🛫九州の旅🚙..知念特攻✈️..指宿♨️..吉野ヶ里⛲️..由布院♨️..磨崖仏🕉️..🐻😢..日本の歴史の光陰を辿る旅

1.日本の歴史の光と影が九州にある。行かずに死ねるか!

3月初旬に手術を受け、体調は万全ではなかった。主治医の”旅くらいならいいでしょ”との言葉を受け、既に予約していた🛫で鹿児島に向かい、レンタ🚙で佐賀経由で大分まで、九州をほぼ縦断する。🕊️冥土の土産にどうしても巡りたかった。類稀なる温泉指宿♨️由布院♨️を拠点に743kmを3月28日から2泊3日で走り抜ける。何故九州か?日本と大陸の接点であり、朝鮮と中国と日本の文化の交差点。ここに弥生文化が生まれる。言わば日本の文化の原点、この風情が味わえる吉野ヶ里遺跡。更に我々の精神を培った宗教の原点山岳信仰を今に残す臼杵国東磨崖仏、失われた神仏混淆祈りの場。一方、太平洋戦争で多くの若者の命を奪った特攻隊の基地知覧。決して赦されない遺恨の地。自然に恵まれながら何故か九州には🐻がいない。我々は九州から徐々に東に向かって🐻を絶滅に追いやっている。自然が悲鳴をあげ、我々を花粉症で苦しめる。戦後の植林政策が自然の秩序を破壊していることに気がつかない我々は歴史の中で何を得て、何を失ったのか。九州には日本の歴史の光陰が遺る、弥生の初めから2,400年に及ぶその光景を辿りたい。行かずに死ねるか!然らばいつ行くか。🌸の候。何故か?🌸こそ特攻隊の心、散り際の美しさ。知覧にこそ相応しい。🌸前線は東京から一度南に向かい、北上する。ソメイヨシノを基本とするからで、江戸生まれの壮大な🌸は華麗な姿で日本を席巻した。地球温暖化で年々開花が早まっている。知覧の🌸は3月末に咲くと見越した。旅を決めたのは手術の日の3日前の3月1日だったが、まだ迷っていた。天気がまず心配だった。春に3日の晴れ間なし

2.九州への旅の準備

鹿児島は東京から950km旭川までと変わらない。🛫で2時間。チケット代が馬鹿にならない。一番安いのはソラシドエア。初めてなのでネットのサイトからの手配の要領を得ない。予約して4日以内に支払わなければならない。うっかりしていた。何せ予約して2日後入院した。3月1日時点で、チケットは、鹿児島行きが7:25am羽田発で17,870円、大分からの戻りが19:45pm発で22,370円、往復30,240円、空席がある。🛫は早く予約すればするほど安くなるが、早ければ早いほど天気予報は当たらない。遠方への旅の難しさがここにある。雨中の旅ほど虚しいことはない。鹿児島の🌸の開花予測を前に焦っていた。旅の準備は現地の天気予測から交通手段宿泊先の確保になる。AccuWeatherの月間天気予報を見ると、鹿児島の天気が微妙だった。28日が曇りで次の日から雨になる。芳しくない。🌸の開花予測も当たるのか?天気予報は、当たるも八卦、当たらぬも八卦。宿泊の予算は1泊10,000円をベース、条件は露天風呂があり、眺望が良いホテルもしくは旅館とした。温泉名でネット検索。旅行サイトがゾロゾロ出てくるので希望条件で、空室がある一番安いホテルを探す。指宿は海上ホテル9,329円(朝食込み)、由布院は由布岳を眺望する秀峰館11,057円(素泊まり)。旅行サイトで予約する。この時点で秀峰館がキャンセル不可と気が付かなかった。手術を何とか終え、出発予定の10日前にはやっと体も癒えてきて、🌸前線をチェックする。東京は例年より遅くなっている。3月末で🌸が咲かないかもしれない。月末の天気も安定していない。出発の時点で体調が元に戻るか不安だ。🛫の予約が取り消されているのにやっと気が付いた。日程をずらそうかと思ったが、秀峰館の予約がキャンセル不可になっている。信じられないことに、予約した時点でお金が取られていた再度飛行機の予約を試みた。空席がある。行きが34,270円、戻りが29,970円、往復64,240円とチケット代が2倍以上になっている。後の祭り。仕方ない。腹を決めた。レンタ🚙も予約した。40,950円、ここで旅費は125,576円に確定した。これにガソリン代、高速料金、食事代で総支出は16万円ほどになろう。遠距離温泉旅行は支出も跳ね上がる。どうしても行きたかった九州の地だ。出発当日、体調は回復気味で、医者の言う通り、旅くらいでは耐えられそうになっていた。さすが医者だ。わかっている。空はどんよりとし、今にも雨が降りそうだ。ハイキングウェア&シューズ、登山リュックで向かう。雨仕様の格好で荷物を背負うので傘がさせ、荷物を濡らさない。しかも寒い。東京はまだ🌸が咲いていない。ソラシドエアの受付窓口も搭乗口も隅扱い。滑走路も🛫で橋を渡った先になっている。なかなか飛ばない。侘しさを感じる。勿論、機内食はないので、搭乗口近くの自販機でサンドイッチ300円、スタバでコーヒーとワッフル計658円を購入し、機内に持ち込んで朝食とする。隣に座った若いお兄さんは初めての鹿児島とのこと。私も30数年ぶり。独身時代、友人と2人で九州各地の🍜名店巡りの旅以来になる。昔は九州のご当地🍜が流行っていた。鹿児島はざぼんラーメンだったことを思い出した。隣の若いのは出張で知覧に🍵の買い付けとのこと。日本一の🍵所らしい。鹿児島🛬から知覧を抜け、指宿まで100kmある。ほぼ往復する。重大なミスを犯した。ETCカードを忘れてきた。

