🎡葛西臨海公園水仙祭り⛲️水の精の長く遠い旅:地中海🏝️-シルクロード🐫-中国🐼-越前海岸🌊 🌏1/3周2,300年

葛西臨海公園⛲️は旧江戸川と荒川に挟まれ、東京湾に面する東京の東端にある。中国、韓国、北朝鮮、全ての首都は海に面していない。この公園から日本の首都東京だけが海に向かっていることを感じる。南西方向に富士山が拝め、海岸から房総半島の木更津に向かう海ほたるの風の塔が望め、更にその先へ大海に通ずる東京湾が広がっている。穏やかな細波が日の光を受け、銀色に輝き、どこまでも続く海の広大さを教えてくれる。そして、海を通して全てを受け止めてきたこの国の形を窺い知ることができる。海を越えてやってきた美と文化を認め、育み、更に高みへと引き上げたのが我々の先祖であり今の我々だ。花とて同様。多くの中国、朝鮮から渡ってきた美と香を認め、植え、育て、愛でてきた。大陸から渡ってきた花々、蝋梅沈丁花木蓮牡丹薔薇石楠花槿百日紅曼珠沙華金木犀等。然るに遠くシルクロードを越え、同じく中国から渡ってきた水仙については花を愛で、育んだ歴史が残っていない。過去が消えている。日本水仙と我々は呼んでいるが、学名はNarcissus tazetta L. var. chinensis。中国がoriginalと分かる。どのように渡ってきたのか?遣唐使という説が一番尤もらしいのだが、書物に残っていない。正倉院に証拠もないし、万葉集にも愛でる姿はない。球根が椰子の実の如く海流に乗って、渡ってきた説まである。全くの謎。さて、公園で海に見惚れていたが、水仙まつりはどこで開催されているのか?案内がない。都立公園としては2番目に大きい77.8haもある。旧江戸川を越えれば千葉県浦安舞浜のディズニーワールド。海辺のカフェの女性に聞く。彼女曰く「分からないが、観覧車🎡の下ではないか?」催し物はそこで開かれることが多いとのこと。まずは向かってみる。

公園の目玉になっているのがダイヤと花の大観覧車🎡。どこからでも目立つ、大阪吹田 の観覧車🎡OSAKA WHEELが2016年に登場するまでは日本一だった。お目見えして23年。お台場の観覧車🎡が2年前になくなり、東京の湾岸唯一のランドマークとなった。ビルの高層化が進み、わざわざ観覧車🎡に乗る必要もなくなった。のんびりゆっくり回って景色を眺めることは、時代の急速な流れの中で最早そぐわないようになってきてはいるが、ランドマークとしての役割は残っている。頑張って欲しい。観覧車を目指して行くと、周りに水仙は植えられていた。日本水仙は花が白く、小さい。57,000株植えられているとは言え、黄色く花の大きなラッパスイセンに比べてやはり迫力に欠ける。可憐ではあるが、極めて地味になる。香りは品がいい。日本水仙の良さは高貴な香りにある。チューリップや彼岸花にはない楽しみだ。沈丁花や蝋梅ほど強くはないがほのかに漂う甘く爽やかな香りは香水になるほどだ。

葛西臨海公園に咲く水仙は日本各地の群生地から取り寄せられた球根から。東京の市場としての特権を感じる。尤も日本水仙は関東以西しか咲いていなかった。しかも限られた場所。元々イベリア半島から北アフリカ原産と言われ、温暖な地に咲く花。地中海、シルクロードを越えて遥か極東の日本に辿り着く。紀元前800年ホメロスのデメテル讃歌の中で詠まれ、紀元前300年にはギリシャで品種を拡大し、球根栽培を可能にした。シルクロードを渡ったのはこの球根。1,300km地球1/3周2,300年もかけた旅路の末に日本。原産地を含め、北緯30〜35度にあたる地域に咲く花と分かる。日本水仙の原種は揚子江の南で生まれ、上海崇明島韓国済州島長崎 野母崎淡路島 灘黒岩越前海岸伊豆下田爪木崎千葉鋸南へと群生地を作り出す。群生地が海際に、しかも日本各地に分散していった不思議。水仙の名は中国由来であり、中国でも朝鮮でも水仙花と呼んでいる。水仙は唐時代の段成式の随筆集酉陽雑俎に記されていることから、9世紀には中国に既に伝わっていた。この時、水仙の名はついていない。東ローマから到来した捺祗(ナジ)と紹介している。ナルキサス(ヨーロッパ水仙)を指す。シルクロードを経て1,700年かけて辿り着いた。更に香高い白い花水仙へと進化するのは11世紀の時代に入ると黄庭堅に聖なる花と謳いあげる。中国に到達して更に200年経っている。これが日本水仙のoriginal。日本において水仙が初めて書物に記されたのは東大寺の僧が残したとされる15世紀の漢和辞書下学集。同じく蔭涼軒日録1486年初めて水仙が妙法寺全恵上人から将軍家に献上されたと記される。日本水仙が中国江南に生まれ400年の時が既に流れている。然るにこの時代の三代集「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」水仙を愛でた歌がない。和歌に詠われるようになるまで、更に18世紀の江戸時代を待たなかればならない。日本で水仙が愛されるようになるまで実に300年の時が必要だった。水仙とは何だったのか?

日本において、ヨーロッパや中国のように水仙が花として愛でなかったのは、中国からこの球根を持ってきた目的が違った。水仙に接したのは禅宗を学ぶため中国に渡った僧侶。彼らは生薬として水仙を見た。地下部の鱗茎を掘り上げ、水洗後に外皮とひげ根を除いたものが生薬「水仙根」。生の鱗茎を擦り下ろし、布でこした汁に小麦粉を加えてクリーム状にしたものを消腫薬として、腫れ物、乳腺炎、乳房炎や肩こりの患部に貼る。中国では花を日干ししたものを生薬「水仙花」といい、活血調経薬として、子宮の諸症、月経不順に煎液か散剤にして内服する。一方、水仙を誤食すると中毒症状として、嘔吐、下痢、発汗、頭痛、昏睡を発症する。また、切口の乳液が皮膚に着くと皮膚炎を起こすこともある。葉はニラ、アサツキ、ノビルと、また鱗茎はタマネギと間違えやすく、毎年のように中毒事故が発生している。(日本薬学会生薬の花スイセンより抜粋)。日本では中国や韓国と違い水仙花と呼ばない理由が分かる。水仙花は生薬だった。更に水仙を遠ざける理由も寺にあった。「不許酒入山門とはニンニクを主に指すが、ニラ、アサツキ、ノビルも含まれ、これを食し、修行してはならぬとしていた。ニラに似た水仙を寺近辺に植えなかった。誤食を避けるため民家の近くにも植えられず、花壇に植えたとしても2年足らずで消えていく。人家に遠く、日当たりが良く、水捌けに優れた場所、海際の崖が向いていることが分かる。正に越前海岸が選ばれることになる。水仙は球根から球根が生まれ、花のクーロンを作っていく。球根が増えれば増えるほど滋養分が必要になる。土に栄養価が足らなく、十分な光、水分がなければ2,3年で花を咲かせなくなる。消えていく。非常に難しい栽培。2,300年前からクローンで増え続け、絶滅せずに今も維持され、気候の違いにも耐えて野生化した日本水仙は、類まれな植物であることは間違いない。しかし、集団としての生き残りには、人間の手助けが必要だった。

水仙の群生地の成り立ちを見ていこう。一番広大な群生地は越前海岸70haに及ぶというから何と葛西臨海公園の広さと変わらない。日本における水仙の聖地であり、発祥の地と分かる。永平寺に近く、道元を追って南宋より来日した禅僧寂円が越前海岸近くに扶桑五山の一つ妙法寺を1278年頃に建立している。水仙を伝えたのは彼ではなかったのか?寂円は1279年に亡くなっている。1574年には一向一揆により寺は記録とともに跡形もなく消失している。名刹はなくなっても海岸に咲く水仙は残った。そして花を愛する人々によって越前海岸の水仙は守られた。 淡路島灘黒岩水仙郷 は文政年間(1818年〜1831年)紀州から漂着した球根を黒岩の漁師が山に植栽したといわれている。安房郡鋸南町房州は、安政年間(1854年~1860年)に植栽され、元名水仙として、船で江戸に運ばれ、武家屋敷や町家に売られたのが始まり。歴史は浅い。しかし、この水仙の人気を江戸で大衆化したことが大きい。伊豆下田爪木崎長崎野母崎についてはいつから自生しているかわからない。面白いことに上海崇明島韓国済州島も同じ水仙の群生地になっているが、いつから自生しているかはわかっていない。シルクロードから日本へ続く水仙の海の道があったことを思わせる。水仙は海流に乗って日本へたどり着いたのか?これを全面的に否定はできない。しかし、越前海岸に広大な群生地を作ったことは球根を中国から持って来て、植え、育てなければ、広大な土地に水仙を花開かせることはできなかっただろう。水仙をよく知る中国人だからできた、そして、ニラに間違えて食すことがないように一般に栽培範囲を広げることはしなかった。更に海流に乗って球根が日本に仮に流れ着いて自生できるとしたならば、もっと群生地が各地に広がっているはずではないか?群生地が限られているところに人の関与の証拠が垣間見られる。何故、越前海岸だったのか?南宋の中心は揚子江の南、水仙の花咲く地だった。水仙を愛で、育てた経験のある人間が水仙を日本へもたらしたと考えるのが自然だ。水仙は生薬でもあった。医薬に詳しい禅僧こそ、相応しいといえよう。南宋は1279年に元によって滅ぼされた。南宋より来た禅僧寂円も同じ年に亡くなっている。伝えたい花を遺したかった。水仙は死者に捧げる花。鎮魂の花。寂円は水仙の咲く越前海岸の丘に立ち、海の彼方に帰れぬ故郷を想ったであろう。水仙祭りに北京から裕福そうな中国人家族がきていた。もう中国の正月。「新年快楽」と中国語で挨拶した。喜んで日本語で「新年快楽」を何と言うか聞いてきた。「明けましておめでとう。」と行ったら、難しくて言えないと言って終わった。彼らは何故水仙祭りを見に来たのだろうか?わからないかもしれない。昔、南宋と言う国があり、元に滅ぼされた。海を渡って日本に逃れてきた禅僧がいて、水仙を見て故郷を懐かしんだことを。

私の生まれた年にヒットした「7つの水仙」というフォークソングがある。この歌が水仙の美しさを素晴らしく表現している。水仙の7つの花言葉、自己愛、うぬぼれ、エゴイズム、気高さ、尊敬、神秘、そしてもう一度愛してと、何もない若者にとって愛おしい彼女に告げられるのは7つの愛、水仙のみ。私は純白の日本水仙が一番相応しいと思うのだが、いかがだろうか?

参考資料:越前水仙 越前海岸の水仙畑 スイセン/遣唐使が持ち込んだ説 スイセン(水仙) 花の名前・スソン 園芸豆図鑑 Vol.11スイセン ニホンズイセン 【スイセン(水仙)の怖い花言葉】  水仙を抱いた羅漢像 【知られざるニッポン】vol.30 水仙の秘密 贈る前に知っておきたい水仙の花言葉、7つの意味 スペインの水仙 穴だらけの知恵袋”水仙” 生薬の花スイセン 中国の水仙文化 北宋の黄庭堅は何故水仙を愛したのか 水仙を詠む スイセンの仲間 うたびとの歳時記 越前の五山派寺院 越前妙法寺縁起

素人半老人の安全な山⛰️歩き(遭難しない登山術)

私は山歩きの好きなだけのしがない半老人。髪の毛も薄く、髭も白く、腹も出ている。前期高齢者までもう少し。20歳代にバブル経済で都会の味を覚え。30歳代で酒色に染まり、40歳代にメタボ、高血圧、糖尿病、肝臓のファアグラ化に苦しみ、50歳になり、を発症し、今も抗癌治療の後遺症に苦しんでいる。山とは全く縁のない怠惰な人生を歩んできた。偉そうなことは言えない。しかし、60歳を越え、人生の坂道を下りるにあたって、私なりに坂の下り方があるのを知った。人生の喜びは山にある。

山歩きを始めたのは10年ほど前50歳を当に過ぎてから。左遷され、事務所の北側の窓から仰ぎ見る鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳に見惚れた。仏陀が死を迎える涅槃の形をしていた。涅槃に近づきたい。喘息症、高所恐怖症がなんのその、辛いこと、悲しいこと、悔しいことが山にいると全て溶けて、消えていった。確かに素人の半老人には山登りは辛い、きつい、危ない。一歩間違えばさようなら。しかし、これを乗り越えれば、我が世の春世知辛い社会からの逃避自分一人の世界天上天下唯我独尊の気分に浸れる。誰に邪魔されることも、気遣うことも、諂うことも、傅くこともない。これが山上の垂訓。だから山に登る。山頂からの眺望に魅了され、山で呑むにハマり、温泉でぼーっとすると全てを忘れられた。ただ、忘れてはならない。山は生身の人間が自然と対峙する場。自然の力はちっぽけな人間なんて簡単に飲み込む。况、素人の半老人なんてちょろいもの。常に命あっての物種。第一に考えることは、碌でもない死に方をしない。死ぬなら畳の上。更に、この年になって他人に迷惑をかけたくない。遭難し、保険をかけていたとしても、助けを求めれば、他人に迷惑をかける。遊びで勝手に山に入っているのに、関係ない他人の手間を取らせる。留守を守る家族に心配かける。場合によっては金銭的負担をかける。見っともないことはしたくない。山に登るということは自分の身は自分で守るのが前提。全て自己完結であるべき。山の中では甘えは許されない。何が起こるかわからない。情報の収集力危険を嗅ぎ取る力も試される。常に臨機応変でなくてはならない。如何に安全、安心な方法で山を登るか、山に登るとは自らの能力を知ること矩を超えず、無理をせず自らの力の限界を知らなければならない。決して一朝一夕ではない。約10年掛けてコツコツと知識を得ていった。

私は登山家になるつもりは毛頭ない。名だたる山を登ろうなんて野望を持てる人間ではない。素人で結講。地図の見方も、コンパスの使い方も知らない。保険に入るのもやめた。にも属していない。資格もない。山でまで世間に縛られたくない。従って、危険な山は避ける。眺望のない山は登らない。天気が少しでも曇っていたり、寒ければ登らない。年寄りの冷や水はよくない。自分の能力の範囲内で、ただ山行きを楽しむ、登って下りて、ゼーゼーヒーヒー言いながら山にしがみ付いて何とか頂上を目指す。いつも考えていることはまず転ばないこと。毎回数回はコケて怪我をしている。年の所為にはしたくないが、足元が覚束なくなった。二本の杖(ストック)は手放さない。使い方が違うと指摘されたが気にしない。汗だくになりながらも、山頂で美しい眺望を満喫できれば本望。青空に映える富士の姿を眺めるのが至上の喜び。人生の富士山を目指すより、美しい富士山を遠くから眺めて楽しむ人生もいいのではないか山の美味しい空気を胸いっぱい吸う。もう山頂で美味い酒を飲めた時代は終わった。下りてからの楽しみになった。🍙3個とお茶しか山では食しない。早く登って、早く下りる昼すぎには下山を目指す。往復10km標高差1000mをmaxで考えるようになった。下りて、湯に浸かり、つまみと酒に舌鼓を打てればそれで幸せ

安心安全な登山はどうすれば可能か。1に装備、2に調査、3に計画、4にスケジュール管理、5に記録。一番重要なことは3計画までで、ここでほぼこの山行きの良し悪しが決まる。登山は計画のスケジュール管理実証し、検証する。登山後は記録に残し、ブログに公開する。反省し、次の登山計画に生かすと同時に自分の足跡としてブログ上に残る。次にこの山へ向かう登山者の参考にしてもらう。参考にした登山記録を残した方への恩返しにもなる。尚、一連の作業で、紙は使用しないし、書かない。山へは紙を持っていかない。全てヴァーチャル山行きは出発前で成功か否か決まる登山は全てが事前に準備が整っていれば最高に楽しいものになる。安心して山に向かえる。安全安心な登山は全て装備を含めた計画段階で決まる

