将棋

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私の将棋との出会いは小学生、父と兄に教えてもらった。強くはなかったが、たまにとんでもない手を指すのが嫌われて相手にしてくれなくなった。もう55年、相変わらず変な手を指している。上図は指した将棋の最終局。私が先手、相手が飛で竜を切ると頭金で勝つ。竜がいるので桂で馬は取れない。玉は馬がいるので逃げられない。守るとなると持ち駒なく、銀を下げると頭金で詰み、飛の守りは4九金王手からタダ取りされるので投了。僅か41手。私は飛車角だけで攻めた。相手は面白くない。頭にくるともう私と指したくなくなる。将棋が原因で友人を失ったこともある。

しかし、たまたま今回うまくいっただけで、大概ボロ負けしている。いつも短手筋を目指しているからだ。負けても気にしない。さっきの将棋が勝ったのか、負けたのかさえ憶えていない。プロ棋士の上達の基本は負けたくないから強くなったとよく聞く。藤井総太二冠は小さい時から負けたら悔しく泣いて勝つまで何度も指されたと聞く。詰将棋もきっちり勉強されている。将棋の本を読み、あらゆる手を勉強し尽している。彼は19歳、勝負を前に年齢も性別も学歴も職歴も関係ない。強い人間は強い。私は全く何も勉強していない。本も読んだことはない。詰将棋も苦手でちょっと見ただけで諦めている。私の手は適当、思いつきと経験から指している。全くの素人将棋。縁台将棋。しかし、ここに将棋の面白みがある。勝つか負けるかはその時々のお互いの指し手の流れに従う。定石に従わない、伸るか反るか、毎回新鮮で面白くなる。素人が素人として楽しめるからこそ将棋の裾野が広いのではないか?

将棋は指す駒が決められている。トランプや麻雀と違い、全くのオープンである。配牌の妙はない。囲碁と違い、一から勝負を連ねていくものでもない。お互い既存の駒を動かしていく。しかし何処かで勝負手を打たなければならない。これはお互い様だ。王を取るか、取られるか。相手の守りを崩して攻める。攻めるうちにも守らなければならない。攻めと守りの相反する選択が迫られる。これが妙手か悪手か、厳しい瀬戸際に追い込まれる。肉を切らせて骨を断つ勝負手に賭けるプロは自分が詰まないか先ず考えるそうだ。素人は相手を詰ますことをまず考えてしまうから攻めに失敗すると負ける。しかし攻める時に攻めないといつの間にか墓穴を掘ってしまう。攻めれば自然、自陣が薄くなる。いつの間にか王がにっちもさっちも。いくら優位でも勝機を失うと厳しい結果になる。一方、将棋の妙は逃げ切っても勝ちになる。逃げるが勝ち

中国にいたころ道端で人垣を見かけた。大概数人で一生懸命下を見ている。議論している。何を?将棋盤に並べられた丸い駒。そう詰み将棋、賭け将棋だ。中国では将棋は象棋(シャンチー)。日本と違い駒組みが粗く、王の守りも薄く、シンプルだ。双方の真ん中に川があるが意味はない。大抵折り畳みの小さい椅子が道路側に盤に向かって置かれ、仕掛人は盤を広げて客を待つ。盤は大概紙。客の候補は見ている数人のうちにいる。サクラもその中に入っている。熱心に議論を吹っかけている。仕掛け人は椅子に向かって黙って100元を見せている。何処の将棋もそうだが、勝てそうな局面でも実際勝てない場合がある。するりと逃げられる道筋が用意されている。日本でも昔は祭りの時に必ず賭け将棋が見られた。日本と違うところは仕掛け人が若い女性の場合がある。そこが大きな罠。結局あと一歩で詰ませることはできない。賭けた金は取られるのが落ち。悔しそうに帰るカモの背中を見ることになる。将棋は優位な駒組みでも勝てる保証がない。逆に優位な時こそ危険な場合もある。そこが将棋の妙

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将棋の発祥の地は遠いインド。ここから西洋ではチェス、アジアでは将棋と世界中に広まった。このゲームは良くできている。なかなか詰まないように計算されている。戦争を避けるためのゲームといわれ、確かに疑似戦争。王を取れば勝ち。王を取られれば負け、へぼ将棋、王より飛車を可愛がり。実際、飛車を切って勝つと気持ちいいが、飛車を取られて投了も多い。素人は特にうっかりが多い。一手のミスが敗着につながることが多い。王を取られることは心臓をエグリ取られるように思われる。昔、将棋を昼休み指していて、脳溢血で斃れる人がいて将棋禁止令が会社で発令されたくらいだ。縁台将棋では負けると将棋盤を引っ繰り返して帰るおじいさんが定番。

将棋は昔から囲碁より低く見られていた。企業のトップは囲碁を嗜み、下っ端の人間は将棋と言うのが定番であった。囲碁は世界の言葉であり、確かに世界で幅広く打たれている。日韓中大会、世界大会と新聞を賑わす。中国で2000年前には打たれていた。私も教えてもらい、打ったこともあるが、どうも白黒の世界は寂しく、無味乾燥な感じを受けた。生来、抽象的な世界に弱く、計算が遅く、エリート意識にも乏しかったことから自然と差しで王を取り合う将棋の世界が好きになった。今でこそ羽生九段、藤井二冠とスターがファンを引き付けているが、吹けば飛ぶような将棋の駒に~の「王将」で有名だった無頼漢”坂田三吉”のイメージ。自分はこの方が好き

会社時代の将棋は先ず碁会所だった。問屋のおじさんと二人、神田で飲んで、行きますか?駅裏の碁会所に入る、そこで将棋が始まる。将棋・碁を打っている人の間をやっと通れ抜けるほど狭くてきれいとはお世辞にも言えない碁会所の中は煙草の煙とおじさんたちの体臭でむせ返っている。勝っても負けても楽しい思い出だった。問屋のおじさんはいつも煙草を燻らせていた。もうあの問屋のおじさんもこの世にいない。もう30年も前の話。その後は一人飲んで、帰り際、池袋の汚いゲーセン、100円でゲーム機相手に指していた。時代は過ぎ、今はインターネットで誰とでも指す。日本でも中国でもどこにいてもインターネットがあれば、サイトにアクセスし、相手が誰かは分らないで指す。24時間関係ない。もう碁会所も見ない。ゲーセンで将棋ゲームは既にない。私が今アクセスしているサイトはSDIN、昔は様々なサイトがあったが、消えていき残ったのがこのサイト。

https://sdin.jp/browser/board/shogi/

レートは1000点が基準。私はほぼ900点台で蠢いている。勝ったり負けたり。弱い相手には勝たせてもらい、強い相手にはほぼ負ける。たまに1000点台に上がり1100点台目前になると負け続け、最終的に900点台で落ち着く。相手は自分の点数に合わせ、900点台であれば900点台、1000点台に上がれば1000点台としている。希望レートを選べるのが良い。先手後手はランダム。昔は試合毎に挨拶していたが、盤を大きくするため、画面上、挨拶の欄を見えなくしているので挨拶抜きの不躾である。持ち時間の基準は5分から20分まで、集中が続かず、疲れるから。自分の設定は10分1手時間3分としている。チャットは断る。将棋を指すのは朝、目を覚ましたい時、寝る前にリラックスしたい時、気分転換を図ろうとする時になる。勝っても負けても恨みっこなし。勝てない相手はほぼ決まっているので避ける。へぼ将棋に付き合わせるのは失礼と勝手に思っている。相手を選べるのがいい。但し名前は都度選べるので変えられたら分からない。

インターネットでの将棋は面と向かって指すべき1対1の将棋本来の人間味を失わせるものだろう。しかし、純粋に自分の空間で将棋を集中して楽しめる。好きな時、四六時中、世界中どこででも指せるところがいい。駐在した中国でも楽しめた。出張時、米国でも英国でもアイルランドでも指せた。世界中で将棋愛好者がいつもどこかで指しているのではないか?見たことがないから判らないが、日本の夜中は中南米の昼間、世界中何処かは昼である。24時間楽しめる理由はここにあるに違いない。相手はけして見えない。PCの先の何処かに私と同じようにPCの前で将棋を指しているはずだ。私はいつもインタネットで24時間途切れないFM1のバロック音楽を聴きながら寛いで将棋を楽しんでいる。他には何も考えない時間だ

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相手はほぼ日本人とは思っている。少なくとも中国、韓国人に違いない。欧米にはチェスがある。いつも様々な人々と指している。相手は疲れた中年だろうか、私の様な老いさらばえた老人だろうか、はたまた若い人、女性や子供なのだろうか。マイナーなゲームだが、脳の活性化、ボケ防止、気力の鼓舞にはもってこいだ。最早私は将棋を続けて指すことはできない。一手終わると頭がボーッとする。脳が疲れて集中力の限界。高々20分でもである。それでもコーヒーやお茶で気分展開し、一休みすれば、また指そうと言う気になる。懲りないお爺さんに戻れる。今度は違う手を指してみよう。もう一度指し直そう。今度は勝てるかな。これが私の一番の喜びだ

日記

2010年9月6日(月)

50才になって初めて日記を書こうと思う。何となればガン宣告されたからに他ならない。丸善にてこの日記帳を買う。2,100円也!若林堂にてニーチェの言葉という本を買う。1,785円也!まず”カタチ”から入る私らしい。病名は膀胱癌!生命に関わる病である。今まで成り行きで生きてきたため日記なぞ書かなかった。書く気もおこらなかった。癌は人生を見直す契機をもたらすものとしては重要である。これからは少しは自省的になりたいものだ。今晩はやっと涼しくなったのでちょうど良い!本当に良いタイミングだ。由貴はおふろ、未央とママは楽しく勉強。愛する家族のために楽しく自分に向き合い、自分を鼓舞できればそれで良い。これが日記を書き初めた理由である。今日はもう眠いのでここまで、また明日。

11年前になる、日記の書き始め。日記帳に話しかけている。癌になった自分に大丈夫だよねと確認している。日記のいいところは、他人に言っても分かってくれない苦しみ、悲しみ、辛さを思う存分思いのまま書ける。書くことにより自らに対し客観的になり、心が落ち着き、感情的に他人に当たることが無くなる。初めて命の危険を感じた時、自分を見つめ、残された時間を大切に使おう。日記に書くと考えが整理され、どうすべきか、どうすべきだったか、もう一人の自分が回答してくれる。そう自分を見つめ直す。一方大切なものへの想いがそのまま出てくる。そう家族だ。家族のために頑張らなければならない。

更にここで何故ニーチェか?書かれた言葉がその後に人生の全てになった。ニーチェの珠玉の言葉が力になる。

自分が常に切り開いていく姿勢を持つことがこの人生を最高に旅することになる
・今のこの人生をもう一度そのままくり返してもかまわないという生き方をしよう
・遅かれ早かれ死ぬのは決まっている。だからほがらかに全力で行きていく
・喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう           ・過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える           ・世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。

この日記帳は日本橋丸善に行った際、カバーの織布の藍色の美しさ手に馴染む温かみに惚れて、少々高いが購入した。阿波しじら織り。独特の風合い。そしてノートの行間の広さ、書きやすさも良かった。この手帳の虜にすぐなった。あの頃は万年筆で書いており、ささっと書いていたので誤字脱字が多かった。尤も字を書くこと自体も忘れていた。パソコンでのキーボードや携帯での文字入力は漢字への自動変換機能があり、漢字の記憶が大まかになる。形状が浮かぶが詳細が出てこない。当たり前の漢字も書けなくなる。便利は便利なのだが。日記を付けることは漢字を思い出し、書くと言う作業を思い出すのに丁度良かった

しかしよくも11年続いたものだ。理由は簡単だ。日記を書くというより助けを求めていたからだ。日記は都度みごとに答えをくれた。最初の癌は手術で乗り切れたが、また8年後再発し、抗癌治療に涙する、日記はずっと寄り添ってくれた。今までの人生、成功より挫折。”あと一歩で”と言う言葉が今も耳から離れない。越えることができたら人生も変わっていた。もっと努力すれば、集中すれば、我慢すれば、後悔先に立たず。今更なんだ。もう既に人生も終着点を迎えようとしている。取るに足らない、薄っぺらな、何も後世に残すものはない。おさらばする時が刻々と近付いている。この世から消え、地に戻る。それもいい。体に生じた癌は身から出た錆と思えた。そんな自分を冷静に日記は解読してくれた。微笑みを私にくれた。自分が自分らしくなすがままに生きよと。だから日記を続けられた。

三重県に二年、長野県に二年、中国に八ヶ月、彷徨い続けた。この間も日記を手放すことはなかった。寧ろ日記なしでは生きていけなかった。2017年11月6日この日記帳ともお別れすることになった。理由は形に拘ることを止めようとおもったことだ。中国に移って一カ月、中国に居を構え、この日記帳が手に入らなくなると覚悟したこともあった。その時の日記。

2017年11月6日 (月)

疲れた。問題が山積み。たまらん。まあ今日は寝よう。この日記帳とも今日でサヨウナラ。もう全て捨てる。あとは質素に日記を付けていく。もう形はどうでも良くなった。どうせ”無”に皆戻っていくのだ。形にこだわることはない人生”無”だ。どうでもいいのだ。形あるものは消えゆくもの。今を生きていけば良いのだ。体を元に戻し何とか生きのびよう。明日は明日。辛い日々も去っていく。私の記憶の片隅に残るのみ。全てはサヨウナラ。私の心の問題だ。これからを私は私なりに生きていく。もう何も残さない。それが私らしい。そのままの人生なんだ。素直にそのまま生きていく。

このあと、日記帳はありあわせのノートになり、書くものも万年筆から鉛筆に、字も書きなぐりとなり、自分でもあとから読めなくなっている。しかしほぼ毎日書く。手帳、サブノート、日記ノートの3本立て。手帳には予定、サブノートには反省や目標をまとめる、そして日記には日々の想いを書いている。山だって旅先だって持っていく。電車で書くこともある。コンビニ、マック、喫茶店。中国の庭園でお茶を飲みながら日記を書いていた時、見知らぬ中国人が覗き込んで来て、面白い漢字だ。と言ってきたのには驚いた。日記は元々中国語だが、中国では公式な記録のこと。日本のような日記文学は聞いたことがない。漢字の書くなぐり文化はないようだ。この中国人は旅行者で、湖南省から団体で来ていた。日本人だって見たことがなかったのだろう。公式に漢字を使うのは今や中国人と日本人のみとなっている。1千数百年の時代の流れで意味も形も違う部分ができている。思えばカタカナもひらがなも書きなぐりが元といえばなるほどなのかもしれない。芭蕉の奥の細道の原書も漢字書きなぐりに見えなくはない。

