窓辺にミューズを

窓は光の通り道。日が昇り、朝が訪れたことも日が暮れ、闇が帳を下ろすことも教える。窓は風の通り道、春は微風を、夏は凪を、秋は涼し風を、冬は凍てつく空気を届ける。窓は景色が通う道、カーテンで縁取られ、風景を切り取る。鳥の鳴き声とその姿、四季により移り変わる木々の緑、色とりどりの花とその香り、空の色、流れる雲、行き交う人の声、子供の燥ぐ声、通り過ぎる猫、それが窓と一体化し一幅の絵となる。

4年前の師走、家族皆で晩餐の食卓を囲む中、ワインを片手に義父は天に召された。急性脳幹出血だった。呆気なく死は訪れた。半年後に卆寿を迎える矢先だった。18年前に妻を急性白血病で失い、一人になって旧宅を壊し、既に庭にあった我が家と繋げる新しい家を建てた。妻を亡くした寂しさからか、酒の量が増え、ブランディ片手に文章を書く日々だった。何より孫たちを愛した義父だった。今でも憶えている、 彼女たち の帰りを待つ姿、居間のソファ―に深々と座り、窓越しに庭の門から入って来るのを待っていた。暗くなるとカーテンを開け、明かりを庭の通り道に照らした。彼女たちのために。西に門、南と西に庭が広がっている、足元が既に覚束なく、引きこもりがちになっていた。視界は既に狭くなっていた。窓は唯一外界と義父を繋ぐ媒体だった。窓を通して庭を愛で、四季の移ろいを感じていた。義父が幸せだったのはこの愛した孫たちと最後の晩餐を楽しめたことかもしれない。義父は孫たちにとっては父親も同然。私の余りにも長き不在の代償、13年余り、やっと遠く家から離れた会社を辞め帰ってきたその日にお役御免でホッとしたのか、義父は永遠の眠りに就いた。

義父の家は建って20年以上。水色の外壁で、窓は広く、1階と2階は吹き抜け。1階は和室と居間と納戸、2階は書斎と書庫、洗面所、一人暮らしには最適だ。終の棲家に相応しい。何も言い残さず去っていった義父の遺品、書物、衣服、調度品の整理をしながら、自身の残された時間を見つめている自分に気が着いた。いつの間にか自身のものの整理ともなっていた。私もそれほど残された時間は長くはないだろう。この家で最期を迎えたい、そんな家にしたい。整理に3年かかった。人生最後に余計なものは排した。Simple is best. 居間には4つの籐椅子と小さい丸テーブルのみ。一方、和室は賑やかになった。亡き家族の大事にしていたものを全て並べた。嘗て亡き実父の家の装飾品もある。思い出が皆鎮座している。この思い出は家族でなければ分からない。和室を鎮魂の舞台とした。納戸にも最早使われないキッチンにも飾る。絵を愛した義父、人形を愛した義母、仏像を愛した父、全てをできる限り残した。思い出に浸るのは残されたものの特権だ。

目が覚める。まだ日は昇っていない。小鳥の声が夜明けを告げている。四十雀だ。この家周辺をテリトリーにしている。吹き抜けの2階の窓際に寝ていると鳥を近くに感じる。北窓に日が差し込んでくると家中のカーテンを開ける。キッチンで白湯を沸かし、昨晩の残りのコーヒーを温める。リクライニングチェアに体を沈め先ず体を暖める。インターネットでバロック音楽を聞きながら、朝が訪れるのを待つ。自分だけの時間を楽しむ。隠居して分かる自分との対話に風景は欠かせない。心を和ませる風景が欲しい。

義父のように窓を見ている。一人でいると自然と窓を見る。今は体が動くが何れ動かなくなるだろう、その時窓の外の風景はどうなっているのだろうか?自分と外界を繋ぐのは窓だ。いつも朝日が射す北の窓に義父が和室に飾っていた不釣り合いだったヴィーナスの裸像を飾ってみた。朝日を浴びて白い肌が生き生きとしてきた。ギリシャで買ったグラスウェアを組み合わせた。西側の強い日差しを受ける窓には義母の趣味で作ったステンドグラスを飾る。夕日に映えて美しい、中国でもらったグルジアのワインボトルを飾り、窓際を楽しくした。ベッドの脇、西側の出窓にはサンピエトロ大聖堂で見たミケランジェロの聖マリアが十字架から降ろされたイエスキリストを抱く『ピエタ』を飾った。憐憫である。私も死して聖マリアに抱かれたいと思っている。キッチンの東の出窓には、ルーヴル美術館の『ダリュの階段踊り場』に置かれているギリシャ彫刻のサモトラケのニケを飾った。勝利の女神だ。死ぬまでに一度 ルーヴル美術館 に行きたいがためである。祈りを込めた。二階の書庫の窓にはアルフォンス・ミュシャの『ラ・ナチュール』を飾った。アールヌーヴォへの憧れからである。像の頭部のグラスの飾りが朝日に照り輝くことを気に入っている。

後何年この窓辺のミューズを眺めることができるのであろうか?義父や義母のようにあっと言う間に神が迎えに来られれば行かざるを得ない。その時が明日なのかもしれない、明後日かもしれない。この世との別れはいつなのか分かるものではない。心臓は勝手に動いているのだから勝手に止まるであろう。後悔なきように慈しむようにミューズを眺め時を過ごしたい。窓越しに孫たちの帰りを待つ実父の姿に自分をいつしかラップさせるようになった。命の蝋燭はそれほど持つものではない。ただ、慈しむものの姿を瞳に焼き付けることはこの世を去るときに微笑みに一粒の泪として目からこぼれ、地に流れ落ちることだろう。

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東京大空襲再び

東京大空襲の焼失地域を示した「帝都近傍図」(1945年、日本地図株式会社製作)

平和憲法が今危うい。中国初め東アジアの軍備増強の流れが止まらない。守るために戦争を。いつの時代も変わらない国民感情。為政者は更に煽ってくる。外圧は内政の危機を誤魔化す道具になる。かつて太平洋戦争も連合国に煽られ、窮鼠猫を噛む。真珠湾を攻撃し、敗北への道を辿った。私たちにとって戦争は何だったのか?戦後76年、忘却の彼方に消え去った記憶。無理やり消し去さざるを得なかった過去。東京大空襲による死者は東日本大震災や関東大震災より多かった。忘れていけないのは空襲は天災ではない、人が人を殺したのだ。1945年3月10日たった2時間余りの空爆で失われた命は11万5千人以上。関東大震災の10万5千人、東日本大震災の2万2200人を超える。何故これだけの人々が一気に亡くなってしまったのか、逃げなかったからだ。当時の防空法に従い米軍のB29から落とされた33万発の焼夷弾による消すに消せない火に銃後を守る人々は立ち向かった。戦争とは政治の道具であることも忘れてはならない。

戦争は国の為政者の勝利への確信に基づいて行われなければならない。戦争の名の下、軍人は何人殺しても構わない一方、民衆は何人殺されても文句は言えない。「欲しがりません。勝つまでは」「本土決戦 1億総玉砕」 。しかし勝てば官軍、負ければ賊軍。この戦争で日本は一部を残し焦土と化した。320万人が亡くなっている。 不思議なことに為政者は国民に対して敗戦の責を負うことはなかった。寧ろ戦後にっくき敵であった米国に擦り寄り、組み込まれることにより自ら生き残りを図った、戦勝国が敗戦国を裁けるのか?でよくやり玉にあげられる東京裁判はあくまでも連合国向けであり、寧ろ米国の目的は日本人に戦争責任者を裁く機会を与えたくなかった。米軍が使えると判断した軍人や政治家は罪に問わなく米軍支配への絶対的協力者に寝返らせた。これが今も続く戦後の構図である。負け犬のしっぽ振りが今も続いている。虎の威を借る狐。国民に謝らない為政者は他の国にも謝らない。米国より弱い国には強気になる。米国のふんどし担ぎに成り下がった。「一億総懺悔」為政者の詭弁である。為政者のための戦後保証に過ぎない

