も生きている。https://www.youtube.com/watch?v=PXDE5My7mSY

祐天寺の来々軒と元祖東京ラーメン

初めて中華そばを食べたのは水戸光圀公か否かで話題になっていたが、麺と言えば既に素麺うどんが早い時期に中国から入ってきており、誰が先に食べたの問題ではなく、中国帰りのお坊さんが既に麺類を食していたのは明らかであろう。素麺は中国では精進料理の麺で宿坊で食べられる。インターネットで調べると索餅が索麺となり、素麺と混同されたとあるが、無理ではないか?天津で麻花が索餅として有名だが、これをほぐすのは並大抵ではない。はっきり言って無理な話だ。索とは縄のことで、素麺は細く柔らかい麺で、縄は想定し難い。素麺は仏教と一緒に中国から精進料理として入ってきたと考えるのが自然だ。お坊さんは鳥ガラスープのラーメンは食べられなかったからだ。

素面(亲手擀的面味道才对)的做法图解12索餅(さくべい)」は通販で買える?!七夕の伝統的なお菓子【グレーテルのかまど】」 - 明日は何を食べるかな
中国の素麺と索餅

うどんは中国で言う餛飩(hún・tún)からきたのではないか?ほうとうも似ている。中国で食べる餛飩の味付けは日本のうどんと似ていて、魚介類スープにワカメが入っている。あっさり食べられる。日本ではワンタンと言うが、中国ではフントウンになる。ワンタンの具を取るとうどんそのものだ。素麺、うどんともかん水を必要としなかったから日本で広く食べられるようになったのであろう。仏教伝来と深く関係ある関西の食文化に根付いていることからも理解できる。

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5.中華そばは何故ラーメンに名を変えたのか?:1960年代、高度経済成長の中で付加価値を上げる時が来ていた。そばの名がつく限り立ち食い蕎麦の価格に縛られることになる。主食に躍り出て、別の価格体系を創造するにはそばの名を外さざるを得なかった。そして、中華の縛りを解き放ち独自の麺を表現する時がきていた。かん水の国産化と使い方の妙を既に取得していた。日本独特の魚介類スープと具を試す時が来ていた。海外でも通じる言葉、ラーメンになることにより日本国内だけでなく世界へ市場が拡大。これが大きいだろう。ラーメンの最初は札幌ラーメン中華ではない日本の北方産の独自のラーメンとして全国にチェーン店展開を開始した。有名だったのがどさん子だ。ペリカンの嘴の下部分がどんぶりになっている。味噌バターコーンラーメンを編み出した。麺は黄色く縮れた太麺だった。ご当地ラーメンの先駆けだが、けしてご当地ではなく、東京が創業の地で、札幌とは関係がなかった。丸亀製麺が似ていると言えば似ているが、ロードサイドに爆発的に出店し、最盛期全国に1,157店舗あったと言う。日本最大のラーメンチェーン店だ。日高屋、幸楽苑でも400店舗、丸亀製麺で800店舗。急拡大した理由がインスタントラーメンの拡販時期と重なるからで、サッポロ一番味噌ラーメンが爆発的に売れた時期に重なる。日本独自の味噌、塩味を登場させた。全く従来の醤油ベースとは一線を画すことになる。そしてラーメンの時代を創出することになる。まさか世界に通じることになろうとは。今や日清の命名のカップヌードルは世界の言葉になっている。市場の7割は日本ではなく海外になっている

消えゆく「どさん子」】「味噌バターコーン」はここで知った : SAMのLIFEキャンプブログ Doors , In & Out !世界で一番インスタントラーメンを食べる国はどこ?日本と韓国のラーメンの誤解 | モンモンイのある日ラーメンと子ども
札幌ラーメンで始まったラーメンはカップラーメンとして世界中に広まった。今は中国が消費量No.1

20年前、初めて上海から蘇州へ汽車に乗った。あの頃新幹線なぞない。大陸横断鉄道のような古く大きな鋼鉄の厳つい車両。正直汚かった。満席。昼時で、皆カップラーメンを抱えている。何とでかい、子供の顔くらいあった。車掌は若い女性で、何とコマーシャルで一世風靡した大きなやかんを持っている。お湯はサービス。もう既にカップラーメンは中国に根付いている。2019年、年間414億個のカップラーメンが中国だけで消費されている。驚きの数字だ。これは全て明治時代、上海から麺職人が日本に渡り、かん水の使い方と麺の打ち方、スープの調合、具の合わせを教えたから生まれたもの。無心でカップラーメンを食べてくれる中国人の姿に日本として少しは恩返しをしたのではと今思っている。

ギョウザと満洲

ぎょうざの満洲の餃子

駅前のぎょうざの満洲で餃子をつまみにビール。師走の空の下、忙しそうに街行く人を傍目に眺めながら。日頃何気なく見過ごしていることに呑みながら考えるとハタと気が着く。何故この店の名前は満ではなく満なのか?何故餃子ぎょうざなのか?店員に聞いても分かる訳もない。創業者に会って直接聞けば判るだろうが、瘋癲呑兵衛に付き合うほど経営者に暇はない。コロナ禍で経営も厳しくなっているであろうし、大枚を叩いてくれるでもない半爺のお付き合いなんて時間の無駄でちゃんちゃんになるのが落ち。然らば時間のある呑兵衛は自分なりに考えてみる。これが暇な呑兵衛の特権である。時間はいくらでもある。金と命に限りはあるが。

wiki pedia外満洲から抜粋

満州か?満洲か?教科書で習ったのは満州。日本の傀儡政権であった満州帝国をほぼ指す。一方、中国では満州満洲は日本では八重洲や中洲など海や川に自然にできた土地のイメージだが、中国では更に民族までも意味する。満洲は嘗て広大な土地を有する国だった。更に世界一の帝国であったは実際この満洲から生まれた。満洲が実際先で後になのだ。外満洲は今やロシア領になり、ウラジオストックハバロスクなどが有名だ。外満洲を含めた満州の総面積は155万㎢になる。日本の4倍強。今では、中国では満洲は満族になり、少数民族の一つに過ぎない。満洲イコール日本の傀儡政権の意味で、既に歴史の中で消えた国家。今でも小数民族の人口としてはウィグル族、チワン族に次ぐ3位1千万人強である。これだけの人口を有しながら遼寧省、河北省、吉林省に11満族自治県があるのみで州クラスがなく、文字や言葉も認められていない。内モンゴルとして少なくとも言葉、文化、自治区が残っているにも拘らずだ。中国に駐在していた際、何度か満族の方に会う機会があった。全く漢民族と区別できない。同化が進んでいる。お話しすると親日的な対応をして頂ける。何か申し訳ない気持ちになる。私が中国に足掛け9年間中国にいたが、”にほんじん”と言われたのは昔の満洲の領地の遼寧省の大連だけだった。北京ではルーベンレン、上海ではサパニン、成都ではズーベンレン、香港ではヤプンニャンだった。中国では様々な日本人の発音があり困惑する。