3.知念特攻平和会館

鹿児島🛬に着いたのは予定より若干遅れ、9時半を過ぎていた。空はどんよりとして、雨は降っていないが、寒い。南なので少しは暖かいと思っていたが、陽が照らないとやはり寒い。レンタ🚙会社が見当たらない。全く案内がない。電話をすると迎えの🚌が来るとのこと。レンタ🚙会社への送迎🚏があるのには驚いた。🛬の外には足湯もある。予想を越えた大きな🛬だった。送迎🚌に乗るのはほぼビジネスマンのようで、8名ほどになる。支払いを済ませ、新車の如き5ナンバーの車に乗り込む。🚙は大分ナンバーになっている。温泉旅行であれば大分↔️鹿児島は定石ルートだろう。他にも大分ナンバーを見かける。さあ、まずは知念特攻平和会館まで72km、羽田から茅ヶ崎までの距離と同じ。結構な距離だ。九州自動車道から指宿スカイラインへ入る。ETCカードを忘れたので、高く付く上に都度料金を支払う。3回に分け、1,420円だった。しかし、有料道路の良いところは道に迷わず行け、しかも必ず展望所がある。桜島を🌸とともに望めたことが嬉しかった。何と、東京より早く🌸が咲いている。先週末より咲き始めたとのこと。これが一番ラッキーだった。雨が降ってきたが、最初はそれほどでもなかった。知念特攻平和会館には11時半頃着いた。春休みで子供たちも多かったが、欧米からの訪問者も多く、何が彼らを惹きつけるのか聞きたくもなった。知覧特攻平和会館は知覧平和公園の中にある。駐車場に向かう門口の🌸は見事だった。🌸の下の灯籠がどうしても特攻兵に見えてくるのが堪らない。どんよりとした空から小雨が降り出した。寂しい雨だった。私は遥か昔に霞ヶ浦予科練平和会館を訪れている。予科練から飛行訓練もそこそこに年端もいかない飛行兵が特攻兵になった。彼らはどう戦地へ向かい、死んでいったのか?実際、霞ヶ浦は海軍、知念は陸軍なので、全く別部隊。昔は空軍なんてなかった。薩摩半島の鹿屋から予科練卒兵は出撃しており、圧倒的に知念に比べ戦死者が多い。だが、特攻兵として出撃する姿は一緒だ。飛び立つ彼らの姿を思い浮かべたかった。この記念館は、特攻隊員がよく通った茶屋の鳥濱トメさんが、米軍に爆撃され跡形もなくなった基地跡に鎮魂のための木切れの慰霊碑を立てたことに始まる。今や年間72万人が訪れる。私には亡くなった特攻兵が我々を呼んでいるとしか思えない。もはや鳥濱トメさんも亡くなり、孫の代になっているが、茶屋が記念館の敷地内に移り、我々に食事を提供してくれる。知覧茶屋。茶そば釜飯(めんたいシャケ)1,750円、釜飯がホクホクしていて美味い。お土産屋さんもやっており、運転中に眠くならないように昔懐かしいボンタンアメを8個入り10ケースを買う。この飴は100年近い歴史。オブラートに包んであり、包みごと食べられる。甘みが丁度良いのだが、歯の詰め物が即取れた。運転中ずっと舐めていたが、眠気だけでなく、風邪も吹っ飛んでいく。2日でなくなった。

4.特攻兵は神国の武器として死んだ

ここ知覧から出撃した陸軍の特攻機は405機、406名亡くなっている。海軍は特攻隊として神風特別攻撃隊を最初に組織し、1944年10月のフィリピンレイテ沖海戦で連合国艦隊に大きな損害を与えた。543機の飛行機、671名の特攻兵を失いながら、米軍の艦艇を22隻を沈没、110隻を損傷させる。通常航空攻撃の3.6倍の撃破率、失った戦闘機が全体の14%で済む。特攻成功率は23.5%であった。陸海軍参謀本部として特攻作戦を正式に採用する。優秀なパイロットを失うリスクを度外視した。ひたすら効果効率を優先し、人の価値を無視する。結果として何と敗戦までの10ヶ月間で4,000名を戦死させる。突撃成功率は沖縄戦で特攻成功率は7.9%に落ちている。今も自爆テロを英語でkamikazeと呼んでいるのをご存知だろうか?日本の特攻を同じにするなとの声がよく聞かれるが、人命軽視と効果と効率を重要視する考えは全く同じなのだ。日本軍は他にも特殊潜航艇や人間魚雷、人間ロケット、地上戦における人間爆弾など様々な自爆戦を試みている。神風だけではない。この作戦による死者は6,400人とされている。神風特攻隊の平均年齢は21.5歳の若者だった。この自爆戦は苦し紛れの戦略ではない。歴とした作戦だ。山本五十六海軍大将1934年の時点で既に「飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と記者に話している。特攻と言う自死への恐怖を軽視した言葉になる。誰もこの言及を咎めるものはいない。この作戦を成功に導いたのは国粋主義的信仰を国民に敷いたことだ。日本は明治維新以降、宗教の上に天皇を生き神にした国家神道を据え、神がかったアジアにおける常勝神話を国民に植え込んだ。新しい国家として、帝国主義戦争に勝ち残るため、少ない資源、国家予算、武力を補うためには国民の犠牲と奉仕が必要だった。国民への労苦の報いは戦利品としての領土と資源と金だった。一部の国民は確かに生活は豊かになった。貧しい国民は新しい領土に向かった。実に1894年の日清戦争からほぼ半世紀に渡って、軍は国際紛争に国民を巻き込む。情報を統制し、不都合な情報は流さず、ひたすら国民を軍旗の元に置く政策を展開する。かつての防人を現代に呼び覚ましたが、より悲惨なことは近代戦により、死を前提にした戦いをも国民に強いることになった。米軍のモートン・デヨ少将は「(特攻隊員の任務は)ミサイルを誘導することである。彼はミサイルの生きている部品であり、その結果僅かばかりの生存の可能性もなく、仮借ない鋼鉄を破壊するために突入することになる。」特攻隊が死んでいったのは国のためでも、平和の礎になるためでもない。特攻隊は大日本帝国が幻想として作り上げられた神国大東亜共栄圏建設のために、単なる武器として死に、無謀な帝国主義への挑戦の犠牲になった。大東亜共栄圏とは日本をトップにした東アジアの再編であり、欧米の植民地からの解放と同時に日本が欧米に成り変わることの正当化に他ならない。日本は敗戦により真夏の夢と230万人の若い働き手をも失う。これは幻想としての明治維新が押し立てた神国の敗北だ。