東京はこの大空襲において実際壊滅してない。皇居も国会議事堂も丸の内、日本橋日銀、財閥の本社や住居、更に主要な軍の施設、市ヶ谷本部、羽田空港、NHKさえも空爆を受けていない。米軍の戦後を見据えた空爆であった。為政者への戦後保証でもあった。米軍は日本を太平洋の新たな基地とする。対峙するソ連、中国、朝鮮への橋頭堡とする。広島長崎の原爆投下も対ソ連を踏まえたもの。ソ連に日本を獲られないための先手を打つ。戦後日本を自国の基地化するため。日本の為政者も軍も財閥もマスメディアも従った。敗戦の責任逃れをし、生き残りを図るため黙った。彼らも既に戦後を見据えていた。被害を被ったのは何も知らない一般市民である。国を信じて戦い、国のために若者は特攻兵として散っていった彼らが浮かばれることは永久に来ない。戦争とは得てしてこういうものなのかもしれない。国民の犠牲は政治につきもの。国体を最後は守るとは如何に詭弁か。空爆の前に米軍は逃げなさいと言うビラをご丁寧にばらまいている。軍部は逃げるなと国民に指示している。どういうことか?制空権を握ることの重要性を既に日本は中国戦で知っている。逆に米国に制空権を握られたことは敗戦が既に近いことを知っていた。ソ連に救いを求めたことを米軍は知っていた。ソ連と日本を切り離すためにも原爆が必要だった。北方領土問題は永遠に残す必要があった。戦後は日本の飢餓作戦を展開し、米軍の食糧供給戦略を展開させた。食料を戦闘機が空から民衆にばらまき、ジープから飢える子供たちにばらまいた。そしてマスメディアを握った。米国は平和の使者、民主主義は米国にあると繰り返し流させた。東京大空襲を闇に葬らせた。

米軍の首都制圧は76年たっても続いている。悲しいかな、米軍の飛行機やヘリコプターは好き放題に東京上空を飛んでいる。日本の民間機は米軍の管制区域を避け、遥か上空や、遠回りをして羽田空港に入らざるを得ない。文句は言えないのだ。北方領土、竹島、尖閣列島の前に本土の米軍所有地を返せ、東京の空を返せと言うべきなのではないか?領土問題は日本の米国支配を正当化する詭弁。沖縄の米軍基地移設反対の声を寧ろ抑え込もうとしている東京は最早米軍の作戦本部なのだ。唯一の戦争被爆国が国連決議の核兵器禁止条約に批准できないでいる。当に米国占領下でぐうの音も出ない。日本を敗北に導いた軍部は米国の手先となり、基地を共用に導いた。米軍は「オトモダチ」である。戦後、日本の共産化を防ぐことに米国は躍起となっていた。朝戦争の敗北更にベトナム戦争の敗北は日本を米国の防護壁にせざるを得なかった。首都圏は米国の空でもある。

戦後東京大空襲の爪痕はほぼ米軍の指示の下為政者の敗戦責任を有耶無耶にするため消された。唯一確認できるのは東京多摩の東大和にある。是非見に来て欲しい。米軍の凄まじい空襲の跡を。 都立東大和南公園の旧日立航空機立川工場の変電所である。何とこの変電所は平成まで使われた。1993年まで。昨年夏、私は初めて見に行った。よくぞ残っていたものだ。これぞ、米軍への都民の怨念に違いない無能な日本の為政者への嫌味である。変電所の上空を横田基地から飛び立つ米軍の飛行機が耳を劈く騒音を上げ飛んでいく。立川の国営昭和記念公園は美しい公園だ。昭和天皇の50才を記念して開設されたとされるが、違う。砂川闘争で米軍を追い出した跡を公園としたのだ。戦後初めて米軍に農民が立ち向かい、自らの力で勝ち取ったものだ。国営昭和記念公園とはよくも名付けたものだ。多摩の人々は少なくとも明治以降より江戸時代を大事にしている。米軍の福生の占領状態が続く限り、この傾向は変わらない。

もし米国と中国が戦争となると東京は将に米軍の最前線基地として指揮展開を行う。中国は報復で東京の米軍基地を襲う。当に東京大空襲は再現する。米国は戦争で日本に勝って以来勝っていない。一緒に撃沈を覚悟せざるを得ない。日本の為政者も今度はどうしようもないであろう。日本の外交は常に米国追従であり、自ら動くことは稀だ。これは日本が米軍の基地であることを証明している。憲法を改正するとしてもどう米軍と折り合いをつけるのか?如何に戦争を回避するか、これは会話以外の何物でもない。隣国の韓国や北朝鮮とさえ会話のできない今の為政者に期待することは愚問となる

引用記事:

記者座談会 語れなかった東京大空襲の真実-首都圏制圧のための大虐殺 130回で25万人殺傷
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20210310-00226674 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%97%A5%E7%AB%8B%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E5%A4%89%E9%9B%BB%E6%89%80

願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃

人は老いを迎え、死の遠くないことを感じ、人生最後に最良の姿を求める。満開の桜の下、甘い香りに包まれ釈迦の涅槃の如く死を迎えたい。西行法師はこの句の10年後、73才で望み通り薨れた。私も斯くありなん。仏が入滅された如月の望月は、旧暦の2月中頃、今であれば3月中旬から下旬。この花は染井吉野ではなく山桜。今以上に木々は低く、花は近く、香り高かった。花は美しいばかりではない。香りたち、ハラハラと数千枚の花びらを舞い落とす。その下で眠るように最後を迎える。自然に流れ落ちる泪に一片の花びらが着く。静かに笑いを浮かべた頬を春風が撫でていく。空は何処までも青く、地の緑はまだ浅い。何と素晴らしいことか。何と芳しいことか。人生最後の晴れ舞台に違いない。人は死に向かう時、何もいらない。ただ、花のみあれば良い。他に何があれば良いと言うのか。

3月から4月にかけ、私は花を求めて、都内を自転車で走り回った。昨年は3月一杯まで仕事で満開の桜を満喫することができなかった。今年はこの年になって初めて様々な桜の名所を訪ねることができた。平日も動け、しかも自転車で、人込みは避けられる。私は生きる幸せを初めて感じることができた。花を愛で、花の下で自分の時間を過ごせ。桜吹雪を目一杯浴びることができた。芳しい香りも楽しめた、そして何より花の移ろいに接することができた。桜はカンザクラに始まる、更に、エドヒガン、ヤマザクラ、そしてソメイヨシノ、締めは八重桜が待っている。私はカメラになり、風景を切り取る。桜の下、子供たちは無心に遊び、老人は春を慈しみ、若人は我が世の春を謳歌し、家族は今この時を永遠に想う。

花が何故桜なのか?奈良時代以前は花と言えば梅だった。これは「花」は中国から来た言葉で日本にはなかった。梅は花の代名詞として遣唐使が持ってきた。韓国でも花はフワと言う。中国から来ているからだろう。日本では花は全く違うハナである。このハナは韓国語の「一」と言う意味で、花を意味するものではない。鼻もハナ、「ハナから」のハナではないかと言われている。花は日本にはやはりない言葉であったことが分かる。しかし、花として日本で愛でるには身近で美しいものが相応しかった。日本には元々様々な桜が咲いていた。原産の山桜、中国を先祖とするカラミザクラ、台湾から寒緋桜、島々からオオシマザクラ、北方のタカネザクラ、全てが混じり合い、日本の春を彩っていた。平安朝に花は桜となっていった。サクラは純粋な日本の言葉だ。今は英語でもSakuraと言う。因みに、ジンチョウゲ、シャクナゲ、ムクゲのゲは韓国語の花を意味する「コッ」が変化したものとされる。桜は韓国語でポッコッ。また、リンゴ、イチゴ、マンゴは中国語の果(グオ)からきている。