1.装備:山登りに必須な気力知力、体力がもはや萎えている。唯一頼りになるのは装備。事前の準備が全て。持っていく装備に命を預ける。身一つで山に登る。装備はコンパクト最小限軽量にしなければならない。よくものを落とす忘れる無くす。しかし、命だけは落とせない。装備は命優先、遭難に備えるもの。遭難の原因の一番は道迷いによる。従って、の装備がスマホヤマレコアプリ?! スマホはiPhone12ProMax、5年リース月1,980円をJ:COMに払っている。画面が大きく、写真もきれいに撮れる。アプリは月当たり284円(現行409円)ヤマレコに払っている。保険代と見れば、安上がりな登山ガイド。何時に家を出て、何時の電車バスに乗って、向かい、帰ってくるか。登山ルート、登り口から山頂、下り口まで全ての標高、歩く距離、目標時刻。この情報は家のパソコンヤマレコアプリyahooのカレンダーで作成する。パソコンスマホiCloud(200GB/月400円)で繋がっているので、両方で書き込め、確認できる。登山地図、工程はスマホにダウンロードして見る。若い人のようにスマホに文字をスラスラと入れられない。指を器用に動かせない。文字があまりに小さすぎる。パソコンであれば字を大きくして読み書きできる。実に便利、パソコンは最新iMac 24インチ512GB。自分の能力では面倒見きれない。初期投資に足を取られたくない。5年リースとし、PCデポ月5,000円更に指導料月4,400円、これで賄っている。因みに音がいい。インターネットは5GB光でJ:COM月1,730円をTV費用に追加している。全てが安全装備につながる。登山中は今いる場所時刻標高、山頂までの距離と標高(ピタゴラスの定義で歩く距離の計算要)、下山予測時刻、しかもルートから50m外れると音声で知らせてくれる。ルートは赤線で、これを辿ることになる。歩いた足跡は青線になる。重なればOK。但し、気を付けなければならないのは、ヤマレコ情報は山頂や雨天、曇天で電波状況が悪くなった場合、位置情報が信用できなくなる。これはGPS環境に依るもので、微妙にズレる。この場合は道標が正しいと憶えておくこと。別の登山者に確認してもいい。また液晶のため、で画面操作はできない。気温零下では固まる。従って、本格登山には無理がある。晴れた暖かい日にのみに登る人向きであることを理解しておく。また最低限、ピンクテープ道標方向の確認、別の登山者にあった時は行く先々で情報交換は必須だ。山では何が起きているか、登ってみなければ分からないことがある。文明の利器は万能ではない。常に山では様々な兆候、異変に五感を働かせ、臨機応変に処すると肝に銘じるべし。一方、スマートウォッチにすれば、スマホを取り出して見る必要がなく、腕時計を見ながら歩けるのでもっと楽になるようだ。しかし私は腕時計をすぐなくすので使っていない。では、スマホは落とさないのか?落とさないの装備を持っている。

今年5月に19,855円で買ったニューモデルのザックMILLET サースフェー NX 40+5。両方のショルダーベルトにメッシュポケットがあり、それぞれの口にパラコードストッパーが付いている。片方にスマホ、片方にバッテリーとコードを入れている。スマホには落下防止のストラップ(ノジマで800円)を付け、ショルダーベルトにつなげている。スマホは片時も離さない。置き忘れの心配もない。スマホの電源が切れそうになると片方のポケットのバッテリーと繋げる。バッテリーはザックの内ポケットにもう一つ入れている。スマホ、電源切れたらただの箱!の装備を私は三種の神器と呼んでいる。コンプレッションインナーストック、そして常備薬、実はスマホも三種の神器も山で偶々会った山女の知恵の拝借、山に登る知恵は山で得よ。登山家の説教に振り回されるより余程有益になる。山では他人の話を聞けまずは挨拶から。これも山で得た知恵。中でもコンプレッションインナーは特に山で効果を生む。筋力増強体温保持怪我防止足攣防止。萎えた半老人の体力を支えてくれる。更に、登山後2日目に襲ってくる筋肉痙攣を和らげてくれるのが嬉しい。勿論、足攣りには小林製薬のコムレケア常備薬の一つ、常備薬としては他に傷の消毒薬キズパワーパッド大中小、携帯用正露丸を必ず山へ持っていく。山から戻って筋肉痛が出てきたら、ゼリア新薬のコンドロイチンと富士製薬のセイムビタンを飲むようにしている。体の衰えは隠せない。如何に薬で補うかにかかってくる。

の装備は最悪の場合を想定したものになる。第一は熊🐻対策。私は自慢ではないが、山でよく熊🐻を見かけている。私は基本的に山はそこで生活する動物のものであって、山登りに行く人間は邪魔してはいけないと思っている。従って、熊鈴は持っていない。彼らの生活を邪魔したくない。私はいつも静かに彼らが立ち去るまで待つ。もしものことがあれば、ということで、三つの道具を持っている。小学生の護身用防犯ブザー、ヘッドライト、そして熊スプレー、ブザーはドンキで1,100円で買って、小学生と同じようにショルダーベルトに装着し、残りはフロントサイドバックに忍ばせている。使ったことがないので効果ありか否かは分からない。ただ最低限として持っている。またもしも山で動けなくなった場合を考えて防寒アルミシートも持っている。これが一番使いたくない代物だ。ジョイフル本田で416円で購入している。の装備は山で絶対必要なもの、生死に関わるもの、!これは絶対忘れるわけにはいかない。Platypusウォーターバック 2.0L をザックに入れ、チューブを通し給水栓から水を舐めるように飲んでいる。給水補給を忘れないため。ボトルで持って行っていたが、いちいちザックから取り出すのが面倒で、飲み忘れが多く、腎臓が痛めたことがあった。中国人ハイカーが使っていたので真似をした。便利。以上挙げた装備を基本にどの山に登るか、調査に入ることになる。

2.調査:どんな山に登りたいのか、まずは有名どころから入っていけば間違いない。山登りを始めたのが鈴鹿の麓からだったので迷わず、鈴鹿7マウンテンズを登っていた。海から続く1000m級の山なので、歩く距離も短く、ハイキング気分、山頂で酒を飲んでいた。素人に優しい山だった。事前調査はどの峠から登り、どの温泉に入るかだけだった。天気は山を見てれば良いだけ。山に向かうのも戻るのも自転車なので、交通の手段に悩むこともなかった。登山道は整備され、山頂からの眺望も見事だった。噴火した御嶽山から伊勢湾を越えて知多半島まで望めた。2年ほどして、八ヶ岳の麓に転じ、交通の手段は車になった。2000m級の山並みで、結構ハード、とてもハイキング気分ではなくなった。登山の難しさも段々分かるようになった。やはり山の天気を見て登山を決めていた。しかし、この時、山の天気の判断は難しいと分かった。。麓が晴れていても、山が晴れるとは限らない。山の天気は気まぐれだった。ホワイトアウト遭難の恐ろしさ、道迷い自然の脅威。基本がなっていないので当たり前なのだが、しかし、登山道は整備され、山頂から富士山が望めるほど、眺望の良さは堪らなかった。事前調査は登山距離と時間、暗くなる前に車に戻ってくるだっけだった。更に2年ほどして東京に戻り、コロナが襲ってきた。名だたる山は遠い。おいそれと他県に行くのもままならなくなった。多摩の山を集中して登り始める。コロナがなかなか治まりそうもない。ヤマレコを通し、多摩百山多摩100山東京里山100選を知った。数字の魔術に惑わされ、達成だけのためのピークハントにハマった。コロナ禍の中、2020年4月から2021年12月にかけて全て踏破したが、楽しい思い出が少ない。なぜか?東京の山の多くは、戦後植林された常緑樹で高木になった杉や檜で山頂まで覆われ眺望が失われていた。登山の楽しみは山頂、尾根から眼下に広がる壮大な景色にある。木々の間に僅かに見える眺望では寂しいものだ。今も環境を守る名目で山に杉檜の植林は続く、山の景観を守る権利は更に除外されていくだろう。四季それぞれの顔を持つ変化に富んだ山は失われ、ただ緑に覆われた人工的な山になっていくのは寂しいものだ。鈴鹿7マウンテンズ八ヶ岳のようにメジャーな山であれば眺望も確保されており、安心して登れるが、東京の多くの山は登山を楽しむ環境にない。里山も薪や炭の必要のなくなった今現在では価値を失い、荒れるに任せ、地元でも登らなくなっている。山は昔、神聖なもので、宗教の対象であった。明治に入り、原始宗教が否定され、山への求心力を更に低めた。神社の奥の院も力を失っている。山を守ってきた人々も年老い、若者の意識も変化している。少子高齢化が拍車を駆けている。山を守り切れない。医療や科学技術の民衆への浸透が、もはや神頼みの効果を凌駕しているのも真実だろう。山の資本主義化で景観より木材価格に興味はいく。トレイルランニングのためであればいいが、山の眺望を楽しみたいのであれば、整備された山へ行かなければならない。この情報は書物では得られない。情報が古ければ、現在の山の状況は掴めない。登山を愛するハイカーの生の声を聴くしかない。全てはヤマレコにある。

開けて2022年はコロナ禍も少し和らぎ、都内から他県に足を伸ばしても何も言われなくなった。登る山を埼玉神奈川山梨千葉まで広げた。風景が変わった。埼玉は秩父から奥に広がる山並みを楽しめ、神奈川は山から海、半島、島々が眺められる。山梨は南アルプス、富士の風景が美しい。千葉は山と海のコントラストが美しい。しかし、アクセスに係る費用と時間が問題になる。半老人は時間はあるが金はない。とは言っても平日日帰り登山が基本。家に帰ったら、汗の染み付いた服や下着や手拭いを洗濯し、干す。自分の加齢臭を消す、放っておくとカビが生えてくる。他県の山へのアクセスに車は使えない。朝夕の通勤帯にぶつかる。時間が読めない。電車が一番確実で、しかも酒が飲める。移動は電車、現地ではバスが基本になる。出発は始発。ザック姿は通勤ラッシュの邪魔。始発電車で文句を言われることはない。登山スケジュールは行きと帰りの電車とバスの時間に縛られる。登山ルート、要する時間も電車、バス次第になる。自ずとルート取りや時間にはシビアになる。登山口は駅やバス停に近くなければならない。バスに頼る場合、登山開始はバスの時刻表次第。バスがハイシーズンや休祭日のみであれば、その時にしか向かえない。微に入り細に入り調査し、仮想スケジュールを決めていく。電車からバスに乗り継ぎ、登山口まで歩く。山に取り付き、下山道に温泉を探す、温泉に入ったら、バスに乗り、帰路に着く。例外もある。千葉房総に向かう場合は、川崎港からフェリーで往復した方が安かったり、河口湖は高速バスの方が安く着く場合もある。調べ、比較しなければ分からない。また丹沢や房総には山蛭がいる。梅雨時から秋まで近寄りたくない。関東の山とはいえ、冬は寒い。一番頼りになるのが、やはりヤマレコになる。登りたい山の最新情報が得られる。登山ルートは一つではない。交通手段によって登山者はルートを変える。これが確認できる。災害や工事で通れないルートも教えてくれる。登山に要する時間や道の整備状況、山頂からの眺望。ただ参考とするレポートで気を付けなければならないのは、書いているハイカーの歩く速さだ。自分と同じレベルであることを確認しなくてはならない。特に女性に気をつける。甘く見ると火傷する。兎に角皆さん早い。私は80〜60%が実力と見るようになった。バスに間に合わないと1時間待てばいい方で、最終便に間に合わなかったら大変だ。山の夜は早く、しかも真っ暗になる。隣県の山を歩いていて自分の登るべき山が見つかる。それは富士🗻を愛でる山との出会いだった。2022年秋のことだった。大月市秀麗富嶽十二景富士🗻の十二景を大月の二十座から望む。山梨県は晴天率が高く、富士🗻を望める確率が高い。2023年秋まで1年かけて全座制覇した。

あと何年、山へ向かうことができるのか?もはや半老人に残された時間は決して長くはない。癌の再発も考えられた。いつ認知症が襲ってくるかもしれない。遅かれ早かれ、足腰が立たなくなるだろう。優先順位を決める必要があった。山の風景で一番心に残ったのはやはり富士だった。9年前、立山山頂から望めた富士🗻、8年前、八ヶ岳横岳山頂から望めた富士🗻、3年前、乾徳山山頂から眺めた富士🗻、全てが雄々しかった。私のような挫折の連続で生きてきた人間にとって、人生の富士🗻に立つことはできなかったが、のんびり眺めることができるようになった。これが人生の喜び全てではないか。大月市秀麗富嶽十二景を満喫し、次は富士山の見える山54座を踏破しようと思った。既に33座達成している。ただ登るだけではダメで、富士🗻が全ての山頂から拝めなければならない。富士山と登る山両方の晴天率100%で登らなければならない。これが難しい。天気予報と睨めっこの日々を過ごすことになった。

3.計画:今月4日に登った節刀ケ岳は登山は富士🗻の見える山の33座目だった。今年最後とほぼ決めていた。先月2日に十二ヶ岳から向かう予定だったが、余りの上り下りのキツさに挫折し、節刀ケ岳に向かわず、西湖へ下りてしまった。今回は言わば、リベンジ。いつもの通り、①ヤマレコで山行記録から節刀ケ岳を、アクセスに電車バスを使う条件で検索する。登山開始はバス停になり、山頂までの距離が見られる。一番早く山に取り付けるバス停を探す。節刀ケ岳は御坂山地の高峰で、通常は河口湖側からバスで向かうのが普通だが、大石峠に向かう早いバスがなく、本数も限られる。②2年前の冬に上芦川バス停から登った記録を見つけた。気を付けなければならないのは、バスの便が減っている。既になくなっている便が出てくる。厳しい現実。③これをNAVITIMEで当たっていく。市バスの場合、照会されない場合もあるので要注意。バス停名インターネット検索していくのが一番間違いない。調べると石和温泉駅から出ている。旧芦川村から駅に向かう通勤通学のバスの帰り便で、朝7:22に駅を出発、8:12には山の入り口に辿り着ける。④駅からの出発時間からその前に駅に着く電車をyahoo路線情報で調べ、電車の有無、出発時間、乗換時間を確認する。⑤スケジュールを決定したら、yahooカレンダーに登録する。⑥ヤマレコで新規作成の”山行計画を書く”をクリックし、検索を”御坂山”と記入し、”移動”をクリックし、節刀ケ岳を探す。北に上芦川バス停を更に探し、ここを出発地点とする。”“をクリックしていくと紫の薄い線が太く濃く変わっていき、登山ルートができる。すずらんの里入り口→大石峠→節刀ヶ岳→金山→鬼ヶ岳→雪頭ヶ岳→漁眠荘前(実際は根場民宿バス停:分かりづらい)出発時間を変更すると、到着時刻を教えてくれる。⑦富士急の西湖周遊バス時刻表を見て、河口湖駅に着く時刻を調べ、銭湯に入る時間を見て1時間後の高速バスをインターネットで予約する。web受付決済で事前に支払うと安くなるので、予約し、支払い期限時点で払う。何故なら晴れていないと山に行っても無駄になるから。⑧中央道日野でバスは降りるので、先の帰りの電車をyahoo路線情報で調べ、やはりyahooカレンダーに登録する。⑨ yahooカレンダーにはコンビニに昼飯の買い出し、途中のバスの乗車時間、ヤマレコで作成された登山スケジュールを標高とともに記入しておく(ヤマレコは重いため、なるべくスケジュールはカレンダーで確認する)。⑩ヤマレコで山行計画にはアクセススケジュールと個人装備内容は記入しておく。出発前の装備確認に使う。⑪登山は天気次第なので、富士山の2週間天気予報山の天気で登る山の10日間天気予報を見て、100%晴天で最低気温が0℃以上の日を選んで、決行の日とする。高速バスはキャンセル料が発生するので、ギリギリまで支払わない。出発間際で天候が怪しいようであれば、登山は諦める。

