国境は緑

飛行機から眼下に見る景色は忘れられない。まして国際線では地上から伺うことのできない風景を覗けるからだ。2017年6月23日朝の便で大連から成田に向かっていた。一番安く早いCA951便(中国国際航空)。昨日までの大雨と打って変わって朝から良い天気だった。ほぼ満席、中国人の旅行者だ。隣の夫婦はハルピンから日本に初めて行くとのこと。もう旦那の方は酩酊状態だ。ハルピンは遠い。大連に1泊し日本に向かうことになる。やはり大連は日本に一番近い窓口。飛行距離は1,700km、上海より若干近いが、偏西風から若干ずれるので時間的には遅くなる。下地図の通り、遼東半島の先端、渤海の入口、日本に向かうには朝鮮半島を越えなければならない。どこを越えるのか?

以前、北京から東京に向かうとき、眼下にソウルの街並みが見えた。首都を結ぶ線上に首都はあるものだと妙な感慨を受けた。中国と日本の間には朝鮮半島がある。歴史と文化だけではなく地理的な必然も覚えた。大連は北京ルートに比べ北朝鮮近くに位置する。まさか北朝鮮の上を飛ぶとは思わない。しかし、まっすぐであれば通ることになる。私は興味津々で黄海から陸地に向かう飛行機の下を見ていた。緑豊かな大地に道が一直線に走っている。人家がない。ただ緑。何度も韓国に行っているが、開発しきった街並みを憶えている。飛行機は更に飛ぶ。この緑から風景はグレーの世界に変わった。韓国の風景だ。整備された街並みが見える。なんと対称的なのか。国境は一直線。分かりやすい。昔、国境線を臨み、ー10℃の寒さの中戦車を見ながら冷たい眞露を冷めた肴で韓国人と飲み交わしたことを思い出していた。国境はソウルから近い。目と鼻の先である。中国の飛行機はお構いなしで、この国境を越え、韓国を抜け日本に向かおうとしている。今も戦争状態で、北緯38度線を境にいがみ合っている。この国境を両国の人々は越えることはできない。中国の飛行機には関係ない。これが日本の飛行機であればできない話である。北朝鮮と国交がないからである。

あれから3年経っている。何も変わってはいない。相変わらず休戦状態にある両国。あの緑の国境は今も変わらないのか。北朝鮮と韓国の境は夜の衛星写真で一目瞭然。夜の北朝鮮は真っ暗で際立っている。地球上に国境はない。人間が想定しただけのものだ。ただ大地に国の経済状況を色濃く刻み付ける。朝鮮半島は北にロシア、西に中国、東に日米と挟まれ、いつも揺れ動いてきた。何度も統一が叫ばれながら実際は前に進んでいない。かく言う日本であれ、ロシア、北朝鮮とは平和条約を結んでいない。韓国と良好な関係を結んでいるわけでもない。戦争は終わってはいないのだ。国はまず国境を確定しなければならない。しかし、国境は民族の長い歴史から見れば新しい線引きであり、概念に過ぎない。政治の道具になりやすい。国内の世論をまとめるのに外の脅威が一番の材料となるからである。いつの間にか国防費は鰻上りとなっていく。朝鮮戦争開戦から70年、まだ睨み合いが続いているこの国境は当時の米ソが決めたものである。この国境があるために1000万人と言われる離散家族を生んだ。この国境を越えるのは民族愛だ。もう社会主義、資本主義の論争は終わった。戦いで平和は生まれない。憎しみを生むだけだ。

韓国と北朝鮮を分ける国境はただ緑だった。空から見る国境は静かで、人も車も走っていない幾筋かの一本道のみの風景だった。私はいつも飛行機に乗るとき窓側をとる。これはときにささやかな時代の証人になりたいからだ。いずれ朝鮮半島も統一されるだろう。時代の流れに政治家は抗しきれないと信じているからだ。

一人の時へのこだわり

私は北の海で育った。小学校の夏休みは毎日のように海で泳いでいた。家からはいつも海が見えていた。3歳年上の兄と二人で自転車で下りていく、海パンをはいたまま、小1時間で海岸に。あの頃海は美しかった。どこまでも青く、水は透きとおり、波は穏やかだった。真夏の太陽は眩しく照り輝き、青い空を圧倒する真っ白な入道雲がわき上がっていた。どんなに暑くても海の中は涼しい。突然の夕立がこようとお構いなし。潜り、泳ぎ、疲れたら浮く、海に抱かれていた。海は母のようだった。しかし、故郷は遠きにありて思うもの。東日本大震災の後、数十年ぶりに訪れた海にもうその優しさはなかった。泳ぐものはいない。海岸に設置されたプールで泳ぐそうだ。寂しい。