時代も変わり、ブログを日記としている人が多いようだ。しかし、私は鉛筆書きに拘っている。そうしないと自分に向き合えないような気がする。昔は夜寝る前に書いていたが、ワイン一杯で酔っ払って寝てしまうことが多くなり、書けなくなった。昼、コンビニで外の景色を眺め、100円コーヒーを飲みながら書く。それで充分。贅沢は言わない。今の自分を見つめるのに丁度いい。鉛筆は温もりがあっていい。シャーペンでは寂しすぎる。消しゴムは必要だが。あと何年書けるだろうか?それが今自分の問題の様な気がしてならない。ボケとの戦い、年を取ると、いつ意識が無くなりそのまま別の世界に行ってしまうかわからない。書くことがなくなることも怖い。何もすることが無くなれば書けなくなる。主体的に物事に取り組むから書ける意欲が無くなったとき筆は折らなければならない。その時は遅かれ早かれ来るものだろう。その時が来るまで日記帳を片時も離したくないと思っている。

終戦の日に寄せて

今日8月15日は終戦の日。今は亡き父とテレビで夏の甲子園を見ていると急にサイレンが球場に鳴り響く。正午。選手が試合を止め、帽子を取り、頭を下げ、直立不動で黙祷を捧げる。合わせて応援も放送も何もかも止められ、球場全体が数分間静寂に包まれる。父に言われ、家族全員一緒にテレビに向かい、直立不動になり頭を下げ、黙祷を捧げる。日本独特のけたたましい応援合戦の異常な雰囲気がガラッと変わる一瞬の時だった。庭のクマゼミの声と扇風機の音が急に大きくなる。これが私にとっての終戦の日だった。高校野球と戦争、そして終戦が持つ意味合いは何なのか。長じてくると終戦の日とは何だったのか疑念を持つようになる。終戦は日本がまず降伏を宣言した日なのか?終戦を一方的にできるのか?と言うことだった。一方的な降伏はそう簡単に許されるのかと言う疑念もあった。終戦の日とは玉音放送が流れた日に過ぎない。しかし高校球児にとって何の意味があるのか?

実際米英中ソによるポツダム宣言の受託を海外に向け宣言したのはは8月10日である。5日前にはもう既に海外に対して無条件降伏を告げている。一方ソ連からは中立条約の破棄と宣戦布告をその前日に受けている。最早ソ連は止まらない。これはポツダム宣言履行によるものだ。日本の敗戦は既に既定路線に入っており、時間の問題だった。5月にナチスが敗れ、6月のソ連への敗戦仲介要請は徒労に終わった。尤もこの前の年にサイパンを抑えられ制空権を米国に握られた時点で最早敗戦が濃厚であったのは軍部も承知していたのではないか。将に四面楚歌の状態だった。そこに原爆投下。寝耳に水。国体護持しか為政者に頭になかったはずだ。いつ白旗を上げるか。日清、日露と日本は常に引き際を念頭にして戦っている。けして両国に勝ったわけではない。全面戦争は避けていた。日本には局地戦の妙しかない。真珠湾攻撃は窮鼠猫を噛む、ソ連への和平交渉は手負いの熊に命乞いをするようなものだった。真綿で首を絞められるように全土への空襲と艦砲射撃の前に押し黙るより仕方なかった。8月15日は国民への敗戦告知の日であり、戦争はけして終わっていなかった。ソ連の攻撃は続いていた。終戦の締結は9月2日まで待たなければならなかった。終戦の日の意味は対外的ではない、若人を特攻と言う死の世界に送り込むことを止めさせた日なのだ。

太平洋戦争の是非が問われるのは、神風特攻隊を生み出したことだ。失われたのは年端もいかない若い命だ。未成年の若者に死を恐れぬ自爆テロを強いたのは誰か。為政者は問われなければならない。若い命は戻らない。過ちを繰り返してはいけない。敗戦と言う事実を認め、戦後復興から過去を拭い去るのではなく、和平交渉がまだ済んでいない北朝鮮、ロシアとどう向き合うか日本は米軍の基地なのか植民地とした地域があるモンゴル、韓国、中国との関係。戦後76年経っても敗戦処理は残っている。黒い雨訴訟の判決が下りたばかりだ。まだ戦争は終わっていない。戦争に対する責任を負うことを逃れ、票取りのために靖国神社に行くのが政治家の仕事ではない。今こそきけわだつみの声を聞くべきだ。何故高校野球でサイレンが鳴るのか、失われた若人の声をサイレンが代弁している。忘れてはいけない。失われた若人の声だ


人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、
ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐ろしき哉、浅ましき哉
人間よ、猿の親類よ。

自転車の旅、旅路の果て

人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し急ぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
勝つことを知りて負くることを知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり

徳川家康の遺訓は正に我が自転車の旅への御言葉。旅の荷を背負い、坂をえっちらおっちら上り、下る。そして息を吐く。黙々とペダルを踏み続ければいい。自転車の旅は正に人生の旅只管耐えるのみ、けして急がず、焦らず、愚痴らず、誰に抜かれようと我が道を行く

1.若かりし頃:広島へ 1979-1984

小さい頃、自転車に乗りながら考えた。この道は何処まで続くのだろう。自転車に乗れば何処までも行ける。田舎の一本道は野を越え山を越え何処までも続く。未知の世界。しかし現実はそう甘くない。自転車の旅が実現したのは学生時代、41年前。東京-仙台往復602kmから。3泊4日。仙台迄は旧水戸街道の国道6号線を只管走る海岸線沿いの平坦な初心者コース。1970年代後半、若者の旅は自転車。飛行機に乗るなんて贅沢の極み、海外なんて以ての外、かと言って新幹線も高嶺の花、夜行の鈍行が当たり前。そして何より混とんとした時代だった。学生運動への不信から宗教への誘いが忍び寄っていた。現実から逃避し、”青年は荒野を目指す”がブームだった。思い通りにならない世の中、せめて自分の世界を広げたい。世の中とはどんなものか、”何でも見てやろう”と相なる。金はないけど自由はあった。バイト代で自転車を買い、旅費を捻出する。その頃の道は整備されてなく、危険がいつも隣り合わせだった。若気の至りから東京に戻る道で旧奥州道の4号線を白河の関に向かい、何を血迷ったか、また水戸街道へ、勿来の関に抜けたくなった。酷道と言われた289号。あの頃3桁の国道は国道ではなかった。だいたい関所を横断するなんてえのは愚の骨頂。関所破りもいいとこだ。夕闇迫る山道で、車を避けて側溝に前輪を嵌め、前後輪が接吻し、山に突っ込んだ。股間はハンドルの軸に。血だらけだった。あの頃の自転車はまだ安かった長距離走行用日本製ランドナー、後輪にバック2個とフロントバック、坂道でスピードが増すことを分かっていなかった。運よく通りかかった地元の軽トラのおっちゃんに助けてもらい、病院へ。何とか止血してもらい、事なきを得た。自転車はくっついた両輪を引き離した。フレームはクロモリ軽くて丈夫だった。東京に戻り、旅は続く。気にはしない。

暁に富士

東京から広島まで938kmを6日間、1981年8月6日の原爆記念式典に出てみたいとの一心で向かった、基本は野宿、浜松の神社で寝ていたところ、朝早くお百度を踏む人がおり、たたき起こされた。名古屋では日中、睡眠不足でいつの間にか自転車を横転させ寝ていた。京都では照り付ける真夏の太陽で大火傷を負った。もう諦めようと思った大阪の峠で原爆に遇い広島から逃げてきたと言うおばさんに会ってしまい、旅を続けざるを得なくなった。今思うと良くも広島に着けたと思う。ゼミの先生が倒れ、急遽広島から輪行し新幹線で帰った。更に東京-直江津-富山-能登一周-枚方1,093kmを7日間。枚方から急に呼び出された会社面接のためやはり輪行し夜行電車で帰った。学生時代の自転車旅行は熱かった。闇雲に走った記憶がある。社会人になって流石に野宿はなくなったが旅は続いた。紀伊半島を桑名-大阪844kmを5日間、潮岬は行けども行けども辿り着かない、深い山の先だった。四国を徳島-松山860kmを4日間、足摺岬で雨が横から降ってきたのには驚いた。自転車は下りて押さざるを得なくなった。旅は楽しいばかりではない、苦しいことが多かった。でもやめられなかった。道は永遠に続くと思われた

最初の自転車の旅

2.挫折・癌の克服:日光は遠く 2010-2012

挫折の時が来る。腰を痛めた、更に時代はバブルに突入した。六本木で遊び呆ける誘惑に勝てなくなった。弾けると同時に現実に戻り、貯金もなく結婚し、家を建て、子供が生まれる、仕事も忙しくなる。住宅ローンは返さなくてはならない。育児の義務、目の前の現実が自転車と言う夢を追いかけることを許さなくなった。そうこうするうちに国内景気暗転から海外出張へ、更に海外単身赴任が追いかけてきた。毎日が必死だった。当に自転車の旅は頭の中から消えていた。最後の旅から既に25年が過ぎていた。ひょんなことから忘れかけていた夢を思い出す時が来る。8年に及ぶ海外単身赴任から帰り50才を迎えた時、が見つかった。手術した。リハビリは散歩、そして体力が戻ったころ自転車で近所を回ることにした。ママチャリならぬ、パパチャリ、ブリヂストンの三段変速のシティサイクルだ。いつの間にかまた自転車の旅にのめり込んでいた。道はまた目の前に広がった

仕事は閑職となった。リーマンショックの余波で海外事業再生の目もなくなった。仕事に揉まれ続けた会社人生は50才を境にすっかり変わった。幸せなことに全てのローンの支払いが終わった。自分の義務は子供たちを無事学校だけは卒業させることだけ、後10年。斯くも長い不在から家族とは疎遠になった。癌もいつ再発するか分からない。死も身近に感じていた。自分に素直に生きること、好きなことをして死にたい。原点に戻った。自転車だった。週末の自転車の旅が生活の中心になった。先ずは近くの自転車道を走り、更に近くの川沿いを下流に或いは上流に遡った。 癌 の再発や仕事を失う恐怖、閑職という孤独から逃れる唯一の楽しみになった。シティサイクルなのでスピードも出ない。のんびりゆっくり走る。何も考えない。このころの自転車の旅は現実逃避だけ、ほとんど写真が残っていない。行った先のリストだけ。正に心の旅だった。家を中心に日帰りで行ける範囲に限った。必ず帰って来る。

元気になると更に一泊の範囲で何処まで行けるか試してみた。いざ鎌倉。家の近くを鎌倉街道が走っている。真南に走れば鎌倉56km、折角だから、湘南を楽しんでみようと平塚まで向かいそこから相模川を遡って帰ってきた。勿論パパチャリ、 2日で167km。2012年8月、52才。今度は真東に進路をとった。真東に向かうと丁度銚子犬吠埼だった。道は平坦。しかし距離がある。135km。途中雨に降られた。雨に勝つ体力は最早失われていた。それでも夜7時には九十九里を下り、大網白里に着けた。1日178km走った。鎌倉往復以上の距離を1日で駆け抜けた。帰りは千葉市を抜けた。小高い丘を越えるとすぐ千葉市に。アッと言う間。結局2日で271km走った。翌月には真西の甲府に向かう。112km。鎌倉までの距離の2倍、しかも笹子峠 (1.090m) がある。流石にきつい。更に戻りで欲を出して河口湖に向かう。御坂峠(1.520m)越え。その名の通り坂また坂なのだ。嫌になった。甲府でホウトウを、富士吉田でうどんを食べたことだけは満足している。2日の旅で253kmだった。2週間休んで、今度は真北に向かった。日光である。日光街道を突っ走れば着く。135km、銚子犬吠埼と同距離、最後きつくなるが、何とかなると思われた。しかし、埼玉、茨城を越え、栃木の野木あたりで股が痛くなった。蓄積なのかもしれない。サドルとの摩擦で、擦り切れたようだ。湿布は貼れないので、サロメチールを塗ってみた。何と痛みが消えた。びっくりした。足も何度も攣ったが、これもサロメチールで乗り越えた。日光から霧降高原へ、そこに泊まり、良せばいいのに足尾経由で帰ることにした。山へ入る。行けども行けども日光、日光は今や関東一の面積。栃木県の23%が日光。堪らない。足尾で渡良瀬渓谷沿いに下りることになる。これは気持ちいい。群馬桐生で渡良瀬川とお別れし、利根川へ、越えれば埼玉、結局この旅で埼玉をV字縦断した。 2日の旅で280km走り切った。東西南北を走り終えた時点で次の目標を東西南北の間、北東、北西、南東、南西に向かうこととした。北東は日立、北西は軽井沢、南東は品川、南西は富士だった。南東方向は近い。アクアラインを自転車で越えることはできないので諦めた。日立も軽井沢も昔行っているので大丈夫と判断した。あれから30年、年が違う。10月になり、先ず日立に向かう。距離は最長の往復299kmになった。久慈港近くのホテルに泊まったが、津波の被害で久慈港は壊滅的被害を受けたことを知った。平坦な道は年をとっても耐えられるものだ。軽井沢は碓井峠だけ、はるかに道は良くなっており、難なく越えられた。往復264km、冬が迫っていた。富士は年明けとしたが、自分に左遷の雰囲気が漂っていた。最早夢も希望もなく、仕事の狭間で鬱状態だった。上の人間は分るもの。翌年、春を待たず三重県に転勤となった。単身赴任が待っている。結果的に富士はお預けとなった。そして人生の旅路は続く