満洲から生まれたは、最盛期世界のGDPの3割の富が集中したと言われている。中国では大清帝国とされる。が日本の配下で満州国として復活を図ったが日本軍にそれだけの力がなかったし、実際中国全土を制圧なぞ到底無理な話であったろう。中国の奥地は遥か遠く、深い。日本が早晩力尽きるのは火を見るより明らかだった。苦し紛れに米国に戦いを仕掛け、敗残する。最早人民政府の政権下で満洲の文字や言葉や文化の消滅が進む。2年前で満洲語を母語とする方は15名に過ぎないと言う。遥か遠く、西のカザフスタンとの国境近く、新疆ウィグル自治区のシベ族3万人ほどが満州語を伝えているとは驚きだ。消滅危機言語の一つになっている。尤も日本のアイヌ語も母語として話せるのは15人に過ぎない。厳しさが一層だが。

満族の女優では内モンゴル出身の葉青と香港出身の関之が有名。日本の三大美人で有名な秋田、新潟、博多。遺伝子研究により共通点が明確になった。これは満洲の血にある。全て日本海側、はるか昔、渤海国との交易で栄えた地であった。渤海国は698年から926年に栄えた、契丹と共に満洲の礎を作った国だ。日本とは奈良、平安と密接な交易関係を持ったと史書に遺してある。港に美人あり。渤海国の血を繋いでいる。日本と満洲の間には長く深い歴史がある。

新疆ウイグル自治区の中のチャプチャル県の位置Sealeg25.png葉青個人資料満族の身体的特徴 | 元チャイナドレスの実績日本一 店長の運営ブログ渤海の位置
新疆ウィグル自治区イリ・カザフ自治州チャプチャル・シベ自治県と満州語、満族の女優の葉青と関之林と渤海国   

最近ドイツなどの研究者チームが発表した「日本語の起源は中国東北部のキビ・アワ農家」と言うのが面白い。正に日本語の起源は満洲になる。何処か故郷に近い親近感があった。中国の東北部に出張する時、朝、ホテルでアワのお粥が必ず出る。日本では鳥の餌でしかないアワが実に美味いのだ。満洲のアワは品種が違うとのこと。これも驚きだ。道理で美味い。日本語は昔はウラル・アルタイ語系として西はハンガリー、フィンランド語からユーラシアを横断し、トルコ、モンゴル、ツングース、朝鮮語と同じ系列とされてきた。実際、フィンランド人の言葉を聞いたが、チンプンカンプンで同じ語系列か分からなかったが、彼らも難しい言語と自ら認めていた。今はトランスユーラシア語系と言う。日本語満洲起源説に見るストーリーとしてはキビ・アワを食していた9000年前西遼河に住んでいた満洲族が稲作の適地を求めて日本に下って行き、稲作と同時に言葉と言う文化も伝えたことになる。因みにアワは中国語で小米と言う。米は大米だ。小麦の無い時代、アワでラーメンを作ったのがラーメンの始まりとされるぐらい古い主食だ。稲作は中国南部で始まり、弥生文化として日本に入ったことになっており、このストーリーに沿えば満洲から朝鮮経由で文化と共に入ってきたことになる。弥生人が大陸系であることはよく判っており、肯ける部分が多い。今中国東北部(満洲)は中国有数の稲作地域になっており、この米は寒さに強く北海道で品種改良されたジャポニカ米だ。故郷への恩返しのようで嬉しいではないか。

私が中国遼寧省を訪問したのは15年前の冬鞍山から盤錦までバスで移動した。車窓から凍土と化した大地に没する太陽を見た。満州を開拓しに来た日本人を想い、暫し沈思黙考したことを思い出す。省都の瀋陽には東京駅にそっくりな駅舎が残されており、驚く。街中を歩くと美しい女性が否が応でも目に入る。背が高く、足も長い、しかも顔が小さい。モデルの様な女性が多い。明らかに南方の中国人とは違うのが一目瞭然。やはり今思うと民族が違うのだろうかと思わせる。更に大連近くには二百三高地が残されている。軍港が近く、基本的には日本人は近寄れないようだが、黙っていれば判らないと言われ見に行った。日露戦争の跡がそのまま残されていることにまず驚かされる。因みに中国人から初めて”にほんじん”と言われたのは大連から瀋陽に向かう電車の中だ。

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アワと日本語の起源   

日本に残る満州語で一番有名なのがぎょうざではないか。満州語辞書によると餃子はgiogiyan efenと発音する。ギョウジャンフェンである。これがぎょうざになったのでは?意味は餑餑(だんご)。黍を軟かく蒸して槌で叩き小豆餡を入れて長目に作り、油揚げしたものとなる。水餃子はhoho efenで別になる。日本と一緒で違うものになる。中国では基本的に餃子イコール水餃子だ。戦前は中国語をそのまま使った”じゃおず”がレシピに残っている。ぎょうざの満洲が何故ぎょうざと敢えて使っているか意味が分かる。満州語だからだ。一説によるとぎょうざは宇都宮の方言とまで言われているが、そうではない。満州からの復員兵や引揚者が中国を懐かしみ食したとされるが、それは水餃子のはずである。然も水餃子を焼いても美味くはない。全然別物だからだ。最初から焼き餃子として作らなければ味は出ない。それを教えてくれたのは、上海の屋台で食べた焼売(鍋貼)だ。生煎包とも言った。作り方が日本の餃子と一緒なのだ。これが日本の一般的な餃子になったのだろう。考えてみれば、昔北海道ラーメンが一般的になる前、ラーメンはシナソバだった。中華料理店で出すシナソバは薄い醤油味の酸っぱいスープにストレート麺だった。私が上海で初めて食べたラーメンと味が一緒だったのでこれも驚いた。中華料理が一般的になる前、日本人が主に食べていたのは上海料理だった。それは革命の度に日本に逃れて来たのが上海人だったからだ。上海では普通に焼き餃子を食べる。ここが他の一般的な中国と違う。