中国では桜の花見がが流行っていると聞く。私が上海にいた20年前は人の集まりを禁止しており、花見なぞ考えも及ばなかった。外に集まるのは真夏の夜の夕涼みのみ。暑いから仕方ない。つくづく平和になったと思う。監視の目は警察からカメラになったのかもしれないが。上海の桜は背が低く、八重、香芳しく、ピンクが強い。中国の桜はサクランボをメインにしたもので、食用が基本。見るよりは食す、中国らしい。桜の漢字は勿論中国語から。インと発音する。全く違う、サクラは日本では花のみを指すが、中国では桜花まで言わなければ通じない。そういえばゆりも純粋日本語、漢字の百合は中国語から、意味はユリ根の何枚も合わさった形から、中華料理に欠かせない。日本語のユリは花が大きく、揺れているからという。

中国・唐の詩人于武陵が詠った詩「勧酒」をを井伏鱒二が翻訳した「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」私はこの詩を桜に捧げた詩に思えてならない。実際そうではないだろうが、パッと咲いてパッと散る。春に2日と晴れなし。嵐と共に桜は潔く散っていく。これぞ桜の本領だ。儚い人生、我が人生に重ね、覚悟を決める。庭に桜を植える準備を始めた。居間から真正面に植える。春が来たら会える。また会えたら杯を重ねる。最後は潔く死を迎えたい。我が人生悔いはない、西行法師の如く。

S君

S君は転校生だった。確か小学5年の時だった。もう半世紀も前のことだ。忘れて当たり前。北関東の田舎の小学校、転校生は目立つ。異文化を持ってくる。東京から来た或る転校生は厳しい寒さの中で半ズボンだった。背が高く足は長く、髪型もテレビで見たマッシュルームカット。話し方もテレビと同じ。都会の子。僕らは継ぎ接ぎだらけの長ズボン。S君も一緒だったけど何処か違っていた。また何処からどうして引っ越ししてきたのか話すことはなかった。彼が住んでいたのは4階建ての小さな新築アパート、崖下の新開地。おたまじゃくしを取りに行っていたので憶えている。妙に大人びた子供。力の源はニンニク、朝からプンプンだった。彼の肉体的な卓越さ、背は大きくはないが、内に秘めた”力”、しかも寡黙だった。喧嘩はしないが、睨みが鋭く、相手はたじろいた。気は短いが、怒ると黙るタイプだった。

田舎なのでほぼ全員がそのまま同じ地域の中学校に上がる。あの頃は有無を言わさず坊主。彼もそうた。私と一緒のサッカー部。田舎の小さな学校だったので陸上部なんてない。所属する運動部から選抜され大会に出ていた。彼は走れば一番、砲丸投げも距離が違う、すぐ学校の代表になった。他校に伍して勝てるのは彼だけだった。しかし不思議だったのは県大会に出ることがなかった。彼は不平をこぼしたことがない。鮮明に憶えている。中3の時、国体があり、サッカーの会場はこの田舎が舞台となった。その時天皇陛下を初めて見た。我々が国旗掲揚を担ったが、その脇に鎮座。その時、S君は既に運動部には背を向けていた。彼は感情を外に出さないが明らかに田舎の体質を嫌っていた。体罰や虐めもあった。不合理な精神論に基づいた練習、びんたやケツバット、彼は勉学にシフトしていた。成績は当初中ぐらいだったのが高校受験が近づくにつれ、彼は成績をぐんぐん上げていった。彼は全ての高校に受かった。いつのまにか頭脳まで先に行っていた。私はと言うとサッカー部を補欠で終わり、高校は第一、第二志望にも落ち、近くの私立高校にかろうじて受かり通うことになった。彼のその後の消息を聞くことはなかった。忘れていた。彼を理解するには余りにも私は田舎に染まり、幼なすぎた。彼に親友がいた記憶はない。いつも一人だった。

高校ではある事件があった。誘拐だった。同学年の友人の妹が誘拐され、悲しい結末をむかえることとなった。犯人は親戚だった。友人の父親は地域では有名な実業家であり、在日朝鮮人だった。犯人は日本人で妬みから犯行を計画したようだ。悲惨な事件の裏に醜い僻み、妬みがあった。友人は限られた友人としか話すことのない生徒だった。クラスが違うが、クリスチャン系のこじんまりした学校だったので、皆の中で分け隔てを感じることはなかった。何故このような事件が起きたのか、学校では教えてくれない闇をその時感じた。

大学に入り、初めて都会暮らしとなった。田舎にはない人種のルツボ。様々な人々が集まっている。義務教育を越えた現実の世界が見えるようになる。歴史の表と裏の世界。当たり前が何故当たり前なのか考え始めた。日本は何故、高度経済成長を遂げられたのか。何故平和なのか。一方、隣国、韓国では軍政を12年に渡り布いていた朴正熙大統領が暗殺され、春が来るかと思っていたところ全斗煥司令官によって軍政に戻る。そのような中、学生による光州事件が起きる。1980年5月、41年前。日本の学生の中で連帯しようと言う流れがあった。あの頃の韓国は今の北朝鮮以上に軍事独裁だったと記憶している。金大中氏が朴大統領により日本で拉致され、今度は死刑にされようとしていた。そんな時代であった。民主化へのコミットは日本側から多くの声があったことを記さなければならない。今の従軍慰安婦の問題の提起もこの時代の日本からだ。韓国の国民には自由に発言する機会は与えられていなかった。私たち学生の中で今の日本があるのは、韓国の犠牲によるものと言うより強い意志があった。韓国大使館へ金大中氏の減刑を求めデモに参加した記憶がある。金大中氏は米国に逃れ、減刑され、この18年後に大統領になられた。民主化支援は日本からだった。

就職難だった。それでも何とかメーカーに就職ができた。韓国のことは忘れてしまった。入社して7年、世間はいつの間にかバブル経済に溺れるようになった。世間はゆるゆるの状態で、私の様な若輩でもお門違いな誘惑に嵌るようになっていた。韓国に遊びに行ったのもこのころだ。初めてだった。何故行ったのか?招待された。新宿歌舞伎町の飲み屋、たまたま入った韓国人の店だった。そこで金大中氏の話になり、デモに参加した話をした。是非韓国に来て欲しいと誘われた。名は忘れたが、日本語のうまい韓国人だった。ソウルの金浦空港で待つ。観光案内をしようとのことだった。韓国は全斗煥大統領が民主化の流れに抗しきれず、1988年に選挙が行われ、正に新時代の船出の頃だった。

1991年4月、もう30年前。私にとって初めてのアジアの海外がお隣り韓国だった。金浦空港はニンニクの匂いで迎えられる。軍政の残り香が随所に漂っていた。驚いたのはソウルでの真昼間の空襲警報だ。実際、訓練だとは言われてもビビる、地下道に逃げる訓練があった。戦闘機の離着陸が可能なように通りが広く、戦車が走った。北朝鮮との戦争状態は続いている。勿論今も。日本人は私一人、好奇の目で見られていた。大邱では昼間から通りで酒を勧められた。2つに割った瓢箪に白い濁り酒をなみなみと注ぎ、白いゴマをその上に捲いてくれた。美味い!どぶろくの発泡酒。2,3杯飲ませて頂いた。言葉は通じないが、嬉しかった。日本でマッコリが流行ったときこれかと知った。一番驚いたのはディスコで踊る女性の姿であった。独特の腰をくねらす踊り。笑ったが、世界で韓流のブームの片鱗をこの時見たと記憶している。慶州では仏国寺に案内された。この寺の石碑に豊臣秀吉の名があることに驚いた。この寺も豊臣秀吉に焼かれたとあった。約430年前である。教科書にある朝鮮出兵とはこのことで、単なる出兵ではない。加藤清正の虎退治のみではなかった。私はこの後、アジアを仕事で回ることになるが、教科書にはないアジアにおける日本の姿を随所で見ることになる。凄まじかった。

