醤油に秘められた歴史

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国破れて 山河あり 城春にして 草木深し 時に感じ 花にも涙を濺ぎ 別れを恨み 鳥にも心を驚かす

人類は愚かにも戦争を繰り返してきた。人類の歴史は戦争の歴史でもある。人は自らを守るために国を作る。国を律し秩序を守るためにを作る。この法律は自国にとっては絶対で正義である。だが、自国の正義は必ずしも他国はとって正義ではない。にもかかわらず一方的な自国への忠節が他国攻撃の後ろ盾になる。資源や領土を奪っても自国のためであれば構わない。他国の人間はいくら殺してもいい。罪は問われない。人が一人殺しても罪だが、国が行う大量殺人は正義。全て自国の正義の名の下に戦争を繰り返す。今も殺し合いは続いている。戦禍から逃れた人々は安住の地を求め国外へと向かわざるを得ない。Exodus。また安住の地を目指して…

朝鮮半島の三国時代を彩った高句麗百済が滅ぼされて1400年以上の時が過ぎた。難を逃れ日本に渡った人々は4〜5千人。海を渡る逃避行は大変だったろう。飛行機もフェリーもない時代だ。泳いで渡れる距離ではけしてない。日本に桃源郷を作れたのだろうか?日本で平和に暮らすことができたのだろうか?生きて故郷に戻ることはできたのだろうか?受け入れた我々は様々なGIFTを頂いた。味噌。これはかけがえのないになった。時が流れ、1279年によって滅ぼされたから醤油日本酒を新たに作る技術を僧侶が日本に運んできてくれた。我々の文化は自らのみでは生まれ得なかった。特に食の文化は人類の長年培った叡智から生まれたことを忘れてはならない。食は食材のみではできない。を介して初めて伝わり、育むことができる貴重な宝である。

今もウクライナ戦争の収束が見えない。人間の奢りは戦争という形で繰り返す。文明や科学技術の進歩は戦争を助長するものなのか?平和とは自国のためだけにあり、戦争によって自国が勝ちとるものと人類は今も信じているのだろうか?。自国のために他国の人間は殺すべきと思っているのだろうか?我々もかつて戦争を起し、敗戦により全てを失った歴史を持つにもかかわらず、今の国民の多くは軍備増強に賛成のようだ。また戦争に突き進むことを厭わないのだろうか?戦争で失うものは決して小さくはない。今や先人のGIFTさえ失わざるを得ない瀬戸際に立たされている。これは市場原理に従わざるを得ない悲しい性にも起因するのだが。会話が失われた時、戦争は起きる。武器を持つ前にしなければならないことがある。

醤油なしでは寿司は食べられない。鰻の蒲焼きは醤油抜きではできない。蕎麦もつけ汁のベースは醤油。秋刀魚の塩焼きには醤油、納豆にも出し醤油、卵かけご飯にも醤油、天ぷらにも醤油出汁。醤油なしの和食はありえない。そして、今や醤油は日本ばかりか、世界中に香味づけ調味料として使われている。英語ではSoy sauceと言うが、このSoyは日本語読みの醤油からきていて、大豆を意味する。醤油が元の大豆を意味するまで認められたと言うこと。しかし醤油を醤油たらしめるのは大豆のみにあらず。実に他の材料と作り方のに隠されているのをご存知だろうか?

醤油には大豆以上に小麦が含まれている。小麦は炒ってあり、芳ばしく、甘い香りづけになる。大豆は脂分が抜かれ、煮て、旨味を抽出してある。あっさりした味わいに酸味が加わり、消臭効果をもたらす。これらの材料がを使って醸造され、甘みとコクがもたらされている。熟成は8ヶ月以上になる。このレシピに辿り着くまで実に1千年の時が必要だった。だいたい、醸造技術も元々日本にはなかった。小麦も主食にはなれなかった端役。正直、小麦を挽く石臼さえ一般に普及していなかった。日本は稲作と共に発展した。米そのままのを食す文化で、小麦を食すの文化ではなかった。しかも小麦の生産に適した乾燥した大地ではなかった。は麦から生まれた。日本には元々ない、西域の人々の知恵である。もし仮に日本で醤油が生まれたとしたら何故を使ったのか?不思議に思わないか?そして、大豆からを作る術もなかった。北方民族の知恵。しかし、どうやって日本の醤油は本家食いまで可能になったのか?

紀元前3世紀には纏められた中国の周礼によると、王朝の時代、3000年前には料理に既に使われていた。干肉をで漬けた肉醤。驚くべきはこの時点で既にが揃っていた。中国の麹には5000年の歴史があるという。恐るべし。その頃の日本は有史前の縄文時代。790年という中国最長の王朝であったが、紀元前256年によって滅ぼされる。醤油の元になる穀醤が確認できるのは斉民要術1500年前(ひしお)の上澄みの醤清と言われていたとある。南北時代の北魏の時代。朝鮮では高句麗・百済・新羅三国時代、日本は飛鳥時代北魏は、西域から中国に小麦文化をもたらした騎馬民族の国々五胡十六国時代を制し、華北148年間君臨するも内乱により崩壊し、西暦534年に滅びる。日本には程遠い国だ。大陸の進んだ文化を得るには物だけではなく、技術、即ち作り、提供できる人の存在が欠かせない。中国から弥生人が米と共にやってきて今の日本に稲作文化を培ったように。文化の伝承は一重に人にある

羽黒山斎館の精進料理

中国の醸造技術を伝えたのは百済。高句麗と新羅に対抗し、生き残るためその時代の中国と日本との関係を重視し、後ろ盾にしていた。百済は4世紀前半に馬韓から発し、最盛期の4世紀後半に中国江南を征した東晋から仏教を受け入れ、日本の今につながるヤマト王権の確立に寄与した。養蚕機織り鉄器鋳造漢字文化、特に仏教6世紀初頭に日本に伝えている。仏教徒が肉を忌み嫌うため、肉醤ではなく、北魏穀醤を伝えたと考えるのが自然。全て中国山東半島を経由する。百済から山東半島は目と鼻の先、一番近い中国。百済高句麗新羅、更にの圧力に屈し、西暦660年高句麗に先んじて滅ぶ。後ろ盾としていた中国から斬られる悲劇。

1300年前、日本では奈良時代唐由来高麗由来とに分けているが、唐由来とは寧ろ北魏そして百済由来の穀醤が元であり、高麗由来は味噌高句麗滅亡後亡命してきた渡来人が伝えた。味噌は高句麗の古朝鮮語に由来する。中国に味噌というものはない。全て醤になる。汁は湯だ。高句麗は中国東北部扶餘に発し、紀元前37年には漢から独立している。5世紀に最盛期を迎え、百済滅亡後、新羅の挟み撃ちで西暦668年に滅ぶ。この味噌には麹を必要としなかった。自然発酵だった。日本独特の醤油の味わいを作り出したのが、百済からの日本酒醸造技術だ。高句麗からの味噌と百済からの醸造技術が相まって日本独特の醤油を作り出していく。

筑波の三酒

日本においてを使った醸造酒が確認できるのは古事記に記された応神天皇の時代に来朝した百済人の須須許里の天皇への献上、4世紀後半から5世紀初頭になる。延喜式によると西暦927年にはヤマト朝廷は造酒司を神社に置き、宮中のを守り管理する体制を敷く。しかし、律令制の崩壊により15世紀に下って、この役割は北野天満宮を中心にした麹座に引き継がれる。宮中から市中へ、の製造および販売まで広めることになる。は勿論。悪性の場合、病原菌になる。他に雑菌が紛れ込む場合もある。顕微鏡のない時代、良性か否か、判断は難しかった。日本に伝わった麹菌は最早中国、朝鮮でも醸造に使われていない。扱いは更に難しい散麹。日本以外では増植力のあるクモノスカビを主にして餅麹を作り醸造に使っている。散麹から安定して麹菌を作れるようになるまで、けして生優しいものではなかった。安定した麹作りを可能にしたのは平安時代末期に編み出された木灰を使った種麹の養生からになる。この木灰は、面白いことに江戸時代初期日本酒を透明にすることに利用される。木灰の殺菌浄化作用が正に日本の麹作りと酒作りに生かされることになる。活性炭の素晴らしさだ。この醸造技術が唯一の日本の技術として他の追従を許さず、今も醤油日本酒市場を瀬戸際で守っていることに間違いない。

による醸造技術の進化は百済から伝わった仏教と深く関わっていく。日本では仏教公伝から鎮護国家の名の下、寺院が拡大し、神社を本治垂迹により一体化させていくが、酒を禁ずる仏教とはいえ、神社の御神酒作りまで止める訳にはいかなかった。酒を薬と位置づけし、酒造を寺院で取り込んでいく。直接中国醸造技術に接することができた僧侶により僧坊酒を生み出し、醸造酒として完成度の高い日本酒を作り出してくことになる。北野天満宮の麹座の独占をやめさせることに比叡山延暦寺が絡んでいたことは十分納得させられる。15世紀末に奈良菩提山正暦寺や河内天野山金剛寺における僧坊酒の酒造における秘伝の醸造技術を御酒之日記が記している。米麹を極め、この麹は日本が選んだ高句麗由来の味噌の味と質までも変える。米麹を通して日本酒と味噌がつながっていく。美味くならないはずがない。

12世紀に華北から蒙古族に押し出され江南に下った南宋が北方の小麦由来のによる醤油を完成させる。首都は今の杭州、江南の南。水に恵まれた豊な水郷の街。更に江南の米を融合させた甘い紹興酒を生み出し、濃厚な米酢を編み出し、料理に欠かせない材料を作り出していく。西暦1266年頃書かれた山家清供醤油が記載されている。今も江南水郷古鎮ではこの醤油料理を楽しめる。紅焼肉は、外はプリプリ、中はトロトロの豚の角煮。有名なのは東坡肉で、北宋時代の詩人蘇東坡の名を残す料理、紹興酒氷砂糖醤油で味付けされている。日本の豚の角煮との大きな違いは濃厚な味わい。老抽と言う醤油が照りと甘いとろみを醸し出している。日本で言えば伊勢うどんのタレを思わせる、溜まり醤油。古の醤油は斯ありなん。ここで紹興酒は鰻の蒲焼における照りを醸し出す役割になる。ここに黒酢が加わり酢豚が生まれることになる。因みに私のお気に入りは紅焼蹄膀。豚の後ろ足の太腿。アイスバイン醤油煮。鶏のもも肉を豚に変えたもの。骨をしゃぶりながら、濃厚な味わいが楽しめる。これが入ったラーメンも最高。紹興酒をちびりちびり呑みながら水郷でアンニュイな時を過ごしたことを思い出す。

日本に醤油を伝えたのは入した僧侶だ。では禅宗の隆盛を迎えていた。禅宗の教えでは修行と同様にを重視する。日本に帰った僧侶はを舞台に、で学んだ料理法を元に今までの味噌を変え、新たに醤油を作り上げる。これは寺において精進料理を完成させるために必須だった。禅宗の修業と食を結びつけた教えは鎌倉時代を戦い抜く武士の心を掴む。精進料理は仏教の枠を越え、惣菜のみ食す健康食として我々日本人の心を今も掴んでいる。醤油麦麹を醸造して生まれる。醤油を最初に文献上確認できるのは西暦1568年に書かれた奈良興福寺多聞院日記になる。ただ、伝承によると13世紀末に、南宋鎮江金山寺もしくは杭州径山寺で作られていた刻んだ野菜を醤につけ込む製法を、紀州由良興国寺の開祖・心地覚心が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌として広め、この味噌の溜りを醤油としたらしい。中国には味噌はない。ましてこのようなも見たことはないが、醤を麦麹で作り、そこから溜まり醤油を醸造するのは正に中国の溜まり醤油の製造法であり、南宋の醤油醸造技法の伝播となっている。実際、日本では醤油とは言わず、溜りと呼んでいた。この溜り16世紀初頭には禅宗そして精進料理と共に日本中に広まり、各地に様々な醤油を生み出していく。これを可能にしたのは木灰を使った種麹作りにより安定して品質の良い麹が供給できるようになったこと、麹の独占と専売制がなくなり、種麹屋から自由に購入できるようになったこと、で結びついた酒造設備の大木桶を使えることになったことだ。日本酒醤油はここで結びつき、美味しさを追求していく。江戸時代中期まで中心は日本の胃袋、関西であった。

醤油溜りから淡口、更に濃口へ、様々な食事に合うように改良が加えてられていく。花開いたのは19世紀に入った江戸時代後期。広大な関東平原が小麦大豆を供給する。行徳で塩業が栄える。一方で醤油を必要とする食の文化が万能なタレを要求した。銚子には黒潮に乗って和歌山から醤油製造のプロが渡ってきた。ヤマサ醤油を生む。野田は水運を利用し、小麦、大豆、塩が手に入り易いだけでなく江戸には江戸川でつながる地の利があった。世界に名だたるキッコーマンを生み出す。ムラサキと呼ばれた赤紫色香りコク旨みが食材を活かす域に達した。やっと江戸の庶民は醤油を手に入れることになった。江戸への人口集中と市場拡大が後押ししたのはいうまでもない。関西からの下りものでは味、価格、量ともに納得できなかったのである。我々も今、この恩恵を受けることになる。この濃口醤油は醤油全体の80%を占めることになる。大量生産から海外市場が開けることになる。時代も移り、原価を下げるため小麦大豆も輸入、大豆は更に脱脂加工品となる。

今や日本の醤油市場はピーク時の54%縮小し、醤油工場は1950年6000社あったものが1/6近くに激減している。海外に活路を見出さずを得ない。原材料の大豆の93%、小麦の86%は輸入に頼っている。日本に残ったのは先人が苦労して作り上げた散麹による醸造技術のみだ。日本は敗戦により、米国に醤油市場も抑えられた。今や輸入大豆の74%、輸入小麦の49%は米国産、しかも醤油の海外市場の19%が米国向けだ。海外市場を米国に渡す日も遠くはないのかもしれない。戦争の結果として失われるものが大きいことを理解しなくてはならない。

醤油は200年も変わらず味と香りとコクと色を守ってきた。今変わらなければならない岐路に立っている。日本酒は、変わらない紹興酒を置き去りにしてイノベーションを重ね、ビール、ワインと共に世界三大醸造酒の一つになっている。醤油はこの醸造技術から生まれたソースだ。吉田ソースはミリンと醤油をミックスすることにより米国で名だたる企業になった。これがヒントになるのではないか。

参考資料:しょうゆの歴史を紐解く 醤油を使い分けると食はもっと楽しくなる 醤から醤油へ 中国の黄麹菌によるバラ麹の酒 日本醤油の起源と歴史 麹から見た中国の酒と日本の酒 日本・中国・東南アジアの伝統的酒類と麹 中国の製麹技術について  種麹(麹菌)の研究・製造 中国醤油の歴史 中国の醤油事情について 中国と日本を結んだ仏教僧 日本酒はワインと同じ醸造酒。蒸留酒や、その他のお酒との違いについても紹介 麹カビの今昔物語り 醤と豉 16世紀寺院の発酵食品づくり 酒と神仏と金融、三者の深い関係 醤油業界の現状と課題 醤油の輸出動向 アメリカ大豆の魅力 小麦粉を知る 東アジアの酒 