北方の中国では餃子は主食であり、ごはんと一緒に食べるものではない。日本人は何故餃子をおかずにご飯を食べるのかと中国人に聞かれたことがある。そう水餃子であればこれだけでお腹が膨れるのでご飯を必要としない。しかし焼くと主食から離れつまみとしてビールに合うし、ご飯にも合う。これは日本人の発明した食べ方であろう。また、中国では餃子を引っ繰り返すことはしない。あの形が重要なのだ。中国のお金の形なのだ。馬蹄銀(元宝)と呼ばれ、縁起物でもある。しかし、屋台の焼き餃子であれば、焼き面を上にするのは焼き具合を見るため必要となる。そもそもそこが違う。こだわりを忘れ、ぎょうざの満洲でビールと餃子、至極の時を過ごせることに日本人としての喜びを感じる。日本は中国から美味しい文化を取り寄せた。極東の文化の終着点でいいとこ取りができた。何と幸せなことか。

立花隆氏を悼む

この春4月に立花隆氏が亡くなられた。学生時代、遥か40年前になるが、大学で『田中角栄研究~その金脈と人脈』の講演をして頂いた。大学内外から数百の人々が集まった。田中御殿のお膝元目白で開催したことが世間に大いに受けた。主催した我々も留飲を下げた。立花氏の事実を事実として訥々と集まった聴衆に語り掛ける凄み。真実を何処までも追及する鋭い眼力。しかし、あの頃、まだジャーナリズムの金権政治批判が田中角栄を首相退陣へと追い込むも権力の座から引き下ろすには非力だった。学生だった我々は全てに金の力を優先させる世間の風潮が許されないと言う思いがあった。その後ロッキード事件が米国側から暴露され、遂に窮地に追い込まれる。立花隆氏の言葉で今も記憶するのは「権力は腐敗する」だった。

宇宙からの帰還」読んで飛行士になった 野口聡一さん:朝日新聞デジタル

彼はその後、マスメディアの寵児として様々な分野に足跡を残すことになる。政治的なコミットメントは最早、彼にとって本来の興味の対象には小さすぎたようだ。もっと大きな次元で”真実”を追求しようとしていた。大学での講演からすぐに発表された『宇宙からの帰還』は将にその後に追求するものが何なのか、明確に示された。大学で角栄研究の講演をされた時も実は彼の心は最早既に宇宙に旅立っていたのかもしれない。次元が違っていた。この本は、宇宙から地球に戻った飛行士の精神的な変遷を追い、掛け離れた経験から人間の精神が如何に飛翔を遂げるか、人間の精神構造の不思議さを問う最高の傑作だ。ここから人間の思考回路を問う『脳を極める』『臨死体験』へと人間の内面的宇宙の世界に入っていくことになる。は脳にあるのか?脳死はどう判断すべきか?死に臨み人間が幻想を見るのは何故か?議論を突き詰めていく。2000年以降、心から更に体の不思議へ。細胞の癌化という問題。癌は自己細胞の変異であり、癌を殺すと言うことは自らの細胞を殺すという矛盾点を衝いていく。

立花隆氏は2007年に膀胱癌を患うことになる。私もその3年後に同じ病に罹り、彼の文芸春秋に書かれた手術に至るレポートを熱心に読むこととなった。彼は更に2014年に癌が再発、癌の除去手術を再度受けられている。その時の癌映像を見ており、癌が上皮内癌(stage1)と思われる映像を見ている。私も同様にやはり発癌から8年後再発している。膀胱癌は再発率の高い癌と言われ、放っておくと転移性癌へと変異していく。モグラタタキ的な抗癌治療が続けられることになる。癌細胞がなかなか消えない。私は半年以上続け、音を上げることになった。私のようなガンサバイバーにとって彼が何故亡くなられたのか、どうしても気にならざるを得なかった。

膀胱癌に罹って肺に転移を公表された小倉智昭アナウンサーの件は心痛む。膀胱癌は膀胱内で収まっていれば問題ないのだが、膀胱の壁を越え転移が始まると治まらない。松田優作氏は癌が腰部に転移したことにより39歳で亡くなられている。立花隆氏が抗癌治療をされたか否かは報告されていない。寧ろ、高血圧と糖尿病に苦しまれていたことが報道されている。私も40歳代は両方に苦しんでいた。高血圧は眠れず、糖尿病は四肢を麻痺させる。全く生きながら、将に植物人間の苦しみを味わう。2014年9月14日放送のNHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」に出演された彼の姿はすでに限界に達しているかに思えた。番組の最後に23年ぶりに再会したレイモンド・ムーディー博士をアラバマ州の家に訪ね、語らうシーンは彼の死を予感してならない。死を素直に受け止めたい彼の本心、そして最後に逢いたかった博士と昔を懐かしむシーンは生きている間にどうしてもとの思い入れを感ぜざるを得ない。既に死を準備していたのか。