私は長じて東京に出、働くころに海は遠のいた。寧ろバブル時覚えたダイビングに海を求めた。沖縄に行った。私の海が蘇った。ダイビングには不思議な浮遊感がある。海中から空を見上げると自分は海を通り越え、空に浮いているかのように思える。海底が地上になる。海中は静かな透きとおった空のような世界。日の光は海中からも見えている。呼吸を止め泡を立てなければ海にいることを忘れる。酸素欠乏から思考も止まる。首を絞められた時の快感に近い。更に空と海が一体化する幻想の世界に入り込める。魚が鳥のように、人も海で鳥になれる。至極の時を過ごすことができる。しかし、沖縄は遠い。近くに海はない。いつも海を感じていたかった。結婚し、家族を持つ、仕事は更に忙しくなる。家を持ち、毎月のローン、子供の教育費、縛りが増えていく。単身赴任、会社への責任。海に行く時間は更に限られた。

海は人生のロマン。忘れられない。戻りたい。その時、一人その想いに浸れる空間があった。トイレだ。最初に載せた写真は実にトイレの中。TALBOTの”OUT OF THE BLUE” ザトウクジラのポスターを正面に飾った。クジラが空に跳ぶ迫力の写真。私の一番お気に入り。昔から自分の部屋に飾っていた。クジラは4900万年前に陸を捨て海に入っていった。クジラのブリーチングは海から空へ新たな挑戦を見せているかのようだ。だから好きなのだ。この慣れ親しんだポスターに海中で遊泳するマンタのポスターシール、イルカのブランデーボトルを置き、蔓柄のバリ風デザインのモロッコランプで明るく照らすようにした。狭い空間でリアルな世界を醸し出すにはこの装飾が一番であると2年かけて選ぶ。

誰にでも失いたくない思い出はある。得てして美化されるが、過程はともかく、その時得た”美”は永遠だ。感覚として。一度自然の中で見たクジラ、マンタ、イルカは生き生きと泳いでいる、飛び跳ねている、私の脳裏に確かに刻まれている。これは真実の美である。これを一人の時自分の空間に再現したい。邪魔されたくない。自分だけの空間、それは正にトイレではないか。



川を渡る風

川を渡る風を楽しむ。川辺の花々木々の騒めきに風を聞き、体いっぱいに風を感じ、川面のさざ波に風を見る。上海、蘇州にいたときも川辺をどこまでも自転車で走っていた。大陸の川はゆったり流れ、悠久の時の流れを教えてくれた。海は遠く、山は遥か、川は人々の生活と一体化し、のんびりしたものだった。大人(たいじん)はせこせこしてはいけない。自分のペースで自転車を漕いでいく。川辺で茶を楽しむことは忘れてはならない。東京に戻ってもこの考えを踏襲している。自転車はもう体の一部。相変わらず、のんびり走っている。川辺をゆっくりとどこまでも。

ここに一冊の本がある。私が10年前日本に帰還し、病から復帰した時に早速リハビリの参考にしようとした本である。重信秀年氏著「自然を楽しむ多摩緑の散歩道」(メイツ出版2010年版)である。多摩地域の散歩道として50カ所を紹介している。正にお誂えの本を見つけたものである。新刊であった。今も十分参考になると思うが、面白いことに紹介されているのは川辺が多い。川辺は歩きやすく、散歩道として最適な証明になる。多摩川、浅川、秋川、神田川、石神井川は別格として、特に野川、仙川、乞田川、大栗川、平井川を知る機会になった。川ではないが、玉川上水、野火止用水、千川上水と自転車で走るようになった。

川辺は憩いの場、魚、鳥、犬、猫も。自然に身近に接する場でもある。子どもにとって遊びの場にもなる。触れ合い、安らぎを求め集まる。集う人々によって渡る風は何色にも変わる。それぞれに川は楽しめる。楽しみ方は幾通りも生まれる。一方で川は脅威ともなる。氾濫し、全てを押し流す。海より川で人の溺れることが如何に多いことか。川の怖さは接していなければ分からない。川は常に接していなければならない。人工的で安全なテーマパークに行くより、近くの川で遊んだほうが、自然の成り立ち、素晴らしさ、脅威をも知ることができる。