小笠原で鯨の咆哮を聞く

小笠原諸島父島は東京都下にも拘らず、船で1昼夜丸1日掛けて行かなければいけない。東京から世界で一番遠い東京。東京から直行便で最も遠い空港が米国ニューヨーク12時間55分。この2倍近くかかるからだ。父島には飛行機では行けない。民間空港、滑走路がない。戻りの船は3日後。船中2泊、父島に3泊、計6日最低でも掛かる。今の時代、こんな不便で非効率で不経済な旅がこの日本に、しかも東京に残っていることに驚かされる。

小笠原諸島は緯度でいうと奄美群島と変わらない遥か南の島。竹芝桟橋からほぼ1000km、若干南南東へ下る。更に下れば米国領マリアナ諸島のサイパン・グアム日本で一番米国に近い海界。直線距離で比較すると東京羽田から韓国釜山、鹿児島屋久島、北海道旭川への距離に重なる。飛行機であれば2時間程度、しかもこの時期釜山往復最安値39,049円、屋久島往復32,055円、旭川24,740円なのだが….乗る船はフェリーでクルーズ船ではない。然るに往復の船賃は屋久島への飛行機代の2倍以上になる。

船旅から民宿の予約まで、初めてなので旅行代理店にお願いした。船の往復に68,420円。小笠原より遥かに離れた沖縄でもこの時期、飛行機で往復最低14,620円5時間10分1/5の費用と時間で沖縄までの1887km、約1.9倍の距離を往復できる。宿泊費は民宿に3泊朝夕食込みで23,940円だったが、沖縄の民宿最安値で39,740円、15,800円高くなるが、飛行機と宿代で船賃以下に抑えられる。ホエールウォッチングツアー代で比較すると半日コースで父島は1日コース13,000円(10%値引き可)、半日で8,000円(5%値引き可) 、一方沖縄は値引きなしで9,500円と5,200円になる。沖縄のツアー費用は3/4で済む。トータルで見ても沖縄であれば小笠原までの船賃並みで充分ホエールウォッチングが楽しめることになる。父島へ向かうおがさわら丸の乗船率は1/3、コロナの影響はあるとしても観光に多大な費用、時間、労力を割く今の形が将来的にリピーターを増やすとは考えられない。それでも小笠原に向かう魅力は何処にあるのか?まずはこの旅を振り返ってみたい。

小笠原への旅は時間が取れる退職後の楽しみにしていたが、コロナ禍で3年近くお預け。やっとコロナも落ち着いてきたので、昨年11月に船旅を予約し、満を辞して船出。2023年2月5日(日)朝11時、立春は過ぎた。寒さは変わらないが、晴れ渡った風のない船出に絶好の日和。天気予報では晴天は明日迄でそれ以降荒れるとのこと。不安の船出ではあった。旅の予約は3ヶ月前だったので、どうしようもない。長い船旅の楽しみは太平洋を望みながら酒を呑むくらいしかない。この時期は決してハイシーズンではない。吹き荒む風と荒れる冬の海、不規則に揺れる船に晩は閉じ込められる。これが往復2日。何故この時期に?

を見るためだ。にとってはこの時期がハイシーズンになる。狙う鯨はザトウクジラ1〜3月にかけ小笠原沖縄、ハワイ、バハ・カリフォルニア近海で子育て、繁殖を行い、夏場にかけ、アリューシャンアラスカ沖でオキアミを鱈腹食べる。数千キロを旅する鯨だ。小笠原は元々捕鯨基地として米国人が渡ってきて開拓した島だ。今も子孫が残っている。同じ捕鯨基地として発展したハワイとつながる。米国人は鯨を追いかけ、数千キロの海を越えてこの島に捕鯨基地を作った。この捕鯨基地こそ日米の接点になる。ペリー提督が最初に訪れたのもこの小笠原になる。日本に捕鯨の寄港地として開港を求められ、鎖国から開国へと向かう契機となった。この第一歩が正に小笠原であった。鯨を見るならハワイか小笠原と思うのが筋ではないか。尚、1月は正月客、3月は学生の卒業旅行で混むので2月を狙っていた。第一週が狙い目になる訳だ。この時期は一年で一番寒く、ただ降水量は少ない時期、しかし、最低気温は14℃を下回らない。

ザトウクジラの魅力は大きな前ビレの躍動感と見事な尾ビレによる跳躍力だ。体長14m,30tに及ぶ身体を海から突如、宙に泳がせ、波飛沫と共に海に叩きつける。この迫力で見るものを圧倒する。鯨は今や地球上最大の生物であり、我々と同じ哺乳類、恐竜が滅びた後巨大哺乳類が地上を席巻した5300万年前に陸を捨て海に生きるようになった。新生代初期に登場し絶滅した巨大化した哺乳類の唯一の生き残り。一度は生で見たい、映像に残したい。若い頃ハワイのマウイ島へ見に行ったが、遠くに尻尾のみ見て帰ってきたことがある。写真にも残っていない。何とか宙に跳ぶ鯨の勇姿を拝みたい。その一途で父島滞在の3日間を全てホエールウォッチングツアーとした。

私はついつい焦って旅行代理店経由で船と宿泊をセットで予約したが、同じ宿泊先に泊まった学生に聞くと、小笠原海運おがまるパックが安いと言う。確かに1番の費用は船賃だ。船賃を抑えているのは小笠原海運であり、この費用を下げるにはここに予約を入れるのは筋であった。しかも現地でのホエールウォッチングツアーは自分で予約をしなければならないので、旅行代理店に任せる意味がない。もしこのブログを読まれて行こうとされるか方は是非小笠原海運の下記hpを訪ねてほしい。https://www.ogasawarakaiun.co.jp/ogamarupack/                 今回、旅行代理店の当初の見積は船往復2泊と民宿3泊2食付セットで92,000円、船中泊は2等和室になっていた。私はトイレが近いので2等寝台に変えてもらった。追加料金は8,360円、ところがおがまるパックではそもそもが同料金で2等寝台になっている。最安値は3泊83,000円がある。しかも港に近い民宿。旅行代理店に任せる前に船会社を当たるべきだったと後悔している。もっと言えば、船はハイシーズンではないので空いている。寝台の上下を占有できた。クーポンもあるので安いツアーを予約できる。鯨の出没する場所はほぼ限られるので、どのツアーでも心配はない。この時期小笠原は20℃そこそこなのでスノーケリングはお勧めできない。実際寒かった。

24時間の船旅は肉体的以上に精神的に堪える。何もない海の上、しかもこの時期は一年で最も寒い。乗船はJR浜松町駅から歩いて15分ほどで着く竹芝桟橋。沖縄や海外に行けない学生の手軽な旅先だった伊豆七島へ向かう港だった。久し振りに訪れてきれいになったことにまず驚かされた。変わらないのは桟橋のシンボルの帆と舵のモニュメント、そして新島モヤイ像。この日は天気が良く暖かだったので、夕暮れが迫るまでデッキで東京湾から三浦半島、房総半島、伊豆七島が望める景色を楽しめた。デッキは眺望も良く、出航時から、スカイツリー、東京タワーまで望め、更にレインボーブリッジを越え、羽田沖で飛行機の離着陸、湾外へ抜ける際は海ほたる、東京湾に迫る房総半島や三浦半島の山並み、間近に大島から八丈島まで伊豆七島を眺めながら遥か小笠原に向かうことを実感できる。

この時期海の上は南の島へ向かっているとしても寒い、フェリーは風を切って洋上を走るので、デッキの上では潮風が体温を奪い風邪をひいた。天気がいいので、船内売店のショップドルフィンで買った、つまみに島レモン酎ハイを飲んで、最上デッキでうたた寝して喉を痛めた。迂闊だった。風邪薬が足らないので往生した。デッキでは厚着にマリンジャケットは必須。波が風に舞う。午後3時過ぎには寒さに耐えられなくなり、船内に入る。そして朝明るくなるまで船内の時間となる。18時間以上が船内。どう時間を潰すかが勝負なのだが、何せコロナ禍でおいそれと他人に大きな声で話し掛けられないのが辛い。情報交換が旅の途上では命なのだが、これができない。を数冊持ってくるべきだったと反省している。船旅中、ほぼインターネットは繋がらない。携帯の充電箇所も限られているので、居場所を探すのに往生する。最上階の展望ラウンジがあるが、いつも一杯で、座るのが大変。只管座る場所探しだ。船内は清掃がゆきとどいており、トイレもシャワー室も寝室も快適だ。ごみひとつ落ちていなく、臭いところもない。空調、温調とも快適でトレーナー上下サンダルで過ごせる。但し、船内はいつも波のため、不規則に揺れており、歩き回るのがしんどい。4階から7階まで上り下りだけでも実際大変。一番助かったのは寝台で隣り合った方と知り合いになり、情報交換ができ、上陸後、ホエールウォッチングのツアーで映像を頂けたことだった。

食事は船賃にセットになっていない。高くなるのは致し方ないだろうが、酒と定食で2000円は下らない。カップ麺は船内で売っているので、安上がりに済ます手はあるが、寂しいので、基本は地酒の酎ハイ小瓶700円、島レモンもしくは小笠原パッションとした。少々高いが小笠原パッションがキリッとした味が出ていて美味い!お薦めだ。昼はデッキで飲んだ後、レストランChichi-jimaで島塩ラーメン900円、夜は小笠原パッションチューハイと長芋漬けと軟骨唐揚げ、計1,800円、翌朝は展望ラウンジHaha-jimaで朝日を眺めながらサンドイッチとゆで卵とコーヒーで750円、まあこれで十分だった。

島での3日間はあっという間だ。風邪気味でしんどかったが、何とか無事遊び終えた。南の島ではあるが、決して常夏の島ではない冬ではないが夏ではない春の気候と言える。スノケールの選択は間違い(年寄りの冷や水)で、船上から鯨を見る程度に抑えるべきだった。靴の選択を間違えた。マリンシューズが必要だった。赤島に三度も行くことになるが、サンダルではきつい。砂浜や岩場を歩かなければならない。私の選んだツアーをご紹介しよう。

  1. 2023年2月6日(月)13pm〜16pm: 青灯台から出発ホエールウォッチング:竹ネイチャーアカデミー半日コース;8,000円(クーポン5%割引あり) …下の画像をクリックするとこのツアーで見た鯨の姿が動画で見られます。

https://www.youtube.com/watch?v=-hcp5UB1azE&t=14s             ツアー開始の2時間前の11amに島に着いた。昼、ハートロックカフェで景気付けに母島ラム酒で海亀の煮込み(1,800円した)をかきこんで、青灯台に集合。因みにこのハートロックカフェはハードロックカフェのジョークかと思ったが、後でハートロックが実際に海から見られて、なるほどカフェの由来と納得。ツアーには体調悪し、喉が痛いが耐える。ザトウクジラの群れは南島からの帰り、海峡近くで見られた。mating podと言うらしい。要は雌を巡って雄数匹が沖で張り合う。空はどんよりとしている。但し風はそれほどでもない。気温は20℃だが、小型船上は波をかぶるので寒く感じる。船上でマリンジャケットマリンシューズが有用。

2.2023年2月6日(月)19pm〜21pm: ナイトツアー:竹ネイチャーアカデミー;4,000円(クーポン5%割引あり)

そんなに大きくはない。

小笠原のナイトツアーは2日目の予約だったが、ショップから、天気が荒れそうとのことで、急遽到着した日の晩に変更された。2日目には別途ホエールウォッチングの予約を入れており、中止になると思われ、然らば、体調悪しだが、無理しても良かろうと従うことにした。島に着いたばかりで余りにも無理しすぎであった。まあほぼ歩かず、車での移動なので助かったが、メインと思われる小笠原オオコウモリは決して飛び回る姿を見られる訳ではなく、ただ果物を食べている姿を見るだけになる。このオオコウモリ、島唯一の原種の哺乳類であり、ほぼ木の実のみ食すという平和な動物。小笠原は北限で、寒さに弱いとのこと。グアムでは美味として食べ尽くされ、小笠原では植えた果物を食べられるため害獣として駆除され、既に絶滅したものとみられていたが、幸運なことに生存が確認され、天然記念物として保護されるようになり、今は我々でも見られるようになったようだ。出会えただけでも幸せだったのだろう。

3. 2023年2月7日(火)9am〜16pm:嵐の中ホエールウォッチングに出発:小笠原観光1日コース;13,000円(クーポン1割引あり)..下の画像をクリックすると鯨の動画が見られます。

朝から凄い雨と風、体調最悪、流石にホエールウォッチングツアーは中止と思いきや、船長は出ると言う。既に代金を1万円以上払っている。払い戻しは効かない。致し方ない。黙って船ベリに齧り付いてクジラを見るしかない。果たして見られるかが問題だった。午前中嵐に耐え凌ぐと、船長の言う通り午後から晴れた。晴れたらザトウクジラが船に寄ってくるではないか!子鯨が、母鯨の背に乗って船の舳先近くを通ってくれた。苦あれば楽あり。何とか乗り切れた。小笠原父島の二日目。毎回鯨の姿が違うのが嬉しい。船長が言うには鯨のブリーチングは滅多に見られない。年に6回見られればいい方とのこと。ブリーチングする時鯨は吠える。ワオーと。本当か?想像するだけで身震いがする。何としても見てみたいものだ。果たして幸運は舞い降りるのか?

