は”そら“と”くう“と両方読める。空を”そら“と読むか”くう“と読むかで、全く違うイメージになる。”そら“にはただ遠く明るい未来を感じ、”くう“には虚無的で難解な無常観を感じる。2つの異なったイメージは不思議に”“で一緒になることが分かる。

塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた「空」

そら”は元々は地や人の上の全て、天井、天道、天国、神にもなる。は余りに漠然とし、大きく、広すぎる。天と地の間を身近に表すものが必要だった。それが”そら“。ヒントは天空にある。天空は天の下の限りなき空間の下の広大な空間を示した。が我々を包む大きな傘とするとその下は何もない、の世界に見える。即ち大空である。天空から天と地の間に置いた。そら”である。の本意はくう=何も存在しない、本来、見ることも触ることも感じることもできないが、実際は何かある。は”そら“の意を得て単なる虚無から無限に、空虚から空間虚空としての有へと大きな広がりを持つこととなった。”そら“にはがあり、が流れ、が降り、稲妻が走り、が渡る。は幻想を生み、は恐れを生む。が昇り、沈む。が彩を与え、々が無限の宇宙を表す。山々に日の光は陰影を与え、美しさを表現する。の美しさは色の変化にある。夜明けの朝の空は蜜柑色、昼間はく。夕暮れに近づきまた蜜柑色になり、夕焼がく染め上げ、色になって夕闇となる。

くう“を表す言葉として一番相応しいのが色即是空。色あるもの全ては空虚般若心経に記されている。仏教の神髄とはゼロの元になった言葉で、ではない。器がありその中が空っぽと言う意味になる。満たせば元に戻る。空即是色、即ち存在としての空がある。全否定の全く何もないとの違いがここにある。この世は空しいがお終いではない。悟りなさい悟れば道は拓かれる。ということだ。ゼロを発見したのは仏教発祥の地インドである。数字の国、お金を発明した中国でさえ、ゼロを発見することはなかった。10と言う数字は一桁の0(ゼロ)があって初めて“十”となる。ゼロは必要なのだ。くれぐれもではない。1にも2にもなる。実在としての無,即ち空。例えば空気がそうだ。空気があるから人間は生きられる。見えないが、空気はある。”そら“に通じるものがある。”そらの色の美しさは、”くう“即ち大気の存在があって初めて変化する。何もなければ美しい色には変化しない。の光が大気圏の粒子に反射し、”そら“に光の7色それぞれの拡散性の違いによって色を着けるのだ。”そら“の色は大気圏にぶつかる光の角度と距離によって刻々と変わる、”そら“は蜜柑色から青、赤、紫に変化する、これは将に光と大気が織りなす幻想に過ぎない。雲の白さもの光の造りだした色に過ぎない。正に”そらの色全ては幻想実体のない色そのものだ。”そら“と”くう“が正にで結びつく。

乾徳山山頂からの富士

地球をリンゴに例えると大気圏はリンゴの皮の半分にもならないくらい薄い。その中で我々は生きている。山に登ると遮るものがない。空は更に広く、美しく感じる。標高が高くなるにつれの青さが増し、の白さを浮き立てるだけでなく、下界をもくっきり映し出す。空に近づきたくて山に登るのかもしれない。大気圏の薄さに我々の存在の呆気なさを感じる。全ては幻想色即是空。だからこそ我々は山に登り、儚い自分の存在を知る。塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた言葉「空、森羅万象、空より生じ、空に帰す」宗堂。深い。胸に沁みる。そうか皆、最後はに戻るんだ。このは”そら“と”くう“。

中華そばのなぜ

55年以上前、ラーメンなぞなかった。あるのは中華そばだった。しかも、中華そばは中華料理店で食べるもの。つまりラーメン屋なるものもなかった。中華そばは中華料理の一つで、けしてメインにはならなかった。まずチャーハン。チャーハンがあって初めて中華そばだった。しかも中華そばの汁はチャーハンについてくるプチスープ。甘酸っぱい澄んだ鶏ガラ醤油味。これにシャキシャキの刻みネギ。これが全く中華の味だった。日本にはなかった今も忘れられない味。家族で週末になると中華料理を街中まで食べに行くのが楽しみだった。店の名は珍珍亭。街角にあり、摩天楼の如き町一番の立派さで、外には街頭テレビがあった。イの一番に中華料理の主菜、チャーハンは外せない。そして中華そばになる。皿とどんぶりの縁には必ずグルグル模様、雷紋があった。家にもこのどんぶりと皿があった。これが中華料理の基本。器と料理が表裏一体だった。最早失われた光景と思いきや未だ残っていた。町中華だ。町中華はほぼ日本人の店主、中国なぞ行ったことがないし、中国自体に興味もない。顧客対象はあくまでも日本人。中華料理を継承しながら、中国とは全く無関係。只管、日本の中で全く日本的な中華料理文化を継承している。

中華そばが他の中華料理を押しのけ、主役に躍り出たのは日本の地域に根ざした味を生み出す麺と具とスープの三位一体の七変化の妙だった。更に即席麺を世に出す。中華そばの偉大さは日本に根付き、中国本国から離れ、日本独特のラーメン文化を創り出し、一方で世界中にインスタントラーメン文化をもたらしたことにある。チャーハンの端役だったのが、主役に躍り出て世界を席巻したことに驚かされる。

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日本生まれの中華どんぶりと皿

私は中国に長く駐在した。東から北、西、南至るところででラーメンを食べた。しかし、雷紋のインパクトあるデザインのどんぶりや皿を何処でも見たことはなかった。インターネットで調べると、何と日本オリジナルだった。考案したのは浅草かっぱ橋陶器卸商と言うから驚きだ。古九谷焼のデザインが元という。道理で我が家にもあった訳だ。今でもインタネットで購入できる。料理は器からという。中国趣味の器により日本の中華が本場の味に仕上がっている錯覚を起こさせることに一役買っているのに違いない。

https://athleterecipe.com/column/21/articles/1872055

そもそも中華そばは中国の蕎麦のような麺料理の意味。中国ではありえない具が乗っていた。理由は中国の味付けに少しでも近づけるための苦肉の策。コスト日持ちを考えて編み出した赤いチャーチューナルト。更に日本人の拘る蕎麦の具を掛け合わせた意地が見えるのが海苔。中華そばは蕎麦ではない。寧ろ、うどんや素麺に近い。なのにそばと呼ぶのは何故?中華そばからラーメンになったのは何故?何処が違うのか?考えれば考えるほど不思議な魅力が尽きない中華そばは今や日本のソールフードとなった。

昔ながらの味!横浜といえば【赤い叉焼(チャーシュー)】 | 中華工場直売所 好(ハオ)の店長ブログ横浜名物赤い炭火焼豚
昔懐かしい赤いチャーシュウ

1.赤いチャーシュー:小さいころ、中華そばのチャーシューの縁が何故赤いのか、不思議に思っていた。中国でもラーメンに赤いチャーシューが入っていたのを見たことがない。このチャーシューは中国では明炉叉焼と言い、広東料理では飲茶の点心。焼いて紅糟に漬け込むので、日持ちするし、甘い味と色合いと固めの弾力ある食感がチャーハンに向いていて、切り刻んで入れていたのが焼き豚チャーハン。これを大きく切ったものが中華そばに入っている。両方に使えて経済的。こりゃ、チャーハンのスープの中華そば兼用と一緒。但し、焼いて干してあるため固く、柔らかな肉を寧ろ好む日本人の嗜好から煮込んだ三枚肉に今は変わってきている。正式に言うと最早チャーシュー(焼き豚)ではなくなったということ。

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ナルトとむきエビ

2.ナルト:中華料理に何故ナルトなのか?疑問に思っていた。勿論中国でラーメンにナルトなんて見たことはない。関西でも元々ないらしい。まして徳島の鳴門とは関係ない。中華料理ではむきエビが基本。しかし、コストからみるとかまぼこが断然安い。チャーハンではナルトが細かく切られて入っている。赤と白の色合い優しい触感海老の代替となる。しかもナルトはかまぼこに比べつなぎが多く、かまぼこの魚臭がなく、ぷりぷり感が少ない。中華料理にも合う。関東煮に入っている代表的かまぼこで汁の味を引き立てる。皆さんご存知か?関東煮の由来は中国広東煲湯からとか、山東省の魚丸を煮たものから始まったとか、将に中国と縁がある。本筋のかまぼこほど存在や味を主張せず嫌味にならない。中華そばでは、大きく輪切りしたナルトのデザインがどんぶりの縁の雷紋とマッチする。チャーハン、中華そば両方で使えるところに味噌がある。チャーシューに繋がる使われ方だ。ナルトが採用された訳がここにある。今もナルトは生きている。嫌味の無さデザイン的面白みも大きい実に理にかなった具なのだ。そして今や中華そばになくてはならない存在https://www.kibun.co.jp/knowledge/neri/basics/zukan/narutomaki/index.html

東京ラーメンの再現 ワンコインver.@自作ラーメン レシピ&作り方 | ラーメン探究日記箱根そばが「かけそば回数券」の販売再開 期間限定で割引に - 小田原箱根経済新聞基本となる“かけうどん”“うどんつゆ”のレシピ/作り方:白ごはん.com
中華そばと蕎麦とうどん

3.海苔:中華そばには海苔。これは蕎麦とうどんのワカメに呼応する。鳥ガラのスープにワカメは合わない。然らば海苔。あくまでも黒のアクセントに拘る日本食の特長を出している。中華そばは浅草で生まれた。海苔は浅草の誇り、忘れざるべきものだ。然もワカメと違い、海苔に嫌味がない中華そばの味を邪魔することはない。ナルトとかまぼこの違いにも通じる。

定期航路を見る|公文書にみる明治日本のアジア関与 -対外インフラと外政ネットワーク-日本商船・船名考 (ⅩⅩⅩⅩⅦ)
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1875年に始まる横浜上海定期航路の運行。日本で中華そばを誕生させたかん水と職人が上海から。

4.中華そばは何故そばなのか?:中華そばは勿論蕎麦ではない。蕎麦粉からではなく、純然たる小麦粉で作る。従って素麺やうどんの仲間である。然るにそばと呼ぶのは中華そば麺の細さとこしにあっただろう。それでは沖縄のそーきそばはどうなのか。太さはどう見てもうどん。実際、そーきそば中華そばが名の元。日本蕎麦とは関係ない。沖縄の中華そばの意。それでは素麺うどんと言わないのは何故か?違いはかん水を使っているか否かに過ぎないのだがこれが大きい。かん水が曲者。小麦粉を様々な形と色、食感、香に変える。中身の濃さを変えるだけで札幌ラーメンから喜多方ラーメン、九州ラーメンと変幻自在。正に魔法の水。かん水は梘水と書く。或いは鹹水。これは蒙古の鹹湖の水を用いたからで、この水で小麦粉を捏ねたとき独特の麺が生まれた。中国の麺の誕生。1700年以上前と言う。かん水はカリウム、ナトリウム、リン酸のアルカリ混合液で、戦後、日本は中国から入らなくなり、独自製造することになる。それまでは中国からの輸入。安定供給を可能にしたのが1875年に始まる上海と横浜をつなぐ日本初めての海外定期航路だった。定期航路の大きな意味合いはかん水輸入のみならず、中華料理の具材から道具、何より大きかったのは中国の料理人、麺職人の来日が可能になったことだ。横浜に中華街が生まれる契機にもなる、1910年横浜税関職員だった尾崎貫一氏が浅草に初めて中華料理屋来々軒を開店した。出したのは焼売とワンタンと柳麺(ラウメン)であった。料理長は上海人だ。今も祐天寺で続く来々軒はこの上海人の系譜でつながっている。柳面は細くこしがあり、まるで蕎麦の如きだったろう。上海人は細い麺を好む。味は正に甘酸っぱい澄んだ鶏ガラ醤油味。昔懐かしい中華そばの汁。私の追い求めた中華そばの味は上海で今も生きている。https://www.youtube.com/watch?v=PXDE5My7mSY

祐天寺の来々軒と元祖東京ラーメン

初めて中華そばを食べたのは水戸光圀公か否かで話題になっていたが、麺と言えば既に素麺うどんが早い時期に中国から入ってきており、誰が先に食べたの問題ではなく、中国帰りのお坊さんが既に麺類を食していたのは明らかであろう。素麺は中国では精進料理の麺で宿坊で食べられる。インターネットで調べると索餅が索麺となり、素麺と混同されたとあるが、無理ではないか?天津で麻花が索餅として有名だが、これをほぐすのは並大抵ではない。はっきり言って無理な話だ。索とは縄のことで、素麺は細く柔らかい麺で、縄は想定し難い。素麺は仏教と一緒に中国から精進料理として入ってきたと考えるのが自然だ。お坊さんは鳥ガラスープのラーメンは食べられなかったからだ。

素面(亲手擀的面味道才对)的做法图解12索餅(さくべい)」は通販で買える?!七夕の伝統的なお菓子【グレーテルのかまど】」 - 明日は何を食べるかな
中国の素麺と索餅

うどんは中国で言う餛飩(hún・tún)からきたのではないか?ほうとうも似ている。中国で食べる餛飩の味付けは日本のうどんと似ていて、魚介類スープにワカメが入っている。あっさり食べられる。日本ではワンタンと言うが、中国ではフントウンになる。ワンタンの具を取るとうどんそのものだ。素麺、うどんともかん水を必要としなかったから日本で広く食べられるようになったのであろう。仏教伝来と深く関係ある関西の食文化に根付いていることからも理解できる。

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5.中華そばは何故ラーメンに名を変えたのか?:1960年代、高度経済成長の中で付加価値を上げる時が来ていた。そばの名がつく限り立ち食い蕎麦の価格に縛られることになる。主食に躍り出て、別の価格体系を創造するにはそばの名を外さざるを得なかった。そして、中華の縛りを解き放ち独自の麺を表現する時がきていた。かん水の国産化と使い方の妙を既に取得していた。日本独特の魚介類スープと具を試す時が来ていた。海外でも通じる言葉、ラーメンになることにより日本国内だけでなく世界へ市場が拡大。これが大きいだろう。ラーメンの最初は札幌ラーメン中華ではない日本の北方産の独自のラーメンとして全国にチェーン店展開を開始した。有名だったのがどさん子だ。ペリカンの嘴の下部分がどんぶりになっている。味噌バターコーンラーメンを編み出した。麺は黄色く縮れた太麺だった。ご当地ラーメンの先駆けだが、けしてご当地ではなく、東京が創業の地で、札幌とは関係がなかった。丸亀製麺が似ていると言えば似ているが、ロードサイドに爆発的に出店し、最盛期全国に1,157店舗あったと言う。日本最大のラーメンチェーン店だ。日高屋、幸楽苑でも400店舗、丸亀製麺で800店舗。急拡大した理由がインスタントラーメンの拡販時期と重なるからで、サッポロ一番味噌ラーメンが爆発的に売れた時期に重なる。日本独自の味噌、塩味を登場させた。全く従来の醤油ベースとは一線を画すことになる。そしてラーメンの時代を創出することになる。まさか世界に通じることになろうとは。今や日清の命名のカップヌードルは世界の言葉になっている。市場の7割は日本ではなく海外になっている

