蕎麦と饂飩、つなぐもの

東京では蕎麦汁饂飩を食べ、大阪では饂飩出汁蕎麦を食う。どちらも旨い訳ない。

蕎麦は江戸、関西は饂飩。上方落語の「時饂飩」が東京では「時蕎麦」。江戸蕎麦は江戸人の粋。しかし、江戸の昔は蕎麦ではなく饂飩

うどんvsそば、2021年、地域別にどちらの店が多いか比べた市場地図がある。一見して、愛知滋賀を境に、饂飩店が多いのが西、蕎麦はと明確に分かれている。市場があるから店がある理論。大阪はほぼ饂飩だが、東京は蕎麦に特化している訳ではない。山梨埼玉群馬、更に東京の一部は饂飩。蕎麦と饂飩を西と東で簡単に切り離すことができない。一方、四国愛媛香川は饂飩、長野が蕎麦に特化している。ここに寧ろ蕎麦と饂飩の市場を分ける理由そしてルーツがある。食文化は地域の育んだ歴史の変遷の中で醸造され熟成される。蕎麦には蕎麦汁、饂飩には饂飩出汁がセットになる。蕎麦の店は蕎麦汁、饂飩の店は出汁。蕎麦の店で饂飩と言われれば、蕎麦汁を、饂飩の店は饂飩出汁を出すしかない。東京だけでなく、蕎麦汁を饂飩に提供する店は東で圧倒的に多く、逆に大阪だけでなく、西で蕎麦に饂飩の出汁を提供する理由が分かる。蕎麦汁と饂飩出汁の違いこそが東と西が作り上げた食文化。お互い対抗しているかの如きだが、実際は深く交錯し、江戸の華として完成した。今に通じる美味を追求した世界に誇る食文化を生み出した。

蓼科の蕎麦の紅い花

蕎麦は言わずもがな、蕎麦切りを指す。蕎麦自体は元々お粥や蕎麦掻きとして食べていた。縄文時代に中国雲南の地から朝鮮経由で渡ってきた。島根県飯石郡頓原町から1万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では9,300年前、更に北海道でも5,000年前の花粉が出ている。饂飩の元となる小麦4世紀にやはり朝鮮半島経由で日本に伝来した。小麦は蕎麦に比べ新参者なことが分かる。しかし、もはや小麦は米に次ぐ第二の地位を得ている。饂飩、ラーメン、パン全て小麦からだ。中国語でも蕎麦は同じ漢字、荒地でもすぐ大きく育つ麦とされていた。ただ雑穀扱い。粟や稗と同じ。石臼が普及していなかった日本でもこの長い歴史にも拘らず、メジャーな食材にはなれなかった。数千年の時を超えて、メジャーへの道、蕎麦切りが誕生する。近世、戦国の世、江戸から遠く離れた木曽の定勝寺文書に記される。天正2年(1574)、武田信玄の時代だ。その頃はつなぎはなく、今で言う、十割蕎麦。蕎麦のつなぎを朝鮮の僧、元珍が奈良の東大寺に伝えたのは寛永年間(1624~1644)。朝鮮において冷麺が初めて書物に記されたのが1643年朝鮮王朝の時代、張維の渓谷集において。冷麺は蕎麦粉を澱粉や小麦粉をつなぎに使う。江戸まで蕎麦のつなぎを伝えたのは正に朝鮮通信使しか想像できない。何せ入鉄砲と出女の時代、誰が掻い潜って江戸へ蕎麦のつなぎを伝えたか、彼らは朝鮮より蕎麦粉とつなぎの小麦粉を持ってきて旅先で練って茹でて冷麺として食していた。足らなくなったら、現地調達していた。日本には蕎麦も小麦も既にあった。日本人の旅先案内人は作り方を教えてもらったに違いない。

つなぎのない蕎麦は香りはいいが、打つのが難しい。生一本では世渡りが出来ない。生蕎麦の難しさを物語っている。生蕎麦は高く付く。生蕎麦がいつの間にか幾楚者に代えられた理由が分かりそうだ。読めますか?

つなぎのない蕎麦は茹でず、蒸して食べる。せいろ(蒸籠)に今も蕎麦をのせて食べるのはこの痕跡。蒸すと柔らかくなり喉越しが生まれる。その頃、蕎麦汁も出汁もない、味噌ダレ。蒸した十割蕎麦を味噌ダレの浸して食べていたから、江戸の粋から程遠い。アッサリ、ツルツルッとはいかない。江戸の後期まで蕎麦は江戸で受け入れられず、饂飩の世界だったと言う。ただ、嬉々として食す人々がいた。それは蕎麦切り発祥の地、信濃からの出稼ぎ労働者であった。その時代、晩秋に群れて江戸に下ってくることから椋鳥と呼ばれ、川柳や狂歌では、図体も大きく、食事の量も半端ではなかったので、”大飯喰らい””でくのぼう”の象徴とされた。ただ、彼らは蕎麦の旨さを知っていた。信濃の荒れた土地でも大きく育つ蕎麦は宝だった。彼らは江戸に蕎麦の文化をつなぐ伝道師となった。江戸前三大蕎麦の一つ更科は彼らの誇り。さらに時代は下って、つけ麺を生み出したのが、長野県出身の東池袋の誇り今は亡き大勝軒山岸一雄氏だ。麺はもりが美味いのを信濃者は知っている。そば湯を飲む風習はまず信州で始まり、江戸時代中期の寛延(1748~51)の頃、江戸に広まったとされる。つまり信濃者は蕎麦の楽しみ方を知っていた。長野が今も蕎麦の文化を守っていることが分かる。秋、蓼科には蕎麦の花が咲き誇る。

そもそも味噌ダレ饂飩の汁。蕎麦の文化は元々江戸にはなかった。武蔵は饂飩の文化。味噌で饂飩。これは今も甲州名物ほうとうに残っている。ほうとうは中国語の餺飥(ボートゥオ)から来ている。饂飩の元となる小麦粉で作った食べ物の意。奈良時代の楊氏漢語抄に既に記載されている。中国においては、南宋の朱翌が猗覺寮雜記に北方の人々は餺飥という麺を食すと記している。宋から禅宗の精進料理と共に13世紀餺飥は日本にやってきたと考えるのが自然。この餺飥はなんと!中華麺の元になった。の時代(1271〜1368)に鹹水を使い餺飥を作ることによって中華麺が生まれる。日本には鹹水がない。そして饂飩が生まれる。中国の水餃子の餛飩(フントゥン)が転じた。中国では饂飩餛飩も一緒のもの。麺状になったのは日本の南北朝以降であり、それまでは今の雲呑(ワンタン)同様、餡の入った水餃子として食していたからだ。今や雲呑は別物になっている。江戸では饂飩うんとんとも書いていたが、この名残。饂飩が記されているのは応永年間(1394~1428)に成立した庭訓往来になる。饂飩の成立が中国から禅宗と共に伝わった精進料理の成立と深く関わっていることが分かる。私は中国に駐在していた時、餛飩をよく食していた。スープは日本の出汁と一緒で美味い。海苔とネギが入っていて、すっきりさっぱりの味わい。中国には脂ぎったスープが多いが、これは全く違う。海鮮風味の旨みを味わうことができる。日本を懐かしんだが、寧ろこちらが元だったのだが。

蕎麦のつなぎは小麦粉。言わば饂飩蕎麦にツルツルっと粋な食べ方に繋げた。更に、つなぎがあれば饂飩打ちの要領で蕎麦は誰でも打てる。早く、安く上がる。小麦粉のつなぎを入れて打つようになるのは18世紀初頭、そして二八そばが登場するのは享保年間(1716~36)夜鷹そばが生まれ、江戸市中でそば屋の数が増えるのは、寛延(1748~51)から安永(1772~81)にかけて、夜鷹そばに対抗し風鈴そばも現れる。最盛期、江戸市中だけでも蕎麦屋は数千軒あったと言われる。小麦粉によって蕎麦切りは大衆のものになった。饂飩があって今の蕎麦を生んだ。

2020年の日本人のゲノム解析を見るとなんと近畿・四国に漢民族の渡来人の遺伝子が多い。彼らこそ小麦文化の担い手。1万年前、縄文人はを主食にし、稗、稷、蕎麦も食べていた。要は雑穀が中心だった。3千年前稲作が北東アジア人の移住と共に入ってきて弥生時代へと移っていく。1700年前、より広範囲な東アジア人が大和王権と共に小麦を中心に新たな食文化を日本に築いていった。古墳時代。小麦伝来と大和王権の設立が空白の150年と呼んでいる時期に重なる。不思議なことに縄文から弥生、そして古墳時代と移っていても大きな内戦の痕跡が残っていない。民族間の軋轢、紛争は起きず、最後に大和王権が鎮座する。内戦の記録は全て焼かれたとしても殺された人々の怨念、記憶、傷跡は残るはずだ。古事記では、伊弉諾、伊奘冉は淡路島から四国、隠岐九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で産んでいく。出雲、九州そして本州にも既に王権があり、四国から政権を樹立するのが道理。支えていたのは渡来人。驚いたことに今の日本人の遺伝子において渡来人由来が既に縄文、弥生人を凌駕している研究結果が出ている。関西や四国の言葉のアクセントも渡来人文化圏とほぼ重なっている。他の地域にはこのアクセントがない。正に関西弁の本筋。私が中国に駐在していた時、関西弁のイントネーションが中国では受け入れられることが羨ましかったことを思い出す。渡来人には溜池を作り、小麦を作る技術があった。これが一番の後ろ盾であった。更にこれが饂飩伝来につながっていく。饂飩の文化圏と渡来人の文化圏に繋がっていることに驚かされる。正に四国の愛媛香川が饂飩県になっている訳がわかる。小麦が表舞台に伸し上げたのは何と饂飩蕎麦の出現によるもので、それまでは日本人は即食べられる大麦を食していた。今の我々が麺を欲する理由が、縄文でも弥生でもない古墳時代に渡来した東アジア人のDNAにあることがこれで分かる。

小麦は更に蕎麦汁や出汁に繋がっていく。蕎麦汁あっての蕎麦であり、出汁あっての饂飩。蕎麦汁は濃口醤油白味醂、そして鰹節が基本。まず鰹節は安房に1781年に伝播され、白味醂1804年に流山で生まれ、濃口醤油文化文政年間(1804‐30)に銚子にて完成される。全て黒潮の流れ来る千葉県に当たる。濃口醤油が従来の醤油と違うのは小麦を麹として使っていることだ。熟成度、甘み、香りに大きな違いを生んでいる。つまり小麦蕎麦を美味くした。一方、饂飩の出汁は昆布いりこ(煮干し)、淡口醤油。昆布は17世紀の江戸時代、北海道から北前船で運ばれた。いりこは片口鰯で瀬戸内海で獲れた。淡口醤油は1666年兵庫瀧野で濃口醤油から生まれる。正に小麦麦麹の産物になる。関西の饂飩の出汁は蕎麦汁より早く完成している。関西の饂飩の出汁は飲むためのもので、東の蕎麦汁のように麺を着けて味わうものではない。私が三重に住んでいた時、饂飩だけでない、蕎麦を出汁で頂くと美味いことがわかった。蕎麦の味わい方がまず違う。もり蕎麦はで食べるものだが、出汁で食す蕎麦は風味で食すもので、蕎麦だけでなく出汁をも楽しむものになる。これもまた乙なもの

蕎麦自体は粥や蕎麦掻きとして1万年前の縄文時代から食べられてきた。饂飩は、4世紀に渡来人が持ってきた小麦から麺となるまで10世紀かかっている。蕎麦が麺になるまでは更に200年待たなくてはならない。即ち、蕎麦から蕎麦切りを生むまで約9,550年掛かっている。饂飩は17世紀に出汁が生まれ、西の饂飩文化が完成される。蕎麦は18世紀につなぎの小麦粉を使い二八蕎麦として、爆発的人気を得ることとなる。汁は出汁の効いた味噌だれだった。濃口醤油、白味醂が完成され、蕎麦汁が完成するのは19世紀になる。蕎麦が麺として一本立ちするのにつなぎ、出汁を含め、饂飩の力が必要だった。蕎麦は長い年月をかけやっとメジャーになった。9,800年掛かった。

うどんvsそばvsラーメンの2021年市場地図がまた面白い。ラーメンは日本においてメジャーになってまだ50年そこそこに過ぎないが、既に饂飩、蕎麦市場を凌駕している。特に東北、北海道、九州、中国地方と市場への侵食が激しい。饂飩:17,999件、蕎麦:18,978件、ラーメン:24,370件、これが店の数比較になる。短期間で市場を席巻しているには幾つか理由がある。1つは、ラーメンの饂飩や蕎麦にない魅力だ。まず汁の種類、醤油味噌から選べ。更に出汁の豊富さ。豚骨鶏がら煮干し。具も野菜チャーシュー味付き卵、ボリューム感で饂飩、蕎麦を圧倒する。東北においてもはや饂飩店をラーメン屋が食っている理由はここにあるのではないか。2つ目は元来、日本人の遺伝子の中に外来のものを自然に取り入れる性質があるということだろう。考えてみれば、天ぷらカツカレー、いつの間にか日本の料理に組み込んでいる。然ればラーメンは饂飩や蕎麦に置き換わるのであろうか、それはまずありえない。まず蕎麦、これは雑穀としての強みにある。”simple is best” 立ち食い蕎麦というコスパの良さもあるが、あっさりしていて胃もたれを起こさない健康食としての魅力もある。更に日本酒や焼酎との相性だ。江戸時代、江戸の街で蕎麦が流行ったのは白米中心による脚気の流行で蕎麦はその防止、しかも蕎麦と酒はセットだったようだ。食の歴史は贖えない。

面白いデータがある。バブルが弾けて以来、日本は景気の低迷に苦しみ、外食産業も1990年代末以降ほぼ低迷している。その中、うどんそば店だけは安定しながら、若干伸びている。これはコスパ重視に動いたと同時に、我々自身が原点回帰に向かっている。東日本大震災、コロナ禍を経て、更に我々は自らの身の丈に合った食生活に戻ろうとしている。江戸時代、白米中心の食生活で脚気に苦しみ蕎麦に回帰したように贅沢な食生活からやはり質素な蕎麦や饂飩に戻るべきと思い始めている。蕎麦は1万年、饂飩は1600年の歴史、先祖の食を作り上げた道を振り返り、大切にしなければならないと理解する時が来たことに間違いはない。