4. 2023年2月8日(水)9am〜15:30pm: ツアー最終日ホエールウォッチング:竹ネイチャーアカデミー半日コース;9,100円(クーポン5%割引あり)…下の画像をクリックするとこのツアーで見た鯨の姿が動画で見られます。

いい天気だが波高し
ホエールウォッチングルート(緑色)と鯨のブリーチングが見られた場所(海上の最南東の赤色部)

今日は風が強く、天気はいいのだが、寒く感じる日だった。船は波が高いため、揺れる揺れる。ザトウクジラは最終日と分かってくれる訳でもないのに、何度もブリーチングを見せてくれた。感謝感謝としか言いようがない。凄い迫力だった。3日間、様々な姿を見せてくれた。体は万全ではなかったが、なんとかクジラのおかげで乗り切れた。映像は私のだけではなく、同船者がくれたもの。神がかりの映像をいただき感謝している。これだけの映像があれば満足以外の何者でもない。

民宿について:今回旅行代理店の朝夕付いた民宿とのことで一択しかなかった境浦ファミリーを選んだ。しかし私のように足がない人間にはやはり港近くが良かったようだ。バスの便が少ないし、海が望めない店が近くにないので、薬の購入に苦慮した。ツアーの送り迎えがない場合、民宿に頼まなければならない。時間的余裕が生まれない。ツアーの後車で送られ、街歩きができない。夜の街で飲む楽しみがないと情報交換もできない。食事はおいしかったが、やはりホエールウォッチングのみの目的であれば、港近くの民宿をお薦めする

最終日2023年2月9日(木)9am〜14:30pm:出発は15時。朝9時には港に送ってもらい、のんびり港の周りを歩く。天気が良かった。内地であれば春のような陽気。ただ日差しが強いのが南国の証か?港から外れた場所にある小笠原海洋センターに行き、アオウミガメを見た。頭頂の幾何学模様がなんとも美しい。鯨と同様、陸から海へ適応した動物。卵は陸に上がって生むところが故郷を捨てきれない証拠。鯨と違い、手足が残っている。これは残したと言うのが正解だろう。体を防御する重い甲羅を水中で保持して泳ぐには手足はバランスを取るためには必要。長い手足はこのためにある。ただ泳ぐスピードを度外視しなければならない。簡単に捕まるので人間は食材にしている。メキシコのカリブ海に面したカンクンに行った時は海亀牧場があって、食糧扱いにしていた。あの時食べようなんて思うことはなかった。そういえば中国の武漢では水亀の姿煮を食べていた。日本では昔からスッポン料理をたべている。亀は昔より人間の食材として最適だったのだろうか、なんてウミガメを見ながら思った。最終日になって初めて小笠原ビジターセンターに行くことができた。小笠原の歴史を知るためには必ず訪れなければならない。小笠原諸島の歴史の面白いところは、1543年にスペイン船が最初に発見し、英国、ロシア、オランダの船が次々に訪れ、1593年になって日本として小笠原貞頼が無人島として発見しながら、手つかずで、実際は捕鯨基地として米国人が移り住み、1830年以降開拓され、米国領となるところ、米国は力づくで領土とせず、一方住人も日本領を選んでいる。平和的だ。太平洋戦争後米国領となりながら平和裡に1968年に日本に返還されている。しかし、東京から更に遠い、米国領のサイパン、グアムには飛行機が飛び、観光のメッカになっている。日本領を選んだ小笠原との差は歴然だ。正に光と影のように感じる。夏は盆踊りで賑わうと言う大村海岸を歩いて商店街に戻る。今も盆踊りが賑わうところに失われた日本の文化を島でこそ味わえる一抹の侘しさを感じる。私はオープンカフェが好きで、商店街の公園に面したパパスアイランドリゾートhaleのテラス席で地ビール「ボニンクラフトビール島レモン」を飲みながら海鮮丼ランチを頂いた。1,860円也。写真は撮っていないが、土産物屋は3軒ほどで薬屋や雑貨屋を兼ねている。地元産の島のりレモンカード(レモンバター)、ジャムのレモンパッションフルーツグアバ、単価600〜700円ほど。かさばらず、腐ったり、割れる心配もないので重宝だと思う。土産物屋ばかりの沖縄を知る人間には驚かされる質素さと値段の高さだ。小笠原の物価は正に東京並みだ。14時半には港に着かなければならないのでゆっくりはできなかった。港には鯨のモニュメントがあり、鯨の基地であり、日本最初のホエールウォッチングを始めた誇りを表している。港は去る旅人、見送る島の人々が別れの挨拶を交わしていた。

別れのとき:まず小笠原太鼓が別れのときを告げる。安全祈願と再会を願う太鼓だ。出航と同時に一斉に見送りの声と旅立つものの受け応えが港一杯に響き渡る。「いってらっしゃい」「ありがとう」「また来てね」「また来るぞ」「バイバイ」「ありがとうございました」「気をつけて」「またねー」子どもが一斉に「いってらっしゃーい」涙が堪えきれない…誰もさようならとは言わない。言えない。皆、ただ手を振る。モーターボートがどこまでもフェリーについてくる。最後は見送る若人が舳先から飛び込む、青の灯台から子供たちが飛び込む。別れに花を添える。この風景は変わらぬ儀式なのだろう。下の2つの画像をクリックすると動画で確認できます。雰囲気を味わって下さい。時は永遠です。

おがさわら丸見送りのあいさつは『いってらっしゃい』

帰りの船で:午後3時乗船なので、夕暮れが近いことから船内で過ごすことが多くなる。船内は静かだった。嵐の前の静けさか。内地は雪と予報では告げており、船外デッキは立っていられないほど風が強く、寒くなっていく。船は揺れた。到着は1時間遅れることになる。展望ラウンジHaha-jimaはお陰で空いている。荒れた海を望みながらコーヒーを啜っていた。晩御飯は奮発してレストランChichi-jimaでタラカツチーズ定食と小笠原レモン酎ハイ計2,200円也、タラのカツは衣サクサク、衣にチーズが絡んで旨味を増す。中のタラはジューシー、なかなかだ。島レモン酎ハイは癖がなく、何の食事にも合う。満足の一品。翌朝もモーニングもレストランChichi-jima、500円でサラダ、目玉焼き、パン2個とフルーツはリーズナブル。コーヒーは250円で別途。丸窓から朝の海を望みながら朝食は格別。昼は展望ラウンジHaha-jimaで最後の食事島塩ハチミツトーストとホットコーヒー1,300円、少々高いが、アイスクリームとハチミツで焼きたて厚切り食パンは味がパンに染みて美味い。尚、後でわかったが、行きと帰りで100円クーポンを使えたようで、失敗した。

小笠原の旅を振り返ってみた。鯨の迫力は沖縄、否、ハワイ以上であろう。この迫力を日本中、否、世界中に伝えたいが、しかし、そのために往復68,420円船泊2日では、他人に勧める自信がない。1/5費用時間でしかも羽田から行ける沖縄に軍配があがる。金と時間を持て余している層にはいいが、実際、金を落としてくれるのはリピーター富裕層海外の顧客だ。彼らの要求に応えるには他のリゾートに比較し、格安気軽に行ける旅にしなければならない。往復交通費を下げるには羽田から飛行機で行ける航空便が絶対必要になる。

私は冥土の土産で小笠原に向かったが、冥土の土産は一生に一度の意で、一見さんの要求に応える意味はないかもしれない。ただ、他の老人にとっても小笠原への旅はキツイ工程に違いない。増して小笠原の住民にとって大変なことだ。まだ小笠原は日本一若い島で、平均年齢が38歳と信じられないが、医療生活老後を考えた時、交通の便は解決しなければならない。2,583の島民のためにも交通の便の改善は必至だ。常々思うのだが、他国と領土問題でも揉めている竹島や尖閣列島は無人島だ。北方領土についてはロシア人が住んでいる。寧ろ、今、国境に住む国民の生活を保全することこそ一番の国防ではないのか。揉めることによって金が飛んでいくことより、今国境に住む住民の生活を守り、安定させる方が余程効率の良い財政投融資になる。小笠原という観光資源が一番の外貨獲得の場だけでなく就労の場にもなり、領土保全につながる。

小笠原全体を考えると父島に空港を設置し、ハブ空港とすべきなのだろう。洲崎に海軍の空港跡地がある。世界遺産の島である。新規開発は難しい。拡張して滑走路とするのが間違いない。飛行場ができたら、周辺と結びつけた観光開発も必要だ。硫黄島を島民に返還し、第二の観光地として解放すべきだ。滑走路もある。飛行機で父島、沖縄、サイパン、グアムをつなげることにより新たなエコツーリズも提案できるのではないか。観光は平和の象徴だ。これは島民の夢でもある。そして島こそ平和の象徴だ。日本の戦争は島を中心に展開された。2度とこの悲劇を繰り返してはならない。

レインボーブリッジが見えた。竹芝桟橋が見えてくる。私の鯨を追いかけた6日間の旅が終わろうとしている。海上スレスレを渡鳥が内地に向かって飛んでいく。渡鳥は島を渡りながらやってくる日本の文化も島伝いにやってきたことを忘れてはならない。今一度という原点に立ち返って我々がどうあるべきか、見直す時期に来ているのではないか。

納豆と味噌は何処から?そして何処へ?

納豆は昔もっと臭かった。食べるとすぐ分かる。納豆臭いとよく言われた。納豆臭いイコール田舎臭い。今でこそ健康食と持ち上げられて皆こぞって食べるようになったが、昔は世間一般で品の良い食べ物とは思われていなかった。我が家では仙台出身の母が納豆汁をよく作ってくれた。これがご飯に掛けて食べるより美味しかった。納豆が味噌汁にとろみやまろやかさを与え、独特の風味を醸し出す。しかも味噌汁が納豆の匂いや糸引きを抑える。一石二鳥。今でも東北の人間は寧ろ納豆汁を食べる。体も暖まる。納豆の季語は冬。テレビの関西系のお笑い番組では「あんな腐ったものよう食べますな」とまで言われたことを思い出す。あの頃、関西人はこの匂いを毛嫌いし食べなかった。露骨にこの匂いをまず嫌がっていた。いつから関西人が食べるようになったのか?匂いばかりか下品と言われた糸の引き具合も抑え、製造工程を残した清潔とは言えない藁の包みを清潔なビニルを納豆に被せた発泡スチロール製パッケージに変え、更にタレ、カラシまで付いて売り出したからに違いない。しかし、納豆の消費は今尚、東北、関東が優位。それほど東日本に定着していることがわかる。そこに納豆伝来の秘密がある。

納豆は大豆のメリットを最大限生かしている食品だ大豆はタンパク質を多く含み、畑の肉大地の黄金と評され、豆の王様。大豆の大の意味は中国語で”大きい”ではなく”本当の”という意味。豆の中の豆。納豆はこの大豆をそのまま発酵させて作られる。味噌や醤油に比べ、製造工程がシンプルでしかも大豆のタンパク質を壊さない。従って栄養価も高くなる。発酵食品なので、整腸、免疫力強化、感染症予防、解毒に効果大。納豆が愛される由縁だ。大豆は4,000年前には東北アジアで栽培されており、2,000年前の弥生時代に朝鮮半島から伝わったと言われている。日本にも大豆と同じ豆が存在したと言われているが、野生種であり、栽培まで至っていない。豆はそのまま保存が効き、煮て食べれば、敢えて納豆を作る必要もなかったろうし、一方、納豆を作る技もなかった。これは大豆を長年食し、生かす方法を知る人間にしかできない術。納豆が大豆栽培と共に西からやってきたとすれば、なぜまず関西人から食べるようにならなかったのか誰がどのように技を伝えたかここに納豆の名に隠された謎がある。

納豆の元と言われる”“が日本史上初めて登場するのは奈良時代の平城宮跡から出土した木簡。「武蔵国男衾郡余戸里大贄一斗 天平八年(736年)十一月」古の納豆の元は奥武蔵でまず作られ、大贄即ち朝廷へ貢物として一斗缶相当が奈良の都に納められたことが分かる。男衾郡高句麗からの渡来人の男衾氏の拓いた地域。男衾の名は今は残っていないが、壬生氏、更に鎌倉殿で一世を風靡した畠山氏が継いでいる。今の埼玉県寄居市がこの地である。この20年前の霊亀二年(716年)武蔵国に高麗郡が設置され、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1,779人を武蔵国へ移したと続日本記に記されている。高麗郡は今の埼玉県日高市、鶴ヶ島市全域と飯能市の中心部、川越市、狭山市、入間市の入間川以西の広大な土地になる。この高麗とは高句麗、668年に唐によって滅ぼされた。高句麗は中国東北部に発する国であり、700年に渡り中国東北部を領した、正に大豆の故郷にあたる。今でこそ東北部は中国最大の穀倉地帯だが、その時代は稲作ができず、粟、キビ、オオムギ等の雑穀が主食だった。渡来した高麗人がを作る技術を持ち、都に納めたと考えるのが筋。渡来人は語らず、物納で応えるのみ。その後もを納めているのは高麗由来の相模国のみである。相模国の高座郡は高句麗からの渡来人が拓いた地である。寒川神社は彼らが氏神を祀っている。”“は高麗から持ってきた技術で作った清麹醤(チョングチャン)を乾燥させたものに違いない。清麹醤(チョングチャン)は大豆を茹で、藁に包み自然発酵させたもの、納豆以上に強烈な匂いを発する。清麹醤の清麹とは麹なしでという意味。発酵に麹を使わない正に自然発酵の醤正に納豆。高句麗は別名を(狛)族の国としていた。神社の犬はここからきている。また後世高句麗は国名を高麗としたので、狛が高麗となった。彼らには自然発酵で大豆から味噌と納豆を作る技術があった。

とは?承平8年(938年)に編纂された和名類聚抄によると、塩 ・醤 ・未醤などの塩梅類として五味を調和するものとあり、正倉院文書の神護景雲4年(770年)や宝亀2年(771年)の記録によれば、末醤(味噌)2.5倍から4倍と高価だったとある。今の納豆とは大違いで寧ろ調味料もしくは漢方の生薬であった。中国では豆豉と呼ぶ。麻婆豆腐の味付けに欠かさない。私も中国に駐在していた時、辛く味付けした豆豉のビン漬け老干媽に随分お世話になった。欠かせない調味料。勿論納豆の匂いはしないし、決して糸も引かない。この元になったと思われる豆豉を20年前に上海の下町の市場で初めて見た。納豆の匂いがするので気が付き、買ってみた。日本円で百円ほどだったと思う。食べてみると臭みを抑えた乾燥納豆だった。私はこの時納豆は四川省で生まれたと思った。何故なら四川料理に醤、豆腐、豆豉は欠かせないものだからだ。この時はまだ納豆と豆腐、私は2つの言葉は取り違いで日本に入ったと思っていた。豆を腐らせたのが豆腐、四角く納めたものが納豆のはず。日本における道理。ややこしいことにこの言葉は標準の中国語と同じ発音。正に中国の言葉。あの頃上海の下町では凄い匂いがいつも漂っていた。屋台で臭豆腐を売っていた。臭豆腐を売りにした食堂もあった。腐った豆が豆腐でも間違いないとその時分かった。しかし、豆腐はいいとして納豆は中国にはない。生の豆豉になる。豆豉が何故日本では納豆になったのか?まず納豆のは納めるの意である。納入、納税、これは中国でも同じ意。その頃、都では豆豉高価買取都に納める豆で食い物ではなかった納豆は納めるもので、食うものではない裏返しの意があったことに気が着く。豆豉を作るためのは中国から手に入れるしかなく、誰もが作れるものではなかった。しかもあの頃の常識で臭いものは腐ったものとして敢えて食すものもいなかった。本能的なもの、見た目もある。動物の糞に見えなくもない。今も大徳寺納豆、浜納豆が作られているが、日本中に広まることはなかった。の漢字が日本に定着しなかった理由もここにある。の字は最早中国で使われていないが、日本に今尚使われ、酒、味噌、醤油作りに大事に使われているではないか。関西人が納豆を食べなかった理由もこれでわかる。然らば、何故東国の人間は納豆を食べるようになったのか?