消えゆく「どさん子」】「味噌バターコーン」はここで知った : SAMのLIFEキャンプブログ Doors , In & Out !世界で一番インスタントラーメンを食べる国はどこ?日本と韓国のラーメンの誤解 | モンモンイのある日ラーメンと子ども
札幌ラーメンで始まったラーメンはカップラーメンとして世界中に広まった。今は中国が消費量No.1

20年前、初めて上海から蘇州へ汽車に乗った。あの頃新幹線なぞない。大陸横断鉄道のような古く大きな鋼鉄の厳つい車両。正直汚かった。満席。昼時で、皆カップラーメンを抱えている。何とでかい、子供の顔くらいあった。車掌は若い女性で、何とコマーシャルで一世風靡した大きなやかんを持っている。お湯はサービス。もう既にカップラーメンは中国に根付いている。2019年、年間414億個のカップラーメンが中国だけで消費されている。驚きの数字だ。これは全て明治時代、上海から麺職人が日本に渡り、かん水の使い方と麺の打ち方、スープの調合、具の合わせを教えたから生まれたもの。無心でカップラーメンを食べてくれる中国人の姿に日本として少しは恩返しをしたのではと今思っている。

ギョウザと満洲

ぎょうざの満洲の餃子

駅前のぎょうざの満洲で餃子をつまみにビール。師走の空の下、忙しそうに街行く人を傍目に眺めながら。日頃何気なく見過ごしていることに呑みながら考えるとハタと気が着く。何故この店の名前は満ではなく満なのか?何故餃子ぎょうざなのか?店員に聞いても分かる訳もない。創業者に会って直接聞けば判るだろうが、瘋癲呑兵衛に付き合うほど経営者に暇はない。コロナ禍で経営も厳しくなっているであろうし、大枚を叩いてくれるでもない半爺のお付き合いなんて時間の無駄でちゃんちゃんになるのが落ち。然らば時間のある呑兵衛は自分なりに考えてみる。これが暇な呑兵衛の特権である。時間はいくらでもある。金と命に限りはあるが。

wiki pedia外満洲から抜粋

満州か?満洲か?教科書で習ったのは満州。日本の傀儡政権であった満州帝国をほぼ指す。一方、中国では満州満洲は日本では八重洲や中洲など海や川に自然にできた土地のイメージだが、中国では更に民族までも意味する。満洲は嘗て広大な土地を有する国だった。更に世界一の帝国であったは実際この満洲から生まれた。満洲が実際先で後になのだ。外満洲は今やロシア領になり、ウラジオストックハバロスクなどが有名だ。外満洲を含めた満州の総面積は155万㎢になる。日本の4倍強。今では、中国では満洲は満族になり、少数民族の一つに過ぎない。満洲イコール日本の傀儡政権の意味で、既に歴史の中で消えた国家。今でも小数民族の人口としてはウィグル族、チワン族に次ぐ3位1千万人強である。これだけの人口を有しながら遼寧省、河北省、吉林省に11満族自治県があるのみで州クラスがなく、文字や言葉も認められていない。内モンゴルとして少なくとも言葉、文化、自治区が残っているにも拘らずだ。中国に駐在していた際、何度か満族の方に会う機会があった。全く漢民族と区別できない。同化が進んでいる。お話しすると親日的な対応をして頂ける。何か申し訳ない気持ちになる。私が中国に足掛け9年間中国にいたが、”にほんじん”と言われたのは昔の満洲の領地の遼寧省の大連だけだった。北京ではルーベンレン、上海ではサパニン、成都ではズーベンレン、香港ではヤプンニャンだった。中国では様々な日本人の発音があり困惑する。

満洲から生まれたは、最盛期世界のGDPの3割の富が集中したと言われている。中国では大清帝国とされる。が日本の配下で満州国として復活を図ったが日本軍にそれだけの力がなかったし、実際中国全土を制圧なぞ到底無理な話であったろう。中国の奥地は遥か遠く、深い。日本が早晩力尽きるのは火を見るより明らかだった。苦し紛れに米国に戦いを仕掛け、敗残する。最早人民政府の政権下で満洲の文字や言葉や文化の消滅が進む。2年前で満洲語を母語とする方は15名に過ぎないと言う。遥か遠く、西のカザフスタンとの国境近く、新疆ウィグル自治区のシベ族3万人ほどが満州語を伝えているとは驚きだ。消滅危機言語の一つになっている。尤も日本のアイヌ語も母語として話せるのは15人に過ぎない。厳しさが一層だが。

満族の女優では内モンゴル出身の葉青と香港出身の関之が有名。日本の三大美人で有名な秋田、新潟、博多。遺伝子研究により共通点が明確になった。これは満洲の血にある。全て日本海側、はるか昔、渤海国との交易で栄えた地であった。渤海国は698年から926年に栄えた、契丹と共に満洲の礎を作った国だ。日本とは奈良、平安と密接な交易関係を持ったと史書に遺してある。港に美人あり。渤海国の血を繋いでいる。日本と満洲の間には長く深い歴史がある。

新疆ウイグル自治区の中のチャプチャル県の位置Sealeg25.png葉青個人資料満族の身体的特徴 | 元チャイナドレスの実績日本一 店長の運営ブログ渤海の位置
新疆ウィグル自治区イリ・カザフ自治州チャプチャル・シベ自治県と満州語、満族の女優の葉青と関之林と渤海国   

最近ドイツなどの研究者チームが発表した「日本語の起源は中国東北部のキビ・アワ農家」と言うのが面白い。正に日本語の起源は満洲になる。何処か故郷に近い親近感があった。中国の東北部に出張する時、朝、ホテルでアワのお粥が必ず出る。日本では鳥の餌でしかないアワが実に美味いのだ。満洲のアワは品種が違うとのこと。これも驚きだ。道理で美味い。日本語は昔はウラル・アルタイ語系として西はハンガリー、フィンランド語からユーラシアを横断し、トルコ、モンゴル、ツングース、朝鮮語と同じ系列とされてきた。実際、フィンランド人の言葉を聞いたが、チンプンカンプンで同じ語系列か分からなかったが、彼らも難しい言語と自ら認めていた。今はトランスユーラシア語系と言う。日本語満洲起源説に見るストーリーとしてはキビ・アワを食していた9000年前西遼河に住んでいた満洲族が稲作の適地を求めて日本に下って行き、稲作と同時に言葉と言う文化も伝えたことになる。因みにアワは中国語で小米と言う。米は大米だ。小麦の無い時代、アワでラーメンを作ったのがラーメンの始まりとされるぐらい古い主食だ。稲作は中国南部で始まり、弥生文化として日本に入ったことになっており、このストーリーに沿えば満洲から朝鮮経由で文化と共に入ってきたことになる。弥生人が大陸系であることはよく判っており、肯ける部分が多い。今中国東北部(満洲)は中国有数の稲作地域になっており、この米は寒さに強く北海道で品種改良されたジャポニカ米だ。故郷への恩返しのようで嬉しいではないか。

私が中国遼寧省を訪問したのは15年前の冬鞍山から盤錦までバスで移動した。車窓から凍土と化した大地に没する太陽を見た。満州を開拓しに来た日本人を想い、暫し沈思黙考したことを思い出す。省都の瀋陽には東京駅にそっくりな駅舎が残されており、驚く。街中を歩くと美しい女性が否が応でも目に入る。背が高く、足も長い、しかも顔が小さい。モデルの様な女性が多い。明らかに南方の中国人とは違うのが一目瞭然。やはり今思うと民族が違うのだろうかと思わせる。更に大連近くには二百三高地が残されている。軍港が近く、基本的には日本人は近寄れないようだが、黙っていれば判らないと言われ見に行った。日露戦争の跡がそのまま残されていることにまず驚かされる。因みに中国人から初めて”にほんじん”と言われたのは大連から瀋陽に向かう電車の中だ。

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アワと日本語の起源   

日本に残る満州語で一番有名なのがぎょうざではないか。満州語辞書によると餃子はgiogiyan efenと発音する。ギョウジャンフェンである。これがぎょうざになったのでは?意味は餑餑(だんご)。黍を軟かく蒸して槌で叩き小豆餡を入れて長目に作り、油揚げしたものとなる。水餃子はhoho efenで別になる。日本と一緒で違うものになる。中国では基本的に餃子イコール水餃子だ。戦前は中国語をそのまま使った”じゃおず”がレシピに残っている。ぎょうざの満洲が何故ぎょうざと敢えて使っているか意味が分かる。満州語だからだ。一説によるとぎょうざは宇都宮の方言とまで言われているが、そうではない。満州からの復員兵や引揚者が中国を懐かしみ食したとされるが、それは水餃子のはずである。然も水餃子を焼いても美味くはない。全然別物だからだ。最初から焼き餃子として作らなければ味は出ない。それを教えてくれたのは、上海の屋台で食べた焼売(鍋貼)だ。生煎包とも言った。作り方が日本の餃子と一緒なのだ。これが日本の一般的な餃子になったのだろう。考えてみれば、昔北海道ラーメンが一般的になる前、ラーメンはシナソバだった。中華料理店で出すシナソバは薄い醤油味の酸っぱいスープにストレート麺だった。私が上海で初めて食べたラーメンと味が一緒だったのでこれも驚いた。中華料理が一般的になる前、日本人が主に食べていたのは上海料理だった。それは革命の度に日本に逃れて来たのが上海人だったからだ。上海では普通に焼き餃子を食べる。ここが他の一般的な中国と違う。

北方の中国では餃子は主食であり、ごはんと一緒に食べるものではない。日本人は何故餃子をおかずにご飯を食べるのかと中国人に聞かれたことがある。そう水餃子であればこれだけでお腹が膨れるのでご飯を必要としない。しかし焼くと主食から離れつまみとしてビールに合うし、ご飯にも合う。これは日本人の発明した食べ方であろう。また、中国では餃子を引っ繰り返すことはしない。あの形が重要なのだ。中国のお金の形なのだ。馬蹄銀(元宝)と呼ばれ、縁起物でもある。しかし、屋台の焼き餃子であれば、焼き面を上にするのは焼き具合を見るため必要となる。そもそもそこが違う。こだわりを忘れ、ぎょうざの満洲でビールと餃子、至極の時を過ごせることに日本人としての喜びを感じる。日本は中国から美味しい文化を取り寄せた。極東の文化の終着点でいいとこ取りができた。何と幸せなことか。

立花隆氏を悼む

この春4月に立花隆氏が亡くなられた。学生時代、遥か40年前になるが、大学で『田中角栄研究~その金脈と人脈』の講演をして頂いた。大学内外から数百の人々が集まった。田中御殿のお膝元目白で開催したことが世間に大いに受けた。主催した我々も留飲を下げた。立花氏の事実を事実として訥々と集まった聴衆に語り掛ける凄み。真実を何処までも追及する鋭い眼力。しかし、あの頃、まだジャーナリズムの金権政治批判が田中角栄を首相退陣へと追い込むも権力の座から引き下ろすには非力だった。学生だった我々は全てに金の力を優先させる世間の風潮が許されないと言う思いがあった。その後ロッキード事件が米国側から暴露され、遂に窮地に追い込まれる。立花隆氏の言葉で今も記憶するのは「権力は腐敗する」だった。

宇宙からの帰還」読んで飛行士になった 野口聡一さん:朝日新聞デジタル

彼はその後、マスメディアの寵児として様々な分野に足跡を残すことになる。政治的なコミットメントは最早、彼にとって本来の興味の対象には小さすぎたようだ。もっと大きな次元で”真実”を追求しようとしていた。大学での講演からすぐに発表された『宇宙からの帰還』は将にその後に追求するものが何なのか、明確に示された。大学で角栄研究の講演をされた時も実は彼の心は最早既に宇宙に旅立っていたのかもしれない。次元が違っていた。この本は、宇宙から地球に戻った飛行士の精神的な変遷を追い、掛け離れた経験から人間の精神が如何に飛翔を遂げるか、人間の精神構造の不思議さを問う最高の傑作だ。ここから人間の思考回路を問う『脳を極める』『臨死体験』へと人間の内面的宇宙の世界に入っていくことになる。は脳にあるのか?脳死はどう判断すべきか?死に臨み人間が幻想を見るのは何故か?議論を突き詰めていく。2000年以降、心から更に体の不思議へ。細胞の癌化という問題。癌は自己細胞の変異であり、癌を殺すと言うことは自らの細胞を殺すという矛盾点を衝いていく。

立花隆氏は2007年に膀胱癌を患うことになる。私もその3年後に同じ病に罹り、彼の文芸春秋に書かれた手術に至るレポートを熱心に読むこととなった。彼は更に2014年に癌が再発、癌の除去手術を再度受けられている。その時の癌映像を見ており、癌が上皮内癌(stage1)と思われる映像を見ている。私も同様にやはり発癌から8年後再発している。膀胱癌は再発率の高い癌と言われ、放っておくと転移性癌へと変異していく。モグラタタキ的な抗癌治療が続けられることになる。癌細胞がなかなか消えない。私は半年以上続け、音を上げることになった。私のようなガンサバイバーにとって彼が何故亡くなられたのか、どうしても気にならざるを得なかった。