5.塚本太郎少尉の伝えたかったこと

特攻隊の声

79年前、特攻死の2ヶ月前に残した学徒兵の生の声をYouTube「回天 二つの心」で聞くことができる。塚本太郎少尉の声。慶大生として学徒出陣し、21歳で人間魚雷回天と共に西太平洋に消えた。彼が特攻に成功したか否か、分かっていない。成功したとしても彼は魚雷の真っ暗な縦70cm横53cmの操縦席に座り、操縦桿をただ握り、海の中をまっすぐに敵艦に突っ込むだけになる。魚雷と一体化するのみ。彼が大学で勉強した学問がこの特攻で何の意味をなしたのか?何のために勉強したのか?勉学に尽くした日々が虚しく魚雷と共に飛んでいく。回天に搭乗し、特攻し、亡くなった特攻兵は106名成功率2%、報われたのは3名に満たない。彼が遺した言葉は二つの想いを言ったのではない。実は一貫している。無駄死にへの怒りであり、日本を破滅へと向かわせたこの戦争への恨みであり、故郷へ帰れない辛さだ。文章に起こしてみる。

父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。 本当にありがとう。 こんな我儘なものを、よくもまあ本当にありがとう。 僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。 愉快に勉強し、みんなにうんと御恩返しをしなければならないんだ。春は春風が都の空に躍り、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしが溢れている。昔は懐かしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下にすすきを取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。 雪が降り出す とみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。 こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。 喧嘩したり争ったりしても心の 中ではいつでも手を握りあって。

しかし僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人日本人、自分の血の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹きが脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。そして今、怨敵を撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日あの瞬間から、我々は、我々青年は余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力の全てをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃攘せよ。親父の、お祖父さんの、曾お祖父さんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃剣を閃かして進め。日章旗を翻して前進せよ。 至尊の御命令である、日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いているみなさんさようなら。元気で征きます。

彼は何度も日本人を連呼し、大東亜の建設のために戦えと叫ぶが、死を賭してまで戦う意味があるのかを言及しない。これは彼自身が矛盾を感じているからだ。1941年12月8日に至尊の御命令で米英に対し宣戦布告し。大東亜共栄圏を標榜し、米仏英蘭領まで戦線を拡大した。資源を持たない国が広大な海と島と大地で長期戦を続けることは耐えられないのは明らかで、今や当然ながら敗戦の危機にある。彼が前段で氏神様を出してくるところに本音がある。我々にとって一番重要なのは氏神様に守られた故郷であって、大東亜ではない。大東亜の天地もそこに住む十億の民の誰も日本人を招いていない。自分は無駄死にすることを理解して建前を言っている。「回天 二つの心」で彼の同世代の老人の言葉を聞けばわかる。洗脳犬死に。彼らだけは彼の遺した言葉の意味がわかる。大日本帝国は国家としての求心力を高め、列強と戦うため、天皇を現人神とした神国を創出していく。これは1,300年培った神仏混淆の文化を否定するばかりか、旧来の神道を排除するため神社の名まで変え、統廃合した。神道は自然崇拝とそれぞれの土地の氏神の崇拝で始まっている。これを元々天皇が作った国家であったことにするため、矛盾する信仰を破壊、隠滅した。梓巫女修験道陰陽道祇園信仰権現信仰を廃する。神道を国教としたかったが、仏教界からの圧力で宗教ではなく、国民の信仰とした。民衆の心の拠り所を失わせ、彷徨える心を海外覇権の幻想によって昇華させようとする。国民に三韓征伐から征服拡大へ、聞こえの良い大東亜共栄圏を標榜し、半世紀の戦いを正当化する。三千年のフィクションとしての歴史を作り上げ、実際、建国から73年、1941年12月8日に越えてはいけない国境を越えた小国は破滅への道を歩み出していくことになる。そして、敗戦後の今も、宗教破壊の亡霊は偏狭的合理主義として我々の心に棲みついている。