4.スケジュール管理:登山スケジュールを守るために一番大切なことは、出発前の体調、装備、天気予報、全てにミス、漏れはないかの確認になろう。体調次第では早めに薬を飲む、足が痛ければ湿布を早めに貼る。怪我をすれば絆創膏を早めに貼る。装備に不備はないか?雲行きが怪しければ早めに切り上げることも考えるか、登山中止もありうる。全て完璧と思っても再度確認は必須になる。思い込みは火傷の元になる。最後は疑いかかっても間違いない。その上で出発になる。それでも電車が遅れたり、乗り間違えをしたり、バス停が分からなかったり、登山道が通じていなかったり、転んで怪我をしたり、熊に行手を阻まれたり、バスが来なかったり、思いもよらないことが起きうるのが登山の醍醐味でもある。都度臨機応変に対応してこそ本来のハイカー。全ては神の思し召しと諦めながらも次の手を打つことを忘れてはならない常にあらゆる最悪のパターンを見ながら登山をすべきだ。山で一番大切なのは戻る勇気だ。道を間違えたと思ったら、立ち止まり、必ず戻ることを考える。山では早め早めに動く、日暮れは最大の敵になる。登山は計画の実証であり、検証にもなる一度間違えたら次は間違えない反省も重要な成功への道標になる。

5.記録:反省し、次にこの反省をつなげるために記録はある。山歩きは常に真剣勝負。安心と安全を求め、歩き続けなければならない。危険が伴うだけにこの思いは強い。まして年をとると、この思いは更に強くなる。寄る年波に抗って歩いていかなければならない。死に近い恐怖は徐々に迫ってくる。どこまで歩けるのか?いつまで自分のことをきちっとできるのか?老いとの戦いに勝てるのか?兎も角歩き続けるしかない。山行きは正に自分の老化のバロメータになっているに違いない。そういった意味においても記録は重要だ。歩いた軌跡と反省の立証になる。そして後から続くハイカーにバトンを渡していく他のハイカーから頂いたバトンに対するお礼の意を込めたものにする。情報は間違えにように伝えなければならない。山を歩きながら、写真を撮るとともに記録を付けている。忘れてはいけない瞬間があるからだ。そして電車の中で感想をまとめる。今日も無事帰れた。全てに感謝の気持ちを込めてヤマレコを書いている。時には酒を飲みながら。

生きている。歩いている。山の空気を思いっきり吸っている。鳥の囀りを聞いている。眼下に広がる雄大な景色を楽しんでいる。これこそが人生一番の喜びに違いない。そう思いながら、次の山に行く思いを強くしている。

本州最北端下北半島を巡る🛫羽田⇄三沢🛬+レンタ🚙 薬研♨️→恐山♨️→鍋臥山🐢→仏ヶ浦🐵→大間崎🐟→尻屋崎🐴旅

下北半島の魅力:生きるとは旅することコロナ禍で耐えた2年半、リストアップしていた場所をぼちぼち回り始めている。凡そそう言う場所は自分に縁もゆかりも無く、遠く、交通の便が悪く、訪れる費用も掛かるものだ。本州の最果て下北半島、東京から直線距離でほぼ636km、ほぼ広島までの距離になる。最北端マグロ🐟の一本釣りで有名な大間崎、北海道は目と鼻の先。最東北寒立🐴で有名な尻屋崎。そして霊の集まる恐山💀、奇岩で有名な仏ヶ浦⛰、近くには北限の🐒がいる。想像を絶する風景が広がる。一度は行きたかった場所だ。そしてこの地で忘れてはいけないのは♨️❗️特に恐山の秘湯だ。ただ、最初に申し述べておく。この旅は下北行き当たりばったり、後で反省しきりになった。実際行かれる方は、事前にしもきたTABIあしすと下北ナビを見てから行かれると今回私のようなミスを犯すことはないでしょう。

旅の手段:下北半島を周回する🚃はない、周遊🚌を待つのも侘しい。若い時であれば🚲で回ったろう。危険を犯す勇気を最早失った。ツアーが一番交通費削減に役立つ、しかも観光の要所を抑え、美味しい食事を提供してくれる。宿泊先も間違いがない。一方、家から🚙で全国を回る旅に出る手もある。日本各地を車中泊をしながら回っている同世代以上の👴をこの旅でも見掛けた。費用や手間を掛けず、自由気ままに旅ができる魅力がある。私には残念ながらそれほど勇気も力も自信もない。下北半島に辿り着くまでに疲れ切ってしまうだろう。現地でレンタ🚙を借りて回れば、まだ楽だ。小回りが効き、時間を計算できる。旅の自由度は増す。余裕が生まれれば冒険心が起きる。しかし慣れない道行きは危険を伴い、通行止めの道へ導かれることも多い。宿泊先もミスが伴う。旅に何を求めるかで形態は変わる。1ヶ所のみであれば交通費の削減のみのツアーを選び、周遊であれば🚙もしくは🚲。実際、この旅ではレンタ🚙を選び、3日間運転しただけでクタクタ、最終日は居眠り運転でもしそうになった。総走行距離は400kmを越えた。隅から隅まで走り切った。下北半島の面積は1,876.82km²伊豆半島より大きい。滞在日数と宿泊先をどうするか?避けて通れないのが恐山💀、そして大間崎、ここにそれぞれ一泊し、一周すると決めた。♨️もある。のんびりゆっくりだ。失敗したらそれまで、一人旅にミスはつきものと諦める。

旅のキー:まず訪れるシーズンを選択。恐山💀は🍁が美しいと聞いていた。猛暑で🍁は例年より遅れるだろうと10月末でいいと高を括って、長期天気予報をチェックしていた。旅の前提は🌞❗️☔︎🌨🌬は以ての外、興醒め以外の何者でもない。天気が悪いと景色を楽しめない。寒くて旅先で風邪をひいたら事だ。悪天候は🚙事故を生む。君子危に近寄らず。天気予報を睨んで9月末動く。10月末の下北半島の天気は概ね🌞。早速宿泊先を当たる。恐山💀の宿泊先は宿坊で、直接電話し、予約を取らなければならない。吉祥閣。冷たい事務的な女性の言葉が響く。10月末は満室、何と10月一杯で山は閉じ、春を待つことになる。10月末近くで空いているのは23日とのこと、もはやこの日しかなく、予定を繰り上げるしかない。急遽予約を入れる。天気と🍁が微妙だが致し方ない。24日を大間泊、マグロ🐟と♨️と風景これさえ揃っていたら大満足。google mapで見つけた町営大間温泉海峡保養センター、本州最北端の♨️。丘の上、勝手に美味いマグロ🐟と壮大な景色の中の露天風呂を想像してしまったのがいけなかった。即直接連絡し、宿泊予約をする。恐山の宿坊に比べ、対応は段違いに優しい。ここに。恐山宿泊は現金のみの12,000円、大間は9,900円カード可だった。うまい値段設定。インターネットで調べるとなぜか9,020円になっている。いずれにしても朝夕食込みで1万円を切る予算を想定している旅行者には飛びつく価格設定。

下北半島:まずは宿泊先は押さえたところで、東京から下北半島へ向かう手段を考える。旅先へは朝一番に着き、早く行動を起こす。何が起こるかわからない。不測の事態に備えるのが鉄則。🛫だと朝一で7:50羽田から一番下北半島に近い三沢空港へ9:10着が最短。🚅の最短は6:32発七戸十和田着9:34、チケット代は🛫の場合、往復32,508円、🚅の場合、往復33,620円、到着時間、費用とも🛫に分がある。最も費用についてはモノレール代が別途かかるので、費用的にはトントンになる。家の出発時間は、🛫の場合、空港に30分前には着いていなければならなく、モノレールの乗車時間もあって大差なくなる。航空便のうまさは早く予約すれば安くなる。特に平日が安い。往復4,000円値引きも可能。但し予約が遅くなれば🚅より大幅に高くなるので要注意。要は早く動くこと。しかし天気が重要なので、1か月予報に応じて即取るべきになる。尚、羽田空港から三沢便は搭乗口35、バスで🛫に向かうことになり、早く搭乗口へ向かわなければならない。朝食を安く上げたい場合、搭乗口に降りる手前のコンビニ脇の自販でサンドイッチを買うべき。☕️はいらない。✈️内で飲める。この自販が見えず、コンビニでおにぎり弁当とお茶を買ってしまった。これはこれで美味しかった。🛫のメリットはインターネットでチケット購入と同時にレンタ🚙を選んで予約できること。私は迷わず禁煙、一番安いハイブリッド🚙を選ぶ。空港からすぐに乗れ、帰りも空港まで🚙となる。無駄な動きがなくなる。費用は3日間で29,040円也。もう一つの🛫のメリットは窓からの眺望、朝であれば🗻が望め、途中、岩手山、猪苗代湖と空の窓から美しい風景を堪能できる。インターネットで早く手配できれば、翼を避け、後方の窓側の席を取ることができる。帰りは地上に散りばめられる街の光の眩さが目に焼きつく。安ければ🛫に勝るものはない。早く手配することが肝心。三沢空港には若干遅れ、9:38に着く。三沢空港は米軍基地にある。朝早くから、見たこともない戦闘機が凄まじい轟音、地響きを挙げて何度も滑走路の脇で離着陸を繰り返している。空港に着くと米軍兵が迷彩服で誰か赴任してくるのか、大勢で待っている。正に壮観な最前線の雰囲気を感じた。飾られていた行燈こけしが和洋折衷には驚かされた。レンタカーショップは到着口近くにある。こぢんまりした空港。🚙は空港脇に停めてあった。いよいよ出発。温泉♨️が空港を出たばかりのところにあるのを見逃さなかった。

薬研温泉:恐山💀まで100kmある。🚙で約2時間、まだ午前中、時間がある。薬研♨️まで足を伸ばし、昼食を取ることを考えた。下北半島の中央の平地部を走り、津軽海峡に抜けてから山に入って行くようで、恐山💀に向かう距離と変わらない。Google mapにはかっぱの湯が出ていた。道路脇の案内図を見ると老人福祉センターの奥にあるように書いてある。間違えてここのお風呂に入ってしまった。案内図に立ったのが12:23pmだ。かっぱの湯は13:00からは女性のみで、入れなくなったことが後でわかった。これも後で気が付いたが、老人福祉センターの看板にはかっぱふれあいの湯と書いてあった。しかし、230円で狭いがいい湯に入れた。受付の人に食事をするところを聞くと、すぐ先にレストハウスがあるのでそこへ行くといい。と言われた。早速向かう。途中かっぱの湯の案内看板が左に見えた。道を右に折れてすぐ、ログハウス風のレストハウス、なかなかいい雰囲気だ。足湯が外にあり、川に下りれば露天風呂。夫婦かっぱの湯。全てかっぱの湯を表しているからややこしい。既に湯疲れしているので入らなかった。同じ230円になっている。安い。昼は地元豚を使ったネギ味噌豚丼750円を🍁と共に頂く。事前に良くかっぱの湯を調べてくれば、無料の露天風呂のかっぱの湯に入れた。レストハウスに男性の旅行客がかっぱの湯の入れる時間を聞いているのを耳にしてやっと自分の勘違いに気が付いた。情けないが後の祭り。

恐山💀彷徨:薬研温泉から車で山を抜け、30分ほどで着く。まるで裏の抜け道のようだ。近付くと硫黄の匂いですぐ分かる。至る所で火山性ガスの噴煙が見える。ただ、噴火して1万年以上というからこの風景は遠い縄文、アイヌの時代から変わっていない。中央の宇曽利山湖はアイヌ語の窪みの意に由来し、宇曽利から恐れに転じ、恐山と呼ばれるようになったと言う。四方を山に囲まれ、有毒な亜硫酸ガスによって草木も生えない真っ白な火山岩に覆われている。宇曽利山湖はどこまでも碧い。見守る山々は緑。神聖さと不気味さを両方兼ね備えているような地。恐山💀を巡るに小一時間もあれば十分、白い岩の間に仏を訪ね、ひたすら彷徨う。風を知る風車は音をたて、回り続ける。静寂の世界。死後の世界はかくありなん。恐山を訪れる理由は亡くなった人に会いに来るため。もはや形を失っている現実の世界では難しい。恐山💀に行けば会える。心の中の面影を探し求める。面影が心の中にある限り、亡くなった人は永遠に生き続ける。

恐山💀秘湯:恐山菩提寺のお坊さんがいみじくもおっしゃっていた。恐山💀の魅力は三つ。一つは何もない。二つ目は遠い。三つ目が♨️。正に何もない。地の果て、山の彼方、インターネット、携帯電話が通じない。テレビがない。勿論コンビニもない。下界との音信、関係が断たれる。あるのは最良の♨️のみ。我々が求める恐山はここにある。あらゆる煩悩から解き放たれ、この先にあるのは温泉。ゆったりとお湯に浸かれば、この世の憂さを忘れさせてくれる。♨️に浸かる時、心は無になり、体は湯に溶けていく。人生最良の時。人はになって初めてのありがたみが分かる。薄い緑がかった乳白色の、肌にまとわりつかない熱い湯は体や心を癒すには最適だ。硫黄の匂いは体に染み込み、数日取れない。素朴な木造の掘立小屋の温泉がまず境内にある。男湯と女湯両方があり、禊に通じるのか。不思議な光景。正面の地蔵堂に向かって左側に奥から女湯、2つの冷抜の湯小滝の湯、右側が男湯、薬師の湯冷抜の湯はどうも混浴だったようだ。男湯はひっきりなしに入っているが、女湯に入っているのを見かけることはなかった。確かに境内とは言え、オープンな場所にある掘立小屋で裸になるのは危険な感じがする。混浴の花染の湯は宿坊の奥、宿泊時、聞くまで場所がわからなかった。更に宿坊の中には大浴場「御法の湯」がある。温めだが、広々とし、のんびり入れる。宿泊客のみ入浴可となる。できれば露天風呂が欲しかった。修理中の露天風呂が見えたが、狭そうで物足りない。やはり外の空気と景色を同時に堪能したいと思うのは私だけだろうか?

恐山宿坊吉祥閣:還暦を過ぎて、初めて宿坊に泊まる。死が見えてきて仏教に帰依することを検討し始めたわけではない。母が今春亡くなり、供養を求めて来たわけでもない。ただ、恐山💀に泊まるには宿坊しかない。全く宗教心を私は持っていない。坊さんと接した機会は他人の葬式のみ、仏教そのものに興味も、坐禅を組んだこともない。母は葬式なしで送った。私もそうしてもらうつもりだ。恐山吉祥閣は想像していた宿坊とは大きく違う。新しく広大で掃除の行き届いた研修所の如き。お坊さんの修行のために建てられたのか、これが月末まで観光客の予約で埋まっているというのだから驚きだ。宿泊費に含まれる朝夕食は粗食の精進料理なので、肉魚類は出ないし、酒は勿論提供されない。お風呂以外のサービスはない。2階にある個室の部屋には布団が既に敷いてある。これで12,000円は高くないかと思われよう。しかし、ものは考えようで、安いホテルに泊まったとしても晩飯に酒、地産のツマミと重ねれば12,000円はいってしまう。特に酒は煩悩の最たるもので値段に際限はない。これにツマミが浪費として追いかけてくる。これがなくれば金が消えていくことがない。しかし、枯れた半老人には酒以外に楽しみはない。酒なしで眠れるか!それがぐっすりなのだ。睡眠導入剤なしで、消灯の22時を待たず、20時には寝ていたと思われる。というのは意識がなくなったのでいつ寝たかわからないのが正直な話。夕食が18時、酒なし、余興なしであっという間に終わり、後、一人風呂に再度入る。外湯は怖くて入れないので、内湯1つ、入ると眠くなる。あらゆる誘惑が周りにない。諦めの極致。無の世界静寂が全てになる。相変わらずトイレには数度起きたが(トイレは部屋に付いている)、心地良い睡眠だ。静寂こそ枕の友になる。朝5時より入浴可。既に寒いが、室内は暖かい。広々とした内湯を独り占め、どっぷり浸かり、目を覚ます。外湯は流石に寒そうなので、寄る年波に勝てず、心臓をケアし、やめる。私以外宿泊しているのは11名。内男性4名、一番若いのは一人宿泊していたシンガポール人の青年。今時殊勝な若人がいるものだ。平日でもあり、中高年が多いのも頷けるが。ほぼ東京方面から来ていたようだ。静寂の中で声をかけるのも憚れる感じがしていた。何故宿坊に泊まられたかは伺っていない。朝6時半からお勤め。地蔵堂への行き方が分からず、往生した。場所の案内はなく、早めに人を見て動かなければ、付いていけない。親切な案内者なぞいない。祈祷の間、坐禅を組まなければならないのかと思ったが、胡座でも良いようで助かった。祈祷で名が読まれるとハッとする。なるほど宿泊代に祈祷代込みと分かる瞬間。お経は長くない。お堂もそれほど寒くない。尤も防寒着を来ていたのが正解。尚、浴衣羽織なぞ宿坊では御法度。祈祷が終わると供養になり。本堂に移る。本堂は山門の脇にあり、地蔵堂に比べ質素で古く、小ぢんまりした感を受ける。入ってまず驚く。数多くの遺影、遺品、遺服が飾られている。遺影は若い方もいれば、お年寄りまで、勿論ニコリともしないで参列者を眺めている。遺服は着古された物が多い。全く関係ないのだが、亡くなられた方々の生きていた頃の姿を想像してしまう。不思議な感じだ。参列者が増える。朝早くから来られている方々がいる。お坊さんは依頼を受けた方々の故人供養をしている。声明を初めて身近に接する。お経を四人のお坊さんが好き勝手に読んでいるようだが、低音部、中音部に分けられ、音程の変化、終わり方に荘厳さを醸し出している。なかなかの迫力。これが民衆の心を掴む仏教の包容力なのだろう。勿論何を言っているのか分からない。恐山というとイタコがまず頭に浮かぶ。イタコは亡き人になりきり、自然の言葉で会いたい人に話しかけ、安寧を与える。お坊さんは遠い世界の言葉で救いを求める人に幻想的な安寧を与える。個と公でバランスを取って求める人に救いを与えるのではないか。もはやイタコは常駐はしていないので要注意。このお勤めが終わると食事になる。7時半、10分前には呼ばれる。全てが早く進むので要注意。食事前に五観の偈を唱えさせられる。これが音階は取れない。お経自体が日本語ではない。中国語から来ているので、独特のイントネーションがある。関西人には向いているのであろう。そういえば説教を頂いたお坊さんは全て関西人、食事も関西風味付けだった。ここで関西人に接するのは曹洞宗本山の永平寺の関連からなのだろうか。食事を終え、出発の準備に入る。恐山の宿坊に泊まり、無を知り、そして無に帰る喜びを知った。これは掛け替えのない経験だった。これを胸に一人旅を続ける。次は何処へ。