膀胱癌に罹って肺に転移を公表された小倉智昭アナウンサーの件は心痛む。膀胱癌は膀胱内で収まっていれば問題ないのだが、膀胱の壁を越え転移が始まると治まらない。松田優作氏は癌が腰部に転移したことにより39歳で亡くなられている。立花隆氏が抗癌治療をされたか否かは報告されていない。寧ろ、高血圧と糖尿病に苦しまれていたことが報道されている。私も40歳代は両方に苦しんでいた。高血圧は眠れず、糖尿病は四肢を麻痺させる。全く生きながら、将に植物人間の苦しみを味わう。2014年9月14日放送のNHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」に出演された彼の姿はすでに限界に達しているかに思えた。番組の最後に23年ぶりに再会したレイモンド・ムーディー博士をアラバマ州の家に訪ね、語らうシーンは彼の死を予感してならない。死を素直に受け止めたい彼の本心、そして最後に逢いたかった博士と昔を懐かしむシーンは生きている間にどうしてもとの思い入れを感ぜざるを得ない。既に死を準備していたのか。

https://www.dailymotion.com/video/x260cx5

昨年1月のデモクラBOOKSのYouTubeチャンネルで、立花隆氏との生前最後の元気な姿を見ることができる。いまこの本を読め・第12回 立花隆『エーゲ 永遠回帰の海』。彼は自分の人生をまとめる。角栄研究で得たのがエーゲ海への旅。彼は日本の政治の暗部を追究する中で虚しさを感じたことを語っている。自分の進むべき道は哲学そして科学的真実の追求であるべきと、人生の最終章としての原点に回帰すべくエーゲ海に心が向かう。最早、彼の中で田中角栄から繋がる、否、岸伸介から今まで延々と繋がってきた政治権力の二重構造も些末な問題とここで片づけている。最早日本の歴史を俯瞰的に捉えているようだ。エーゲから飛鳥へ、日本の天皇の歴史の言及している。どんな困難や問題があろうと乗り越える民族であると結論付ける。彼が最後に伝えたかったのは過去の肯定ではなかったか、未来は過去の上に積み重なっていく。基本は哲学であり、その上に科学がある。基本がしっかりしていればいいのだと。人は年を取ると様々な角度から見えるようになるものだとインタビューアーに伝える。彼が死を控え、原点に復帰していきたいとの思いがここにでている。

https://www.youtube.com/watch?v=6__jQMPJKmI

最早、原子力、ウィルス、政治の腐敗、彼は乗り越えるべき問題を後世に託していることが分かる。彼は基本的な問題提起を終え、自分の役割は終了としたかったのではないか。私はここまでと。残された我々は彼の哲学を理解し、また更に後世に伝えていかなければならない。彼の背中が見える。追求し続けた「人間は何処から来て何処に向かうのか」はけして終わらない我々の旅路を示している。彼の遺した著作に解決のヒントはあるが結論ではない。我々が生きる限り回答を求め自ら考え、歩み続けなければならないだろう。

伊勢(蘇民将来子孫の系譜)

船長、お元気でしょうか?初めてお会いしてから早いもので8年が経ちます。朝明の温泉でしたね。お声をかけて頂き、嬉しく。精悍なお姿を忘れはしません。皆さんがいつもお名前ではなく船長と呼んでいましたね。今も現役で船に乗っているのでしょうか?あの頃はまだ60代でしたね。寡黙で笑みをいつも浮かべていた。日に焼けて真っ黒な皺の刻まれたお顔は船乗りの勲章のようでした富洲原港の週末の朝市で船長が獲って来られた新鮮な魚介類を見るのが楽しみでした。

涅槃を見せる釈迦ヶ岳(鈴鹿山脈)

私は鈴鹿山脈の麓、四日市富洲原港近くに2年近く住みました。伊勢湾の海の青さ、鈴鹿山脈の山の緑、川の澄んだ色、どこまでも広い空、走馬燈のように思い出します。船長が言われた「鈴鹿の山に木を植えに行ってんだよ。山が荒れると海も荒れる。」この言葉を思い出します。木々の山を守り、滋養分を川に流し、川から海へ、そして海を豊かにする。山から川そして海、全てがつながり、海の豊かさを育む。伊勢の素晴らしさはそこにあると実感しました。鈴鹿山脈は海に迫り、1000m級の山並みは伊勢湾を守るように凛としていましたね

竜ヶ岳(鈴鹿山脈)より伊勢を望む

私はあの2年近くの間、以前8年駐在していた中国に戻りたい一心でいたことを今白状します。中国ビジネスの面白さを知り始めた時、リーマンショックで全てがとん挫しました。まだ何かやりようがあったのではないか?自分が寧ろ生かされるのは中国ではないか、日本にはもう未練を残していなかった時期でした。上海そして思い出の蘇州に戻りたい。最早忘れかけた中国語、船長が、関西弁のアホをハオと言われたことを思い出します。ハオは中国語で(良い)の意味ですが、ハオだけでは実はアホの意味になります。言わば皮肉ですね。「いい奴だ」みたいな感じですか。アホはハオから来ていると言われています。関西弁の言い回しは何処か大陸的でした。うるさいは中国語の五月蠅(苍蝇)「ウーユエツァンイン」」から、パパママも中国語から。面白いのはシューズ、英語ですが、元々の中国語は鞋子「シエズ」です。日本語に中国語の余韻を感じていました。伊勢には中国の香が確かにありました。そうそう徐福伝説が残っている新宮は伊勢と熊野につながる港です。

新宮にある徐福公園

不老不死の薬を求め、数百人の中国人と共に日本に徐福は海を渡って来たと言われています。秦の始皇帝の時代、紀元前200年代です。来訪の伝説は朝鮮、九州とありますが、最後に辿り着いたのは熊野と伊勢の入口と言うのが不思議です。辿り着いた彼らはその後どうなったのか?全くその後の足跡は杳として掴めないのです。ただ、多くの中国人が住み着いた証拠が”下戸”の遺伝子にあると思えるのです。この遺伝子変異は中国で起きました。人類の特長は他の動物と違い、アルコールを分解できる酵素を持っているところです。それで酒を飲み楽しめるのです。ところが中国江南地域の人々はこの酵素を弱め、アルコールを分解せず体内に残し、感染症に強い体質をもたらしたと言います。毒を持って毒を制すということですね。この遺伝子が強く残ったのが日本ということ。然も三重、愛知にこの遺伝子を持った方が多い。正に渡来人の遺伝子の賜物でしょう。実は上海・蘇州にいた時に呑めない中国人が多いのに驚きました。伊勢に来てやはり呑めない方が多い。不思議に思っていました。中国の江南地域の人々は色が白く、毛深くなく、細身が特徴です。伊勢の人々も色白、薄毛、細身、似ているのです。上海蘇州、そして伊勢、毎日入っていた温泉で気が着いたことでした。中国で生まれた遺伝子が海を渡り、伊勢に辿り着いたかと思うと感慨深いですね。

伊勢と言えば獅子舞です。発祥の地と言われ、正月には民家を回り賑わいを振り撒きます。伊勢大神楽として今に伝わります。正に中国の舞狮が原点。お囃子がついており、鉦や太鼓、これが日本の祭り囃子に繋がったのでしょう。伊勢の石取り祭りは中国のお囃子を彷彿とさせます。これは伎楽が期限で、中国の呉から伝わったとされ、呉楽とも呼ばれます。日本書紀には伎楽百済からの渡来人である味摩之が612年に伝えたとあります。獅子舞も最初の記載はここに始まります。伎楽は今は使われた面のみ正倉院に残るだけ。何故伊勢に神楽として伝わり残ったのか?神楽の起源は古事記・日本書紀の天照大神の岩戸隠れに天宇受売命が神懸りして舞ったもの。天宇受売命の故郷は正に伊勢です。徐福の残した遺伝子はここにもあるのではないでしょうか?天宇受売命が踊りの際、腰に巻いていたのが注連飾りの元と言われています。

伊勢を伊勢足らしめるのは勿論伊勢神宮ですが、その入り口とされるのが二見浦です。猿田彦伝説があり、倭姫命を伊勢神宮創建へと二見浦から導いたとされます。猿田彦は道を案内する神として道祖神としても祀られています。容姿は天狗そのもの、日本における天狗伎楽治道のようです。伎楽は行道、言わばパレードで始まります。その先頭に立ち道案内の役割を演じています。仲睦まじいカップルの道祖神は猿田彦と妻の天宇受売命に由来します。中国における天狗道教由来で、日食、月食を引き起こす太陽や月を食べる天にいる犬とされます。全く違いますね。日本では天狗は寧ろ山岳信仰の中で山ノ神となっていきます。猿田彦伝説庚申信仰の中で、見ざる言わざる聞かざるの三猿へとつながっていきます。

また、二見には蘇民の森公園があります。初めて訪れた公園の蓮池で以前住んだ中国の蘇州を思い出しました。夏は蓮の実を蓮台ごと庭園で売っていました。そのまま実を外し緑の皮を剥いて食べます。70円くらいで山盛り、ほんのり甘くて美味しいのです。夏の楽しみでした。日本ではこの習慣がないですね。中国では蓮の花が庭園一杯に咲き誇ります。思わず、この公園の蓮から種を取って食べてしまいました。懐かしい味でした。同じ味でした。

二見町の家々には面白い門符が飾っていました。初めて見ました。蘇民将来子孫家之門とあります。これは蘇民護符と言われ、伊勢のものは注連飾りされ、裏には陰陽道の呪文が記されています。護符自体は中国の霊符から。道教の流れ。元々、中国同様肌身離さず体に着けているのが本筋。然らば蘇民将来とは?奇妙なことに人の名前だそうです。昔、旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、彼女を除いて、巨旦一族を皆殺しにした。武塔神はみずから速須佐雄能神と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとしたそうです。この「蘇民将来信仰」は朝鮮半島の渡来人によって、尾張国津島、備後国福山など都の周辺部に伝わり、都への伝承は西暦7~8世紀頃と推測されるようです。更に話をややこしくするのが、本地垂迹です。武塔神速須佐雄能神更に牛頭天王となり、八王子伝説へとつながっていきます。総本山は京都祇園社です。即ち中国からきた道教日本で独自進化した陰陽道、更に朝鮮由来の神話が織りなす神道と結びつき、インドに結びつく仏教へと組み込まれます。ここで四つの信仰の融合が何とも言えない神秘な世界を醸し出します。正に海に囲まれた島国だからこそ生まれた不思議な信仰とも言えます。最早元の信仰は中国でも朝鮮韓国でも失われています。日本でこそ生まれた信仰となって日本中に広まったのです。

これを可能にしたのは伊勢独自の文化でしょう。海女の安全への祈願。海女は陰陽道の呪文を唱え、海に向かいます。蘇民護符にある五芒星(セーマン)と九字紋(ドーマン)です。陰陽道と神道をつなげたのは役行者に代表される山伏です。熊野から伊勢へ陰陽道の道が見えます。陰陽道は道教の一つ。日本において道士を中国から呼ばず、陰陽道のみ採用し、安倍晴明が日本独自のものとしました。伊勢神宮においては道教太一教も奉っています。正に神道と道教の融合です。これは天武天皇の意思。伊勢神宮に天照大神を祀るようにしたのも天武天皇です。伊勢神宮を創建したとされる倭姫命より草薙剣を賜り東征に向かったのは日本武尊、最後は疲れ果て、体が三重となり伊勢で亡くなりました。日本武尊速須佐雄能神に重なります。

徐福から蘇民まで道祖神として猿田彦と妻の天宇受売命が導いた伊勢の文化に異国の薫りを感ぜざるを得ません。徐福の連れてきた民の遺伝は今も伊勢に脈々と流れているのでは?これは伊勢茶瀬戸物にもつながるものでしょう。私は最早伊勢を離れ、更に6年旅を続け、中国上海・蘇州に再度戻ることができました。しかし、中国という広大な大地を前に首を垂れ、夢は潰え、日本に戻り引退への道を選びました。今、自分の歩いてきた人生の旅路を振り返って、伊勢で中国から日本への大きな文化の流れに接することができたことが一番幸せでした。この文章を書くにあたりまして、大屋行正さんの書かれた「伊勢志摩地方の蘇民符と注連縄」を参考とさせて頂きました。文末で恐縮ですが、添付させて頂きますと同時にここでお礼を申し上げます。素晴らしい調査結果に感嘆しましたと同時にお元気であれば90才を疾うに越えられているのではとご推察申し上げます。ありがとうございました。

将棋

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私の将棋との出会いは小学生、父と兄に教えてもらった。強くはなかったが、たまにとんでもない手を指すのが嫌われて相手にしてくれなくなった。もう55年、相変わらず変な手を指している。上図は指した将棋の最終局。私が先手、相手が飛で竜を切ると頭金で勝つ。竜がいるので桂で馬は取れない。玉は馬がいるので逃げられない。守るとなると持ち駒なく、銀を下げると頭金で詰み、飛の守りは4九金王手からタダ取りされるので投了。僅か41手。私は飛車角だけで攻めた。相手は面白くない。頭にくるともう私と指したくなくなる。将棋が原因で友人を失ったこともある。

しかし、たまたま今回うまくいっただけで、大概ボロ負けしている。いつも短手筋を目指しているからだ。負けても気にしない。さっきの将棋が勝ったのか、負けたのかさえ憶えていない。プロ棋士の上達の基本は負けたくないから強くなったとよく聞く。藤井総太二冠は小さい時から負けたら悔しく泣いて勝つまで何度も指されたと聞く。詰将棋もきっちり勉強されている。将棋の本を読み、あらゆる手を勉強し尽している。彼は19歳、勝負を前に年齢も性別も学歴も職歴も関係ない。強い人間は強い。私は全く何も勉強していない。本も読んだことはない。詰将棋も苦手でちょっと見ただけで諦めている。私の手は適当、思いつきと経験から指している。全くの素人将棋。縁台将棋。しかし、ここに将棋の面白みがある。勝つか負けるかはその時々のお互いの指し手の流れに従う。定石に従わない、伸るか反るか、毎回新鮮で面白くなる。素人が素人として楽しめるからこそ将棋の裾野が広いのではないか?