資料:うどん屋・そば屋の分布を描いてみたら東日本・西日本の”もうひとつの境界線”が現れた。 そば切り発祥を探る そば辞典 そばの歴史をそば屋が解説!起源は縄文時代にあった・・・! 蕎麦の歴史 切り蕎麦 麺類の歴史を訪ねて 復刻版!味噌とそばのイイ関係。いつも“ソバ”に味噌を♡ 蕎麦つゆが味噌 !? 江戸時代の蕎麦事情が想像とだいぶ違う 江戸っ子は蕎麦もうどんもコレで食べてた!滋味深い江戸の味噌つゆ「煮貫」 そばの散歩道 日本が誇るダシと、美味しいダシの歴史! うどんの歴史について 日本のだし文化とうま味の発見 そば(蕎麦)の原産地と日本への伝来 そばのお話し 餺飥 ほうとう うどん うどんの歴史とは 馄饨 大阪うどんの過去・現在・未来 そばのつなぎ 中国麺の発展と伝播 食文化のうんちく 鰹節の歴史 醤油の原材料の謎を紐解く 江戸そばの源流 そば屋のルーツは大阪・新町にあり!? そばのお話 うどんの歴史 アイデア 蕎麦はお菓子やさんの副業だった。 現代日本人、3集団にルーツ…人骨の遺伝情報を解析 私たちは何者か~DNAで迫る現代日本人への道 おすすめのうどんのだしは関西風!だしがおいしいうどんの作り方 2014年の「うどん・そば市場」市場規模は過去最大’(1兆1600億円)に。

🚲神代植物園🌹〜深大寺そば 青木屋〜深大寺天然温泉湯守の里♨️🚲25km

2023年5月17日朝9時30分。晴天、風なし、暑くなる予報。🌹を拝みに神代植物園へ、更に深大寺蕎麦をお堪能し、温泉に入って野川沿いに戻ってくる予定。毎年の恒例。サイクリングを楽しむ穏やかな1日が始まる。狭山・境緑道を東へ、徳洲会病院を見て右に折れ、五日市街道に抜ける。天文台通りに入り、東八を超えて天文台が見えて住宅地を抜けると神代植物園の正門へ。正味11km、1時間かからない、ほぼ下り坂。

朝10時半を過ぎて、薔薇を愛でに来られる方の多さに圧倒される。やはり平日、高齢者が多い。お元気で何より。既に見頃の時期は終わっている。残念ながら今年は早い、例年なら今頃が見頃になるが、暑い日が続き、早まった。毎年違う。1週間前に来ることを考えたが、天気が安定せず、躊躇したのがいけなかった。思い立ったが吉日を肝に銘ずる。例により、薔薇を愛でながらビールを飲み、深大寺側に抜け、早めに蕎麦屋に向かう。平日でも蕎麦屋は長蛇の列が始まっている。

神代植物園深大寺北門近くの蕎麦屋の松葉茶屋、玉乃屋は既に人集り、諦め、深大寺に沿って坂を下りる。青木屋が辛うじて行列がない。即飛び込む。ここは池に面して外で蕎麦が食べられるのがいい。景色が楽しめるのが一番。二八蕎麦で喉越し抜群。尚、店によって蕎麦の味が違うのが、深大寺そばの楽しみの一つ。それぞれの店を回るがいい。私の大事にしているのは一番は雰囲気。外の風景が楽しめるかになる。この点では青木屋は一番だろう。もり蕎麦700円とまあ良心的価格。今日は友人を連れてきたので、深大寺の参道をぶらつく、久しぶりに喜多郎茶屋のソフトクリーム梨とミルクのミックスを食べてみる。400円也。まあ目玉親父のクッキーが愛嬌で付いてくるところが憎い。最早暑い。公園に戻り、自転車で温泉に向かうこととする。1.5km 10分。

深大寺天然温泉湯守の里は友人は初めて。東京で一番汚く、臭いにも関わらず東京一の名湯と言っておいたので、興味津々で付いてきたが、流石に驚いていた。湯は真っ黒で、風呂の中が見えないので、入る時に恐る恐るになるのが面白い。オキシフルの匂いが鼻に付く。何と言っても露天風呂がいい。東京とは思えない。蛇が出るくらいの野性味あふれる風景の中で湯に入れるところがいい。最古の海の香が体を包み、至極の時を過ごせる。しかもサウナが蒸し風呂で中に砂場があり、そこから蒸気が湧き出し、体を包み込む。古の風呂は斯くありなんと思わせるところがある。東京の温泉の代表格と言って過言ではないのでは?1時間入浴のカラスの行水で平日850円。土日祝日950円になる。調布駅と武蔵境駅から送迎バスが出ている。一度は入ってみる価値ある温泉だ。帰りは野川沿いに走る。途中川沿いの”惣菜たつみ”で一休みして川を見ながらコーヒーを飲んで帰ることになる。12km、1時間。

🚲漱石山房記念館〜子規庵〜馬賊🍜〜板橋前野原温泉さやの湯処♨️🚲60km

2023年5月10日朝8時45分。晴天、風なし、サイクリングを楽しむ穏やかな1日が始まる。狭山・境緑道を東へ、向台中央通りから千川上水沿いの道に抜ける。千川通りに入り、環八を超えて新青梅街道に入る。哲学堂を越えたら新目白通りに入り、高田馬場駅に抜ける。後は早稲田通りを直走り。夏目坂を越えたら、夏目漱石が居を構えた山房記念館は間近に迫る。走り慣れた道、大通りを避けながら都心へ向かう道だ。正味24km、約2時間半、ほぼ下り坂。

夏目漱石は明治維新の1年前に生まれ、大正初期に亡くなる。激動の明治を生きた。新宿で生まれ、育ち、新宿で亡くなっている。終の住処になったのが記念館のある早稲田南町の山房、晩年の9年間を過ごすことになる。作家としての名を馳せたのは亡くなるまでの僅か10年間に過ぎない。この間、15の中長編と9の短編を世に残した。代表作は吾輩は猫である坊つちやん草枕三四郎それから彼岸過迄こゝろになろう。この記念館は区立、清潔で、広々としていて、拝観料300円が良心的だ。カフェがいいが、ただ週末のみ。漱石山房は戦災で跡形もなくなっているが。戦後、都営住宅が建ち、新宿区が漱石の旧宅として全く新しく記念館を建てた。唯一、無料で入れる庭の猫の墓だけが往時を偲ぶ縁となっている。蔵書は散失せず、遺されていたことが驚かされる。一度は訪れる価値あり。

子規庵は漱石山房記念館から神楽坂を抜け、後楽園を通り、東大前から根津を抜け、鶯谷駅を越えてすぐ。6kmほど、1時間かからない。コロナ禍期間中閉じていた。HP上は再開したようなので満を持して行ってみたら門を閉じている。張り紙には土日のみ開門とのこと。HPをよくチェックしなかったのが不味かった。参った。正岡子規は晩年の8年間をここに寓居した。趣のある建屋で、墨汁一滴病狀六尺仰臥漫録がここで書かれたと想像する。胸が痛くなる。35年の人生は余りに短かった。子規庵の訪問に当たっては事前にHPをチェックすることをお薦めする。私は2度空振りしている。時間制約もあるのがややこしい。この庵も戦災で焼失しており、戦後再建されたものだ。しかし、戦前そして明治の雰囲気を蘇らせているのが素晴らしい。子規が亡くなってもはや120年の月日が過ぎ去っている。

子規庵から板橋前野原温泉さやの湯処へ向かう。10kmある。約1時間、王子までは京浜東北線、新幹線に沿って走ることになる。途中、日暮里、西日暮里、田端、上中里、王子駅前を走るので、食事には困らない。日暮里で懐かしい中国手打拉麺馬賊へ。この店は駅前ロータリーに面し、50年近く続いているそれほど大きくはないラーメン屋。昔お世話になった。昔の味と外観、雰囲気は変わらない。値段は高くなったが、時代の流れか、致し方あるまい。頼んだのは馬賊つけ麺1,250円也。麺がもちもち、たれは鰹節が効いている、言わばだし汁で麺に絡みやすい。

前野原温泉さやの湯処は源泉掛け流しの温泉になる。湯は淡い緑白色、鉄の匂い、塩辛い味のする湯だ。露天風呂が気持ちいい。空が広くないのが残念だが、館内の食事処では庭園を楽しめる。風呂上がりに塩辛と生ビール890円也、入館料は平日で900円、土日祝日では1,200円に跳ね上がる。従ってまだ混まない方であろう平日昼間に訪れるのが一番、それでも結構混んでいた。庭がいい。板橋は嘗て荒川沿いに多くの中小の工場が立地していた。この温泉も工場をこの地に有した会社の経営者の家であった。圧延材メーカーの工場もあった。今は海外に市場を広げ、工場も埼玉に移っている。風呂に入り大満足、帰りは環八に沿って走り、富士街道から新青梅街道に戻る。

老人と薬(薬は神ではない)

薬を売る者は両眼、薬を用いる者は片眼、薬を服するものは無眼          薬がいかに諸刃の剣か、製薬会社は全てを知っている。医者は片刃のみ患者に言う。患者は医者を信じ、処方箋を全て鵜呑みにする。しかし、全ての薬の効能と飲む責任に患者は伏する、結果として体を寧ろ蝕むものになったとしても。患者はまず自らを守るため”薬は毒にもなる”ということを知らなければならない。特に歳を取ればとるほど”薬毒深刻になる。クスリは逆にするとリスクになる、特に老人にとって。

昨年の12月、全ては左目の不調から始まった。以前から左目のコンタクトレンズが外れることが多かった。アレルギー性結膜炎のせいにしていたが、徐々に痛くなってきた。年末には、目の玉が破裂するのではと思うほど熱くなり、腫れているのを感じた。何が起きたのか?医者に聞くと初期の急性緑内障発作。遂に緑内障が攻めてきた。眼医者は目の玉が落ちるので下を向かないようにと言う。異例の年明け早々の手術となる。見開いた目から溜まった房水を逃し眼圧を下げるため、厚くなった水晶体を取り除き、薄い人工レンズを入れることになる。麻酔は目薬のみ。時計仕掛けのオレンジの瞳を見開いた状態にするため瞼をクリップで固定するシーンを思い出す。恐怖で震え上がった。目ん玉が跳び出る話で済まない。しかし、ここからが問題になる。

手術を前に血の検査。結果血糖値が高いと指摘を受ける。HbAlcが7.6%、ボーダーを1.4%超えていた。これも昨年から徐々に上がっていた。ボーダーで生きていたが、最早治療しないと手術が危ういと脅された。輸血の必要のない手術で関係ないが、最悪必要になるのでと言われ、目に付いた、近所にある糖尿病専門クリニックに飛び込んだ。今度は血圧を測ってもらう。何とこれも高い。140/102mmHg。血圧だけは自信があったので流石にショックだった。手術前に片付けなければならない。焦った。これからが薬漬け地獄門弱り目に祟り目!後で分かるが、実際、焦ったところで薬はすぐには効くものではなかった。要は既に間に合わなかったし、焦る必要もなかった。薬に関係なく、無事手術もうまく行き、左目は回復した。右目より良く見えるようになった。尚、レンズ交換の手術は20分ほどで、瞼はクリップで止めることなく、テープのみ。麻酔は目薬のみで、痛みは術前から術後まで全くない。執刀する医師の声が聞こえ、動作が何となく分かるが、何をしているのかは勿論わからない。血を見ることは全くない。目が水中を泳いでいる感じを受けたのみ。眼帯を術後1日掛け、風呂を1週間我慢し、温泉は1ヶ月入るのを禁止された。寧ろ、これが一番きつかった。山行きができない。

本題に戻る。糖尿病専門クリニックで指示された薬はルセフィ錠2.5mgSGLT2阻害剤の一つで血糖値を下げるため糖を尿から排出する。私は5年前の膀胱の抗癌治療による慢性の頻尿から睡眠障害に苦しんでいた。2〜3時間おきに起きてトイレに行っていたが、この薬によって1〜2時間おきになった。医者にこのことを伝えても糖尿病には糖を排出して改善するのが良いとの一点張りだった。頻尿の倍返しだ。手術のため我慢した。次に追加されたのが血圧を下げるアムロジピンだった。車の運転がキツくなった。酒も弱くなった。缶酎ハイ1杯でふらふらになる。翌月早々には長い船旅を控えていた。船上でもしものことがあったら大変だと思い、止められない。結局1ヶ月で数値は下がらない。内臓に働きかけ血糖値を下げるメトホルミンを追加してきた。頻尿による寝不足で苦しいと伝えると寝つきを良くする薬ラメルテオンを更に提供してきた。次に睡眠を継続させる薬ベルソムラも追加され、もう頭がクラクラする。睡眠は無意識状態に陥って始まり、トイレには目が覚めないフラフラ状態になりながら行く。頻尿は変わらない。瞬間の睡眠は深くなるが、覚めてもふらつくのが怖い。頻尿からくる便秘にも悩まされる。びっくりしたのは、歯茎も弱くなり、タクワンをかじるだけでも痛くて噛み切れなくなる。背中がしきりに痒くなる。そして息切れ、体力が失われていくのを感じる。食欲が失われ、無気力化していくのが分かる。2月初旬、無事長い船旅を終えることができた。頻尿には苦しんだが、ことなきを得た。2月末にはルセフィ錠は1回2錠5mgまで上げられた。3ヶ月で効果テキメン。3月末には、血糖値は6.7%、血圧は117/77mmHgと急激に下がる。体重も69.1kgに減り、睡眠も2度寝できるほど改善される。一方、数値が急激に下がったことで命の危険を感じることになる。私を襲ってきたのは低血糖、低血圧だ。過剰反応に陥っていく。数値が下がった時点で薬を止めるべきではなかったか、少なくとも薬の量を減らすか、薬を変えるべきだったのではなかったかのと、今でも疑問に思う。過ぎたるは尚及ばざるが如し

薬は諸刃の剣だ。身をもってわかったのが4月、2度登山した結果だ。医師は適度な運動療法を薦めるが、大した山登りでなくとも登山後に襲われる筋肉痛、腰痛で悩まされた。これは異常だ。今までにない経験だった。しかも2度目の登山は距離も9kmと短かく、標高差も570m、所要時間も6時間とそれほどでもなかった。登山を終え、駅のホームで缶酎ハイ1杯を飲み、数駅電車に揺られ、バスに乗り換えて温泉へ向かった。バス停から温泉に向かう途中もフラフラだったが、露天風呂で遂に意識を失った吐き気意識混濁で体は硬直し、動けない。裸で小一時間ぶっ倒れていた。どうしようもない。死の恐怖だった。低血糖低血圧が両方襲ってきたようだった。高齢者は薬の効きすぎによる副作用が多い。原因は、肝臓、腎臓の機能が老化して能力がおちているので、肝臓の解毒作用や腎臓の排泄能力の低下により薬が体の中に多くなる。端的に言えば、高齢者の免疫力の低下が薬の副作用を呼びこんでいることになる。