https://www.dailymotion.com/video/x260cx5

昨年1月のデモクラBOOKSのYouTubeチャンネルで、立花隆氏との生前最後の元気な姿を見ることができる。いまこの本を読め・第12回 立花隆『エーゲ 永遠回帰の海』。彼は自分の人生をまとめる。角栄研究で得たのがエーゲ海への旅。彼は日本の政治の暗部を追究する中で虚しさを感じたことを語っている。自分の進むべき道は哲学そして科学的真実の追求であるべきと、人生の最終章としての原点に回帰すべくエーゲ海に心が向かう。最早、彼の中で田中角栄から繋がる、否、岸伸介から今まで延々と繋がってきた政治権力の二重構造も些末な問題とここで片づけている。最早日本の歴史を俯瞰的に捉えているようだ。エーゲから飛鳥へ、日本の天皇の歴史の言及している。どんな困難や問題があろうと乗り越える民族であると結論付ける。彼が最後に伝えたかったのは過去の肯定ではなかったか、未来は過去の上に積み重なっていく。基本は哲学であり、その上に科学がある。基本がしっかりしていればいいのだと。人は年を取ると様々な角度から見えるようになるものだとインタビューアーに伝える。彼が死を控え、原点に復帰していきたいとの思いがここにでている。

https://www.youtube.com/watch?v=6__jQMPJKmI

最早、原子力、ウィルス、政治の腐敗、彼は乗り越えるべき問題を後世に託していることが分かる。彼は基本的な問題提起を終え、自分の役割は終了としたかったのではないか。私はここまでと。残された我々は彼の哲学を理解し、また更に後世に伝えていかなければならない。彼の背中が見える。追求し続けた「人間は何処から来て何処に向かうのか」はけして終わらない我々の旅路を示している。彼の遺した著作に解決のヒントはあるが結論ではない。我々が生きる限り回答を求め自ら考え、歩み続けなければならないだろう。

伊勢(蘇民将来子孫の系譜)

船長、お元気でしょうか?初めてお会いしてから早いもので8年が経ちます。朝明の温泉でしたね。お声をかけて頂き、嬉しく。精悍なお姿を忘れはしません。皆さんがいつもお名前ではなく船長と呼んでいましたね。今も現役で船に乗っているのでしょうか?あの頃はまだ60代でしたね。寡黙で笑みをいつも浮かべていた。日に焼けて真っ黒な皺の刻まれたお顔は船乗りの勲章のようでした富洲原港の週末の朝市で船長が獲って来られた新鮮な魚介類を見るのが楽しみでした。

涅槃を見せる釈迦ヶ岳(鈴鹿山脈)

私は鈴鹿山脈の麓、四日市富洲原港近くに2年近く住みました。伊勢湾の海の青さ、鈴鹿山脈の山の緑、川の澄んだ色、どこまでも広い空、走馬燈のように思い出します。船長が言われた「鈴鹿の山に木を植えに行ってんだよ。山が荒れると海も荒れる。」この言葉を思い出します。木々の山を守り、滋養分を川に流し、川から海へ、そして海を豊かにする。山から川そして海、全てがつながり、海の豊かさを育む。伊勢の素晴らしさはそこにあると実感しました。鈴鹿山脈は海に迫り、1000m級の山並みは伊勢湾を守るように凛としていましたね

竜ヶ岳(鈴鹿山脈)より伊勢を望む

私はあの2年近くの間、以前8年駐在していた中国に戻りたい一心でいたことを今白状します。中国ビジネスの面白さを知り始めた時、リーマンショックで全てがとん挫しました。まだ何かやりようがあったのではないか?自分が寧ろ生かされるのは中国ではないか、日本にはもう未練を残していなかった時期でした。上海そして思い出の蘇州に戻りたい。最早忘れかけた中国語、船長が、関西弁のアホをハオと言われたことを思い出します。ハオは中国語で(良い)の意味ですが、ハオだけでは実はアホの意味になります。言わば皮肉ですね。「いい奴だ」みたいな感じですか。アホはハオから来ていると言われています。関西弁の言い回しは何処か大陸的でした。うるさいは中国語の五月蠅(苍蝇)「ウーユエツァンイン」」から、パパママも中国語から。面白いのはシューズ、英語ですが、元々の中国語は鞋子「シエズ」です。日本語に中国語の余韻を感じていました。伊勢には中国の香が確かにありました。そうそう徐福伝説が残っている新宮は伊勢と熊野につながる港です。

新宮にある徐福公園

不老不死の薬を求め、数百人の中国人と共に日本に徐福は海を渡って来たと言われています。秦の始皇帝の時代、紀元前200年代です。来訪の伝説は朝鮮、九州とありますが、最後に辿り着いたのは熊野と伊勢の入口と言うのが不思議です。辿り着いた彼らはその後どうなったのか?全くその後の足跡は杳として掴めないのです。ただ、多くの中国人が住み着いた証拠が”下戸”の遺伝子にあると思えるのです。この遺伝子変異は中国で起きました。人類の特長は他の動物と違い、アルコールを分解できる酵素を持っているところです。それで酒を飲み楽しめるのです。ところが中国江南地域の人々はこの酵素を弱め、アルコールを分解せず体内に残し、感染症に強い体質をもたらしたと言います。毒を持って毒を制すということですね。この遺伝子が強く残ったのが日本ということ。然も三重、愛知にこの遺伝子を持った方が多い。正に渡来人の遺伝子の賜物でしょう。実は上海・蘇州にいた時に呑めない中国人が多いのに驚きました。伊勢に来てやはり呑めない方が多い。不思議に思っていました。中国の江南地域の人々は色が白く、毛深くなく、細身が特徴です。伊勢の人々も色白、薄毛、細身、似ているのです。上海蘇州、そして伊勢、毎日入っていた温泉で気が着いたことでした。中国で生まれた遺伝子が海を渡り、伊勢に辿り着いたかと思うと感慨深いですね。

伊勢と言えば獅子舞です。発祥の地と言われ、正月には民家を回り賑わいを振り撒きます。伊勢大神楽として今に伝わります。正に中国の舞狮が原点。お囃子がついており、鉦や太鼓、これが日本の祭り囃子に繋がったのでしょう。伊勢の石取り祭りは中国のお囃子を彷彿とさせます。これは伎楽が期限で、中国の呉から伝わったとされ、呉楽とも呼ばれます。日本書紀には伎楽百済からの渡来人である味摩之が612年に伝えたとあります。獅子舞も最初の記載はここに始まります。伎楽は今は使われた面のみ正倉院に残るだけ。何故伊勢に神楽として伝わり残ったのか?神楽の起源は古事記・日本書紀の天照大神の岩戸隠れに天宇受売命が神懸りして舞ったもの。天宇受売命の故郷は正に伊勢です。徐福の残した遺伝子はここにもあるのではないでしょうか?天宇受売命が踊りの際、腰に巻いていたのが注連飾りの元と言われています。