将棋は指す駒が決められている。トランプや麻雀と違い、全くのオープンである。配牌の妙はない。囲碁と違い、一から勝負を連ねていくものでもない。お互い既存の駒を動かしていく。しかし何処かで勝負手を打たなければならない。これはお互い様だ。王を取るか、取られるか。相手の守りを崩して攻める。攻めるうちにも守らなければならない。攻めと守りの相反する選択が迫られる。これが妙手か悪手か、厳しい瀬戸際に追い込まれる。肉を切らせて骨を断つ勝負手に賭けるプロは自分が詰まないか先ず考えるそうだ。素人は相手を詰ますことをまず考えてしまうから攻めに失敗すると負ける。しかし攻める時に攻めないといつの間にか墓穴を掘ってしまう。攻めれば自然、自陣が薄くなる。いつの間にか王がにっちもさっちも。いくら優位でも勝機を失うと厳しい結果になる。一方、将棋の妙は逃げ切っても勝ちになる。逃げるが勝ち

中国にいたころ道端で人垣を見かけた。大概数人で一生懸命下を見ている。議論している。何を?将棋盤に並べられた丸い駒。そう詰み将棋、賭け将棋だ。中国では将棋は象棋(シャンチー)。日本と違い駒組みが粗く、王の守りも薄く、シンプルだ。双方の真ん中に川があるが意味はない。大抵折り畳みの小さい椅子が道路側に盤に向かって置かれ、仕掛人は盤を広げて客を待つ。盤は大概紙。客の候補は見ている数人のうちにいる。サクラもその中に入っている。熱心に議論を吹っかけている。仕掛け人は椅子に向かって黙って100元を見せている。何処の将棋もそうだが、勝てそうな局面でも実際勝てない場合がある。するりと逃げられる道筋が用意されている。日本でも昔は祭りの時に必ず賭け将棋が見られた。日本と違うところは仕掛け人が若い女性の場合がある。そこが大きな罠。結局あと一歩で詰ませることはできない。賭けた金は取られるのが落ち。悔しそうに帰るカモの背中を見ることになる。将棋は優位な駒組みでも勝てる保証がない。逆に優位な時こそ危険な場合もある。そこが将棋の妙

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将棋の発祥の地は遠いインド。ここから西洋ではチェス、アジアでは将棋と世界中に広まった。このゲームは良くできている。なかなか詰まないように計算されている。戦争を避けるためのゲームといわれ、確かに疑似戦争。王を取れば勝ち。王を取られれば負け、へぼ将棋、王より飛車を可愛がり。実際、飛車を切って勝つと気持ちいいが、飛車を取られて投了も多い。素人は特にうっかりが多い。一手のミスが敗着につながることが多い。王を取られることは心臓をエグリ取られるように思われる。昔、将棋を昼休み指していて、脳溢血で斃れる人がいて将棋禁止令が会社で発令されたくらいだ。縁台将棋では負けると将棋盤を引っ繰り返して帰るおじいさんが定番。

将棋は昔から囲碁より低く見られていた。企業のトップは囲碁を嗜み、下っ端の人間は将棋と言うのが定番であった。囲碁は世界の言葉であり、確かに世界で幅広く打たれている。日韓中大会、世界大会と新聞を賑わす。中国で2000年前には打たれていた。私も教えてもらい、打ったこともあるが、どうも白黒の世界は寂しく、無味乾燥な感じを受けた。生来、抽象的な世界に弱く、計算が遅く、エリート意識にも乏しかったことから自然と差しで王を取り合う将棋の世界が好きになった。今でこそ羽生九段、藤井二冠とスターがファンを引き付けているが、吹けば飛ぶような将棋の駒に~の「王将」で有名だった無頼漢”坂田三吉”のイメージ。自分はこの方が好き

会社時代の将棋は先ず碁会所だった。問屋のおじさんと二人、神田で飲んで、行きますか?駅裏の碁会所に入る、そこで将棋が始まる。将棋・碁を打っている人の間をやっと通れ抜けるほど狭くてきれいとはお世辞にも言えない碁会所の中は煙草の煙とおじさんたちの体臭でむせ返っている。勝っても負けても楽しい思い出だった。問屋のおじさんはいつも煙草を燻らせていた。もうあの問屋のおじさんもこの世にいない。もう30年も前の話。その後は一人飲んで、帰り際、池袋の汚いゲーセン、100円でゲーム機相手に指していた。時代は過ぎ、今はインターネットで誰とでも指す。日本でも中国でもどこにいてもインターネットがあれば、サイトにアクセスし、相手が誰かは分らないで指す。24時間関係ない。もう碁会所も見ない。ゲーセンで将棋ゲームは既にない。私が今アクセスしているサイトはSDIN、昔は様々なサイトがあったが、消えていき残ったのがこのサイト。

https://sdin.jp/browser/board/shogi/

レートは1000点が基準。私はほぼ900点台で蠢いている。勝ったり負けたり。弱い相手には勝たせてもらい、強い相手にはほぼ負ける。たまに1000点台に上がり1100点台目前になると負け続け、最終的に900点台で落ち着く。相手は自分の点数に合わせ、900点台であれば900点台、1000点台に上がれば1000点台としている。希望レートを選べるのが良い。先手後手はランダム。昔は試合毎に挨拶していたが、盤を大きくするため、画面上、挨拶の欄を見えなくしているので挨拶抜きの不躾である。持ち時間の基準は5分から20分まで、集中が続かず、疲れるから。自分の設定は10分1手時間3分としている。チャットは断る。将棋を指すのは朝、目を覚ましたい時、寝る前にリラックスしたい時、気分転換を図ろうとする時になる。勝っても負けても恨みっこなし。勝てない相手はほぼ決まっているので避ける。へぼ将棋に付き合わせるのは失礼と勝手に思っている。相手を選べるのがいい。但し名前は都度選べるので変えられたら分からない。

インターネットでの将棋は面と向かって指すべき1対1の将棋本来の人間味を失わせるものだろう。しかし、純粋に自分の空間で将棋を集中して楽しめる。好きな時、四六時中、世界中どこででも指せるところがいい。駐在した中国でも楽しめた。出張時、米国でも英国でもアイルランドでも指せた。世界中で将棋愛好者がいつもどこかで指しているのではないか?見たことがないから判らないが、日本の夜中は中南米の昼間、世界中何処かは昼である。24時間楽しめる理由はここにあるに違いない。相手はけして見えない。PCの先の何処かに私と同じようにPCの前で将棋を指しているはずだ。私はいつもインタネットで24時間途切れないFM1のバロック音楽を聴きながら寛いで将棋を楽しんでいる。他には何も考えない時間だ

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相手はほぼ日本人とは思っている。少なくとも中国、韓国人に違いない。欧米にはチェスがある。いつも様々な人々と指している。相手は疲れた中年だろうか、私の様な老いさらばえた老人だろうか、はたまた若い人、女性や子供なのだろうか。マイナーなゲームだが、脳の活性化、ボケ防止、気力の鼓舞にはもってこいだ。最早私は将棋を続けて指すことはできない。一手終わると頭がボーッとする。脳が疲れて集中力の限界。高々20分でもである。それでもコーヒーやお茶で気分展開し、一休みすれば、また指そうと言う気になる。懲りないお爺さんに戻れる。今度は違う手を指してみよう。もう一度指し直そう。今度は勝てるかな。これが私の一番の喜びだ

日記

2010年9月6日(月)

50才になって初めて日記を書こうと思う。何となればガン宣告されたからに他ならない。丸善にてこの日記帳を買う。2,100円也!若林堂にてニーチェの言葉という本を買う。1,785円也!まず”カタチ”から入る私らしい。病名は膀胱癌!生命に関わる病である。今まで成り行きで生きてきたため日記なぞ書かなかった。書く気もおこらなかった。癌は人生を見直す契機をもたらすものとしては重要である。これからは少しは自省的になりたいものだ。今晩はやっと涼しくなったのでちょうど良い!本当に良いタイミングだ。由貴はおふろ、未央とママは楽しく勉強。愛する家族のために楽しく自分に向き合い、自分を鼓舞できればそれで良い。これが日記を書き初めた理由である。今日はもう眠いのでここまで、また明日。

11年前になる、日記の書き始め。日記帳に話しかけている。癌になった自分に大丈夫だよねと確認している。日記のいいところは、他人に言っても分かってくれない苦しみ、悲しみ、辛さを思う存分思いのまま書ける。書くことにより自らに対し客観的になり、心が落ち着き、感情的に他人に当たることが無くなる。初めて命の危険を感じた時、自分を見つめ、残された時間を大切に使おう。日記に書くと考えが整理され、どうすべきか、どうすべきだったか、もう一人の自分が回答してくれる。そう自分を見つめ直す。一方大切なものへの想いがそのまま出てくる。そう家族だ。家族のために頑張らなければならない。

更にここで何故ニーチェか?書かれた言葉がその後に人生の全てになった。ニーチェの珠玉の言葉が力になる。

自分が常に切り開いていく姿勢を持つことがこの人生を最高に旅することになる
・今のこの人生をもう一度そのままくり返してもかまわないという生き方をしよう
・遅かれ早かれ死ぬのは決まっている。だからほがらかに全力で行きていく
・喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう           ・過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える           ・世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。

この日記帳は日本橋丸善に行った際、カバーの織布の藍色の美しさ手に馴染む温かみに惚れて、少々高いが購入した。阿波しじら織り。独特の風合い。そしてノートの行間の広さ、書きやすさも良かった。この手帳の虜にすぐなった。あの頃は万年筆で書いており、ささっと書いていたので誤字脱字が多かった。尤も字を書くこと自体も忘れていた。パソコンでのキーボードや携帯での文字入力は漢字への自動変換機能があり、漢字の記憶が大まかになる。形状が浮かぶが詳細が出てこない。当たり前の漢字も書けなくなる。便利は便利なのだが。日記を付けることは漢字を思い出し、書くと言う作業を思い出すのに丁度良かった

しかしよくも11年続いたものだ。理由は簡単だ。日記を書くというより助けを求めていたからだ。日記は都度みごとに答えをくれた。最初の癌は手術で乗り切れたが、また8年後再発し、抗癌治療に涙する、日記はずっと寄り添ってくれた。今までの人生、成功より挫折。”あと一歩で”と言う言葉が今も耳から離れない。越えることができたら人生も変わっていた。もっと努力すれば、集中すれば、我慢すれば、後悔先に立たず。今更なんだ。もう既に人生も終着点を迎えようとしている。取るに足らない、薄っぺらな、何も後世に残すものはない。おさらばする時が刻々と近付いている。この世から消え、地に戻る。それもいい。体に生じた癌は身から出た錆と思えた。そんな自分を冷静に日記は解読してくれた。微笑みを私にくれた。自分が自分らしくなすがままに生きよと。だから日記を続けられた。

三重県に二年、長野県に二年、中国に八ヶ月、彷徨い続けた。この間も日記を手放すことはなかった。寧ろ日記なしでは生きていけなかった。2017年11月6日この日記帳ともお別れすることになった。理由は形に拘ることを止めようとおもったことだ。中国に移って一カ月、中国に居を構え、この日記帳が手に入らなくなると覚悟したこともあった。その時の日記。

2017年11月6日 (月)

疲れた。問題が山積み。たまらん。まあ今日は寝よう。この日記帳とも今日でサヨウナラ。もう全て捨てる。あとは質素に日記を付けていく。もう形はどうでも良くなった。どうせ”無”に皆戻っていくのだ。形にこだわることはない人生”無”だ。どうでもいいのだ。形あるものは消えゆくもの。今を生きていけば良いのだ。体を元に戻し何とか生きのびよう。明日は明日。辛い日々も去っていく。私の記憶の片隅に残るのみ。全てはサヨウナラ。私の心の問題だ。これからを私は私なりに生きていく。もう何も残さない。それが私らしい。そのままの人生なんだ。素直にそのまま生きていく。

このあと、日記帳はありあわせのノートになり、書くものも万年筆から鉛筆に、字も書きなぐりとなり、自分でもあとから読めなくなっている。しかしほぼ毎日書く。手帳、サブノート、日記ノートの3本立て。手帳には予定、サブノートには反省や目標をまとめる、そして日記には日々の想いを書いている。山だって旅先だって持っていく。電車で書くこともある。コンビニ、マック、喫茶店。中国の庭園でお茶を飲みながら日記を書いていた時、見知らぬ中国人が覗き込んで来て、面白い漢字だ。と言ってきたのには驚いた。日記は元々中国語だが、中国では公式な記録のこと。日本のような日記文学は聞いたことがない。漢字の書くなぐり文化はないようだ。この中国人は旅行者で、湖南省から団体で来ていた。日本人だって見たことがなかったのだろう。公式に漢字を使うのは今や中国人と日本人のみとなっている。1千数百年の時代の流れで意味も形も違う部分ができている。思えばカタカナもひらがなも書きなぐりが元といえばなるほどなのかもしれない。芭蕉の奥の細道の原書も漢字書きなぐりに見えなくはない。

時代も変わり、ブログを日記としている人が多いようだ。しかし、私は鉛筆書きに拘っている。そうしないと自分に向き合えないような気がする。昔は夜寝る前に書いていたが、ワイン一杯で酔っ払って寝てしまうことが多くなり、書けなくなった。昼、コンビニで外の景色を眺め、100円コーヒーを飲みながら書く。それで充分。贅沢は言わない。今の自分を見つめるのに丁度いい。鉛筆は温もりがあっていい。シャーペンでは寂しすぎる。消しゴムは必要だが。あと何年書けるだろうか?それが今自分の問題の様な気がしてならない。ボケとの戦い、年を取ると、いつ意識が無くなりそのまま別の世界に行ってしまうかわからない。書くことがなくなることも怖い。何もすることが無くなれば書けなくなる。主体的に物事に取り組むから書ける意欲が無くなったとき筆は折らなければならない。その時は遅かれ早かれ来るものだろう。その時が来るまで日記帳を片時も離したくないと思っている。

終戦の日に寄せて

今日8月15日は終戦の日。今は亡き父とテレビで夏の甲子園を見ていると急にサイレンが球場に鳴り響く。正午。選手が試合を止め、帽子を取り、頭を下げ、直立不動で黙祷を捧げる。合わせて応援も放送も何もかも止められ、球場全体が数分間静寂に包まれる。父に言われ、家族全員一緒にテレビに向かい、直立不動になり頭を下げ、黙祷を捧げる。日本独特のけたたましい応援合戦の異常な雰囲気がガラッと変わる一瞬の時だった。庭のクマゼミの声と扇風機の音が急に大きくなる。これが私にとっての終戦の日だった。高校野球と戦争、そして終戦が持つ意味合いは何なのか。長じてくると終戦の日とは何だったのか疑念を持つようになる。終戦は日本がまず降伏を宣言した日なのか?終戦を一方的にできるのか?と言うことだった。一方的な降伏はそう簡単に許されるのかと言う疑念もあった。終戦の日とは玉音放送が流れた日に過ぎない。しかし高校球児にとって何の意味があるのか?