釜臥山:パゴダか?下北半島をむつ湾から始めて望んだ時、一番高い山の頂きに聳える白い建造物。恐山からも見える。崇高なパゴダと土地を知らぬ人間は誰でも思うに違いない。崇高な恐山の風景を望む仏塔として見るのが一番相応しい。この山は下北半島最高峰の釜臥山と後から知った。標高878.2mになる。東京の日の出山ほどの高さになる。高尾山より余程高い。この山頂まで車で行けるとはそのとき思わなかった。恐山からむつ市に向かう途中に右に折れる道がある。かまぶせパノラマライン、平日早い時間だったのですれ違う車もない。途中途中に展望地がある。車を停め、見晴らすと恐山から下北半島の東半分、陸奥湾、津軽海峡、更に北海道まで、広大な景色が眼下に広がる。道は山頂まで続き、釜臥山展望台まで続いている。山頂のパゴダが巨大レーダーと初めてわかる。通称ガメラレーダー🐢。確かに亀の甲羅🐢の如き突起。13年前に設置され、海外からの発射されるミサイルを追いかける。180億円の代物だ。追いかけてどうするのか?発射されたらその時点でお終いじゃないのと突っ込みたくなる。ミサイルなき平和な世界になること。ガメラレーダー🐢が平和の祈りを込めた真のパゴダに生まれ変わること、これこそ国民の祈りだ。

九艘泊:下北半島を時計回りに半周し、次の宿泊先最北端の大間岬へ向かう。釜臥山から3時間半コース、9時過ぎに出た。日没前に着けば良い。むつ市を抜け、半島南の海岸縁を走る。何処まで行けるか、何とか半島を一周できるのではと淡い期待をしていた。まず第一歩。行き止まりは南西端の九艘泊。抜け道がありそうだが….。海岸からは津軽半島。更に津軽富士の岩木山が勇姿を見せてくれる。陸奥湾沿いの道は気持ちいい一本道だった。九艘泊に辿り着き、ナビで再度確認してみるとやはり大間岬へ抜ける道が出てこない。やはり、く◯ーッ止まりか!海岸に向かって猿顔の岩が見えた。悔しいが王道の国道の分岐点脇野沢港まで戻ることにした。確かに下北半島を舐めていた。下北半島の西岸は森深い絶壁と認識していなかった。極北の猿はここにいる。地元の人に聞くと2年前の大雨で最短ルートは通れなくなっている。向かわなくて正解だったようだ。更に川内まで戻らなければならない。昼になっており、港の近くのフェリーのチケット売り場の脇のレストラン「ドーム」に入る。そいの煮付けが美味しいと薦められた。そいはメバルの仲間なので煮付けはうまかろう。1,200円と若干高めとは思ったが、頼むことにした。基本、冬の魚なので、やはり少々早かったかと…。川内渓谷沿いにかわうち湖沿いに海に戻っていく。まずは仏ヶ浦を目指す。

仏ヶ浦:かわうち湖から川に添い漁港に下り、また崖沿いに上っていくと、看板が目立たないが、仏ヶ浦駐車場案内が左手に見えてくる。見逃しそうな看板。駐車場は20台も停められるか否かの大きさ。平日だったので、数台も停まっていない。観光バスも見ない。店もない、観光案内も休憩所もない、舗装もしていない狭い道を降りていくと見晴し台があり、やっと眼下に仏ヶ浦が見渡せる。更に階段を下り、浜辺に着くと数10mの巨岩、奇岩が林立している。迫力が凄まじい。海が荒れれば到底歩けないだろう。波打ち際近く、岩を渡り歩きながら巨岩を見て歩く。正に壮観。道ができるまで船からしか見られなかったようだ。やはり山を下り、身近に見ると迫力が違う。この風景は、1500万年前に海底火山から噴出した火山灰が海岸に押し固められ、それが雨や波で削り取られて作り出された。自然が作り出した芸術的造形物になる。緑色凝灰岩でできている。同じ白い世界でも今も噴煙を上げ続ける恐山とは趣が異なる迫力がある。仏ヶ浦からは海岸に沿って走る。大間岬は近い。途中、🐒を見かける。群れで道路を渡っている。一匹のみ残り、私の車に背を向けて道路脇に佇んむ。なかなか振り向いてくれない。シャッターチャンスを待つ。何故背を向けて座っているのか、分からない。見ざる聞かざる言わざるの教えを守っているのか?やっと振り向いてくれたのでパチリ。車から降りてはいけないようだ。敵もさるもの引っ掻くもの、近寄ってはならない。しかし北限の猿だけに暖かそうな毛に覆われてますな。

大間崎:日暮れが迫っていた。着いたのは16:40。大間町についてから大間崎までが結構長い。間に合ってよかった。本州最北端、海の彼方に北海道を一望する。松前藩を北の大地に築き上げた下北半島の雄、蠣崎氏は570年前この風景を見ていたはずだ。南部藩に追われ、100年に及ぶアイヌとの戦いを制した。一番近い函館汐首岬までの距離は17.5km、橋を掛けるには近くて遠い距離。厳しい冬の風雪にどう安全を確保できるのか、北特有の問題が橋の敷設を阻んでいる。もはや日が暮れる。予約している宿泊先大間温泉海峡保養センターへ向かう。マグロを期待して丘の上へ。期待した海は望めない。温泉施設はリニューアルされているが、内風呂で眺望もない。泊まる部屋の名がまぐろになっており、夕食に思わず期待する。なんと付いていた夕食にはマグロ2切れのみ、ハッキリ言ってがっかりした。酒以外にマグロ刺身盛りを頼む。3,000円と言われた。なかなか美味かった。なお、部屋にはトイレと洗面所がない。窓の外には駐車場。景色はない。隣りの部屋のテレビ、電話、会話、全ての音が筒抜けには驚いた。壁が薄いまぐろの部屋は部屋と部屋とに挟まれており、両方の部屋の音がダダ漏れ。これで朝夕食込みの9,800円に3,000円に酒代600円と思っていたら会計は15,420円。素直に現金で払ってしまった。領収書をもらわなかったのも悪かった。このブログを書くので電話で後で確認した。何とまぐろの部屋は高くなって10,820円マグロ3,850円、酒海鳴り1合600円、入湯税150円が内訳と当たり前のように言われた。この施設のサイトを見ると宿泊代は9,020円+入湯税150円とある。まぐろの部屋は1,800円高くなっていることになる。マグロの刺身盛りは時価のようで、サイトでも記載ない。この施設は町営だが、実際は業者に任せている。道理で調子がいいと思っていた。大間町が観光開発のため、温泉を掘り当て40年前に開館して始まっている。本当の温泉宿に泊まるのであれば、隣町の下風呂温泉まで足を伸ばすべきだった。何れにしても後の祭り。旅は続く、尻屋崎に向かう。

尻屋崎:いよいよ最後の岬に到着。下北半島の最東端、本州の最北東端(本州最東端は岩手県三陸海岸の魹ヶ埼)。灯台の近くに石碑があり「本州最涯尻屋崎」と彫ってある。このは後でと後で分かったが、最涯が最果ての意とは知らなかった、確かに最涯の方が最果てより”さいはて“感がある。本州の最北端が大間崎とすると角の如く突き出した尻屋崎は本州の最涯の地だ。尻屋崎の灯台には300円で上れる。レンガ製、東北で一番古い灯台で、東日本大震災でもびくともしなかったそうだ。恐れ入る。灯台の上から太平洋を仰ぎ、遥か北海道をも望む。但し、灯台付近に会いたかった寒立馬🐴がいない。寒立馬🐴というくらいだから冬しかいないのかと思ったが、今は灯台付近には放牧されていない。人との接触で事故が数度あり、危険なので取りやめているそうだ。岬エリアに車の入るゲート脇に牧場があり、馬を見かけたことを思い出す。しかしスマートな黒馬🐴だった。サラブレッドかと思っていたが、左にあらず、寒立馬🐴だったようだ。岬を周り、会いに行くことにする。寒立馬🐴と呼ばれるようになったのは僅か53年前。それまでは野放馬🐴と呼んでいた。単なる農耕馬🐴の放し飼いに過ぎなかったのであろう。きっかけは尻屋小学校の岩佐勉校長が年頭の書き初め会で「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」と詠んだことによる。詠まれている筑紫が原は灯台の立つ野原になる。日の出の到来に勇み嘶く寒立馬🐴は筑紫が原に吹き荒れる嵐なぞものともしないという歌の意になろう。その頃、既に寒立馬🐴は絶滅危惧の状態に追い込まれていた。数頭しか残っていなかった。哀愁を込めた歌だったに違いない。今でこそ40頭にまで戻しているが、その頃は絶滅を待つしかない悲哀を込められている。だが、寧ろこの歌が詠まれた尻屋小学校が廃校になっていた。14年前になる。もはや東通村にある小学校は1校のみとなっている。馬どころか人がいなくなっている。寒立馬🐴は今は失われた南部馬🐴の血を引く。南部馬は武士が愛した軍馬だった。明治以降、更に国策で馬の大型化を図り、大型外来種交配を推し進め、在来牡馬の去勢によって純粋血統を失うに至った。絶滅を迎えたのは約100年以上も前になる。最後に残った野馬だった寒立馬🐴に望みを託すことになる。しかし、もはや、軍馬は勿論、馬車馬、農耕馬の役割は終わっている。明治以降、家畜としての馬🐴はほぼ全滅状況に追い込まれている。今は種の保存にのみ躍起になっているしかないのが現状。日本には元々馬がいなかった。1,700年前、大和王権の設立を支えたのが大陸から連れてきた馬🐴だった。それ以来、馬は為政者を支え続ける。武士の対等、戦には必ず馬🐴がいた。こればかりでない。物流、農耕をも担ってきた。もはやお役御免で済むのか、また馬🐴のない日本に戻るのか、日本在来馬🐴全てが瀬戸際に追い込まれていることだけは間違いない。ゲート脇にいたのはどうも種馬だったようで、別の場所に20頭ほどの寒立馬🐴が群れていた。越冬放牧地らしい。仔馬もいた。のんびり草を食んでいた。のどかな風景。彼らが絶滅間際で生き残ることができたのは、寒立馬という名を得たお陰ではないのか?この名が下北半島に生きる人々の心をグッと掴んだ。冬の寒さをモノともせず生きてきた、最涯の地、下北に生きる我々も同じ寒立馬だと気がついたに違いない。守らなければならない。下北とも別れの時が来た。六ヶ所村から三沢空港に向かう。

三沢空港まで:東通村と六ヶ所村を越える。太平洋に面した海岸線、実に92km東通原発六ヶ所村核燃料再処理工場が左手に見えなければならないが見ることはなかった。ひっきりなしにダンプが走っている。居眠り運転なんかしたら、即さようならの世界。東通村から六ヶ所村に入るまでほぼ木々に隠れた平坦な道を走る。海も見えず、人気もない。実際は射爆場も隠れていたらしい。行きのむつ湾側とは大違いであった。三沢基地は遠くはない。実際、30kmの距離、六ヶ所村から1時間も掛からない。爆音を挙げる戦闘機が思い出された。航空基地と核施設が隣り合っている。こんな危険なところがあるのだろうか?正に火薬庫同士が並んでいる。6年前北朝鮮が盛んに日本海側にミサイルを飛ばしてきたが、どうも三沢基地への攻撃を想定して撃っていたらしい。ミサイルは自国を守るため、軍事基地を狙う。三沢基地はロシア、北朝鮮を攻撃対象とした最前線の航空基地になる。狙われて当たり前なのだが、撃ってきたミサイルが外れて核施設に当たった場合を想定しているのだろうか?それだけではない。戦闘機が核施設を誤爆したらどうなるのか?考えてみてゾーッとした。リスクを考えたら安心して住める場所とは思えない。基地の島、沖縄には少なくとも核施設はない。知らなかったが、更に大間にも原発を建設しており、中間処分施設も敷設計画を立てている。むつ湾岸にも設置検討中とある。そこには自衛隊航空基地がある。

帰る便は16:50発、三沢空港には14時に着いた。🚙を返し、出発時にみつけていた空港近くの三沢空港温泉に入ることにする。入館料400円は安い。石鹸、シャンプーがないのには驚いたが、まあいい湯。小一時間で出て、空港で食べていなかったホタテのフライ、そしてハイボール、無事に帰れた体へのご褒美。酒を飲みながら考える。

戦闘機F-16(1機$15M=時価22億5千万円)16機F-35A(1機$77.9M=時価116億8千5百万円)33機の騒音は100Dbを超える。これは高架下にいて電車が通り過ぎる音と同じという。話なんか聞こえない。耳がおかしくなる。「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」下北の人々は耐えてを待つのであろうか?平和のバランスが崩れた時、国を守るために戦争をする。守るのは国体であって辺境の力なき人々は排除されても構わなくなる。地域住民移転の話は進むだろう。国防のため、地域は犠牲になる。これは沖縄に限った話ではない。国防を増強すればするほど、敗戦リスクは減るかもしれないが、逆に開戦リスクが増大し、国民負担があらゆる面で拡大する。国民が減る一方で国防を増強すれば、守るのは国民ではないことが更にわかってくる。下北に春は来るのであろうか?原発の稼働を国に訴えている東通村の村長の姿が侘しくテレビに写っていた。国策に寄り添ってはいるが、村民の真の安全につながるかは疑問に思える。下北は何処へ向かうのか。

曼珠沙華と🎑高麗巾着田

2023年10月2日(月)埼玉県日高市の巾着田の曼珠沙華は満開だった。西武線の高麗駅からそう遠くはない。この時期は人の流れに従って行けば、間違いなく着く。と言っても通年であれば、9月いっぱいがシーズンなので時期ハズレのはず。このブログが公開される頃には花は流石に散っている。今年は猛暑続きで秋が来ない。やっと彼岸を過ぎて彼岸花満開になる。これから秋はどうなっていくのか?心配になる。