6.長崎鼻から指宿温泉

知覧から薩摩半島最南端にある長崎鼻に向かう。開聞岳が見たかった。特攻隊の映画には必ず出てくる富士山を思わせる独立峰。特攻兵は開聞岳を富士を見て、日本に決別し、涅槃に通じるパゴダとして、この世に別れを告げ、飛び立っていった。目に浮かぶようだ。長崎鼻からは海に浮かぶ島のように見える。小雨が降る中で、雲間の開聞岳だった。南国の薩摩富士、北限ソテツを従えて、荘厳に聳え立っていた。雨が凄まじくなってきた。ホテルの近くに砂むし会館がある。夕方も近く、2階のラーメン屋に期待し、直接向かう。駐車場が通りを挟んで住宅街にある。雨の日はきつい。砂むしは別府で経験しているが、凄まじい雨の中、外の砂浜でどう寝転んで、砂に埋まるのか、しかも外は寒い浜辺になる。驚いたことに平日にもかかわらず、観光客が多い。海外からが半分くらいだろうか?何せ世界でも珍しい砂むし、言わば自然の砂を使った蒸し風呂。施設はお世辞にも綺麗とは言えない。相当年季が入っている。70年近い歴史と建て替えて30年近い。館内もどこが入口なのか、出口なのか、説明がない。海外からの旅行客も困惑している。中は撮影できないのでお見せできないが、まずは浴衣に着替える。中はスッポンポン。これは男女とも。雨の中、この姿で置きサンダルを引っ掛け、貸してもらった小さな傘を差し、堤防沿いに砂浜に出る。ブルーシートに覆われたほったて小屋に向かい、外で立ちながら順番を待つ。穴を掘るのも埋めるのも地元のおじちゃんおばちゃんから若い衆まで平等に受け持つようだ。順番が来たら、呼ばれ、掘られた溝に横たわる。すると早速、顔に掛からないように普通の大きなスコップで体に砂を掛け、埋める。全く説明はないが、掛け時計を見て10分経ったら自分で砂を掻き分け出なさいと言う。後は何も言ってこない。時間も自分で計る。出るのも自由。埋まるまで寒いのだが、砂を掛けられるうちに暖かくなり、完全に埋まるとじわじわと熱さが攻めてくる。汗が吹き出してくる。しかし眠ってはいけない。動かないと背中とお尻に低音火傷の危険性がある。適当に体の下の砂を動かす必要がある。これをすると10分以上寝ていられる。私は20分ほど堪能できた。要は砂で温度調整が必要。砂むしの楽しみについては、砂むし温泉のまち指宿をクリックして下さい。堪能後、体を洗って。温泉に浸かり終了になる。階上のラーメン屋は3時半で終わっていたのか、それとも休業だったのか?わからない。全く不思議な会館だった。タオル持参だったので、浴衣+砂むし+温泉で1,100円で済む。砂の中で孵化して這い出る生まれたばかりの海亀の気持ちを味わう感じか。大雨のなか車に戻り、9,329円で予約した指宿海上ホテルにチェックイン、食事をどうにかと言うと、今日は団体さんで一杯でダメとのこと。なんとベトナムのハノイから2日続けて20数名の観光客が来ている。2年半ぶりに鹿児島まで直行便が復活したらしい。そう言えば砂むし会館に大挙して来ていたのが彼らだった。香港人そっくりなので、広東語で話しかけたら、キョトンとして見返された。日本人に初めて声を掛けられたような顔をしていた。ハノイ人だった。ホーチミンは3度ほど行っていたので、彼らの言葉はタイの言葉に似ていると思っていた。ハノイとホーチミン、1,100km離れている。羽田とソールほど、こりゃ言葉も違うのも当然か。砂むし温泉にさぞや驚かれたに違いない。2泊3日だそうで、あとは何処に向かわれるのか?東アジアは曲がりなりにも平和が訪れている。1991年の中越戦争解決から33年、東アジアに戦火が押し寄せることはなかった。特にベトナムは1965年の実質米国との戦争から26年間戦禍に苦しんできたから尚更だ。平和は微妙なバランスの上に成り立っている。このバランスを保つのは国家間の会話の継続だ。理解し合い、武力ではなく問題を会話で解決する国家間の忍耐力に頼るしかない。冷たい雨の中、紹介してもらった指宿駅西口近くの長寿庵。地場の食材、旬の物に舌鼓。旅の喜びはここにある。帰る頃には雨も上がっていた。部屋もゆったり。海に面している。潮騒が否が応でも旅情を掻き立てる。最上階に♨️、朝風呂で景色を堪能。朝食の美味しいこと。地場の食材が並んでいる。もう量は食べられないので、少量の食材を盛り合わせし、粥と一緒に食す。この朝食は絶品。2日目はいよいよ九州縦断。現代から弥生時代へタイムスリップする。