古より川は飲み水をもたらし、土地を育み、作物に滋養を与え、生き物の糧を供給してきた。それだけではない。川は物流の手段でもあった。山から石、木材、石灰を運んだ。川の動力から水車が利用され、精錬、粉挽、更に電力を供給してきた。江戸幕府に繁栄をもたらしたのは治水である。日本の近代化に貢献したのも治水ある。遊水地で荒川の氾濫を抑え、利根川を東京湾から霞ヶ浦に流れを変えた。荒川と多摩川の中間に玉川上水を流し、安定して飲み水を江戸に供給した。川の恩恵は今も生きている。

川辺であれば土手があり、その上を自転車は走ることができる。今、道は華かに整備され、自動車社会を後押ししている。非効率な人力で走る乗り物には振り向きもしない。経済発展に貢献するものではない。道路への投資は経済活動の推進に役立つものでなくてはならない。人に安らぎをもたらし、憩いを与え、息抜きを可能にできるのは川辺の道、土手に違いない。今こそ治水を見直し、川を人が安心して遊べる自然の学校へと戻す知恵こそ必要ではないか。江戸時代の知恵をもう一度見直す時が来ている。

光と影

闇が光に対峙する世界であることは明確である。光は正義であり、生きる道標である。闇は悪であり、闇の中で道は見えない。一方、光に対する影はどうか。影は光によって生まれ、ある意味、対照的な存在である。光がある限り影は必ず生まれる。光に影は忠実に着いてくる。しかし、この影を光が作り出した闇とみたらどうか。光が強いほど影は濃くなる。言い換えれば光が強くなればなるほど、作りだす闇は深くなるのである。この闇は光と共に増殖し正反対の世界を裏で醸し出していく。

人は光を求め、光と共に歩みながら、一方で闇を作り出していく。一見不合理で矛盾することが同時に起こしてしまう。これは悲しいことではあるが、人間の世界で当たり前になる。正にルネ・マグリットの「光の帝国」の世界である。青空の下に夜の世界が描き出されている。絵の中で街灯が夜の世界を照らしている。空は美しく青く澄み渡っている。昼と夜が交錯する。そして光と闇という相反する世界が共存する。人は光を求めながら実際は闇の中にいる。街の灯りは水面に影を落とす。それでも闇の力に勝てない。

信じる光が宗教・民族・国家であれば、相拮抗する宗教・民族・国家があれば否定せざるを得ない。自身の信ずる宗教・民族・国家こそ光であり、光が強くなればなるほど、相対する宗教は邪教であり、相対する民族や国家は蔑むべきであり、闇の中で消さなければ逆に消される論理に陥りやすい。民族浄化、宗教の名を元にした大虐殺、戦争。自らの光の本質を見極めなければ、罠に落ちていく、闇の中で光に反するものへの排除殺戮が行われる。正に光と影の世界となる。

政治であれば、民主主義という名の元に最大公約数の票を得たとき、相対する少数勢力は闇の中で消される。為政者の力が強くなればなるほど光と同様に闇は深くなる。光の中で闇は見えない。汚職が為政者の忖度の名の元に行われる。最大公約数を取れば許される論理である。大衆の多数決による票が根拠であり、誰も個々にまで逆らうことはできなくなる。権力=金である。金は自ずと権力維持のためばらまかれる。民衆は金で踊らされる。金があれば誰も文句は言わない。それが違法であっても。これが政治の光と影の関係だ。更に恐ろしいことは政治が一つの宗教、民族、強力な国家権力(軍)と結びついた時である。光の中に属さない勢力は影の中で排除対象の危機に陥る。民主主義という名の元の暴力、安定を求めるが故の手段としての暴力である。

会社経営であれば、闇と言われる資本主義の中でトップに立つ人間は光という利益の最大化の名の元に別の闇の世界で事業や人の切り捨てを実施する。合理化が大きな旗印になる。手っ取り早く利益の最大化に結びつくからである。利益の最大化、株主への還元、経営資産の温存拡大こそ、企業経営の目標である。取締役は往々に認める。これは人権無視の非情な闇の世界でもある。しかし誰も咎めるものはいない。最大公約数の従業員は守られるが、不要と烙印を押された少数の従業員は消されていく。