この巾着田曼珠沙華公園には500万本曼珠沙華が咲き誇っている。高麗川から巾着田を守る堤の雑木林の下、湧き立つ赤い絨毯だ。面積は55,000㎡、東京ドーム1個分より広い。巾着田は220,000㎡、公園が1/4占めることになる。入場料は500円、以前は300円だったが….paypayで払えるようになったも時代の流れか。18年前2005年に開園した。その頃で100万本曼珠沙華が既に咲き誇っていたのだからこの壮観さが分かる。本数は更に増えているとされ、既に800万本咲いている説もある。曼珠沙華は中国から稲作とともに渡ってきたとされている。日本には雄株しかなく、種では増えない。自生する球根から株分けし、徐々にしか増えていかない。本家中国語の曼珠沙華のwikipediaでも紹介しているくらいなので世界的にも名だたる曼珠沙華の公園であることがわかる。私も中国の蘇州に駐在していた頃、秋の田んぼの畔に咲く曼珠沙華に郷愁を覚えたことを思い出す。しかし、高麗巾着田の如く見事な赤い絨毯を拝んだことはない。平凡な日本の田んぼの畔道の元風景に近かった。

今回訪れた10月初旬は中国の国慶節にあたり、多くの中国人が公園に来ていた。花の名を聞いてみた。台湾人は曼珠沙華、黒竜江省の人は彼岸花とそれぞれ日本語の中国語読みで教えてくれた。因みに黒竜江省の方は故郷で見たことがなかった。ドイツ人のカップルにも聞いてみたら、まずヨーロッパでは見ない花とそれぞれおっしゃっていた。韓国人にはお会いできなかったが、後でお会いし、お聞きすると曼珠沙華は日本の名であって、韓国では相思花と教えて頂いた。葉は花を思い、花は葉を思う。からきている。曼珠沙華は花が咲き、花が散った後、葉が出る。そして葉が球根へと変わっていく。確かに中国でも南に咲く花、不思議なことに朝鮮、台湾、沖縄でも日本本土のように自生し根付かなかった。日本では南西諸島から北海道まで自生しているから不思議。稲作の広がりと同時に各地の田んぼの畔に咲くようになったと言われているが、寧ろ、これ以上に日本への仏教の伝来と寺の各地への広がり、信仰の人々への普及が深く関係するのではないか?寺の参道の曼珠沙華が一番絵になる理由が分かる。

曼珠沙華梵語(サンスクリット語)でmanjusaka、釈迦が法華経を説かれたことを祝す天から降った花(四華)の一つ、白蓮華紅蓮華曼陀羅華と共に天上の花。曼陀羅華は白い朝鮮朝顔が当てられ、曼珠沙華には彼岸花の赤い花が当てられた。彼岸花の原産地、中国では、球根を生薬としてきた。中国名がこれを表している。石蒜。色気がない。日本のように寺の山門に見ることもない。これは百合と同じ。百合の漢字の意味は球根が幾重にも重なることに由来する。中国では百合は今も球根がメイン、日本は花がメイン。曼珠沙華は韓国ではどうか、主に全羅南道(元百済の地)の仏教寺院においては石蒜花と呼び、日本のように愛でている。しかし全国一斉に咲いている花ではない。李氏朝鮮時代に儒教を国教とし、1392年から約500年間仏教を排斥する。仏教は中国から朝鮮の百済を経て日本に受け入れられた。同時に曼珠沙華も中国から百済経由で生薬として日本にもたらされたのではないか?日本では曼珠沙華の名が初めて登場するのは室町時代になる。臨済宗の高僧、心田清播が心田詩藁(1394‐1428頃)に記しているのが初見になる。仏教伝来が538年。900年もの長い間、中国同様、生薬とのみ看做されていたのか、一般に開放されていなかったことは十分考えられる。これは、酒にも当てはまる。酒はお神酒として一般人は公開されず、千年もの間製造法さえ公にされなかった。日本の寺では石蒜を生薬として引き継がれた。これは朝鮮に通ずるものがある。寺では参道から墓場まで彼岸花が秋を彩る。生薬の栽培のおこぼれだった。室町以降、禅宗、日蓮宗、浄土宗は、武士・農民・商工業者などの信仰を得て、都市や農村に広まっていき、全国各地には信者の寄付によって数多くの寺が建てられ、地域の人々の信仰の中心となっていった。曼珠沙華は寺の建立とともに農家の田んぼにも植えられ、鼠避けになった。球根はそのままでは毒になるからだ。朝鮮と日本に違いはここにある。ただ、花の名に朝鮮経由で日本に来た歴史は残った。

仏教に由来する曼陀羅曼珠沙の字を当たり前に”“と読んでいるが、明らかに日本語ではない。日本語であれば”“か”“になる。よしんば少なくとも”“だ。中国語、満州語、モンゴル語、朝鮮語、梵語(サンスクリット語)であれば”ファ“か”“になる。何故”“なのか?お経を思い出して欲しい。南無妙法蓮経のは”“になる。本来仏教の言葉であれば中国語由来の”ファ“か”“になるべきだ。考えられるのは経由した朝鮮だ。しかし、朝鮮語に濁音はないが、実際には濁音が入って聞こえる言葉がある。例えばカル、カムサムニダ、ハンル、濁音に聞こえる。同様に華(花)はゴッ(kkot)になる。このゴッが日本でに変化したと見るのが自然だ。日本語では華(花)が”“か”“に当たり、はなく、に近い”“になった。朝鮮では◯△花では◯△ファ“と読む。例えば日本でムクと言うが、朝鮮語ではムクファになる。花の”ファ“読みは漢字語といい、日本人が鳳仙花をホウセン、中華をチュウと読むのに相当する。日本人の花をハナと言うように朝鮮語で読むのであれば、花はゴッ(kkot)になる。仏教言葉として日本に朝鮮語読みが伝わり、残ったと言えよう。曼陀羅朝鮮朝顔と呼ぶことにも縁を感じないか?

花をゲと呼ぶものは木槿石楠花沈丁花紫丁花白丁花金鳳花紫雲英がある。全て朝鮮経由とは限らないが、外来種となる。我々日本人は海外から遥々渡ってきた美しい花を天から降りてきた花としての称号、を付けてきたのだろう。日本には外来文化と渡来人を認め、受け入れ、一緒に歩んできた誇るべき歴史がある。正に曼珠沙華咲き誇る高麗の地がそうであった。

高麗の地は高句麗からの渡来人によって初めて開拓された。716年1300年以上も前になる。奈良時代。この地は稲作に適していなかった。縄文時代の遺跡群に比べ、弥生時代から古墳時代の遺跡が少ないことからわかる。背面に外秩父山地が迫り、巾着田のある高麗川は古より暴れ川で田畑ができる環境ではなく、まして曼珠沙華が咲くような土地ではなかった。巾着田に曼珠沙華が数百万咲き乱れるようになったのも元々ダムとするために1972年に当時の日高町がこの地を買い上げたことに発するくらいだ。結局、土地買収が進まず、住民が育てた曼珠沙華は守られ、2005年晴れて公園となった経緯がある。

そもそもこの地が高麗と呼ばれたのはヤマト王権高句麗を高麗と呼び、高句麗から来た人々にこの土地を渡し、高麗郡とした名残にある。1935年時点での当郡の面積は現さいたま市面積(217.43k㎡)を大きく上回る262.03k㎡、人口は当時の浦和市人口(44,328人)を凌駕する64,358人であった。しかし、この地まで高句麗からは1,240km、一番近い海の東京湾まで60kmも離れている。ヤマト王権はどうしてこの地に国を追われた彼らを住むようにさせたのか?彼らは、どうやってこの地を世界一に違いない曼珠沙華の花が咲く集落へと変えていったのか?高句麗は668年、唐と新羅によって滅ぼされている。彼らに帰る国はもはやなかった。彼らを支えたのはいち早く信仰として受け入れた仏教の力ではなかったか?

高麗の地に集められたのは、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7か国に住んでいた高句麗人1,799人、彼らの役割は単に開拓農民で済まされなかった。日本を仏教による鎮護国家としての礎を築くことだった。日本建国は701年大宝律令の制定に依る。国号として日本、君主号としての天皇、年号としての大宝が揃い、律令国家として体裁を整える。足らないのは貨幣制度。自前の銅がなく、更に精錬技術もなかった。唐に倣った銅銭を作るため、発掘作業が各地で行われ、遂に秩父の黒谷で708年に鉱脈が発見される。この場所は極秘とされた。銅精錬の技術は高句麗からの渡来人の力に寄った。日本最初の流通銅貨和銅開珎が生まれる。高句麗人の高麗への移住はこの8年後になる。目的は銅山管理と752年奈良の大仏建立のための銅精錬技術の伝播にあった。高麗の地は高麗川を遡れば秩父黒谷への最短の地にあたる。銅精製物の極秘に運搬するため高麗川を下り、越辺川入間川を経て、荒川、そして江戸湾に搬出される。古において川の役割は大量輸送のための高速道路に当たる。高麗川は大きな役割を担った。741年、聖武天皇の国家鎮護のための全国における寺の建立の要請に応え、高麗の地には3つの寺が建立された。女影寺、大寺と高岡寺になる。古代朝鮮では紀元前1000年には既に青銅器を作っていた。秩父黒谷で銅の鉱脈が見つかるまで、全て朝鮮、中国から輸入していた。自前で青銅を作るには彼らの助けがどうしても必要だった。仏像、仏具に青銅は使われる。高句麗は朝鮮においても仏教の先進国でもあった。鎮護国家を作り上げている。372年、中国の前秦より仏教を公伝し、有名な好太王(広開土王)は国家の再興に成功する。新生日本は正に高句麗の助けを求めていた。これが高麗で試されることになった。彼らは大和王権の要請に応えることになった。

実際、彼岸花は曼珠沙華ではない。何故なら、彼岸花は中国由来の花。仏陀の生まれた国の花ではない。蓮華も曼荼羅花も南アジア由来の花。仏教で言うと曼珠沙華は赤い花というだけなのだ。しかし、秋の彼岸の時、真っ赤に咲き誇る石蒜だったこの花は曼珠沙華という名をもらって輝きを増した。高麗巾着田に咲き誇る曼珠沙華は元々高句麗から来た人々が生薬のために寺に植えた花だった。荒れた土地、暴れ川と戦い、田畑を広げることに成功した彼らは、仏への感謝の意味を込め、天の花として曼珠沙華と呼び、川縁の篠竹を切り、大事に育てた。遠く離れ、もう帰れない、今はなき故郷を思い出す縁にしていたかもしれない。そう思うと500万本という曼珠沙華の燃えたぎる美しさが心に痛むほどわかる気がしてくる。

参考資料:「日本人」の嫌いな花&「韓国人」の嫌いな花(その3) 「日本人」の嫌いな花&「韓国人」の嫌いな花(その4) 「花」は韓国語で「꽃コッ」 紅灯がついたように明るい花 在日朝鮮人 曼珠沙華とは? 彼岸花 彼岸花=壱師(イチシ) 説の怪 曼珠沙華、彼岸花、石蒜 曼珠沙華の由来 曼珠沙華 石蒜 巾着田の曼珠沙華群 日本一のヒガンバナ群生「巾着田」の誕生秘話 高麗郡建郡1300年の歴史と文化 早わかり高麗郡入門 高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯 銅の歴史 日本史編 高麗山聖天院勝楽寺 女影廃寺跡・大寺廃寺跡・高岡廃寺跡 朝鮮の仏教 新仏教の発展 

箸🥢と麺🍜

は英語でchop sticks。切り分ける細い棒。フランス語ではBaguette🥖? 元々、枝や棒のことらしいが、食べるためのものであって食べるものではないとツッコミを入れたくなる。欧米人が東アジアの民が箸を使って食べるのを初めて見たときは驚きだったであろう。単なる細い棒が2本でちょっとしたナイフとフォークの役割をする。しかも片手のみで扱う。一種のAsian magic。実際、中国では、4000年前には世界最古のフォークがあったが、およそ3500年前には使われていたに取って代わられ、2000年前に食卓から消えている。一方、ナイフはキッチンナイフであっても所詮は刀。刀は凶器に転じる。従って、食卓には並ばない。食卓にナイフは今でも中国では嫌われている。これはレストランであってもだ。以前は飛行機内にバターナイフであっても置いていないことに驚いたものだ。酒席が荒れることを中国人は知っている。ただ、箸で食事を済ませるには、刃物を使った下拵えが全て厨房で行われなければならない。箸には手間がついて回る。使い熟すのも手間なら、使うまでも手間但し、刃物は厨房に引っ込み、箸によって食卓に平和が訪れた。箸出現前には既にスプーンがあった。箸は寧ろスプーンの補助だった。中国では7000年前にはスプーンを使っており、古代エジプトでも4500年前には使っている。韓国も然り。スプーンに箸、たまにハサミになる。しかし、何故か?日本ではスプーンが省かれ、箸のみになった。手でもスプーンでもできない芸当が箸にはあった。細いものを掴み、熱い汁から取り出し、または浸し、即、口に運べること、麺を美味しく食べられることだった。箸があって麺を生かし、麺があったからこそ箸は必要となった

中国でこの”“の漢字は既に一般的には使われていない。宗教的祭祀・儀礼に使われていた祭具で、殷の遺跡に残る『青銅器製の箸』は神に捧げる供物の食事を俗塵で汚さない神聖・清浄(俗な汚穢を寄せつけない)なものであった。(前202年~後220年)の時代には食具としてのをセットにして使うようになる。箸は筷子(クワイズ)になる。箸が筷子になったのは祭具から食具への転換。とは竹に快い。使いやすい食具の意になる。朝鮮の新羅(356年~935年)は、中国から伝わった金属製のがそのままセットとして使われ、匙箸(スジョ)として今の朝鮮にも生きている。箸が日本に伝わったのは大陸から渡来人が大量に移動してきた弥生時代末期、その頃の日本では手で食べるのが基本で、も要らなかった。青銅も容易に手に入らない。竹製のトングを祭具としてまず受け入れた。魏志倭人伝にはその時代の日本人は手食と記している。🍙や🍣に手食の名残がある。世界の4割の人は今も素手で食べている。ヒンズー教やイスラム教では手が最も清浄なため、箸やフォークやスプーンやナイフを使わない。日本においても礼器としてのみ箸が扱われるのは自然。奈良時代に入り、新羅から金属の箸と匙が入り、寺や宮中で使われるようになるが、一般に普及したのは平安時代。中国由来の仏式作法が食生活まで浸透した。箸は日本らしく金属製から木製へ変換される。木製であれば、手に入りやすく、加工が簡単で、使いやすさが追求できる。鎌倉時代に入ると禅宗が修行と同様にを重視し、から帰った僧侶はを舞台に、精進料理を箸で食べることを当たり前にした。仏式精進料理は手で食べられず、木のお椀を手に持ち、箸で食べることとした。中国由来の箸を日本は継承し、更に生かす独自の食事スタイルを確立していく

日本では、匙は鎌倉時代以降、食卓から消える。匙は薬を調合するためのみ使われる。匙を投げるとは薬がもはや効かない意が如実に表している。中国から茶器として伝わった陶器の茶碗がご飯茶碗になり、味噌汁は木製のお椀で飲む。による食生活が匙を必要としなくした。茶碗を口元に、箸で掻き込めば、匙はいらない。日本では麺を啜って食べる。これは匙に頼らず、お椀から直接食べるための知恵から始まったもの。正に匙を投げた。箸は日本で進化する。コンパクトに。更に先が細く、尖って、細かいものを掴み、切り分けることができるようになる。箸で何でも熟さなければならないからこうなった。中国での箸の進化は取り箸への変換。皆で一つの大鍋、大皿の料理を共有し、直箸でつついて食べることで家族の一体感をもたらす。必然的に箸は長くなった。従って細かい作業には不向き。但し、西方の麺を食す民に一番に箸が受け入れられたことは間違いない。朝鮮では古来の中国の歴史を継ぎ、スプーンがメインで、箸はツマミを取り、スプーンの補助になる。中国、朝鮮でもお椀を直接口に持っていくことは基本的にない。但し、面白いことに朝鮮で冷麺だけはお椀から直接スープを飲んでいいことになっている。麺は即ち箸と共にあった冷麺は日本に来て蕎麦切りになる。

