

東京では蕎麦汁で饂飩を食べ、大阪では饂飩出汁で蕎麦を食う。どちらも旨い訳ない。
蕎麦は江戸、関西は饂飩。上方落語の「時饂飩」が東京では「時蕎麦」。江戸蕎麦は江戸人の粋。しかし、江戸の昔は蕎麦ではなく饂飩。



うどんvsそば、2021年、地域別にどちらの店が多いか比べた市場地図がある。一見して、愛知と滋賀を境に、饂飩店が多いのが西、蕎麦は東と明確に分かれている。市場があるから店がある理論。大阪はほぼ饂飩だが、東京は蕎麦に特化している訳ではない。山梨、埼玉、群馬、更に東京の一部は饂飩。蕎麦と饂飩を西と東で簡単に切り離すことができない。一方、四国の愛媛と香川は饂飩、長野が蕎麦に特化している。ここに寧ろ蕎麦と饂飩の市場を分ける理由そしてルーツがある。食文化は地域の育んだ歴史の変遷の中で醸造され熟成される。蕎麦には蕎麦汁、饂飩には饂飩出汁がセットになる。蕎麦の店は蕎麦汁、饂飩の店は出汁。蕎麦の店で饂飩と言われれば、蕎麦汁を、饂飩の店は饂飩出汁を出すしかない。東京だけでなく、蕎麦汁を饂飩に提供する店は東で圧倒的に多く、逆に大阪だけでなく、西で蕎麦に饂飩の出汁を提供する理由が分かる。蕎麦汁と饂飩出汁の違いこそが東と西が作り上げた食文化。お互い対抗しているかの如きだが、実際は深く交錯し、江戸の華として完成した。今に通じる美味を追求した世界に誇る食文化を生み出した。

蕎麦は言わずもがな、蕎麦切りを指す。蕎麦自体は元々お粥や蕎麦掻きとして食べていた。縄文時代に中国雲南の地から朝鮮経由で渡ってきた。島根県飯石郡頓原町から1万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では9,300年前、更に北海道でも5,000年前の花粉が出ている。饂飩の元となる小麦は4世紀にやはり朝鮮半島経由で日本に伝来した。小麦は蕎麦に比べ新参者なことが分かる。しかし、もはや小麦は米に次ぐ第二の地位を得ている。饂飩、ラーメン、パン全て小麦からだ。中国語でも蕎麦は同じ漢字、荒地でもすぐ大きく育つ麦とされていた。ただ雑穀扱い。粟や稗と同じ。石臼が普及していなかった日本でもこの長い歴史にも拘らず、メジャーな食材にはなれなかった。数千年の時を超えて、メジャーへの道、蕎麦切りが誕生する。近世、戦国の世、江戸から遠く離れた木曽の定勝寺文書に記される。天正2年(1574)、武田信玄の時代だ。その頃はつなぎはなく、今で言う、十割蕎麦。蕎麦のつなぎを朝鮮の僧、元珍が奈良の東大寺に伝えたのは寛永年間(1624~1644)。朝鮮において冷麺が初めて書物に記されたのが1643年、朝鮮王朝の時代、張維の渓谷集において。冷麺は蕎麦粉を澱粉や小麦粉をつなぎに使う。江戸まで蕎麦のつなぎを伝えたのは正に朝鮮通信使しか想像できない。何せ入鉄砲と出女の時代、誰が掻い潜って江戸へ蕎麦のつなぎを伝えたか、彼らは朝鮮より蕎麦粉とつなぎの小麦粉を持ってきて旅先で練って茹でて冷麺として食していた。足らなくなったら、現地調達していた。日本には蕎麦も小麦も既にあった。日本人の旅先案内人は作り方を教えてもらったに違いない。



つなぎのない蕎麦は香りはいいが、打つのが難しい。生一本では世渡りが出来ない。生蕎麦の難しさを物語っている。生蕎麦は高く付く。生蕎麦がいつの間にか幾楚者に代えられた理由が分かりそうだ。読めますか?