次の日から血糖と血圧を下げる薬、更に睡眠導入剤の摂取も止めた。病気を治すより、命を維持することの方が大事だ。高齢者が薬を漫然と飲むことの危険性を感じた。医薬メーカーも医者も薬剤投与対象をけして高齢者とはしていない。一般的な医薬的効果を前提に投与を薦めている。高齢者に当て嵌めると間違いを犯す。一方、高齢者の目標血糖値のHbAlcは基準値より高い7.0%未満。これは低血糖が脳卒中を引き起こすためだ。血圧は137.8/85.6mmHg、低血圧は脳へ血を回らなくし、認知症へと導く。私はこの数値を3月末でほぼ達成していたのも関わらず、漫然と医者の言うがまま薬を飲み続けたことが間違いだ。高齢者は高齢者として基準値を緩めに見ながら投薬を調整すべきだ。今回、私は体調が悪くなって初めて調合された薬をインターネットで調べて副作用の内容を詳しく知ることとなった。製薬会社はサイト上で効能と副作用の内容を詳しく公開している。医者を信じても薬は別物である。医者は対象とする病を治すため、最良の薬を提供し続けるが、これはあくまでもその病に対する挑戦で、患者のその病以外の病がそこから消えていることが多い。実際はその病以外のファクターが多い。人にはそれぞれ個々に病を持ち戦っている。この病とは高齢化に伴うことが多い。急激な数値の悪化に目を奪われて本筋を忘れてはいけない。自分の体調にまず合わせることだ。日本は今や押しも押されぬ長寿大国となっている。これは予防医療の充実国民皆保険制度による医療費負担の軽減によるものが大きいと言われている。ただここに弊害もある。患者は薬を安く手に入れることができるので、副作用を気にせず。医者任せに症状に応じて次から次に薬をもらうことになる。医者は即効性のある薬に飛びつき、専門外の薬も提供し、結果を求めることになる。長寿大国の名と共に日本は薬服用大国となる。老人は長生きできるが、結果として寝たきり老人を生み出している。日本は世界でも稀な寝たきり大国でもある。もし私がこの薬を飲み続けていたらどうなるか、糖尿病と高血圧は治るが、脳の機能を失っていく、認知症予備軍だ。脳の機能を失えば、人は廃人となり、生きる人間から生かされる人間に変貌し、長生きするかもしれないが、生きていく楽しみを一つ失うことになる。若いうちに謳歌していた自由という権利だ。

日本は世界有数の“薬服用大国”、薬剤師が警告する「飲み続けると危ない薬」

なぜ医者はたくさんの薬を処方するのか?日本が“薬漬け大国”になった「意外な理由」

この1週間後、糖尿病専門クリニックに診察してもらう。薬を1週間止めてどうだったか?血糖値のHbAlcは7.6%から6.4%に下がっており、血圧は140/102mmHgから131/90mmHgに改善されている。体重も減り続けている。もはや薬は止めたいと医者にお願いした。唯、睡眠継続剤ベルソムラは1ヶ月分処方してもらうことにした。高血圧、高血糖は頻尿による睡眠障害が原因で、身体的ストレスが引き起こしていたと思われた。実際、眠れるようになってから体調が良くなった。この薬も漫然と飲んでいると副作用がある。睡眠障害が改善されるまで飲むことにした。

歳を取ってきて分かったことがある。薬が以前より効くようになった。2018年5月発行の厚生労働省の高齢者医療適正使用指針によると「高齢者では薬物の最高血中濃度の増大および体内からの消失の遅延が起こりやすいため、投薬に際しては、投与量の減量や投与間隔の延長が必要である。したがって、少量(例えば、1/2量~ 1/3量)から開始し、効果および有害事象をモニタリングしながら徐々に増量していくことが原則となる。特にいわゆるハイリスク薬(糖尿病治療薬、ジギタリス製剤、抗てんかん薬等)の場合は、より慎重に投与量設定を行う。」とある。正に高齢者は薬の効き具合を測りながら投薬しなくてはならない。私は今回、糖尿病治療薬の量を増やされ、効き過ぎたと思われる。また降圧剤は利尿剤を併用すると血圧が下がり過ぎると注意書きにあった。私に処方された血糖値を下げる薬のSGLT2阻害剤は利尿作用を特長とした薬で、元々併用できなかったのではと疑われた。途中で追加された糖尿病治療薬メトホルミンは、利尿作用を有する薬剤(利尿剤、SGLT2阻害剤等)との併用により脱水から乳酸アシドーシスを起こすことがあるとしている。乳酸アシドーシスとは、胃腸症状(悪心、嘔吐、腹痛、下痢等)、倦怠感、筋肉痛などの初期症状から始まり、過呼吸、脱水、低血圧、低体温、昏睡などの症状へと進行する致死率の高い疾患だ。睡眠薬のラメルテオンベルソムラについては、本剤の影響が翌朝以後に及び、眠気、注意力・集中力・反射運動能力等の低下が起こることがあるので、自動車の運転など危険を伴う機械の操作に従事させないように注意することとある、この薬を二重に飲んで車なぞ運転できないではないか?尚、降圧剤は酒もめまいや動悸などの副作用を強めるので薦めない。酒なしで残り少ない人生に何の喜びがあると言うのだ。安に処方された薬を信用し、飲むと様々な問題を誘発していく。我々高齢者は医者に甘えず、自ら体を守る術を習得すべきだ。一番いいのは薬に頼らない体を作るべきなのだが、それは理想論であり、どうしても高齢化とともに体にガタがくる。この時に冷静に弱ってきた体の機能に向き合い、最小限の薬で済ます勇気がいる。少しでも副作用が本来の薬の効能を越えていると判断した時点で投薬は止めるべきだ。自分の命を守るために。医者が何と言おうとも。それには処方された薬をネットでよく調べ、理解しておくのがベストだろう。これは歳を取れば尚更だ。薬は決して神様のように全てを救ってくれるとは限らないのだ。

参考資料:多すぎる薬と副作用 高齢者と薬の副作用 高齢者の薬に関する注意点 ふらつきなどの副作用・多すぎる薬 白内障手術で眼圧が下がる 高齢者の糖尿病の目標が決定 低血糖を避けながら血糖コントロール 血圧正常値はいくつ?健康への影響や高血圧や低血圧のリスクも解説 高齢者の医薬品適正使用の指針

母はなぜ?

先月、早春の穏やかな日に母が亡くなった。今年、府中の郷土の森の梅はひときわ見事だった。母にひと目見せたかった。花を二人で愛でたのは、2年前、飛鳥山の桜が最後だった。カメラに向かってニコリと笑って、指でピースがお得意のポーズだった。既に心疾患から車椅子生活を余儀なくしていた。昨年末、施設でろくに歩きもできないのになぜか車椅子から立ち上がり、少しでも歩けたのか?転んで大腿骨を折った。もはや心臓も腎臓も弱っており、輸血の必要な人工骨置換手術ができなかった。痛みに耐えかね、衰弱し、食事を拒否する。死出の旅路を選んでしまったようだ。それでも2ヶ月踏ん張った。6月で94歳になるはずだった。転んだのが結局致命傷になった。なぜ母は車椅子から立ち上がり、歩こうとしたのか?転ぶことがなければもっと長生きできだろうに。

母は7年前、初夏の夕暮れ時に池袋の家に歩いて帰る道で心筋梗塞に襲われる。倒れた時、道ゆく人に助けられた。血だらけ、瀕死の状態で救急車によって病院に担ぎ込まれる。応急処置を受け、一命をとりとめる。既に87歳、もうダメかと思ったが、蘇った。ところが、やっと元気になったと思ったら、胆嚢が詰まり、カテーテル手術。腎臓が弱くなり、昨年末は尿毒症になりかけた。最後は乳癌にもなっていた。この間、転んだのは三度になる。その都度病院に担ぎ込まれ、入院し、治療し、帰ってきた。私は不死鳥と呼んでいた。人騒がせな母とも呼んでいた。母が倒れた時、私は長野にいた。その年末、長野の会社を辞め東京に帰ってきた。母のためでもあった。母は病院の味気ない食事と生活が嫌いだった。池袋のデパートでの食事が好きだった。家には私の姉になる娘とその子である孫と飼い犬が待っていた。入院時の合言葉は池袋に帰ろうだった。いつも歯を食いしばって耐えていた。苦しいのにいつも微笑みを忘れることはなかった。最後は仏のようだった。つくづく母は強いと思った。

母は認知症にはかかっていなかった。”とし”なりのボケ具合に過ぎなかった。終始お金のことを気にしていたし、家族の負担も気にしていた。私は東京で再就職した会社を3年前に定年退職し、月1度の母の病院通いの運転手になった。診察の後は必ず池袋のデパートでの食事。母の好きなものを姉や姪と一緒に食べ、楽しい時を過ごし、家まで送っていた。母は昨年の春、家の中で最初の転倒で大腿骨を骨折する。病院で手術するも思うように歩けなくなった。その頃はまだ手術ができた。歩けなくなった母は施設に入ることになる。施設は池袋の家の近くで、すぐにでも戻れると本人は思っていたようだ。最後の食事の際も歩けるようになったら家に帰れるからねと言った。母は聞いていた。そのくらい元気だった、気持ちだけは。

母は昭和という激動の時代、戦争の中で育ち、戦後の混乱から父と共に高度経済成長と共に生き、子を育て、孫の面倒をみて、最後はコロナに翻弄される人生を送った。母は地方都市の町なかで生まれ、明るい町なかで過ごすことが何より好きだった。子供の頃母の実家に行く度によく買い物に連れて行ってもらった。私のためというより母の自由な時間を満喫するためのものだった。父は技術者で、日本の技術立国を夢み、常に新たな材料を求め、生きていた。母が家計を守っていた。父は現役のまま倒れ、母が看取った。父の死は日本の高度経済成長の終焉を迎えた頃で、父は中国の勃興と日本の凋落を知らずに逝った。バブルは弾けたとはいえ、余力がまだあった時代だった。私は両親の期待外れ、希望する学校には入れず、二流の人生を送った。親のコネで就職し、警察のお世話にはならなかったが、結局親の恩に報いるような身分には遂になれなかった。父が亡くなり、コネの糸が切れた時点で会社を辞め、新たな道を歩き、やはり挫折する形で、会社生活を終えた。50歳でガンになり心が折れた。母から怒られた。親より早く死ぬのは親不孝だ。母の叱咤のお陰か知らないが何とか生きながらえた。

私はバブルの申し子のようで、給料はほぼ遊びに使っていた。貯蓄はほぼ”0”。母に金を家に入れろと叱られ、毎月生活費として支払った。これが私が定年になった時、満期として返ってくる。母は年金保険として積み立てていてくれた。遊び人の私に結婚しろと煩かった。見合いの話をしつこく持ってきた。嫌気がさし、自分で社内で女房を見つけたのだが、女房が一人っ子の理由で反対した。最後は父が推してくれ、結婚できたが、結婚後、アパート暮らしの私に史上最低の金利時代に突入した時、家を建てろとお金を渡してくれたのは母だった。

父は滅多に説教を打つ人間ではなかった。ただ、母を泣かすことはするなと言っていた。義父は母が倒れた時に早く行き面倒を見よと言っていた。もう父も義父も亡くなっている。義母も早くにこの世を去っていた。私が母のために最後の時を迎えるまで尽くしたのは、両方の父の頼みを聞いた母は唯一の過去を繋ぐ”えにし”だった。母がいなくなって私と過去を繋ぐしがらみみたいなものが全てなくなった。余生は”家”に縛られることなく生きられるのではないか。母の親戚も遠く、兄弟も最早多く亡くなっている。親戚とは何なのか?血のつながりとは何なのか?生活空間を別としている中で急に密な関係を構築できるのだろうか?最早関係は空虚になり、離れていくのは道理に違いない。

母は朝起きたら雨の日以外、窓を全部開ける。寒いも暑いも関係ない。まず開ける。寝てられない。寝坊は許さない。夜は早く寝ろと煩い。口癖は”可惜馬鹿は起きて働け”だった。母が死の床に就いた時、私は自然にこの言葉が口に出た。”可惜馬鹿は起きて働け”母にこれ以上苦しまずゆっくり眠って欲しかった。私も直ぐそばに行くのだからと告げた。もう私も既にこの世にお別れをする年になっている。この世に未練もなくなってきている。母の元へ行く。

母は葬式はいらない。家族に看取られてもらうだけで良い。この世を去る時、讃美歌を唄って送ってくれるだけで良いと言ったことだけは記憶にある。施設に入り、同年齢の友人や親族とも疎遠になっただけでなく、子供達に負担を掛けさせたくないという気持ちの現れでもあったろう。思い起こすと父は必ず神棚に祈りを捧げていたが、葬式は仏式を希望した。我が家は特定の寺の檀家にはなっていないが、父には葬式を挙げていただいたお坊さんより戒名をもらい、位牌に刻んでいる。葬儀は母が取り仕切り、墓は都の墓地にある。父と母で建てた墓。姉はクリスチャン、兄は神道系の宗教徒。私は全く宗教に興味はない。日本の仏教は葬式仏教と言われる。亡くなると戒名、位牌、そして葬式と共に仏壇が待っている。全て莫大な費用が請求される。母は父が亡くなった時、全てを成し終えて、自分にはもう結構と思ったのかもしれない。コロナ禍の中で人を集めるのが忍びなく、家族葬の流れができたことも否めない。戒名とは仏教に帰依し、仏教徒になるため名を改めたことに由来し、決して死んだから付けるものではない。仏教徒でなければ戒名はいらない。位牌は元々仏教にはなく、儒教からきた。仏壇は亡くなった方のためにある訳ではなく、仏のためにある。故人を偲んで仏壇を設け、お祈りするのはお門違いだ。戒名をつけるのであれば生前であり、仏教に帰依してのち、仏の弟子として自らの葬儀に向かうべきなのだろう。

母は歩けるようになれば家に帰れる。この施設から出られ、日常生活を取り戻し、自由に好きなものが食べられる。家には好きな孫と犬が待っている。施設に払う家族の金銭的負担も軽減できる。もはや大腿骨を折ってボルトが入って思うように動かなくなった足、体重を支え切れない細い手、失われた体力を考えなかった。それより、このまま寝たきりになりたくなかった。母は人に生かされるより生きようとした。いつものように朝、窓を開け、外の空気を入れる。いつもの台所に立ち、好きなものを作り、子と孫にご馳走する。一緒に笑い食べる。散歩に行き、変わりゆく池袋の街並みを眺める。何でもない日常に戻る。それだけ考えていた。母にとって寝たきりで長生きをするより、自分の望み通りに自ら生きることこそ意味がある。しかし、これは叶わぬ夢だった。車椅子から立ち上がり、一歩を踏み出すのが精一杯だった。

私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません、死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています。

私は朝起きるとカーテンを開け、雨が降っていない限り窓を開ける。空から母が笑って私を見ていてくれる。私も遅かれ早かれ、その元に向かう。死が近かろうが、遠かろうが気にしない。私の残影は娘たちにつながる。それだけでいい。私は与えられた生を全うする。山に登る、旅に出る。未知の世界に舵を切り続ける。なお生きよと母の声が聞こえる。死は幻である。今生きていることが全てだ。死は無であり、自分にとって価値はない。生にこそ価値があり、死後の世界をとやかく言うべきものではない。葬式に金をかける必要はない。その金は子供達のものだ。自由に使いなさい。私も風になる、母のように。