光が一元化されると影の存在が見え憎くなる。常に光があれば影も生まれることを見なければならない。強者を光とすると弱者が影となる場合もある。光が強すぎると回りが見えなくなる。これが光の怖さである。影を見ると逆に光の本筋が分かる。影があまりにも深い闇であれば、この光は偽物である。光という名の元に邪道がまかりとおる。騙されてはいけない。光は全ての人に平等に分け隔てなく射すものでなくてはならない。一元化された光には多様性は認められない。あらゆる方向から光が射しこんでいなければ平等な光にはならない。

創世記第一章 はじめに神は天と地とを創造された。地に形はなく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

旧約聖書の冒頭。二日目に空を作り、三日目に海と大地を、四日目に太陽と月と星をもたらし、五日目に海に生物を空に舞う鳥を、六日目に地に生物をそしてこれらを司る人を創造し、神は世界の創生を終える。全ての始まりに天と地そして光が創造される。日も星も月も火もなくこの光源は何処に?この光の意味するものは何なのか?

トルストイは「光あるうちに光の中を歩め」を新約聖書ヨハネによる福音書12章35節イエスの言葉から主題を求め、書き記したものと言われている。「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、闇においつかれないようにしなさい。闇の中を歩く者は自分がどこに行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。」トルストイの思いは末文に記されている。「ひとたびまっすぐな道を見つけた以上、神と共にその上を歩んで、過ぎ去ったことも、大きいことも、小さいことも考えぬが良い。神にとっては、全て行けるものは相等しい。ただ一つの神と、一つの命があるのみだ。ユリウスはようよう安心して…喜びのうちになお20年くらした後、肉体の死が訪れて来たのも覚えなかった。」理想とする死である。正に光は人を導く神の御子の導き、闇を引き裂く道標ではないか。これで旧約聖書の光の意味が理解できるようになる。

光を絶対的普遍的価値とするとき対極に位置する価値を認めるべきか。小林多喜二が田口たきに1925年3月2日に出した手紙にある「闇があるから光がある」闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分かる。世の中は幸福ばかりで満ちているものではない。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。この言葉は、坂村真民の詩にある、「本当に光を知るためには本当に闇を知らねばならぬ」「闇深ければ光もまた強し」に通じる。

光は、それがどこから来るかを考えない人をも照らす。光の前に人は皆平等である。暗闇の中で生きてきたとしても光はいつも差し込んでくる。私はこの光を生きている証としてこの光の中を生きていきたい。

山へ

山に登る奴は社会人失格。社会人足るもの、山に登るものではない。

20年前に亡くなった父は社会人の心得として言っていた。しかも私は運動誘発喘息症で241mの山の入口で小学生の時動けなくなって以来山登りは到底の話だった。50才近くなるまで山に登るなんて考えも及ばなかった。ところが中国の蘇州にいた時一変する。上海あたりには元は海なので山といった山がない。かろうじて太湖のほとりまでいくと山があった。そのころは忙しく、立ち上げた事業継続のため中国中をかけずり回っていた。体調は最悪で高血圧、糖尿病が体を蝕んでいた。肝臓はフォアグラ状態。体重は80キロ超、腹囲は100㎝を超えていた。意識を失うくらい連日酒を飲んでいた。朝は起きられない。昼はボーっとしている。夜は眠れない。悪循環。50才まで生きられないと思っていた。リーマンショックの所為で顧客から入金がなく、あてにしていた日本からの追加融資も断られていた。従業員の給料は、このまま事業は、まさにニッチモサッチもいっていなかった。一人精神的逃げ場を求め徘徊していた。人には言えない。

そのころ太湖に向かう霊岩山の山頂に有名な寺があると聞いた。高々標高182m、下から遠く寺が見えた。たいしたことはあるまい。休日で天気も良かった。ゆっくり登れば大丈夫、甘く見ていた。途中で動けなくなった。この山は安産のご利益があるとのことで、女性がハイヒールで登っている!小さな子どもも楽しそうに。私は全身汗だくで情けなかった。彼らに着いていくしかない、一歩一歩。いつの間にか風景が変わるのである。登っている。分かった。いつの間にか頂上にたどり着くと苦しみが喜びに変わっている。気分が爽快になる。空はどこまでも青く、眼下に日々の営みが垣間見られる街並みが広がっている。不思議な感覚だった。苦しければ苦しいほど、乗り越えた喜びはひとしお。今苦しんでいることさえ何とかなるのではないだろうか。とさえ思えるようになった。実際、結果として何とかなったのだが。