つなぎのない蕎麦は茹でず、蒸して食べる。せいろ(蒸籠)に今も蕎麦をのせて食べるのはこの痕跡。蒸すと柔らかくなり喉越しが生まれる。その頃、蕎麦汁も出汁もない、味噌ダレ。蒸した十割蕎麦を味噌ダレの浸して食べていたから、江戸の粋から程遠い。アッサリ、ツルツルッとはいかない。江戸の後期まで蕎麦は江戸で受け入れられず、饂飩の世界だったと言う。ただ、嬉々として食す人々がいた。それは蕎麦切り発祥の地、信濃からの出稼ぎ労働者であった。その時代、晩秋に群れて江戸に下ってくることから椋鳥と呼ばれ、川柳や狂歌では、図体も大きく、食事の量も半端ではなかったので、”大飯喰らい””でくのぼう”の象徴とされた。ただ、彼らは蕎麦の旨さを知っていた。信濃の荒れた土地でも大きく育つ蕎麦は宝だった。彼らは江戸に蕎麦の文化をつなぐ伝道師となった。江戸前三大蕎麦の一つ更科は彼らの誇り。さらに時代は下って、つけ麺を生み出したのが、長野県出身の東池袋の誇り今は亡き大勝軒の山岸一雄氏だ。麺はもりが美味いのを信濃者は知っている。そば湯を飲む風習はまず信州で始まり、江戸時代中期の寛延(1748~51)の頃、江戸に広まったとされる。つまり信濃者は蕎麦の楽しみ方を知っていた。長野が今も蕎麦の文化を守っていることが分かる。秋、蓼科には蕎麦の花が咲き誇る。
そもそも味噌ダレは饂飩の汁。蕎麦の文化は元々江戸にはなかった。武蔵は饂飩の文化。味噌で饂飩。これは今も甲州名物ほうとうに残っている。ほうとうは中国語の餺飥(ボートゥオ)から来ている。饂飩の元となる小麦粉で作った食べ物の意。奈良時代の楊氏漢語抄に既に記載されている。中国においては、南宋の朱翌が猗覺寮雜記に北方の人々は餺飥という麺を食すと記している。宋から禅宗の精進料理と共に13世紀に餺飥は日本にやってきたと考えるのが自然。この餺飥はなんと!中華麺の元になった。元の時代(1271〜1368)に鹹水を使い餺飥を作ることによって中華麺が生まれる。日本には鹹水がない。そして饂飩が生まれる。中国の水餃子の餛飩(フントゥン)が転じた。中国では饂飩も餛飩も一緒のもの。麺状になったのは日本の南北朝以降であり、それまでは今の雲呑(ワンタン)同様、餡の入った水餃子として食していたからだ。今や雲呑は別物になっている。江戸では饂飩をうんとんとも書いていたが、この名残。饂飩が記されているのは応永年間(1394~1428)に成立した庭訓往来になる。饂飩の成立が中国から禅宗と共に伝わった精進料理の成立と深く関わっていることが分かる。私は中国に駐在していた時、餛飩をよく食していた。スープは日本の出汁と一緒で美味い。海苔とネギが入っていて、すっきりさっぱりの味わい。中国には脂ぎったスープが多いが、これは全く違う。海鮮風味の旨みを味わうことができる。日本を懐かしんだが、寧ろこちらが元だったのだが。


蕎麦のつなぎは小麦粉。言わば饂飩が蕎麦にツルツルっと粋な食べ方に繋げた。更に、つなぎがあれば饂飩打ちの要領で蕎麦は誰でも打てる。早く、安く上がる。小麦粉のつなぎを入れて打つようになるのは18世紀初頭、そして二八そばが登場するのは享保年間(1716~36)夜鷹そばが生まれ、江戸市中でそば屋の数が増えるのは、寛延(1748~51)から安永(1772~81)にかけて、夜鷹そばに対抗し風鈴そばも現れる。最盛期、江戸市中だけでも蕎麦屋は数千軒あったと言われる。小麦粉によって蕎麦切りは大衆のものになった。饂飩があって今の蕎麦を生んだ。





2020年の日本人のゲノム解析を見るとなんと近畿・四国に漢民族の渡来人の遺伝子が多い。彼らこそ小麦文化の担い手。1万年前、縄文人は粟を主食にし、稗、稷、蕎麦も食べていた。要は雑穀が中心だった。3千年前、稲作が北東アジア人の移住と共に入ってきて弥生時代へと移っていく。1700年前、より広範囲な東アジア人が大和王権と共に小麦を中心に新たな食文化を日本に築いていった。古墳時代。小麦伝来と大和王権の設立が空白の150年と呼んでいる時期に重なる。不思議なことに縄文から弥生、そして古墳時代と移っていても大きな内戦の痕跡が残っていない。民族間の軋轢、紛争は起きず、最後に大和王権が鎮座する。内戦の記録は全て焼かれたとしても殺された人々の怨念、記憶、傷跡は残るはずだ。古事記では、伊弉諾、伊奘冉は淡路島から四国、隠岐九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で産んでいく。出雲、九州そして本州にも既に王権があり、四国から政権を樹立するのが道理。支えていたのは渡来人。驚いたことに今の日本人の遺伝子において渡来人由来が既に縄文、弥生人を凌駕している研究結果が出ている。関西や四国の言葉のアクセントも渡来人文化圏とほぼ重なっている。他の地域にはこのアクセントがない。正に関西弁の本筋。私が中国に駐在していた時、関西弁のイントネーションが中国では受け入れられることが羨ましかったことを思い出す。渡来人には溜池を作り、小麦を作る技術があった。これが一番の後ろ盾であった。更にこれが饂飩伝来につながっていく。饂飩の文化圏と渡来人の文化圏に繋がっていることに驚かされる。正に四国の愛媛、香川が饂飩県になっている訳がわかる。小麦が表舞台に伸し上げたのは何と饂飩、蕎麦の出現によるもので、それまでは日本人は即食べられる大麦を食していた。今の我々が麺を欲する理由が、縄文でも弥生でもない古墳時代に渡来した東アジア人のDNAにあることがこれで分かる。