醤油に秘められた歴史

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国破れて 山河あり 城春にして 草木深し 時に感じ 花にも涙を濺ぎ 別れを恨み 鳥にも心を驚かす

人類は愚かにも戦争を繰り返してきた。人類の歴史は戦争の歴史でもある。人は自らを守るために国を作る。国を律し秩序を守るためにを作る。この法律は自国にとっては絶対で正義である。だが、自国の正義は必ずしも他国はとって正義ではない。にもかかわらず一方的な自国への忠節が他国攻撃の後ろ盾になる。資源や領土を奪っても自国のためであれば構わない。他国の人間はいくら殺してもいい。罪は問われない。人が一人殺しても罪だが、国が行う大量殺人は正義。全て自国の正義の名の下に戦争を繰り返す。今も殺し合いは続いている。戦禍から逃れた人々は安住の地を求め国外へと向かわざるを得ない。Exodus。また安住の地を目指して…

朝鮮半島の三国時代を彩った高句麗百済が滅ぼされて1400年以上の時が過ぎた。難を逃れ日本に渡った人々は4〜5千人。海を渡る逃避行は大変だったろう。飛行機もフェリーもない時代だ。泳いで渡れる距離ではけしてない。日本に桃源郷を作れたのだろうか?日本で平和に暮らすことができたのだろうか?生きて故郷に戻ることはできたのだろうか?受け入れた我々は様々なGIFTを頂いた。味噌。これはかけがえのないになった。時が流れ、1279年によって滅ぼされたから醤油日本酒を新たに作る技術を僧侶が日本に運んできてくれた。我々の文化は自らのみでは生まれ得なかった。特に食の文化は人類の長年培った叡智から生まれたことを忘れてはならない。食は食材のみではできない。を介して初めて伝わり、育むことができる貴重な宝である。

今もウクライナ戦争の収束が見えない。人間の奢りは戦争という形で繰り返す。文明や科学技術の進歩は戦争を助長するものなのか?平和とは自国のためだけにあり、戦争によって自国が勝ちとるものと人類は今も信じているのだろうか?。自国のために他国の人間は殺すべきと思っているのだろうか?我々もかつて戦争を起し、敗戦により全てを失った歴史を持つにもかかわらず、今の国民の多くは軍備増強に賛成のようだ。また戦争に突き進むことを厭わないのだろうか?戦争で失うものは決して小さくはない。今や先人のGIFTさえ失わざるを得ない瀬戸際に立たされている。これは市場原理に従わざるを得ない悲しい性にも起因するのだが。会話が失われた時、戦争は起きる。武器を持つ前にしなければならないことがある。

醤油なしでは寿司は食べられない。鰻の蒲焼きは醤油抜きではできない。蕎麦もつけ汁のベースは醤油。秋刀魚の塩焼きには醤油、納豆にも出し醤油、卵かけご飯にも醤油、天ぷらにも醤油出汁。醤油なしの和食はありえない。そして、今や醤油は日本ばかりか、世界中に香味づけ調味料として使われている。英語ではSoy sauceと言うが、このSoyは日本語読みの醤油からきていて、大豆を意味する。醤油が元の大豆を意味するまで認められたと言うこと。しかし醤油を醤油たらしめるのは大豆のみにあらず。実に他の材料と作り方のに隠されているのをご存知だろうか?

醤油には大豆以上に小麦が含まれている。小麦は炒ってあり、芳ばしく、甘い香りづけになる。大豆は脂分が抜かれ、煮て、旨味を抽出してある。あっさりした味わいに酸味が加わり、消臭効果をもたらす。これらの材料がを使って醸造され、甘みとコクがもたらされている。熟成は8ヶ月以上になる。このレシピに辿り着くまで実に1千年の時が必要だった。だいたい、醸造技術も元々日本にはなかった。小麦も主食にはなれなかった端役。正直、小麦を挽く石臼さえ一般に普及していなかった。日本は稲作と共に発展した。米そのままのを食す文化で、小麦を食すの文化ではなかった。しかも小麦の生産に適した乾燥した大地ではなかった。は麦から生まれた。日本には元々ない、西域の人々の知恵である。もし仮に日本で醤油が生まれたとしたら何故を使ったのか?不思議に思わないか?そして、大豆からを作る術もなかった。北方民族の知恵。しかし、どうやって日本の醤油は本家食いまで可能になったのか?

紀元前3世紀には纏められた中国の周礼によると、王朝の時代、3000年前には料理に既に使われていた。干肉をで漬けた肉醤。驚くべきはこの時点で既にが揃っていた。中国の麹には5000年の歴史があるという。恐るべし。その頃の日本は有史前の縄文時代。790年という中国最長の王朝であったが、紀元前256年によって滅ぼされる。醤油の元になる穀醤が確認できるのは斉民要術1500年前(ひしお)の上澄みの醤清と言われていたとある。南北時代の北魏の時代。朝鮮では高句麗・百済・新羅三国時代、日本は飛鳥時代北魏は、西域から中国に小麦文化をもたらした騎馬民族の国々五胡十六国時代を制し、華北148年間君臨するも内乱により崩壊し、西暦534年に滅びる。日本には程遠い国だ。大陸の進んだ文化を得るには物だけではなく、技術、即ち作り、提供できる人の存在が欠かせない。中国から弥生人が米と共にやってきて今の日本に稲作文化を培ったように。文化の伝承は一重に人にある

羽黒山斎館の精進料理

中国の醸造技術を伝えたのは百済。高句麗と新羅に対抗し、生き残るためその時代の中国と日本との関係を重視し、後ろ盾にしていた。百済は4世紀前半に馬韓から発し、最盛期の4世紀後半に中国江南を征した東晋から仏教を受け入れ、日本の今につながるヤマト王権の確立に寄与した。養蚕機織り鉄器鋳造漢字文化、特に仏教6世紀初頭に日本に伝えている。仏教徒が肉を忌み嫌うため、肉醤ではなく、北魏穀醤を伝えたと考えるのが自然。全て中国山東半島を経由する。百済から山東半島は目と鼻の先、一番近い中国。百済高句麗新羅、更にの圧力に屈し、西暦660年高句麗に先んじて滅ぶ。後ろ盾としていた中国から斬られる悲劇。

1300年前、日本では奈良時代唐由来高麗由来とに分けているが、唐由来とは寧ろ北魏そして百済由来の穀醤が元であり、高麗由来は味噌高句麗滅亡後亡命してきた渡来人が伝えた。味噌は高句麗の古朝鮮語に由来する。中国に味噌というものはない。全て醤になる。汁は湯だ。高句麗は中国東北部扶餘に発し、紀元前37年には漢から独立している。5世紀に最盛期を迎え、百済滅亡後、新羅の挟み撃ちで西暦668年に滅ぶ。この味噌には麹を必要としなかった。自然発酵だった。日本独特の醤油の味わいを作り出したのが、百済からの日本酒醸造技術だ。高句麗からの味噌と百済からの醸造技術が相まって日本独特の醤油を作り出していく。

筑波の三酒

日本においてを使った醸造酒が確認できるのは古事記に記された応神天皇の時代に来朝した百済人の須須許里の天皇への献上、4世紀後半から5世紀初頭になる。延喜式によると西暦927年にはヤマト朝廷は造酒司を神社に置き、宮中のを守り管理する体制を敷く。しかし、律令制の崩壊により15世紀に下って、この役割は北野天満宮を中心にした麹座に引き継がれる。宮中から市中へ、の製造および販売まで広めることになる。は勿論。悪性の場合、病原菌になる。他に雑菌が紛れ込む場合もある。顕微鏡のない時代、良性か否か、判断は難しかった。日本に伝わった麹菌は最早中国、朝鮮でも醸造に使われていない。扱いは更に難しい散麹。日本以外では増植力のあるクモノスカビを主にして餅麹を作り醸造に使っている。散麹から安定して麹菌を作れるようになるまで、けして生優しいものではなかった。安定した麹作りを可能にしたのは平安時代末期に編み出された木灰を使った種麹の養生からになる。この木灰は、面白いことに江戸時代初期日本酒を透明にすることに利用される。木灰の殺菌浄化作用が正に日本の麹作りと酒作りに生かされることになる。活性炭の素晴らしさだ。この醸造技術が唯一の日本の技術として他の追従を許さず、今も醤油日本酒市場を瀬戸際で守っていることに間違いない。

による醸造技術の進化は百済から伝わった仏教と深く関わっていく。日本では仏教公伝から鎮護国家の名の下、寺院が拡大し、神社を本治垂迹により一体化させていくが、酒を禁ずる仏教とはいえ、神社の御神酒作りまで止める訳にはいかなかった。酒を薬と位置づけし、酒造を寺院で取り込んでいく。直接中国醸造技術に接することができた僧侶により僧坊酒を生み出し、醸造酒として完成度の高い日本酒を作り出してくことになる。北野天満宮の麹座の独占をやめさせることに比叡山延暦寺が絡んでいたことは十分納得させられる。15世紀末に奈良菩提山正暦寺や河内天野山金剛寺における僧坊酒の酒造における秘伝の醸造技術を御酒之日記が記している。米麹を極め、この麹は日本が選んだ高句麗由来の味噌の味と質までも変える。米麹を通して日本酒と味噌がつながっていく。美味くならないはずがない。

12世紀に華北から蒙古族に押し出され江南に下った南宋が北方の小麦由来のによる醤油を完成させる。首都は今の杭州、江南の南。水に恵まれた豊な水郷の街。更に江南の米を融合させた甘い紹興酒を生み出し、濃厚な米酢を編み出し、料理に欠かせない材料を作り出していく。西暦1266年頃書かれた山家清供醤油が記載されている。今も江南水郷古鎮ではこの醤油料理を楽しめる。紅焼肉は、外はプリプリ、中はトロトロの豚の角煮。有名なのは東坡肉で、北宋時代の詩人蘇東坡の名を残す料理、紹興酒氷砂糖醤油で味付けされている。日本の豚の角煮との大きな違いは濃厚な味わい。老抽と言う醤油が照りと甘いとろみを醸し出している。日本で言えば伊勢うどんのタレを思わせる、溜まり醤油。古の醤油は斯ありなん。ここで紹興酒は鰻の蒲焼における照りを醸し出す役割になる。ここに黒酢が加わり酢豚が生まれることになる。因みに私のお気に入りは紅焼蹄膀。豚の後ろ足の太腿。アイスバイン醤油煮。鶏のもも肉を豚に変えたもの。骨をしゃぶりながら、濃厚な味わいが楽しめる。これが入ったラーメンも最高。紹興酒をちびりちびり呑みながら水郷でアンニュイな時を過ごしたことを思い出す。

日本に醤油を伝えたのは入した僧侶だ。では禅宗の隆盛を迎えていた。禅宗の教えでは修行と同様にを重視する。日本に帰った僧侶はを舞台に、で学んだ料理法を元に今までの味噌を変え、新たに醤油を作り上げる。これは寺において精進料理を完成させるために必須だった。禅宗の修業と食を結びつけた教えは鎌倉時代を戦い抜く武士の心を掴む。精進料理は仏教の枠を越え、惣菜のみ食す健康食として我々日本人の心を今も掴んでいる。醤油麦麹を醸造して生まれる。醤油を最初に文献上確認できるのは西暦1568年に書かれた奈良興福寺多聞院日記になる。ただ、伝承によると13世紀末に、南宋鎮江金山寺もしくは杭州径山寺で作られていた刻んだ野菜を醤につけ込む製法を、紀州由良興国寺の開祖・心地覚心が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌として広め、この味噌の溜りを醤油としたらしい。中国には味噌はない。ましてこのようなも見たことはないが、醤を麦麹で作り、そこから溜まり醤油を醸造するのは正に中国の溜まり醤油の製造法であり、南宋の醤油醸造技法の伝播となっている。実際、日本では醤油とは言わず、溜りと呼んでいた。この溜り16世紀初頭には禅宗そして精進料理と共に日本中に広まり、各地に様々な醤油を生み出していく。これを可能にしたのは木灰を使った種麹作りにより安定して品質の良い麹が供給できるようになったこと、麹の独占と専売制がなくなり、種麹屋から自由に購入できるようになったこと、で結びついた酒造設備の大木桶を使えることになったことだ。日本酒醤油はここで結びつき、美味しさを追求していく。江戸時代中期まで中心は日本の胃袋、関西であった。

醤油溜りから淡口、更に濃口へ、様々な食事に合うように改良が加えてられていく。花開いたのは19世紀に入った江戸時代後期。広大な関東平原が小麦大豆を供給する。行徳で塩業が栄える。一方で醤油を必要とする食の文化が万能なタレを要求した。銚子には黒潮に乗って和歌山から醤油製造のプロが渡ってきた。ヤマサ醤油を生む。野田は水運を利用し、小麦、大豆、塩が手に入り易いだけでなく江戸には江戸川でつながる地の利があった。世界に名だたるキッコーマンを生み出す。ムラサキと呼ばれた赤紫色香りコク旨みが食材を活かす域に達した。やっと江戸の庶民は醤油を手に入れることになった。江戸への人口集中と市場拡大が後押ししたのはいうまでもない。関西からの下りものでは味、価格、量ともに納得できなかったのである。我々も今、この恩恵を受けることになる。この濃口醤油は醤油全体の80%を占めることになる。大量生産から海外市場が開けることになる。時代も移り、原価を下げるため小麦大豆も輸入、大豆は更に脱脂加工品となる。

今や日本の醤油市場はピーク時の54%縮小し、醤油工場は1950年6000社あったものが1/6近くに激減している。海外に活路を見出さずを得ない。原材料の大豆の93%、小麦の86%は輸入に頼っている。日本に残ったのは先人が苦労して作り上げた散麹による醸造技術のみだ。日本は敗戦により、米国に醤油市場も抑えられた。今や輸入大豆の74%、輸入小麦の49%は米国産、しかも醤油の海外市場の19%が米国向けだ。海外市場を米国に渡す日も遠くはないのかもしれない。戦争の結果として失われるものが大きいことを理解しなくてはならない。

醤油は200年も変わらず味と香りとコクと色を守ってきた。今変わらなければならない岐路に立っている。日本酒は、変わらない紹興酒を置き去りにしてイノベーションを重ね、ビール、ワインと共に世界三大醸造酒の一つになっている。醤油はこの醸造技術から生まれたソースだ。吉田ソースはミリンと醤油をミックスすることにより米国で名だたる企業になった。これがヒントになるのではないか。