パパチャリでのリハビリサイクリング

3.復活の四日市:海から山へ走る 2013-2014

記憶の断片断片を紡いでいくと思い出が絵となって表れてくる。しかし何時の間にか記憶が曖昧糢糊に、絵が漠然とし、元の記憶さえも忘却の彼方に消えていくのが落ちだ。全てが失われる前に少しでも記憶の断片を拾い集める。失った過去が蘇るかもしれない。三重県には2013年から2年。閑職、北窓際の席、工場中二階、冬は底冷えが襲う。無毛な資料作成、退職まで耐えた。救いはサイクリング、温泉そして登山だった。工場からは釈迦ケ岳が真正面に、涅槃の姿だった。心の安らぎだった。住んでいた四日市は伊勢湾に臨み、鈴鹿山脈が間近に迫っている。海から様々な街道が山に向かって走っていた。越えれば琵琶湖を通し日本海へ。北陸、東海を繋ぎ、伊勢への入口となる。鈴鹿山脈は1,000m級で海近くでせり上がり、街道に峠を提供した。山頂からは伊勢湾を越えて知多半島まで眺められた。江戸・戦国、平安、奈良、飛鳥を辿るような風景に出会えた。神話の世界である。東京にはない歴史を感じる風景だった。東海道八風街道の交差する港近くに一人住んだ。静かな港町。八風街道は菰野を抜け、八風峠で鈴鹿山脈を越える。越えれば旧八日市、そして琵琶湖に着く。古の主要街道の一つ。八風の謂れは古く伊勢の国譲りからきている。伊勢の名の元になった伊勢津彦が帝に対し「今夜八風を起し海の水を吹き波に乗り東に去りぬ」と言い去ったと言う。一説には長野県の諏訪に行ったとされる。私の運命は伊勢の神の御導きなのか、その後、伊勢から諏訪の地に居を移すことになる。

八風峠は鈴鹿山脈を越える峠の中で一番高い標高940m、古の風景を残す八風道を直走り朝明川そして田光川沿いを上っていく。自転車は 八風 キャンプ場に停め、峠入口から歩いて向かうことになる。後はほぼ登山だ。登る途中2つの小さな石の墓標が続けて目に入る。江戸時代文化年間わずか14歳で亡くなった伊左衛門と嘉助の墓。約200年前雪の中。村に戻る途中遭難死した。江戸時代の亡霊に出会える。細い葛折の山道、どう人馬一体となったキャラバン隊が近江から来て登り下りしたのだろうか?光景がタイムスリップする。登りつめると八風峠、眼下に時間が止まったような菰野の街並みが望める。忘れられない思い出だ。2013年10月。これ以降自転車で山に向かい、入山場所に自転車を括り付け、靴を履き替え、ストックを握り山頂に登る。戻るときは、途中温泉に入って体を休める。下る坂で体いっぱい浴びる潮風が何と心地よいことか。サイクリングと登山を両方楽しめる至極の時を味わえた。

自転車で山に向かい、靴を履き替え登る。潮風を全身に浴び下る。温泉に入る。鈴鹿セブンマウンテン、自転車と登山両方楽しめるのはここだけではないだろうか?

北から花の藤原岳(1,140m)、員弁川沿いに走り、聖宝寺に自転車を停める。帰りは露天風呂が最高、六石温泉 あじさいの湯 http://www.rk-hotel.com/

眺望の竜ヶ岳 (1,100m) 、宇賀川支流を遡り、石榑峠(690m)に自転車を停める。 帰りは様々なお風呂が楽しめる三滝温泉満殿の湯http://www.mantennoyu.net/

遠くから見るのとは大違いガレの釈迦ヶ岳 (1,092m) 千種街道を走り、中尾根登山口に自転車を停める。 帰りは登山口すぐ下の眺望が最高 三休の湯 http://33thank-you.com/

奇岩怪石を楽しめる御在所岳 (1,212m) 湯の山街道を走り、表道登山口に自転車を停める。 帰りは登山口すぐ下の眺望が最高 湯の山温泉希望荘 http://kibousoh.or.jp/

頂上の岩が魅力の鎌ケ岳 (1,161m) 、やはり湯の山街道を走り、武平峠(815m)に自転車を停める。 帰りは同じく 湯の山温泉 希望荘 http://kibousoh.or.jp/

少々キツイ雨乞岳 (1,238m) 、 やはり湯の山街道を走り、武平峠(815m)に 自転車を停める。 帰りは 同じく 湯の山温泉 希望荘 http://kibousoh.or.jp/

登りやすい入道ケ岳 (906m) 、紅葉で有名な宮妻峡まで走り、椿大神社に自転車を停める。 帰りは 三滝温泉満殿の湯 http://www.mantennoyu.net/

鈴鹿セブンマウンテン

四日市からの最初の自転車旅行は伊勢志摩往復216km。2013年7月、鳥羽相差温泉に泊まって帰ってきた。忘れられない思い出がある。伊勢神宮の入口、猿田彦神社で自転車のキーを失くした。携帯電話で近くの自転車屋を探し、助けを求めた。バンでおじいちゃんが来てくれた。自転車ごと店まで運び。鍵ごと交換となる。待っている間に何気なく店の中を眺めるとローバーの伊勢の代理店証明の古い英文の看板、110年前の明治44年。ローバーミニで有名だが、安全型自転車を世に出し一世を風靡したのは英国ローバーである。それまではフランスで発明された前輪が巨大な不安定なもの。安全型は今の自転車の原型、両輪が同じ大きさに並ぶ。大正期に小型軽量な自動車が開発されるまで自転車が明治期の運搬の主流だった。明治時代には伊勢まで既に本場英国から自転車は輸入され、販売されていたことに驚かされた。自動車は昔汽車だった。今でも中国では自動車を汽車と呼ぶ。蒸気機関車がルーツ。大砲を移動させるためにフランスで開発された、馬ではきつい作業。蒸気で動かすため巨大なボイラーを載せることが必要だった。それで汽車だ。1769年自転車が開発される遥か50年近く前であり、日本では名称が似ているので同じルーツに思えるが、全く当初より違うものであった。中国では自動車は自動運転車、日本の汽車は火車と呼ぶ。蒸気機関車のルーツが中国古代の火車から来ているからか?更に自転車は中国では自行車キックバイクがルーツ、ペダル無し、足で地面を蹴って走るからか。伊勢地方では自転車をケッタと呼ぶが、ここからきているかは分からない。尚、最早ローバーはブランドのみの会社。大阪で日本の販売会社が自転車を組み立て販売している。自転車から展開し、一世を風靡した自動車部門はと言うとやはりブランドのみ。ローバーミニはBMW。他はタタモーターズ。自転車業界が似ているのはブランドのみが多いということ。旅から帰ってパパチャリから卒業すべく、マウンテンバイクを購入、米国のブランドGT。後で分かったが、全て中国製、然もどこで作らせているか分らなかった。格好はいいのだが、最後は錆びだらけ、パンクに悩まされ、購入した店からは段差を避けろと言われ、タイヤを全て交換する羽目に、最後は廃棄。今頃アフリカに行ってるのか?今乗っているのはカナダルイガノビーコン、ランドナーの草分け、これも日本の販売店が組み立てている。ボルトの緩み、パーツの傷み、販売店組み立ての問題と諦めざるを得ない。たまたま山で会ったカナダ人に聞くと知らないと言う。彼は富士の自転車が好きだと言う。懐かしい有名ブランドだが、これも全て米国製になっている。ただ中国で乗っていたジャイアントだけは純正だった。パンクも錆びもなくいい走りで、日本で2万円で売れた。今思うと友人に長野で渡してしまったが、ブリヂストンのパパチャリは丈夫でパンクもなくしっかりしていて速かった。ブランドだけでなくどこでパーツを作り、組み立てているか、品質管理は誰がしているかが問題なのだろう。

伊勢志摩から戻って、一週間後には知多半島一周に出かけた。半島の先の南知多温泉に泊まり170kmの周遊、高低差はないが、名古屋を抜けるのが大変。自動車中心の道で自転車が通れない。時に自転車を担いで歩道橋を登らなければならない。翌年2014年4月、東海道を鈴鹿峠(367m)を越え、近江を抜け、京都三条大橋まで往復した。実に33年ぶり。山科の凄まじい木賃宿に泊まる、往復217kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30127.html 戻りの鈴鹿峠からの下り道、夕闇が迫る中、大雨に襲われ、前輪からの凄まじい飛沫と前面に吹き荒れる雨とで全く前が見えない状態となる。ひたすら恐ろしかった。翌月には津から初瀬街道に入り、青山峠(477m)を越え、赤目四十八瀧を見て、室生寺そして長谷寺まで、帰りは伊賀に入り、加太峠(309m)を越えて東海道を帰ってきた。長谷寺近くの街道筋の旅籠に泊まった、 往復215km 。街道筋は煩く眠れず、初瀬街道は大阪からお伊勢参りに向かうルート、大阪人は長谷寺参りで伊勢詣の代わりとし、戻った由、伊勢はあまりに遠い。次のターゲットは敦賀だった。伊勢湾は琵琶湖を挟んで敦賀湾と本州の一番のくびれ、日本海が一番近いところだ。敦賀に行き、日本海を拝みたい。木曽三川沿いに関ケ原に入り、不破の関を越えれば琵琶湖は近い、後は鯖街道に抜け、深坂峠(364m)を越えればもう敦賀、長谷寺から帰って1ヶ月経たないで出かけた。往復234kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30160.html丁度往復にはいい距離だった。氣比の松原で日本海に臨み感無量であった。敦賀で道路建設で温泉が出たと言うトンネル温泉に泊まった。ここまでは1泊2日の旅だったが、次の浜名湖までから2泊3日になっていく。東海道沿いに浜名湖までは苦にならないと思われたが、欲が出た。渥美半島一周を追加した。知多半島を一周したから渥美半島もと思っただけ。浜名湖に臨む弁天島温泉と豊橋では温泉付きビジネスホテルに泊まる。3日で450km走った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30171.html伊良湖岬で撮ってもらった写真が残っている。マウンテンバイクなので、荷は全て登山リュックに入れていた。このころが一番絶好調であった。54歳、癌の再発ももうないと信じていた。体重も60㎏代に落としていた。また人生をやり直そうと思っていた時期だった。まだやれる。9月に入って木曽妻籠馬篭まで中山道を走ることにする。3日で往復249kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30272.html妻籠で民宿、恵那峡でホテルに泊まる。妻籠の民宿はこおしんづかhttp://kooshinzuka.jyunken.co.jp/english/?fbclid=IwAR30rtb2pVQ9qWvAj4mBbGf1seHRe8S_8tUoV3JT0BIVRVi6m01Q3lRK6BE宿泊はポーランド人の老夫婦の家族と私のみ。老夫婦と言っても私と余り年は変わらない、あと、娘夫婦と子供2人。1週間泊まっているという。全く日本語はできない。しかも日本は初めて。何故、木曽に?インターネットで英語のサイトがあり、予約できるからだと言う。民宿は価格的にもリーズナブル、しかも日本の原風景を堪能できる。おじいちゃんたっての要望だったという。体調が優れないようで、もう最初で最後の海外旅行かもしれないとおっしゃっていた。石畳の旧中山道では日本人が誰もいない中、オーストラリアのツアー客が大勢歩いていた。朝散歩すると会ったのはドイツ人親子、馬篭のレストランにはスペインから新婚旅行のカップルのみの団体さん。毎年このレストランに来る由、驚きの連続だ。誰も日本語を解せない。最果て極東の国にどういう生活があるのか?どのような人々が暮らすのか?新型コロナ禍から欧米の旅人は戻ってくるのだろうか?年末近く会社生活もリセットに向けラストスパートに入っていた。11月に入り、琵琶湖一周に向かう。鞍掛峠(791m)を下りれば多賀大社、伊勢神宮、天照大神の生みの親、伊邪那岐、伊邪那美を祀る。神話を辿る。下りた琵琶湖岸は彦根、ここから一周241kmだ。平坦な道、山は北部のみ、最後の旅に相応しく3日間いい天気だった。奥琵琶の温泉に1泊し、彦根で湖畔のホテルに泊まって来た道を戻った。日本一の湖は穏やかで広く、静か、走っているうちに眠くなる、只管眠気に耐えて走った。四日市最後の旅を快適なサイクリングで閉じられたことが嬉しかった。3日間352km走り切った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30275.html

四日市を起点にした自転車の旅

4.変転の茅野:八ヶ岳とフォッサマグナ 2015-2016

人生は何が起こるか分からない。全く青天の霹靂で運命は往々にして動かされる。四日市で長野県の茅野の会社から来ないか、オファーが飛び込んだ。蘇州に会社がある。任せたいとのこと。茅野の英文名はCHINO、スペイン語で中国のこと。茅野は諏訪大社近く、伊勢の神との関係もユニークだ。天皇から追われ、最後は諏訪にと言う神話だ。何か縁があるかもしれない。と言うことで、窓際の会社を去り、長野県の茅野に初めて移り住んだ。縁も因もない土地、2015年2月、真冬に引っ越した。その寒さに圧倒された。氷の世界だった。しかし春になると一斉に花が咲き、鳥が囀り、水音が響き、高原に生命が躍動する。夏は新緑、秋は紅葉、自然に恵まれた高地は空気が美味しい、景色が素晴らしい。が洗われる。がうまい。勿論も美味い。山菜野菜蕎麦、酒の抓み、申し分ない。温泉も毎日楽しめる。今でも新蕎麦祭りには女房を連れて行っている。仕事が順調で母が病に倒れなかったら、今も居たに違いない。四日市にいた時と違い、海外出張が多く、旅行にはほぼ行けなかった。ただ、近場を走れば旅気分に浸れた。八ヶ岳は目の前、川沿いを下れば諏訪湖清里蓼科霧ヶ峰も自転車、日帰りで充分行けた。2年間はあっと言う間だった。茅野での生活は人生において一瞬煌めいたダイヤモンドのようだった。この煌めきはもう戻らない。一番の自慢は と北 の八ヶ岳を自転車で一周したこと、フォッサマグナを糸魚川まで往復したことだろう。初めての茅野での夏は、東京まで自転車で帰ってみた。甲州道をまっしぐら、往復330kmを駆け抜けた。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30301.html 翌年夏、東京に住む母が倒れた。姉兄で面倒を見てもらうことに、老々介護だ。申し訳ない気持ちで一杯だった。そろそろ茅野も潮時のようだった。冬には戻る予定で、急ぎ自転車旅行を再開する。思い残すことなきように。しかし、母の体は思うようにならない。屡帰らざるを得ない。致し方ない。まずは と北の八ヶ岳を自転車で一周 だった。2016年7月、9月に回る。既に山は制覇している。麦草峠(2,120m)が両方の起点。メルヘン街道を東に松原湖へ向け下りていく。横岳が噴火しできた湖だ。小さな海のようになったので小海町千曲川沿いに海尻海ノ口へ、相当な噴火であったと想像される。東から見る八ヶ岳は一番高い赤岳しか見えない。茅野からだと赤岳が見えず、阿弥陀岳が全面となる。野辺山を越えると山梨に入る、清里を抜ける八ヶ岳高原ラインを西に向かう。鉢巻道路に入って長野県に戻り、原町を越えて茅野の我が家に戻る。一周105kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30322.html 北はビーナスラインから蓼科スカイラインを走って蓼科山をぐるっと回り大河原峠(2,093m)を目指し、ガレの中を走り抜け麦草峠に戻りメルヘン街道を西に帰るルートとなる。一周91kmhttp://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30333.html 八ヶ岳を様々な角度から眺められる山好きには堪らないサイクリングコース。