実際米英中ソによるポツダム宣言の受託を海外に向け宣言したのはは8月10日である。5日前にはもう既に海外に対して無条件降伏を告げている。一方ソ連からは中立条約の破棄と宣戦布告をその前日に受けている。最早ソ連は止まらない。これはポツダム宣言履行によるものだ。日本の敗戦は既に既定路線に入っており、時間の問題だった。5月にナチスが敗れ、6月のソ連への敗戦仲介要請は徒労に終わった。尤もこの前の年にサイパンを抑えられ制空権を米国に握られた時点で最早敗戦が濃厚であったのは軍部も承知していたのではないか。将に四面楚歌の状態だった。そこに原爆投下。寝耳に水。国体護持しか為政者に頭になかったはずだ。いつ白旗を上げるか。日清、日露と日本は常に引き際を念頭にして戦っている。けして両国に勝ったわけではない。全面戦争は避けていた。日本には局地戦の妙しかない。真珠湾攻撃は窮鼠猫を噛む、ソ連への和平交渉は手負いの熊に命乞いをするようなものだった。真綿で首を絞められるように全土への空襲と艦砲射撃の前に押し黙るより仕方なかった。8月15日は国民への敗戦告知の日であり、戦争はけして終わっていなかった。ソ連の攻撃は続いていた。終戦の締結は9月2日まで待たなければならなかった。終戦の日の意味は対外的ではない、若人を特攻と言う死の世界に送り込むことを止めさせた日なのだ。

太平洋戦争の是非が問われるのは、神風特攻隊を生み出したことだ。失われたのは年端もいかない若い命だ。未成年の若者に死を恐れぬ自爆テロを強いたのは誰か。為政者は問われなければならない。若い命は戻らない。過ちを繰り返してはいけない。敗戦と言う事実を認め、戦後復興から過去を拭い去るのではなく、和平交渉がまだ済んでいない北朝鮮、ロシアとどう向き合うか日本は米軍の基地なのか植民地とした地域があるモンゴル、韓国、中国との関係。戦後76年経っても敗戦処理は残っている。黒い雨訴訟の判決が下りたばかりだ。まだ戦争は終わっていない。戦争に対する責任を負うことを逃れ、票取りのために靖国神社に行くのが政治家の仕事ではない。今こそきけわだつみの声を聞くべきだ。何故高校野球でサイレンが鳴るのか、失われた若人の声をサイレンが代弁している。忘れてはいけない。失われた若人の声だ


人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、
ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐ろしき哉、浅ましき哉
人間よ、猿の親類よ。

自転車の旅、旅路の果て

人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し急ぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
勝つことを知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり

徳川家康の遺訓は正に我が自転車の旅への御言葉。旅の荷を背負い、坂をえっちらおっちら上り、下る。そして息を吐く。黙々とペダルを踏み続ければいい。自転車の旅は正に人生の旅只管耐えるのみ、けして急がず、焦らず、愚痴らず、誰に抜かれようと我が道を行く

1.若かりし頃:広島へ 1979-1984

小さい頃、自転車に乗りながら考えた。この道は何処まで続くのだろう。自転車に乗れば何処までも行ける。田舎の一本道は野を越え山を越え何処までも続く。未知の世界。しかし現実はそう甘くない。自転車の旅が実現したのは学生時代、41年前。東京-仙台往復602kmから。3泊4日。仙台迄は旧水戸街道の国道6号線を只管走る海岸線沿いの平坦な初心者コース。1970年代後半、若者の旅は自転車。飛行機に乗るなんて贅沢の極み、海外なんて以ての外、かと言って新幹線も高嶺の花、夜行の鈍行が当たり前。そして何より混とんとした時代だった。学生運動への不信から宗教への誘いが忍び寄っていた。現実から逃避し、”青年は荒野を目指す”がブームだった。思い通りにならない世の中、せめて自分の世界を広げたい。世の中とはどんなものか、”何でも見てやろう”と相なる。金はないけど自由はあった。バイト代で自転車を買い、旅費を捻出する。その頃の道は整備されてなく、危険がいつも隣り合わせだった。若気の至りから東京に戻る道で旧奥州道の4号線を白河の関に向かい、何を血迷ったか、また水戸街道へ、勿来の関に抜けたくなった。酷道と言われた289号。あの頃3桁の国道は国道ではなかった。だいたい関所を横断するなんてえのは愚の骨頂。関所破りもいいとこだ。夕闇迫る山道で、車を避けて側溝に前輪を嵌め、前後輪が接吻し、山に突っ込んだ。股間はハンドルの軸に。血だらけだった。あの頃の自転車はまだ安かった長距離走行用日本製ランドナー、後輪にバック2個とフロントバック、坂道でスピードが増すことを分かっていなかった。運よく通りかかった地元の軽トラのおっちゃんに助けてもらい、病院へ。何とか止血してもらい、事なきを得た。自転車はくっついた両輪を引き離した。フレームはクロモリ軽くて丈夫だった。東京に戻り、旅は続く。気にはしない。

暁に富士

東京から広島まで938kmを6日間、1981年8月6日の原爆記念式典に出てみたいとの一心で向かった、基本は野宿、浜松の神社で寝ていたところ、朝早くお百度を踏む人がおり、たたき起こされた。名古屋では日中、睡眠不足でいつの間にか自転車を横転させ寝ていた。京都では照り付ける真夏の太陽で大火傷を負った。もう諦めようと思った大阪の峠で原爆に遇い広島から逃げてきたと言うおばさんに会ってしまい、旅を続けざるを得なくなった。今思うと良くも広島に着けたと思う。ゼミの先生が倒れ、急遽広島から輪行し新幹線で帰った。更に東京-直江津-富山-能登一周-枚方1,093kmを7日間。枚方から急に呼び出された会社面接のためやはり輪行し夜行電車で帰った。学生時代の自転車旅行は熱かった。闇雲に走った記憶がある。社会人になって流石に野宿はなくなったが旅は続いた。紀伊半島を桑名-大阪844kmを5日間、潮岬は行けども行けども辿り着かない、深い山の先だった。四国を徳島-松山860kmを4日間、足摺岬で雨が横から降ってきたのには驚いた。自転車は下りて押さざるを得なくなった。旅は楽しいばかりではない、苦しいことが多かった。でもやめられなかった。道は永遠に続くと思われた

最初の自転車の旅

2.挫折・癌の克服:日光は遠く 2010-2012

挫折の時が来る。腰を痛めた、更に時代はバブルに突入した。六本木で遊び呆ける誘惑に勝てなくなった。弾けると同時に現実に戻り、貯金もなく結婚し、家を建て、子供が生まれる、仕事も忙しくなる。住宅ローンは返さなくてはならない。育児の義務、目の前の現実が自転車と言う夢を追いかけることを許さなくなった。そうこうするうちに国内景気暗転から海外出張へ、更に海外単身赴任が追いかけてきた。毎日が必死だった。当に自転車の旅は頭の中から消えていた。最後の旅から既に25年が過ぎていた。ひょんなことから忘れかけていた夢を思い出す時が来る。8年に及ぶ海外単身赴任から帰り50才を迎えた時、が見つかった。手術した。リハビリは散歩、そして体力が戻ったころ自転車で近所を回ることにした。ママチャリならぬ、パパチャリ、ブリヂストンの三段変速のシティサイクルだ。いつの間にかまた自転車の旅にのめり込んでいた。道はまた目の前に広がった

仕事は閑職となった。リーマンショックの余波で海外事業再生の目もなくなった。仕事に揉まれ続けた会社人生は50才を境にすっかり変わった。幸せなことに全てのローンの支払いが終わった。自分の義務は子供たちを無事学校だけは卒業させることだけ、後10年。斯くも長い不在から家族とは疎遠になった。癌もいつ再発するか分からない。死も身近に感じていた。自分に素直に生きること、好きなことをして死にたい。原点に戻った。自転車だった。週末の自転車の旅が生活の中心になった。先ずは近くの自転車道を走り、更に近くの川沿いを下流に或いは上流に遡った。 癌 の再発や仕事を失う恐怖、閑職という孤独から逃れる唯一の楽しみになった。シティサイクルなのでスピードも出ない。のんびりゆっくり走る。何も考えない。このころの自転車の旅は現実逃避だけ、ほとんど写真が残っていない。行った先のリストだけ。正に心の旅だった。家を中心に日帰りで行ける範囲に限った。必ず帰って来る。

元気になると更に一泊の範囲で何処まで行けるか試してみた。いざ鎌倉。家の近くを鎌倉街道が走っている。真南に走れば鎌倉56km、折角だから、湘南を楽しんでみようと平塚まで向かいそこから相模川を遡って帰ってきた。勿論パパチャリ、 2日で167km。2012年8月、52才。今度は真東に進路をとった。真東に向かうと丁度銚子犬吠埼だった。道は平坦。しかし距離がある。135km。途中雨に降られた。雨に勝つ体力は最早失われていた。それでも夜7時には九十九里を下り、大網白里に着けた。1日178km走った。鎌倉往復以上の距離を1日で駆け抜けた。帰りは千葉市を抜けた。小高い丘を越えるとすぐ千葉市に。アッと言う間。結局2日で271km走った。翌月には真西の甲府に向かう。112km。鎌倉までの距離の2倍、しかも笹子峠 (1.090m) がある。流石にきつい。更に戻りで欲を出して河口湖に向かう。御坂峠(1.520m)越え。その名の通り坂また坂なのだ。嫌になった。甲府でホウトウを、富士吉田でうどんを食べたことだけは満足している。2日の旅で253kmだった。2週間休んで、今度は真北に向かった。日光である。日光街道を突っ走れば着く。135km、銚子犬吠埼と同距離、最後きつくなるが、何とかなると思われた。しかし、埼玉、茨城を越え、栃木の野木あたりで股が痛くなった。蓄積なのかもしれない。サドルとの摩擦で、擦り切れたようだ。湿布は貼れないので、サロメチールを塗ってみた。何と痛みが消えた。びっくりした。足も何度も攣ったが、これもサロメチールで乗り越えた。日光から霧降高原へ、そこに泊まり、良せばいいのに足尾経由で帰ることにした。山へ入る。行けども行けども日光、日光は今や関東一の面積。栃木県の23%が日光。堪らない。足尾で渡良瀬渓谷沿いに下りることになる。これは気持ちいい。群馬桐生で渡良瀬川とお別れし、利根川へ、越えれば埼玉、結局この旅で埼玉をV字縦断した。 2日の旅で280km走り切った。東西南北を走り終えた時点で次の目標を東西南北の間、北東、北西、南東、南西に向かうこととした。北東は日立、北西は軽井沢、南東は品川、南西は富士だった。南東方向は近い。アクアラインを自転車で越えることはできないので諦めた。日立も軽井沢も昔行っているので大丈夫と判断した。あれから30年、年が違う。10月になり、先ず日立に向かう。距離は最長の往復299kmになった。久慈港近くのホテルに泊まったが、津波の被害で久慈港は壊滅的被害を受けたことを知った。平坦な道は年をとっても耐えられるものだ。軽井沢は碓井峠だけ、はるかに道は良くなっており、難なく越えられた。往復264km、冬が迫っていた。富士は年明けとしたが、自分に左遷の雰囲気が漂っていた。最早夢も希望もなく、仕事の狭間で鬱状態だった。上の人間は分るもの。翌年、春を待たず三重県に転勤となった。単身赴任が待っている。結果的に富士はお預けとなった。そして人生の旅路は続く

パパチャリでのリハビリサイクリング

3.復活の四日市:海から山へ走る 2013-2014

記憶の断片断片を紡いでいくと思い出が絵となって表れてくる。しかし何時の間にか記憶が曖昧糢糊に、絵が漠然とし、元の記憶さえも忘却の彼方に消えていくのが落ちだ。全てが失われる前に少しでも記憶の断片を拾い集める。失った過去が蘇るかもしれない。三重県には2013年から2年。閑職、北窓際の席、工場中二階、冬は底冷えが襲う。無毛な資料作成、退職まで耐えた。救いはサイクリング、温泉そして登山だった。工場からは釈迦ケ岳が真正面に、涅槃の姿だった。心の安らぎだった。住んでいた四日市は伊勢湾に臨み、鈴鹿山脈が間近に迫っている。海から様々な街道が山に向かって走っていた。越えれば琵琶湖を通し日本海へ。北陸、東海を繋ぎ、伊勢への入口となる。鈴鹿山脈は1,000m級で海近くでせり上がり、街道に峠を提供した。山頂からは伊勢湾を越えて知多半島まで眺められた。江戸・戦国、平安、奈良、飛鳥を辿るような風景に出会えた。神話の世界である。東京にはない歴史を感じる風景だった。東海道八風街道の交差する港近くに一人住んだ。静かな港町。八風街道は菰野を抜け、八風峠で鈴鹿山脈を越える。越えれば旧八日市、そして琵琶湖に着く。古の主要街道の一つ。八風の謂れは古く伊勢の国譲りからきている。伊勢の名の元になった伊勢津彦が帝に対し「今夜八風を起し海の水を吹き波に乗り東に去りぬ」と言い去ったと言う。一説には長野県の諏訪に行ったとされる。私の運命は伊勢の神の御導きなのか、その後、伊勢から諏訪の地に居を移すことになる。

八風峠は鈴鹿山脈を越える峠の中で一番高い標高940m、古の風景を残す八風道を直走り朝明川そして田光川沿いを上っていく。自転車は 八風 キャンプ場に停め、峠入口から歩いて向かうことになる。後はほぼ登山だ。登る途中2つの小さな石の墓標が続けて目に入る。江戸時代文化年間わずか14歳で亡くなった伊左衛門と嘉助の墓。約200年前雪の中。村に戻る途中遭難死した。江戸時代の亡霊に出会える。細い葛折の山道、どう人馬一体となったキャラバン隊が近江から来て登り下りしたのだろうか?光景がタイムスリップする。登りつめると八風峠、眼下に時間が止まったような菰野の街並みが望める。忘れられない思い出だ。2013年10月。これ以降自転車で山に向かい、入山場所に自転車を括り付け、靴を履き替え、ストックを握り山頂に登る。戻るときは、途中温泉に入って体を休める。下る坂で体いっぱい浴びる潮風が何と心地よいことか。サイクリングと登山を両方楽しめる至極の時を味わえた。

自転車で山に向かい、靴を履き替え登る。潮風を全身に浴び下る。温泉に入る。鈴鹿セブンマウンテン、自転車と登山両方楽しめるのはここだけではないだろうか?