伊勢を伊勢足らしめるのは勿論伊勢神宮ですが、その入り口とされるのが二見浦です。猿田彦伝説があり、倭姫命を伊勢神宮創建へと二見浦から導いたとされます。猿田彦は道を案内する神として道祖神としても祀られています。容姿は天狗そのもの、日本における天狗伎楽治道のようです。伎楽は行道、言わばパレードで始まります。その先頭に立ち道案内の役割を演じています。仲睦まじいカップルの道祖神は猿田彦と妻の天宇受売命に由来します。中国における天狗道教由来で、日食、月食を引き起こす太陽や月を食べる天にいる犬とされます。全く違いますね。日本では天狗は寧ろ山岳信仰の中で山ノ神となっていきます。猿田彦伝説庚申信仰の中で、見ざる言わざる聞かざるの三猿へとつながっていきます。

また、二見には蘇民の森公園があります。初めて訪れた公園の蓮池で以前住んだ中国の蘇州を思い出しました。夏は蓮の実を蓮台ごと庭園で売っていました。そのまま実を外し緑の皮を剥いて食べます。70円くらいで山盛り、ほんのり甘くて美味しいのです。夏の楽しみでした。日本ではこの習慣がないですね。中国では蓮の花が庭園一杯に咲き誇ります。思わず、この公園の蓮から種を取って食べてしまいました。懐かしい味でした。同じ味でした。

二見町の家々には面白い門符が飾っていました。初めて見ました。蘇民将来子孫家之門とあります。これは蘇民護符と言われ、伊勢のものは注連飾りされ、裏には陰陽道の呪文が記されています。護符自体は中国の霊符から。道教の流れ。元々、中国同様肌身離さず体に着けているのが本筋。然らば蘇民将来とは?奇妙なことに人の名前だそうです。昔、旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、彼女を除いて、巨旦一族を皆殺しにした。武塔神はみずから速須佐雄能神と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとしたそうです。この「蘇民将来信仰」は朝鮮半島の渡来人によって、尾張国津島、備後国福山など都の周辺部に伝わり、都への伝承は西暦7~8世紀頃と推測されるようです。更に話をややこしくするのが、本地垂迹です。武塔神速須佐雄能神更に牛頭天王となり、八王子伝説へとつながっていきます。総本山は京都祇園社です。即ち中国からきた道教日本で独自進化した陰陽道、更に朝鮮由来の神話が織りなす神道と結びつき、インドに結びつく仏教へと組み込まれます。ここで四つの信仰の融合が何とも言えない神秘な世界を醸し出します。正に海に囲まれた島国だからこそ生まれた不思議な信仰とも言えます。最早元の信仰は中国でも朝鮮韓国でも失われています。日本でこそ生まれた信仰となって日本中に広まったのです。

これを可能にしたのは伊勢独自の文化でしょう。海女の安全への祈願。海女は陰陽道の呪文を唱え、海に向かいます。蘇民護符にある五芒星(セーマン)と九字紋(ドーマン)です。陰陽道と神道をつなげたのは役行者に代表される山伏です。熊野から伊勢へ陰陽道の道が見えます。陰陽道は道教の一つ。日本において道士を中国から呼ばず、陰陽道のみ採用し、安倍晴明が日本独自のものとしました。伊勢神宮においては道教太一教も奉っています。正に神道と道教の融合です。これは天武天皇の意思。伊勢神宮に天照大神を祀るようにしたのも天武天皇です。伊勢神宮を創建したとされる倭姫命より草薙剣を賜り東征に向かったのは日本武尊、最後は疲れ果て、体が三重となり伊勢で亡くなりました。日本武尊速須佐雄能神に重なります。

徐福から蘇民まで道祖神として猿田彦と妻の天宇受売命が導いた伊勢の文化に異国の薫りを感ぜざるを得ません。徐福の連れてきた民の遺伝は今も伊勢に脈々と流れているのでは?これは伊勢茶瀬戸物にもつながるものでしょう。私は最早伊勢を離れ、更に6年旅を続け、中国上海・蘇州に再度戻ることができました。しかし、中国という広大な大地を前に首を垂れ、夢は潰え、日本に戻り引退への道を選びました。今、自分の歩いてきた人生の旅路を振り返って、伊勢で中国から日本への大きな文化の流れに接することができたことが一番幸せでした。この文章を書くにあたりまして、大屋行正さんの書かれた「伊勢志摩地方の蘇民符と注連縄」を参考とさせて頂きました。文末で恐縮ですが、添付させて頂きますと同時にここでお礼を申し上げます。素晴らしい調査結果に感嘆しましたと同時にお元気であれば90才を疾うに越えられているのではとご推察申し上げます。ありがとうございました。

将棋

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私の将棋との出会いは小学生、父と兄に教えてもらった。強くはなかったが、たまにとんでもない手を指すのが嫌われて相手にしてくれなくなった。もう55年、相変わらず変な手を指している。上図は指した将棋の最終局。私が先手、相手が飛で竜を切ると頭金で勝つ。竜がいるので桂で馬は取れない。玉は馬がいるので逃げられない。守るとなると持ち駒なく、銀を下げると頭金で詰み、飛の守りは4九金王手からタダ取りされるので投了。僅か41手。私は飛車角だけで攻めた。相手は面白くない。頭にくるともう私と指したくなくなる。将棋が原因で友人を失ったこともある。

しかし、たまたま今回うまくいっただけで、大概ボロ負けしている。いつも短手筋を目指しているからだ。負けても気にしない。さっきの将棋が勝ったのか、負けたのかさえ憶えていない。プロ棋士の上達の基本は負けたくないから強くなったとよく聞く。藤井総太二冠は小さい時から負けたら悔しく泣いて勝つまで何度も指されたと聞く。詰将棋もきっちり勉強されている。将棋の本を読み、あらゆる手を勉強し尽している。彼は19歳、勝負を前に年齢も性別も学歴も職歴も関係ない。強い人間は強い。私は全く何も勉強していない。本も読んだことはない。詰将棋も苦手でちょっと見ただけで諦めている。私の手は適当、思いつきと経験から指している。全くの素人将棋。縁台将棋。しかし、ここに将棋の面白みがある。勝つか負けるかはその時々のお互いの指し手の流れに従う。定石に従わない、伸るか反るか、毎回新鮮で面白くなる。素人が素人として楽しめるからこそ将棋の裾野が広いのではないか?