小松左京の書いた「日本沈没」で一躍有名になったのが日本を中央で分断するフォッサマグナ。茅野は糸魚川静岡構造線上中央に位置する。丁度西南日本と分岐するライン。日本が沈没していくのは諏訪湖からだ。先ずは地層が一番見え、迫力あるルートを糸魚川へ辿る。諏訪湖から塩尻峠 (999m) を越え、松本、安曇野、大町と高瀬川を糸魚川に向け下っていく。塩尻峠は分水嶺、峠の水は北へ流れれば、日本海へ、南に流れれば太平洋に下る。壮大な日本地図上を走る。これが茅野最後の旅となった。2016年10月、3日間、白馬の温泉に2泊し、293km走り切った。http://www.cyclering.com/modules/rec/detail-30359.html

茅野を起点とした自転車の旅

5.中国へ:昆山水郷古鎮を巡る 2017-2018

旅の終わりは呆気ない。年末会社を去り、東京に戻ることとした。茅野での仕事はやり切った。飄々と生きてきた人生、東京でも成るように成ると思っていた。帰ったら母の面倒を見て、最後の職探しと思っていた。60歳まであと3年ある。しかし思いも寄らないことが起きる。私の帰りを心待ちにしていた義父が呆気なく亡くなった。帰って来たその晩、一緒に酒を飲んでいて倒れそのままだった。母のため帰って来たがまさか義父の最後の杯を交わすために帰ることになろうとは。就活は義父が天国から手を差し伸べてくれたのか、ある商社よりオファーがあり、即決まった。義父の弔いの四十九日目に仕事に就く。生まれて初めての商社、慣れるもへったくれもない、米国企業との取引から、上海の関連会社とのやり取りまで言われるがまま熟した。半年が過ぎた頃上海昆山兼務の長期出張となる。上海はホテル代が高い。昆山に仮住まいすることに。昆山から中国新幹線高鉄で上海は一駅、高速バスでも往復が安い。小一時間の辛抱。上海まで3時間弱、4時間ほどで着ける。時差は1時間。朝の便で行けば昼過ぎには昆山だ。実は長期戦を覚悟していた。日本に仕事はもうそうはあるまい。あわよくば中国で定年を迎えたい。しかしそんなに現実は甘くない。滞在ビザが切れる頃帰還命令が下ることに。昆山生活も私の会社人生に射した最後の一筋の光だった。過去への惜別の機会を神様がくれたに過ぎなかった。住まいは市政府の目の前、交通の要所。ただ生活するのに足が必要だった。蘇州への昆山は有名な台湾の自転車メーカーのジャイアントの工場がある。早速特約店より買うことにする。本物の中国製のジャイアントだった。ニューモデルだった。日本では売っていないマウンテンバイク仕様。また自転車に跨った。ただ、月に一度は日本に戻っており、既に酷使していた体が悲鳴を上げていたようだ。潮時が近い。滞在期間は8カ月となった。昆山は広大で美しい水郷地帯にある。ほぼ山がない。東京23区の1.37倍の面積にたった17%の人口。サイクリングには最適な環境だが、怖いのは高速道路に自転車のレーンがあると言うこと、運を天に任すしかない。昆山市の市政府近くに住む。

亭林園:最初に昆山を昆山足らしめる所に行く。唯一と思える山がある。玉峰山、高さ80m、昆山を一望できるが、ほぼ霞んでいて見えない。昆山と言えば昆曲。玉三郎の「牡丹亭」を蘇州で見たことがあるが、朗々と歌い上げる姿が美しい。これが歌舞伎の元になった。この迫力ある舞台に上ることができる。2017年10月,秋深まるころだった。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/tinglin-park-76186

千燈古鎮:派手さはないが、赤い塔とアーチ状の石橋のバランスが絵になる2500年の歴史を有する水郷。塔は秦峰塔、石橋は恒昇橋、川は呉淞川の支流千燈浦昆曲の故郷でもある。昆山の歴史を感じる古鎮。自転車は呉淞川沿いに走り着く。11月半ば、秋深まる静けさを感じる。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/qiandeng-ancient-town-76189

周荘:屋外の舞台で昆曲が楽しめる。初めて見た時、胸が高鳴った。忘れてはいない。11月末、自転車で向かう。着いた時間が遅すぎた。次回に持ち越すことに、しかし最悪なことにその次回では演じることがなく、結局昆山にいる間に見ることは叶わなかった。一番メジャーな水郷古鎮である。明・清時代商業で栄えた跡が残っている。忘れてならないのが万三蹄だ。豚の太腿の醤油煮だ。トロトロこってり、やみつきの味、しかしボリューム過剰、一人で食べるには多すぎる。打包して2,3日掛けて家で食べることになる。翌年昆山を去る日が決まって、最後に訪れた時食べたのは万三蹄と麺、これが最高の取り合わせ、出汁の利いたトロトロの肉が細い麺と絡み、最高の味わい.地酒の紹興酒で頂いた。これで最後かと思うと万感の思いが胸に込み上げた。https://jp.trip.com/travel-guide/city-77/tourist-attractions/business-district-11892/

陽澄湖水上公園陽澄湖と言えば上海蟹に尽きるが、景色もいい。一番のパターンは蟹を食べながら風景も頼むこと。公園も各所にあり、また菜館や賓館も併せて風景の一つとなり目も楽しませ、サイクリング、散歩コースも整備、心も癒してくれる。12月に自転車で行ったが、季節外れで逆に静かで良かった。こういった楽しみ方もあると教えてくれた。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/yangcheng-lake/yangcheng-lake-water-park-92228

昆山城市公園:2018年4月、昆山市政府の真ん前の広大な公園が一段と華やぐ。昆山城市公園。池の端に咲く花が春を告げている。日本の花と同じで違和感がない。元々日本にある花が中国由来が多いのだから当たり前。花海棠、花言葉は豊艶、楊貴妃の愛した花、香が芳しい。水の都に相応しく池の面に花が映える。住まいから近く、会社に行く通り道だったので、随分お世話になった。特に公園に沿って西洋料理のレストランが並んでいて、週末の楽しみだった。忘れもしない拿波里西餐厅。日本では滅多にお目にかからないグルジアのワインが飲めた。日本語で言うとナポリレストランでイタリア料理なのかなと思うんだけれど、何故かグルジアワインの店だった。ブルーチーズもあったのには驚いた。店では受けないので、信じられない価格で譲ってもらい、毎晩のワインの抓みにしていた。感謝。店主は中国人の若い女性で日本語ペラペラ、カラオケ店にいたらしく、元常連の日本人が来ていたようだ。もう店は閉じているようでグーグっても出てこない。残念だ。店に飾っていたグルジアの綺麗な空のボトルを数本もらった。今も部屋に飾っている。因みに今は日本ではグルジアをジョージアと呼ぶように言われているらしいが、中国ではロシア語のグルジと呼んでいたのを憶えている。昆山は上海に近くしかも台湾に一早く門戸を開いた開発区だったため、外国人向けの店が多い。異国にて更に遠くの異国に思いを馳せた。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/kunshan/city-park-85584/

弇山園(太倉公園):この”弇”は入口は狭いが中は広い意味か。蓋として覆う意味もあり、日本でも戦後、””が当てられる前はバルブとしても使われた。本来の ”” は冠、ときに武士を表す。日本ではそうは使わず、”“や”“や”“や”“の省略に使われたので話がややこしい。本来、当、務官、理士は当、務官、理士。花は花護士は護士。髪は髪 。因みに中国では当のことは便当という。日本で戦後の簡体字化の例。中国の簡体字を笑えない。庭園は春爛漫、花蘇芳から牡丹、咲き誇っていた。胡弓の音に合わせ踊る人々が微笑ましい。昆山から東に向かい走ってすぐ着く。太倉市一の名園。 侮るなかれ800年以上の歴史を有する。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/taicang/people-s-park-87393

錦渓:昆山中心から南西に25km 花で彩られた運河に沿って走る。一面の菜の花畑、品のいい桐の花。昆山から自転車で向かう。南宋皇帝孝宗の妻陳妃の眠る地。1162年彼女はこの地で亡くなり、愛した五保湖に水葬され、水上の墓と寺が建立されたのが始まりと言う。湖上の橋が荘厳で美しい。三亭橋と言い、今も渡ることができる。水路が張り巡らされ、石橋が繋いでいる。川面を眺めながらお茶を楽しめる。https://jp.trip.com/travel-guide/city-77/tourist-attractions/business-district-11948/奥灶面の故郷と言われている。オウゾウメンと呼ぶ。かまどに奥義があると読める。スープは田鰻の骨、草魚の頭、鱗、鴨、鶏をじっくり煮込んで作るそうだ。不思議と臭みがない。麺は蛋を練り込んだ細い素麺。長浜ラーメンほど固くはないが似ている。見た目は濃いがあっさり食べられるラーメンだ。昔上海に居た頃、昆山に仕事で来ると現地スタッフは必ず駅前でまずラーメンと言う。昆山面は昔から有名だった。中国十大麺の一つに挙げられている。他の九麺は、蘭州 牛肉麺 、河南 烩麺、北京 炸酱麺、山西 刀削麺、杭州 片儿川麺、鎮江 鍋蓋麺、成都 坦々麺、武漢 干熱麺、延吉 冷麺。私は最後の延吉に行っていないので冷麺のみ食したことがない。延吉は吉林省の朝鮮族自治州の市。吉林に一度訪問した際、朝鮮族の方と冷麺を食べたが酸味がいい。焼肉の後は必ず冷麺。あっさりすっきりである。蘭州も勿論言ってないが、上海では普通に食べていた。イスラム教徒の作る麺、その場で麺を打って作ってくれるところが好きだった。

https://www.chineselyrics.org/chineseramenranking/

中国では犬も猫も日本に比べたら少ない。飼い犬は大体愛玩犬で首輪をつけていない。狆クシャな顔と胴長短足が多い。中国原産の愛玩犬はシーズー、狆、ペキニーズ、確かに人間の顔みたいにしている。この旅では面白いので写真として残してみた。

甪直: 錦渓から北北西に12km走ると甪直(Luzhi)に着く。昆山から呉中区に入る。平坦で村々を眺めながら走る。道に迷うこともない。真っすぐな道。車さえ気を付ければ済む。中国の早い電動バイクにはあっと言う間に抜かれていく。門を抜けると一角獣の像は迎えてくれる。甪端、守り神、六角を守るという。こじんまりしたところがいいが、結構奥が深く、公園のようになっていて楽しめる。https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/luzhi-ancient-town-82716

柏盧公園:高鉄(新幹線)の昆山南駅から見える教会が10年前から気になっていた。公園にポツンと片隅にある古びたそして寂れた教会。いつも通るたびにどうしてと思っていた。赴任先の旧事務所がこの公園近く、自転車通勤なので寄ってみる。何と立派に公園まで全て見事に変わった。壮大荘厳な教会と風景を一体化した公園。教会は蘇った。昨年完成したという。蘇州新区に三元一村がある。カトリック教会があり、訪れたことがある。三元一とは三位一体の意味だとはっと気が着いた。1853年から1864年太平天国が南京を主都とし蘇州を含め江南を治めた。キリスト教を教条としていた国だった。上海もそうだが、教会が美しい。欧米の香を醸しだしている。中国は仏教をインド、ペルシャから、共産主義をドイツ、ロシアから取り入れ、見事カストマイズと言うか、最早、中国オリジナルにしている。そして嘗てキリスト教も太平天国がカストマイズしようとした。それが江南の地に今も残っているのではないか。

虎丘~閶門~平江路:2018年5月、日本への帰任が決まり、急ぎ、悔いなきよう急ぎ蘇州に自転車で向かう。もう戻れない。最後の中国の旅と観念した。虎丘から山塘街を抜け、 閶門平江路に寄って戻るルート。蘇州は世界遺産が世界一多く、愛すべき庭園がある。拙政園留園網師園滄浪亭獅子林、しかし時間がない。5月末滞在ビザが切れる。昆山からほぼ40km西、陽澄湖岸を抜け、只管漕げば着く。道は全くの平坦。戻りは娄江沿いに走る。されば昆山へは分かり易い。 虎丘の魅力は一言で言えば、蘇州の魅力を一カ所で感じられる、悠久の歴史と静寂の風景。緑溢れる丘にパゴダ、周りには河が流れ、静かに時は流れる。よく丘に登り、翡翠山荘の2階でお茶を飲みながら下行く観光客を眺めた。この時間を忘れられない。パゴダは3度傾いた斜塔。積み重ねた歴史の重みを感じる。 虎丘を南東に旧市街地に下る川沿いの道に白居易が開いた山塘街があり、一挙に旧市街モードに入る。 閶門を越えれば正に旧市街。閶門の上には茶屋があり、景色を楽しみながらお茶を飲める。この高さは蘇州の迫力の歴史を物語る。ここからが本当の姑蘇となる。東に西中市という旧市場街を抜け、平江路 を目指す。 平江河沿いの古い町並みが残る憩いの場。茶屋が多く、車が入れない細い道、拙政園獅子林が近い。しかしゆったり川を眺めお茶するなら平江路だろう。駆け足で蘇州とお別れ、これでもう思い残すことはない。 虎丘:https://jp.trip.com/travel-guide/suzhou/tiger-hill-76159/travel-image-27529809/ 山塘街:https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/shantang-street-81719 平江路:https://jp.trip.com/travel-guide/gspoi/suzhou/pingjiang-road-87769