7.吉野ヶ里歴史公園

2日目は指宿から吉野ヶ里遺跡、そして由布院まで431km、🚙を跳ばした。九州をほぼ縦断。東京琵琶湖間の距離。錦江湾沿いに北上し、市街地を避け、谷山ICから九州縦貫自動車道に入る。高速料金は東脊振ICまで6,090円、そこから湯布院ICまで2,930円、ガソリン代は3,473円になる。やっと桜島が望めた。青空が広がる、昨日とは打って変わって、いい天気、旅日和。熊本を越えていくが、トンネルが多く、景色は見えない。道は走りやすい一本道。福岡に入り、佐賀に抜けるまではほぼ平地になる。東脊振ICで下り、国道385号線を真っ直ぐ走れば、駐車場の案内が見える。吉野ヶ里遺跡は公園になっている。吉野ヶ里歴史公園、面積は117ha。なんと東京ドーム25個分。新宿御苑2個分になる。勿論日本一広い遺跡、しかもまだ未開園エリアまである凄さ。とにかく広大だ。駐車場も臨時も含めて4つある。この遺跡の素晴らしさは広さだけでない。日本における倭の成立過程を見られる。一番近い北口駐車場に入った。係員が即飛んできて、入口に近い駐車場を教えてくれる。私のような焦る旅人が多いのだろう。道の先、東口が正解で、センターがある。そこにレストランがある。まず腹拵え、古代米天ぷらうどんセット1,300円也。青森の三内丸山遺跡に遥か昔に訪れたことを思い出していた。縄文時代の遺跡で、BC3,900~2,200年の1,700年の歴史、吉野ヶ里遺跡弥生時代、BC500年~AC300年800年の歴史になる。面積や人口の違いはあるにせよ、大きな違いは、入口から周囲にかけての物々しさだ。堀が巡らされ、乱杭が防御柵になっている。言わば城壁。物騒な時代だったことが分かる。縄文の13,000年は平和な時代で殺し合うことがなかったという。確かに均等に食べ物に乏しく、寿命も短く、生きることに精一杯で奪い合うものがなかったからというが、野生動物でも秩序を守るために殺戮はあるので、一概にこれだけで殺し合いがなかったとは言い切れない。逆に人は豊かになり、長生きでき、余裕が生まれると、人のものが欲しくなり、殺し合いをするものなのだろうか。こんなことを言うと世の中殺し合いばかりになってしまう。吉野ヶ里遺跡の物々しさは、正に渡来人の砦の証明だ。生きるのが精一杯の縄文の世界に豊かな世界を持ち込み、言葉の壁もあった。異民族の軋轢も生じただろう。稲作のできる土地も少なかった。豊かな土地の奪い合いも生じた。彼らもテリトリーを拡大し、増える人口を支えることも考えていた。攻めれば守らなければならない。朝鮮半島は既に戦争状態に堕ちっており、日本に伝播していたことが考えられる。物見櫓が再現されており、最盛期は5,600人ほど住んでいた環濠集落であった。倭からヤマトへ移る時代にこの地は捨てられ、壕は埋められ、墓のみ残った。何が起き、何故こうなったか、謎のまま残っている。

8.は元々日本ではなかった

遺跡に向かうには川を渡る。田手川、この川は今でこそ久留米川の支流になっているが、1,800年前まで有明海に直接流れ込んでいた。尤も、その頃はこの吉野ヶ里も有明海に面していたことになる。田手川の源流は脊振山蛤岳(863m)、越えれば支流を経て那珂川、下ると最短で博多湾に出られる。今で言えば高速道路。博多湾の目と鼻の先に朝鮮半島釜山まで対馬を挟んで218kmに過ぎない。距離は広島鹿児島までと変わらない。同様に、ソウル大阪が同距離、上海那覇新潟東京も同距離圏になる。大陸から古より様々な文化が日本に入ってくる時、博多は登竜門だった。紀元前5世紀、吉野ヶ里の地が選ばれ800年に渡り育まれた理由がここにある。切り開いたのは倭人を我々は日本の昔の名と思っているが、実際は中国の揚子江河口を起源とする海人族稲作から裸潜水漁撈を得意とし、断髪、黥面(入墨)、龍蛇信仰太陽神崇拝鳥崇拜の文化を有する人々。この遺伝子を一番引き継いでいるのが日本では北部九州の人々になる。福岡で35.3%、正に弥生文化の申し子となる。私は上海と蘇州に9年近くいたが、文化的、人種的に親近感を持てた理由が今わかる。彼らは1,000kmも離れた日本に稲作と共に漁法宗教までももたらす。紀元前473年春秋時代に敗れたの民が新天地を求め、四散する。海を渡り、朝鮮半島北部九州に辿り着く。吉野ヶ里の地と結びつく。彼らは有明海から直接上陸しただろう。吉野ヶ里出土の人骨からのDNAが検出される。として最初に歴史を刻むのが何と朝鮮半島の南、伽耶の地。北九州のと結びついていたことが弥生式土器や古墳の存在でわかる。この時、は日本のみを指していない1世紀、伽耶の高霊で鉄を産する。この地を制したの力が超大になる。3世紀卑弥呼5世紀倭の五王伽耶由来の王権と見るべきだ。6世紀に朝鮮半島の伽耶が高句麗と新羅に飲み込まれて歴史の闇に消えていき、ヤマト王権が確立するまで、北部九州が朝鮮半島と結びつき、を形成していた。これで中国や朝鮮によるに関する史料がわかりやすくなる。特に5世紀倭・高句麗戦争を戦ったのがヤマト王権ではなく、伽耶であれば、朝鮮半島内の覇権争いであることがわかる。ヤマト王権の主張する三韓征伐はここに由来する。この時代、日本の鉄器、青銅器の数を見ても明らかに北部九州に集中している。ほぼ全てが朝鮮半島由来のもの。ヤマト王権の実質的な確立は6世紀であり、とても挑戦に出兵できる力はなかった。朝鮮半島と日本の固い結びつきの原点は両方に跨るの存在だった。ヤマト王権はの権益を継いだに違いない。どう引き継いだのか?空白の150年につながる。日本の日本書紀、古事記が編まれたのは8世紀。神話と伝承で構成され、どこまで真実なのか分からない。検証もせず、学校で今も教えている。後世には史実をきちっと伝えるべきではないのか?何故、中国の資料をのみに頼るのか?邪馬台国論争も加熱しているが、中国の古の資料に対する議論に終始している。天は自ら助くる者を助くという。まず足元の国内の古墳の発掘、分析から始めるべきであろう。埼玉古墳群で発掘された金錯銘鉄剣の如きが見つかる可能性もある。現存する世界最古の王朝を標榜するのであれば、きちっと世界に対しても科学的に裏付けられた根拠を示すべきだろう。まず古墳は後世に残す遺跡として、国民に解放すべきではないか古墳は天皇の墓と同時に臣民であった国民なしでは築けなかったものである。国民には知る権利がある。天皇には史実を証明する義務がある。歴史を神話として曖昧模糊にしたままに残す時代は過ぎている。隠すから怪しまれる全ての古墳を開放し、史実確認後、スウェーデンのように国立公園にしてはどうか、令和記念公園を各地に設けることこそ、国民の希望に沿うものではないか?