4,000年前に巨大地震と河川氾濫に襲われ、数メートルの土砂に埋もれた中国青海省の喇家遺跡からで作られたの化石が21年前に発見された。その時代には既に西方より小麦粉は伝わっており、麺の製法も一緒に伝播されたのだろうか?しかし、中国由来の主食の粟と稷で麺が作られている。この時代に中国以外で麺状のものが発見されていない。従って、麺は中国で生まれたことになる。但し、中国では麺は寧ろ小麦粉を指す。麺の漢字は麦と面で成り立っている。麦で面の形状のパイを作って食べるからこの漢字ができたと推測できる。確かに中国西安で食べた羊肉泡馍は麺料理の元に違いない。注文すると固いパイと空のどんぶりが出されてくる。ひたすら自分で千切ってどんぶりに入れて服務員に返す、すると厨房で熱い羊の肉を入れたスープを入れて返してくる。これをスプーンで食べるのだが、麺の元はこれに違いないと思わせる風味がする。パイを千切れば千切るほど汁が染み込み柔らかくなり、食べ易くなる。個人の好みにより千切るだけ千切りなさいと厨房は言っているのだ。小麦粉には粟や稗にはないグルテンが含まれ、独特の粘り気がパンや麺を生み出す。イタリアのパスタにも通じる。パスタもけして麺状のものを指さない。パスタも面と同じ小麦を練ったものになる。英語のペイスト(paste)、仏語のパテ(pate)に通じる。麺状にするというは別の次元で、具材を練り、打ち、或いは切り、細く伸ばす。具材は汁に絡み、染み込み、美味しくなり、食べ易くなりながら消化しやすくもなり、喉越しも楽しめる。更に乾燥させやすく、保存に向くこうして麺やパスタが愛されるようになった。ただ、食べ方に問題がある。熱い汁に絡め、喉越しを楽しもうとすると、手食には向かなくなる。どうやって食せばいいのか?中国には箸がある。ここに辿り着くには500年の年月が必要だった。箸は正に聖なる食具となった。イタリアにはフォークがある。パスタを食べられる4本歯のフォークが考えだされたのは230年前、パスタがイタリアに生まれてから670年の年月が必要だった。一般的な弓なり型のフォークは、18世紀中頃にドイツで発明された。そして4本歯のフォークが一般的に使われるようになるのは、19世紀初頭である。は、と新しいフォークが生まれて初めて多くの民が愛するようになった。朝鮮の冷麺、日本の蕎麦、ベトナムのフォー、タイのバミーは箸で食す。日本で生まれたカップヌードルを欧米人はフォークで食べる。多くの西欧人はラーメンをフォークで食べる。正に食具の進化が麺の文化を塗り変えている。

麺食のミッシングリンクがある。麺の元になる小麦10,000年前にはメソポタミアで栽培されるようになり、ヨーロッパには5,000年前、中国へは4,000年前に伝播する。一方、4,000年前中国で生まれた麺がヨーロッパにはイタリアにのみ乾麺として900年前に出現する。日本で言うところのスパゲティー。シルクロード、中央アジアで食されるラグマンから中国からの麺食文化のリンクが途切れる。南アジア、中東には麺食がない。一説にはマルコ・ポーロが船で中国からイタリアへ持ってきたと言われているが、それ以前にシチリアに伝わっていたとことがわかった。出どころはやはりアラブだった。失われた麺イットリーア(itriyyah)が見つかる。正に糸のような麺で、乾燥麺としてアラブ人は船旅に携帯していた。カップラーメン発案の元。スリランカにイディアッパーとして手食の麺を残すが、けして食べやすそうに見えない。なぜ手食文化の中で麺食が失われたか?麺は根本的に手食に向かないと言うこと。手間暇かけて作っても、食べるにも手間では消えざるを得ない。小麦粉はパンとして食べても充分美味しいし、作る手間が省ける。ラグマンは日本の饂飩と同じ、鹹水が入る以前のラーメンの姿、麺の原型になる。これを食べているのは手食を聖とする敬虔なるムスリム。しかし、中国に住むムスリムは箸で食べ、旧ソ連に住むムスリムはフォークで食す。手では食べない。中国のラーメンのオリジナル蘭州拉麺を作るのはムスリムだが、彼らも使うのは箸。ムスリム最大の人口を誇るインドネシアでも麺食が増えたが、フォーク或いは箸で食している。ヒンズー教徒はどうか?基本は英国の影響から麺類はフォークで食している。日本人もカレーはスプーンで食べるように。食の文化は宗教、慣習をも超ええる。

麺をこの世に送り出した人間は誰なのか?何故麺を作ることが頭に浮かんだのか?最初の麺はどのように作られたのか?箸を編み出したのは誰なのか?何故箸を作ることが頭に浮かんだのか?中国の歴史は不思議に満ちている。中国の四大発明は、紙・印刷・火薬・羅針盤になるが、誰がどうやってと言うことがやはりはっきりしていない。中国人から言わせれば、四大発明はシルクロードがもたらした東西の技術的交流を強調するものにすぎず、他の中国の発明のほうがおそらくより高度で中国文明にとってより影響力が大きかった。中国文明は深淵で、幅広く、捉まえ所がない。個々の文明を包括し、吸収し、長江の流れの如く、揚々と押し流していく。箸と麺について正にその通りだ。

 

参考資料:日本の箸文化はどのように根付いたのか? 箸の歴史と文化 なぜ中国人は2000年前にフォークを捨てて箸を選んだのでしょうか? アジアの箸食文化 中国の箸の歴史と日本との違い 箸と匙 お箸の歴史はいつから? 箸と匙 箸について 箸を使う お箸の歴史 箸と匙 古代日本への箸(はし)の伝来:中国と日本の箸文化 コメと匙、麺と箸 伝来の道 パスタのルーツは中国か? ラーメンのルーツはウイグル料理にあり?! 中国における箸の出現と普及 音を立てるのは日本文化? パスタの歴史 パスタの謎 麺食文化のミッシング・リンクをさぐる 小麦の道 図解でわかる 14歳から知る食べ物と人類の1万年史 ラグマン

横濱⛵️山手西洋館💒港の見える丘公園⛲️山下公園から中華街🍜

2023年8月29日(火)、もう直ぐ9月というのに異様に暑い。天気の不安定な山を諦め、海を眺める港へ向かう。自分の原点に立ち戻る小さな旅。我が家から一番近い港、横濱へ。故郷の家の窓からは海が望めた。いつの間にか、人生が彷徨う旅になり、空に浮かぶ雲のように風に揉まれ、根無草のように世間の荒波を漂った。もはや故郷の家も思い出す縁も何も私には残っていない。全て消えた過去を手繰り寄せる心の港、もはや船出は最後となるであろう人生の港を横濱に求める。山手西洋館を巡り、外国人墓地を訪ね、港の見える丘公園を下って山下公園へ、近くの中華街で上海麺を食べる、それだけの旅と思ったのだが結構きつかった。

山手西洋館は坂の街に4ブロックに分かれて散在している。山手イタリア山庭園山手公園元町公園港の見える丘公園のブロックに西洋館はほぼ2軒ずつ立っている ブロックをつなぐくねくねとした道が方向性を誤らせ、上り下りして場所を見えなくする。坂を間違えて下りると暑い日は特にリカバリーがキツい。一旦下りると上る気力も失う。高級住宅地なので正式ルートを設定した標識が設置していない。一番大切なことは道を間違えないことなので、携帯電話のgoogle mapで自分の位置と向かう先を確認しながら歩くことだ。当てずっぽうや思い込みで歩いてはいけない近いと思って舐めてはいけない。住宅地という山の中を歩いている気がした。簡単に下りてはいけない。特に山手イタリア山庭園山手公園元町公園の3ブロックは離れている。歩いているうちにどこがどこなのかわからなくなる。中央にフェリス女学院カトリック山手教会があり、ここを抑えておくと心配ない。私は山手本通りを逆方向へ向かい、えらく遠回りしてしまった。歩かれる方はくれぐれもこういうことがないようにご注意を。

山手イタリア山庭園が一番駅に近い。京浜東北線石川町駅になる。ここで気をつけなければならない。googleでnaviすると駅の南口(中村川方面)から出てぐるっと大通りを回って正門へ向かう道を示す。決して従ってはいけない。遠回りになる。正解は駅の南口(山手イタリア山庭園方面)から大丸谷坂を上り東門を目指すこと。遥かに近い。但し、南口からは庭園は見えない。遥か丘の上。

山手イタリア山庭園東門は目立たない。住宅地に埋もれている。駅から向かう大丸谷坂沿いは景色も良く、建物も品が良い。気分も徐々に盛り上がってくる。上りはそれほどでもないが、何せ暑い。喉が乾く。まずブラフ18番館に入る。ここから望むみなとみらい21やベイブリッジが美しい。それから外交官の家へ。聳える塔に上れば富士山も見えるそうだ。残念ながら第三月曜日しか公開していない。山手西洋館全ての入館料が無料なのが嬉しい。しかもどの庭園も管理が行き届いているのが素晴らしい。ついつい外交官の家内のブラフ・ガーデンカフェで庭園を眺めながらイタリアン瓶ビール《モレッティ》を頂く。750円也。美味しかった。一休みに丁度いい。嘗てこの地にはイタリア領事館がおかれていた。庭園はイタリア風。両館は移築されてきたものだが、美しい庭園に見事にマッチしている。景色と共に西洋館を楽しむにはもってこいの場所であろう。次の山手公園へ向かう際は正門から抜け、山手本通りに出たらに道を上って向かう。ここで標識がない。私は右に向かって下ってしまい、ぐるっと回ることになった。間違ったと気がついても下りた道を上る気力がもはやなかった。実は山手イタリア山庭園でたまたま一緒になり、私がビールを優雅に飲んでいるうちに先に行ってしまった釜山から来ていた韓国人の女性2名の旅行者もこの道でベーリック・ホールへ向かう道を間違っている。私とは違い戻っていった。私も本当は戻るべきだった。ここではgoogleでnaviしたほうが良い。地元の人を見つけたらカトリック山手教会はどこですか?と聞くのもいいが、教会からまた分かりづらい坂を下りていくことになる。

 

山手公園日本最初の西洋式公園とのことで期待して行ったが、狭いことに驚いて、写真も撮らなかった。地元の方らしき人に伺うと公園の大部分はテニスコートで、これを含めると広大な土地になる。日本のローン・テニス発祥の地でもあり、英国から運んできた芝生が敷き詰められていた。今はクレーコートになっており、面影はない。旧山手68番館は山手公園管理センターになっており、横浜山手テニス発祥記念館が付設されている。説明員からテニスボールの芯が石、ネットの高さが150cmあったと聞き、跳ねない、飛ばないで、どうボールを打ち合ったのか、理解不能に陥る。山手公園から元町公園までは近道があったようだが、分からず。結局フェリス女学院から山手本通りに戻り、カトリック山手教会をぐるっと回っていくことになった。住宅地を縫う坂道が迷路。

元町公園の入口に当たるベーリック・ホールカトリック山手教会からさして遠くはない。山手本通り沿いに素直に歩いていけば自然に辿り着く。元町公園の一角にあたる。特長は各所に獅子像が刻んであることか。堂々として見事だ。もはや午後2時過ぎ、昼食を取っていないので、適当なカフェを探す。隣りがエリスマン邸。粋なカフェ「カフェ・エリスマン」が入ってすぐにあり、見学前に入る。サンルームで元町公園の森を望みながらコーヒーを楽しめる。飲んだのはエリスマン・ブレンド、横濱は日本のコーヒー文化発祥の地でもあったことを初めて知った。暑くて食欲もない。キッシュをランチとした。コーヒーとセットで1,300円になる。景色にマッチして美味しさが倍増する。ごちそうさま。元町公園を左手に山手本通りを越えて粋なカフェが見える。えの木てい。更に隣が山手234番館。元の外国人向けのアパルトメントだったところ。雰囲気がある。

山手本通りを更に下ると、右手に山手資料館が見える。拝観料は無料だった。一見の価値あり。隣りは雰囲気のあるフレンチレストラン山手十番館。店は中休みのようで入れなかった。左手に外国人墓地が見える。案内板に何故か?外国人墓地の”“が消されている。横濱山手の施設は無料でオープンだが、この外国人墓地だけは別格のようだ。入るのが大変だ。何故か、8月に入れないしかも入れるのは土・日・祭日(雨天を除く)12時00分~16時00分のみ。外国人墓地の維持管理のための募金(500円程度)が必要。因みに何故か1月も入れない外国人墓地資料館は入館料を無料 としているが、募金公開時は500円程度お支払い下さい。となる。開館時間:09時00分~17時00分、但し、月曜日・火曜日は休館日となる。従い、今回、墓地も資料館も入れなかった。これは墓地関係者以外についてで、関係者は入れるようだ。確かに墓地の管理は難しい。関係のない人間は無闇に立ち入らないのが基本。私も松本清張の「黄色い風土」を読まなければ来なかったかも知れない。日本人は有名な人間のお墓を詣でる習慣があるようだが、墓地が個人の来世の住まいとすると現世でもそうであるように個人の家に勝手に上がり込むことは避けるべきだろう。

横濱山手西洋館を訪ねる旅もいよいよ最終章。西洋館の最後の訪問先となる横濱市イギリス館山手111番館港の見える丘公園にある。山手本通りをそのまま歩けば突き当たる。横濱山手は決して一つの丘ではない。イタリア山からアメリカ山フランス山へと谷が区切っている。アメリカ山へは墓地に沿って向かう。今回は西洋館もないので行かなかった。正直な話。行く気力を失った。アメリカ山からは谷越えで港の見える丘公園フランス山へ入る、坂を下り、上らなければならない。暑くてもはや苦しい。兎も角最後の西洋館へ。横濱市イギリス館は元イギリス領事館だけに威厳のある建物で、他の西洋館と趣を異にする。残念なことに海の近くではあるが、海が望めない。ただ、庭は見事なイングリッシュ・ローズ・ガーデン。ベイブリッジが望め、素晴らしい風景が広がる。流石だ。山手111番館は対照的にこじんまりしている。1階のロビーから2階まで吹き抜けになっており、西洋風な雰囲気を醸し出している。ただ、残念なことに2階には平日上がれないとのこと。上からの風景も楽しみたかったのだが。イングリッシュガーデンを抜け、展望台に上がると海に向かって旗が掲げてある。U・W旗。「安全な航行を祈る」という意味。旗の下に説明板があり、ジブリ映画の「コクリコ坂から」航海の最中に行方不明になった父が安全に戻ってくることを祈って、海の見える庭にこの旗を毎日掲げていたことに因む。この映画は12年前に公開、舞台は横濱山手、西洋館がイメージとして使われている。港の見える丘公園に正に相応しい旗。いつまでも展望台の上から港に向かい、風に靡いていて欲しい。港の見える丘公園はフランス山まで緑の中、遊歩道で繋がっている。フランス領事館跡は廃墟となり草生している。なんとも寂しい。この地は生麦事件を発端に1863年からフランス軍が駐屯し、何と1971年まで凡そ108年フランスのものだった。因みに生麦事件ではフランス人は刺されていない。刺されたのはイギリス人とアメリカ人。尚、元イギリス領事館も1864年から1969年まで実際イギリスが105年所有していたというから驚かされる。しかし、イギリスとフランスで領事館跡の風景が余りにも違いすぎるのは何故だろうか?フランス山の説明看板に渡り蝶のアサギマダラが止まっていた。時代が止まっている。1947年に建物が消失してから実に76年もこの地は眠っている。元町・中華街駅が近い。不思議な静寂。港に向かう。堀川を越える歩道橋のフランス橋を渡る。堀川の上には首都高も走っており、その下を潜る。東京の品川のような風景。この風景は寂しい。