将棋は指す駒が決められている。トランプや麻雀と違い、全くのオープンである。配牌の妙はない。囲碁と違い、一から勝負を連ねていくものでもない。お互い既存の駒を動かしていく。しかし何処かで勝負手を打たなければならない。これはお互い様だ。王を取るか、取られるか。相手の守りを崩して攻める。攻めるうちにも守らなければならない。攻めと守りの相反する選択が迫られる。これが妙手か悪手か、厳しい瀬戸際に追い込まれる。肉を切らせて骨を断つ勝負手に賭けるプロは自分が詰まないか先ず考えるそうだ。素人は相手を詰ますことをまず考えてしまうから攻めに失敗すると負ける。しかし攻める時に攻めないといつの間にか墓穴を掘ってしまう。攻めれば自然、自陣が薄くなる。いつの間にか王がにっちもさっちも。いくら優位でも勝機を失うと厳しい結果になる。一方、将棋の妙は逃げ切っても勝ちになる。逃げるが勝ち

中国にいたころ道端で人垣を見かけた。大概数人で一生懸命下を見ている。議論している。何を?将棋盤に並べられた丸い駒。そう詰み将棋、賭け将棋だ。中国では将棋は象棋(シャンチー)。日本と違い駒組みが粗く、王の守りも薄く、シンプルだ。双方の真ん中に川があるが意味はない。大抵折り畳みの小さい椅子が道路側に盤に向かって置かれ、仕掛人は盤を広げて客を待つ。盤は大概紙。客の候補は見ている数人のうちにいる。サクラもその中に入っている。熱心に議論を吹っかけている。仕掛け人は椅子に向かって黙って100元を見せている。何処の将棋もそうだが、勝てそうな局面でも実際勝てない場合がある。するりと逃げられる道筋が用意されている。日本でも昔は祭りの時に必ず賭け将棋が見られた。日本と違うところは仕掛け人が若い女性の場合がある。そこが大きな罠。結局あと一歩で詰ませることはできない。賭けた金は取られるのが落ち。悔しそうに帰るカモの背中を見ることになる。将棋は優位な駒組みでも勝てる保証がない。逆に優位な時こそ危険な場合もある。そこが将棋の妙

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将棋の発祥の地は遠いインド。ここから西洋ではチェス、アジアでは将棋と世界中に広まった。このゲームは良くできている。なかなか詰まないように計算されている。戦争を避けるためのゲームといわれ、確かに疑似戦争。王を取れば勝ち。王を取られれば負け、へぼ将棋、王より飛車を可愛がり。実際、飛車を切って勝つと気持ちいいが、飛車を取られて投了も多い。素人は特にうっかりが多い。一手のミスが敗着につながることが多い。王を取られることは心臓をエグリ取られるように思われる。昔、将棋を昼休み指していて、脳溢血で斃れる人がいて将棋禁止令が会社で発令されたくらいだ。縁台将棋では負けると将棋盤を引っ繰り返して帰るおじいさんが定番。

将棋は昔から囲碁より低く見られていた。企業のトップは囲碁を嗜み、下っ端の人間は将棋と言うのが定番であった。囲碁は世界の言葉であり、確かに世界で幅広く打たれている。日韓中大会、世界大会と新聞を賑わす。中国で2000年前には打たれていた。私も教えてもらい、打ったこともあるが、どうも白黒の世界は寂しく、無味乾燥な感じを受けた。生来、抽象的な世界に弱く、計算が遅く、エリート意識にも乏しかったことから自然と差しで王を取り合う将棋の世界が好きになった。今でこそ羽生九段、藤井二冠とスターがファンを引き付けているが、吹けば飛ぶような将棋の駒に~の「王将」で有名だった無頼漢”坂田三吉”のイメージ。自分はこの方が好き

会社時代の将棋は先ず碁会所だった。問屋のおじさんと二人、神田で飲んで、行きますか?駅裏の碁会所に入る、そこで将棋が始まる。将棋・碁を打っている人の間をやっと通れ抜けるほど狭くてきれいとはお世辞にも言えない碁会所の中は煙草の煙とおじさんたちの体臭でむせ返っている。勝っても負けても楽しい思い出だった。問屋のおじさんはいつも煙草を燻らせていた。もうあの問屋のおじさんもこの世にいない。もう30年も前の話。その後は一人飲んで、帰り際、池袋の汚いゲーセン、100円でゲーム機相手に指していた。時代は過ぎ、今はインターネットで誰とでも指す。日本でも中国でもどこにいてもインターネットがあれば、サイトにアクセスし、相手が誰かは分らないで指す。24時間関係ない。もう碁会所も見ない。ゲーセンで将棋ゲームは既にない。私が今アクセスしているサイトはSDIN、昔は様々なサイトがあったが、消えていき残ったのがこのサイト。

https://sdin.jp/browser/board/shogi/

レートは1000点が基準。私はほぼ900点台で蠢いている。勝ったり負けたり。弱い相手には勝たせてもらい、強い相手にはほぼ負ける。たまに1000点台に上がり1100点台目前になると負け続け、最終的に900点台で落ち着く。相手は自分の点数に合わせ、900点台であれば900点台、1000点台に上がれば1000点台としている。希望レートを選べるのが良い。先手後手はランダム。昔は試合毎に挨拶していたが、盤を大きくするため、画面上、挨拶の欄を見えなくしているので挨拶抜きの不躾である。持ち時間の基準は5分から20分まで、集中が続かず、疲れるから。自分の設定は10分1手時間3分としている。チャットは断る。将棋を指すのは朝、目を覚ましたい時、寝る前にリラックスしたい時、気分転換を図ろうとする時になる。勝っても負けても恨みっこなし。勝てない相手はほぼ決まっているので避ける。へぼ将棋に付き合わせるのは失礼と勝手に思っている。相手を選べるのがいい。但し名前は都度選べるので変えられたら分からない。