納豆が東国で食された理由は食べ方にあった。味噌汁に入れ、納豆汁として食べた。韓国でも清麹醤(チョングチャン)は余りの臭さに直接食べない。チゲに入れて食す。テンジャンチゲになる。テンジャンメジュで作る。メジュは正に大豆を自然発酵させたもので、味噌玉にして数年かけて熟成させたもの、を使わない。自家製で、各自の家の軒先に吊るし、自然発酵、熟成を待つ。私が以前信州にいた頃、地元の方に伺った。昔は味噌は買うことはなく自分たちで作ったものだと。手前味噌とはよく言ったものだ。味噌納豆は冬場の重要なタンパク源。寒い地方にとって味噌は命、しかも納豆の臭みを消す。味噌も高句麗の言葉からきている。高句麗味噌に中国では蜜祖の漢字を当てはめていた。満州語ではミスンになる。現代の韓国ではメジュとなる。も然り、高句麗の言葉シレから。チゲは寧ろ新しい言葉になる。正に失われた高句麗満洲の言葉が今日本に生きている。高句麗からの渡来人は正に味噌汁を伝えると同時に清麹醤(チョングクチャン)を伝えた。言わば味噌汁なしでは納豆は食べられなかった。それでは誰が広めたのか?武蔵から相模にかけての坂東武士だ。源氏と結びつき、その勢力を東北まで広げることになる。坂東武士を従えた源義家は後三年の役(1083-89年)で東北遠征を行うことになる。納豆発祥の地を標榜する茨城県水戸秋田県横手では納豆を見たことはなかったであろう。坂東武士は茹でた大豆から納豆作りを見せたであろう。戦うための重要な糧になる。味噌玉は馬に乗せ持っていった。納豆を味噌と一緒に食べ、彼らは冬場を凌ぐ味噌と納豆を初めて得ることになる。彼らはただ知らなかっただけに過ぎない。納豆は兎も角、味噌玉は寧ろ戦国時代を生き残る糧を武将に与えることになる。武田信玄から織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康である。彼らが勝ち残った理由は足軽まで味噌玉を与えたということだ。今も山間部で味噌玉は作られている。戦いの時代は終わり、生きるための知恵が味噌玉として残った。重要なことは武田信玄は信州に日本一の味噌の文化を作り、伊達政宗は仙台味噌を残した。徳川家康は三河に八丁味噌を生み出した。偉大な武士とされたのは地方の人々に食の恩恵を施こしたからだ江戸末期になって江戸で醤油が供給できるようになると納豆を温かいご飯に掛けて食べる習慣が生まれる。これは臭みをものともしない江戸っ子気質から。何故ならもっと臭いくさやを食べていた。発酵食品の美味さを熟知していた。江戸っ子は納豆と読んではいたが、チョングクチャングチャグチャとして残したのではないか。日本では韓国語を擬音語で使っている。モグモグペコペコノロノロ等がある。納豆はグチャグチャにかき混ぜてこそ美味しくなる。

清麹醤(チョングチャン)を私が初めて食べたのは上海近郊の昆山であった。4年ほど前になる。昆山は台湾が開発した町だったが、韓国系大企業も進出しており、韓国料理店が数ヶ所あった。日系企業は少なく、日本料理店は少なかった。昆山は日系の衣料関係の工場が昔は進出していたが、人件費の高騰から撤退を余儀なくしていた。その中で面白いことに韓国語と日本語を話す人々が日韓両方を顧客にしていた。彼らは中国の少数民族の朝鮮人である。ほぼ遼寧省吉林省出身だった。朝鮮人遼寧省には25万人、吉林省には120万人住んでいる。この地域は旧満州になる。日本との関係も深い。朝鮮族も満州族も日本語がうまい。同じ言語系列にあたるから不思議はない。日本語も韓国語も中国の東北部が言語学的に起源とナショナルジオグラフィックに発表されたのは昨年である。9000年前の話になる。高句麗発祥の地であることは何か因果を感じる。まして味噌や納豆の発祥の地でもある。彼らの店のメニューは韓国語と日本語で表記されている。清麹醤(チョングチャン)は日本語で納豆汁になっていた。韓国料理に納豆汁があるとはその時知らなかった。納豆は日本独自のものという意識も大きかった。嬉しかった。中国で納豆汁が食べられる。中国人はまず食べないので、日本人向けに特別に作り、提供してくれているのかと思った。感謝の気持ちで一杯になった。全く故郷の味。清麹醤(チョングチャン)とは全く気がつかなかった。キムチと豆腐が味噌と納豆に絡み、とろみそしてまろやかさもあり、豆も納豆そのもの、納豆特有の香りも漂っている。日本の納豆汁より断然美味かった。韓国に何度も出張で行っていたが、食べたことがなかった。昆山では訪ねた店では納豆汁を必ず出していた。今思うと、本当の納豆汁とはこういうものかと納得してしまう。

日中韓、国家間は得手して上手くいかない。国はお互いに意地の張り合いを繰り返す。権力者は常に保身のために大衆に国力を必要以上に誇示しなくてはならない。国内の政治が上手くいかなければ国外の危機を煽る。常套手段。それでもダメなら国内の粛清に及ぶ。権力者が独裁者として国を治められたとしてもたかだか数百年に過ぎない。人類の文化の蓄積は数千年に及ぶ。国の盛衰を超えて人類は文化を蓄積してきた。様々な食や文化の継承は国境を越え、結果的に人類の繁栄に寄与してきた。私は高句麗扶餘城近くの顧客に訪問したことがある。遥か14年前。天津でお会いした朝鮮族の方だった。名も忘れたが、日本語はペラペラだった。今の吉林市、空港に降りると一面のトウモロコシ畑。中国一の生産地。規模が違う。越えると市街地。松花江が流れていた。朝鮮民族共通の聖地白頭山の源から発し、黒竜江省ハルビンからアムール川に注ぎ込み、ロシアに入って、ハバロフスクからオホーツク海に辿り着く。吉林市にはこの川に架かる豊満ダムがある。貯水量約100億t総出力100万kw。堤防は幅1080m・高さ90m、実は私はこの存在を知らなかったのだが、彼が見せに連れて行ってくれた。実に日本が旧満州時代に作った壮大なダムだった。建設後70年が過ぎても風雪に耐え、川の安全を守り、電力を供給し続けたことに驚かされた。彼がもう一ヶ所紹介したのが、高句麗の扶餘城跡だった。ここに朝鮮人の故郷があると言っていた。満州高句麗も今はない。しかし、ダムは尚稼働し、電力の供給、飲用水、農工業用水の確保だけでなく、17万haの灌漑により稲作増産を可能とした。稲作のできなかった高句麗の地に寒冷地に強いジャポニカ米が導入され、今や旧満州の地の米の生産量は日本を凌駕するようにまでなった。中国は稲作において世界一の座に着いている。高句麗の遺跡は朝鮮人に民族の誇りを残している。高句麗が我々に恩恵を与えてくれた大豆は世界の農産品になっている。世界の大豆生産量は年間約3.2億トンに達している。その用途は主に搾油。 国別では、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンの南北アメリカ3国で世界の生産量の約8割を占めるようになった。これからも国の盛衰は繰り返されるが、民衆に求められるものは守られ、残り、広められていくのであろう。あの納豆でさえ世界の市場規模は、2021年から2025年の予測期間中に8.46%の成長率で推移し、13億9,000万米ドルの市場成長が見込まれているという。驚くべきは韓国にも納豆が逆輸入され、健康食品として売られていることだ。日本独自の納豆菌が清麹醤(チョングチャン)の製造工程を短縮し、更に臭みと糸引きを抑える技術が認められたからだろう。食は止まらない。進化し続ける。

参考資料:妄説 納豆の歴史 起源は?発祥は?知られざる納豆の歴史 第6回 日本の発酵大豆とご飯にかける納豆 高座郡と渡来文化 納豆の発祥は日本or中国?豆腐と深い関係があった! 大豆にはどんな歴史があるの? 日本人と大豆~その歴史的変遷から 古くはアジアだけで栽培、食されていた大豆 醤と味噌 古代における「䋬」の復元 日本の納豆に似ている生豆豉について ベストフード「チョングッチャン(清麹醤)」 韓国の調味料チョングッチャン(清麹醤) 韓国料理の味を支える伝統発酵調味料と塩の関係とは? 大豆由来と穀物由来が融合?みそ汁の起源をたどる 韓国と日本のお味噌の違い。 テンジャンへのこだわり セムピョ食品イ・センジェ常務 韓国のテンジャンチゲと日本の味噌汁は同じルーツですか?どちらの起源が先ですか? モンゴル帝国と奇皇后、高麗醤、大豆味噌文化を共有する北東アジア みそは紀元前700年前に誕生。中国誕生説って?  メジュ(味噌玉麹)・木簡…高麗の生活・租税くっきり メジュから作る味噌 「豆味噌」「豆麹」ってなに?ほかの味噌と何が違うの? 戦国武将たちも愛したみそ 「満州国」における豊満水力発電所の建設と戦後の再建2007-05南 龍瑞著                    平成25年度海外農業・貿易事情調査分析事業「中国のコメ生産・消費・輸出状況等(ジャポニカ米を中心に)」2014-03日本総合研究所総合研究部門 【納豆市場2022】フレーバー・ひきわりのトレンド継続 中国向け輸出も好調

ウクライナから平和を叫ぶ

2022年8月6日、日本初公開となったドキュメンタリー「ウクライナから平和を叫ぶ」を見た。東京渋谷円山町、映画館はマニアックな店の3階、1階では、少女たちが踊り唄っていた。日本は平和だ。145の観客席は新型コロナの再蔓延の所為か、空席が目立っていた。閑散とする劇場で。日本で今のウクライナの状況を理解する難しさが分かる。日本から8000km離れたウクライナで、2月24日にロシアの軍事侵攻で始まった戦争は泥沼化し、今も続く。最早半年近く経ち、終わりの見えない戦いにうんざりし、忘れ去られようとしている。戦力の圧倒的優位なロシア軍に対しウクライナ軍の想像を絶する踏ん張りと欧米軍事支援がこの戦争の先を見えなくしていると言えば聞こえはいいが、実際は違う。この映画を理解するにはウクライナの戦争が今に始まったことではないこと、ロシアによる軍事侵攻は当然の成り行きだったことを先ず理解しなければならない。しからばどうすれば平和がウクライナに訪れるのか?このドキュメンタリーは見るものに厳しい課題を与えてくれる。

我々が理解するために、例えを言おう。政権の在り方に不満を持った北海道が日本から離脱し独立を図ろうとする。当然、政府は独立派を反政府勢力とみなし、攻撃する。独立派は自らを守るためロシアに支援を求め、ロシアは応え、守るための戦いを仕掛けてくる。日本はもはや戦場と化す北海道の独立戦争を正とすれば、ロシアの支援は北海道にとっては大きな支援になる。沖縄を仮定すれば、親中を選択し、中国支援の元に独立を求める場合も考えられる。全て大国の思い通りとなる。誤解しては困るが、これはあくまでも仮定であり、露中との言語、文化、歴史的繋がりが無ければこのスキームは無理なことと付け加えておく。更に実際の問題であれば、中国に対する香港、台湾、チベット、新疆ウイグルの独立運動が分かり易い。我々はこの地域を支援するが、中国にとっては反政府勢力となる。将にこれがウクライナルガンスクドネツククリミアになる。三地域は全てロシアとの繋がりがウクライナ以上に深い。この地域の独立運動に対し、黙っていたウクライナが力で抑え込もうとした。これが現大統領の方針転換だった。これを待っていたロシアは軍事侵攻で応えた。両国単位で見ると往々にして見誤るものだ。要はロシアは地域紛争に乗じて軍事侵攻へとつなげていく。この構造を理解しなければならない。

2014年4月17日分離独立派による行政庁舎などの襲撃事件が起きたウクライナ東部の都市を示した図。(c)AFP

チェコ人のカメラマンであり、このドキュメンタリーの監督であるユライ・ムラヴェツ Jr.はソ連崩壊後、独立した国々の現状を知るため各地を訪れた。これが「ウクライナから平和を叫ぶ」の元になる。彼は第三者として、政治的なことは何も言わない。ただ現状を伝える。ドキュメンタリーは2013年ユーロマイダンのシーンから始まる。首都キーウの独立広場における体制側の親露政策否定親EU政策への舵切りを求めたデモ、対する政府側の弾圧を伝える。これがウクライナ内戦へのプロローグとなる。2014年この革命は成功する。遂にウクライナは親EUへとシフトする。親露旧体制側であったルガンスクドネツククリミア共和国の独立宣言は同じ2014年である。内戦が始まる。8年前だ。ロシアの国家戦略である親ロシア地域支援名目の軍事侵攻は、ジョージアへ2008年、アゼルバイジャンへ2020年、ほぼロシア側が勝っている。ウクライナに対しても軍事侵攻は時間の問題だった。ロシアは機の熟するのを待っていたに違いない。ウクライナ侵攻理由がルガンスクドネツク両共和国の要請に応えたものとして国際法違反を逃れていることからも分かる。単なる軍事侵攻ではない。主体は独立宣言をした三カ国なのだ。ウクライナは国内紛争ながら地の利を生かせない理由が分かるだろう。ウクライナはロシアだけでなく内なる外国とも戦っている。

このドキュメンタリーに出てくるのは普通の人々、特別ではない、ただ、共通しているのは平和を望んでいる人々だということだ。平和は戦禍に苦しむ人間が求めるものであり、国以上だ。何故なら彼らは平和が来ない限り命の保証はない。戦争の惨禍を受けるのは寧ろ老人や子供だ。何故なら戦う兵士には武器がある。武器を持たなく、逃げ惑うのは弱い老人や子供だ。国破れて山河ありというが、停戦し、そこに住む人間の意思によって統治のあり方を今一度確認すべきではないのか?国への地域の帰属を争うから平和は永久に戦禍に苦しむ人間にやって来ない。罪がないにもかかわらず、戦争に苦しみ、逃げ場のない老人や子供を先ず救うべきではないのか、兵隊をお互い引き上げ戦争によって苦しんでいる人間の声を聞くべきではないのか。平和は彼らのものだ。このドキュメンタリーを見てそう思わざるを得ない。

奇しくもこの日は広島に原爆が落とされた日だった。77年経っている。しかし、この日を我々は忘れていない。何故か?戦争とは罪なき人々まで殺される恐ろしさを原爆が教えてくれたからだ。戦争を選択するのは国の特権だ。しかし、得てして殺されるのは普通の人々だ。戦争は力の弱いものから命を奪い去っていく。国に戦争のために駆りだされた人々も普通であれば人を殺すこと必要のない生活を送っている。戦争は人に人を殺すことを強いる。殺す相手も普通であれば人を殺すなんて考えも及ばない人である。

https://youtu.be/_d8C4AIFgUg

/https://bb-maybe.jimdofree.com/songs/war-edwin-starr-lyrics/

エドウィン・スターが1969年ベトナム戦争に反対する唄を米国でヒットさせた。戦争と言う歌。紹介する。歌の内容はエリーさんのHPから拝借した。戦争の悲惨さを一番表した曲だろう。グラミー賞を取っている。