フランス橋は湾曲しながら横濱人形の家へと誘う。入館は午後4時半まで。もはや時は過ぎていた。1927年米国から12,739体の青い目の人形が船で贈られてきた。全て横浜港に着いている。そこから全国の幼稚園、学校に配られたが、96年を経て、現在残っているのは345体のみ。戦禍を掻い潜った人形は3%に過ぎない。横浜では60体以上配られたが、現存するのは7体。人形は各自パスポートを持っており、特徴と名前が記してあった。1980年に横浜市へ本町小学校から寄贈された1人形ブロッソンが大々的な横濱人形の家建設へと市を動かした。西町小学校に残されたポーリー横濱人形の家から山下公園へとつなぐ橋の名として残っている。人形を愛する子どもたちは決して戦争を欲しない。人形は平和の使者であり、人形を愛する子どもたちこそ天から与えられた平和の使者に他ならない。何故なら戦争は罪なきか弱きものから殺していくものだからだ。如何なる戦争も例え正義の名の下に悪と戦うものであっても結局はか弱きものを苦しめるものになる。港は海外との架け橋となる。あらゆる文化は人とものを通して、港から入ってくる。横浜が多くのものの発祥の地になっているのは江戸時代の最初の開国の地、港だったからだ。閉鎖された文化は何ものも生み出さない。衰退の原因になる。異文化と接することにより新たな文化を生み出す。衣食住全てにおいて画期的なものは異文化に接して初めて生まれる。人も然り、混じり合うことにより遺伝子は強くなる。一方、港は人の出会いと別れの場になる赤い靴はいていた女の子の像が山下公園にある。時代に揉まれ流されても、生きていかなければならない、何もまだわからないだろう女の子と異国人にこの女の子を渡さなければならなかった親の辛さを慮るからこの唄が心に染みる。正に港は行くものと送るものの別れの場になる。時代に翻弄されて生きてきた自分の人生を振り返って見る。この人生で良かったのか?港とはこういう所に違いない。山下公園の北西突端に今年4月に開店した店があるThe Wharf House Yamashita、湾を望みながら様々なビールが飲める。1杯1,000円と若干高いが、つまみも美味しく、至極の時を過ごせる。今回黒ビール(ハマクロM350ml)とパテドカンパーニュ、きゅうりのピクルスを頂いた。なかなかうまい。計2,680円になったが、これに相当する風景と食事だった。最終寄港地は 中華街。東南アジア最大の中華街。上海麺を食べて帰ることとした。まず関帝廟に挨拶。いつ見てもこの迫力に圧倒される。久しぶりの中華街だったが、店の半分は占いの店に変わっていたことに驚いた。時代は変わる。食だけの文化は終焉なのだろうか?天后宮を拝み、帰りの石川駅に近い上海餐店を探し入る。名は記さない。私には上海で一人中国語のみの菜単から想像して注文するのが向いているようだ。あの頃の自分が懐かしい。葱油拌麺が欲しいと言ったら、店の老板娘が、私も家でよく食べるが、店にはないと上海語で断られた。仕方ないので胡麻で和えた葱麺を選んだ。980円也。味は日本の中華麺。上海人が湯麺をこの横濱に持ってきた。上海人は商売が上手い。日本各地に店を広げ、日本人の口に合う中華そばを生みだした。これがラーメンに繋がっていく。上海の湯麺は確かに醤油味、酸味がある。小さい頃食べた中華そばの味。

中国語で横浜の浜の漢字は小川の意味。正解は濱。中国では簡体字で滨を使う。時代はそう簡単に動かない。しかし、変わり続けないと衰退は起こる。昨年、聘珍楼の本店が閉じた中華街。横濱も変わり続けるのだろうか?横濱山手はノスタルジーの街だった。美しい庭園とタイムスリップしたような建物。訪ねるものを魅了する雰囲気がある。上海や天津の租界地を思わせる。神戸ほどの規模ではない。YouTubeで魅力ある庭園、建物を回遊し、山手から山下、中華街まで変化に飛んだ面白みをアピールできる。まだフランス領事館を甦らせる余地もある。魅力あるカフェ、レストランもある。まだまだ次のステップが残っているところが羨ましい。


🌌京都五山の送り火🔥

京都五山の送り火はしめやかに執り行われる。同じ京都の葵祭や祇園祭や時代祭とは違う。隅田川や諏訪や長岡各地で催される華やかな花火大会に比べると線香花火、質素で哀愁が漂う。ただ、厳かで闇に瞬く炎は力強い。午後8時から5分毎に火が入れられ30分、それぞれ、送り火を山に浮き上がらせ、全て終わるのは8時50分。五山全てを見ることができても50分のみ、内10分だけが全ての送り火を眺めることができる、何せ短い。人の一生は儚い真夏の夜の夢であることを告げる。ただ、死者への送り火として見るとこれほど相応しいものはない。お盆に家族の元に降りてきてくれた亡き人の魂が冥府へ戻る別れの時を惜しむ。日本古来のお盆の姿がここにある。

京都五山とは禅宗の名刹とは全く関係ない。送り火の由緒も明確ではない。いつどのようにどうやって始まったのか、書かれたものがない。京都北面の標高の差ほど高くない山々。大文字は如意ヶ嶽(472m)。妙法は松ヶ崎西山(135m)、はその東山(186m)、舟形は西賀茂船山(317m)、左大文字は大文字山(230m)、鳥居形は曼荼羅山(191m)、いずれも中腹で送り火が焚かれる。一番低い山の標高135mは30階建てビルの高さほど。私の泊まった京都駅前の京都タワーが京都一の高さ131mとなる。京都の建物には31mの高さ規制があり、景観が保たれているが、五山を全て見渡すとなると自ずと限界が生じる。五山の送り火は山を守る人々によって、信仰に帰依する心から、親から子へ、子から孫へと引き継がれてきたもの。決して単なる見せ物ではない。第二次世界大戦中を除き、台風や地震やコロナの災禍を乗り越え、少なくとも400年以上毎年行われてきたことに驚かされる。

京都五山送り火は日本古来のお盆の姿を守ってきた

送り火の開催は8月16日と決まっている。休日平日問わずとなる。勤めているとなかなかこの日を休むことはできない。またハイシーズンで旅費代も高くなる。高くともホテルもとれない。この僅か50分のためにこの時期無茶苦茶暑い京都に高い旅費をかけ、休みを取り、向かうのも気が引けた。しかも五山全てを見る場所を確保するのさえ難しい。この時期、東京-京都往復は新幹線で28,340円になる。京都タワーホテル宿泊費20,980円(五山送り火鑑賞立見チケット付き・朝食込み)、合わせ、大人2人で98,640円かかる。実際、この費用を安く上げるため、今回、JR東海ツアーズのツアーに3月末応募した。大人2人で74,600円也(朝食込み)。但し、これには五山送り火鑑賞チケットが付いていない。結局、旅の1ヶ月前に京都タワースカイラウンジ空(地上45m)に予約を入れた。なんと2人で30,000円(食事+飲み放題付き)也。京の夜で2人で飲んで食ったら20,000円は下るまいと思い、決めてしまった。結局10万円を越えることになる。致し方あるまい。私がこの五山送り火をどうしても見たいと思ったのは単に物見遊山の気持ちからだけではない。これは幼い頃に読んだ漫画に理由がある。遥か51年前になる。

私が小学生だった頃、少年漫画週刊誌の創成期だった。サンデー、マガジン、ジャンプ、チャンピオン、どれをとっても面白く、親から怒られながら、毎週読んでいた。とりわけ好きだったのはマガジンで、ちばてつや川崎のぼる楳図かずおジョージ秋山松本零士の漫画はお気に入りだった。明日のジョー、まことちゃん、銭ゲバ、男おいどん、鉄の墓標等。自分も漫画家になれないか、デザイン学校に漫画を送っていた時期もあった。少年時代の夢は夢として儚く消えていったが。思い出しただけで涙が出るのが、川崎のぼるの「浪人丹兵衛絶命」だった。主人公丹兵衛を通して自分の生きる価値がどこにあるのか?死にゆくものに対して一瞬の輝きを残す意味を我々に問うものだった。正に大文字山の送り火の意味を問うものだった。

丹兵衛三吉という身寄りのない少年と知り合うところで始まる。しかし三吉は労咳を煩っていて、余命幾ばくもないことを丹兵衛は知る。妻と子に先立たれていた丹兵衛は自分の家に三吉を引き取り、看病を続ける。

ある日三吉丹兵衛の家から挑める如意ケ岳(大文字山)を見て、親子3人で見た「大文字の送り火」の思い出を語り、もう一度見たいと願う。そしてその年の「大文字の送り火」を見ることだけを楽しみに、病と闘うのだった。

その年の「大文字の送り火」は、台風のために中止になることが決定する。それを知った丹兵衛は、武士の魂である刀と鎧兜を売り払い、薪と油と馬を購入し、風雨の中ひとり「大文字の送り火」を決行し、炎の中で絶命する。

今年3月に私は母を見送った。死に向う床で精一杯、感謝の気持ちを伝えた。母は涙で応えてくれた。この夏が新盆。母を家に迎え、五山送り火を通して冥府に帰す。そんな想いで眺めた。静かに古女房と酒を呑みながら。台風の影響で、新幹線が7時間も遅れ、東京駅のホームを5時間座っては彷徨い、それでも一番早く出発する新幹線に飛び乗る。京都駅に着いたのは送り火の始まる1時間前、なんとか間に合った。古女房との生活も30年になる。何もできなかったが、なんとかここまで生きてきた。子供もなんとか学校だけは卒業させた。後20年、金婚式を迎えることを京で誓った。これはお互いの両親ができなかったことだ。天国でお互いの両親は待っているが、今暫く時間を頂戴したい。両親とまた酒を酌み交わすにはまだ早いと思っている。

関東人は大文字焼きと言うが、これは箱根の大文字焼きから来ている。京都では大文字の送り火と言う。比叡山の焼き討ちを思い起こすためという。五山送り火は正に宗教行事であり、厳かに祈り、亡き人を思い冥府に向かう姿を炎の中に見る、それぞれの山を守る民衆の思いが送り火となる。花火大会の原点に位置し、見るものの心により重く強く響く力を持つ。浪人丹兵衛三吉の最後の時に大文字の送り火を自らの命を捨ててまで見せた気持ちがひしひしと伝わってくる。

ウクライナ🇺🇦の夏祭り🍺イワナ・クパーラ、今年も日本🇯🇵で

2023年7月9日、梅雨は明け切れてていない。天気予報では祭りの時間には小雨が降る。雲行きも何となく怪しい。今年も日本で迎えるウクライナの夏祭り、2度目になる。昨年2月24日のロシアのウクライナへの軍事侵攻から戦禍を逃れてきた人々と日本在住のウクライナ人や支援者を中心に日本で初めて催されるようになった。昨年の祭りには100名以上のウクライナ人が集まり、歌い、踊り、支援を求める声が響き渡った。この祭りを今年からイワ・クパーラと呼ぶ。ウクライナ語に従ったようで、昨年はイワ・クパーラとロシア語に従い呼んでいた。イワナというとイワンという意味になり、けしてロシア語読みと変わる訳ではない。イワンというと世界史で習ったロシア帝国の礎を築いた皇帝の名、或いは小さい頃読んだトルストイの書いたイワンのばかを思いだす。しかし実際のイワンはイエス・キリストに洗礼を施した洗礼者ヨハネのロシア語名。キリスト教やユダヤ教、イスラム教においては、聖人の名を神から与えられて名乗る。ヨハネは聖書に記されたヘブライ語でYôḥānān、そこからヨーロッパ文化の流れに添い、ギリシャ語のΙωάννης(イオアンニス) 、ケルト人のゲール語のIan(イアン)からスラブ語のИван(イワン)へと変遷したといえば分かり易い。ドイツではJohannes(ハンスまたはヨハン)になり、イタリアではGiovanni(ジョヴァンニ)、フランスではJean(ジャン)、スペインでJuan(フアン)、オランダではJan(ヤン)、イギリスではJohn(ジョン)となっていく。ヨハン・セバスチャン・バッハジョン・レノンヨハネで結びつくことに不思議な感覚を覚え、ジョン・レノンの非業の死が、正義を唱え、正義に殉じた洗礼者ヨハネの最後と重なる。

イワナ・クパーラはロシア語で Иван Купала、ウクライナ語ではІванa Купала、東スラブ人の民俗祝日、古代からの民間伝統の夏至祭が、キリスト教受容と共に、洗礼者聖ヨハネの誕生祭ユリウス暦6月24日)に取り込まれて祝うようになる。この祝日の名称は、東スラブ語の「kàpati」即ち「水浴する・水に浸す→洗礼を授ける」という言葉に由来している。日本では夏至を祝うことも、浮かれたクリスマスは別として、キリスト教は程遠く、仏教神道信者としても宗教上の聖人の生誕を祝う祭りもない。しかし、何処か、夏を彩る日本伝統の盆踊りに近いものを感じる。何故だろうか?

お盆は中国仏教起源の盂蘭盆会。お盆の日、旧暦7月15日は仏教では安居が開ける解夏にあたり、僧侶を癒すために施食をし、父母や七世の父母の供養を行う。この供養を地域縁者で舞った念仏踊りが日本古来の歌垣の風習と結びついて盆踊りが生まれた。盆踊りは不思議なことに、いつしか先祖供養、更に国やその地域を超越し、民衆の拠り所へとなっていく。阿波踊り、よさこい踊りは完全に盆踊りを超えている。何故か?盆踊りには、人種、民族、宗教を超えて我々の心に訴えるものがあるからに違いない。音楽、歌、そして踊りには接するものに普遍的な愛をもたらす。これは音楽に合わせ一同に踊る一体感、人々を結びつけるパワーだ。これは民衆が勝ち取ろうとする平和・融和への祈りにも通ずるものがある。イワナ・クパーナにも民衆の祈りが託されている。権力者や為政者が抑えようとしても止まらない祈りの力がある。人類にとって自然は生きるための糧を提供しながら一方脅威でもあった。大雨の時もあれば旱魃の時もある。自然は気まぐれで、人類は翻弄されるのみだった。古代人は太陽を神とし、崇め、祈り、助けを求めた。人々が一体感を持つ祈りは韻を踏み、音楽が生まれ、更に音楽を体現する踊りが生まれた。

今年のイワナ・クパーナは昨年より規模が縮小したことを否めない。川崎市営の稲田公園、けして名の通った公園ではない。ただ、園内に小川が流れ、せせらぎを聞く多摩川沿いにあり、新宿から京王線一本で来られる穴場と感じる、緑溢れるこじんまりした公園、集まっているウクライナ人も昨年ほどではない。まず100名もいない。昨年は戦争勃発から半年も経っていなかったので、日本全国からウクライナ人が故郷を思い、集結した感があったが、戦争が長期化し、戦線も硬直化しているなか、日本全国に散らばった彼らは各地域でこの祭りをそれぞれに祝ったのではないか。寧ろ、生活に追われ、わざわざここまで来る余裕もないかもしれない。今回集まったのは東京の語学を含めた留学支援を受けた若年層が中心になったようだ。日本への避難民は約2,300人、1/5は20歳未満で、3/4は女性。若年層の女性が生きのびれば良い。避難民へのウクライナ国民の願いは、例え、国は滅びても民族の血だけは絶やしたくないのではないのか。ウクライナの人口は1992年には5,200万であったのが、2023年には3,200万へと2,000万も減っている。人口の4割近くが消えている。国内外に避難している人が今も1300万人超に上っている。国民の4割が非難民化していることになる。海外で一番逃れている先の国がロシアであることに驚かされる。これは戦線に置かれた住民のロシアへの強制移住の所為と推測できる。戦禍に置かれた国民の苦しみを表す実態がここにある。

ロシアの穀物の輸出相手国はほぼ中近東、アフリカで、大量に一度に運送しなければならないコスト勝負の穀物輸送は船便しかない。黒海が輸出の拠点になる。ロシアにとって黒海を抑えることが焦眉であり、良好な港のあるクリミア半島はその核心に当たる。しかもクリミア半島はタタール人からロシア帝国が奪い取った歴史もあり、ロシア系住民も多い。今更ウクライナに戻す訳にはいかない。一方、海のないウクライナにとっても黒海は重要な輸出の拠点。クリミア半島が奪われると死活問題になる。両国にとって黒海は正に生命線。更に、ロシアが制圧しているドネツク州、ルガンスク州、ザポリージャ州、ヘルソン州は黒海をつなげる最短ルートにあり、しかもロシアが育てた工業都市でもある。全てプーチン大統領一人を悪者にしている風潮は歴史を見間違えるもの。全てが必然の結果になる。ただ、一つの重要な観点が抜けている。このロシア侵攻により、ウクライナの一般市民の置かれた状況を見る目。被害者は全てにおいて一般市民になる。彼らを救う道が閉ざされている。この戦争はいつ果てるともわからなくなっている。一般市民は国を捨て避難民にならざるを得ない。しかし、逃げられない農民はどうなるのか?翻弄されるがままだ。彼らを救う手立ては残っていないのだろうか?神に祈るしかないのか?