インターネットでの将棋は面と向かって指すべき1対1の将棋本来の人間味を失わせるものだろう。しかし、純粋に自分の空間で将棋を集中して楽しめる。好きな時、四六時中、世界中どこででも指せるところがいい。駐在した中国でも楽しめた。出張時、米国でも英国でもアイルランドでも指せた。世界中で将棋愛好者がいつもどこかで指しているのではないか?見たことがないから判らないが、日本の夜中は中南米の昼間、世界中何処かは昼である。24時間楽しめる理由はここにあるに違いない。相手はけして見えない。PCの先の何処かに私と同じようにPCの前で将棋を指しているはずだ。私はいつもインタネットで24時間途切れないFM1のバロック音楽を聴きながら寛いで将棋を楽しんでいる。他には何も考えない時間だ

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相手はほぼ日本人とは思っている。少なくとも中国、韓国人に違いない。欧米にはチェスがある。いつも様々な人々と指している。相手は疲れた中年だろうか、私の様な老いさらばえた老人だろうか、はたまた若い人、女性や子供なのだろうか。マイナーなゲームだが、脳の活性化、ボケ防止、気力の鼓舞にはもってこいだ。最早私は将棋を続けて指すことはできない。一手終わると頭がボーッとする。脳が疲れて集中力の限界。高々20分でもである。それでもコーヒーやお茶で気分展開し、一休みすれば、また指そうと言う気になる。懲りないお爺さんに戻れる。今度は違う手を指してみよう。もう一度指し直そう。今度は勝てるかな。これが私の一番の喜びだ

日記

2010年9月6日(月)

50才になって初めて日記を書こうと思う。何となればガン宣告されたからに他ならない。丸善にてこの日記帳を買う。2,100円也!若林堂にてニーチェの言葉という本を買う。1,785円也!まず”カタチ”から入る私らしい。病名は膀胱癌!生命に関わる病である。今まで成り行きで生きてきたため日記なぞ書かなかった。書く気もおこらなかった。癌は人生を見直す契機をもたらすものとしては重要である。これからは少しは自省的になりたいものだ。今晩はやっと涼しくなったのでちょうど良い!本当に良いタイミングだ。由貴はおふろ、未央とママは楽しく勉強。愛する家族のために楽しく自分に向き合い、自分を鼓舞できればそれで良い。これが日記を書き初めた理由である。今日はもう眠いのでここまで、また明日。

11年前になる、日記の書き始め。日記帳に話しかけている。癌になった自分に大丈夫だよねと確認している。日記のいいところは、他人に言っても分かってくれない苦しみ、悲しみ、辛さを思う存分思いのまま書ける。書くことにより自らに対し客観的になり、心が落ち着き、感情的に他人に当たることが無くなる。初めて命の危険を感じた時、自分を見つめ、残された時間を大切に使おう。日記に書くと考えが整理され、どうすべきか、どうすべきだったか、もう一人の自分が回答してくれる。そう自分を見つめ直す。一方大切なものへの想いがそのまま出てくる。そう家族だ。家族のために頑張らなければならない。

更にここで何故ニーチェか?書かれた言葉がその後に人生の全てになった。ニーチェの珠玉の言葉が力になる。

自分が常に切り開いていく姿勢を持つことがこの人生を最高に旅することになる
・今のこの人生をもう一度そのままくり返してもかまわないという生き方をしよう
・遅かれ早かれ死ぬのは決まっている。だからほがらかに全力で行きていく
・喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう           ・過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える           ・世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。

この日記帳は日本橋丸善に行った際、カバーの織布の藍色の美しさ手に馴染む温かみに惚れて、少々高いが購入した。阿波しじら織り。独特の風合い。そしてノートの行間の広さ、書きやすさも良かった。この手帳の虜にすぐなった。あの頃は万年筆で書いており、ささっと書いていたので誤字脱字が多かった。尤も字を書くこと自体も忘れていた。パソコンでのキーボードや携帯での文字入力は漢字への自動変換機能があり、漢字の記憶が大まかになる。形状が浮かぶが詳細が出てこない。当たり前の漢字も書けなくなる。便利は便利なのだが。日記を付けることは漢字を思い出し、書くと言う作業を思い出すのに丁度良かった

しかしよくも11年続いたものだ。理由は簡単だ。日記を書くというより助けを求めていたからだ。日記は都度みごとに答えをくれた。最初の癌は手術で乗り切れたが、また8年後再発し、抗癌治療に涙する、日記はずっと寄り添ってくれた。今までの人生、成功より挫折。”あと一歩で”と言う言葉が今も耳から離れない。越えることができたら人生も変わっていた。もっと努力すれば、集中すれば、我慢すれば、後悔先に立たず。今更なんだ。もう既に人生も終着点を迎えようとしている。取るに足らない、薄っぺらな、何も後世に残すものはない。おさらばする時が刻々と近付いている。この世から消え、地に戻る。それもいい。体に生じた癌は身から出た錆と思えた。そんな自分を冷静に日記は解読してくれた。微笑みを私にくれた。自分が自分らしくなすがままに生きよと。だから日記を続けられた。

三重県に二年、長野県に二年、中国に八ヶ月、彷徨い続けた。この間も日記を手放すことはなかった。寧ろ日記なしでは生きていけなかった。2017年11月6日この日記帳ともお別れすることになった。理由は形に拘ることを止めようとおもったことだ。中国に移って一カ月、中国に居を構え、この日記帳が手に入らなくなると覚悟したこともあった。その時の日記。

2017年11月6日 (月)