昆山の旅はここで終わる。8ヶ月が短いと言ったら然り、しかし以前の蘇州上海駐在を含めると足掛け9年になった。今回はサイクリングができ、駐在時代の友人に再会し、思い出の地を訪ねることができた。最後の中国になったことを神に感謝すべきだろう。それは日本に戻って判る。

6.旅路の果て:原点への回帰

中国から帰還し、体の不調は感じなかったが、念のため人間ドックを受け、何もないことを確認する。しかし、癌はどうか、専門医に診てもらうと何と再発していた。前回と違い自覚症状がないがすぐ切るように言われた。入院、手術、前回同様もう大丈夫と高を括っていたが甘かった。癌細胞が消えない。抗癌治療が続く。半年頑張った。苦痛睡眠障害に悩まされた。癌自体は痛くも痒くもなかったが、寧ろ抗癌治療で苦しんだ。過ぎたるは及ばざるが如し癌細胞は自分の細胞の変異であり、抗癌治療は自分の細胞を切り刻んでいく。最早精神的に仕事に耐えられなった。抗癌治療を勝手に辞めた。何とか乗り越えられないものか?原点に戻ろう。旅路の果てに辿り着いたのが我が家だったもう一度自転車。気が着けば後1年で定年の60才だ。健康のためなら命も捨てる。これは中国駐在時上司から言われた言葉だった。生きるためには健康を勝ち取ること。仕事で鬱になったこともある。全てを忘れペダルを漕ぐと頭の中が空っぽになる。自然と一体になる瞬間がある。全くのストレスフリー、余計なことを考えない。車では楽しめない風景が広がる。風の音が聞こえ、日の光を浴びる。刻々と景色は変わり、自分だけの空間に入っていく、邪魔されることはない、自由。鳥の囀り、木々のざわめき、川のせせらぎ、光と影のゆらぎ、子供たちのはしゃぎ声、のんびりゆっくり行けばよい。以前のような無理なサイクリングはやめた。敵は砂利、段差、水溜り、自動車をなるべく避け、走る。そうこうするうちに定年の時が近づいた。最早決めていた。定年延長を会社は盾に下働きを求めてくる。新型コロナが蔓延し始めていた。仕事の継続はリスクの押しつけを予感した。潔く辞める。辞めた日に羽が背中に生えた。最早自由だ。全ての人間関係を断ち切ってみることにした。自転車もマウンテンバイクから輪行用ランドナーに変えることにした。新たな旅への準備、原点への復帰。今目の前にあるのは、旅の地図だけだ。癌に襲われた50才の頃を思い出し、同じルートを走っている。以前と違うのは、単に心の旅に終わらせず、記録に残すこと、SNSへの投稿。web上の遺言と思っている。いいものをいいと伝えたい

東京に戻って今も続く自転車の旅

後何年走れるか。知力気力体力が続く限り走りたい。何処で息絶えるか分からない。40年前初めて旅に出た国道6号線は2011年の福島原発事故のため自転車では走り抜けられない。東日本大震災はこのルートを地図上から消し去った。道は容易く閉じるものだ。今はコロナ禍が全て交流の道を閉じている。道は何処までも続くが、環境はそうはさせない。私の体もいつまで持ちこたえるか分からない。睡眠障害は続いている。癌の怖さは再発と転移だ。心残りは富士への道だ。何故か全ての機会を逸している。刻んでも行こうと思っている。只管コロナ禍の去るのを待っている。諦めない限り旅は続く。そう信じて前を向いている。

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老人と山

警察庁の統計によると昨年夏の山岳遭難者に占める60歳以上の割合が遂に42%弱に。毎年総数共に減ってきている。コロナ禍を真面に受ける老人が登山を諦めたと言うことはあったとしても素直に嬉しいもんだ。還暦を越えると状況判断に狂いが生じ、反応が鈍くなり、危険を避けるための一歩が出なくなる。確実に天国に近づいている。山では一歩間違えば死が待っている。道を間違えれば永久にさようなら。暗くなり動けなくなれば獣が餌食。それにも拘らず山に向かう。山は老人にとって聖域。山に登ると天国を実感できる。最高の景色と空気、何処までも広がる無限の空。社会という雁字搦めの世界に耐えてきた。疲れた。下界の些末なことから離れたい。これ以上巻き込まれたくない。負け犬の遠吠えと言う勿れ。山は嫌なことを忘れさせる一番の薬。山頂での深呼吸ほど気持ちいいものはない。更に山頂でのビールほど美味いものはない。天にも昇る気持ちとはこのことだ。生きていることを実感できる。生きることは山に登ること。登山に嵌る人間はさもありなん。私も以前住んでいた長野県の元気な老人に山岳遭難者が多いのも肯ける。山を生活の一部とし、いつもぴんぴんころりを目指している。山に生きる

八ヶ岳からビールと共に富士を拝む

しかし遭難死となるとけして恰好のいいものではない。家族に心配をかけ、山岳救助隊の出動は膨大な費用請求を生み出す。見つからなければ死として認められない。保険も下りない。7年間は行方不明扱いで死んだとは見なされない。山での死は惨めなものだ。死体は狸やキツネにより食い荒らされる。それが自然。助かりたいならヘリを呼べ。保険に入れ。事前通告せよ。一人で登るな、社会のしがらみを要求してくる。しかし本筋を忘れている。遭難を避けるために必要なのはまず自助努力。私も山と向き合って早7年、54才から始めている。人生の坂道を下り始めた頃から山を登り始めたズブの素人だ。実は死の恐怖を何度か味わっている。その都度別の登山者に助けてもらった。一人で登りながらいつも他の登山者に挨拶する。安全への情報を共有し合い、山では先ずお互いに助け合う。安全な登山の基本。そしてけして無理はしない。己を弁え矩を踰えず素人登山はこれに尽きる。自分の能力を超える山には近付かない富士山を見られれば十分。富士山は登るものではない。見るものだ。

更に遭難の原因を一つ一つ潰していけば安全な登山につながる。道に迷う、滑落、転倒、病気、疲労が遭難原因の85%を占めている。危険予知と回避ツール、体調管理こそ一番大事。私の登山の流儀はここにある。老人が如何に山に立ち向かうか。

危険予知と回避ツール:君子危うきに近寄らず。晴れた日の日中に安全な登山道をまっすぐのんびりゆっくり歩いていれば遭難することはない。ただ、過信は禁物。相手は自然であり、臨機応変に対応しなければならない。生きる知恵が必要。危険あれば回避ツールあり。高齢者の遭難が減っている理由としてツールの進化がある。まずインターネットで状況把握が容易になってきている。道、天候の状況が事前に容易に把握できるようになった。更に装備の軽量化、衣服からリュック、靴、ストック全て軽くなってきている。筋力の低下を補うに充分だ。サプリメントの進化、体調の維持、回復に欠かせない。老人登山を助けてくれている。

①事前情報:登山は登る前が一番重要。ある意味登る前に勝負が決まっている。あらゆる情報をインターネットを通して入手し、いつ、どの山へ、どのルートを,行きと帰りの電車時刻まで想定する。この情報は全てスマホに登録する。インターネット情報ではまずメジャーな山を探す。登山道が整備されている。更にヤマレコ、あるいはヤマケイオンライン最新情報を確認する。気を付けなければならないのはけしてトレイルランの記録やプロ並みの登山家の記録を参考にしないこと、同レベルの登山者の記録だ。登山に要する時間が読める。これで行きと帰りの時間の目安がつけられる。古い情報を参考にするとルートが自然災害で通れない場合がある。これが要注意。一度川苔山でやってしまった。ルートの入口の停留所に向けバスに乗ろうとしたら、そのルートは通れないと運転手に教えてもらって初めて知った。全ての計画がおじゃんになる。1から….

②スマホで登山道確認:スマホは片時も手放せない、然もすぐ取り出せるようにしておかなくてはならない。リュックの前面にあるサイドバックの左側に必ず収めることと決めている。老人は決めたところにしまわないと探し回る悲しい性がある。いつもお腹にスマホを感じているのでなくすことはまずない。スマホは昨年12月に最新のiPhone11に買い変えた。理由は登山時恐ろしいのが電池切れ。実は昨年11月金時山に登る際、古いスマホが電池切れを起こした。下の写真は頼んで他の登山者に撮ってもらったもの。スマホはパスモ、財布、カメラ、GPS(道先案内人そしてルート記録)である。特に道に迷った際、スマホ頼り。事前にスマホのアプリのヤマップに登る山をダウンロードしておくと自分が登山ルートに沿って歩いているか確認できる。これは別の登山者の女性に川苔山山頂で教えてもらった。今でも感謝している。何度もヤマップに助けてもらっている。この機能は電池を食うので補助バッテリーを必ず持っていく。切れたらお終いなのだから。山には様々な道が交錯している。何故なら、山は登山者のためにだけあるのではない。日本では必ず持ち主がいる。忘れてはならない。山を管理するための林道。登山ルートと交錯しているため、間違って入ってしまう。実際、登山者は他人の庭を勝手に歩いていることを忘れてはいけない。山の持ち主が登山者を向いていれば道を整備して頂けるし、そっぽを向かれたら危険になる。登っていると自然に分かるものだ。

登山の格好:スポーツインナーとハイドレーションバック、携帯はサイドバックに装着と完全装備、金太郎に負けないぞ!

③登山の日:一番の条件は天気である。山の天気、特に富士が見たければ、当日の富士の天気を優先する。私は晴れた暖かい日しか登らない。遊び人の特権である。景色を堪能できない登山は空しい。然も晴れていれば安心安全だ。曇りの日は日暮れも早くなり、早く下りなければならなくなる。雨の降る確率も高くなる。山の天気は気まぐれだ。雨の登山ほど危険なものはない。体温を雨は奪っていく。雪や氷点下の寒い日も登らない。何かあったら命にかかわる。零下ではスマホは液晶なので使えない。何より年寄りには致命傷になる。また平日を優先する。土日、休日は働く人のために山はある。人込みで頂上で休む場所が見つからないのが寂しい、然も一人のんびりしたいではないか。そして次の登山には少なくとも三日は空ける。連日登山は避ける。老体にはメンテが必要。必ず節々が傷んでいる。頑張った後、体を休ませることが長持ちのコツ。もう膝が弱っている。悲鳴を上げている。

④スケジューリング:基本は朝一で山に向かうことだ。朝の方が山は晴れていることが多い。早起きは三文の徳だ。老人は朝に強い。早く出発した方が何か起きた場合行動の修正が効く。今までのミスで一番情けなかったのが、電車を間違えて乗ってしまったことだ、別路線に乗ってしまった場合、通勤時間帯であれば電車の本数も多い。早く電車に乗れば、まだ空いているし、通勤客の邪魔になりにくい。遊びに行く人間が邪魔することは忍びない。リュックサックは混雑した駅構内や電車では迷惑だ。それでも移動は電車さらにバスを基本としている。車では時間が読めないから。通退勤時の道路の混雑は堪らない。これだけで疲れる。特に丹沢方面は道路が混む。休日祭日一番の理由は車で行くと酒が飲めないからだ。早く山に入れれば、帰りも早くなる。早く帰る方が電車は空いている。退勤時前を目指す。安全な登山の鉄則は早く登って早く下りる。早く登れば心に余裕ができ、安全に登れ、頂上で体を休め、のんびり風景も楽しむことができる。ビールを飲んでも冷ますことができる。下りるのが遅くなると山は怖い。夕暮れから日没にかけての時間が短い。あっと言う間に暗くなる。山の暗さは恐ろしい。足元が見え難くなると道を間違えたり、滑落、転倒の危険性を増す。遭難の危険性は闇に潜んでいる

冬は夕暮れが早い、この1時間後には夕闇に包まれる

⑤熊は怖い:熊には上高地で二度出くわしている。尤も襲われてはいない。しかし、用心に越したことはない。リュックに小学生の護身用ブザー(千円くらい、ドンキで買った)を付け、イザの時用のドイツ製コショウスプレー(アマゾンで購入4,100円、高い。効果は使ったことがないので分からない。)を忍ばせている。(やはりアマゾンで1,388円で台湾製ブザーを購入、誤作動が生じ、電池が外れやすいし、電池切れを起こしたので使うのをやめた)、鈴は道中煩いので使うのをやめた。ライトも脅しには効くらしい。必ず持ち歩いている。

上高地2020.7.30熊との遭遇

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体調管理:季節、日によって体調は変わる。暑い日、寒い日もあれば、いい日もあれば悪い日もある。自然が相手。特に年寄りは最悪の場合を考えて準備し、登山中、最良の体調にもっていかなければならない。準備として最適な登山服、装備、水、食事、サプリメント、薬、登山の後の体のメンテ、全てが重要。年を取って来ると筋肉痛が後から襲ってくる。これが辛い。また真夜中足が攣って何度も起きることが度々あった。今から8年前くらいか、八ヶ岳を登っている際、一人登る年長の山女から教えて頂いた。山登りの三種の神器はサプリメントとインナーウェアとストックこれが落ちてくる筋力を助けてくれると。老人にとって筋力の衰えが一番きつい。これを補うのが肉体を補強するツールだ。

①登山着:冬は重ね着で温度調整を行う。体は登れば熱くなるが、止まれば寒くなる。薄手のダウンが軽くて小さくたためていい。夏は発汗性で勝負だが、春秋が難しい。温度差が激しい。温度差を計算してウェアを選ばなければならない。何れにしてもインナーが決めてになる。筋肉の補助であり、保温性、発汗性、快適性が要求される。年を取るとどうも体温調整機能が鈍ってきている。インナーの助けが重要になる。

②装備:まず一番大事に10年以上使っているのがノースフェイスのリュック。背中にメッシュがあり、蒸れを防ぐ。軽い、体にフィットする。両サイドにストックが固定できるリングと紐、合わせてコーヒーカップと小学生が護身用に引くと鳴るブザーを付けている。熊遭遇や遭難非常時を想定。前面両側のサイドバックには家の鍵とマスク、スマホ。そして、高低差の大きい玄人向け登山用ストックレキのトレッキングポールを使っている。握り具合が違う。軽い、強い、上り下り両方で使う。安心安全、スピード、バランスの確保、疲れてヘロヘロ、フラフラになったときの体の補助、必ず2本、寸法も決めてある。年を取り弱ってる足腰には必需品。転ばぬ先の杖。手袋を装着し、しっかり握って使う。若い山女が格好のみで使ってるのを見ると羨ましくなる。飾りではない。本気で使うのだ。熊に襲われたときは武器にもなろう。