なぜ、父は山を登る奴は社会人失格だと言ったのか。父のアルバムを整理した。一枚の写真に優しく微笑む研究者の姿があった。父の部下であった。彼は家族を残し、山で行方不明に、今も見つかっていない。父の脳裏に山といなくなった部下への畏怖の念が刻まれたのではないか。そんな時代であった。走り続けるだけの高度経済成長の中で、働くことが生きることだった。

山に登る者は社会の敗北者なのか?山に消えた彼と私の違いはどこにあるのか?私は実に一人で登っていなかった。回りに同じように登る普通の中国人がいた。彼らの登る姿を見て、山の登り方が分かった。焦ってはいけない。自分のペースで登る。おばあちゃんはおばあちゃんなりに、子供は子供なりに登れば良い。けして無理はしてはいけない。何故なら無理をすればそれ以上登れなくなるからである。苦しければ休みなさい。しかしけして諦めず前に進みなさい。頂上は自ずと近づいてくる。山では、社会的勝者も敗者もない。ただ、自然と一体化した一人の登山者になる。目的は無事登り下りていくこと。達成感が全てになる。山は一歩間違えばさようならである。登山者同志助け合うことが多い。これが下界の社会の世智辛さと違うところだ。

山に登ることは生きようとする意志と力の証明なのだ。誰でも生きる権利はある。私は今も一人で登っている。喘息がいつも襲ってくるからである。同伴者に迷惑をかける気がする。休み休み登るからである。人の2倍掛けても登る。還暦を越えても登っている。コツコツと。いつの間にか、メタボも高血圧も糖尿も肝臓のフォアグラ状態もなくなっていた。

天使と明かり

天使が四季の花の香に誘われて庭に下りてくる。そよ風が吹いている。心地よい微睡みの中で夜を迎え、明かりが灯される。天使は深い眠りに就く。庭は天使とともにある。天使は神からの贈り物、喜びの象徴。天使のために明かりがいる。天使がけして庭で微睡んでも寂しくならないように。庭の花壇には灯りと共に天使がいつも微笑んでいる。そんな庭に私はしたかった。

天使や明かりのオーナメンツはインターネットで手に入れた。何せ種類が多い。百数十種類、これだけのものをどこで選べるのか?パソコンの前に座るのが毎日楽しみだった。

天使は表情を重視した。自然な表情が好きだ。デフォルメされた天使は好まない。何故なら庭は生きている。天使もこの庭で生きているかのようにいて欲しかったからだ。いつ見ても自然にふるまっている天使が欲しかった。少々高くても庭の品位に適したものを選んだ。

明かりはソーラー蓄電式LED、電気代のかからない自動点灯タイプを選んだ。キシマのソーラーライトは小瓶でシンプルかつカラフルな4種類。ステンドグラスのようで昼間見ても楽しい。私は門燈代わりにも使っている。少々の雨でも点灯し、上から光が当たっていれば夜勝手に点いてくれる。風で飛ばされないように壁に接着剤で固めている。置いて一年、かわいい光を庭に夜中届けて続けてくれるのが嬉しい。

ランタンタイプの灯りは地面に杭で刺して上から吊るすことができる。ランタンが揺れると同時に中の灯りが揺らめくようになっているため温かみを感じさせるばかりでなく、自然の温もりも感じられるのも魅力だ。高い位置にある天使を照らすことができ、花壇に埋もれた天使を上から照らし出してくれる。本当に優れものと言っていい。ソーラー蓄電で光センサーにより夜のみ点く点は、点け忘れ、消し忘れもなくし、無駄な電気を使うことがない。LEDはライト交換がなく、漏電の心配もない。電気消費量も少ない、配線も別電源もいらない。ガーデンライトとして正に最適だ。

ソーラーランプというとどうしても安くて味気ないタイプが多い。経済性、機能性のみに偏ると庭の雰囲気まで壊してしまう。私が更に選んだのは鉢植えを載せて楽しむソーラーランプ、庭に変化を与え、夜暖かい光を与えてくれる。庭の小道で足元も照らしてくれるかわいいランプだ。ランプが二つ、蔦系の植物の鉢を載せて私はこのランプの揺らめく光を楽しんでいる。