参考資料:しょうゆの歴史を紐解く 醤油を使い分けると食はもっと楽しくなる 醤から醤油へ 中国の黄麹菌によるバラ麹の酒 日本醤油の起源と歴史 麹から見た中国の酒と日本の酒 日本・中国・東南アジアの伝統的酒類と麹 中国の製麹技術について  種麹(麹菌)の研究・製造 中国醤油の歴史 中国の醤油事情について 中国と日本を結んだ仏教僧 日本酒はワインと同じ醸造酒。蒸留酒や、その他のお酒との違いについても紹介 麹カビの今昔物語り 醤と豉 16世紀寺院の発酵食品づくり 酒と神仏と金融、三者の深い関係 醤油業界の現状と課題 醤油の輸出動向 アメリカ大豆の魅力 小麦粉を知る 東アジアの酒 

小笠原で鯨の咆哮を聞く

小笠原諸島父島は東京都下にも拘らず、船で1昼夜丸1日掛けて行かなければいけない。東京から世界で一番遠い東京。東京から直行便で最も遠い空港が米国ニューヨーク12時間55分。この2倍近くかかるからだ。父島には飛行機では行けない。民間空港、滑走路がない。戻りの船は3日後。船中2泊、父島に3泊、計6日最低でも掛かる。今の時代、こんな不便で非効率で不経済な旅がこの日本に、しかも東京に残っていることに驚かされる。

小笠原諸島は緯度でいうと奄美群島と変わらない遥か南の島。竹芝桟橋からほぼ1000km、若干南南東へ下る。更に下れば米国領マリアナ諸島のサイパン・グアム日本で一番米国に近い海界。直線距離で比較すると東京羽田から韓国釜山、鹿児島屋久島、北海道旭川への距離に重なる。飛行機であれば2時間程度、しかもこの時期釜山往復最安値39,049円、屋久島往復32,055円、旭川24,740円なのだが….乗る船はフェリーでクルーズ船ではない。然るに往復の船賃は屋久島への飛行機代の2倍以上になる。

船旅から民宿の予約まで、初めてなので旅行代理店にお願いした。船の往復に68,420円。小笠原より遥かに離れた沖縄でもこの時期、飛行機で往復最低14,620円5時間10分1/5の費用と時間で沖縄までの1887km、約1.9倍の距離を往復できる。宿泊費は民宿に3泊朝夕食込みで23,940円だったが、沖縄の民宿最安値で39,740円、15,800円高くなるが、飛行機と宿代で船賃以下に抑えられる。ホエールウォッチングツアー代で比較すると半日コースで父島は1日コース13,000円(10%値引き可)、半日で8,000円(5%値引き可) 、一方沖縄は値引きなしで9,500円と5,200円になる。沖縄のツアー費用は3/4で済む。トータルで見ても沖縄であれば小笠原までの船賃並みで充分ホエールウォッチングが楽しめることになる。父島へ向かうおがさわら丸の乗船率は1/3、コロナの影響はあるとしても観光に多大な費用、時間、労力を割く今の形が将来的にリピーターを増やすとは考えられない。それでも小笠原に向かう魅力は何処にあるのか?まずはこの旅を振り返ってみたい。

小笠原への旅は時間が取れる退職後の楽しみにしていたが、コロナ禍で3年近くお預け。やっとコロナも落ち着いてきたので、昨年11月に船旅を予約し、満を辞して船出。2023年2月5日(日)朝11時、立春は過ぎた。寒さは変わらないが、晴れ渡った風のない船出に絶好の日和。天気予報では晴天は明日迄でそれ以降荒れるとのこと。不安の船出ではあった。旅の予約は3ヶ月前だったので、どうしようもない。長い船旅の楽しみは太平洋を望みながら酒を呑むくらいしかない。この時期は決してハイシーズンではない。吹き荒む風と荒れる冬の海、不規則に揺れる船に晩は閉じ込められる。これが往復2日。何故この時期に?

を見るためだ。にとってはこの時期がハイシーズンになる。狙う鯨はザトウクジラ1〜3月にかけ小笠原沖縄、ハワイ、バハ・カリフォルニア近海で子育て、繁殖を行い、夏場にかけ、アリューシャンアラスカ沖でオキアミを鱈腹食べる。数千キロを旅する鯨だ。小笠原は元々捕鯨基地として米国人が渡ってきて開拓した島だ。今も子孫が残っている。同じ捕鯨基地として発展したハワイとつながる。米国人は鯨を追いかけ、数千キロの海を越えてこの島に捕鯨基地を作った。この捕鯨基地こそ日米の接点になる。ペリー提督が最初に訪れたのもこの小笠原になる。日本に捕鯨の寄港地として開港を求められ、鎖国から開国へと向かう契機となった。この第一歩が正に小笠原であった。鯨を見るならハワイか小笠原と思うのが筋ではないか。尚、1月は正月客、3月は学生の卒業旅行で混むので2月を狙っていた。第一週が狙い目になる訳だ。この時期は一年で一番寒く、ただ降水量は少ない時期、しかし、最低気温は14℃を下回らない。

ザトウクジラの魅力は大きな前ビレの躍動感と見事な尾ビレによる跳躍力だ。体長14m,30tに及ぶ身体を海から突如、宙に泳がせ、波飛沫と共に海に叩きつける。この迫力で見るものを圧倒する。鯨は今や地球上最大の生物であり、我々と同じ哺乳類、恐竜が滅びた後巨大哺乳類が地上を席巻した5300万年前に陸を捨て海に生きるようになった。新生代初期に登場し絶滅した巨大化した哺乳類の唯一の生き残り。一度は生で見たい、映像に残したい。若い頃ハワイのマウイ島へ見に行ったが、遠くに尻尾のみ見て帰ってきたことがある。写真にも残っていない。何とか宙に跳ぶ鯨の勇姿を拝みたい。その一途で父島滞在の3日間を全てホエールウォッチングツアーとした。

私はついつい焦って旅行代理店経由で船と宿泊をセットで予約したが、同じ宿泊先に泊まった学生に聞くと、小笠原海運おがまるパックが安いと言う。確かに1番の費用は船賃だ。船賃を抑えているのは小笠原海運であり、この費用を下げるにはここに予約を入れるのは筋であった。しかも現地でのホエールウォッチングツアーは自分で予約をしなければならないので、旅行代理店に任せる意味がない。もしこのブログを読まれて行こうとされるか方は是非小笠原海運の下記hpを訪ねてほしい。https://www.ogasawarakaiun.co.jp/ogamarupack/                 今回、旅行代理店の当初の見積は船往復2泊と民宿3泊2食付セットで92,000円、船中泊は2等和室になっていた。私はトイレが近いので2等寝台に変えてもらった。追加料金は8,360円、ところがおがまるパックではそもそもが同料金で2等寝台になっている。最安値は3泊83,000円がある。しかも港に近い民宿。旅行代理店に任せる前に船会社を当たるべきだったと後悔している。もっと言えば、船はハイシーズンではないので空いている。寝台の上下を占有できた。クーポンもあるので安いツアーを予約できる。鯨の出没する場所はほぼ限られるので、どのツアーでも心配はない。この時期小笠原は20℃そこそこなのでスノーケリングはお勧めできない。実際寒かった。

24時間の船旅は肉体的以上に精神的に堪える。何もない海の上、しかもこの時期は一年で最も寒い。乗船はJR浜松町駅から歩いて15分ほどで着く竹芝桟橋。沖縄や海外に行けない学生の手軽な旅先だった伊豆七島へ向かう港だった。久し振りに訪れてきれいになったことにまず驚かされた。変わらないのは桟橋のシンボルの帆と舵のモニュメント、そして新島モヤイ像。この日は天気が良く暖かだったので、夕暮れが迫るまでデッキで東京湾から三浦半島、房総半島、伊豆七島が望める景色を楽しめた。デッキは眺望も良く、出航時から、スカイツリー、東京タワーまで望め、更にレインボーブリッジを越え、羽田沖で飛行機の離着陸、湾外へ抜ける際は海ほたる、東京湾に迫る房総半島や三浦半島の山並み、間近に大島から八丈島まで伊豆七島を眺めながら遥か小笠原に向かうことを実感できる。

この時期海の上は南の島へ向かっているとしても寒い、フェリーは風を切って洋上を走るので、デッキの上では潮風が体温を奪い風邪をひいた。天気がいいので、船内売店のショップドルフィンで買った、つまみに島レモン酎ハイを飲んで、最上デッキでうたた寝して喉を痛めた。迂闊だった。風邪薬が足らないので往生した。デッキでは厚着にマリンジャケットは必須。波が風に舞う。午後3時過ぎには寒さに耐えられなくなり、船内に入る。そして朝明るくなるまで船内の時間となる。18時間以上が船内。どう時間を潰すかが勝負なのだが、何せコロナ禍でおいそれと他人に大きな声で話し掛けられないのが辛い。情報交換が旅の途上では命なのだが、これができない。を数冊持ってくるべきだったと反省している。船旅中、ほぼインターネットは繋がらない。携帯の充電箇所も限られているので、居場所を探すのに往生する。最上階の展望ラウンジがあるが、いつも一杯で、座るのが大変。只管座る場所探しだ。船内は清掃がゆきとどいており、トイレもシャワー室も寝室も快適だ。ごみひとつ落ちていなく、臭いところもない。空調、温調とも快適でトレーナー上下サンダルで過ごせる。但し、船内はいつも波のため、不規則に揺れており、歩き回るのがしんどい。4階から7階まで上り下りだけでも実際大変。一番助かったのは寝台で隣り合った方と知り合いになり、情報交換ができ、上陸後、ホエールウォッチングのツアーで映像を頂けたことだった。

食事は船賃にセットになっていない。高くなるのは致し方ないだろうが、酒と定食で2000円は下らない。カップ麺は船内で売っているので、安上がりに済ます手はあるが、寂しいので、基本は地酒の酎ハイ小瓶700円、島レモンもしくは小笠原パッションとした。少々高いが小笠原パッションがキリッとした味が出ていて美味い!お薦めだ。昼はデッキで飲んだ後、レストランChichi-jimaで島塩ラーメン900円、夜は小笠原パッションチューハイと長芋漬けと軟骨唐揚げ、計1,800円、翌朝は展望ラウンジHaha-jimaで朝日を眺めながらサンドイッチとゆで卵とコーヒーで750円、まあこれで十分だった。

島での3日間はあっという間だ。風邪気味でしんどかったが、何とか無事遊び終えた。南の島ではあるが、決して常夏の島ではない冬ではないが夏ではない春の気候と言える。スノケールの選択は間違い(年寄りの冷や水)で、船上から鯨を見る程度に抑えるべきだった。靴の選択を間違えた。マリンシューズが必要だった。赤島に三度も行くことになるが、サンダルではきつい。砂浜や岩場を歩かなければならない。私の選んだツアーをご紹介しよう。

  1. 2023年2月6日(月)13pm〜16pm: 青灯台から出発ホエールウォッチング:竹ネイチャーアカデミー半日コース;8,000円(クーポン5%割引あり) …下の画像をクリックするとこのツアーで見た鯨の姿が動画で見られます。

https://www.youtube.com/watch?v=-hcp5UB1azE&t=14s             ツアー開始の2時間前の11amに島に着いた。昼、ハートロックカフェで景気付けに母島ラム酒で海亀の煮込み(1,800円した)をかきこんで、青灯台に集合。因みにこのハートロックカフェはハードロックカフェのジョークかと思ったが、後でハートロックが実際に海から見られて、なるほどカフェの由来と納得。ツアーには体調悪し、喉が痛いが耐える。ザトウクジラの群れは南島からの帰り、海峡近くで見られた。mating podと言うらしい。要は雌を巡って雄数匹が沖で張り合う。空はどんよりとしている。但し風はそれほどでもない。気温は20℃だが、小型船上は波をかぶるので寒く感じる。船上でマリンジャケットマリンシューズが有用。

2.2023年2月6日(月)19pm〜21pm: ナイトツアー:竹ネイチャーアカデミー;4,000円(クーポン5%割引あり)

そんなに大きくはない。

小笠原のナイトツアーは2日目の予約だったが、ショップから、天気が荒れそうとのことで、急遽到着した日の晩に変更された。2日目には別途ホエールウォッチングの予約を入れており、中止になると思われ、然らば、体調悪しだが、無理しても良かろうと従うことにした。島に着いたばかりで余りにも無理しすぎであった。まあほぼ歩かず、車での移動なので助かったが、メインと思われる小笠原オオコウモリは決して飛び回る姿を見られる訳ではなく、ただ果物を食べている姿を見るだけになる。このオオコウモリ、島唯一の原種の哺乳類であり、ほぼ木の実のみ食すという平和な動物。小笠原は北限で、寒さに弱いとのこと。グアムでは美味として食べ尽くされ、小笠原では植えた果物を食べられるため害獣として駆除され、既に絶滅したものとみられていたが、幸運なことに生存が確認され、天然記念物として保護されるようになり、今は我々でも見られるようになったようだ。出会えただけでも幸せだったのだろう。

3. 2023年2月7日(火)9am〜16pm:嵐の中ホエールウォッチングに出発:小笠原観光1日コース;13,000円(クーポン1割引あり)..下の画像をクリックすると鯨の動画が見られます。

朝から凄い雨と風、体調最悪、流石にホエールウォッチングツアーは中止と思いきや、船長は出ると言う。既に代金を1万円以上払っている。払い戻しは効かない。致し方ない。黙って船ベリに齧り付いてクジラを見るしかない。果たして見られるかが問題だった。午前中嵐に耐え凌ぐと、船長の言う通り午後から晴れた。晴れたらザトウクジラが船に寄ってくるではないか!子鯨が、母鯨の背に乗って船の舳先近くを通ってくれた。苦あれば楽あり。何とか乗り切れた。小笠原父島の二日目。毎回鯨の姿が違うのが嬉しい。船長が言うには鯨のブリーチングは滅多に見られない。年に6回見られればいい方とのこと。ブリーチングする時鯨は吠える。ワオーと。本当か?想像するだけで身震いがする。何としても見てみたいものだ。果たして幸運は舞い降りるのか?