③水:ついつい摂り忘れるのが水、水は体の熱を取り除き、体温を調整してくれる。喉が乾く前に喉を潤さなければならない。これは中国に駐在していた時に中国人が教えてくれた。いつもマイボトルでお茶を飲んでいる。朝起きがけの白湯も欠かさない。喉と腎臓のためだ。水は命。特に老人には適度の水の摂取が必要だ。老人は枯れている。以前はボトルに入れ、リュックに入れていた。しかしいちいち立ち止まってリュックを下ろし、開けて、ボトルを取り出し飲むのが面倒だった。ボトルは嵩張るし、荷物にもなる。ついつい飲む回数が減る。これも二子山で中国人の登山者がやっていたことを真似することにした。2ℓのウォーターバックにチューブが装着してある。チューブにはバルブが着いていて調整ができる。リュックにバックを入れ、チューブをショルダーに止め、飲水口を噛むと水が吸える。水を舐めながら登る。唇をいつも湿らせておけば良い、大量に飲むことはあまりない。体温上昇を抑える意味で効果がある。バックは平たいので嵩張らない。水が無くなるとさらに平たくなり軽くなる。ボトルが要らなくなるとリュックも隙間が増える。これがいい。スマートだ。年を取ると荷が軽いのが一番。水は水道水である。一度沸かした水がいい。カルキがとぶ。

④食事:朝早いのでコンビニでおにぎりとお茶を買って車中で食し山に向かう。おにぎりは3個と決めている。これは経験からで、これで昼まで体力が持つ。時間的に駅そばもしくは牛丼屋の朝定が食べられればこちらを優先する。温かい方が体にいいし、コスパも寧ろいい。360円で栄養のバランスもとれている。朝食は基本、登る前には必ず飯である。ギアの掛かり具合が違う。老体のエンジンには燃料がまず必要。

⑤サプリメント:登山開始時に飲むのがエネルギー補給ゼリー、老体への着火剤、そしておやつはバランスパワーのプチケーキ、薬屋で買っておく。これは朝早いため必需品。更に、少々高いが、帰還後家で飲むコンドロイチン、疲労回復を図り、関節痛対策だ。友人はセサミン錠剤を飲んでいるようだが、私は酒の抓みにセサミンを食すようにしている。体のメンテはサプリメントからと思っている。

⑥薬:必ず携帯するのは、下痢止め、整腸剤、喘息薬、風邪薬、痛み止め、消毒スプレー、バンドエード(大・小)、ムヒ、痒み止め軟膏、ワセリン、特に重要なのが、コムレケアである。ゼリーと錠剤、両方を持っていく、2袋は入れておく、急な攣りで困った方に遭遇した場合を想定。以前、丹沢山を下りていた際、ご老体の登山者がやはり以前の私同様、急な足の攣りに襲われ、動けないでいた。早速このゼリーをお渡しした。初めて飲む方は効きがすぐのようで、感謝され下りていかれた。他の人に助けられたらまた他の人を助ける。これが山のルールである。 登山から帰り、筋肉痛に襲われたら、我慢しないで、湿布「ハリックス55」を患部に貼る。痛み止め「ロキソニン」を飲む。次の日に温泉「お風呂の王様」に行き、マッサージをしてもらう。夜攣れば、コムレケア錠剤を飲む。これが登山を長続きさせるコツと思っている。常に痛みに耐えてはいけない。戦って乗り越える、するとまた登ろうと思えるのだ。

遺す:山を登っていくと同時に天国への階段も同じように登っている。心臓はいつ止まるか分からない。もう精神も身体も同様にすり減っている。充分に生きてきたことに間違いはない。あと十数年で、もし生きていたとしても足も体も思うように動かなくなる、脳の衰えも進み、ボケて何もかもが分からなっていくだろう。だから今山を楽しむ。そして遺したいものがある。生きた証である。存在としての自分は消えていく、しかし、自分が伝えたい想いは後世に遺したいと思う。登山の情報はヤマレコに、そしてFacebookに載せるようにしている。特にヤマレコではいつも情報を参考にしているのでお礼の意味も込めている。一方、自分の足跡が積みあがっていくのも楽しみだ。百名山踏破なんてケチなことはしない。登りたい山に登れればいいと思っている。そして生きて元気な限り、このヤマレコを頼りにこつこつ山を登れればいいのではないか。今日も今から山に向かう。いい天気なようだ。山頂でのビールが待っている。青梅駅近くに雰囲気のいい喫茶店があるようだ。さあ着替えて向かおう。

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塔ノ岳山頂、尊仏山荘にて撮影

庭を蘇らせる

庭とはもともと農家の軒先の脱穀や籾すりなど農作業を行う作業場のこと。校庭がこの意味に近い。中国では家の庭のことを『院』と言う。宗教的な意味合いからだ。理解できる。ただ、中国の院を日本で個人の庭に持ってくるには烏滸がましい気がする。やはり庭は庭。この1年間、庭と向き合って分かった。庭は作業場である。中国では完成された庭を前提に『院』としたが、日本では作り上げることを重点に置き『庭』としたと言えば分かり易いのではないか?まして個人の住宅であれば真冬の一時期を除き、庭は向き合わなければ美しさを保てない。庭師が常駐していれば別だが、そんな贅沢をこじんまりとした庭では不可能。家が小さくなり庭も小さくなる昨今、庭師も合わせて減っており、暇な庭師もいない。寧ろ個人の庭を相手にしてくれなくなった。労多くて益なしだ。自分の家の庭は自分で守るべきは基本なのではないか。その上での庭師参上とすべきと今になって思う次第。

昨年3月仕事を辞し、毎年剪定と消毒に20万円以上掛かっていた庭の維持管理をどうすべきか悩んだ。厳しい費用負担だ。ずっと庭師任せ、春と秋二度刈り込みと消毒を頼んでいただけだった。秋の剪定と言いながら実際は冬にずれ込んでいた。時期が庭師としてのかき入れ時と重なり、なかなか来てくれない。結果として年老いた木々は枯れ、虫に食われ、見るも無残となった。木々も寿命を迎えていたかに思えた。樹齢55年以上の木がほとんど。実際シンボルツリーだった2本の柘植の木は年々枯れていき最後は別れを告げざるを得なくなった。門前のゴヨウマツも枯れてボロボロ、金木犀は虫に食われ遂に咲かず何の木か分からなくなった。枝垂れ梅は実を一個しか成らせなかった。人任せだから費用が掛かる。費用を掛けながら愛着が無ければ庭は荒れる。庭の価値を自分で定め、その上で庭師に相談すべきだ。素人なりにやるだけやってみよう。我が家の庭が本来の意味の作業場になった。実際、その時まで消毒をどうやるのかも知らなかった。剪定も然りである。脚立に立ち作業をするのも怖い。雑草を取り、草花を植え、庭を掃くのが関の山だった。庭師と真面に話したことも、費用の査定の仕方も分からなかった。庭の美しさを取り戻しながら金銭的負担を減らしたい。これはもう庭を一番知っている庭師に聞き勉強しなければならないインターネットも頼りになった。樹木による剪定時期と方法、消毒剤名から使用方法、時期まで細かく出ている。戦いが始まった。

剪定:先ず勉強は見積りからだった。今まで頼んでいた庭師以外にも見積りを出すようにした。どうすれば安く済ませるか。剪定費用の大まかな決まりがあることが分かった。樹高が3m以下で3,000円、3~5mが6,000~7,000円が相場だが、5~7mの大木になると途端に 16,000~17,000円 となる。大木は個人には負担大だ。人工代は別途一人一日当たり15,000~30,000円、この大きな差はプロであるかないかによる。

コストを下げるには木を5m以下に抑え、手間の掛かる木を減らし、プロに頼まず、剪定する木を予め指定すること。肝に銘じた。藤棚、枝垂れ梅、百日紅は自分で見様見真似で 剪定 し、5m以上の木のみ指定し、小平市のシルバー人材センターに見積りを頼む。流石に安い。何と春冬の剪定費用はトータル5万円弱、1/4の費用で済んだ。春は人工は2名、冬は3名、それぞれ1日だった身の丈に応じた庭にすべきなのだ。因みにシルバー人材センターの職員から私も登録しないかと誘われた。センターの皆さん、定年後剪定を始められた方ばかりで、プロの庭師ではない。

施肥/消毒:庭は愛情のありようでどうにでも変わる。木々への愛情は施肥そして消毒だ。庭師に施肥 までは頼めないし、消毒を待っていては時すでに遅しになる。消毒はまめにしなければならない。手を抜くとどんどん木々はだめになる。これは反省の弁。実際、1年間、施肥、消毒で木々は全く変わるものだ。光は太陽から、水は雨から。しかし、土は放っておくと痩せていく。木々は根から栄養を摂る。やはりまず土が大切なのだと気が着く。兎に角、冬12月に寒肥と消毒剤を両方、木々の下に播いてみた。消毒剤はオルトランDX粒剤を選んだ。問題の金木犀やゴヨウマツの下周辺には相当腐葉土も播いた。御呪いみたいなもの。即効性は疑われたが葉の消毒の先手と考えた次第。



春3月と4月の晴れの続く日の朝一番に木々に消毒剤を噴霧した。近所から散布に対するクレームを避けるためと一応重装備で作業をするために寒いほうが暑苦しさから逃れられるため。枯れた木や虫に喰われた木には特に念入りに。ゴーグルとマスクをして脚立を抱え庭中を動き回り、脚立の昇り降りもあるので結構しんどい。消毒は殺虫用にオルチオン乳剤と防黴用ストロビー粉末それぞれ展着剤ダインと混ぜ水を希釈してポンプアップタンクを使い散布する。慣れるまでが大変だった。







頑張った成果がゴヨウマツにまず現れた。更に金木犀も、梅も新緑が映える。やれば庭は素直に成果を見せてくれる。枝垂れ梅は実を多数付けている。昨年植えたジュンベリーも見事に赤い実を付けている。鳥に取られないように網を張った。庭は1年で蘇った。収穫が楽しみだ。

門近くのゴヨウマツが元気に、その脇の金木犀も今年は花を咲かせそうだ

雑草との戦い:庭仕事で剪定と施肥と消毒は頻繁に行う必要はないが一番大変なのは冬以外の雑草との戦いだ。一番の敵はスギナ、笹、ドクダミに尽きる。なかなかしぶとい。有効なのはグランドカバーを植えていくこと。しかし時間が掛かる。庭師が以前は抜いてしまうのでうまくいかなかったが、剪定する木を決めることにより守ることができた。グランドカバーはハーブ系と蔦系が一番強い。ハーブは香り、蔦は色合いに魅力がある。見た目で成功したのはセダムとヒューケラだ。ジュンメリーとバイカウツギの下に植えたが、見事にバランスを取ってくれた。形では成功したが、雑草は毎年必ず這いだしてくる。鼬ごっこ、仕方ないと諦めるしかない。これが庭との付き合いにつきものと思うべきだ。相手は自然なのだから敵わない。

バイカウツギの回りをヒューケラが彩る

庭作りは終わらない:昨年まで1年掛け庭の1大改造を行った。柘植、木蓮の大木の鎮魂。全てをサラにして出直し。26万円以上掛かっている。問題は業者の選定だった。2社しかも遠くの業者を使った。遠くの業者は責任は取るとは言いながら呼ばなければ来ることはない。遠いと相談し難い。直ぐ会って相談できる業者ではなく直接、地元の植木屋さんがいいのではと思うようになった。ここで生きていくのだから。ただ地元の植木屋さんには付き合いがない。植木屋さんは一般客を相手にしないのだからSNSでPRなんてしない。昔ながらのお得意さんのみ。今回最後の改造を思い立った。 庭の真ん中に鎮座する樹高5mのマテバシイ を切り、代わりに枝垂れ桜を植えようと思った。どう見ても自然に生えているマテバシイ、剪定費用が掛かるだけ、そして庭の中央には桜を植えたいと言う気持ちだった。我が家に桜はない。更に女房が東側に柑橘系の木を植えたいとの要望、これは確かにバランス的にも木が必要な場所であった。ヒイラギがあるが高くはならない。皐月を移動しなければならない。一方、以前木蓮の代わりに植えたカラタネオガタマがか細く、脇をミツバツツジと梔子でバランスを取りたいと思っていた。近くの植木屋さんを数件直接訪ね見積りを頼むことにした。会って話すといろいろ教えてくれる。勉強になった。安く上げる方法である。マテバシイは抜かず、根部分まで切るようにすれば安く上がる。なるほど!結果、9万円を切った。

庭をある程度片付けると欲が出てくる。植えてみたい木が頭に浮かぶ。一方、何故この木がここに植えてあるのか考えるようになる。この木の植えてある意味は何処にあるのか?何のために植えたのか?庭は作られた美とバランスの世界だと気づかされる。その上で自分の好きな木を植えられるか?植えるとなると他の木を切るか、移さなくてはならなくなる。費用も掛かる。回答は庭に求めるしかない庭は確かに中国語での院に寧ろ近いのかもしれない。しかし、庭の気持ちがないと院は作れない。両方の気持ちが必要なのであろう。そう思い、いつも庭に出ている。

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窓辺にミューズを

窓は光の通り道。日が昇り、朝が訪れたことも日が暮れ、闇が帳を下ろすことも教える。窓は風の通り道、春は微風を、夏は凪を、秋は涼し風を、冬は凍てつく空気を届ける。窓は景色が通う道、カーテンで縁取られ、風景を切り取る。鳥の鳴き声とその姿、四季により移り変わる木々の緑、色とりどりの花とその香り、空の色、流れる雲、行き交う人の声、子供の燥ぐ声、通り過ぎる猫、それが窓と一体化し一幅の絵となる。