1998年に海外営業担当となった。その頃、韓国は最大の顧客であった。しかしアジア通貨危機以降雲行きがどうも怪しくなっていた。ライバルがドイツからやってきていた。どうやってきたのか?訪韓し、探るもつかめず、結局、海外に駐在するまで分からなかった。韓国国内の主な顧客に商品説明会に代理店と回る。驚かされたのが熱心な若いエンジニアの姿であった。私は日本語で説明すると理解している。しかし話すことはない。ただ聞いている。ハングル文字に翻訳された技術資料は少ない、皆、技術資料は日本語を勉強し、そのまま読んでいるそうだ。日本語だけではない、英文もまた、彼らの海外の技術を吸収するスピードは速い。彼らの激しさを垣間見ることができた。大田で労働争議を見たが、激しい、ピケを張りそこからシュプレヒコール、デモ、投石、恐ろしくて近寄れない。韓国の冬は寒い、-10℃極寒の中、北朝鮮との国境近く、戦車を見ながら冷めた肴をつまみに眞露を飲んだことが思い出される。ソウルからすぐのところに国境はある。わずか30km東京横浜間の距離に過ぎない。北朝鮮は韓国にとって一番近くて遠い国。

2002年に日韓ワールドカップが開催された。韓国の代理店の連中とユニフォームを交換し、お互いの国を応援することにした。日本ではユニフォームというと高い。裏生地が着いていて3000円位した。それを何着か送った。韓国から送ってきたのは1000円くらいのTシャツみたいなユニフォームだった。余りの違いに愕然とした。日韓関係は蜜月を迎えていた。冬ソナが流行り、日本からおばさんたちが挙って撮影現場を回るツアーがあった。韓国出張で、仁川空港であんなに日本人のおばさんたちを見たのはあの頃くらいでなかったのか。空港でバスに乗る前にたばこタイムと喫煙室に皆一斉に向かうのを呆気に取られてみていた。

私は2002年から上海に拠点を移した。韓国から指摘された価格のギャップを埋めるコスト削減のためだ。韓国の代理店のメンバーも大挙して上海にやってきた。観光バスをチャーターし、私も乗れと言う。何処へ?三・一独立宣言の後臨時政府をこの上海に初めて置いたという、その場所が残っていると言う。韓国人は上海に来た時必ず訪れるという。歴代大統領もまた。驚いたことにきちっと管理されて残っている。1919年4月から80年以上過ぎている。しかも日中戦争前である。新天地の近く。日本人は先ずいかない。上海の虹口には魯迅公園がある。その中に有料で入る梅園がある。そこもまた韓国人の訪れる場所だ。私は知らないで入った。何と韓国青年による爆弾テロの舞台であった。1932年上海事変の後、天長節をこの公園で祝ったという。白川陸軍大将は亡くなり、上海公使の重光葵は片足を失った。後1945年9月2日米国戦艦ミズーリ甲板にて降伏文書に調印をした日本の全権大使となる。大韓民国臨時政府は最終的に重慶まで逃げ延び終戦を迎えることとなる。26年間、三・一独立宣言を守ったということだろう。尚、独立宣言の起草は神田駿河台のYMCAであった。上海で爆弾テロをおこなったのは尹奉吉。独立運動の義士の一人として国立孝昌公園に祀られている。韓国が独立するために熾烈に日本と戦ったかと言うことを理解しなければならない。日本には他国から独立を勝ち取るという経験がないため理解できない。

中国に駐在した8年間、何故ドイツ製が日本製を凌駕してきたか、分かりつつあった。品質的に日本製に対抗できるのはドイツ製だ。しかしドイツは遠い、しかも規格が違う。中国の規格は米国の規格とロシアの規格を採用していた。台湾と韓国は日本の規格を採用していた。両国が中国に進出するにあたり、ロシア規格に近いドイツ規格を採用した。それが本国においても日本規格の代替となっていく。大量に中国で使用されるため、台湾は在庫を置くようになった。量が多ければ輸出経費が下げられ輸入品としては安くなる。それが韓国にも流れることとなった。それで価格で勝てなくなる。それが答えだった。ドイツは日本には規格が違うため入って来ないがより需要が見込める中国、韓国、台湾の市場を抑えた。尤もインドネシア、シンガポールも既にドイツ製に流れていた。結論は見えていた。中国で頑張るしか、ドイツ製とは戦えないということであった。しかし、結局、韓国は中国製を認めることはなかった。日本純正に拘った。私の中国駐在もリーマンショックの到来と共に終わりを告げた。私の努力も気泡に消えた。

あれから10年、日韓関係は最悪になりつつある。ここまでお互い反目し合うとは思いもしなかった。残念だが、私の時代は既に終わっている。後世に託すしかない。望みがあるとしたら、韓国ドラマ「愛の不時着」にあるかもしれない。北朝鮮と韓国の同民族のいがみ合いがどう解消されていくのか、日本は世界で今一番危険な関係の中でどう巻き込まれていくのか、このドラマが日本人に少しでも目を覚ます機会を与えてくれればと思う。ドラマ以上に憎み合う骨肉の戦いにならなければよいのだが。日韓関係は深く、長い相関関係の歴史に彩られてきた。日本の有史前より多くの文化は朝鮮半島から渡ってきた。我々日本人の中に朝鮮人の血が流れていないとは言い切れない。その位密接であった。

S君が実は韓国人であったかどうかは分からない。しかし、彼の中に異邦人の影を見ていた。彼はけして同じ時間を共有しようとはしなかった。寧ろ避けていた。彼の負けず嫌いは凄まじかった。半世紀前、サッカーでは韓国に勝てなかった。ワールドカップ出場も赤い壁で阻まれ続けていた現実がある。今でこそ少しは勝てるようになってきたが、今もって大きく負け越していることが証だ。韓国の建国の歴史から言って、我々が敵であったことは明確である。しかし恩讐の彼方に未来はある。過去を乗り越えて未来はできる。過去を見つめ直し、同じ民族の血を共有できる日が来ることを祈って止まない。S君は最早あの田舎にはいないだろう。こういう私も田舎を捨て、東京に生きている。『ふるさとは遠きにありて思ふもの』けして戻ることはない。故郷は心で思うだけに過ぎないと室生犀星はこの詩『小景異情』に込めている。人生に後戻りはない。今を生きるべきなのだ。

幻想

山頂から眺めると下界は風景の一部となり何も見えなくなる。眼前にあるのは美しく何処までも続く天上と自分のみ感じられる悠久の世界である。いつまでもこの恍惚の世界に浸りたいがそうはいかない、夜になれば光の無い暗黒の闇が待っている。気温は下がり体温は奪われる。食べ物もない。獣にはとても勝てない世界。下りていかなければならない。道に迷う、方向が違う、日が暮れる、足が攣る、恐怖が襲ってくる。山で一人で生きることはできない。下界があっての天上であることを忘れてはならない。山頂の快感は一時の幸せに過ぎない。しかし、人はこの幻想に嵌ってしまう。抜けられなくなる。山の上の魅力。いつまでも人はこの幻想に身を任せていたいもの。

トップに登りつめると人は下が見えなくなってくる。山上と同じ恍惚の世界である。ライバルを蹴落とし、全ての権力を握る。更に一度得た権力を守るために保身に走り、利権強化を図り、富を集中させる。回りにNOと言わない人間を集める。自分の地位を脅かす人間に対し徹底した排除を行い、台頭するものには陰湿な差別行為を行い、貶める。自己正当化と他人の差別を同時に推し進める。自己中心の世界だ、特に怖いのは上級国民となった人間だ。国のトップになれば、何をしても許される、法的拘束力を持つのは国家権力で、味方に着ければ怖いものなしである。過信から来る慢心である。しかし実際は他者がいて世界が成り立っていることが見えない。また世界は一国だけでは成り立たない。世界の目は更に厳しい。価値観や利害が別のところに往々にしてある。原則を貫かないと人間の世界はあらぬ方向に進みやすいのは人類の歴史の中で学んだこと。全ては個人的幻想が間違いを犯す。忘れていけないのはトップだけで世の中は動いていない。支える国民が常にいて初めてトップ足るということだ。