4. 2023年2月8日(水)9am〜15:30pm: ツアー最終日ホエールウォッチング:竹ネイチャーアカデミー半日コース;9,100円(クーポン5%割引あり)…下の画像をクリックするとこのツアーで見た鯨の姿が動画で見られます。

いい天気だが波高し
ホエールウォッチングルート(緑色)と鯨のブリーチングが見られた場所(海上の最南東の赤色部)

今日は風が強く、天気はいいのだが、寒く感じる日だった。船は波が高いため、揺れる揺れる。ザトウクジラは最終日と分かってくれる訳でもないのに、何度もブリーチングを見せてくれた。感謝感謝としか言いようがない。凄い迫力だった。3日間、様々な姿を見せてくれた。体は万全ではなかったが、なんとかクジラのおかげで乗り切れた。映像は私のだけではなく、同船者がくれたもの。神がかりの映像をいただき感謝している。これだけの映像があれば満足以外の何者でもない。

民宿について:今回旅行代理店の朝夕付いた民宿とのことで一択しかなかった境浦ファミリーを選んだ。しかし私のように足がない人間にはやはり港近くが良かったようだ。バスの便が少ないし、海が望めない店が近くにないので、薬の購入に苦慮した。ツアーの送り迎えがない場合、民宿に頼まなければならない。時間的余裕が生まれない。ツアーの後車で送られ、街歩きができない。夜の街で飲む楽しみがないと情報交換もできない。食事はおいしかったが、やはりホエールウォッチングのみの目的であれば、港近くの民宿をお薦めする

最終日2023年2月9日(木)9am〜14:30pm:出発は15時。朝9時には港に送ってもらい、のんびり港の周りを歩く。天気が良かった。内地であれば春のような陽気。ただ日差しが強いのが南国の証か?港から外れた場所にある小笠原海洋センターに行き、アオウミガメを見た。頭頂の幾何学模様がなんとも美しい。鯨と同様、陸から海へ適応した動物。卵は陸に上がって生むところが故郷を捨てきれない証拠。鯨と違い、手足が残っている。これは残したと言うのが正解だろう。体を防御する重い甲羅を水中で保持して泳ぐには手足はバランスを取るためには必要。長い手足はこのためにある。ただ泳ぐスピードを度外視しなければならない。簡単に捕まるので人間は食材にしている。メキシコのカリブ海に面したカンクンに行った時は海亀牧場があって、食糧扱いにしていた。あの時食べようなんて思うことはなかった。そういえば中国の武漢では水亀の姿煮を食べていた。日本では昔からスッポン料理をたべている。亀は昔より人間の食材として最適だったのだろうか、なんてウミガメを見ながら思った。最終日になって初めて小笠原ビジターセンターに行くことができた。小笠原の歴史を知るためには必ず訪れなければならない。小笠原諸島の歴史の面白いところは、1543年にスペイン船が最初に発見し、英国、ロシア、オランダの船が次々に訪れ、1593年になって日本として小笠原貞頼が無人島として発見しながら、手つかずで、実際は捕鯨基地として米国人が移り住み、1830年以降開拓され、米国領となるところ、米国は力づくで領土とせず、一方住人も日本領を選んでいる。平和的だ。太平洋戦争後米国領となりながら平和裡に1968年に日本に返還されている。しかし、東京から更に遠い、米国領のサイパン、グアムには飛行機が飛び、観光のメッカになっている。日本領を選んだ小笠原との差は歴然だ。正に光と影のように感じる。夏は盆踊りで賑わうと言う大村海岸を歩いて商店街に戻る。今も盆踊りが賑わうところに失われた日本の文化を島でこそ味わえる一抹の侘しさを感じる。私はオープンカフェが好きで、商店街の公園に面したパパスアイランドリゾートhaleのテラス席で地ビール「ボニンクラフトビール島レモン」を飲みながら海鮮丼ランチを頂いた。1,860円也。写真は撮っていないが、土産物屋は3軒ほどで薬屋や雑貨屋を兼ねている。地元産の島のりレモンカード(レモンバター)、ジャムのレモンパッションフルーツグアバ、単価600〜700円ほど。かさばらず、腐ったり、割れる心配もないので重宝だと思う。土産物屋ばかりの沖縄を知る人間には驚かされる質素さと値段の高さだ。小笠原の物価は正に東京並みだ。14時半には港に着かなければならないのでゆっくりはできなかった。港には鯨のモニュメントがあり、鯨の基地であり、日本最初のホエールウォッチングを始めた誇りを表している。港は去る旅人、見送る島の人々が別れの挨拶を交わしていた。

別れのとき:まず小笠原太鼓が別れのときを告げる。安全祈願と再会を願う太鼓だ。出航と同時に一斉に見送りの声と旅立つものの受け応えが港一杯に響き渡る。「いってらっしゃい」「ありがとう」「また来てね」「また来るぞ」「バイバイ」「ありがとうございました」「気をつけて」「またねー」子どもが一斉に「いってらっしゃーい」涙が堪えきれない…誰もさようならとは言わない。言えない。皆、ただ手を振る。モーターボートがどこまでもフェリーについてくる。最後は見送る若人が舳先から飛び込む、青の灯台から子供たちが飛び込む。別れに花を添える。この風景は変わらぬ儀式なのだろう。下の2つの画像をクリックすると動画で確認できます。雰囲気を味わって下さい。時は永遠です。

おがさわら丸見送りのあいさつは『いってらっしゃい』

帰りの船で:午後3時乗船なので、夕暮れが近いことから船内で過ごすことが多くなる。船内は静かだった。嵐の前の静けさか。内地は雪と予報では告げており、船外デッキは立っていられないほど風が強く、寒くなっていく。船は揺れた。到着は1時間遅れることになる。展望ラウンジHaha-jimaはお陰で空いている。荒れた海を望みながらコーヒーを啜っていた。晩御飯は奮発してレストランChichi-jimaでタラカツチーズ定食と小笠原レモン酎ハイ計2,200円也、タラのカツは衣サクサク、衣にチーズが絡んで旨味を増す。中のタラはジューシー、なかなかだ。島レモン酎ハイは癖がなく、何の食事にも合う。満足の一品。翌朝もモーニングもレストランChichi-jima、500円でサラダ、目玉焼き、パン2個とフルーツはリーズナブル。コーヒーは250円で別途。丸窓から朝の海を望みながら朝食は格別。昼は展望ラウンジHaha-jimaで最後の食事島塩ハチミツトーストとホットコーヒー1,300円、少々高いが、アイスクリームとハチミツで焼きたて厚切り食パンは味がパンに染みて美味い。尚、後でわかったが、行きと帰りで100円クーポンを使えたようで、失敗した。

小笠原の旅を振り返ってみた。鯨の迫力は沖縄、否、ハワイ以上であろう。この迫力を日本中、否、世界中に伝えたいが、しかし、そのために往復68,420円船泊2日では、他人に勧める自信がない。1/5費用時間でしかも羽田から行ける沖縄に軍配があがる。金と時間を持て余している層にはいいが、実際、金を落としてくれるのはリピーター富裕層海外の顧客だ。彼らの要求に応えるには他のリゾートに比較し、格安気軽に行ける旅にしなければならない。往復交通費を下げるには羽田から飛行機で行ける航空便が絶対必要になる。

私は冥土の土産で小笠原に向かったが、冥土の土産は一生に一度の意で、一見さんの要求に応える意味はないかもしれない。ただ、他の老人にとっても小笠原への旅はキツイ工程に違いない。増して小笠原の住民にとって大変なことだ。まだ小笠原は日本一若い島で、平均年齢が38歳と信じられないが、医療生活老後を考えた時、交通の便は解決しなければならない。2,583の島民のためにも交通の便の改善は必至だ。常々思うのだが、他国と領土問題でも揉めている竹島や尖閣列島は無人島だ。北方領土についてはロシア人が住んでいる。寧ろ、今、国境に住む国民の生活を保全することこそ一番の国防ではないのか。揉めることによって金が飛んでいくことより、今国境に住む住民の生活を守り、安定させる方が余程効率の良い財政投融資になる。小笠原という観光資源が一番の外貨獲得の場だけでなく就労の場にもなり、領土保全につながる。

小笠原全体を考えると父島に空港を設置し、ハブ空港とすべきなのだろう。洲崎に海軍の空港跡地がある。世界遺産の島である。新規開発は難しい。拡張して滑走路とするのが間違いない。飛行場ができたら、周辺と結びつけた観光開発も必要だ。硫黄島を島民に返還し、第二の観光地として解放すべきだ。滑走路もある。飛行機で父島、沖縄、サイパン、グアムをつなげることにより新たなエコツーリズも提案できるのではないか。観光は平和の象徴だ。これは島民の夢でもある。そして島こそ平和の象徴だ。日本の戦争は島を中心に展開された。2度とこの悲劇を繰り返してはならない。

レインボーブリッジが見えた。竹芝桟橋が見えてくる。私の鯨を追いかけた6日間の旅が終わろうとしている。海上スレスレを渡鳥が内地に向かって飛んでいく。渡鳥は島を渡りながらやってくる日本の文化も島伝いにやってきたことを忘れてはならない。今一度という原点に立ち返って我々がどうあるべきか、見直す時期に来ているのではないか。

納豆と味噌は何処から?そして何処へ?

納豆は昔もっと臭かった。食べるとすぐ分かる。納豆臭いとよく言われた。納豆臭いイコール田舎臭い。今でこそ健康食と持ち上げられて皆こぞって食べるようになったが、昔は世間一般で品の良い食べ物とは思われていなかった。我が家では仙台出身の母が納豆汁をよく作ってくれた。これがご飯に掛けて食べるより美味しかった。納豆が味噌汁にとろみやまろやかさを与え、独特の風味を醸し出す。しかも味噌汁が納豆の匂いや糸引きを抑える。一石二鳥。今でも東北の人間は寧ろ納豆汁を食べる。体も暖まる。納豆の季語は冬。テレビの関西系のお笑い番組では「あんな腐ったものよう食べますな」とまで言われたことを思い出す。あの頃、関西人はこの匂いを毛嫌いし食べなかった。露骨にこの匂いをまず嫌がっていた。いつから関西人が食べるようになったのか?匂いばかりか下品と言われた糸の引き具合も抑え、製造工程を残した清潔とは言えない藁の包みを清潔なビニルを納豆に被せた発泡スチロール製パッケージに変え、更にタレ、カラシまで付いて売り出したからに違いない。しかし、納豆の消費は今尚、東北、関東が優位。それほど東日本に定着していることがわかる。そこに納豆伝来の秘密がある。

納豆は大豆のメリットを最大限生かしている食品だ大豆はタンパク質を多く含み、畑の肉大地の黄金と評され、豆の王様。大豆の大の意味は中国語で”大きい”ではなく”本当の”という意味。豆の中の豆。納豆はこの大豆をそのまま発酵させて作られる。味噌や醤油に比べ、製造工程がシンプルでしかも大豆のタンパク質を壊さない。従って栄養価も高くなる。発酵食品なので、整腸、免疫力強化、感染症予防、解毒に効果大。納豆が愛される由縁だ。大豆は4,000年前には東北アジアで栽培されており、2,000年前の弥生時代に朝鮮半島から伝わったと言われている。日本にも大豆と同じ豆が存在したと言われているが、野生種であり、栽培まで至っていない。豆はそのまま保存が効き、煮て食べれば、敢えて納豆を作る必要もなかったろうし、一方、納豆を作る技もなかった。これは大豆を長年食し、生かす方法を知る人間にしかできない術。納豆が大豆栽培と共に西からやってきたとすれば、なぜまず関西人から食べるようにならなかったのか誰がどのように技を伝えたかここに納豆の名に隠された謎がある。

納豆の元と言われる”“が日本史上初めて登場するのは奈良時代の平城宮跡から出土した木簡。「武蔵国男衾郡余戸里大贄一斗 天平八年(736年)十一月」古の納豆の元は奥武蔵でまず作られ、大贄即ち朝廷へ貢物として一斗缶相当が奈良の都に納められたことが分かる。男衾郡高句麗からの渡来人の男衾氏の拓いた地域。男衾の名は今は残っていないが、壬生氏、更に鎌倉殿で一世を風靡した畠山氏が継いでいる。今の埼玉県寄居市がこの地である。この20年前の霊亀二年(716年)武蔵国に高麗郡が設置され、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1,779人を武蔵国へ移したと続日本記に記されている。高麗郡は今の埼玉県日高市、鶴ヶ島市全域と飯能市の中心部、川越市、狭山市、入間市の入間川以西の広大な土地になる。この高麗とは高句麗、668年に唐によって滅ぼされた。高句麗は中国東北部に発する国であり、700年に渡り中国東北部を領した、正に大豆の故郷にあたる。今でこそ東北部は中国最大の穀倉地帯だが、その時代は稲作ができず、粟、キビ、オオムギ等の雑穀が主食だった。渡来した高麗人がを作る技術を持ち、都に納めたと考えるのが筋。渡来人は語らず、物納で応えるのみ。その後もを納めているのは高麗由来の相模国のみである。相模国の高座郡は高句麗からの渡来人が拓いた地である。寒川神社は彼らが氏神を祀っている。”“は高麗から持ってきた技術で作った清麹醤(チョングチャン)を乾燥させたものに違いない。清麹醤(チョングチャン)は大豆を茹で、藁に包み自然発酵させたもの、納豆以上に強烈な匂いを発する。清麹醤の清麹とは麹なしでという意味。発酵に麹を使わない正に自然発酵の醤正に納豆。高句麗は別名を(狛)族の国としていた。神社の犬はここからきている。また後世高句麗は国名を高麗としたので、狛が高麗となった。彼らには自然発酵で大豆から味噌と納豆を作る技術があった。

とは?承平8年(938年)に編纂された和名類聚抄によると、塩 ・醤 ・未醤などの塩梅類として五味を調和するものとあり、正倉院文書の神護景雲4年(770年)や宝亀2年(771年)の記録によれば、末醤(味噌)2.5倍から4倍と高価だったとある。今の納豆とは大違いで寧ろ調味料もしくは漢方の生薬であった。中国では豆豉と呼ぶ。麻婆豆腐の味付けに欠かさない。私も中国に駐在していた時、辛く味付けした豆豉のビン漬け老干媽に随分お世話になった。欠かせない調味料。勿論納豆の匂いはしないし、決して糸も引かない。この元になったと思われる豆豉を20年前に上海の下町の市場で初めて見た。納豆の匂いがするので気が付き、買ってみた。日本円で百円ほどだったと思う。食べてみると臭みを抑えた乾燥納豆だった。私はこの時納豆は四川省で生まれたと思った。何故なら四川料理に醤、豆腐、豆豉は欠かせないものだからだ。この時はまだ納豆と豆腐、私は2つの言葉は取り違いで日本に入ったと思っていた。豆を腐らせたのが豆腐、四角く納めたものが納豆のはず。日本における道理。ややこしいことにこの言葉は標準の中国語と同じ発音。正に中国の言葉。あの頃上海の下町では凄い匂いがいつも漂っていた。屋台で臭豆腐を売っていた。臭豆腐を売りにした食堂もあった。腐った豆が豆腐でも間違いないとその時分かった。しかし、豆腐はいいとして納豆は中国にはない。生の豆豉になる。豆豉が何故日本では納豆になったのか?まず納豆のは納めるの意である。納入、納税、これは中国でも同じ意。その頃、都では豆豉高価買取都に納める豆で食い物ではなかった納豆は納めるもので、食うものではない裏返しの意があったことに気が着く。豆豉を作るためのは中国から手に入れるしかなく、誰もが作れるものではなかった。しかもあの頃の常識で臭いものは腐ったものとして敢えて食すものもいなかった。本能的なもの、見た目もある。動物の糞に見えなくもない。今も大徳寺納豆、浜納豆が作られているが、日本中に広まることはなかった。の漢字が日本に定着しなかった理由もここにある。の字は最早中国で使われていないが、日本に今尚使われ、酒、味噌、醤油作りに大事に使われているではないか。関西人が納豆を食べなかった理由もこれでわかる。然らば、何故東国の人間は納豆を食べるようになったのか?