戦争、ああ そうだ!何のためになるんだ?良いことなんてひとつもない 戦争、ああそうだ!何のためになるんだ?良いことなんてひとつもない もう一度言おう、みんな!戦争、ああ 気をつけろ!何のためになるんだ?良いことなんてひとつもない 聞いてくれ 戦争を俺は嫌悪する 無垢な命を奪うからさ 戦争で数千人の母親たちが涙を流す 息子たちが戦争に赴き命を落とすのだから だから言っただろ 戦争、ああ ああ神よ 何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない、もう一度言おう  戦争、ああ 主よ、主よ、主よ 何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない聞いてくれ!戦争 それは悲しみ以外の何ものでもない  戦争 葬儀屋だけの友人だ戦争は人類すべての敵 戦争のことを考えると頭がおかしくなる 戦争は若い世代に不安をもたらした 徴兵そして破壊を 死にたい奴がいるか?ああ! 戦争、ああ ああ神よ何のためになるんだ? 何も良いことなんてひとつもない、言ってくれ 戦争、ああ ああ、そうだ何のためになるんだ?何も良いことなんてひとつもない 聞いてくれ戦争 それは悲しみ以外の何ものでもない戦争 そのただひとりの友人は葬儀屋 戦争は多くの若者の夢を打ち砕いた 彼らに障害を残し、冷酷で卑劣な人間にした 戦争をするには人生は短く貴重すぎる 戦争は命を与えることはできない命を奪うことしかできない、ああ!戦争、ああ ああ神よ何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない、さあ言おう戦争、ああ 主よ、主よ、主よ何のためになるんだ? 良いことなんてひとつもない 聞いてくれ 戦争 それは悲しみ以外の何ものでもない 戦争 葬儀屋だけの友人だ 平和、愛、そして理解 教えてくれ、こんなものが入り込む余地は今はもう無いのか? 奴らは自由を守るために戦わなければいけないと言うでも主はもっといい方法があるはずだと知ってるさ 戦争、ああ ああ神よ 何のためになるんだ?教えてくれ、言ってくれ 戦争、ああ ああ神よ 何のためになるんだ? 立ち上がって叫ぶんだ 何のためにもならない

ウクライナの戦争の悲惨さは、優位であろうとなかろうと、戦争が続けば続くほど、国内を疲弊させると言うことだ。確かに軍事侵攻してきたロシアが悪いが、戦場はウクライナ国内だ。今やロシアは東から南へ戦いの場を拡大している。ウクライナ全土が戦場になることが考えられる。戦争前に戻す条件で停戦協定を結ぶべきだ。ルガンスクドネツククリミア共和国の独立を認めるべきだ。最早心が離れた国民は戻って来ない。武器を捨て、荒廃した国土をまず元に戻す、避難した国民を国内に戻し、復興支援を頼むのが先決だろう。戦争は何も生み出さず、国をただ荒廃させるだけなのだから。愛国心よりまずウクライナの子供たちの将来を考えるべきだ。安心して生きられる国を再構築しなければならない

それでも熊と戦うのか?

今、日本はロシアとの対決姿勢をアジアで唯一鮮明にしている。これは米国の意向に従った陽動作戦の一つに過ぎないと信じる。日本は自国を守ることを米国に委任しているから仕方ない。しかし、忘れてはいけない、熊の恐ろしさを一番知っているのは戦った猟師だ。日本が最後に戦った国はどこか?米国でも中国でもない、今はロシアとなったソ連。日本が無条件降伏を世界に宣言した1945年8月15日の後もソ連は満洲、朝鮮、南樺太、千島列島に侵攻してくる。将に死体蹴りだ。宣戦布告はこの6日前、日本はソ連参戦によりポツダム宣言受諾を決めたのだが、彼らは戦闘を止めなかった。ソ連の参戦と報酬は6ヶ月前の2月に既にヤルタの密約として決まっていた。東京大空襲の前、既定路線だった。これが分かるのは関東軍を駆逐した満洲をソ連は領有せず、当時の中華民国に渡し、旅順港、大連港のみを収穫としたこと。一方、全樺太、千島列島を領有しながら、北海道には攻めてこなかったこと。米国のテリトリーである。侵攻した朝鮮半島を領有せず、一旦連合国、実際は米ソによる分割統治としたことである。太平洋戦争で相互の中立条約により日ソは戦火を交えていない。寧ろ日本は敗戦に向け対米講和の斡旋をソ連に頼み、逆に弱みを曝け出してしまう。頼む相手を間違えた。藪蛇、足元を見られ、中立条約を一方的に破棄され、火事場泥棒的に攻められる。しかし連合国側のソ連は密約に従っている。日本との条約違反も悪の枢軸国に対する連合国にとって正義。忘れてはいけない。日本はナチスと手を組んでいた。同じ枢軸国側であったナチスは独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に攻め入り独ソ戦に突入している。連合国側にとってソ連の条約違反はナチスへの仇討ちに等しい。然もソ連はドイツとの戦いで犠牲者 2700万人に及びながら勝利し、連合国としての確固たる地位を獲得している。後は戦勝国のうち分け前をどのくらいもらえるかになっていた。ソ連の違法行為や火事場泥棒を日本が裏切り行為と糾弾しても所詮負け犬の遠吠えに過ぎない。既にこの時に連合国側米英露中仏の5か国中心国連の枠組みが作られた。今も連合国支配は続いている。

ソ連対日参戦は原爆投下と共に大日本帝国の息の根を止めるに充分だった。ソ連は侵攻に総兵力147万人戦車・自走砲5250輌航空機5170機を投入してくる。対する関東軍は総兵力68万人。戦車は200輌、航空機は200機に過ぎなかった。戦力を東南アジア線戦に取られ、最早ソ連軍に対抗できる戦力は保持できてはいなかった。連合国側は全てお見通しであった。満州は所詮日本の傀儡政権に過ぎず、自国軍はなく、日本の敗北は即満州の消滅であった。朝鮮も然り、日本の敗北宣言した日は即解放記念日となる。結果として日本側の死者は将兵約8万、民間人約25万、捕虜約60万、散々たるものだった。

ソ連対日参戦の敗北の意味するものは、日本が最早死に体にあったからだけではなく、ソ連のナチス撃破以降、破竹の勢いの強さにあった。その後の中国国共内戦朝鮮戦争とソ連は社会主義国家の設立に成功し、アジアからアフリカ、中南米まで戦後の世界の枠組みも作っていく。世界の半分を社会主義国家として赤く染め上げる。しかし、これはソ連の社会主義という教条主義に見え隠れするロシア帝国本来の覇権主義があることを東欧の国々は見破っていく。中国もまた然り、ソ連から離れていく。更にソ連内部での経済の停滞、硬直化が進み、崩壊していく。社会主義経済の難しさがある。柔軟性のない経済は硬直停滞せざるを得ない。世界経済は既に欧米を中心にイノベーションの時代に突入していた。中央集権的な覇権主義に対してソ連内部の共和国においても反感が生じ、最早同じ船に乗らず独自の経済発展を模索する時期に来ていた。1989年にベルリンの壁は壊され、1991年に多くの共和国は離脱を遂げ、ソ連は崩壊した。しかしここで勘違いしてはいけない。ソ連は、単に覇権主義の純粋なDNAを有するロシアに戻ったに過ぎない。

嘗てのロシア帝国は世界の1/6を占める2,280万㎢の領土を有していた。ソ連時代であっても2,240万㎢の領土は確保していた。新生ロシアは1,710万㎢と栄光のロシア帝国に比べると約1/4の領土を失うこととなる。それでも世界一の面積を有する国で、次のカナダが998万㎢1.7倍になる。広大な土地がロシアにもたらしたものは豊富な天然資源。石油、石炭は世界三位の埋蔵量、天然ガスに至っては1581兆立方フィートで、全世界の1/4を 占め世界最大。 これは二位のイラン(16%)を大きく引き離している。外貨の半分は鉱物資源で得ている。ヨーロッパからアジアにまたがる大地は各地で採れる鉱物資源を安く早く大量に需要先に供給できるメリットをもたらしている。広大な大地はロシアの生きる。大地の恩恵をどの国より受けている。従って、天から与えられた恩恵を独り占めするため、時によっては、天の要求以上に戦わなければならない分けても鉱物資源の確保を重視し、供給網や市場を脅かす国には内戦を誘発し、分断弱体化させ、反政府勢力への軍事的資金的支援によって政府転覆へと誘導する。それがジョージアとウクライナであった。今、ロシアが紛争地域として抱えているのは、他にモルドバとの沿ドニエストル共和国問題と日本との北方領土問題であることを忘れてはならない。ロシアの侵略は紛争を利用する。紛争地域からの支援要請を口実に戦争を開始する。これがロシアの常套手段だ。

ジョージア1/3に及ぶ地域がロシア軍によって分断された。ソ連時代黒海の真珠と嘗て言われたアブハジア自治共和国は1999年にジョージアから独立を宣言しているが、ロシアの後押しなしではありえない話で、単なる民族問題で分断されたかと言うと怪しい。アブハジアでは45%がジョージア人であり、アブハズ人に至っては17.8%のみだった。南オセチア自治州についてはロシア内の北オセチアとの統合オセチアとしての独立が主眼であったが、ロシアからは拒否されている。2008年、南オセチアへのロシア軍増強を見たジョージア軍がロシア軍と武力衝突に及び、戦争に発展した。将にロシア得意の喉元に匕首、結果としてジョージアは敗北し、両共和国をロシアは独立を承認し、ロシア軍は平和維持を目的に常駐し、この地域のロシア化を進めている。後のウクライナ戦争とは違い、ロシアはジョージアとの全面戦争とはしていない。ウクライナはこれを見て油断した。アゼルバイジャンにおけるナゴルノカルバル自治州はアゼルバイジャンにありながらアルメニア系住民の多い地域で、長く続くこの紛争にロシアは介入し、軍隊をジョージアの各自治州同様派遣している。アゼルバイジャンジョージアが欧米向けのBTCパイプラインがカスピ海から地中海へ敷設し、ロシア経由を避けたことに原因があると見られている。ただ、ロシアは2020年アゼルバイジャンと停戦合意に至っており、自治州の縮小を認めている。全面戦争には至っていない。喉元に匕首で終わっているが、恐ろしい脅しには違いない。モルドバにある沿ドニエストル共和国もロシア軍が駐留し、睨みを利かしている。モルドバルーマニアに近づきすぎないためであったが、今はウクライナにも向いている。ロシアはクリミアと繋げ、回廊を築こうとしている。ウクライナは四面楚歌になる。ウクライナには更に厳しい締め付けが待っていた。国連が認めないとしても常任理事国のロシアは拒否権の行使ができる。

2014年ルガンスクドネツクの両人民共和国がウクライナに独立宣言した。親ロシア派による建国宣言で、歴史的に鉄鋼業の集積地で、ロシアからの労働者移民の多い地域ではあった。同様に独立宣言を行ったのがクリミア共和国で、鉱物資源の多いアゾフ海や黒海沖を抑えるためにも重要な拠点である。こちらは独立し、即ロシアに帰属を求めることになる。クリミア半島西南にはロシアの軍港セヴァストポリがあり、ここも特別市としてロシア連邦へと組み入れられる。欧米は独立を認めず、ロシア制裁に入ったのは周知のことだ。ルガンスクドネツクをロシアが独立国と承認したのはウクライナへの侵攻の数日前で、同時に相互支援協定も結んでいる。国連憲章の集団的自衛権を根拠に両国を守るためウクライナを制裁する、即ち武力侵攻を正当化するためだ。将に詭弁第三国内の分離独立を求める地域の独立を第三国の了承なしに認め、支援協定を元にその国を侵攻することは正しいということになる。ソ連時代の覇権主義が蘇った。ウクライナにとっても東部地域は重要な稼ぎ頭であり、更にクリミア半島は黒海の要所を失う意味でそうおいそれと手放すことはできない。しかし牙を剥いた熊は恐ろしい。ロシアからヨーロッパに向かうパイプラインはほぼウクライナ経由になっており、何としても抑える必要もあった。

2月24日に戦争状態に入ったロシアのウクライナへの侵略は東部ドネツクからマリオポリを陥落させ、クリミア、ヘルソンまで達している。この戦争は2014年のドンバス戦争の当然の帰結と見える。最早怒る熊の牙を抜くことはできない。ウクライナも必死に防戦せざるを得ない。NATOは全面的に支援し続けるであろう。ロシアはこの戦争により完全に信用を失う。どういう結末になろうとロシアの権威は失墜する。ソ連時代から築いてきた国連における地位は各段に落ちるだろう。国連の体制の見直しも行われる可能性まで起きている。ただ、日本の立場として気を付けなければならないのは手負いの熊に気を付けろということだ。ロシアはけして領土は拡張するが、失うことは許さない。おいそれと北方領土を言うと手痛いしっぺ返しが飛んでくる。それが熊の怖さだ。日露戦争でロシアに勝ったと勘違いしたことが、太平洋戦争の悲劇を生んだことを忘れてはいけない。熊は必ず牙を剥いて襲ってくる。そんなに甘い国ではない。今は後ろ盾となっている米国も日本に対し、米国の許せる範疇でしか安全を保障しないであろう。米国もニカラグア、ベトナム、イラン、イラク、アフガニスタンで敗北し、方向転換を図らざるを得なくなった。矩を踰えてはならない

ロシアの侵略戦争によりウクライナの民間人の死者は3000人を超えている。軍人の死者は民間人より実際少ない。この対価に値する成果を生み出せるのか?ウクライナ政府は国民に回答を出さなければならない。戦争は外交の失敗であり、戦争の前に解決しなければならないことがある。ウクライナの大統領はロシアの大統領と戦争を開始するまで会話がなかったことが最大の問題ではなかったのかということだ。一方ロシア軍の死者は傭兵を含め23000人を超えている。攻めている側の方が死者が多いことはこの戦争が割の合う戦争ではなかったことを示している。「起こりうる流血に対する全責任は、すべてウクライナの領土を支配する政権の良心にある」とロシアの大統領はこう述べてウクライナ爆撃を開始したのだが……..戦争は両国にとり悲劇以外の何物も生みださない同じ民族同士で殺し合う意味と結末をはたして両国は理解しているのであろうか?