北から花の藤原岳(1,140m)、員弁川沿いに走り、聖宝寺に自転車を停める。帰りは露天風呂が最高、六石温泉 あじさいの湯 http://www.rk-hotel.com/

眺望の竜ヶ岳 (1,100m) 、宇賀川支流を遡り、石榑峠(690m)に自転車を停める。 帰りは様々なお風呂が楽しめる三滝温泉満殿の湯http://www.mantennoyu.net/

遠くから見るのとは大違いガレの釈迦ヶ岳 (1,092m) 千種街道を走り、中尾根登山口に自転車を停める。 帰りは登山口すぐ下の眺望が最高 三休の湯 http://33thank-you.com/

奇岩怪石を楽しめる御在所岳 (1,212m) 湯の山街道を走り、表道登山口に自転車を停める。 帰りは登山口すぐ下の眺望が最高 湯の山温泉希望荘 http://kibousoh.or.jp/

頂上の岩が魅力の鎌ケ岳 (1,161m) 、やはり湯の山街道を走り、武平峠(815m)に自転車を停める。 帰りは同じく 湯の山温泉 希望荘 http://kibousoh.or.jp/

少々キツイ雨乞岳 (1,238m) 、 やはり湯の山街道を走り、武平峠(815m)に 自転車を停める。 帰りは 同じく 湯の山温泉 希望荘 http://kibousoh.or.jp/

登りやすい入道ケ岳 (906m) 、紅葉で有名な宮妻峡まで走り、椿大神社に自転車を停める。 帰りは 三滝温泉満殿の湯 http://www.mantennoyu.net/

鈴鹿セブンマウンテン

四日市からの最初の自転車旅行は伊勢志摩往復216km。2013年7月、鳥羽相差温泉に泊まって帰ってきた。忘れられない思い出がある。伊勢神宮の入口、猿田彦神社で自転車のキーを失くした。携帯電話で近くの自転車屋を探し、助けを求めた。バンでおじいちゃんが来てくれた。自転車ごと店まで運び。鍵ごと交換となる。待っている間に何気なく店の中を眺めるとローバーの伊勢の代理店証明の古い英文の看板、110年前の明治44年。ローバーミニで有名だが、安全型自転車を世に出し一世を風靡したのは英国ローバーである。それまではフランスで発明された前輪が巨大な不安定なもの。安全型は今の自転車の原型、両輪が同じ大きさに並ぶ。大正期に小型軽量な自動車が開発されるまで自転車が明治期の運搬の主流だった。明治時代には伊勢まで既に本場英国から自転車は輸入され、販売されていたことに驚かされた。自動車は昔汽車だった。今でも中国では自動車を汽車と呼ぶ。蒸気機関車がルーツ。大砲を移動させるためにフランスで開発された、馬ではきつい作業。蒸気で動かすため巨大なボイラーを載せることが必要だった。それで汽車だ。1769年自転車が開発される遥か50年近く前であり、日本では名称が似ているので同じルーツに思えるが、全く当初より違うものであった。中国では自動車は自動運転車、日本の汽車は火車と呼ぶ。蒸気機関車のルーツが中国古代の火車から来ているからか?更に自転車は中国では自行車キックバイクがルーツ、ペダル無し、足で地面を蹴って走るからか。伊勢地方では自転車をケッタと呼ぶが、ここからきているかは分からない。尚、最早ローバーはブランドのみの会社。大阪で日本の販売会社が自転車を組み立て販売している。自転車から展開し、一世を風靡した自動車部門はと言うとやはりブランドのみ。ローバーミニはBMW。他はタタモーターズ。自転車業界が似ているのはブランドのみが多いということ。旅から帰ってパパチャリから卒業すべく、マウンテンバイクを購入、米国のブランドGT。後で分かったが、全て中国製、然もどこで作らせているか分らなかった。格好はいいのだが、最後は錆びだらけ、パンクに悩まされ、購入した店からは段差を避けろと言われ、タイヤを全て交換する羽目に、最後は廃棄。今頃アフリカに行ってるのか?今乗っているのはカナダルイガノビーコン、ランドナーの草分け、これも日本の販売店が組み立てている。ボルトの緩み、パーツの傷み、販売店組み立ての問題と諦めざるを得ない。たまたま山で会ったカナダ人に聞くと知らないと言う。彼は富士の自転車が好きだと言う。懐かしい有名ブランドだが、これも全て米国製になっている。ただ中国で乗っていたジャイアントだけは純正だった。パンクも錆びもなくいい走りで、日本で2万円で売れた。今思うと友人に長野で渡してしまったが、ブリヂストンのパパチャリは丈夫でパンクもなくしっかりしていて速かった。ブランドだけでなくどこでパーツを作り、組み立てているか、品質管理は誰がしているかが問題なのだろう。

伊勢志摩から戻って、一週間後には知多半島一周に出かけた。半島の先の南知多温泉に泊まり170kmの周遊、高低差はないが、名古屋を抜けるのが大変。自動車中心の道で自転車が通れない。時に自転車を担いで歩道橋を登らなければならない。翌年2014年4月、東海道を鈴鹿峠(367m)を越え、近江を抜け、京都三条大橋まで往復した。実に33年ぶり。山科の凄まじい木賃宿に泊まる、往復217kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30127.html 戻りの鈴鹿峠からの下り道、夕闇が迫る中、大雨に襲われ、前輪からの凄まじい飛沫と前面に吹き荒れる雨とで全く前が見えない状態となる。ひたすら恐ろしかった。翌月には津から初瀬街道に入り、青山峠(477m)を越え、赤目四十八瀧を見て、室生寺そして長谷寺まで、帰りは伊賀に入り、加太峠(309m)を越えて東海道を帰ってきた。長谷寺近くの街道筋の旅籠に泊まった、 往復215km 。街道筋は煩く眠れず、初瀬街道は大阪からお伊勢参りに向かうルート、大阪人は長谷寺参りで伊勢詣の代わりとし、戻った由、伊勢はあまりに遠い。次のターゲットは敦賀だった。伊勢湾は琵琶湖を挟んで敦賀湾と本州の一番のくびれ、日本海が一番近いところだ。敦賀に行き、日本海を拝みたい。木曽三川沿いに関ケ原に入り、不破の関を越えれば琵琶湖は近い、後は鯖街道に抜け、深坂峠(364m)を越えればもう敦賀、長谷寺から帰って1ヶ月経たないで出かけた。往復234kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30160.html丁度往復にはいい距離だった。氣比の松原で日本海に臨み感無量であった。敦賀で道路建設で温泉が出たと言うトンネル温泉に泊まった。ここまでは1泊2日の旅だったが、次の浜名湖までから2泊3日になっていく。東海道沿いに浜名湖までは苦にならないと思われたが、欲が出た。渥美半島一周を追加した。知多半島を一周したから渥美半島もと思っただけ。浜名湖に臨む弁天島温泉と豊橋では温泉付きビジネスホテルに泊まる。3日で450km走った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30171.html伊良湖岬で撮ってもらった写真が残っている。マウンテンバイクなので、荷は全て登山リュックに入れていた。このころが一番絶好調であった。54歳、癌の再発ももうないと信じていた。体重も60㎏代に落としていた。また人生をやり直そうと思っていた時期だった。まだやれる。9月に入って木曽妻籠馬篭まで中山道を走ることにする。3日で往復249kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30272.html妻籠で民宿、恵那峡でホテルに泊まる。妻籠の民宿はこおしんづかhttp://kooshinzuka.jyunken.co.jp/english/?fbclid=IwAR30rtb2pVQ9qWvAj4mBbGf1seHRe8S_8tUoV3JT0BIVRVi6m01Q3lRK6BE宿泊はポーランド人の老夫婦の家族と私のみ。老夫婦と言っても私と余り年は変わらない、あと、娘夫婦と子供2人。1週間泊まっているという。全く日本語はできない。しかも日本は初めて。何故、木曽に?インターネットで英語のサイトがあり、予約できるからだと言う。民宿は価格的にもリーズナブル、しかも日本の原風景を堪能できる。おじいちゃんたっての要望だったという。体調が優れないようで、もう最初で最後の海外旅行かもしれないとおっしゃっていた。石畳の旧中山道では日本人が誰もいない中、オーストラリアのツアー客が大勢歩いていた。朝散歩すると会ったのはドイツ人親子、馬篭のレストランにはスペインから新婚旅行のカップルのみの団体さん。毎年このレストランに来る由、驚きの連続だ。誰も日本語を解せない。最果て極東の国にどういう生活があるのか?どのような人々が暮らすのか?新型コロナ禍から欧米の旅人は戻ってくるのだろうか?年末近く会社生活もリセットに向けラストスパートに入っていた。11月に入り、琵琶湖一周に向かう。鞍掛峠(791m)を下りれば多賀大社、伊勢神宮、天照大神の生みの親、伊邪那岐、伊邪那美を祀る。神話を辿る。下りた琵琶湖岸は彦根、ここから一周241kmだ。平坦な道、山は北部のみ、最後の旅に相応しく3日間いい天気だった。奥琵琶の温泉に1泊し、彦根で湖畔のホテルに泊まって来た道を戻った。日本一の湖は穏やかで広く、静か、走っているうちに眠くなる、只管眠気に耐えて走った。四日市最後の旅を快適なサイクリングで閉じられたことが嬉しかった。3日間352km走り切った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30275.html

四日市を起点にした自転車の旅

4.変転の茅野:八ヶ岳とフォッサマグナ 2015-2016

人生は何が起こるか分からない。全く青天の霹靂で運命は往々にして動かされる。四日市で長野県の茅野の会社から来ないか、オファーが飛び込んだ。蘇州に会社がある。任せたいとのこと。茅野の英文名はCHINO、スペイン語で中国のこと。茅野は諏訪大社近く、伊勢の神との関係もユニークだ。天皇から追われ、最後は諏訪にと言う神話だ。何か縁があるかもしれない。と言うことで、窓際の会社を去り、長野県の茅野に初めて移り住んだ。縁も因もない土地、2015年2月、真冬に引っ越した。その寒さに圧倒された。氷の世界だった。しかし春になると一斉に花が咲き、鳥が囀り、水音が響き、高原に生命が躍動する。夏は新緑、秋は紅葉、自然に恵まれた高地は空気が美味しい、景色が素晴らしい。が洗われる。がうまい。勿論も美味い。山菜野菜蕎麦、酒の抓み、申し分ない。温泉も毎日楽しめる。今でも新蕎麦祭りには女房を連れて行っている。仕事が順調で母が病に倒れなかったら、今も居たに違いない。四日市にいた時と違い、海外出張が多く、旅行にはほぼ行けなかった。ただ、近場を走れば旅気分に浸れた。八ヶ岳は目の前、川沿いを下れば諏訪湖清里蓼科霧ヶ峰も自転車、日帰りで充分行けた。2年間はあっと言う間だった。茅野での生活は人生において一瞬煌めいたダイヤモンドのようだった。この煌めきはもう戻らない。一番の自慢は と北 の八ヶ岳を自転車で一周したこと、フォッサマグナを糸魚川まで往復したことだろう。初めての茅野での夏は、東京まで自転車で帰ってみた。甲州道をまっしぐら、往復330kmを駆け抜けた。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30301.html 翌年夏、東京に住む母が倒れた。姉兄で面倒を見てもらうことに、老々介護だ。申し訳ない気持ちで一杯だった。そろそろ茅野も潮時のようだった。冬には戻る予定で、急ぎ自転車旅行を再開する。思い残すことなきように。しかし、母の体は思うようにならない。屡帰らざるを得ない。致し方ない。まずは と北の八ヶ岳を自転車で一周 だった。2016年7月、9月に回る。既に山は制覇している。麦草峠(2,120m)が両方の起点。メルヘン街道を東に松原湖へ向け下りていく。横岳が噴火しできた湖だ。小さな海のようになったので小海町千曲川沿いに海尻海ノ口へ、相当な噴火であったと想像される。東から見る八ヶ岳は一番高い赤岳しか見えない。茅野からだと赤岳が見えず、阿弥陀岳が全面となる。野辺山を越えると山梨に入る、清里を抜ける八ヶ岳高原ラインを西に向かう。鉢巻道路に入って長野県に戻り、原町を越えて茅野の我が家に戻る。一周105kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30322.html 北はビーナスラインから蓼科スカイラインを走って蓼科山をぐるっと回り大河原峠(2,093m)を目指し、ガレの中を走り抜け麦草峠に戻りメルヘン街道を西に帰るルートとなる。一周91kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30333.html 八ヶ岳を様々な角度から眺められる山好きには堪らないサイクリングコース。

小松左京の書いた「日本沈没」で一躍有名になったのが日本を中央で分断するフォッサマグナ。茅野は糸魚川静岡構造線上中央に位置する。丁度西南日本と分岐するライン。日本が沈没していくのは諏訪湖からだ。先ずは地層が一番見え、迫力あるルートを糸魚川へ辿る。諏訪湖から塩尻峠 (999m) を越え、松本、安曇野、大町と高瀬川を糸魚川に向け下っていく。塩尻峠は分水嶺、峠の水は北へ流れれば、日本海へ、南に流れれば太平洋に下る。壮大な日本地図上を走る。これが茅野最後の旅となった。2016年10月、3日間、白馬の温泉に2泊し、293km走り切った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30359.html

茅野を起点とした自転車の旅

5.中国へ:昆山水郷古鎮を巡る 2017-2018

旅の終わりは呆気ない。年末会社を去り、東京に戻ることとした。茅野での仕事はやり切った。飄々と生きてきた人生、東京でも成るように成ると思っていた。帰ったら母の面倒を見て、最後の職探しと思っていた。60歳まであと3年ある。しかし思いも寄らないことが起きる。私の帰りを心待ちにしていた義父が呆気なく亡くなった。帰って来たその晩、一緒に酒を飲んでいて倒れそのままだった。母のため帰って来たがまさか義父の最後の杯を交わすために帰ることになろうとは。就活は義父が天国から手を差し伸べてくれたのか、ある商社よりオファーがあり、即決まった。義父の弔いの四十九日目に仕事に就く。生まれて初めての商社、慣れるもへったくれもない、米国企業との取引から、上海の関連会社とのやり取りまで言われるがまま熟した。半年が過ぎた頃上海昆山兼務の長期出張となる。上海はホテル代が高い。昆山に仮住まいすることに。昆山から中国新幹線高鉄で上海は一駅、高速バスでも往復が安い。小一時間の辛抱。上海まで3時間弱、4時間ほどで着ける。時差は1時間。朝の便で行けば昼過ぎには昆山だ。実は長期戦を覚悟していた。日本に仕事はもうそうはあるまい。あわよくば中国で定年を迎えたい。しかしそんなに現実は甘くない。滞在ビザが切れる頃帰還命令が下ることに。昆山生活も私の会社人生に射した最後の一筋の光だった。過去への惜別の機会を神様がくれたに過ぎなかった。住まいは市政府の目の前、交通の要所。ただ生活するのに足が必要だった。蘇州への昆山は有名な台湾の自転車メーカーのジャイアントの工場がある。早速特約店より買うことにする。本物の中国製のジャイアントだった。ニューモデルだった。日本では売っていないマウンテンバイク仕様。また自転車に跨った。ただ、月に一度は日本に戻っており、既に酷使していた体が悲鳴を上げていたようだ。潮時が近い。滞在期間は8カ月となった。昆山は広大で美しい水郷地帯にある。ほぼ山がない。東京23区の1.37倍の面積にたった17%の人口。サイクリングには最適な環境だが、怖いのは高速道路に自転車のレーンがあると言うこと、運を天に任すしかない。昆山市の市政府近くに住む。