4年前の師走、家族皆で晩餐の食卓を囲む中、ワインを片手に義父は天に召された。急性脳幹出血だった。呆気なく死は訪れた。半年後に卆寿を迎える矢先だった。18年前に妻を急性白血病で失い、一人になって旧宅を壊し、既に庭にあった我が家と繋げる新しい家を建てた。妻を亡くした寂しさからか、酒の量が増え、ブランディ片手に文章を書く日々だった。何より孫たちを愛した義父だった。今でも憶えている、 彼女たち の帰りを待つ姿、居間のソファ―に深々と座り、窓越しに庭の門から入って来るのを待っていた。暗くなるとカーテンを開け、明かりを庭の通り道に照らした。彼女たちのために。西に門、南と西に庭が広がっている、足元が既に覚束なく、引きこもりがちになっていた。視界は既に狭くなっていた。窓は唯一外界と義父を繋ぐ媒体だった。窓を通して庭を愛で、四季の移ろいを感じていた。義父が幸せだったのはこの愛した孫たちと最後の晩餐を楽しめたことかもしれない。義父は孫たちにとっては父親も同然。私の余りにも長き不在の代償、13年余り、やっと遠く家から離れた会社を辞め帰ってきたその日にお役御免でホッとしたのか、義父は永遠の眠りに就いた。

義父の家は建って20年以上。水色の外壁で、窓は広く、1階と2階は吹き抜け。1階は和室と居間と納戸、2階は書斎と書庫、洗面所、一人暮らしには最適だ。終の棲家に相応しい。何も言い残さず去っていった義父の遺品、書物、衣服、調度品の整理をしながら、自身の残された時間を見つめている自分に気が着いた。いつの間にか自身のものの整理ともなっていた。私もそれほど残された時間は長くはないだろう。この家で最期を迎えたい、そんな家にしたい。整理に3年かかった。人生最後に余計なものは排した。Simple is best. 居間には4つの籐椅子と小さい丸テーブルのみ。一方、和室は賑やかになった。亡き家族の大事にしていたものを全て並べた。嘗て亡き実父の家の装飾品もある。思い出が皆鎮座している。この思い出は家族でなければ分からない。和室を鎮魂の舞台とした。納戸にも最早使われないキッチンにも飾る。絵を愛した義父、人形を愛した義母、仏像を愛した父、全てをできる限り残した。思い出に浸るのは残されたものの特権だ。

目が覚める。まだ日は昇っていない。小鳥の声が夜明けを告げている。四十雀だ。この家周辺をテリトリーにしている。吹き抜けの2階の窓際に寝ていると鳥を近くに感じる。北窓に日が差し込んでくると家中のカーテンを開ける。キッチンで白湯を沸かし、昨晩の残りのコーヒーを温める。リクライニングチェアに体を沈め先ず体を暖める。インターネットでバロック音楽を聞きながら、朝が訪れるのを待つ。自分だけの時間を楽しむ。隠居して分かる自分との対話に風景は欠かせない。心を和ませる風景が欲しい。

義父のように窓を見ている。一人でいると自然と窓を見る。今は体が動くが何れ動かなくなるだろう、その時窓の外の風景はどうなっているのだろうか?自分と外界を繋ぐのは窓だ。いつも朝日が射す北の窓に義父が和室に飾っていた不釣り合いだったヴィーナスの裸像を飾ってみた。朝日を浴びて白い肌が生き生きとしてきた。ギリシャで買ったグラスウェアを組み合わせた。西側の強い日差しを受ける窓には義母の趣味で作ったステンドグラスを飾る。夕日に映えて美しい、中国でもらったグルジアのワインボトルを飾り、窓際を楽しくした。ベッドの脇、西側の出窓にはサンピエトロ大聖堂で見たミケランジェロの聖マリアが十字架から降ろされたイエスキリストを抱く『ピエタ』を飾った。憐憫である。私も死して聖マリアに抱かれたいと思っている。キッチンの東の出窓には、ルーヴル美術館の『ダリュの階段踊り場』に置かれているギリシャ彫刻のサモトラケのニケを飾った。勝利の女神だ。死ぬまでに一度 ルーヴル美術館 に行きたいがためである。祈りを込めた。二階の書庫の窓にはアルフォンス・ミュシャの『ラ・ナチュール』を飾った。アールヌーヴォへの憧れからである。像の頭部のグラスの飾りが朝日に照り輝くことを気に入っている。

後何年この窓辺のミューズを眺めることができるのであろうか?義父や義母のようにあっと言う間に神が迎えに来られれば行かざるを得ない。その時が明日なのかもしれない、明後日かもしれない。この世との別れはいつなのか分かるものではない。心臓は勝手に動いているのだから勝手に止まるであろう。後悔なきように慈しむようにミューズを眺め時を過ごしたい。窓越しに孫たちの帰りを待つ実父の姿に自分をいつしかラップさせるようになった。命の蝋燭はそれほど持つものではない。ただ、慈しむものの姿を瞳に焼き付けることはこの世を去るときに微笑みに一粒の泪として目からこぼれ、地に流れ落ちることだろう。

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東京大空襲再び

東京大空襲の焼失地域を示した「帝都近傍図」(1945年、日本地図株式会社製作)

平和憲法が今危うい。中国初め東アジアの軍備増強の流れが止まらない。守るために戦争を。いつの時代も変わらない国民感情。為政者は更に煽ってくる。外圧は内政の危機を誤魔化す道具になる。かつて太平洋戦争も連合国に煽られ、窮鼠猫を噛む。真珠湾を攻撃し、敗北への道を辿った。私たちにとって戦争は何だったのか?戦後76年、忘却の彼方に消え去った記憶。無理やり消し去さざるを得なかった過去。東京大空襲による死者は東日本大震災や関東大震災より多かった。忘れていけないのは空襲は天災ではない、人が人を殺したのだ。1945年3月10日たった2時間余りの空爆で失われた命は11万5千人以上。関東大震災の10万5千人、東日本大震災の2万2200人を超える。何故これだけの人々が一気に亡くなってしまったのか、逃げなかったからだ。当時の防空法に従い米軍のB29から落とされた33万発の焼夷弾による消すに消せない火に銃後を守る人々は立ち向かった。戦争とは政治の道具であることも忘れてはならない。

戦争は国の為政者の勝利への確信に基づいて行われなければならない。戦争の名の下、軍人は何人殺しても構わない一方、民衆は何人殺されても文句は言えない。「欲しがりません。勝つまでは」「本土決戦 1億総玉砕」 。しかし勝てば官軍、負ければ賊軍。この戦争で日本は一部を残し焦土と化した。320万人が亡くなっている。 不思議なことに為政者は国民に対して敗戦の責を負うことはなかった。寧ろ戦後にっくき敵であった米国に擦り寄り、組み込まれることにより自ら生き残りを図った、戦勝国が敗戦国を裁けるのか?でよくやり玉にあげられる東京裁判はあくまでも連合国向けであり、寧ろ米国の目的は日本人に戦争責任者を裁く機会を与えたくなかった。米軍が使えると判断した軍人や政治家は罪に問わなく米軍支配への絶対的協力者に寝返らせた。これが今も続く戦後の構図である。負け犬のしっぽ振りが今も続いている。虎の威を借る狐。国民に謝らない為政者は他の国にも謝らない。米国より弱い国には強気になる。米国のふんどし担ぎに成り下がった。「一億総懺悔」為政者の詭弁である。為政者のための戦後保証に過ぎない

東京はこの大空襲において実際壊滅してない。皇居も国会議事堂も丸の内、日本橋日銀、財閥の本社や住居、更に主要な軍の施設、市ヶ谷本部、羽田空港、NHKさえも空爆を受けていない。米軍の戦後を見据えた空爆であった。為政者への戦後保証でもあった。米軍は日本を太平洋の新たな基地とする。対峙するソ連、中国、朝鮮への橋頭堡とする。広島長崎の原爆投下も対ソ連を踏まえたもの。ソ連に日本を獲られないための先手を打つ。戦後日本を自国の基地化するため。日本の為政者も軍も財閥もマスメディアも従った。敗戦の責任逃れをし、生き残りを図るため黙った。彼らも既に戦後を見据えていた。被害を被ったのは何も知らない一般市民である。国を信じて戦い、国のために若者は特攻兵として散っていった彼らが浮かばれることは永久に来ない。戦争とは得てしてこういうものなのかもしれない。国民の犠牲は政治につきもの。国体を最後は守るとは如何に詭弁か。空爆の前に米軍は逃げなさいと言うビラをご丁寧にばらまいている。軍部は逃げるなと国民に指示している。どういうことか?制空権を握ることの重要性を既に日本は中国戦で知っている。逆に米国に制空権を握られたことは敗戦が既に近いことを知っていた。ソ連に救いを求めたことを米軍は知っていた。ソ連と日本を切り離すためにも原爆が必要だった。北方領土問題は永遠に残す必要があった。戦後は日本の飢餓作戦を展開し、米軍の食糧供給戦略を展開させた。食料を戦闘機が空から民衆にばらまき、ジープから飢える子供たちにばらまいた。そしてマスメディアを握った。米国は平和の使者、民主主義は米国にあると繰り返し流させた。東京大空襲を闇に葬らせた。

米軍の首都制圧は76年たっても続いている。悲しいかな、米軍の飛行機やヘリコプターは好き放題に東京上空を飛んでいる。日本の民間機は米軍の管制区域を避け、遥か上空や、遠回りをして羽田空港に入らざるを得ない。文句は言えないのだ。北方領土、竹島、尖閣列島の前に本土の米軍所有地を返せ、東京の空を返せと言うべきなのではないか?領土問題は日本の米国支配を正当化する詭弁。沖縄の米軍基地移設反対の声を寧ろ抑え込もうとしている東京は最早米軍の作戦本部なのだ。唯一の戦争被爆国が国連決議の核兵器禁止条約に批准できないでいる。当に米国占領下でぐうの音も出ない。日本を敗北に導いた軍部は米国の手先となり、基地を共用に導いた。米軍は「オトモダチ」である。戦後、日本の共産化を防ぐことに米国は躍起となっていた。朝戦争の敗北更にベトナム戦争の敗北は日本を米国の防護壁にせざるを得なかった。首都圏は米国の空でもある。

戦後東京大空襲の爪痕はほぼ米軍の指示の下為政者の敗戦責任を有耶無耶にするため消された。唯一確認できるのは東京多摩の東大和にある。是非見に来て欲しい。米軍の凄まじい空襲の跡を。 都立東大和南公園の旧日立航空機立川工場の変電所である。何とこの変電所は平成まで使われた。1993年まで。昨年夏、私は初めて見に行った。よくぞ残っていたものだ。これぞ、米軍への都民の怨念に違いない無能な日本の為政者への嫌味である。変電所の上空を横田基地から飛び立つ米軍の飛行機が耳を劈く騒音を上げ飛んでいく。立川の国営昭和記念公園は美しい公園だ。昭和天皇の50才を記念して開設されたとされるが、違う。砂川闘争で米軍を追い出した跡を公園としたのだ。戦後初めて米軍に農民が立ち向かい、自らの力で勝ち取ったものだ。国営昭和記念公園とはよくも名付けたものだ。多摩の人々は少なくとも明治以降より江戸時代を大事にしている。米軍の福生の占領状態が続く限り、この傾向は変わらない。

もし米国と中国が戦争となると東京は将に米軍の最前線基地として指揮展開を行う。中国は報復で東京の米軍基地を襲う。当に東京大空襲は再現する。米国は戦争で日本に勝って以来勝っていない。一緒に撃沈を覚悟せざるを得ない。日本の為政者も今度はどうしようもないであろう。日本の外交は常に米国追従であり、自ら動くことは稀だ。これは日本が米軍の基地であることを証明している。憲法を改正するとしてもどう米軍と折り合いをつけるのか?如何に戦争を回避するか、これは会話以外の何物でもない。隣国の韓国や北朝鮮とさえ会話のできない今の為政者に期待することは愚問となる

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引用記事:

願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃

人は老いを迎え、死の遠くないことを感じ、人生最後に最良の姿を求める。満開の桜の下、甘い香りに包まれ釈迦の涅槃の如く死を迎えたい。西行法師はこの句の10年後、73才で望み通り薨れた。私も斯くありなん。仏が入滅された如月の望月は、旧暦の2月中頃、今であれば3月中旬から下旬。この花は染井吉野ではなく山桜。今以上に木々は低く、花は近く、香り高かった。花は美しいばかりではない。香りたち、ハラハラと数千枚の花びらを舞い落とす。その下で眠るように最後を迎える。自然に流れ落ちる泪に一片の花びらが着く。静かに笑いを浮かべた頬を春風が撫でていく。空は何処までも青く、地の緑はまだ浅い。何と素晴らしいことか。何と芳しいことか。人生最後の晴れ舞台に違いない。人は死に向かう時、何もいらない。ただ、花のみあれば良い。他に何があれば良いと言うのか。

3月から4月にかけ、私は花を求めて、都内を自転車で走り回った。昨年は3月一杯まで仕事で満開の桜を満喫することができなかった。今年はこの年になって初めて様々な桜の名所を訪ねることができた。平日も動け、しかも自転車で、人込みは避けられる。私は生きる幸せを初めて感じることができた。花を愛で、花の下で自分の時間を過ごせ。桜吹雪を目一杯浴びることができた。芳しい香りも楽しめた、そして何より花の移ろいに接することができた。桜はカンザクラに始まる、更に、エドヒガン、ヤマザクラ、そしてソメイヨシノ、締めは八重桜が待っている。私はカメラになり、風景を切り取る。桜の下、子供たちは無心に遊び、老人は春を慈しみ、若人は我が世の春を謳歌し、家族は今この時を永遠に想う。

花が何故桜なのか?奈良時代以前は花と言えば梅だった。これは「花」は中国から来た言葉で日本にはなかった。梅は花の代名詞として遣唐使が持ってきた。韓国でも花はフワと言う。中国から来ているからだろう。日本では花は全く違うハナである。このハナは韓国語の「一」と言う意味で、花を意味するものではない。鼻もハナ、「ハナから」のハナではないかと言われている。花は日本にはやはりない言葉であったことが分かる。しかし、花として日本で愛でるには身近で美しいものが相応しかった。日本には元々様々な桜が咲いていた。原産の山桜、中国を先祖とするカラミザクラ、台湾から寒緋桜、島々からオオシマザクラ、北方のタカネザクラ、全てが混じり合い、日本の春を彩っていた。平安朝に花は桜となっていった。サクラは純粋な日本の言葉だ。今は英語でもSakuraと言う。因みに、ジンチョウゲ、シャクナゲ、ムクゲのゲは韓国語の花を意味する「コッ」が変化したものとされる。桜は韓国語でポッコッ。また、リンゴ、イチゴ、マンゴは中国語の果(グオ)からきている。