新型コロナ蔓延から学ぶこと

我々は学ばなければならない

2020年1月日本国内で新型コロナウィルス感染者が初めて確認されて丸2年が経った。2021年11月に収まりかけたにも拘らず、オミクロン株の急襲から、日本中への蔓延という新たなフレーズに入っている。けして収まらない新型感染症のパンデミックが我々に示唆するものは何か、我々はパンデミックに向き合ったこの2年間の経験から真摯に学び、そして後世に伝えなければならない。何が良くて何が悪かったか。判断を下すのは我々の子孫である。今までがそうであったようにこれからも我々はパンデミックと戦い続けなければならない。過去は未来の先生である。まずは如何に我々がパンデミックと戦ってきたか振り返ってみたい。

1656年に描かれたローマの医師。ヨーロッパにおける17世紀のペストの大流行の際、医師は、クチバシ付きマスク、革手袋、長いコートを着用し、感染を防ごうとした。不吉で象徴的なその姿は、今日でもよく知られている。(PHOTOGRAPH BY ARTEFACT, ALAMY)
ペスト菌から身を守る術

1.ペスト

我々人類の発展の歴史は常に疫病との戦いと共にあった。ペストから天然痘そしてインフルエンザ新型コロナ。避けては通れないであった。その中でも疫病の代名詞となっているのはペスト黒死病として恐れられ、ペスト菌ノミを介して血を侵し、敗血症を起こし、全身が壊死していく恐ろしい病気。凡そ7000年前に人への感染の痕跡がある。場所はラトビア、地中海に面した東欧、そして最初のパンデミックは1347年、4年間蔓延し、累計2億の人が世界中で亡くなった。そのころ世界は3億7千万の人口に過ぎなかったのであるから半分以上の命がを失われたと言えるだろう。このペスト、そのころの中国を起源としシルクロードを通し、世界中に広がった。新型コロナに似ていないか?このパンデミックにより日本でどのくらい亡くなったかというと皆無である。何故か?元寇の失敗で中国との国境が閉ざされたからである。ペストには有効なワクチンは今もない。罹った人間に近寄らなければ良いとしか言えない。検疫という言葉はペストによって生まれた。治療は今も抗生物質の注射しかない。この治療が実証されたのは1894年136年前に過ぎないのである。最初にパンデミックから何と1729年過ぎている。人類はペストへの恐怖と戦い続けてきた。1927年以降日本での感染者は出ていないが、アフリカアジアでは今もなお感染者が出ており、2010年~2015年、3248人が感染し、584人が亡くなっている。失われない死の恐怖が今も続いている。

牛頭天王

2.天然痘

疫病の中でも日本での戦いが長く深刻だったのが天然痘だ。ペストと違うのはラクダの疱瘡に由来し、人のDNAにより変異した天然痘ウィルスが元で、感染者との接触や疱瘡の飛沫によってに感染し、膿疱が全身を侵し、肺まで達した時、死に至る病である。仏教伝来と共に6世紀中頃朝鮮から伝播したとみられている。パンデミックが起きたのは737年、その頃の総人口450万の3割100~150万の命が失われたという。日本において中国の医書を元にした種痘が天然痘に有効と実証されたのは江戸後期の1789年であり、人痘法では天然痘に罹った人の膿を乾燥させ粉末にして鼻から注入するため、数%重症化する問題あった。一般に普及するのは牛痘法、即ちワクチンが出島を通して入るまで待たなければならなかった。実際、江戸で公けにワクチン接種が行われるようになったのは1858年である。更に明治以降も数度天然痘の蔓延があった。戦後ワクチン接種が進む中で1955年の完全撲滅まで天然痘の伝播から何と1400年以上の長きに渡って日本人を苦しめてきた。全くなす術がなく、宗教に助けを求めざるを得なかった。しかし神も仏も勝てない。最後に頼ることになったのが牛頭天王でなる。この神、実際は疫病神である。毒を持って毒を制する。将にワクチンに通じるものがある。ワクチンも牛痘由来のDNAウィルスを使う。天然痘から牛が人を救ってくれることを予感したのであろうか?不思議でならない。牛頭天王は明治の国家神道によって駆逐されることになる。名は失せ、天王神社或いは八坂神社(祇園神社)、或いは御霊信仰と結びつき、天神天満宮として残ってる。明治政府の意向に沿い素戔嗚尊菅原道真に取って代わられているが、実際は疫病と戦った牛頭天王を祀っている。天王は天皇のみとなり、見事に消された神である。名残は祭りとして、祇園祭蘇民祭天王祭八王子祭、或いは地名に残ることになる。祇園八王子天王洲と民衆は疫病から救ってくれる神を忘れはしないのである。

ワクチン接種で牛が体から

天然痘3100年前のエジプトのファラオ、ラムセス5世の遺体に見られた痕跡で最初とされる。最大のパンデミック1520年に新大陸としてヨーロッパによって征服される北中米、南米大陸で起きる。日本と同様、免疫がない中米のアステカや南米のインカ両帝国の先住民の人々はなす術ないまま、遂には新大陸で5600万の命が奪われることになる。征服される前のアステカの2520万の人口が107万に、インカは887万が60万に、最終的に95%の先住民の命が失われる。これは全てが天然痘によるものではないが、ヨーロッパからもたらされた疫病が要因であった。天然痘はペストが東から西へ向かったのと違い、西から東に向かう。2つの大きなパンデミックは交錯して世界中に蔓延した。天然痘との戦いは42年前の1980年5月8日WHOの地球上からの天然痘根絶宣言を持って終結を迎える。3000年以上戦った末、ワクチン接種が大きな要因として勝利となる。

戦争がパンデミックを引き起こす

3.インフルエンザ

20世紀を特長付けるパンデミックはインフルエンザであろう。20世紀は世界戦争の世紀であり、ウィルス蔓延の素地を作る世紀でもあった。20世紀初頭に起きた第一次大戦インフルエンザパンデミックを引き起こす。米国は途中参戦にも拘らず、ウィルスに感染した米兵が主戦場のヨーロッパに向かうことにより。参戦していた各国の兵隊にうつし、世界中にインフルエンザウィルスを撒き散らしたと推測されている。中立国であったスペインから悲惨な現状が報道されることにより、スペインかぜと不名誉な名を残すことになる。戦争はインフルエンザの蔓延により兵站が立ち行かなくなり、結果として早く収束することにはなったが、感染による死者は世界中に広がり、累計1億にも達することになる。スペインかぜ1918年6月から1919年4月まで波を作りながら世界中を蹂躙する。その頃ワクチンもなく、なぜ収束したか、今も分からないままだ。

渡り鳥がインフルエンザウィルスを運んでくる

ウィルスは北極圏、南極圏至るところに1千万以上眠っている。毎年ガンカモ渡り鳥が餌と一緒に啄み、せっせと運んでくる。そのフンが鳥インフルエンザを引き起こす。このままでは人間に感染しないが、アヒルを介すことにより変異し、人間にも感染する。では何故、渡り鳥はウィルスに感染し死なないのか?これは数万年の歴史の中で免疫ができているからだ。鳥が6600万年前滅んだ恐竜の進化形であることを思い出させる。人間も数万年というスタンスで考えれば、渡り鳥のように免疫を得られるかもしれない。スペインかぜの収束という謎は一種の免疫が自然に人間に備わったからかもしれない。ただ、今尚、インフルエンザウィルス変異を重ね、収束せず、毎年数万の人の命を奪い続けている。ワクチンを今は毎年打ち続けることにより凌ぐことしかできないのが現状だ。

スペインかぜとマスクで立ち向かう

インフルエンザ禍の歴史は長く、古代エジプトにも記録されているが、この名の通り、季節性一過性流行り病として歴史の中に埋もれていく。スペインかぜというパンデミックにより、初めて怖さが認識された。従来は感冒の一種とされ。かかる時期を耐えれば済んでいた。日本においてもスペインかぜで39万人の命を奪われた。見過ごせなくなった。変異ごとにワクチンを開発せざるを得なくなる。スペインかぜへの対抗策として生まれたのがマスク着用である。医療用を一般人も着けることとなる。これしかなかった。何とも心許なかった。

コロナウィルスを運んでくるコウモリ

4.新型コロナ(COVID-19)

コロナウィルスもインフルエンザウィルス同様、パンデミックを起こす前は単なる感冒として見られていたに過ぎない。江戸時代にも流行り病として記録に残っている。21世紀に入って、中国でのSARS、中東でのMERSの出現により危機感が募ることになるが、今回の新型コロナ感染拡大により最早、従来の見方を一変せざるを得なくなった。怖さは変異の早さと感染力の強さにある。将にパンデミックの申し子のように振る舞う。感染元はいずれもコウモリの可能性が高い。コウモリから動物に感染し、人に感染することとなる。この動物は中間宿主と呼ばれる。SARSがハクビシン、MERSはラクダ。新型コロナはセンザンコウが疑われている。何れにしてもコウモリがインフルエンザの渡り鳥のように飛んで自然界のウィルスを集めてくる。変異が中間宿主、そして人の遺伝子を介して進行する。動物から人へ、人から人へ、地域から地域へ、際限なく変異していくかのようだ。いつごろ、この変異が解け、落ち着くのか、ワクチンを打ちながら、待つしかない。最早宗教に頼る時代は終わった。しかし、変異が次から次へと起こると対応するワクチンととのいたちごっこが始まり、際限なくワクチンの開発が必要になる可能性もある。インフルエンザ同様だ。渡り鳥のように自然抗体が生まれるまで耐えるしかないのか。そして、強化すべきは検疫にある。外から如何に感染者が入らないようにするかである。世界の感染者は4.4億人、死者は既に600万人に達する。日本の感染者は500万人、死者は24000人。第二のインフルエンザにしない努力が必要だ。

新型コロナ感染者数日中比較

2019年9月、武漢の河南海鮮市場近辺での新規発症が見られ、感染拡大は11月、日本への感染は早かった。2020年1月には武漢から東京に帰ってきた邦人に感染が見られ、瞬く間に旅行者を通し日本へと広がったが、パンデミックとはならない。これは早い時期に中国でのパンデミック収束が成功したことと入国における検疫が功を奏した結果である。2003年のSARSの経験が生きた。パンデミックの危機を迎えたのは東京オリンピック開催時期前だ。先月世界中を沸かせた北京冬季オリンピックが終わり、次のパラリンピックを待つばかりだが、東京と北京の違いは新型コロナのパンデミック対策の違いにある。日本はオモテナシの国だ。コロナ対策が甘過ぎた。実際、日本のパンデミックの原因は東京だ。その後収束するが、北京においては全くパンデミックは起きていない。オミクロン株蔓延はデルタ株よりきついはずにも拘らずである。オリンピックを開催するのであれば、開催前から戒厳令を布くくらいの徹底策が必要だった。結果として無用なコロナ蔓延を日本にもたらす結果となる。中国との差が歴然であることを誰も認めようとはしない。オリンピックを開催するということは選手だけではなく、運営側の安全を前提にしなければならない。日本の提唱したバブル形式ピンホールだらけだった。然もこの時期まだ国民全員にワクチン接種がいき渡っていない。全対象者の2割程度に過ぎない。しかも特に危険な若者には全くと言っていいほど辿り着いていなかった。ピンホールだらけのバブル形式の受け入れ体制の中、ワクチンの防御なしでオリンピックを迎えることになった。全く暴挙としか言いようがない。都民ファーストがオリンピックファーストにいつの間にか置き換わった。https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/olympic_paralympic_infection/https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000809571.pdf

一方、北京オリンピックにおけるバブル形式は鋼鉄のバブルだ。抜け道がない。パンデミックを防ぐにはこの手法しかなかったであろう。https://number.bunshun.jp/articles/-/851870?page=3

更に追い打ちをかけたのがオミクロン株の蔓延だ。これも水際対策の不手際だ。内なる外国にしてやられたとしか言いようがない。検疫強化、海外からの渡航者の受け入れを禁止し、国民に不要不急の外出を禁じた中で、昨年12月15日沖縄米軍基地からクラスターが襲ってくる。それが山口岩国基地に感染し、本土攻撃が開始された。将に寝耳に水だ。オミクロン株の蔓延は米国を中心にした欧米・インド中心である。日本は米国からの感染によって始まった。在日米軍は日米地位協定によって、日本の検疫外で、検疫義務から外されている。米国で感染した人間でも自由に日本に入り、外でマスク無しで遊び、飲める訳だ。オミクロン株の世界的蔓延を理由に米国は本件の責任逃れをし、地位協定の見直しに応じることはないし、日本の現政権も地位協定の見直しに及び腰であることに将来の恐怖を覚えるしかない。占領軍優先は敗戦国の宿命である

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/76599.html

3月に入って感染状況
2度のパンデミックは東京と沖縄で起きた

原因があって結果がある。結果から原因を辿ることが重要だ。細菌学の権威ルイ・パスツールが証明した通り、腐敗は菌があって始めて起こるものであると言うこと。市中感染はその前に外からウィルスを持ってきた人間がいたからとなる。検疫をしっかりしていれば起こりえない。何処で検疫逃れが起きたか追及しなければならない。島国は海外からのウィルス伝播を防ぎやすい。今回のパンデミックの原因は例外を許したことにある。オリンピック内なる外国の存在に甘いオモテナシをしたことである。これを肝に銘じ日本人は歩み続けるべきだろう。人類の英知がワクチンを生んだ。体の状態により打てない場合があっても、打てる人間は打つべきであろう、自然抗体が渡り鳥のように生まれるまでは。人も何れ鳥のように飛べる時が来るかもしれない。その時ウィルスは怖くなくなるに違いない。

は”そら“と”くう“と両方読める。空を”そら“と読むか”くう“と読むかで、全く違うイメージになる。”そら“にはただ遠く明るい未来を感じ、”くう“には虚無的で難解な無常観を感じる。2つの異なったイメージは不思議に”“で一緒になることが分かる。

塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた「空」

そら”は元々は地や人の上の全て、天井、天道、天国、神にもなる。は余りに漠然とし、大きく、広すぎる。天と地の間を身近に表すものが必要だった。それが”そら“。ヒントは天空にある。天空は天の下の限りなき空間の下の広大な空間を示した。が我々を包む大きな傘とするとその下は何もない、の世界に見える。即ち大空である。天空から天と地の間に置いた。そら”である。の本意はくう=何も存在しない、本来、見ることも触ることも感じることもできないが、実際は何かある。は”そら“の意を得て単なる虚無から無限に、空虚から空間虚空としての有へと大きな広がりを持つこととなった。”そら“にはがあり、が流れ、が降り、稲妻が走り、が渡る。は幻想を生み、は恐れを生む。が昇り、沈む。が彩を与え、々が無限の宇宙を表す。山々に日の光は陰影を与え、美しさを表現する。の美しさは色の変化にある。夜明けの朝の空は蜜柑色、昼間はく。夕暮れに近づきまた蜜柑色になり、夕焼がく染め上げ、色になって夕闇となる。