庭にオーナメンツを置くと、楽しみ方が違う。オーナメンツ自体がストーリーを醸し出してくれる。庭に命ももたらす。明かりはオーナメンツを照らし出し庭を明るくする。夜でも光がある庭は温かみを感じさせる。人がいなくとも明かりが温もりを与えてくれる。

風薫る庭へ

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庭は50坪ほど。元々一昨年亡くなった義父の純和風の庭。随所にみごとな石が重きを与え、一基の石灯篭が静かに見守っていた。シンボルツリーは枝垂れ梅に2mを越える柘植の木が2本。春に数日白い花を咲かせる2本の大木の木蓮が北と南で睨みを利かしていた。静寂の庭だった。義父は自然を愛した人だった。至る所で土筆が取れ、タンポポが咲き、春の到来を告げていた。夏に向けて名も知らぬ草花が生えていた。コオロギの合唱に秋を感じた。立ち枯れの雑草が冬の寂しさを教えてくれた。庭は自然の名の下に荒れるに任せていた。私にも葛藤があった。あるがままで良いのか、それとも?8年の長い中国滞在から戻ってきた。私の頭にあったのは中国の美しい庭園への思いだった。庭は美しく整った姿にしなければならない。これは住人の使命であり、義務である。原っぱは庭ではない。

中国で稼いだ金を庭に投じた。当初庭を触らせなかった義父は遂に何も言わなくなった。義父を襲っていた老いがそうさせたのかもしれない。したいようにしなさい。庭は片時の夢に過ぎないよと心で言っていたのではないか。庭は所詮真夏の夜の夢、夢が覚めれば自ずと自然に戻っていくのだ。義父も若いころは庭を芝生にし、花壇を作り、大事に面倒をみてきたようだ。私もいつまでこの庭を見続けることができるのだろうか?ふとそんな考えが頭をよぎった。

この庭の改造に結局10年かけることになる。最初はイングリッシュガーデンをもってきた。一方で、縁側と藤棚でバランスを取り、東側にバラのアーチ、北側に洋風のプチ物置。雑草との闘いに様々なグランドカバーを試した。門近くの風知草は良かった。60種以上のミント、タイム、バジルを植えたハーブ畑、ハツユキカズラ、テイカカズラ、ヘデラアイビー、ヒメズルニチニチソウの蔦類は強い。更に彩を庭に与える花木を植えていった。香と花のある木々、沈丁花、花海棠、蠟梅、そしてウツギ、更に東日本大震災を機に売り渡した実家より、ユキノシタ、ツワブキ、萩を持ってきた。

義父の死に合わせたかのように2本の柘植の木はその寿命を終わりを告げた。私は思い切り、この木々を葬り、ジュンベリーとバイカウツギに植え替えることにした。かぼそい枝は風にそよぎ、芳しい香を漂わせ、白い花が庭を明るくするだろう。風薫る庭へ。木の下、グランドカバーにセダム、ヒューケラを植え、下からも明るくするようにした。雑草防止にもなる。一石二鳥。一番の古木で、大木でもあった木蓮も1本のみ伐採し、カラタネオガタマを植えた。門外には柊を植えた。初冬に甘い香りの白い花が咲く。ここに私の思い描いた庭はほぼ完成した。

義父はイングリッシュガーデンをけしてほめることはなかった。ただ、デイケアに迎えにくる看護師の方がいつもいい庭ですねと言うんだよと言っていた。義父はデイケアがない日は日がな一日庭を眺めていた。その姿が何故か今、私に重なってくる。義父はこの家で家族に囲まれて大好きなワインの杯と共に天国に旅立っていった。

旅の形

旅が人の心を搔きたてるものは何なのか?命を賭してまでなぜ旅に出るのか?旅には何があるのか?