9.由布院温泉

吉野ヶ里から東脊振ICに戻り、今度は九州横断自動車道に入る。湯布院ICまで1時間ほど、途中東脊振ICへの入口を間違え、遠回りしたが、夕方5時半には由布院温泉に入った。布院温泉は由布市の布院町にあるからややこしい。この夜は素泊まりで11,057円の秀峰館、屋上露天風呂が楽しみだった。チェックインし、車を置いて早速、湯布院の街に繰り出す。ホテルは参宮通りにあり、駅前通りに出る。街ゆく人を見ながら呑める店を探す。まだ夜も早かったので、窓際の席が空いてる店を見つけた。ねんりん、大分と言えば鳥尽くし、鳥天、鶏皮餃子、そして麦焼酎二階堂、締めに豊後汁(何故かほうとうに似ていた)計3,690円也。美味いけど量が多い。もう満腹で湯の坪街道まで足を伸ばせなかった。ホテルに帰り、早速露天風呂に向かう。タイから日本に初めて来た私より上の年の老人と愛媛から来ていた小学生が2人が露天風呂に入っていた。英語ができない2人が会話を試みていたところが面白かった。会話が何故か盛り上がる。なんとドラゴンボールの話だった。私はあまりこの漫画を知らない。彼らは登場人物の名前とアクションで盛り上がっている。日本の素晴らしさはアニメにあるのだと思った。私の小さい頃はアニメは米国のものだった。手塚治虫がディズニーの真似をして稚拙なアニメをTVで作り上げた時代に育っている。海外では日本🟰アニメになってきている。隔世の感ありだ。日本が悪の枢軸国のイメージから抜け出たのはアニメのおかげだろう。中国でも何故日本語に興味を持ったのか。若者に聞くと必ずアニメに流れる日本語をわかりたいからと言っていたことを思い出す。我々は極東の島国に暮らす。多くの文化が海を渡ってやってくる。閉じることは簡単だが、敢えて勇気を持って受け入れれば、次のものを生み出す面白みを知っている。アニメという成功例から学ぶことは多い。湯布院は韓国人が多い。食事処もホテルも挨拶すると韓国人だった。兎に角、アジア人が多い。やはり九州の魅力は温泉そして、風情に違いない。日本の顔が東京であれば、安らぎの心は九州にある。しかも美味い酒と魚と肉がある。洗練された趣はないが、寧ろ素朴な土臭いアジアの心がある。だからアジアの各地から来るのだろう。誇るべきは焼酎。焼酎こそ九州の顔だ。安酒の代名詞で、今でもお世話になっている。蒸留酒でありながら、ウィスキーやブランデーと違い、癖がなく、基本は薄めて飲む。いちばんの魅力は、香で料理の邪魔をしないというところだろう。鹿児島は芋、大分は麦、熊本は米、宮崎は蕎麦となり、日本酒を九州ではほぼ飲まない。右手に由布岳を望みながら街中に入る。オーバーツーリズムが騒がれている。円安が引き金になり、過度の旅行客の群れが観光地に押し寄せている。オフシーズンや平日に閑散としている街に溢れるような外国人の観光客。どうしたら良いのか?観光客が来ることにより儲かっている業者が必ずいるはずで、どうすれば良いか、自治体はその対策を儲かっている業者に考えさせるべきだ。観光客が来なくなったらおしまいなので必死で対策を練るに違いない。人が集まる場所であれば公園や喫茶店や出店の設置で更に儲けを膨らますことを考えるべきだ。河口湖の黒幕張りは愚の骨頂。私も山登りで良く河口湖周遊バスを利用するが、運賃がえらく高い。多くの海外からの顧客の需要があの高いバスを頻繁に走れるようにしている。道路に溢れる観光客を誘導する対策をバス会社に考えさせるべきなのに、売り物の富士の景色を見えなくすることは売り物に傷をつけるのと同じは思わないのだろうか。由布院温泉も平日というのに人が多い。桜の季節だからだろうか、勿論、温泉もいい。朝風呂にもゆったり入った。山の景色がいい。初日、指宿は海の見えるホテル、二日目、由布院は山に囲まれたホテル、海と山両方を味わえた旅になった。ただ、由布院を素泊まりにしたのは、朝食を格別の景色の中で食べたかったからだ。金鱗湖湖畔にある喫茶店、CAFE LA RUCHE、朝の湖の静謐さの中でコーヒーを味わうのも格別だ。金鱗湖は一周わずか340m、30分程でぐるっと回れる。山間はまだ早春の彩りになる。のんびり回って喫茶店で朝食とした。クロワッサンセット、1,400円、少々高い気がしたが、景色堪能代でトントンなのかもしれない。老夫婦が犬と一緒に食事をしていると思ってよく見ると犬はロボットだった。時代を感じる。