彼らの問題は他者に対する目である。役に立つ人間かそうでない人間かまず判断する。その上で、生かすか殺すか決める。冷めた目である。政治家は保身に役立つか、票で判断し、その上で利権に役立つか考える。役に立たないこと、対抗する者に利益を渡すことに時間は割きたくない。全てが思い通りにならない場合、往々にして彼らは部下の所為にするか、敵対勢力の所為、少なくとも自分の責任外を主張する。秘書や役人には忖度を求め、応じたものに一定の地位を与える。忖度とは自分の直接の命令と言う証拠が残らない、責任外で行われるのでので都合がいい。結果、咎められても勝手に忖度した方が悪いのである。自己に責任は及ばない。自己都合に適した間接的な命令である。

彼らが人を使うテクニックは人を動かす幻想である。きれいごとを並べる、けしてネガティブなことは言わない。人を信じさせ、納得させる話術である。自分の政治的力と実績、多くは部下のもたらしたもの、選挙民の貢いだもの、親から受け継いだ看板、地盤、鞄である。幻想は幻想を生む。彼らの頭を支配しているのは選民思想であり、自意識過剰。トップに居るものは守られる。選挙に勝てば全て許される。禊である。問題は勝つ手法である。選挙民に対するものと関係ない市民には別の態度を取る。これが地方選挙の怖さである。世論動向や常識が往々にして些末な意見として無視される。議会の大多数を握れば勝ちなのだ。多数決の怖さでもある。

桜の会は何のために利用されたのか?普通の人々に有名人と接する機会を与え、自分の力の凄さを見せつける。票稼ぎ意外の何物でもない。或いは、地方の選挙に1億5千万の選挙費用が注ぎ込まれた。ばらまいた人間も悪いが、支出を認めた方もおかしくないか?ライバルの排除のえげつないやり方に思えてならない。忘れてならないのは政治資金も国民の血税で賄われているということだ。或いは、忖度を時の言葉にしたモリカケ問題は闇に葬られようとしている。人事を使った巧妙な術策で、麻雀でフリテンになった検事長の定年延長策や意に沿わない学者達を取り除こうとした日本学術会議会員任命問題、保身テクニックの最たるものだ。

北方領土の日は何のためにあるのか?領土の選択は今の住民に権利があることは知っているのか?今住んでいる住民を追い出すつもりなのか?戦後75年領土返還は利害関係を持つ地域住民を黙らせる詭弁に過ぎなくなっているのでは?一方で領土問題は愛国心を鼓舞する一番の道具になる。一番の猫じゃらしだ。竹島の日も然り。竹島を取って何の利益を得られるのか?利害関係を持つ地域住民を黙らせる詭弁である。全て幻想の上に立ってコトを運ぼうとしている。北朝鮮拉致問題についても被害者を取り戻すというアナウンスのみで、実質的施策はない。幻想でお茶を濁しているとしか見えない。或いは、自主憲法の制定を叫びながら、米政府依存を前提に全てを運んでいるのでは?全て国民を幻想という猫じゃらしで操っているとしか思えない。健全な対外関係を構築しなければ、永遠に恒久平和は絵に描いた餅になる。また戦争をしたいと言う輩に対し国民は果たして”うん”と言うだろうか?

彼らが好むのが差別だ。優越感に浸るに一番良いのは他者を貶めるのが手っ取り早い。選民思想から来る、日本は天皇中心の神の国と言う意識である。一民族一国家を標榜しており、少数民族の存在を今も認めていない。実際、日本には他に朝鮮系民族とアイヌ系民族、中華系民族で成り立っている。人口の減少の流れの中で多民族国家を認めていかなければならない。国の存亡に拘る問題だ。大和民族絶対と言う幻想を打ち砕かないとこの国は遅かれ早かれ、生き残れなくなっている。民族の浄化ではなく多様化こそ求められているのは自明の理であり、世の趨勢なのだ。不思議なのは「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」これは女性に対する差別以上に自分を頂点にして反する意見を持つ人間に対する差別である。同質集団を守るには取り巻きだけの理事会にすべきと暗に言っている。他者を卑下することにより、幻想的なトップ主導を守りたかったに過ぎない。後釜にも彼の息が必ず掛かるようにするのが一流の政治家たる由縁に違いない。

騙されてはいけない。いつまでも人は山頂にいられるものではない。幻想に踊らされてはいけない。それがトップに居る人間の見る目、上級国民と言われる人間の考え方であるということを。多数決、民主主義と言う言葉はある意味幻想を生むということだ。選ばれた人間が堕落しないという保証はない。権力は腐敗する。まして長きに渡ってトップにいることは危険な人間に豹変するということだ。人間は神になれない。欲望には勝てない。幻想にのみ人は生きられない。

平和の少女像

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が平和の少女像の展示が「反日的だ」との批判により三日で中止した。当に表現の不自由が日本にあることを十分に世界的にアピールした。ベルリンではこの少女像を撤去することを昨年否定された。この像の価値を認めているからだ。この少女像を直視できないのは心の何処かに疾しいものを感じるからではないか。余りにも無垢な顔をされているではないか。この少女像が問いかけるものは何なのか?胸に手を当てて聞く時がきたのではないか?世界的に見て国内外で反日を問う国も珍しいのではないか?この少女像は韓国において日本大使館の前に初めて設置されて以来10年、100体以上各地に設置され、日本以外中国、香港、台湾、米国、オーストラリア、ドイツ、カナダ、フィリピンでも会うことができる。韓国のみを”反日”的だと一概に言えるのだろうか?”反日”を越えたところに真実はある。

韓国の裁判では1月8日、従軍慰安婦の訴訟が認められ、日本に対し総額1憶2千万円相当の損害賠償を認める判決が下りた。この判決に対し日本は韓国政府に対し主権国家である他国を訴えることは国際法上認められないと返答している。控訴権も併せて放棄している。問題の根本を理解していない。グローバルな見方ができない。この慰安婦が語っているのは個人の権利は国家間取引より重いということだ。もし国際司法裁判所に訴えられた場合、敗訴する可能性がある。人権をより重視する流れが国連の中で生まれつつある。日本の態度は一貫して政府間交渉において行われている。ドイツの首脳陣の態度と余りにも違う。ポーランドのアウシュビッツに戦後何度ドイツ首脳が直接謝罪に訪問しているか考えなくてはいけない。日本の態度は韓国の経済成長は日本の御蔭であるという見方のみ先走りしており、個人に対する補償は等閑にしている。政府間協議で何度もこの問題を韓国政府との間できちっとした形で完結させていない。韓国においても負の歴史であり触れたくない。最後は資金拠出でチョンチョン。これがまずい。金の要求は更に金の要求を生んでいく。民衆は一方で納得しない。これでこの問題は永遠に続いていく。

そもそも従軍慰安婦問題は戦後75年何故解決できないでいるのか?この問題提起は1970年日本から田中美津氏によってウーマンリブ運動の中であった。遥か40年前である。しかも日本は1993年に韓国の従軍慰安婦から起こされた訴えを日本の国内裁判で国の関与を認めているにも拘らず、1965年の日韓請求権協定により金銭的にも解決済との判断により2000年に最高裁は控訴を棄却している。支払いは政府間のみで行われ、従軍慰安婦への直接謝罪も補償も行われていない。個々の補償は韓国政府に任せているからこうなったと考えて仕方ない。民衆は許さないのだから。何度もチャンスはあったのに逃している。1995年折角立ち上げたアジア女性基金は実質蹴っ飛ばされた。戦犯の非を一貫的に認めるドイツと違うことが国際的に攻められているのである。尤も他の謝罪もすれば切りがないとなるかもしれないが、戦後補償の全ては国家間金銭的に行われてきた。だから、何かあると中韓の民衆が”反日”と呼ばれるデモに遭遇することになる。国としては仕方ないが、実際死の恐怖を味わった民衆としては許していないのである。上海での”反日”デモは官制デモと言うがどこまで本当か。事ある度に中韓の反日教育の実態を言うが、言える権利はあるのか?