疲れた。問題が山積み。たまらん。まあ今日は寝よう。この日記帳とも今日でサヨウナラ。もう全て捨てる。あとは質素に日記を付けていく。もう形はどうでも良くなった。どうせ”無”に皆戻っていくのだ。形にこだわることはない人生”無”だ。どうでもいいのだ。形あるものは消えゆくもの。今を生きていけば良いのだ。体を元に戻し何とか生きのびよう。明日は明日。辛い日々も去っていく。私の記憶の片隅に残るのみ。全てはサヨウナラ。私の心の問題だ。これからを私は私なりに生きていく。もう何も残さない。それが私らしい。そのままの人生なんだ。素直にそのまま生きていく。

このあと、日記帳はありあわせのノートになり、書くものも万年筆から鉛筆に、字も書きなぐりとなり、自分でもあとから読めなくなっている。しかしほぼ毎日書く。手帳、サブノート、日記ノートの3本立て。手帳には予定、サブノートには反省や目標をまとめる、そして日記には日々の想いを書いている。山だって旅先だって持っていく。電車で書くこともある。コンビニ、マック、喫茶店。中国の庭園でお茶を飲みながら日記を書いていた時、見知らぬ中国人が覗き込んで来て、面白い漢字だ。と言ってきたのには驚いた。日記は元々中国語だが、中国では公式な記録のこと。日本のような日記文学は聞いたことがない。漢字の書くなぐり文化はないようだ。この中国人は旅行者で、湖南省から団体で来ていた。日本人だって見たことがなかったのだろう。公式に漢字を使うのは今や中国人と日本人のみとなっている。1千数百年の時代の流れで意味も形も違う部分ができている。思えばカタカナもひらがなも書きなぐりが元といえばなるほどなのかもしれない。芭蕉の奥の細道の原書も漢字書きなぐりに見えなくはない。

時代も変わり、ブログを日記としている人が多いようだ。しかし、私は鉛筆書きに拘っている。そうしないと自分に向き合えないような気がする。昔は夜寝る前に書いていたが、ワイン一杯で酔っ払って寝てしまうことが多くなり、書けなくなった。昼、コンビニで外の景色を眺め、100円コーヒーを飲みながら書く。それで充分。贅沢は言わない。今の自分を見つめるのに丁度いい。鉛筆は温もりがあっていい。シャーペンでは寂しすぎる。消しゴムは必要だが。あと何年書けるだろうか?それが今自分の問題の様な気がしてならない。ボケとの戦い、年を取ると、いつ意識が無くなりそのまま別の世界に行ってしまうかわからない。書くことがなくなることも怖い。何もすることが無くなれば書けなくなる。主体的に物事に取り組むから書ける意欲が無くなったとき筆は折らなければならない。その時は遅かれ早かれ来るものだろう。その時が来るまで日記帳を片時も離したくないと思っている。

終戦の日に寄せて

今日8月15日は終戦の日。今は亡き父とテレビで夏の甲子園を見ていると急にサイレンが球場に鳴り響く。正午。選手が試合を止め、帽子を取り、頭を下げ、直立不動で黙祷を捧げる。合わせて応援も放送も何もかも止められ、球場全体が数分間静寂に包まれる。父に言われ、家族全員一緒にテレビに向かい、直立不動になり頭を下げ、黙祷を捧げる。日本独特のけたたましい応援合戦の異常な雰囲気がガラッと変わる一瞬の時だった。庭のクマゼミの声と扇風機の音が急に大きくなる。これが私にとっての終戦の日だった。高校野球と戦争、そして終戦が持つ意味合いは何なのか。長じてくると終戦の日とは何だったのか疑念を持つようになる。終戦は日本がまず降伏を宣言した日なのか?終戦を一方的にできるのか?と言うことだった。一方的な降伏はそう簡単に許されるのかと言う疑念もあった。終戦の日とは玉音放送が流れた日に過ぎない。しかし高校球児にとって何の意味があるのか?

実際米英中ソによるポツダム宣言の受託を海外に向け宣言したのはは8月10日である。5日前にはもう既に海外に対して無条件降伏を告げている。一方ソ連からは中立条約の破棄と宣戦布告をその前日に受けている。最早ソ連は止まらない。これはポツダム宣言履行によるものだ。日本の敗戦は既に既定路線に入っており、時間の問題だった。5月にナチスが敗れ、6月のソ連への敗戦仲介要請は徒労に終わった。尤もこの前の年にサイパンを抑えられ制空権を米国に握られた時点で最早敗戦が濃厚であったのは軍部も承知していたのではないか。将に四面楚歌の状態だった。そこに原爆投下。寝耳に水。国体護持しか為政者に頭になかったはずだ。いつ白旗を上げるか。日清、日露と日本は常に引き際を念頭にして戦っている。けして両国に勝ったわけではない。全面戦争は避けていた。日本には局地戦の妙しかない。真珠湾攻撃は窮鼠猫を噛む、ソ連への和平交渉は手負いの熊に命乞いをするようなものだった。真綿で首を絞められるように全土への空襲と艦砲射撃の前に押し黙るより仕方なかった。8月15日は国民への敗戦告知の日であり、戦争はけして終わっていなかった。ソ連の攻撃は続いていた。終戦の締結は9月2日まで待たなければならなかった。終戦の日の意味は対外的ではない、若人を特攻と言う死の世界に送り込むことを止めさせた日なのだ。

太平洋戦争の是非が問われるのは、神風特攻隊を生み出したことだ。失われたのは年端もいかない若い命だ。未成年の若者に死を恐れぬ自爆テロを強いたのは誰か。為政者は問われなければならない。若い命は戻らない。過ちを繰り返してはいけない。敗戦と言う事実を認め、戦後復興から過去を拭い去るのではなく、和平交渉がまだ済んでいない北朝鮮、ロシアとどう向き合うか日本は米軍の基地なのか植民地とした地域があるモンゴル、韓国、中国との関係。戦後76年経っても敗戦処理は残っている。黒い雨訴訟の判決が下りたばかりだ。まだ戦争は終わっていない。戦争に対する責任を負うことを逃れ、票取りのために靖国神社に行くのが政治家の仕事ではない。今こそきけわだつみの声を聞くべきだ。何故高校野球でサイレンが鳴るのか、失われた若人の声をサイレンが代弁している。忘れてはいけない。失われた若人の声だ


人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、
ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐ろしき哉、浅ましき哉
人間よ、猿の親類よ。