亭林園:最初に昆山を昆山足らしめる所に行く。唯一と思える山がある。玉峰山、高さ80m、昆山を一望できるが、ほぼ霞んでいて見えない。昆山と言えば昆曲。玉三郎の「牡丹亭」を蘇州で見たことがあるが、朗々と歌い上げる姿が美しい。これが歌舞伎の元になった。この迫力ある舞台に上ることができる。2017年10月,秋深まるころだった。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/tinglin-park-76186

千燈古鎮:派手さはないが、赤い塔とアーチ状の石橋のバランスが絵になる2500年の歴史を有する水郷。塔は秦峰塔、石橋は恒昇橋、川は呉淞川の支流千燈浦昆曲の故郷でもある。昆山の歴史を感じる古鎮。自転車は呉淞川沿いに走り着く。11月半ば、秋深まる静けさを感じる。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/qiandeng-ancient-town-76189

周荘:屋外の舞台で昆曲が楽しめる。初めて見た時、胸が高鳴った。忘れてはいない。11月末、自転車で向かう。着いた時間が遅すぎた。次回に持ち越すことに、しかし最悪なことにその次回では演じることがなく、結局昆山にいる間に見ることは叶わなかった。一番メジャーな水郷古鎮である。明・清時代商業で栄えた跡が残っている。忘れてならないのが万三蹄だ。豚の太腿の醤油煮だ。トロトロこってり、やみつきの味、しかしボリューム過剰、一人で食べるには多すぎる。打包して2,3日掛けて家で食べることになる。翌年昆山を去る日が決まって、最後に訪れた時食べたのは万三蹄と麺、これが最高の取り合わせ、出汁の利いたトロトロの肉が細い麺と絡み、最高の味わい.地酒の紹興酒で頂いた。これで最後かと思うと万感の思いが胸に込み上げた。https://jp.trip.com/travel-guide/city-77/tourist-attractions/business-district-11892/

陽澄湖水上公園陽澄湖と言えば上海蟹に尽きるが、景色もいい。一番のパターンは蟹を食べながら風景も頼むこと。公園も各所にあり、また菜館や賓館も併せて風景の一つとなり目も楽しませ、サイクリング、散歩コースも整備、心も癒してくれる。12月に自転車で行ったが、季節外れで逆に静かで良かった。こういった楽しみ方もあると教えてくれた。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/yangcheng-lake/yangcheng-lake-water-park-92228

昆山城市公園:2018年4月、昆山市政府の真ん前の広大な公園が一段と華やぐ。昆山城市公園。池の端に咲く花が春を告げている。日本の花と同じで違和感がない。元々日本にある花が中国由来が多いのだから当たり前。花海棠、花言葉は豊艶、楊貴妃の愛した花、香が芳しい。水の都に相応しく池の面に花が映える。住まいから近く、会社に行く通り道だったので、随分お世話になった。特に公園に沿って西洋料理のレストランが並んでいて、週末の楽しみだった。忘れもしない拿波里西餐厅。日本では滅多にお目にかからないグルジアのワインが飲めた。日本語で言うとナポリレストランでイタリア料理なのかなと思うんだけれど、何故かグルジアワインの店だった。ブルーチーズもあったのには驚いた。店では受けないので、信じられない価格で譲ってもらい、毎晩のワインの抓みにしていた。感謝。店主は中国人の若い女性で日本語ペラペラ、カラオケ店にいたらしく、元常連の日本人が来ていたようだ。もう店は閉じているようでグーグっても出てこない。残念だ。店に飾っていたグルジアの綺麗な空のボトルを数本もらった。今も部屋に飾っている。因みに今は日本ではグルジアをジョージアと呼ぶように言われているらしいが、中国ではロシア語のグルジと呼んでいたのを憶えている。昆山は上海に近くしかも台湾に一早く門戸を開いた開発区だったため、外国人向けの店が多い。異国にて更に遠くの異国に思いを馳せた。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/city-park-85584/

弇山園(太倉公園):この”弇”は入口は狭いが中は広い意味か。蓋として覆う意味もあり、日本でも戦後、””が当てられる前はバルブとしても使われた。本来の ”” は冠、ときに武士を表す。日本ではそうは使わず、”“や”“や”“や”“の省略に使われたので話がややこしい。本来、当、務官、理士は当、務官、理士。花は花護士は護士。髪は髪 。因みに中国では当のことは便当という。日本で戦後の簡体字化の例。中国の簡体字を笑えない。庭園は春爛漫、花蘇芳から牡丹、咲き誇っていた。胡弓の音に合わせ踊る人々が微笑ましい。昆山から東に向かい走ってすぐ着く。太倉市一の名園。 侮るなかれ800年以上の歴史を有する。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/taicang/people-s-park-87393

錦渓:昆山中心から南西に25km 花で彩られた運河に沿って走る。一面の菜の花畑、品のいい桐の花。昆山から自転車で向かう。南宋皇帝孝宗の妻陳妃の眠る地。1162年彼女はこの地で亡くなり、愛した五保湖に水葬され、水上の墓と寺が建立されたのが始まりと言う。湖上の橋が荘厳で美しい。三亭橋と言い、今も渡ることができる。水路が張り巡らされ、石橋が繋いでいる。川面を眺めながらお茶を楽しめる。https://jp.trip.com/travel-guide/city-77/tourist-attractions/business-district-11948/奥灶面の故郷と言われている。オウゾウメンと呼ぶ。かまどに奥義があると読める。スープは田鰻の骨、草魚の頭、鱗、鴨、鶏をじっくり煮込んで作るそうだ。不思議と臭みがない。麺は蛋を練り込んだ細い素麺。長浜ラーメンほど固くはないが似ている。見た目は濃いがあっさり食べられるラーメンだ。昔上海に居た頃、昆山に仕事で来ると現地スタッフは必ず駅前でまずラーメンと言う。昆山面は昔から有名だった。中国十大麺の一つに挙げられている。他の九麺は、蘭州 牛肉麺 、河南 烩麺、北京 炸酱麺、山西 刀削麺、杭州 片儿川麺、鎮江 鍋蓋麺、成都 坦々麺、武漢 干熱麺、延吉 冷麺。私は最後の延吉に行っていないので冷麺のみ食したことがない。延吉は吉林省の朝鮮族自治州の市。吉林に一度訪問した際、朝鮮族の方と冷麺を食べたが酸味がいい。焼肉の後は必ず冷麺。あっさりすっきりである。蘭州も勿論言ってないが、上海では普通に食べていた。イスラム教徒の作る麺、その場で麺を打って作ってくれるところが好きだった。

https://www.chineselyrics.org/chineseramenranking/

中国では犬も猫も日本に比べたら少ない。飼い犬は大体愛玩犬で首輪をつけていない。狆クシャな顔と胴長短足が多い。中国原産の愛玩犬はシーズー、狆、ペキニーズ、確かに人間の顔みたいにしている。この旅では面白いので写真として残してみた。

甪直: 錦渓から北北西に12km走ると甪直(Luzhi)に着く。昆山から呉中区に入る。平坦で村々を眺めながら走る。道に迷うこともない。真っすぐな道。車さえ気を付ければ済む。中国の早い電動バイクにはあっと言う間に抜かれていく。門を抜けると一角獣の像は迎えてくれる。甪端、守り神、六角を守るという。こじんまりしたところがいいが、結構奥が深く、公園のようになっていて楽しめる。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/luzhi-ancient-town-82716

柏盧公園:高鉄(新幹線)の昆山南駅から見える教会が10年前から気になっていた。公園にポツンと片隅にある古びたそして寂れた教会。いつも通るたびにどうしてと思っていた。赴任先の旧事務所がこの公園近く、自転車通勤なので寄ってみる。何と立派に公園まで全て見事に変わった。壮大荘厳な教会と風景を一体化した公園。教会は蘇った。昨年完成したという。蘇州新区に三元一村がある。カトリック教会があり、訪れたことがある。三元一とは三位一体の意味だとはっと気が着いた。1853年から1864年太平天国が南京を主都とし蘇州を含め江南を治めた。キリスト教を教条としていた国だった。上海もそうだが、教会が美しい。欧米の香を醸しだしている。中国は仏教をインド、ペルシャから、共産主義をドイツ、ロシアから取り入れ、見事カストマイズと言うか、最早、中国オリジナルにしている。そして嘗てキリスト教も太平天国がカストマイズしようとした。それが江南の地に今も残っているのではないか。

虎丘~閶門~平江路:2018年5月、日本への帰任が決まり、急ぎ、悔いなきよう急ぎ蘇州に自転車で向かう。もう戻れない。最後の中国の旅と観念した。虎丘から山塘街を抜け、 閶門平江路に寄って戻るルート。蘇州は世界遺産が世界一多く、愛すべき庭園がある。拙政園留園網師園滄浪亭獅子林、しかし時間がない。5月末滞在ビザが切れる。昆山からほぼ40km西、陽澄湖岸を抜け、只管漕げば着く。道は全くの平坦。戻りは娄江沿いに走る。されば昆山へは分かり易い。 虎丘の魅力は一言で言えば、蘇州の魅力を一カ所で感じられる、悠久の歴史と静寂の風景。緑溢れる丘にパゴダ、周りには河が流れ、静かに時は流れる。よく丘に登り、翡翠山荘の2階でお茶を飲みながら下行く観光客を眺めた。この時間を忘れられない。パゴダは3度傾いた斜塔。積み重ねた歴史の重みを感じる。 虎丘を南東に旧市街地に下る川沿いの道に白居易が開いた山塘街があり、一挙に旧市街モードに入る。 閶門を越えれば正に旧市街。閶門の上には茶屋があり、景色を楽しみながらお茶を飲める。この高さは蘇州の迫力の歴史を物語る。ここからが本当の姑蘇となる。東に西中市という旧市場街を抜け、平江路 を目指す。 平江河沿いの古い町並みが残る憩いの場。茶屋が多く、車が入れない細い道、拙政園獅子林が近い。しかしゆったり川を眺めお茶するなら平江路だろう。駆け足で蘇州とお別れ、これでもう思い残すことはない。 虎丘:https://jp.trip.com/travel-guide/suzhou/tiger-hill-76159/travel-image-27529809/ 山塘街:https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/shantang-street-81719 平江路:https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/pingjiang-road-87769

昆山の旅はここで終わる。8ヶ月が短いと言ったら然り、しかし以前の蘇州上海駐在を含めると足掛け9年になった。今回はサイクリングができ、駐在時代の友人に再会し、思い出の地を訪ねることができた。最後の中国になったことを神に感謝すべきだろう。それは日本に戻って判る。

6.旅路の果て:原点への回帰

中国から帰還し、体の不調は感じなかったが、念のため人間ドックを受け、何もないことを確認する。しかし、癌はどうか、専門医に診てもらうと何と再発していた。前回と違い自覚症状がないがすぐ切るように言われた。入院、手術、前回同様もう大丈夫と高を括っていたが甘かった。癌細胞が消えない。抗癌治療が続く。半年頑張った。苦痛睡眠障害に悩まされた。癌自体は痛くも痒くもなかったが、寧ろ抗癌治療で苦しんだ。過ぎたるは及ばざるが如し癌細胞は自分の細胞の変異であり、抗癌治療は自分の細胞を切り刻んでいく。最早精神的に仕事に耐えられなった。抗癌治療を勝手に辞めた。何とか乗り越えられないものか?原点に戻ろう。旅路の果てに辿り着いたのが我が家だったもう一度自転車。気が着けば後1年で定年の60才だ。健康のためなら命も捨てる。これは中国駐在時上司から言われた言葉だった。生きるためには健康を勝ち取ること。仕事で鬱になったこともある。全てを忘れペダルを漕ぐと頭の中が空っぽになる。自然と一体になる瞬間がある。全くのストレスフリー、余計なことを考えない。車では楽しめない風景が広がる。風の音が聞こえ、日の光を浴びる。刻々と景色は変わり、自分だけの空間に入っていく、邪魔されることはない、自由。鳥の囀り、木々のざわめき、川のせせらぎ、光と影のゆらぎ、子供たちのはしゃぎ声、のんびりゆっくり行けばよい。以前のような無理なサイクリングはやめた。敵は砂利、段差、水溜り、自動車をなるべく避け、走る。そうこうするうちに定年の時が近づいた。最早決めていた。定年延長を会社は盾に下働きを求めてくる。新型コロナが蔓延し始めていた。仕事の継続はリスクの押しつけを予感した。潔く辞める。辞めた日に羽が背中に生えた。最早自由だ。全ての人間関係を断ち切ってみることにした。自転車もマウンテンバイクから輪行用ランドナーに変えることにした。新たな旅への準備、原点への復帰。今目の前にあるのは、旅の地図だけだ。癌に襲われた50才の頃を思い出し、同じルートを走っている。以前と違うのは、単に心の旅に終わらせず、記録に残すこと、SNSへの投稿。web上の遺言と思っている。いいものをいいと伝えたい

東京に戻って今も続く自転車の旅

後何年走れるか。知力気力体力が続く限り走りたい。何処で息絶えるか分からない。40年前初めて旅に出た国道6号線は2011年の福島原発事故のため自転車では走り抜けられない。東日本大震災はこのルートを地図上から消し去った。道は容易く閉じるものだ。今はコロナ禍が全て交流の道を閉じている。道は何処までも続くが、環境はそうはさせない。私の体もいつまで持ちこたえるか分からない。睡眠障害は続いている。癌の怖さは再発と転移だ。心残りは富士への道だ。何故か全ての機会を逸している。刻んでも行こうと思っている。只管コロナ禍の去るのを待っている。諦めない限り旅は続く。そう信じて前を向いている。

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老人と山

警察庁の統計によると昨年夏の山岳遭難者に占める60歳以上の割合が遂に42%弱に。毎年総数共に減ってきている。コロナ禍を真面に受ける老人が登山を諦めたと言うことはあったとしても素直に嬉しいもんだ。還暦を越えると状況判断に狂いが生じ、反応が鈍くなり、危険を避けるための一歩が出なくなる。確実に天国に近づいている。山では一歩間違えば死が待っている。道を間違えれば永久にさようなら。暗くなり動けなくなれば獣が餌食。それにも拘らず山に向かう。山は老人にとって聖域。山に登ると天国を実感できる。最高の景色と空気、何処までも広がる無限の空。社会という雁字搦めの世界に耐えてきた。疲れた。下界の些末なことから離れたい。これ以上巻き込まれたくない。負け犬の遠吠えと言う勿れ。山は嫌なことを忘れさせる一番の薬。山頂での深呼吸ほど気持ちいいものはない。更に山頂でのビールほど美味いものはない。天にも昇る気持ちとはこのことだ。生きていることを実感できる。生きることは山に登ること。登山に嵌る人間はさもありなん。私も以前住んでいた長野県の元気な老人に山岳遭難者が多いのも肯ける。山を生活の一部とし、いつもぴんぴんころりを目指している。山に生きる