中国では桜の花見がが流行っていると聞く。私が上海にいた20年前は人の集まりを禁止しており、花見なぞ考えも及ばなかった。外に集まるのは真夏の夜の夕涼みのみ。暑いから仕方ない。つくづく平和になったと思う。監視の目は警察からカメラになったのかもしれないが。上海の桜は背が低く、八重、香芳しく、ピンクが強い。中国の桜はサクランボをメインにしたもので、食用が基本。見るよりは食す、中国らしい。桜の漢字は勿論中国語から。インと発音する。全く違う、サクラは日本では花のみを指すが、中国では桜花まで言わなければ通じない。そういえばゆりも純粋日本語、漢字の百合は中国語から、意味はユリ根の何枚も合わさった形から、中華料理に欠かせない。日本語のユリは花が大きく、揺れているからという。

中国・唐の詩人于武陵が詠った詩「勧酒」をを井伏鱒二が翻訳した「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」私はこの詩を桜に捧げた詩に思えてならない。実際そうではないだろうが、パッと咲いてパッと散る。春に2日と晴れなし。嵐と共に桜は潔く散っていく。これぞ桜の本領だ。儚い人生、我が人生に重ね、覚悟を決める。庭に桜を植える準備を始めた。居間から真正面に植える。春が来たら会える。また会えたら杯を重ねる。最後は潔く死を迎えたい。我が人生悔いはない、西行法師の如く。

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S君

S君は転校生だった。確か小学5年の時だった。もう半世紀も前のことだ。忘れて当たり前。北関東の田舎の小学校、転校生は目立つ。異文化を持ってくる。東京から来た或る転校生は厳しい寒さの中で半ズボンだった。背が高く足は長く、髪型もテレビで見たマッシュルームカット。話し方もテレビと同じ。都会の子。僕らは継ぎ接ぎだらけの長ズボン。S君も一緒だったけど何処か違っていた。また何処からどうして引っ越ししてきたのか話すことはなかった。彼が住んでいたのは4階建ての小さな新築アパート、崖下の新開地。おたまじゃくしを取りに行っていたので憶えている。妙に大人びた子供。力の源はニンニク、朝からプンプンだった。彼の肉体的な卓越さ、背は大きくはないが、内に秘めた”力”、しかも寡黙だった。喧嘩はしないが、睨みが鋭く、相手はたじろいた。気は短いが、怒ると黙るタイプだった。

田舎なのでほぼ全員がそのまま同じ地域の中学校に上がる。あの頃は有無を言わさず坊主。彼もそうた。私と一緒のサッカー部。田舎の小さな学校だったので陸上部なんてない。所属する運動部から選抜され大会に出ていた。彼は走れば一番、砲丸投げも距離が違う、すぐ学校の代表になった。他校に伍して勝てるのは彼だけだった。しかし不思議だったのは県大会に出ることがなかった。彼は不平をこぼしたことがない。鮮明に憶えている。中3の時、国体があり、サッカーの会場はこの田舎が舞台となった。その時天皇陛下を初めて見た。我々が国旗掲揚を担ったが、その脇に鎮座。その時、S君は既に運動部には背を向けていた。彼は感情を外に出さないが明らかに田舎の体質を嫌っていた。体罰や虐めもあった。不合理な精神論に基づいた練習、びんたやケツバット、彼は勉学にシフトしていた。成績は当初中ぐらいだったのが高校受験が近づくにつれ、彼は成績をぐんぐん上げていった。彼は全ての高校に受かった。いつのまにか頭脳まで先に行っていた。私はと言うとサッカー部を補欠で終わり、高校は第一、第二志望にも落ち、近くの私立高校にかろうじて受かり通うことになった。彼のその後の消息を聞くことはなかった。忘れていた。彼を理解するには余りにも私は田舎に染まり、幼なすぎた。彼に親友がいた記憶はない。いつも一人だった。

高校ではある事件があった。誘拐だった。同学年の友人の妹が誘拐され、悲しい結末をむかえることとなった。犯人は親戚だった。友人の父親は地域では有名な実業家であり、在日朝鮮人だった。犯人は日本人で妬みから犯行を計画したようだ。悲惨な事件の裏に醜い僻み、妬みがあった。友人は限られた友人としか話すことのない生徒だった。クラスが違うが、クリスチャン系のこじんまりした学校だったので、皆の中で分け隔てを感じることはなかった。何故このような事件が起きたのか、学校では教えてくれない闇をその時感じた。

大学に入り、初めて都会暮らしとなった。田舎にはない人種のルツボ。様々な人々が集まっている。義務教育を越えた現実の世界が見えるようになる。歴史の表と裏の世界。当たり前が何故当たり前なのか考え始めた。日本は何故、高度経済成長を遂げられたのか。何故平和なのか。一方、隣国、韓国では軍政を12年に渡り布いていた朴正熙大統領が暗殺され、春が来るかと思っていたところ全斗煥司令官によって軍政に戻る。そのような中、学生による光州事件が起きる。1980年5月、41年前。日本の学生の中で連帯しようと言う流れがあった。あの頃の韓国は今の北朝鮮以上に軍事独裁だったと記憶している。金大中氏が朴大統領により日本で拉致され、今度は死刑にされようとしていた。そんな時代であった。民主化へのコミットは日本側から多くの声があったことを記さなければならない。今の従軍慰安婦の問題の提起もこの時代の日本からだ。韓国の国民には自由に発言する機会は与えられていなかった。私たち学生の中で今の日本があるのは、韓国の犠牲によるものと言うより強い意志があった。韓国大使館へ金大中氏の減刑を求めデモに参加した記憶がある。金大中氏は米国に逃れ、減刑され、この18年後に大統領になられた。民主化支援は日本からだった。

就職難だった。それでも何とかメーカーに就職ができた。韓国のことは忘れてしまった。入社して7年、世間はいつの間にかバブル経済に溺れるようになった。世間はゆるゆるの状態で、私の様な若輩でもお門違いな誘惑に嵌るようになっていた。韓国に遊びに行ったのもこのころだ。初めてだった。何故行ったのか?招待された。新宿歌舞伎町の飲み屋、たまたま入った韓国人の店だった。そこで金大中氏の話になり、デモに参加した話をした。是非韓国に来て欲しいと誘われた。名は忘れたが、日本語のうまい韓国人だった。ソウルの金浦空港で待つ。観光案内をしようとのことだった。韓国は全斗煥大統領が民主化の流れに抗しきれず、1988年に選挙が行われ、正に新時代の船出の頃だった。

1991年4月、もう30年前。私にとって初めてのアジアの海外がお隣り韓国だった。金浦空港はニンニクの匂いで迎えられる。軍政の残り香が随所に漂っていた。驚いたのはソウルでの真昼間の空襲警報だ。実際、訓練だとは言われてもビビる、地下道に逃げる訓練があった。戦闘機の離着陸が可能なように通りが広く、戦車が走った。北朝鮮との戦争状態は続いている。勿論今も。日本人は私一人、好奇の目で見られていた。大邱では昼間から通りで酒を勧められた。2つに割った瓢箪に白い濁り酒をなみなみと注ぎ、白いゴマをその上に捲いてくれた。美味い!どぶろくの発泡酒。2,3杯飲ませて頂いた。言葉は通じないが、嬉しかった。日本でマッコリが流行ったときこれかと知った。一番驚いたのはディスコで踊る女性の姿であった。独特の腰をくねらす踊り。笑ったが、世界で韓流のブームの片鱗をこの時見たと記憶している。慶州では仏国寺に案内された。この寺の石碑に豊臣秀吉の名があることに驚いた。この寺も豊臣秀吉に焼かれたとあった。約430年前である。教科書にある朝鮮出兵とはこのことで、単なる出兵ではない。加藤清正の虎退治のみではなかった。私はこの後、アジアを仕事で回ることになるが、教科書にはないアジアにおける日本の姿を随所で見ることになる。凄まじかった。

1998年に海外営業担当となった。その頃、韓国は最大の顧客であった。しかしアジア通貨危機以降雲行きがどうも怪しくなっていた。ライバルがドイツからやってきていた。どうやってきたのか?訪韓し、探るもつかめず、結局、海外に駐在するまで分からなかった。韓国国内の主な顧客に商品説明会に代理店と回る。驚かされたのが熱心な若いエンジニアの姿であった。私は日本語で説明すると理解している。しかし話すことはない。ただ聞いている。ハングル文字に翻訳された技術資料は少ない、皆、技術資料は日本語を勉強し、そのまま読んでいるそうだ。日本語だけではない、英文もまた、彼らの海外の技術を吸収するスピードは速い。彼らの激しさを垣間見ることができた。大田で労働争議を見たが、激しい、ピケを張りそこからシュプレヒコール、デモ、投石、恐ろしくて近寄れない。韓国の冬は寒い、-10℃極寒の中、北朝鮮との国境近く、戦車を見ながら冷めた肴をつまみに眞露を飲んだことが思い出される。ソウルからすぐのところに国境はある。わずか30km東京横浜間の距離に過ぎない。北朝鮮は韓国にとって一番近くて遠い国。

2002年に日韓ワールドカップが開催された。韓国の代理店の連中とユニフォームを交換し、お互いの国を応援することにした。日本ではユニフォームというと高い。裏生地が着いていて3000円位した。それを何着か送った。韓国から送ってきたのは1000円くらいのTシャツみたいなユニフォームだった。余りの違いに愕然とした。日韓関係は蜜月を迎えていた。冬ソナが流行り、日本からおばさんたちが挙って撮影現場を回るツアーがあった。韓国出張で、仁川空港であんなに日本人のおばさんたちを見たのはあの頃くらいでなかったのか。空港でバスに乗る前にたばこタイムと喫煙室に皆一斉に向かうのを呆気に取られてみていた。

私は2002年から上海に拠点を移した。韓国から指摘された価格のギャップを埋めるコスト削減のためだ。韓国の代理店のメンバーも大挙して上海にやってきた。観光バスをチャーターし、私も乗れと言う。何処へ?三・一独立宣言の後臨時政府をこの上海に初めて置いたという、その場所が残っていると言う。韓国人は上海に来た時必ず訪れるという。歴代大統領もまた。驚いたことにきちっと管理されて残っている。1919年4月から80年以上過ぎている。しかも日中戦争前である。新天地の近く。日本人は先ずいかない。上海の虹口には魯迅公園がある。その中に有料で入る梅園がある。そこもまた韓国人の訪れる場所だ。私は知らないで入った。何と韓国青年による爆弾テロの舞台であった。1932年上海事変の後、天長節をこの公園で祝ったという。白川陸軍大将は亡くなり、上海公使の重光葵は片足を失った。後1945年9月2日米国戦艦ミズーリ甲板にて降伏文書に調印をした日本の全権大使となる。大韓民国臨時政府は最終的に重慶まで逃げ延び終戦を迎えることとなる。26年間、三・一独立宣言を守ったということだろう。尚、独立宣言の起草は神田駿河台のYMCAであった。上海で爆弾テロをおこなったのは尹奉吉。独立運動の義士の一人として国立孝昌公園に祀られている。韓国が独立するために熾烈に日本と戦ったかと言うことを理解しなければならない。日本には他国から独立を勝ち取るという経験がないため理解できない。

中国に駐在した8年間、何故ドイツ製が日本製を凌駕してきたか、分かりつつあった。品質的に日本製に対抗できるのはドイツ製だ。しかしドイツは遠い、しかも規格が違う。中国の規格は米国の規格とロシアの規格を採用していた。台湾と韓国は日本の規格を採用していた。両国が中国に進出するにあたり、ロシア規格に近いドイツ規格を採用した。それが本国においても日本規格の代替となっていく。大量に中国で使用されるため、台湾は在庫を置くようになった。量が多ければ輸出経費が下げられ輸入品としては安くなる。それが韓国にも流れることとなった。それで価格で勝てなくなる。それが答えだった。ドイツは日本には規格が違うため入って来ないがより需要が見込める中国、韓国、台湾の市場を抑えた。尤もインドネシア、シンガポールも既にドイツ製に流れていた。結論は見えていた。中国で頑張るしか、ドイツ製とは戦えないということであった。しかし、結局、韓国は中国製を認めることはなかった。日本純正に拘った。私の中国駐在もリーマンショックの到来と共に終わりを告げた。私の努力も気泡に消えた。

あれから10年、日韓関係は最悪になりつつある。ここまでお互い反目し合うとは思いもしなかった。残念だが、私の時代は既に終わっている。後世に託すしかない。望みがあるとしたら、韓国ドラマ「愛の不時着」にあるかもしれない。北朝鮮と韓国の同民族のいがみ合いがどう解消されていくのか、日本は世界で今一番危険な関係の中でどう巻き込まれていくのか、このドラマが日本人に少しでも目を覚ます機会を与えてくれればと思う。ドラマ以上に憎み合う骨肉の戦いにならなければよいのだが。日韓関係は深く、長い相関関係の歴史に彩られてきた。日本の有史前より多くの文化は朝鮮半島から渡ってきた。我々日本人の中に朝鮮人の血が流れていないとは言い切れない。その位密接であった。

S君が実は韓国人であったかどうかは分からない。しかし、彼の中に異邦人の影を見ていた。彼はけして同じ時間を共有しようとはしなかった。寧ろ避けていた。彼の負けず嫌いは凄まじかった。半世紀前、サッカーでは韓国に勝てなかった。ワールドカップ出場も赤い壁で阻まれ続けていた現実がある。今でこそ少しは勝てるようになってきたが、今もって大きく負け越していることが証だ。韓国の建国の歴史から言って、我々が敵であったことは明確である。しかし恩讐の彼方に未来はある。過去を乗り越えて未来はできる。過去を見つめ直し、同じ民族の血を共有できる日が来ることを祈って止まない。S君は最早あの田舎にはいないだろう。こういう私も田舎を捨て、東京に生きている。『ふるさとは遠きにありて思ふもの』けして戻ることはない。故郷は心で思うだけに過ぎないと室生犀星はこの詩『小景異情』に込めている。人生に後戻りはない。今を生きるべきなのだ。

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