納豆が東国で食された理由は食べ方にあった。味噌汁に入れ、納豆汁として食べた。韓国でも清麹醤(チョングチャン)は余りの臭さに直接食べない。チゲに入れて食す。テンジャンチゲになる。テンジャンメジュで作る。メジュは正に大豆を自然発酵させたもので、味噌玉にして数年かけて熟成させたもの、を使わない。自家製で、各自の家の軒先に吊るし、自然発酵、熟成を待つ。私が以前信州にいた頃、地元の方に伺った。昔は味噌は買うことはなく自分たちで作ったものだと。手前味噌とはよく言ったものだ。味噌納豆は冬場の重要なタンパク源。寒い地方にとって味噌は命、しかも納豆の臭みを消す。味噌も高句麗の言葉からきている。高句麗味噌に中国では蜜祖の漢字を当てはめていた。満州語ではミスンになる。現代の韓国ではメジュとなる。も然り、高句麗の言葉シレから。チゲは寧ろ新しい言葉になる。正に失われた高句麗満洲の言葉が今日本に生きている。高句麗からの渡来人は正に味噌汁を伝えると同時に清麹醤(チョングクチャン)を伝えた。言わば味噌汁なしでは納豆は食べられなかった。それでは誰が広めたのか?武蔵から相模にかけての坂東武士だ。源氏と結びつき、その勢力を東北まで広げることになる。坂東武士を従えた源義家は後三年の役(1083-89年)で東北遠征を行うことになる。納豆発祥の地を標榜する茨城県水戸秋田県横手では納豆を見たことはなかったであろう。坂東武士は茹でた大豆から納豆作りを見せたであろう。戦うための重要な糧になる。味噌玉は馬に乗せ持っていった。納豆を味噌と一緒に食べ、彼らは冬場を凌ぐ味噌と納豆を初めて得ることになる。彼らはただ知らなかっただけに過ぎない。納豆は兎も角、味噌玉は寧ろ戦国時代を生き残る糧を武将に与えることになる。武田信玄から織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康である。彼らが勝ち残った理由は足軽まで味噌玉を与えたということだ。今も山間部で味噌玉は作られている。戦いの時代は終わり、生きるための知恵が味噌玉として残った。重要なことは武田信玄は信州に日本一の味噌の文化を作り、伊達政宗は仙台味噌を残した。徳川家康は三河に八丁味噌を生み出した。偉大な武士とされたのは地方の人々に食の恩恵を施こしたからだ江戸末期になって江戸で醤油が供給できるようになると納豆を温かいご飯に掛けて食べる習慣が生まれる。これは臭みをものともしない江戸っ子気質から。何故ならもっと臭いくさやを食べていた。発酵食品の美味さを熟知していた。江戸っ子は納豆と読んではいたが、チョングクチャングチャグチャとして残したのではないか。日本では韓国語を擬音語で使っている。モグモグペコペコノロノロ等がある。納豆はグチャグチャにかき混ぜてこそ美味しくなる。

清麹醤(チョングチャン)を私が初めて食べたのは上海近郊の昆山であった。4年ほど前になる。昆山は台湾が開発した町だったが、韓国系大企業も進出しており、韓国料理店が数ヶ所あった。日系企業は少なく、日本料理店は少なかった。昆山は日系の衣料関係の工場が昔は進出していたが、人件費の高騰から撤退を余儀なくしていた。その中で面白いことに韓国語と日本語を話す人々が日韓両方を顧客にしていた。彼らは中国の少数民族の朝鮮人である。ほぼ遼寧省吉林省出身だった。朝鮮人遼寧省には25万人、吉林省には120万人住んでいる。この地域は旧満州になる。日本との関係も深い。朝鮮族も満州族も日本語がうまい。同じ言語系列にあたるから不思議はない。日本語も韓国語も中国の東北部が言語学的に起源とナショナルジオグラフィックに発表されたのは昨年である。9000年前の話になる。高句麗発祥の地であることは何か因果を感じる。まして味噌や納豆の発祥の地でもある。彼らの店のメニューは韓国語と日本語で表記されている。清麹醤(チョングチャン)は日本語で納豆汁になっていた。韓国料理に納豆汁があるとはその時知らなかった。納豆は日本独自のものという意識も大きかった。嬉しかった。中国で納豆汁が食べられる。中国人はまず食べないので、日本人向けに特別に作り、提供してくれているのかと思った。感謝の気持ちで一杯になった。全く故郷の味。清麹醤(チョングチャン)とは全く気がつかなかった。キムチと豆腐が味噌と納豆に絡み、とろみそしてまろやかさもあり、豆も納豆そのもの、納豆特有の香りも漂っている。日本の納豆汁より断然美味かった。韓国に何度も出張で行っていたが、食べたことがなかった。昆山では訪ねた店では納豆汁を必ず出していた。今思うと、本当の納豆汁とはこういうものかと納得してしまう。

日中韓、国家間は得手して上手くいかない。国はお互いに意地の張り合いを繰り返す。権力者は常に保身のために大衆に国力を必要以上に誇示しなくてはならない。国内の政治が上手くいかなければ国外の危機を煽る。常套手段。それでもダメなら国内の粛清に及ぶ。権力者が独裁者として国を治められたとしてもたかだか数百年に過ぎない。人類の文化の蓄積は数千年に及ぶ。国の盛衰を超えて人類は文化を蓄積してきた。様々な食や文化の継承は国境を越え、結果的に人類の繁栄に寄与してきた。私は高句麗扶餘城近くの顧客に訪問したことがある。遥か14年前。天津でお会いした朝鮮族の方だった。名も忘れたが、日本語はペラペラだった。今の吉林市、空港に降りると一面のトウモロコシ畑。中国一の生産地。規模が違う。越えると市街地。松花江が流れていた。朝鮮民族共通の聖地白頭山の源から発し、黒竜江省ハルビンからアムール川に注ぎ込み、ロシアに入って、ハバロフスクからオホーツク海に辿り着く。吉林市にはこの川に架かる豊満ダムがある。貯水量約100億t総出力100万kw。堤防は幅1080m・高さ90m、実は私はこの存在を知らなかったのだが、彼が見せに連れて行ってくれた。実に日本が旧満州時代に作った壮大なダムだった。建設後70年が過ぎても風雪に耐え、川の安全を守り、電力を供給し続けたことに驚かされた。彼がもう一ヶ所紹介したのが、高句麗の扶餘城跡だった。ここに朝鮮人の故郷があると言っていた。満州高句麗も今はない。しかし、ダムは尚稼働し、電力の供給、飲用水、農工業用水の確保だけでなく、17万haの灌漑により稲作増産を可能とした。稲作のできなかった高句麗の地に寒冷地に強いジャポニカ米が導入され、今や旧満州の地の米の生産量は日本を凌駕するようにまでなった。中国は稲作において世界一の座に着いている。高句麗の遺跡は朝鮮人に民族の誇りを残している。高句麗が我々に恩恵を与えてくれた大豆は世界の農産品になっている。世界の大豆生産量は年間約3.2億トンに達している。その用途は主に搾油。 国別では、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンの南北アメリカ3国で世界の生産量の約8割を占めるようになった。これからも国の盛衰は繰り返されるが、民衆に求められるものは守られ、残り、広められていくのであろう。あの納豆でさえ世界の市場規模は、2021年から2025年の予測期間中に8.46%の成長率で推移し、13億9,000万米ドルの市場成長が見込まれているという。驚くべきは韓国にも納豆が逆輸入され、健康食品として売られていることだ。日本独自の納豆菌が清麹醤(チョングチャン)の製造工程を短縮し、更に臭みと糸引きを抑える技術が認められたからだろう。食は止まらない。進化し続ける。

参考資料:妄説 納豆の歴史 起源は?発祥は?知られざる納豆の歴史 第6回 日本の発酵大豆とご飯にかける納豆 高座郡と渡来文化 納豆の発祥は日本or中国?豆腐と深い関係があった! 大豆にはどんな歴史があるの? 日本人と大豆~その歴史的変遷から 古くはアジアだけで栽培、食されていた大豆 醤と味噌 古代における「䋬」の復元 日本の納豆に似ている生豆豉について ベストフード「チョングッチャン(清麹醤)」 韓国の調味料チョングッチャン(清麹醤) 韓国料理の味を支える伝統発酵調味料と塩の関係とは? 大豆由来と穀物由来が融合?みそ汁の起源をたどる 韓国と日本のお味噌の違い。 テンジャンへのこだわり セムピョ食品イ・センジェ常務 韓国のテンジャンチゲと日本の味噌汁は同じルーツですか?どちらの起源が先ですか? モンゴル帝国と奇皇后、高麗醤、大豆味噌文化を共有する北東アジア みそは紀元前700年前に誕生。中国誕生説って?  メジュ(味噌玉麹)・木簡…高麗の生活・租税くっきり メジュから作る味噌 「豆味噌」「豆麹」ってなに?ほかの味噌と何が違うの? 戦国武将たちも愛したみそ 「満州国」における豊満水力発電所の建設と戦後の再建2007-05南 龍瑞著                    平成25年度海外農業・貿易事情調査分析事業「中国のコメ生産・消費・輸出状況等(ジャポニカ米を中心に)」2014-03日本総合研究所総合研究部門 【納豆市場2022】フレーバー・ひきわりのトレンド継続 中国向け輸出も好調

ウクライナから平和を叫ぶ

2022年8月6日、日本初公開となったドキュメンタリー「ウクライナから平和を叫ぶ」を見た。東京渋谷円山町、映画館はマニアックな店の3階、1階では、少女たちが踊り唄っていた。日本は平和だ。145の観客席は新型コロナの再蔓延の所為か、空席が目立っていた。閑散とする劇場で。日本で今のウクライナの状況を理解する難しさが分かる。日本から8000km離れたウクライナで、2月24日にロシアの軍事侵攻で始まった戦争は泥沼化し、今も続く。最早半年近く経ち、終わりの見えない戦いにうんざりし、忘れ去られようとしている。戦力の圧倒的優位なロシア軍に対しウクライナ軍の想像を絶する踏ん張りと欧米軍事支援がこの戦争の先を見えなくしていると言えば聞こえはいいが、実際は違う。この映画を理解するにはウクライナの戦争が今に始まったことではないこと、ロシアによる軍事侵攻は当然の成り行きだったことを先ず理解しなければならない。しからばどうすれば平和がウクライナに訪れるのか?このドキュメンタリーは見るものに厳しい課題を与えてくれる。

我々が理解するために、例えを言おう。政権の在り方に不満を持った北海道が日本から離脱し独立を図ろうとする。当然、政府は独立派を反政府勢力とみなし、攻撃する。独立派は自らを守るためロシアに支援を求め、ロシアは応え、守るための戦いを仕掛けてくる。日本はもはや戦場と化す北海道の独立戦争を正とすれば、ロシアの支援は北海道にとっては大きな支援になる。沖縄を仮定すれば、親中を選択し、中国支援の元に独立を求める場合も考えられる。全て大国の思い通りとなる。誤解しては困るが、これはあくまでも仮定であり、露中との言語、文化、歴史的繋がりが無ければこのスキームは無理なことと付け加えておく。更に実際の問題であれば、中国に対する香港、台湾、チベット、新疆ウイグルの独立運動が分かり易い。我々はこの地域を支援するが、中国にとっては反政府勢力となる。将にこれがウクライナルガンスクドネツククリミアになる。三地域は全てロシアとの繋がりがウクライナ以上に深い。この地域の独立運動に対し、黙っていたウクライナが力で抑え込もうとした。これが現大統領の方針転換だった。これを待っていたロシアは軍事侵攻で応えた。両国単位で見ると往々にして見誤るものだ。要はロシアは地域紛争に乗じて軍事侵攻へとつなげていく。この構造を理解しなければならない。

2014年4月17日分離独立派による行政庁舎などの襲撃事件が起きたウクライナ東部の都市を示した図。(c)AFP

チェコ人のカメラマンであり、このドキュメンタリーの監督であるユライ・ムラヴェツ Jr.はソ連崩壊後、独立した国々の現状を知るため各地を訪れた。これが「ウクライナから平和を叫ぶ」の元になる。彼は第三者として、政治的なことは何も言わない。ただ現状を伝える。ドキュメンタリーは2013年ユーロマイダンのシーンから始まる。首都キーウの独立広場における体制側の親露政策否定親EU政策への舵切りを求めたデモ、対する政府側の弾圧を伝える。これがウクライナ内戦へのプロローグとなる。2014年この革命は成功する。遂にウクライナは親EUへとシフトする。親露旧体制側であったルガンスクドネツククリミア共和国の独立宣言は同じ2014年である。内戦が始まる。8年前だ。ロシアの国家戦略である親ロシア地域支援名目の軍事侵攻は、ジョージアへ2008年、アゼルバイジャンへ2020年、ほぼロシア側が勝っている。ウクライナに対しても軍事侵攻は時間の問題だった。ロシアは機の熟するのを待っていたに違いない。ウクライナ侵攻理由がルガンスクドネツク両共和国の要請に応えたものとして国際法違反を逃れていることからも分かる。単なる軍事侵攻ではない。主体は独立宣言をした三カ国なのだ。ウクライナは国内紛争ながら地の利を生かせない理由が分かるだろう。ウクライナはロシアだけでなく内なる外国とも戦っている。

このドキュメンタリーに出てくるのは普通の人々、特別ではない、ただ、共通しているのは平和を望んでいる人々だということだ。平和は戦禍に苦しむ人間が求めるものであり、国以上だ。何故なら彼らは平和が来ない限り命の保証はない。戦争の惨禍を受けるのは寧ろ老人や子供だ。何故なら戦う兵士には武器がある。武器を持たなく、逃げ惑うのは弱い老人や子供だ。国破れて山河ありというが、停戦し、そこに住む人間の意思によって統治のあり方を今一度確認すべきではないのか?国への地域の帰属を争うから平和は永久に戦禍に苦しむ人間にやって来ない。罪がないにもかかわらず、戦争に苦しみ、逃げ場のない老人や子供を先ず救うべきではないのか、兵隊をお互い引き上げ戦争によって苦しんでいる人間の声を聞くべきではないのか。平和は彼らのものだ。このドキュメンタリーを見てそう思わざるを得ない。