くう“を表す言葉として一番相応しいのが色即是空。色あるもの全ては空虚般若心経に記されている。仏教の神髄とはゼロの元になった言葉で、ではない。器がありその中が空っぽと言う意味になる。満たせば元に戻る。空即是色、即ち存在としての空がある。全否定の全く何もないとの違いがここにある。この世は空しいがお終いではない。悟りなさい悟れば道は拓かれる。ということだ。ゼロを発見したのは仏教発祥の地インドである。数字の国、お金を発明した中国でさえ、ゼロを発見することはなかった。10と言う数字は一桁の0(ゼロ)があって初めて“十”となる。ゼロは必要なのだ。くれぐれもではない。1にも2にもなる。実在としての無,即ち空。例えば空気がそうだ。空気があるから人間は生きられる。見えないが、空気はある。”そら“に通じるものがある。”そらの色の美しさは、”くう“即ち大気の存在があって初めて変化する。何もなければ美しい色には変化しない。の光が大気圏の粒子に反射し、”そら“に光の7色それぞれの拡散性の違いによって色を着けるのだ。”そら“の色は大気圏にぶつかる光の角度と距離によって刻々と変わる、”そら“は蜜柑色から青、赤、紫に変化する、これは将に光と大気が織りなす幻想に過ぎない。雲の白さもの光の造りだした色に過ぎない。正に”そらの色全ては幻想実体のない色そのものだ。”そら“と”くう“が正にで結びつく。

乾徳山山頂からの富士

地球をリンゴに例えると大気圏はリンゴの皮の半分にもならないくらい薄い。その中で我々は生きている。山に登ると遮るものがない。空は更に広く、美しく感じる。標高が高くなるにつれの青さが増し、の白さを浮き立てるだけでなく、下界をもくっきり映し出す。空に近づきたくて山に登るのかもしれない。大気圏の薄さに我々の存在の呆気なさを感じる。全ては幻想色即是空。だからこそ我々は山に登り、儚い自分の存在を知る。塔ノ岳の尊仏山荘に飾っていた言葉「空、森羅万象、空より生じ、空に帰す」宗堂。深い。胸に沁みる。そうか皆、最後はに戻るんだ。このは”そら“と”くう“。

中華そばのなぜ

55年以上前、ラーメンなぞなかった。あるのは中華そばだった。しかも、中華そばは中華料理店で食べるもの。つまりラーメン屋なるものもなかった。中華そばは中華料理の一つで、けしてメインにはならなかった。まずチャーハン。チャーハンがあって初めて中華そばだった。しかも中華そばの汁はチャーハンについてくるプチスープ。甘酸っぱい澄んだ鶏ガラ醤油味。これにシャキシャキの刻みネギ。これが全く中華の味だった。日本にはなかった今も忘れられない味。家族で週末になると中華料理を街中まで食べに行くのが楽しみだった。店の名は珍珍亭。街角にあり、摩天楼の如き町一番の立派さで、外には街頭テレビがあった。イの一番に中華料理の主菜、チャーハンは外せない。そして中華そばになる。皿とどんぶりの縁には必ずグルグル模様、雷紋があった。家にもこのどんぶりと皿があった。これが中華料理の基本。器と料理が表裏一体だった。最早失われた光景と思いきや未だ残っていた。町中華だ。町中華はほぼ日本人の店主、中国なぞ行ったことがないし、中国自体に興味もない。顧客対象はあくまでも日本人。中華料理を継承しながら、中国とは全く無関係。只管、日本の中で全く日本的な中華料理文化を継承している。

中華そばが他の中華料理を押しのけ、主役に躍り出たのは日本の地域に根ざした味を生み出す麺と具とスープの三位一体の七変化の妙だった。更に即席麺を世に出す。中華そばの偉大さは日本に根付き、中国本国から離れ、日本独特のラーメン文化を創り出し、一方で世界中にインスタントラーメン文化をもたらしたことにある。チャーハンの端役だったのが、主役に躍り出て世界を席巻したことに驚かされる。

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日本生まれの中華どんぶりと皿

私は中国に長く駐在した。東から北、西、南至るところででラーメンを食べた。しかし、雷紋のインパクトあるデザインのどんぶりや皿を何処でも見たことはなかった。インターネットで調べると、何と日本オリジナルだった。考案したのは浅草かっぱ橋陶器卸商と言うから驚きだ。古九谷焼のデザインが元という。道理で我が家にもあった訳だ。今でもインタネットで購入できる。料理は器からという。中国趣味の器により日本の中華が本場の味に仕上がっている錯覚を起こさせることに一役買っているのに違いない。

https://athleterecipe.com/column/21/articles/1872055

そもそも中華そばは中国の蕎麦のような麺料理の意味。中国ではありえない具が乗っていた。理由は中国の味付けに少しでも近づけるための苦肉の策。コスト日持ちを考えて編み出した赤いチャーチューナルト。更に日本人の拘る蕎麦の具を掛け合わせた意地が見えるのが海苔。中華そばは蕎麦ではない。寧ろ、うどんや素麺に近い。なのにそばと呼ぶのは何故?中華そばからラーメンになったのは何故?何処が違うのか?考えれば考えるほど不思議な魅力が尽きない中華そばは今や日本のソールフードとなった。

昔ながらの味!横浜といえば【赤い叉焼(チャーシュー)】 | 中華工場直売所 好(ハオ)の店長ブログ横浜名物赤い炭火焼豚
昔懐かしい赤いチャーシュウ

1.赤いチャーシュー:小さいころ、中華そばのチャーシューの縁が何故赤いのか、不思議に思っていた。中国でもラーメンに赤いチャーシューが入っていたのを見たことがない。このチャーシューは中国では明炉叉焼と言い、広東料理では飲茶の点心。焼いて紅糟に漬け込むので、日持ちするし、甘い味と色合いと固めの弾力ある食感がチャーハンに向いていて、切り刻んで入れていたのが焼き豚チャーハン。これを大きく切ったものが中華そばに入っている。両方に使えて経済的。こりゃ、チャーハンのスープの中華そば兼用と一緒。但し、焼いて干してあるため固く、柔らかな肉を寧ろ好む日本人の嗜好から煮込んだ三枚肉に今は変わってきている。正式に言うと最早チャーシュー(焼き豚)ではなくなったということ。

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ナルトとむきエビ

2.ナルト:中華料理に何故ナルトなのか?疑問に思っていた。勿論中国でラーメンにナルトなんて見たことはない。関西でも元々ないらしい。まして徳島の鳴門とは関係ない。中華料理ではむきエビが基本。しかし、コストからみるとかまぼこが断然安い。チャーハンではナルトが細かく切られて入っている。赤と白の色合い優しい触感海老の代替となる。しかもナルトはかまぼこに比べつなぎが多く、かまぼこの魚臭がなく、ぷりぷり感が少ない。中華料理にも合う。関東煮に入っている代表的かまぼこで汁の味を引き立てる。皆さんご存知か?関東煮の由来は中国広東煲湯からとか、山東省の魚丸を煮たものから始まったとか、将に中国と縁がある。本筋のかまぼこほど存在や味を主張せず嫌味にならない。中華そばでは、大きく輪切りしたナルトのデザインがどんぶりの縁の雷紋とマッチする。チャーハン、中華そば両方で使えるところに味噌がある。チャーシューに繋がる使われ方だ。ナルトが採用された訳がここにある。今もナルトは生きている。嫌味の無さデザイン的面白みも大きい実に理にかなった具なのだ。そして今や中華そばになくてはならない存在https://www.kibun.co.jp/knowledge/neri/basics/zukan/narutomaki/index.html

東京ラーメンの再現 ワンコインver.@自作ラーメン レシピ&作り方 | ラーメン探究日記箱根そばが「かけそば回数券」の販売再開 期間限定で割引に - 小田原箱根経済新聞基本となる“かけうどん”“うどんつゆ”のレシピ/作り方:白ごはん.com
中華そばと蕎麦とうどん

3.海苔:中華そばには海苔。これは蕎麦とうどんのワカメに呼応する。鳥ガラのスープにワカメは合わない。然らば海苔。あくまでも黒のアクセントに拘る日本食の特長を出している。中華そばは浅草で生まれた。海苔は浅草の誇り、忘れざるべきものだ。然もワカメと違い、海苔に嫌味がない中華そばの味を邪魔することはない。ナルトとかまぼこの違いにも通じる。

定期航路を見る|公文書にみる明治日本のアジア関与 -対外インフラと外政ネットワーク-日本商船・船名考 (ⅩⅩⅩⅩⅦ)
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1875年に始まる横浜上海定期航路の運行。日本で中華そばを誕生させたかん水と職人が上海から。

4.中華そばは何故そばなのか?:中華そばは勿論蕎麦ではない。蕎麦粉からではなく、純然たる小麦粉で作る。従って素麺やうどんの仲間である。然るにそばと呼ぶのは中華そば麺の細さとこしにあっただろう。それでは沖縄のそーきそばはどうなのか。太さはどう見てもうどん。実際、そーきそば中華そばが名の元。日本蕎麦とは関係ない。沖縄の中華そばの意。それでは素麺うどんと言わないのは何故か?違いはかん水を使っているか否かに過ぎないのだがこれが大きい。かん水が曲者。小麦粉を様々な形と色、食感、香に変える。中身の濃さを変えるだけで札幌ラーメンから喜多方ラーメン、九州ラーメンと変幻自在。正に魔法の水。かん水は梘水と書く。或いは鹹水。これは蒙古の鹹湖の水を用いたからで、この水で小麦粉を捏ねたとき独特の麺が生まれた。中国の麺の誕生。1700年以上前と言う。かん水はカリウム、ナトリウム、リン酸のアルカリ混合液で、戦後、日本は中国から入らなくなり、独自製造することになる。それまでは中国からの輸入。安定供給を可能にしたのが1875年に始まる上海と横浜をつなぐ日本初めての海外定期航路だった。定期航路の大きな意味合いはかん水輸入のみならず、中華料理の具材から道具、何より大きかったのは中国の料理人、麺職人の来日が可能になったことだ。横浜に中華街が生まれる契機にもなる、1910年横浜税関職員だった尾崎貫一氏が浅草に初めて中華料理屋来々軒を開店した。出したのは焼売とワンタンと柳麺(ラウメン)であった。料理長は上海人だ。今も祐天寺で続く来々軒はこの上海人の系譜でつながっている。柳面は細くこしがあり、まるで蕎麦の如きだったろう。上海人は細い麺を好む。味は正に甘酸っぱい澄んだ鶏ガラ醤油味。昔懐かしい中華そばの汁。私の追い求めた中華そばの味は上海で今も生きている。https://www.youtube.com/watch?v=PXDE5My7mSY

祐天寺の来々軒と元祖東京ラーメン

初めて中華そばを食べたのは水戸光圀公か否かで話題になっていたが、麺と言えば既に素麺うどんが早い時期に中国から入ってきており、誰が先に食べたの問題ではなく、中国帰りのお坊さんが既に麺類を食していたのは明らかであろう。素麺は中国では精進料理の麺で宿坊で食べられる。インターネットで調べると索餅が索麺となり、素麺と混同されたとあるが、無理ではないか?天津で麻花が索餅として有名だが、これをほぐすのは並大抵ではない。はっきり言って無理な話だ。索とは縄のことで、素麺は細く柔らかい麺で、縄は想定し難い。素麺は仏教と一緒に中国から精進料理として入ってきたと考えるのが自然だ。お坊さんは鳥ガラスープのラーメンは食べられなかったからだ。

素面(亲手擀的面味道才对)的做法图解12索餅(さくべい)」は通販で買える?!七夕の伝統的なお菓子【グレーテルのかまど】」 - 明日は何を食べるかな
中国の素麺と索餅

うどんは中国で言う餛飩(hún・tún)からきたのではないか?ほうとうも似ている。中国で食べる餛飩の味付けは日本のうどんと似ていて、魚介類スープにワカメが入っている。あっさり食べられる。日本ではワンタンと言うが、中国ではフントウンになる。ワンタンの具を取るとうどんそのものだ。素麺、うどんともかん水を必要としなかったから日本で広く食べられるようになったのであろう。仏教伝来と深く関係ある関西の食文化に根付いていることからも理解できる。

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5.中華そばは何故ラーメンに名を変えたのか?:1960年代、高度経済成長の中で付加価値を上げる時が来ていた。そばの名がつく限り立ち食い蕎麦の価格に縛られることになる。主食に躍り出て、別の価格体系を創造するにはそばの名を外さざるを得なかった。そして、中華の縛りを解き放ち独自の麺を表現する時がきていた。かん水の国産化と使い方の妙を既に取得していた。日本独特の魚介類スープと具を試す時が来ていた。海外でも通じる言葉、ラーメンになることにより日本国内だけでなく世界へ市場が拡大。これが大きいだろう。ラーメンの最初は札幌ラーメン中華ではない日本の北方産の独自のラーメンとして全国にチェーン店展開を開始した。有名だったのがどさん子だ。ペリカンの嘴の下部分がどんぶりになっている。味噌バターコーンラーメンを編み出した。麺は黄色く縮れた太麺だった。ご当地ラーメンの先駆けだが、けしてご当地ではなく、東京が創業の地で、札幌とは関係がなかった。丸亀製麺が似ていると言えば似ているが、ロードサイドに爆発的に出店し、最盛期全国に1,157店舗あったと言う。日本最大のラーメンチェーン店だ。日高屋、幸楽苑でも400店舗、丸亀製麺で800店舗。急拡大した理由がインスタントラーメンの拡販時期と重なるからで、サッポロ一番味噌ラーメンが爆発的に売れた時期に重なる。日本独自の味噌、塩味を登場させた。全く従来の醤油ベースとは一線を画すことになる。そしてラーメンの時代を創出することになる。まさか世界に通じることになろうとは。今や日清の命名のカップヌードルは世界の言葉になっている。市場の7割は日本ではなく海外になっている

消えゆく「どさん子」】「味噌バターコーン」はここで知った : SAMのLIFEキャンプブログ Doors , In & Out !世界で一番インスタントラーメンを食べる国はどこ?日本と韓国のラーメンの誤解 | モンモンイのある日ラーメンと子ども
札幌ラーメンで始まったラーメンはカップラーメンとして世界中に広まった。今は中国が消費量No.1

20年前、初めて上海から蘇州へ汽車に乗った。あの頃新幹線なぞない。大陸横断鉄道のような古く大きな鋼鉄の厳つい車両。正直汚かった。満席。昼時で、皆カップラーメンを抱えている。何とでかい、子供の顔くらいあった。車掌は若い女性で、何とコマーシャルで一世風靡した大きなやかんを持っている。お湯はサービス。もう既にカップラーメンは中国に根付いている。2019年、年間414億個のカップラーメンが中国だけで消費されている。驚きの数字だ。これは全て明治時代、上海から麺職人が日本に渡り、かん水の使い方と麺の打ち方、スープの調合、具の合わせを教えたから生まれたもの。無心でカップラーメンを食べてくれる中国人の姿に日本として少しは恩返しをしたのではと今思っている。