芭蕉は旅に生きる人々も旅に何かを求める人々も同じ旅人と言っている。生活するために旅するも精神的な救いを求めて旅するも同じ。旅は人にとって生きること。旅は人に糧を与え、時には財宝をも与えた。更に巡教の道ともなった。救いを求め、失なわれた何かを求め、現実を逃れるためのものであった。その中でいつしか美を見出し、真理を追究し、想像の世界を造りだした。旅は心を解き放つ手段となった。然るに得てして旅は苦行を強いる。芭蕉のおくのほそ道も述べている。古人も多く旅に死せるありと。古の旅は更に厳しいものであったろう。今でもけして全て安全な旅はない。

私にとって30代からの旅は正に生きる糧を得るためのものであった。世界中どこへでも行った。市場開拓という辛い一人旅だった。その中で健康は蝕まれていった。50歳で大病を患った。人生の旅の形を見直す契機になる。私の中で旅は形を変えた。自分のための旅をしようと。若かったころどこまでも自転車で走ったことを思い出した。ヘルメットのいらないパパチャリで家の周りをまず縦横無尽に走り始めた。それから川を辿り走り続けた。川沿いは走りやすく、堤があればそこに道があった。川を見つければ今でもそこに向かう。そこから四季の花々を楽しめる公園へ、或いは日帰り温泉へ向かう。温泉は体と心を自然に解き放つ。体が少しずつできてきてから山に向かうようになった。私が好きなのは旧道であって、更にその先の峠である。旧道は細く、車も入ってこない。まして峠は今やトンネルへと置き換えられている。峠は旅を続けるための山越えの道である。けして頂きではなく、山道をくねくねと、越えやすい低い山の尾根を目指したところである。古い峠には旅人の息遣いが感じられ、往来した人馬の足音が聞こえる。馬のいななき、峠の茶屋の呼び子の声、峠で一休みする旅人の姿が私には見える。山の国日本は峠の国である。正に峠という漢字は日本人が作った中国にはない独特の漢字である。日本人が誇れる国字である。人生の峠を越えた私にとって心地よい響きを感じる。峠という字は山を上る道が下る道になる所、うまく表している。

非効率とも思えるパパチャリに乗って川沿いを公園へ、或いは温泉に向かい、或いは旧道を走り峠を目指す。これが私のみつけた新しい旅の形となった。今は自転車もマウンテンバイクにグレードアップしてはいるが、私のライフスタイルとしてこの旅路を辿り続けていきたい。峠への誘いにも従って。

無くなる会社、失う会社、伸びない会社

会社生活足掛け37年、定年退職という一区切りを終え、会社生活における悔恨の念と苦渋の思いが湧き上がってくる。何故あの会社はなくなり、あの会社は資産を失っていったのか、そしてあの会社に何が残るのだろうか、それぞれ原因があって結果は生まれる。私は会社を去るたびに、遅かれ早かれという思いがあった。しかし、敢えて言うことはなかった。これは会社の組織の枠外に置かれ、言える立場ではなく、寧ろ疎まれていたからである。だからそれぞれ自ら去っていったのだが、今だから言えることなのかもしれない。

小さな会社は些事に巻き込まれると些事の中で更に小さく、やがて消えていく。やはり小さな会社であっても次の市場を作っていくパワーは必要である。小さな会社こそ失敗を恐れず敢えて転がり続けなければならない。転がらなければ大きな会社に巻き込まれ、存在意義を失われるからである。小さな会社が守りに入った時点でおしまいなのかもしれない。厳しいがそれが現実だ。なくなるには理由がある。

資産を失う会社は取引に生じた問題を後回しにする結果だ。取引を等閑にせず、交渉を我慢強く続けるべきである。自ら担当を切った時点で、相手にカードを渡してしまう。根気強く対応すべきである。短気は損気である。交渉戦略が不十分で、明確にせず、人員を含め資産を失うことは企業戦略自体に誤りがある。ドメインの事業に集中せざるを得なかいことは理解できるが、一つ一つ問題を解決していかないと足元をすくわれることになる。

伸びない会社には夢がない。夢がないと人は育たない。全く面白みのない会社になる。経営は数値で判断するが、数値を上げるのは人間である。人間味のない会社は保身に走りやすい。全て現場に丸投げで結果だけで判断する。会社として経営戦略を説明すべきであるが、従来路線から外れるものにいい顔は示さない。最早縮小となる。数値的に見えない将来像は消えていくのであろう。

私が主に取り組んでいたのは海外戦略である。うまくいくときは大きいが、リスクも比例して大きい。経営者がこのリスクを理解し、更に信頼の上に投資をしなければ、難しい事業であった。投資なきところに事業が拡大することはない。寧ろ撤退につながる。まさに事業への本気度が試される部門であった。梯子を外されると致命傷を被ることになる。何度か辛酸を舐めており、寿命もその都度縮まった。