10.磨崖仏巡礼から帰路に着く

さあいよいよ旅の最終盤、念願の磨崖仏群巡り、別府湾を望んで旬の魚を食し、大分空港から19:45pm発の🛫で帰る。全ては見られない。大分県には84ヶ所400体、日本全国の8割を占める。到底1日やそこらでは無理。何故そんなにも大分県に集中しているのか。ネットで調べる限りでは、相当朽ち果てているようだ。磨崖仏の今を知りたくて主要な所を回る。まずは臼杵から。メインは国東だが、磨崖仏の代名詞はやはり臼杵石仏。国東半島へは結構離れている。熊野磨崖仏までの距離は高速で77km、1時間以上はかかる。湯布院ICから九州横断自動車道に入り、日出JCで東九州自動車道を右へ、臼杵ICを下りるが、やはり71km、1時間コースだ。とても臼杵でのんびり昼食をとはいかない。国東半島へ向かう高速の別府湾PAで昼食。別府湾を望んで若竹うどんとシラス丼1,540円。なかなか景色も良く、春の旬が美味かった。高速代は臼杵ICまで1,970円、臼杵から農業文化公園ICまで1,820円、ガソリン代はこの日、3,230円になる。走行距離はトータル227km。大分空港近くには食事をするところはない。空港内の食事もいいが、別府湾の海の幸を味わうため磨崖仏群から別れ、また杵築に向かう。私が巡った国東の磨崖仏は国指定のもののみ。ルート的には何故か一直線に並んでいる。時間的には助かる。晩御飯は🛫の時間があるため、早めに済ました。🚙のため酒が飲めない。当初狙っていたKITSUKI TERRACEが15時まででとても間に合わない。近くのやはり別府湾沿いの魚市魚座とした。海に望み、新鮮な魚介類を網に乗せ焼いて食べるのは格別だった。定番の炭火焼きコースに真牡蠣1皿追加、ノンアルビール1杯で5,190円、ご飯は食べきれなかった。胃の矩を越えていた。別府湾に沈む太陽は美しかった。もう帰らなければならない。

臼杵石仏

臼杵石仏は正式には臼杵磨崖仏。臼杵IC近くに臼杵大仏がある。間違って行ってしまった。ナビに出てくるのでややこしい。全くの”詐欺紛い仏”臼杵石仏はここより若干山側に外れるが、それでも臼杵ICに近い。駐車場が煎餅屋の前。山郷の風景が広がり、古い土産物屋の軒先の小川沿いを抜けていく。昭和の雰囲気だ。古園石仏群の内の一体で、他にも山王山石仏群、ホキ石仏第一群、第二群と壮観な磨崖仏に会うことができる。生まれて64年、初めて、臼杵石仏に対面するも、若き日に受けたイメージを払拭することはなかなかできない。地面に置かれた首だけの石仏。今は国宝に指定されているが、これは胴体を整備し、首を載せたからのようだ。痛ましい姿の方が時の流れを感じるが、国宝には値しない。300年前にはもう既に首は落ちている。石仏の悲しさを感じる。確かに石仏群の多くは傷だらけだ。日本は地震大国であり、岩をそのまま削った石仏はこの影響をモロに受ける。堪らないのは理解できる。像自体は見事に修復されており、新たに首を載せたとは思えない。ただ脇侍は悲惨だ。首以外は削り出し棒状態で、如何にも載せたのみと見える。完全に体が崩れ、復元できなかったのだろう。平安から鎌倉時代にかけて彫られた磨崖仏、もはや一千年の月日が過ぎ去ろうとしている。臼杵のほぼ全ての磨崖仏は左手を失っている。体も傷だらけだ。修復に修復を重ねたに違いない。品のあるお顔だけ美しく、我々に慈悲の心を投げかけている。あたかも塑像で作られたと見紛うばかりだ。京都奈良の仏像に負けない威厳と迫力がある。

②国東半島の磨崖仏

国東の磨崖仏は臼杵石仏と違い、けして芸術品の数々ではない。仏を信じるものが、祈りを込め一刀一刀彫ったに違いない。だから時を超えて心を打つのだろう。熊野磨崖仏は平安末期に、福真磨崖仏鍋山磨崖仏は鎌倉時代に、元宮磨崖仏川中不動は室町時代に、150年の間にコツコツ作り上げている。修験僧の祈りの対象とするため。熊野磨崖仏への登りは正に修験の場に相応しい。沢登り、石渡り、熊野三山や出羽三山で見た風景だった。我々が山に登っていて感じるのは嘗て修験僧が切り拓いた登山道の素晴らしさだ。山を知り尽くしているからこそできる。我々が安心して山に登れるのは正に彼らのおかげだ。山の名に愛宕、権現、妙見、阿弥陀、釈迦、天狗、不動、毘沙門、普賢等の名があれば、彼らが名付けた山。修験道は道教、仏教、神道で成り立っている。根幹にあるのは山岳信仰。日本の75%は山に囲まれている。彼らは山に生きた。山は我々に恵みを与える。美しい水、空気、木、緑、食物、鉱物も。彼らは我々へ山への愛を教えた。ところが、明治維新によりこれが途絶える。明治5年(1873)の修験宗廃止令。修験道は教義仏教に組み込まれていく。彼らがいなくなり、山を守るものはいなくなった。150年以上、山は荒れるにまかせている。荒れるとはどういうことか?人間が山のあるべき姿を失わせるということ。人間が好き勝手に山の秩序を乱せば、他の動物は滅ぶか、逆襲を試みてくるしかなくなる。山を知るものは山が荒れていることがわかる。エゾオオカミは1896年に、ニホンオオカミは1905年に姿を消している。🐻を第二の🐺にするのか?今瀬戸際にいると言わざるを得ない。忘れてはいけない。🐺も🐻も我々日本人は神とし崇めていた。自然崇拝を基本とした我々の伝統を踏み躙った明治維新は日本に近代的な発展をもたらす一方で、世界戦争へと突き進み、多くの犠牲者を生み、全てを壊滅させ終わったはずなのだが、今も亡霊のように我々の心を掴んでいる。これが偏狭的合理主義として自然を破壊し続けている。山を埋め尽くす人工林杉や檜、ソーラーパネルを見よ。如何に山の本来の姿を失わせているか。杉や檜は過大な花粉を撒き散らし、ソーラーパネルは山崩れの危険性をもたらしている。今も尚、乱開発は続いている。🐻に棲家も食べ物も取り上げている。山に行けば分かる。我々日本人の魂の故郷は山にある。今一度、基本に戻り、山を昔の風景に戻さなければならない。そう磨崖仏は我々に訴えかけているようでならない。