2015年の慰安婦問題日韓合意が最たるものだ。10億円の使い道の検証もなしでどう使われたのか?使途不明金の調査はなされるべきではないか?不作為による政治的誤謬である。明らかに無駄な対外出費である。政府間の約束の反故で済まされない。政治は結果で評価される。結果が出なければ責任を問われる。いくら戦争が正しかったとしても敗北は国の責任である。先の大戦の起因責任を自国ではなく米国やソ連に求める論調が多い。しかし、戦争を起こしたのは大日本帝国以外の何物でもない。追い込まれたから勝ち目のない戦争をしたというのは言い訳以外の何物でもない。国民を含む失われた人々の命に対しどう償うのか?引き際を探した戦争だった。負け犬の遠吠えにしか聞こえない。日本の人民は日清戦争から太平洋戦争の敗戦まで50年近く国外との戦争に対するストレスの中で生きざるを得なかった。昨今の論調が罷り通れば、想定した正義のためにまた戦争をして勝たなければならない。勝てるのか?

戦後は枢軸国体制は破壊され、米英仏露中中心の国際連合体制に移っている。ここを理解しなければならない。しかも今は更に個人の権利を守ることが叫ばれている。男女の違いによる差別、肌の色による差別、人種間の差別、職業による差別は許されていない。国全体の利益を守れば個人の権利は守らなくていいという時代は去っている。

私は思い出す、昭和天皇が崩御の報を聞いたのはウィーンだった。あの頃ベンツの高級車だったタクシーの運転手から、何故私を日本人と分かったか知らないが「あなたたちのカイザーが亡くなったよ」と。そうか、天皇はカイザーなのだ、そしてオーストリアにはもうカイザーはいない。敗戦後追われたのだ。ドイツは分断された。日本は国体護持が他の枢軸国と違い認められた、これにより過去の戦犯が有耶無耶に国内外を問わずに残った。他の枢軸国から見たら羨ましいと思われて当たり前なのだ。私はその時何故かうしろめたさを感ぜずにはおられなかった。

私が上海で反日デモに遭遇していた時、上海市内でドイツ映画が上映されていた。私は映画館の大画面で見た。「ジョン・ラーベ~南京のシンドラー」である。当を得た映画であった。中国語が分からなくともほぼ英語、時々日本語が出て、本当に分かりやすい映画だった。ここでもドイツに負けたと思った。反日に便乗したドイツのプロパガンダに覚えた。シンドラーのリストはナチスからのユダヤ人の逃走だったが、今度は中国で大日本帝国から如何に中国人を救うか、ドイツのシーメンスの社員の奮闘である。こりゃやられた。何れにしてもシンドラーはドイツ人なのだ。ナチスではない。日本は最早大日本帝国ではないとアピールできないものか?これが全ての問題を解決するキーである。これができた時初めてドイツを越えられるのではないか?メルケル首相は日本には来ないが中国には良く訪問している。日本の首脳にはできないことである。

ロウバイ

我が家のロウバイが満開。春を呼ぶ花として花言葉は「先導」。早春を彩る香り貴き花。甘い香りから英語では「Winter Sweet」。同じく香水のような沈丁花に先立ち一早く咲く姿が愛おしい。中国原産のクスノキ目の木で正確に言うと梅ではないが、華やかに花が咲く姿は梅のようだ。日本では蝋梅。蝋のような透き通る柔らかい花を咲かせる。中国では臘梅。中国で云う臘月の旧暦12月に花が咲く。12月と言うと年末のイメージだが、寧ろ旧年と新年をつなぐとき。けして終わりとはしない。臘祭は収穫祭。臘八粥はその年の豊作を祝う八宝粥。臘月は新年に向けたプロローグ。今中国ではこの臘月を迎えている。ロウバイは私にとっても日本と中国をつなぐ花だ。

2009年米国に発したリーマンショックが中国ビジネスにも大打撃を与えていたころ私は開き直って蘇州の庭園を廻っていた。日本の本社はもう中国の子会社まで支え切れなくなっていた。私も日本に呼び戻されそうになっていた。逆らって中国に居座った。何せ金が来ない。払えない。売れない。正に三重苦。もう気が着けば旧正月が近い、蘇州も寒かったが、新春を迎える喜びに街中は溢れていた。正月は中国にとって一番大切な祝いごとだった。休日が少ない中国人が唯一長く休めたのが正月。そして豊かさを家族と共有する。家族と一緒に新年を祝う。正月を前に最高に賑わう街を散策し、何気なく庭園に入る。考えてみれば旧正月は日本にいつも帰っていたのでこの寒空の下庭園に入った記憶がない。庭園の冬は人もなく物悲しくて入る気もなかった。ふと気が着いたのが、甘く蕩けるような香り、そして冬空に映える淡いレモン色の花であった。名前を知らない。しかしどこかで見た。そうだ!日本のうちのお隣さんの玄関前に植えてある木だ。うちにいる女房に早速携帯で何という木か聞いてみた。案の定「知らない」と素っ気ない返事。日本ではあまり見ない木。中国人に聞く。”腊梅”と書いた。この”腊”に引っ掛かった。燻製だ。燻製されたような梅?腊とは元々生贄を供え祀ることである。生贄が燻製に変わった。祀りは供物を収穫に対する神へのお礼として供える12月につながった。”腊月”は12月、旧暦12月に咲くのがロウバイである。

中国は香りの国だ、沈丁花から梅、花海棠、梔子(クチナシ)、クスノキ、木犀、年中木花の香りが漂っている。お茶もそうだが、まず香りを重視する。美味しいを中国語では”好香”と言う。木々の中でもクスノキは凄い、自転車で走っているとこの甘い香りに癒される。花ではない木そのものから漂ってくるから凄い。街路樹がクスノキであればずっとこの香に包まれて走ることになる。中国語で”香樟”と言う。樟脳の元と言えばわかってもらえるだろう。木犀は日本と違い黄色ではない、白、金木犀ではなく銀木犀になる。香りは一緒。芳しい香りだ。実は中国の桜も甘い香り、しかも鼻の先ほどの低い位置に咲く。日本のように見上げる高さに桜は咲かない。桜も実際は中国原産である。最早中国の桜は日本では山桜に見るだけだ。春を迎えた天津の花海棠の桜の様な美しさと香りも思い出に残る。遠い北国に春が来たんだと感じる。尚、沈丁花は朝鮮経由で来たのか、花を”げ”と言うのは韓国語、ムクゲ、レンゲもそうだ。中国では春になると丁子の花を飾る。沈丁花は香木の沈香と同じ高貴な香りを漂わせる。全て中国由来の花々だ。

中国での仕事を終え日本に帰ってきた。私の中に中国の思い出は”香り”として残っていた。香りを大切にしたい。先ず、香りのある花木を求め日本の野山、公園を歩いた。そして庭に植えていくことにした。梅、金木犀は元より庭の木。クスノキはまず無理であったが、沈丁花から花海棠、梔子を植えた。ロウバイは何処に。答えは秩父宝登山にあった。みごと!秩父鉄道長瀞駅から直接登れる標高497mの。 山頂一帯、約15,000平方メートル、3,000本のロウバイの花が咲き乱れる。ロープウェイの駅前で売っていた苗木を買った。もう8年前。毎年大きくなり見事な花を咲かせるようになった。裏切らない花。宝登山には東京に拠点を構えている時はほぼ毎年登っている。これからも健康でいる限り毎春登り続けるであろう。そのくらい魅力ある山である。登るのが簡単だからなのだが。頂上で見上げる空は何処までも青く、空気は清廉。遠く眺める秩父の山並みも美しい。眼下のロウバイはレモンイエローの花を青い空に映えさせ、芳しい香りを風に漂わせる。因みに宝登山のロウバイを植えたのは秩父鉄道の駅員と聞く。観光の目玉として山をロウバイで彩りたかったと聞く。いい話だ。

毎年宝登山のロウバイの咲く時期は異なる。2月中旬を基本に考えればいい。宝登山のロウバイの開花時期は毎年異なる。開花状況は前もって下記のサイトで確認する必要がある。さもないと満開まで何度も登らなければならなくなる。私はめでたく瘋癲になったのでロウバイが満開になった天気の良い日に登るつもりだ。因みに私の遺言書に骨を粉にしてそっと宝登山の頂上に捲いて欲しいと書いてある。他にも庭、蘇州の橋から京杭運河にもと頼んでいるが、死んでしまった本人には分からないので、遺族がしてくれるかは疑問。女房は一度一緒に宝登山に登って膝を痛め、もう二度と行かないと言っている。大した山のうちには入らないのだが…ロープウェイで登ってもいける。