八ヶ岳からビールと共に富士を拝む

しかし遭難死となるとけして恰好のいいものではない。家族に心配をかけ、山岳救助隊の出動は膨大な費用請求を生み出す。見つからなければ死として認められない。保険も下りない。7年間は行方不明扱いで死んだとは見なされない。山での死は惨めなものだ。死体は狸やキツネにより食い荒らされる。それが自然。助かりたいならヘリを呼べ。保険に入れ。事前通告せよ。一人で登るな、社会のしがらみを要求してくる。しかし本筋を忘れている。遭難を避けるために必要なのはまず自助努力。私も山と向き合って早7年、54才から始めている。人生の坂道を下り始めた頃から山を登り始めたズブの素人だ。実は死の恐怖を何度か味わっている。その都度別の登山者に助けてもらった。一人で登りながらいつも他の登山者に挨拶する。安全への情報を共有し合い、山では先ずお互いに助け合う。安全な登山の基本。そしてけして無理はしない。己を弁え矩を踰えず素人登山はこれに尽きる。自分の能力を超える山には近付かない富士山を見られれば十分。富士山は登るものではない。見るものだ。

更に遭難の原因を一つ一つ潰していけば安全な登山につながる。道に迷う、滑落、転倒、病気、疲労が遭難原因の85%を占めている。危険予知と回避ツール、体調管理こそ一番大事。私の登山の流儀はここにある。老人が如何に山に立ち向かうか。

危険予知と回避ツール:君子危うきに近寄らず。晴れた日の日中に安全な登山道をまっすぐのんびりゆっくり歩いていれば遭難することはない。ただ、過信は禁物。相手は自然であり、臨機応変に対応しなければならない。生きる知恵が必要。危険あれば回避ツールあり。高齢者の遭難が減っている理由としてツールの進化がある。まずインターネットで状況把握が容易になってきている。道、天候の状況が事前に容易に把握できるようになった。更に装備の軽量化、衣服からリュック、靴、ストック全て軽くなってきている。筋力の低下を補うに充分だ。サプリメントの進化、体調の維持、回復に欠かせない。老人登山を助けてくれている。

①事前情報:登山は登る前が一番重要。ある意味登る前に勝負が決まっている。あらゆる情報をインターネットを通して入手し、いつ、どの山へ、どのルートを,行きと帰りの電車時刻まで想定する。この情報は全てスマホに登録する。インターネット情報ではまずメジャーな山を探す。登山道が整備されている。更にヤマレコ、あるいはヤマケイオンライン最新情報を確認する。気を付けなければならないのはけしてトレイルランの記録やプロ並みの登山家の記録を参考にしないこと、同レベルの登山者の記録だ。登山に要する時間が読める。これで行きと帰りの時間の目安がつけられる。古い情報を参考にするとルートが自然災害で通れない場合がある。これが要注意。一度川苔山でやってしまった。ルートの入口の停留所に向けバスに乗ろうとしたら、そのルートは通れないと運転手に教えてもらって初めて知った。全ての計画がおじゃんになる。1から….

②スマホで登山道確認:スマホは片時も手放せない、然もすぐ取り出せるようにしておかなくてはならない。リュックの前面にあるサイドバックの左側に必ず収めることと決めている。老人は決めたところにしまわないと探し回る悲しい性がある。いつもお腹にスマホを感じているのでなくすことはまずない。スマホは昨年12月に最新のiPhone11に買い変えた。理由は登山時恐ろしいのが電池切れ。実は昨年11月金時山に登る際、古いスマホが電池切れを起こした。下の写真は頼んで他の登山者に撮ってもらったもの。スマホはパスモ、財布、カメラ、GPS(道先案内人そしてルート記録)である。特に道に迷った際、スマホ頼り。事前にスマホのアプリのヤマップに登る山をダウンロードしておくと自分が登山ルートに沿って歩いているか確認できる。これは別の登山者の女性に川苔山山頂で教えてもらった。今でも感謝している。何度もヤマップに助けてもらっている。この機能は電池を食うので補助バッテリーを必ず持っていく。切れたらお終いなのだから。山には様々な道が交錯している。何故なら、山は登山者のためにだけあるのではない。日本では必ず持ち主がいる。忘れてはならない。山を管理するための林道。登山ルートと交錯しているため、間違って入ってしまう。実際、登山者は他人の庭を勝手に歩いていることを忘れてはいけない。山の持ち主が登山者を向いていれば道を整備して頂けるし、そっぽを向かれたら危険になる。登っていると自然に分かるものだ。

登山の格好:スポーツインナーとハイドレーションバック、携帯はサイドバックに装着と完全装備、金太郎に負けないぞ!

③登山の日:一番の条件は天気である。山の天気、特に富士が見たければ、当日の富士の天気を優先する。私は晴れた暖かい日しか登らない。遊び人の特権である。景色を堪能できない登山は空しい。然も晴れていれば安心安全だ。曇りの日は日暮れも早くなり、早く下りなければならなくなる。雨の降る確率も高くなる。山の天気は気まぐれだ。雨の登山ほど危険なものはない。体温を雨は奪っていく。雪や氷点下の寒い日も登らない。何かあったら命にかかわる。零下ではスマホは液晶なので使えない。何より年寄りには致命傷になる。また平日を優先する。土日、休日は働く人のために山はある。人込みで頂上で休む場所が見つからないのが寂しい、然も一人のんびりしたいではないか。そして次の登山には少なくとも三日は空ける。連日登山は避ける。老体にはメンテが必要。必ず節々が傷んでいる。頑張った後、体を休ませることが長持ちのコツ。もう膝が弱っている。悲鳴を上げている。

④スケジューリング:基本は朝一で山に向かうことだ。朝の方が山は晴れていることが多い。早起きは三文の徳だ。老人は朝に強い。早く出発した方が何か起きた場合行動の修正が効く。今までのミスで一番情けなかったのが、電車を間違えて乗ってしまったことだ、別路線に乗ってしまった場合、通勤時間帯であれば電車の本数も多い。早く電車に乗れば、まだ空いているし、通勤客の邪魔になりにくい。遊びに行く人間が邪魔することは忍びない。リュックサックは混雑した駅構内や電車では迷惑だ。それでも移動は電車さらにバスを基本としている。車では時間が読めないから。通退勤時の道路の混雑は堪らない。これだけで疲れる。特に丹沢方面は道路が混む。休日祭日一番の理由は車で行くと酒が飲めないからだ。早く山に入れれば、帰りも早くなる。早く帰る方が電車は空いている。退勤時前を目指す。安全な登山の鉄則は早く登って早く下りる。早く登れば心に余裕ができ、安全に登れ、頂上で体を休め、のんびり風景も楽しむことができる。ビールを飲んでも冷ますことができる。下りるのが遅くなると山は怖い。夕暮れから日没にかけての時間が短い。あっと言う間に暗くなる。山の暗さは恐ろしい。足元が見え難くなると道を間違えたり、滑落、転倒の危険性を増す。遭難の危険性は闇に潜んでいる

冬は夕暮れが早い、この1時間後には夕闇に包まれる

⑤熊は怖い:熊には上高地で二度出くわしている。尤も襲われてはいない。しかし、用心に越したことはない。リュックに小学生の護身用ブザー(千円くらい、ドンキで買った)を付け、イザの時用のドイツ製コショウスプレー(アマゾンで購入4,100円、高い。効果は使ったことがないので分からない。)を忍ばせている。(やはりアマゾンで1,388円で台湾製ブザーを購入、誤作動が生じ、電池が外れやすいし、電池切れを起こしたので使うのをやめた)、鈴は道中煩いので使うのをやめた。ライトも脅しには効くらしい。必ず持ち歩いている。

上高地2020.7.30熊との遭遇

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体調管理:季節、日によって体調は変わる。暑い日、寒い日もあれば、いい日もあれば悪い日もある。自然が相手。特に年寄りは最悪の場合を考えて準備し、登山中、最良の体調にもっていかなければならない。準備として最適な登山服、装備、水、食事、サプリメント、薬、登山の後の体のメンテ、全てが重要。年を取って来ると筋肉痛が後から襲ってくる。これが辛い。また真夜中足が攣って何度も起きることが度々あった。今から8年前くらいか、八ヶ岳を登っている際、一人登る年長の山女から教えて頂いた。山登りの三種の神器はサプリメントとインナーウェアとストックこれが落ちてくる筋力を助けてくれると。老人にとって筋力の衰えが一番きつい。これを補うのが肉体を補強するツールだ。

①登山着:冬は重ね着で温度調整を行う。体は登れば熱くなるが、止まれば寒くなる。薄手のダウンが軽くて小さくたためていい。夏は発汗性で勝負だが、春秋が難しい。温度差が激しい。温度差を計算してウェアを選ばなければならない。何れにしてもインナーが決めてになる。筋肉の補助であり、保温性、発汗性、快適性が要求される。年を取るとどうも体温調整機能が鈍ってきている。インナーの助けが重要になる。

②装備:まず一番大事に10年以上使っているのがノースフェイスのリュック。背中にメッシュがあり、蒸れを防ぐ。軽い、体にフィットする。両サイドにストックが固定できるリングと紐、合わせてコーヒーカップと小学生が護身用に引くと鳴るブザーを付けている。熊遭遇や遭難非常時を想定。前面両側のサイドバックには家の鍵とマスク、スマホ。そして、高低差の大きい玄人向け登山用ストックレキのトレッキングポールを使っている。握り具合が違う。軽い、強い、上り下り両方で使う。安心安全、スピード、バランスの確保、疲れてヘロヘロ、フラフラになったときの体の補助、必ず2本、寸法も決めてある。年を取り弱ってる足腰には必需品。転ばぬ先の杖。手袋を装着し、しっかり握って使う。若い山女が格好のみで使ってるのを見ると羨ましくなる。飾りではない。本気で使うのだ。熊に襲われたときは武器にもなろう。

③水:ついつい摂り忘れるのが水、水は体の熱を取り除き、体温を調整してくれる。喉が乾く前に喉を潤さなければならない。これは中国に駐在していた時に中国人が教えてくれた。いつもマイボトルでお茶を飲んでいる。朝起きがけの白湯も欠かさない。喉と腎臓のためだ。水は命。特に老人には適度の水の摂取が必要だ。老人は枯れている。以前はボトルに入れ、リュックに入れていた。しかしいちいち立ち止まってリュックを下ろし、開けて、ボトルを取り出し飲むのが面倒だった。ボトルは嵩張るし、荷物にもなる。ついつい飲む回数が減る。これも二子山で中国人の登山者がやっていたことを真似することにした。2ℓのウォーターバックにチューブが装着してある。チューブにはバルブが着いていて調整ができる。リュックにバックを入れ、チューブをショルダーに止め、飲水口を噛むと水が吸える。水を舐めながら登る。唇をいつも湿らせておけば良い、大量に飲むことはあまりない。体温上昇を抑える意味で効果がある。バックは平たいので嵩張らない。水が無くなるとさらに平たくなり軽くなる。ボトルが要らなくなるとリュックも隙間が増える。これがいい。スマートだ。年を取ると荷が軽いのが一番。水は水道水である。一度沸かした水がいい。カルキがとぶ。

④食事:朝早いのでコンビニでおにぎりとお茶を買って車中で食し山に向かう。おにぎりは3個と決めている。これは経験からで、これで昼まで体力が持つ。時間的に駅そばもしくは牛丼屋の朝定が食べられればこちらを優先する。温かい方が体にいいし、コスパも寧ろいい。360円で栄養のバランスもとれている。朝食は基本、登る前には必ず飯である。ギアの掛かり具合が違う。老体のエンジンには燃料がまず必要。

⑤サプリメント:登山開始時に飲むのがエネルギー補給ゼリー、老体への着火剤、そしておやつはバランスパワーのプチケーキ、薬屋で買っておく。これは朝早いため必需品。更に、少々高いが、帰還後家で飲むコンドロイチン、疲労回復を図り、関節痛対策だ。友人はセサミン錠剤を飲んでいるようだが、私は酒の抓みにセサミンを食すようにしている。体のメンテはサプリメントからと思っている。

⑥薬:必ず携帯するのは、下痢止め、整腸剤、喘息薬、風邪薬、痛み止め、消毒スプレー、バンドエード(大・小)、ムヒ、痒み止め軟膏、ワセリン、特に重要なのが、コムレケアである。ゼリーと錠剤、両方を持っていく、2袋は入れておく、急な攣りで困った方に遭遇した場合を想定。以前、丹沢山を下りていた際、ご老体の登山者がやはり以前の私同様、急な足の攣りに襲われ、動けないでいた。早速このゼリーをお渡しした。初めて飲む方は効きがすぐのようで、感謝され下りていかれた。他の人に助けられたらまた他の人を助ける。これが山のルールである。 登山から帰り、筋肉痛に襲われたら、我慢しないで、湿布「ハリックス55」を患部に貼る。痛み止め「ロキソニン」を飲む。次の日に温泉「お風呂の王様」に行き、マッサージをしてもらう。夜攣れば、コムレケア錠剤を飲む。これが登山を長続きさせるコツと思っている。常に痛みに耐えてはいけない。戦って乗り越える、するとまた登ろうと思えるのだ。

遺す:山を登っていくと同時に天国への階段も同じように登っている。心臓はいつ止まるか分からない。もう精神も身体も同様にすり減っている。充分に生きてきたことに間違いはない。あと十数年で、もし生きていたとしても足も体も思うように動かなくなる、脳の衰えも進み、ボケて何もかもが分からなっていくだろう。だから今山を楽しむ。そして遺したいものがある。生きた証である。存在としての自分は消えていく、しかし、自分が伝えたい想いは後世に遺したいと思う。登山の情報はヤマレコに、そしてFacebookに載せるようにしている。特にヤマレコではいつも情報を参考にしているのでお礼の意味も込めている。一方、自分の足跡が積みあがっていくのも楽しみだ。百名山踏破なんてケチなことはしない。登りたい山に登れればいいと思っている。そして生きて元気な限り、このヤマレコを頼りにこつこつ山を登れればいいのではないか。今日も今から山に向かう。いい天気なようだ。山頂でのビールが待っている。青梅駅近くに雰囲気のいい喫茶店があるようだ。さあ着替えて向かおう。

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塔ノ岳山頂、尊仏山荘にて撮影