小麦は更に蕎麦汁や出汁に繋がっていく。蕎麦汁あっての蕎麦であり、出汁あっての饂飩。蕎麦汁は濃口醤油と白味醂、そして鰹節が基本。まず鰹節は安房に1781年に伝播され、白味醂は1804年に流山で生まれ、濃口醤油は文化・文政年間(1804‐30)に銚子にて完成される。全て黒潮の流れ来る千葉県に当たる。濃口醤油が従来の醤油と違うのは小麦を麹として使っていることだ。熟成度、甘み、香りに大きな違いを生んでいる。つまり小麦が蕎麦を美味くした。一方、饂飩の出汁は昆布、いりこ(煮干し)、淡口醤油。昆布は17世紀の江戸時代、北海道から北前船で運ばれた。いりこは片口鰯で瀬戸内海で獲れた。淡口醤油は1666年兵庫瀧野で濃口醤油から生まれる。正に小麦と麦麹の産物になる。関西の饂飩の出汁は蕎麦汁より早く完成している。関西の饂飩の出汁は飲むためのもので、東の蕎麦汁のように麺を着けて味わうものではない。私が三重に住んでいた時、饂飩だけでない、蕎麦を出汁で頂くと美味いことがわかった。蕎麦の味わい方がまず違う。もり蕎麦は喉で食べるものだが、出汁で食す蕎麦は風味で食すもので、蕎麦だけでなく出汁をも楽しむものになる。これもまた乙なもの。
蕎麦自体は粥や蕎麦掻きとして1万年前の縄文時代から食べられてきた。饂飩は、4世紀に渡来人が持ってきた小麦から麺となるまで10世紀かかっている。蕎麦が麺になるまでは更に200年待たなくてはならない。即ち、蕎麦から蕎麦切りを生むまで約9,550年掛かっている。饂飩は17世紀に出汁が生まれ、西の饂飩文化が完成される。蕎麦は18世紀につなぎの小麦粉を使い二八蕎麦として、爆発的人気を得ることとなる。汁は出汁の効いた味噌だれだった。濃口醤油、白味醂が完成され、蕎麦汁が完成するのは19世紀になる。蕎麦が麺として一本立ちするのにつなぎ、出汁を含め、饂飩の力が必要だった。蕎麦は長い年月をかけやっとメジャーになった。9,800年掛かった。



うどんvsそばvsラーメンの2021年市場地図がまた面白い。ラーメンは日本においてメジャーになってまだ50年そこそこに過ぎないが、既に饂飩、蕎麦市場を凌駕している。特に東北、北海道、九州、中国地方と市場への侵食が激しい。饂飩:17,999件、蕎麦:18,978件、ラーメン:24,370件、これが店の数比較になる。短期間で市場を席巻しているには幾つか理由がある。1つは、ラーメンの饂飩や蕎麦にない魅力だ。まず汁の種類、醤油、味噌、塩から選べ。更に出汁の豊富さ。豚骨、鶏がら、煮干し。具も野菜、チャーシュー、味付き卵、ボリューム感で饂飩、蕎麦を圧倒する。東北においてもはや饂飩店をラーメン屋が食っている理由はここにあるのではないか。2つ目は元来、日本人の遺伝子の中に外来のものを自然に取り入れる性質があるということだろう。考えてみれば、天ぷら、カツ、カレー、いつの間にか日本の料理に組み込んでいる。然ればラーメンは饂飩や蕎麦に置き換わるのであろうか、それはまずありえない。まず蕎麦、これは雑穀としての強みにある。”simple is best” 立ち食い蕎麦というコスパの良さもあるが、あっさりしていて胃もたれを起こさない健康食としての魅力もある。更に日本酒や焼酎との相性だ。江戸時代、江戸の街で蕎麦が流行ったのは白米中心による脚気の流行で蕎麦はその防止、しかも蕎麦と酒はセットだったようだ。食の歴史は贖えない。


面白いデータがある。バブルが弾けて以来、日本は景気の低迷に苦しみ、外食産業も1990年代末以降ほぼ低迷している。その中、うどんそば店だけは安定しながら、若干伸びている。これはコスパ重視に動いたと同時に、我々自身が原点回帰に向かっている。東日本大震災、コロナ禍を経て、更に我々は自らの身の丈に合った食生活に戻ろうとしている。江戸時代、白米中心の食生活で脚気に苦しみ蕎麦に回帰したように贅沢な食生活からやはり質素な蕎麦や饂飩に戻るべきと思い始めている。蕎麦は1万年、饂飩は1600年の歴史、先祖の食を作り上げた道を振り返り、大切にしなければならないと理解する時が来たことに間違いはない。

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