宝登山ロウバイ園

登って一番は宝登山神社奥宮の売店。焚火を囲んで80才過ぎて尚元気なおばあちゃんから頂く甘酒と焼きミカン、寒い中登って来て冷え切った体があっと言う間に暖かくなる瞬間だ。是非味わいたい。おばあちゃん今年もお元気だろうか。またお会いするのが楽しみだ。

祈り

皆川達夫さんが今年4月に亡くなられた。その1月前までNHKFMの『音楽の泉』のDJをされていた。92才であった。私が皆川達夫さんを初めて知ったのは中学のとき。やはりNHKFM「バロック音楽のたのしみ」朝6時、紹介される曲はいつも心に響き、崇高な光を感じ気持ちよく目が覚めた。wikipediaによると1965年から10年間担当されていたそうだ。55年前からDJをされていた。なんと長いことか。

皆川さんの凄いところはバロック音楽に造詣が深いばかりでなく、日本の隠れキリシタンの讃美歌「オラショ」の原曲をイタリアからスペインに探し求めたところにある。長崎・天草の隠れキリシタンは2018年に世界遺産に登録された。皆川さんの思いは世界に通じた。隠れキリシタンの歴史は豊臣の時代から2世紀半に及ぶ。島原の乱以降の厳しい迫害から逃れ、隠れ、故郷を或いは捨て、踏み絵の試練も何度も乗り越えた。明治以降も迫害は続いた。明治憲法が発令するまで耐えた。宗教を捨てず、守り続けた。祈りは通じた。彼らのオラショ「ぐるりようざ」と原曲「Gloriosa Domina」を聞き比べて欲しい。祈りの気持ちは通じる。

祈りは救いを求める声である。讃美歌はだから心に響く。特にグレゴリア聖歌(キリエエレイソン)はいい。聞いているうちに心が落ち着いてくる。これは旋律の美しさは勿論、コーラスからくる心地よさにあるのではないだろうか?言葉は分らないのだが。オラショを歌う人々に歌の意味はもう伝わっていない、口から口にただ歌詞と曲のみ伝わってきたという。歌とは心情の発露である。

西洋かぶれと笑われるかもしれない。しかし、美しいものに触れることを否定できるだろうか?何故世界の人々にクリスマスは受け入れられているのか、これは普遍的な愛を慈しむ心があるからではないか、私は30年以上前、五島列島を一人、教会を巡ったことがある。隠れキリシタンは迫害の歴史から解放されたとき教会を作り上げた。私は復活の喜びをこの教会群から感じることができた。ギリシャの島々の教会、そしてサンピエトロ教会、何故、崇高な中に愛を感じることができるのであろうか?

今日はクリスマス。インターネットから流れる聖歌を聞きながら一人過ごしている。皆川達夫さんのラジオが私の音楽の原点だ。ただ感謝の一言だ。日本中に私のような人間がたくさんいるだろう。しかし、45年前にバロック音楽の番組が何故花開いたのか、人々が求めていたものがここにあった、精神の救いの求めに応じてくれる音楽がここにあった。既に同じ師の服部幸三氏もいらっしゃらない。師は去るとも音楽は残る。これが讃美歌の意味。オラショと同様に愛を求める人々に讃美歌は永遠に伝わっていく。人々の祈りの音楽、これが讃美歌。

ジョンが遺したもの

かつて住んでいた街の小さな喫茶店、古い書店が数年前から店先で開いている。全てが変わって何も思い出す縁は残っていないが、妙に懐かしい。師走、冬晴れ、木枯らしが冷たい。コロナに翻弄された2020年ももう終わる。珈琲一杯。ふと目が留まる。若い女性が白いバックを肩に下げている。黒い縁取りの中にモノクロのジョンとヨーコが此方を見つめる写真がプリントされている。全ては過ぎ去っている。しかし変わらないものがある。ジョンの瞳に今も映るのは…

John&Yoko

ジョンがニューヨークで殺されて40年。漠然と思い出された。1980年12月8日、ジョンは25才の見知らぬ男から撃たれ、5発の銃弾が全身の8割の血液を奪い、失血性ショックが彼の命に終止符を打った。私は学生だった。悲しかったのか、悔しかったのか、私は余りに若く、居た堪れない気持ちから喪に服した記憶。彼は何故殺されなければならなかったのか?しかも見知らぬ男に。彼の人生は呆気なく一瞬で閉じた。彼の人生を想う。

若い女性は知らないだろう、ジョンの生きた時代を。彼が生きたのはたった40年。今も生きていれば80才。私にとってはまだ栄光のビートルズの一人、彼の生き方も歌も曲も憧れた。何故若い女性がジョンを?不躾に聞いてみた。彼女は嬉しそうに”YES”のペンダントを見せてくれた。そう彼女にとってジョンではない今も生きるオノ・ヨーコが魅力なのだ。この”YES”はジョンとヨーコを結びつけた、1966年ロンドンでオノ・ヨーコが開いた個展、天井に小さく書いた”YES”、脚立に上がり虫眼鏡で見つける。『自ら動いて初めて潜在的な自己の肯定を得る。』ジョンはヨーコに惚れ、妻と子を捨てた。ジョンにとってヨーコとの生活が全て、また素晴らしい曲を世に送り出すことができた。

私はといえば過ぎ去った40年をどう生きてきたのか?生きるために生きてきた。ただ平凡に、好きなことは好きなだけしたが、家族を捨てることはなかった。当たり前の人生を当たり前に。ジョンが言いたかった、やりたかったことを何もできなかった。”Power to the People” “Give Peace the Chance” しかし、心の何処かにある。それはジョンが遺したものだ。心の片隅に。若い女性がジョンとヨーコに触れた六本木の展示会、私も行くことにした。何かが見つかるかもしれない。何かが分かるかもしれない。変わっていいものと変わらなければならないもの。新型コロナウィルスの蔓延で、都心に向かうのは心が引けるのだが。

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もうすぐクリスマス。若い頃の燥ぐような気持ちはにはなれない、ただ本来の神聖な”とき”を静かに祝う気持ちが強くなっている。この時、無償にジョンの唄を聞きたくなる。”Happy Xmas (War Is Over)”。今も通じる人間の無力感に対する変革の希望を感じるからだ。

クリスマス(争いは終わる)、弱い人も強い人も(もし望めば)金持ちも貧乏人も(争いは終わる)、世界は間違っている(今)ハッピー・クリスマス(争いは終わる)、黒人も白人も(もし望めば)黄色人種も赤色人種も(争いは終わる)、争いをやめよう(今)

彼の唄”Imagine”は我々の永遠に解決できない問題を訴えている。

想像してごらん 天国なんて無いんだと ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし 僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんながただ今を生きているって…
 
想像してごらん 国なんて無いんだと そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんながただ平和に生きているって…
 
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ
 
想像してごらん 何も所有しないって あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い 人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが世界を分かち合うんだって…
 
僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ (和訳 Akihiro Oba)

ビートルズが解散したのは1970年、個々の道を4人のメンバーは歩きだした。1980年ジョンが亡くなり、最早ビートルズの再結成は不可能となった。ところが1995年四半世紀ぶりに新曲をリリースした。”Free as a Bird”、ポール、ジョージ、リンゴが亡きジョンの未完成のデモテープを元に見事に完成させた。素晴らしいこの曲のMVはビートルズを今に蘇らせた。これが最後のビートルズになったのではないか。ジョージもこの6年後に58才で癌により亡くなっている。