ギョウザと満洲

ぎょうざの満洲の餃子

駅前のぎょうざの満洲で餃子をつまみにビール。師走の空の下、忙しそうに街行く人を傍目に眺めながら。日頃何気なく見過ごしていることに呑みながら考えるとハタと気が着く。何故この店の名前は満ではなく満なのか?何故餃子ぎょうざなのか?店員に聞いても分かる訳もない。創業者に会って直接聞けば判るだろうが、瘋癲呑兵衛に付き合うほど経営者に暇はない。コロナ禍で経営も厳しくなっているであろうし、大枚を叩いてくれるでもない半爺のお付き合いなんて時間の無駄でちゃんちゃんになるのが落ち。然らば時間のある呑兵衛は自分なりに考えてみる。これが暇な呑兵衛の特権である。時間はいくらでもある。金と命に限りはあるが。

wiki pedia外満洲から抜粋

満州か?満洲か?教科書で習ったのは満州。日本の傀儡政権であった満州帝国をほぼ指す。一方、中国では満州満洲は日本では八重洲や中洲など海や川に自然にできた土地のイメージだが、中国では更に民族までも意味する。満洲は嘗て広大な土地を有する国だった。更に世界一の帝国であったは実際この満洲から生まれた。満洲が実際先で後になのだ。外満洲は今やロシア領になり、ウラジオストックハバロスクなどが有名だ。外満洲を含めた満州の総面積は155万㎢になる。日本の4倍強。今では、中国では満洲は満族になり、少数民族の一つに過ぎない。満洲イコール日本の傀儡政権の意味で、既に歴史の中で消えた国家。今でも小数民族の人口としてはウィグル族、チワン族に次ぐ3位1千万人強である。これだけの人口を有しながら遼寧省、河北省、吉林省に11満族自治県があるのみで州クラスがなく、文字や言葉も認められていない。内モンゴルとして少なくとも言葉、文化、自治区が残っているにも拘らずだ。中国に駐在していた際、何度か満族の方に会う機会があった。全く漢民族と区別できない。同化が進んでいる。お話しすると親日的な対応をして頂ける。何か申し訳ない気持ちになる。私が中国に足掛け9年間中国にいたが、”にほんじん”と言われたのは昔の満洲の領地の遼寧省の大連だけだった。北京ではルーベンレン、上海ではサパニン、成都ではズーベンレン、香港ではヤプンニャンだった。中国では様々な日本人の発音があり困惑する。

満洲から生まれたは、最盛期世界のGDPの3割の富が集中したと言われている。中国では大清帝国とされる。が日本の配下で満州国として復活を図ったが日本軍にそれだけの力がなかったし、実際中国全土を制圧なぞ到底無理な話であったろう。中国の奥地は遥か遠く、深い。日本が早晩力尽きるのは火を見るより明らかだった。苦し紛れに米国に戦いを仕掛け、敗残する。最早人民政府の政権下で満洲の文字や言葉や文化の消滅が進む。2年前で満洲語を母語とする方は15名に過ぎないと言う。遥か遠く、西のカザフスタンとの国境近く、新疆ウィグル自治区のシベ族3万人ほどが満州語を伝えているとは驚きだ。消滅危機言語の一つになっている。尤も日本のアイヌ語も母語として話せるのは15人に過ぎない。厳しさが一層だが。

満族の女優では内モンゴル出身の葉青と香港出身の関之が有名。日本の三大美人で有名な秋田、新潟、博多。遺伝子研究により共通点が明確になった。これは満洲の血にある。全て日本海側、はるか昔、渤海国との交易で栄えた地であった。渤海国は698年から926年に栄えた、契丹と共に満洲の礎を作った国だ。日本とは奈良、平安と密接な交易関係を持ったと史書に遺してある。港に美人あり。渤海国の血を繋いでいる。日本と満洲の間には長く深い歴史がある。

新疆ウイグル自治区の中のチャプチャル県の位置Sealeg25.png葉青個人資料満族の身体的特徴 | 元チャイナドレスの実績日本一 店長の運営ブログ渤海の位置
新疆ウィグル自治区イリ・カザフ自治州チャプチャル・シベ自治県と満州語、満族の女優の葉青と関之林と渤海国   

最近ドイツなどの研究者チームが発表した「日本語の起源は中国東北部のキビ・アワ農家」と言うのが面白い。正に日本語の起源は満洲になる。何処か故郷に近い親近感があった。中国の東北部に出張する時、朝、ホテルでアワのお粥が必ず出る。日本では鳥の餌でしかないアワが実に美味いのだ。満洲のアワは品種が違うとのこと。これも驚きだ。道理で美味い。日本語は昔はウラル・アルタイ語系として西はハンガリー、フィンランド語からユーラシアを横断し、トルコ、モンゴル、ツングース、朝鮮語と同じ系列とされてきた。実際、フィンランド人の言葉を聞いたが、チンプンカンプンで同じ語系列か分からなかったが、彼らも難しい言語と自ら認めていた。今はトランスユーラシア語系と言う。日本語満洲起源説に見るストーリーとしてはキビ・アワを食していた9000年前西遼河に住んでいた満洲族が稲作の適地を求めて日本に下って行き、稲作と同時に言葉と言う文化も伝えたことになる。因みにアワは中国語で小米と言う。米は大米だ。小麦の無い時代、アワでラーメンを作ったのがラーメンの始まりとされるぐらい古い主食だ。稲作は中国南部で始まり、弥生文化として日本に入ったことになっており、このストーリーに沿えば満洲から朝鮮経由で文化と共に入ってきたことになる。弥生人が大陸系であることはよく判っており、肯ける部分が多い。今中国東北部(満洲)は中国有数の稲作地域になっており、この米は寒さに強く北海道で品種改良されたジャポニカ米だ。故郷への恩返しのようで嬉しいではないか。

私が中国遼寧省を訪問したのは15年前の冬鞍山から盤錦までバスで移動した。車窓から凍土と化した大地に没する太陽を見た。満州を開拓しに来た日本人を想い、暫し沈思黙考したことを思い出す。省都の瀋陽には東京駅にそっくりな駅舎が残されており、驚く。街中を歩くと美しい女性が否が応でも目に入る。背が高く、足も長い、しかも顔が小さい。モデルの様な女性が多い。明らかに南方の中国人とは違うのが一目瞭然。やはり今思うと民族が違うのだろうかと思わせる。更に大連近くには二百三高地が残されている。軍港が近く、基本的には日本人は近寄れないようだが、黙っていれば判らないと言われ見に行った。日露戦争の跡がそのまま残されていることにまず驚かされる。因みに中国人から初めて”にほんじん”と言われたのは大連から瀋陽に向かう電車の中だ。

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アワと日本語の起源   

日本に残る満州語で一番有名なのがぎょうざではないか。満州語辞書によると餃子はgiogiyan efenと発音する。ギョウジャンフェンである。これがぎょうざになったのでは?意味は餑餑(だんご)。黍を軟かく蒸して槌で叩き小豆餡を入れて長目に作り、油揚げしたものとなる。水餃子はhoho efenで別になる。日本と一緒で違うものになる。中国では基本的に餃子イコール水餃子だ。戦前は中国語をそのまま使った”じゃおず”がレシピに残っている。ぎょうざの満洲が何故ぎょうざと敢えて使っているか意味が分かる。満州語だからだ。一説によるとぎょうざは宇都宮の方言とまで言われているが、そうではない。満州からの復員兵や引揚者が中国を懐かしみ食したとされるが、それは水餃子のはずである。然も水餃子を焼いても美味くはない。全然別物だからだ。最初から焼き餃子として作らなければ味は出ない。それを教えてくれたのは、上海の屋台で食べた焼売(鍋貼)だ。生煎包とも言った。作り方が日本の餃子と一緒なのだ。これが日本の一般的な餃子になったのだろう。考えてみれば、昔北海道ラーメンが一般的になる前、ラーメンはシナソバだった。中華料理店で出すシナソバは薄い醤油味の酸っぱいスープにストレート麺だった。私が上海で初めて食べたラーメンと味が一緒だったのでこれも驚いた。中華料理が一般的になる前、日本人が主に食べていたのは上海料理だった。それは革命の度に日本に逃れて来たのが上海人だったからだ。上海では普通に焼き餃子を食べる。ここが他の一般的な中国と違う。

北方の中国では餃子は主食であり、ごはんと一緒に食べるものではない。日本人は何故餃子をおかずにご飯を食べるのかと中国人に聞かれたことがある。そう水餃子であればこれだけでお腹が膨れるのでご飯を必要としない。しかし焼くと主食から離れつまみとしてビールに合うし、ご飯にも合う。これは日本人の発明した食べ方であろう。また、中国では餃子を引っ繰り返すことはしない。あの形が重要なのだ。中国のお金の形なのだ。馬蹄銀(元宝)と呼ばれ、縁起物でもある。しかし、屋台の焼き餃子であれば、焼き面を上にするのは焼き具合を見るため必要となる。そもそもそこが違う。こだわりを忘れ、ぎょうざの満洲でビールと餃子、至極の時を過ごせることに日本人としての喜びを感じる。日本は中国から美味しい文化を取り寄せた。極東の文化の終着点でいいとこ取りができた。何と幸せなことか。

立花隆氏を悼む

この春4月に立花隆氏が亡くなられた。学生時代、遥か40年前になるが、大学で『田中角栄研究~その金脈と人脈』の講演をして頂いた。大学内外から数百の人々が集まった。田中御殿のお膝元目白で開催したことが世間に大いに受けた。主催した我々も留飲を下げた。立花氏の事実を事実として訥々と集まった聴衆に語り掛ける凄み。真実を何処までも追及する鋭い眼力。しかし、あの頃、まだジャーナリズムの金権政治批判が田中角栄を首相退陣へと追い込むも権力の座から引き下ろすには非力だった。学生だった我々は全てに金の力を優先させる世間の風潮が許されないと言う思いがあった。その後ロッキード事件が米国側から暴露され、遂に窮地に追い込まれる。立花隆氏の言葉で今も記憶するのは「権力は腐敗する」だった。

宇宙からの帰還」読んで飛行士になった 野口聡一さん:朝日新聞デジタル

彼はその後、マスメディアの寵児として様々な分野に足跡を残すことになる。政治的なコミットメントは最早、彼にとって本来の興味の対象には小さすぎたようだ。もっと大きな次元で”真実”を追求しようとしていた。大学での講演からすぐに発表された『宇宙からの帰還』は将にその後に追求するものが何なのか、明確に示された。大学で角栄研究の講演をされた時も実は彼の心は最早既に宇宙に旅立っていたのかもしれない。次元が違っていた。この本は、宇宙から地球に戻った飛行士の精神的な変遷を追い、掛け離れた経験から人間の精神が如何に飛翔を遂げるか、人間の精神構造の不思議さを問う最高の傑作だ。ここから人間の思考回路を問う『脳を極める』『臨死体験』へと人間の内面的宇宙の世界に入っていくことになる。は脳にあるのか?脳死はどう判断すべきか?死に臨み人間が幻想を見るのは何故か?議論を突き詰めていく。2000年以降、心から更に体の不思議へ。細胞の癌化という問題。癌は自己細胞の変異であり、癌を殺すと言うことは自らの細胞を殺すという矛盾点を衝いていく。

立花隆氏は2007年に膀胱癌を患うことになる。私もその3年後に同じ病に罹り、彼の文芸春秋に書かれた手術に至るレポートを熱心に読むこととなった。彼は更に2014年に癌が再発、癌の除去手術を再度受けられている。その時の癌映像を見ており、癌が上皮内癌(stage1)と思われる映像を見ている。私も同様にやはり発癌から8年後再発している。膀胱癌は再発率の高い癌と言われ、放っておくと転移性癌へと変異していく。モグラタタキ的な抗癌治療が続けられることになる。癌細胞がなかなか消えない。私は半年以上続け、音を上げることになった。私のようなガンサバイバーにとって彼が何故亡くなられたのか、どうしても気にならざるを得なかった。

膀胱癌に罹って肺に転移を公表された小倉智昭アナウンサーの件は心痛む。膀胱癌は膀胱内で収まっていれば問題ないのだが、膀胱の壁を越え転移が始まると治まらない。松田優作氏は癌が腰部に転移したことにより39歳で亡くなられている。立花隆氏が抗癌治療をされたか否かは報告されていない。寧ろ、高血圧と糖尿病に苦しまれていたことが報道されている。私も40歳代は両方に苦しんでいた。高血圧は眠れず、糖尿病は四肢を麻痺させる。全く生きながら、将に植物人間の苦しみを味わう。2014年9月14日放送のNHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」に出演された彼の姿はすでに限界に達しているかに思えた。番組の最後に23年ぶりに再会したレイモンド・ムーディー博士をアラバマ州の家に訪ね、語らうシーンは彼の死を予感してならない。死を素直に受け止めたい彼の本心、そして最後に逢いたかった博士と昔を懐かしむシーンは生きている間にどうしてもとの思い入れを感ぜざるを得ない。既に死を準備していたのか。

https://www.dailymotion.com/video/x260cx5

昨年1月のデモクラBOOKSのYouTubeチャンネルで、立花隆氏との生前最後の元気な姿を見ることができる。いまこの本を読め・第12回 立花隆『エーゲ 永遠回帰の海』。彼は自分の人生をまとめる。角栄研究で得たのがエーゲ海への旅。彼は日本の政治の暗部を追究する中で虚しさを感じたことを語っている。自分の進むべき道は哲学そして科学的真実の追求であるべきと、人生の最終章としての原点に回帰すべくエーゲ海に心が向かう。最早、彼の中で田中角栄から繋がる、否、岸伸介から今まで延々と繋がってきた政治権力の二重構造も些末な問題とここで片づけている。最早日本の歴史を俯瞰的に捉えているようだ。エーゲから飛鳥へ、日本の天皇の歴史の言及している。どんな困難や問題があろうと乗り越える民族であると結論付ける。彼が最後に伝えたかったのは過去の肯定ではなかったか、未来は過去の上に積み重なっていく。基本は哲学であり、その上に科学がある。基本がしっかりしていればいいのだと。人は年を取ると様々な角度から見えるようになるものだとインタビューアーに伝える。彼が死を控え、原点に復帰していきたいとの思いがここにでている。

https://www.youtube.com/watch?v=6__jQMPJKmI

最早、原子力、ウィルス、政治の腐敗、彼は乗り越えるべき問題を後世に託していることが分かる。彼は基本的な問題提起を終え、自分の役割は終了としたかったのではないか。私はここまでと。残された我々は彼の哲学を理解し、また更に後世に伝えていかなければならない。彼の背中が見える。追求し続けた「人間は何処から来て何処に向かうのか」はけして終わらない我々の旅路を示している。彼の遺した著作に解決のヒントはあるが結論ではない。我々が生きる限り回答を求め自ら考え、歩み続けなければならないだろう。