11.九州で🐻は既に絶滅した。🐻を日本から滅ぼしていいのか

九州のツキノワグマは1941年にオスが捕獲され、1957年に子グマの死骸が見つかり、1987年11月のオスの死骸発見を最後に絶滅したとされた。もはや36年になる。中国人はくまモンが好きだ。日本人が🐼が好きなのと似ている。隣の芝生みたいなものか。一度、くまモン好きの中国人に言ってみた。熊本には🐻がいないんだよ。本当に驚いていた。何故🐻が絶滅したのか?九州を車で実際走ると緑豊かな島で、🐻がいないなんて思えない。これには戦後の植林政策が深く関わっている。建築用材として売れ、使え、成長が早いを全国で植える施策を打ったからだ。特に九州、東北で顕著で、この影響から九州で🐻が消え、東北では🐻被害が起きている。食の問題だ。九州には元々🐻の餌になるどんぐりが少なかった。照葉樹の椎や樫が多く、どんぐりがあまりならない。どんぐりの多い広葉落葉樹のブナが少ない。そこへ来て、戦後はどんぐりのならないを植林したため、🐻は食を失い、消えざるを得なかった。正に🐻の絶滅は人間の所為だ。この悲劇は西から東へ広がる。四国及び中国も同様に照葉樹が多く、どんぐりが少ない。のブナ林への侵食は🐻の絶滅に即結びつく。深刻な問題になっている。


ブナ林の見事な秋田と岩手には元々🐻が山に、👨‍🦰は平地にと住み分けをしていた。建築用材に向かないブナに換え、を植え流ようになった。今や50年、安い輸入材に追われ、伐採されないため、山が荒れている。食を求めた🐻が街中まで下りて行き人を襲うようになっている。これを政府は”今年は🐻の餌になるドングリが不作だ”と誤魔化している。実際、秋田の🐻被害は人工林の広がる場所で起きている。山に登ると分かるが、常緑のに覆われた山は日も当たらず、殺風景な景色になる。儲からない山にはソーラーパネルの設置が進んでいる。正に🐻の生きる世界からは遠い。修験僧が見たら卒倒する風景だ。過度に植えられたからは花粉が膨大に飛び、春は地獄になる。

 

我々の信じる神とは、本来は八百万の神だった。それを近代国家を実現するためにさも一神教かのように教育され、幻想を抱かされ、偏狭的合理主義に基づいた考えを教え込まれた。今一度、修験道の諭した原点に戻って神を見直す時が来ているのではないか?原点とは自然であって、神とは自然の中の生き物だ。日本語本来の”カミ”は、動詞のクム(籠む・隠む)や名詞のクマ(隈・)が変化して”カミ”になったという。何としても🐻を守る!山を本来の姿に戻し、🐻を山に返すことが今我々の最低限すべきことだ。二度とニホンオオカミのように絶滅させてはならない。これこそ本来の日本人の義務に違いない。杉や檜の山から生命に優しいブナの林の山へ戻すことから始めなければならない。

参考資料:特攻6400人の悲劇「戦争の不条理」伝え 戦争の「犠牲」のリアリティー:当事者不在の政治の行く末にあるもの 特攻とは何だったのか 若者を死に向かわせた作戦 「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩 「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか? 日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由 これは何かの冗談ですか?日本人が知らない「大日本帝国の終戦構想」 ペンを操縦桿に持ち替え…学徒搭乗員が戦った死と隣り合わせの激戦 特攻 戦術でなく「儀礼」  国民が期待、やめられず 【海外の見方】特攻、米兵士らは「狂信的な自爆戦術」と恐れる 靖国問題の解決を阻むアンチノミー 東洋のハワイとも呼ばれる指宿温泉!その歴史に触れる 指宿温泉の歴史はどこまで遡れば良いのでしょう? 日本の焼酎の歴史 隼人の抵抗1300年記念シンポジウム資料集 わからんから面白い魏志倭人伝 稲作の伝来 高句麗の南下によって生まれた「倭国大乱」 弥生人の身体的特徴 倭人が来た道 日本人の起源:“倭人”のルーツは中国大陸の呉・越 倭と倭人(中国の文献から見た) 松本清張も注目!邪馬台国はどこにあったの? 魏志倭人伝から見える日本 倭王や倭軍は大伽耶の人々 宮内庁、お前もか! 宮内庁が開示を拒む陵墓の記録 明治五年修験宗廃止をめぐる一考察 日本の修験道 磨崖仏100選Ⅰ 臼杵石仏とは 国宝臼杵石仏の「アタマ、どげーするん?」論争 宇佐八幡はなぜ天皇家の祖廟か 突然ですが、問題です。日本の山の木は 森林・林業とスギ・ヒノキ花粉に関するQ&A 森林の多面的機能と我が国の森林整備 国民病の花粉症、実は戦後の植林政策の失敗の放置だった!? 花粉症発症率ランキング 秋田県現存植生図 森の学校2023 クマ問題を考える講座 ツキノワグマの生態と人身被害防止 クマってどんな動物 第3章 森林 くまもりNEWS 【緊急署名】クマを指定管理鳥獣にせず、人とクマが遭遇しない対策をお願いします 日本のカミと神聖感覚

投稿者: ucn802

会社というしがらみから解き放されたとき、人はまた輝きだす。光あるうちに光の中を歩め、新たな道を歩き出そう。残された時間は長くはない。どこまで好きなように生きられるのか、やってみたい。