六本木の展示会に行ってきた。入場料2,500円也。この高さ、たかが展示会だろ。しかし驚いた、狭い会場に老いも若きも男性も女性も平日にも拘らず一杯来ているではないか!行った感想、見るべきだ。心に残る『価値』が違う。来年1月11日までやっている。来ているのは、私のように感傷に浸りたくて来た過去の人間だけではない。今も彼らの人生に共感し、問題意識を持ち、『答え』を求める人々だ。親子で、夫婦で、或いは恋人同士で、”Double Fantasy” 彼らが戦ったのは平和や真実の愛だけを求めてだけではない。人種、性、宗教、階級に対する偏見、差別、抑圧に対するものであった。私が図らずも涙しそうになったのは、ジョンがTV司会者にヨーコの前で、ヨーコのことを話したシーンだった。報道に対してだ。ヨーコをはっきり醜いと書く、しかも日本人、旧敵国だ、寝首を取られるのではないかとまで。確かに英国の誇りであるビートルズのメンバーが英国の女性を捨て、どこの馬の骨とも分からぬ日本人と結婚するとは、なのだろう。あの頃、私もそう思ったことを白状しよう。自分に中にある白人至上主義、有色人種としての劣等感、敗戦国としての悲しみ、民族差別、美に対する偏見、考えさせられた。場内で流れる”Happy Xmas (War Is Over)” “Imagine” に合わせ、来た人々が一緒に歌い出したことに彼は決して死んでいないんだと充分思わされた。実際ジョンの葬式は挙げられていない。ヨーコは挙げていない。ジョンは愛する人々の心に永遠に生き続けるんだ。私の心にも。あらゆる差別・偏見・嘲笑・抑圧がなくなるまで。

侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館

2007年12月13日、侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館はリニュアールされた。13年前である。私はこの日初めて訪ねた。ずっとリニューアルのため閉館していたからである。初めて南京に来た時は中国人の部下と顧客訪問で来た。その時、顧客対応を巡って部下を叱った。その時彼は私に言った。『ここは南京だ』ただで済まないような言いっぷりだったことを憶えている。記念館再開の年、南京に日本軍が占領した日から丁度70年であった。天気は良く、青い空の元、凄い人だった。私はただ圧倒されるばかりだった。30万人の犠牲者の文字が大きく張り出され、日本軍の怖さを知るに十分であった。日本語の説明も自然であった。説明資料も日本語があり、日本人の支援があったことを窺わせていた。来ている日本人は私だけだろうか?様子を見ていたが、最後まで分からなかった。反日運動の折り上海にいたが、黙っていれば分からないと部下に言われたが、その通り黙って見て回った。中国人の列は永遠に続くかのようだった。

私はアジアを韓国からインドネシアまで隈なく歩いていたので、日本軍の進駐、殺戮の話、残虐な面を嫌と言うほど聞いていた。謝れば良いと何度も言われた。因みに、私の義務学校での勉強では、戦争の話は米国との太平洋戦争が始まりで、1941年12月8日の真珠湾攻撃で1945年8月15日の天皇の玉音放送で終わりを告げている。しかし実際、1937年7月7日盧溝橋事件から中国の宣戦布告の無いまま戦争は始まっており、北京から上海、広州まで永遠と1945年9月9日南京における降伏調印をするまで戦争は終わらなかった。もっと言えば1931年9月18日の柳条湖事件から始まる満州事変まで日中戦争は遡ることになる。よくも14年も戦争をしていたものだ。ドイツがロシアに攻め入って戦争に負けたように、日本も米国に負けなくとも、いずれ中国に負けるだろうと予測していた軍人がいたと聞いている。実際、重慶の陥落はできなかった。私も中国の武漢から重慶まで営業に行っているが、よくぞここまで日本軍が攻めたものだと感心するぐらい遠い。上海から重慶は上海から東京とほぼ同じ距離になる。武漢だって遠い。東京から岡山くらいある。台湾からとしてもゼロ戦は良くも往復したとこれにも感心させられた。因みにゼロ戦の名前を一躍世界的に有名にしたのは日中戦争であって、日米戦争ではない。要は日本の戦争は1941年の遥か10年前に始まっていた。疲弊するはず。市街地無差別爆撃と言うとB29を日本人は思い出すが、既に日本軍は中国の南昌、南京、広徳、杭州で各都市で既に行っている。日本はゼロ戦により中国の制空権を握った。しかし結果的に勝つことはできなかった。これが真実だ。北京、上海、広州は抑えられても。

戦争は軍対軍が基本だった。しかし日中戦争で日本軍は市民を巻き添えにした。日米戦争では人間を武器と一体とした。カミカゼ特攻隊だ。1937年の話に戻る。日本軍人による100人斬り競争があった。野田少尉と向井少尉の上海から南京に向けて日本刀で何人斬るか競争したという話。上海から南京まで300km、東京から仙台までくらいある。その間戦争をしながら行軍する。南京攻略のためだ。南京大虐殺はこれにつながる。2人の少尉は勝つために斬って斬って殺し捲ったのだろうか、単なる武勇伝で終われば一笑に付せるが、彼らはこれで戦後南京に呼び戻され死刑になる。戦争とは大量殺人が法的に許される。国家間の戦いだからだ。国家の名の元の殺し合い。誰も広島・長崎に原爆を落としたり、東京空襲をしたB29に乗った軍人を罰すことができるだろうか?しかし彼らは死刑になった。本当に100人を日本刀で斬れたのか、疑問なのは間違いない。数字の一人歩き、南京大虐殺の20万人と同じだ。

ここで考えなければならない。数字の裏で真実が見え隠れする。軍は殺戮のために編成されれば、殺すのは至上命令になる。殺された側の人間は記憶に刻まれるということだ。被害者意識である。一方殺す側の人間にも罪悪感が生まれる。ここに殺戮の現実が浮かび上がってくる。野田少尉の部下望月氏の回想。

「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。
この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいながら、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。
今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。
終戦后、連合軍は両少尉を如何に処置したか、ここで”潜行三千里”の著者、元参謀辻政信大佐の手記を引用してみる。
彼は敗戦の報を知って、戦犯をのがれるためビルマ、タイ、仏印、昆明、重慶へとのがれ南京に至って支那の重臣の庇護の許に、混乱する状況下で共産軍毛沢東に対処する戦略をアドバイスしていた。それから戦犯容疑が時効となり日本に帰ってきたときのことである。
野田・向井両少佐(※3)が南京虐殺の下手人として連行されてきた。この二人は、一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証據不十分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお陰で、どんなに弁明しても採上げられず、ただ新聞と小説を証據として断罪にされた。
永い間の戦争で中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無であることは勿論であるが、証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。
両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石になろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。
年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって”天皇陛下万才”を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった。
(「私の支那事変」望月五三郎著私家版1985年P43-45)

野田少尉も向井少尉も赦せないのか。今も遺族は裁判で彼らの無実を訴え、戦っている。何故なら100人と言う数字の信憑性にある。しかし敢えて言おう、事実は事実として日本軍の戦地での戦いとしてそうせざるを得ない体質があったのではということだ。彼らの遺書がすべてではないのか、私にはそう思えてならない。

野田少尉の遺文(wikipediaより抜粋)

一 日本国民に告ぐ
私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。
只、今般中国の裁判に於いて俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。
たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みやアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。
東洋の隣国がお互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以ってしても解ります。
今後は恩讐を越えて誠心を以って中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいのです。
中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。
至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
西郷さんは『敬天愛人』と申しました。何卒中国を愛して頂きます。
愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中国提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以って神が教示されたのです。
日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は『愛』と『至誠』です。
此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。
桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。

野田少尉自筆の遺書

死刑に臨みての辞世

 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩はしましたる事に就き厚く御礼申し上げます。
 只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜はりましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以つて残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みをはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 野田毅

私は大連の二百三高地も行っている。日本は日露戦争も実に中国で戦っている。訪れてみると納得する。しかし何故中国はこの地を残し、後世に何を伝えようとしているのか?戦争の傷跡を見せ、戦争の悲惨さを見せることが一番重要だということだ。拉致問題、慰安婦問題、民族差別、領土問題、過去の戦争を振り返らず殊更事なき主義を決めつける政府の何と浅はかなことか、後世に伝えるものは何もないのでしょうか?