奇しくもこの日は広島に原爆が落とされた日だった。77年経っている。しかし、この日を我々は忘れていない。何故か?戦争とは罪なき人々まで殺される恐ろしさを原爆が教えてくれたからだ。戦争を選択するのは国の特権だ。しかし、得てして殺されるのは普通の人々だ。戦争は力の弱いものから命を奪い去っていく。国に戦争のために駆りだされた人々も普通であれば人を殺すこと必要のない生活を送っている。戦争は人に人を殺すことを強いる。殺す相手も普通であれば人を殺すなんて考えも及ばない人である。

https://youtu.be/_d8C4AIFgUg

/https://bb-maybe.jimdofree.com/songs/war-edwin-starr-lyrics/

エドウィン・スターが1969年ベトナム戦争に反対する唄を米国でヒットさせた。戦争と言う歌。紹介する。歌の内容はエリーさんのHPから拝借した。戦争の悲惨さを一番表した曲だろう。グラミー賞を取っている。

戦争、ああ そうだ!何のためになるんだ?良いことなんてひとつもない 戦争、ああそうだ!何のためになるんだ?良いことなんてひとつもない もう一度言おう、みんな!戦争、ああ 気をつけろ!何のためになるんだ?良いことなんてひとつもない 聞いてくれ 戦争を俺は嫌悪する 無垢な命を奪うからさ 戦争で数千人の母親たちが涙を流す 息子たちが戦争に赴き命を落とすのだから だから言っただろ 戦争、ああ ああ神よ 何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない、もう一度言おう  戦争、ああ 主よ、主よ、主よ 何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない聞いてくれ!戦争 それは悲しみ以外の何ものでもない  戦争 葬儀屋だけの友人だ戦争は人類すべての敵 戦争のことを考えると頭がおかしくなる 戦争は若い世代に不安をもたらした 徴兵そして破壊を 死にたい奴がいるか?ああ! 戦争、ああ ああ神よ何のためになるんだ? 何も良いことなんてひとつもない、言ってくれ 戦争、ああ ああ、そうだ何のためになるんだ?何も良いことなんてひとつもない 聞いてくれ戦争 それは悲しみ以外の何ものでもない戦争 そのただひとりの友人は葬儀屋 戦争は多くの若者の夢を打ち砕いた 彼らに障害を残し、冷酷で卑劣な人間にした 戦争をするには人生は短く貴重すぎる 戦争は命を与えることはできない命を奪うことしかできない、ああ!戦争、ああ ああ神よ何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない、さあ言おう戦争、ああ 主よ、主よ、主よ何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない 聞いてくれ 戦争 それは悲しみ以外の何ものでもない 戦争 葬儀屋だけの友人だ 平和、愛、そして理解 教えてくれ、こんなものが入り込む余地は今はもう無いのか? 奴らは自由を守るために戦わなければいけないと言うでも主はもっといい方法があるはずだと知ってるさ 戦争、ああ ああ神よ 何のためになるんだ?教えてくれ、言ってくれ 戦争、ああ ああ神よ 何のためになるんだ? 立ち上がって叫ぶんだ 何のためにもならない

ウクライナの戦争の悲惨さは、優位であろうとなかろうと、戦争が続けば続くほど、国内を疲弊させると言うことだ。確かに軍事侵攻してきたロシアが悪いが、戦場はウクライナ国内だ。今やロシアは東から南へ戦いの場を拡大している。ウクライナ全土が戦場になることが考えられる。戦争前に戻す条件で停戦協定を結ぶべきだ。ルガンスクドネツククリミア共和国の独立を認めるべきだ。最早心が離れた国民は戻って来ない。武器を捨て、荒廃した国土をまず元に戻す、避難した国民を国内に戻し、復興支援を頼むのが先決だろう。戦争は何も生み出さず、国をただ荒廃させるだけなのだから。愛国心よりまずウクライナの子供たちの将来を考えるべきだ。安心して生きられる国を再構築しなければならない

それでも熊と戦うのか?

今、日本はロシアとの対決姿勢をアジアで唯一鮮明にしている。これは米国の意向に従った陽動作戦の一つに過ぎないと信じる。日本は自国を守ることを米国に委任しているから仕方ない。しかし、忘れてはいけない、熊の恐ろしさを一番知っているのは戦った猟師だ。日本が最後に戦った国はどこか?米国でも中国でもない、今はロシアとなったソ連。日本が無条件降伏を世界に宣言した1945年8月15日の後もソ連は満洲、朝鮮、南樺太、千島列島に侵攻してくる。将に死体蹴りだ。宣戦布告はこの6日前、日本はソ連参戦によりポツダム宣言受諾を決めたのだが、彼らは戦闘を止めなかった。ソ連の参戦と報酬は6ヶ月前の2月に既にヤルタの密約として決まっていた。東京大空襲の前、既定路線だった。これが分かるのは関東軍を駆逐した満洲をソ連は領有せず、当時の中華民国に渡し、旅順港、大連港のみを収穫としたこと。一方、全樺太、千島列島を領有しながら、北海道には攻めてこなかったこと。米国のテリトリーである。侵攻した朝鮮半島を領有せず、一旦連合国、実際は米ソによる分割統治としたことである。太平洋戦争で相互の中立条約により日ソは戦火を交えていない。寧ろ日本は敗戦に向け対米講和の斡旋をソ連に頼み、逆に弱みを曝け出してしまう。頼む相手を間違えた。藪蛇、足元を見られ、中立条約を一方的に破棄され、火事場泥棒的に攻められる。しかし連合国側のソ連は密約に従っている。日本との条約違反も悪の枢軸国に対する連合国にとって正義。忘れてはいけない。日本はナチスと手を組んでいた。同じ枢軸国側であったナチスは独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に攻め入り独ソ戦に突入している。連合国側にとってソ連の条約違反はナチスへの仇討ちに等しい。然もソ連はドイツとの戦いで犠牲者 2700万人に及びながら勝利し、連合国としての確固たる地位を獲得している。後は戦勝国のうち分け前をどのくらいもらえるかになっていた。ソ連の違法行為や火事場泥棒を日本が裏切り行為と糾弾しても所詮負け犬の遠吠えに過ぎない。既にこの時に連合国側米英露中仏の5か国中心国連の枠組みが作られた。今も連合国支配は続いている。

ソ連対日参戦は原爆投下と共に大日本帝国の息の根を止めるに充分だった。ソ連は侵攻に総兵力147万人戦車・自走砲5250輌航空機5170機を投入してくる。対する関東軍は総兵力68万人。戦車は200輌、航空機は200機に過ぎなかった。戦力を東南アジア線戦に取られ、最早ソ連軍に対抗できる戦力は保持できてはいなかった。連合国側は全てお見通しであった。満州は所詮日本の傀儡政権に過ぎず、自国軍はなく、日本の敗北は即満州の消滅であった。朝鮮も然り、日本の敗北宣言した日は即解放記念日となる。結果として日本側の死者は将兵約8万、民間人約25万、捕虜約60万、散々たるものだった。

ソ連対日参戦の敗北の意味するものは、日本が最早死に体にあったからだけではなく、ソ連のナチス撃破以降、破竹の勢いの強さにあった。その後の中国国共内戦朝鮮戦争とソ連は社会主義国家の設立に成功し、アジアからアフリカ、中南米まで戦後の世界の枠組みも作っていく。世界の半分を社会主義国家として赤く染め上げる。しかし、これはソ連の社会主義という教条主義に見え隠れするロシア帝国本来の覇権主義があることを東欧の国々は見破っていく。中国もまた然り、ソ連から離れていく。更にソ連内部での経済の停滞、硬直化が進み、崩壊していく。社会主義経済の難しさがある。柔軟性のない経済は硬直停滞せざるを得ない。世界経済は既に欧米を中心にイノベーションの時代に突入していた。中央集権的な覇権主義に対してソ連内部の共和国においても反感が生じ、最早同じ船に乗らず独自の経済発展を模索する時期に来ていた。1989年にベルリンの壁は壊され、1991年に多くの共和国は離脱を遂げ、ソ連は崩壊した。しかしここで勘違いしてはいけない。ソ連は、単に覇権主義の純粋なDNAを有するロシアに戻ったに過ぎない。

嘗てのロシア帝国は世界の1/6を占める2,280万㎢の領土を有していた。ソ連時代であっても2,240万㎢の領土は確保していた。新生ロシアは1,710万㎢と栄光のロシア帝国に比べると約1/4の領土を失うこととなる。それでも世界一の面積を有する国で、次のカナダが998万㎢1.7倍になる。広大な土地がロシアにもたらしたものは豊富な天然資源。石油、石炭は世界三位の埋蔵量、天然ガスに至っては1581兆立方フィートで、全世界の1/4を 占め世界最大。 これは二位のイラン(16%)を大きく引き離している。外貨の半分は鉱物資源で得ている。ヨーロッパからアジアにまたがる大地は各地で採れる鉱物資源を安く早く大量に需要先に供給できるメリットをもたらしている。広大な大地はロシアの生きる。大地の恩恵をどの国より受けている。従って、天から与えられた恩恵を独り占めするため、時によっては、天の要求以上に戦わなければならない分けても鉱物資源の確保を重視し、供給網や市場を脅かす国には内戦を誘発し、分断弱体化させ、反政府勢力への軍事的資金的支援によって政府転覆へと誘導する。それがジョージアとウクライナであった。今、ロシアが紛争地域として抱えているのは、他にモルドバとの沿ドニエストル共和国問題と日本との北方領土問題であることを忘れてはならない。ロシアの侵略は紛争を利用する。紛争地域からの支援要請を口実に戦争を開始する。これがロシアの常套手段だ。

ジョージア1/3に及ぶ地域がロシア軍によって分断された。ソ連時代黒海の真珠と嘗て言われたアブハジア自治共和国は1999年にジョージアから独立を宣言しているが、ロシアの後押しなしではありえない話で、単なる民族問題で分断されたかと言うと怪しい。アブハジアでは45%がジョージア人であり、アブハズ人に至っては17.8%のみだった。南オセチア自治州についてはロシア内の北オセチアとの統合オセチアとしての独立が主眼であったが、ロシアからは拒否されている。2008年、南オセチアへのロシア軍増強を見たジョージア軍がロシア軍と武力衝突に及び、戦争に発展した。将にロシア得意の喉元に匕首、結果としてジョージアは敗北し、両共和国をロシアは独立を承認し、ロシア軍は平和維持を目的に常駐し、この地域のロシア化を進めている。後のウクライナ戦争とは違い、ロシアはジョージアとの全面戦争とはしていない。ウクライナはこれを見て油断した。アゼルバイジャンにおけるナゴルノカルバル自治州はアゼルバイジャンにありながらアルメニア系住民の多い地域で、長く続くこの紛争にロシアは介入し、軍隊をジョージアの各自治州同様派遣している。アゼルバイジャンジョージアが欧米向けのBTCパイプラインがカスピ海から地中海へ敷設し、ロシア経由を避けたことに原因があると見られている。ただ、ロシアは2020年アゼルバイジャンと停戦合意に至っており、自治州の縮小を認めている。全面戦争には至っていない。喉元に匕首で終わっているが、恐ろしい脅しには違いない。モルドバにある沿ドニエストル共和国もロシア軍が駐留し、睨みを利かしている。モルドバルーマニアに近づきすぎないためであったが、今はウクライナにも向いている。ロシアはクリミアと繋げ、回廊を築こうとしている。ウクライナは四面楚歌になる。ウクライナには更に厳しい締め付けが待っていた。国連が認めないとしても常任理事国のロシアは拒否権の行使ができる。

2014年ルガンスクドネツクの両人民共和国がウクライナに独立宣言した。親ロシア派による建国宣言で、歴史的に鉄鋼業の集積地で、ロシアからの労働者移民の多い地域ではあった。同様に独立宣言を行ったのがクリミア共和国で、鉱物資源の多いアゾフ海や黒海沖を抑えるためにも重要な拠点である。こちらは独立し、即ロシアに帰属を求めることになる。クリミア半島西南にはロシアの軍港セヴァストポリがあり、ここも特別市としてロシア連邦へと組み入れられる。欧米は独立を認めず、ロシア制裁に入ったのは周知のことだ。ルガンスクドネツクをロシアが独立国と承認したのはウクライナへの侵攻の数日前で、同時に相互支援協定も結んでいる。国連憲章の集団的自衛権を根拠に両国を守るためウクライナを制裁する、即ち武力侵攻を正当化するためだ。将に詭弁第三国内の分離独立を求める地域の独立を第三国の了承なしに認め、支援協定を元にその国を侵攻することは正しいということになる。ソ連時代の覇権主義が蘇った。ウクライナにとっても東部地域は重要な稼ぎ頭であり、更にクリミア半島は黒海の要所を失う意味でそうおいそれと手放すことはできない。しかし牙を剥いた熊は恐ろしい。ロシアからヨーロッパに向かうパイプラインはほぼウクライナ経由になっており、何としても抑える必要もあった。

2月24日に戦争状態に入ったロシアのウクライナへの侵略は東部ドネツクからマリオポリを陥落させ、クリミア、ヘルソンまで達している。この戦争は2014年のドンバス戦争の当然の帰結と見える。最早怒る熊の牙を抜くことはできない。ウクライナも必死に防戦せざるを得ない。NATOは全面的に支援し続けるであろう。ロシアはこの戦争により完全に信用を失う。どういう結末になろうとロシアの権威は失墜する。ソ連時代から築いてきた国連における地位は各段に落ちるだろう。国連の体制の見直しも行われる可能性まで起きている。ただ、日本の立場として気を付けなければならないのは手負いの熊に気を付けろということだ。ロシアはけして領土は拡張するが、失うことは許さない。おいそれと北方領土を言うと手痛いしっぺ返しが飛んでくる。それが熊の怖さだ。日露戦争でロシアに勝ったと勘違いしたことが、太平洋戦争の悲劇を生んだことを忘れてはいけない。熊は必ず牙を剥いて襲ってくる。そんなに甘い国ではない。今は後ろ盾となっている米国も日本に対し、米国の許せる範疇でしか安全を保障しないであろう。米国もニカラグア、ベトナム、イラン、イラク、アフガニスタンで敗北し、方向転換を図らざるを得なくなった。矩を踰えてはならない

ロシアの侵略戦争によりウクライナの民間人の死者は3000人を超えている。軍人の死者は民間人より実際少ない。この対価に値する成果を生み出せるのか?ウクライナ政府は国民に回答を出さなければならない。戦争は外交の失敗であり、戦争の前に解決しなければならないことがある。ウクライナの大統領はロシアの大統領と戦争を開始するまで会話がなかったことが最大の問題ではなかったのかということだ。一方ロシア軍の死者は傭兵を含め23000人を超えている。攻めている側の方が死者が多いことはこの戦争が割の合う戦争ではなかったことを示している。「起こりうる流血に対する全責任は、すべてウクライナの領土を支配する政権の良心にある」とロシアの大統領はこう述べてウクライナ爆撃を開始したのだが……..戦争は両国にとり悲劇以外の何物も生みださない同じ民族同士で殺し合う意味と結末をはたして両国は理解しているのであろうか?