規模の小さくなった今年のイワナ・クパーラにはプロのダンサーはきていなかったし、演奏もなかった。ただ、昨年と大きく違うところがあった。それは踊りの輪に多くの日本人が入っていったことだ。

レンタ🚲で埼玉行田巡り 忍🏯〜古代🪷〜さきたま🪦〜茂美の♨️🚲17.5km

2023年7月7日七夕🎋朝7時23分。埼玉県鴻巣市の吹上駅に着く。新小平から武蔵野線、京浜東北線、そして高崎線へ乗り繋いで1時間15分。早く出発して正解。都心から離れる電車は平日でもあり、それほど混んでいない。晴天、風なし、30℃を超え暑くなる予報。2000年の時を超えた満開の古代🪷を拝むのが目的。しかし、調べれば周りに魅力ある場所がゾクゾク出てくるではないか!まず忍城!11年前見た映画のぼうの城の舞台、豊臣勢20000人vs成田勢500人、水攻めを凌ぎ切った🏯。更に埼玉県の謂れとなった突如現れる大規模古墳群があるさきたま古墳公園。全て5km以内で行ける。更に古墳群の近くには茂美の湯という♨️まである。全て行田市内。最高!

行田市は関東のほぼ中央、埼玉県の北、群馬県との境にあたる。首都から 60km圏内。東京で言えばあきる野市がほぼ同じ面積67.49km2と人口76,864人になる。ただ、埼玉県有数の稲作地帯2000年の歴史。利根川に接し、昔、荒川も流れていた。肥沃な土地。大平原が広がる。史跡が集中するには訳がある。古墳時代の中心であった群馬上野国と武蔵国の接点。利根川を下れば。下総につながり、更に東京湾から太平洋に通じる。中山道を辿れば信濃へ、信濃から北へ下れば日本海。

全て歩いて回れない距離ではないが、じっくり回るには肉体的、精神的にきつい。自転車で家から向かうには途中体力を消耗するばかりか、車道の怖さが堪らない。バス代が行田市は安い(150円/乗車回)のだが、3か所も回るのに都合良く来てくれるか?時間に追われるか?手軽なのがレンタ🚲だ。ネットで調べるとPIPPAが吹上駅にある。初めてのレンタルで怖い気もするが、賭けてみることにした。吹上駅は行田市の南東の鴻巣市にあり、忍城も古代蓮の里も埼玉古墳群も全て行田市、北口から向かうことになる。北口に降りて駅員に聞いてみるとレンタ🚲は南口に一台あるのを見たとのこと。急いで南口に向かう。階段を降りて向かって右側にあった。喫煙所と間違えそうである。携帯のアプリに登録しておいたので1,100円を単にチャージしてスタート、これが間違いだった。デイパスを選ばなければならなかった。12時間で880円、今回9時間弱で課徴金935円の請求、使用料トータル2,035円になる。途中停めていた時間も請求の対象になるようだ。問い合わせのメールを入れてもなかなか返事が来ないので、電話したところ、私の誤操作を許してもらい、全てチャラにしてくれて、880円にしてもらった。新しく借りる方要注意!初めて乗ったレンタ🚲はタイヤがパンクし難くするためか、タイヤが硬く、頑丈なボディーは重い。シンプル構造で安定性が悪い。ギヤは三段のみ。坂道がきつい。文句を言ったらキリがないが、まあレンタルとはこういうものかと思わざるを得ない。まずはとても遠距離を走れる代物ではない。盗むものはまずいないと納得。

古代蓮の里を朝9時からと勘違いしていた。これは古代蓮会館の通常の開館時間で、この時期は7時から開いている。蓮は早く開き、昼には閉じるので、蓮を堪能するためには遅くとも8時には入るべきだ。戻りをさきたま古墳群そして近くの温泉に入って駅へとを考えていたので、一筆ルートで忍城へ向かうべきと思ってしまった。失敗だった。花は盛りに!が鉄則。城も遺跡もまず逃げない。実は忍城はちょっと覗いて、目的の古代蓮の里に向かう予定だった。真っ先に忍城に向かう。行田市郷土博物館がそこにあることも知らなかったし、ましてあったとしても入ることも考えてもいなかった。忍城趾へは旧荒川を越え、住宅地の先にある。天守閣は最早無い。明治維新で潰されている。観光のために物見櫓のみ再現されているが、全く新しい。寧ろ往時を懐かしむのであれば、近くの水城公園に佇むべきだろう。忍城が浮城と言われた所以がわかる素晴らしい景色だ。秋のホテイアオイの一斉に咲き誇るときにまた来たい。中国の古き水郷の姿を見る風景だった。古代蓮の里に向かう途上にあり、この道を選んで正解だった。忍城跡から古代蓮の里へ向かう道がサイクリングロードになっていないのは勿体無いと思われた。忍城と古代蓮の里とさきたま古墳公園の3点を結ぶサイクリングロードを整備し、サイクルマップを公表すれことによりより多くのサイクリストを呼び込めるのではないだろうか?行田市郷土博物館は9時から、8時過ぎには忍城趾に着いていた。天守閣と思っていた城郭が櫓と知り、そのまま古代蓮の里に向かおうかと思ったが、櫓からの景色を楽しみたくなった。何度も来られるところではない。しかし、上るには博物館に入場しなければならない。はっきり言って景色は大したものではなかった。櫓は外観はいいが、高さがなく、長大な景色は臨めなかった。タイムロス。しかし、ブラタモリの番組に取り上げられ、7月15日に放映されるのには驚いた。5月に取材に訪れたとのこと。縁を感じた。行田は面白いのかもしれないとこの時初めて知った。確かに2000年前に稲作が始まり、蓮が植えられ、1500年前には古墳群が築かれている。430年前に石田三成による水攻めに対する忍城の攻防は、正に稲作を守り続けてきた百姓の勝利に違いない。田植えを終えたばかりで田畑全てを水に流されるのを百姓が黙って許すはずがない。全ては繋がっている。古代蓮の里が楽しみになり、更にさきたま古墳公園に期待を持てるようになった。

2000年の時を超えて花を咲かせている古代蓮の里🪷行田蓮は元祖古代蓮で有名な大賀蓮とDNAが一緒とのこと、不思議な縁を感じた。大賀蓮は須恵器の底にあった種を植えたところ花が咲いた。須恵器は朝鮮から持ってきたものかもしれない。同じ遺伝子であればやはり朝鮮から遥々渡ってきたのか?大賀蓮が発見された地は千葉県検見川河口。旧利根川河口に近い。行田という地名は同じく旧利根川河口に近い船橋にもある。海を渡り、川を辿って蓮はやってきたのか?蓮は仏教伝来と共に中国から鑑真和尚が持ってきたことで有名だが、その遥か前に朝鮮経由で既に渡ってきたことになる。古の外来種になるが、この外来種には駆除せよの声は聞こえない。中国の蘇州の庭園では夏の風物詩の一つで、蓮の茎から酒を飲んだり、蓮の実を取って食したりして楽しむ。これは日本には伝わっていないようだ。

古代蓮の里に着くとまず踊り場で世界の蓮が迎えてくれる。これで充分に目を楽しませてくれる。古代蓮はどこにも見えない。奥には展望タワーの聳える古代蓮会館が見える。見物前に腹拵え、手前にうどん館。嬉しいことにこの時期9時から開店。まずこの公園で驚かされたのが、アルコール類を扱っていないこと。商売っ気があれば蓮酒でも振る舞えばいいのになんて思ってしまう。せめて地酒でも?この公園は健全ではあるが、商売気がないようだ。ぶっかけ蓮きんぴらうどん700円を食す。食券を購入し、蓮を見ながら外で食べられる。ふと見るとゼリーフライののぼりが目に入る。ゼリーを揚げるとどうなるのか?インターネットで調べると非常に危険とある。油が噴き出て火災の原因になるらしい。そんな危険なもの売るんかい!店を覗くとおばちゃんが普通に揚げている。なんとゼリーには関係ないオカラとジャガイモが具とのこと。ゼリーの食感が出るのか?食べてみると主にオカラとジャガとソースの味。普通にコロッケちゃうの!インターネット上では銭形だったのでゼニフライ、これがゼリーフライに。想像だにつかないジョーク。うどんも昔ながらの味。あまり期待しないで下さい。早々に古代蓮会館に向かう。この期間無休、朝7時開館、入館料400円、展示資料から驚いたのは蓮の花の命はたった4日だということ。花の命は短くてだ。しかも朝しか咲いていない。如何に次から次に咲くかがわかる。展望タワーに上がる。50mの高さから田んぼアートが望める。上の写真で壇ノ浦百美の頭部の向かって右側に蠢くアリさんが見えますか?あれ整備されているボランティアの方々。如何にこの田んぼアートが大きいかわかる。ギネスに世界一の田んぼアートで認定を受けたのは8年前になる。兎に角凄い!ただ見頃はこれかららしいが、これで凄さは充分に伝わった。更にタワーから望めるのが主役の古代蓮の咲く池。やっと分かった。3面に分かれ蓮池が広がっている。これも広大だ。急ぎエレベーターを降りて古代蓮の咲く池に向かう。

埼玉はカキ氷好きで有名。何せ熱い!と言いながら寒くても埼玉人はカキ氷を食べているのが面白い。帰りに食す。抹茶小豆ミルク500円、とても美味い。

遅すぎた。全て満開を見るには朝8時には来なくてはならない

私には隠れた楽しみがある。蓮池で食す生の蓮の実だ。花の終わった蓮の花托は大きくなり、無数の蓮の実を付ける。蜂の子のように見え、これを食べるのかと思われる御仁も多いようだが、中国では皆当たり前のように食すし、売っている。ベトナムでも韓国でも食すようだ。日本で何故食べないのか、売っていないのか?不思議でしょうがない。花托から蓮の実を取り出すのが面倒だからかもしれないが、蓮の実は栄養が豊富で炭水化物やタンパク質といったエネルギーになる成分から、カリウム、カルシウムなど歯や骨の元になる成分まで幅広く含まれ、血液凝固作用や体内酵素の活性化、神経伝達回路の保護、鎮静作用、筋肉の収縮性や心肺リズムの維持など幅広い効果がある。活性酸素の発生を抑え、非結晶型のアルカロイドも含まれ、血圧を下げる効果、不整脈を予防する作用もあるそうだ。是非、蓮の実が腐らない前に皆さんに食すことをお薦めする。味はまろやか、ほんのりした甘味がとても上品。蓮池の管理者の裏商売にもなるが、このようなことは貧乏臭くて日本ではやれないのかもしれない。中国では花托ごと売っていた。蓮の実は自分で花托からむしり取って食べる。一個130円ほど。花も身もある話

古代蓮の里に行くには、酒を事前に購入し、バスで向かうのがいい。バスは行田駅で乗る。南大通り線コース工業団地行き7時発であれば、長野工業団地バス停に7:13に着く。バスの乗車賃は150円。ただ、そこから1.8km歩くことになる。しかし、ほぼ7時半には着く。これが最短。土日祝日であれば、無料シャトルバスがある。行田駅発7:20、7:40には着けるが、相当バスは混むことになろう。お薦めできない。やはり平日(平日でも混むが)、古代蓮の里バス停から忍城趾(忍城バスターミナル)へ、ランチは水城公園でとり、水城公園前バス停から埼玉古墳公園バス停そして最終的に行田駅に戻る。バスは1時間に一本の観光拠点循環コースで乗車賃トータルは600円で済む。如何か?

さきたま古墳公園古代蓮の里から自転車ですぐ。幹線道路を渡り、旧忍川沿いの荒れたサイクリングロードを走ると小高い丘が見えてくる。これが一番古い稲荷山古墳になる。いきなりメインの古墳。雄略天皇の名が出てくる金錯銘鉄剣が出土している。日本最古の長文が記されている。古墳には二人葬られていたようだが、一方のみ盗掘されず由緒ある鉄剣を残したのだから不思議なことだ。仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳を丁度4分の1でできていること自体も不思議だ。5世紀後半に作られた古墳で、長く稲荷神社が鎮座していたため稲荷山古墳と名付けられている。渡来系秦氏の神社、渡来人との関係が推測される。実際、この古墳群に葬られている氏族の名は残っていない。彼らは何処から来て子孫はどうなったのか?全く分かっていない。彼らの存在を計り知ることができるのはこの大規模な墳墓の存在と発掘された副葬品に依るのみ。埼玉県で一番大きい墳墓群になる。一番大きいのはほぼ中央に鎮座する二子山古墳になるが、墳墓の発掘はされていない。これも不思議なことだ。発掘調査されているのはこの2番目に大きい稲荷山古墳将軍山古墳のみ。この時代、関東の大古墳群を形成していたのは利根川を挟んで群馬県太田になる。騎馬の装飾品が多数見つかっていることから、その時代、馬の供給地であった上野との関係が一番であったろう。5世紀から6世紀にかけ、榛名山が大噴火し、上野にあった有力氏族に大打撃を与えている。利根川を越えて移り住んできたことも考えられる。この地域は肥沃な土地が広がっている。将軍山古墳には展示館が敷設されていて、埋葬者の副葬品の詳細を説明している。馬具は高句麗由来のものがあり、高句麗からの渡来人と見られること、4代目に当たるのではないかということ。即ち、この古墳群に葬られているのは渡来人一族と見られ、騎馬民族で、ヤマト王権の設立に深く関わっている武人であったことだ。墓石に房州石が使われ、彼らは利根川を下って江戸湾を挟んだ房総との関係もあったと推測される。日本に馬は元々いなかった。馬を連れてきたのは古墳人だ。正に彼らが渡来人としてヤマト王権を築き上げた貢献人であった。彼らは朝鮮との戦争に駆り出され、滅亡したとも思える。この時代は朝鮮との戦いを繰り広げた時代でもある。さきたま史跡の博物館将軍山古墳展示館も入れて入館料200円、なかなか展示内容がリアルで面白い、様々な想像を巡らせてくれる。惜しむらくは二子山古墳丸墓山古墳の発掘を実施していなのでわからない部分にある。早急に発掘すべきであろう。古墳時代の邪馬台国滅亡から大和王権設立に渡る150年の空白の謎を解く新たな発見ができることに違いない。丸墓山古墳からの風景は美しかった。忍城の櫓が望め、古代蓮の里の展望タワーも間近に臨める。嘗て石田三成が、忍城の水攻めのために堤を築き、この古墳上に陣を構えたと言う。しかし、この堤は百姓たちによりダダ漏れ状態にされた。田を守るためだったろう。七人の侍の映画の中で勘兵衛が最後に言った言葉が忘れられない。「今度もまた、負け戦だったな。勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」いくら立派な墓を作っても何も彼らは残していない。肥沃な土地が全てと思えないだろうか。守るのは地場に根付いた百姓以外にいない。

さきたま古墳公園からまた幹線道路を越えて、黄色く派手な建屋が覗く、茂美の湯だ。さあ風呂に入って、疲れを取り、家路に向かおう。外観ではわからないが、自然み溢れる露天風呂が素晴らしい。これでもう少し、行田の風景を望めたら最高と思わせるが、建屋の構造上致し方ないのかも。湯は土色の柔らかい源泉になっている。勿体無いくらい溢れている。疲れも癒える。酒を飲もうと食事処を尋ねると大衆演劇の舞台の上の上の階、覗いたが、騒がしいのが苦手なので、酒は諦めた。また例により、吹上駅に着いて、ホームで電車を待つ間、缶酎ハイとつまみのチーズ鱈。プハーッ、お疲れ、ン?チーズ鱈に金属片が絡んできた。ガリッ、歯の詰め物が取れた。歳と共に歯茎が緩み、詰め物が取れやすくなっている。もう年だ。いつまでボケないで自転車に乗れるのかが問題になってくる。

蕎麦と饂飩、つなぐもの

東京では蕎麦汁饂飩を食べ、大阪では饂飩出汁蕎麦を食う。どちらも旨い訳ない。

蕎麦は江戸、関西は饂飩。上方落語の「時饂飩」が東京では「時蕎麦」。江戸蕎麦は江戸人の粋。しかし、江戸の昔は蕎麦ではなく饂飩

うどんvsそば、2021年、地域別にどちらの店が多いか比べた市場地図がある。一見して、愛知滋賀を境に、饂飩店が多いのが西、蕎麦はと明確に分かれている。市場があるから店がある理論。大阪はほぼ饂飩だが、東京は蕎麦に特化している訳ではない。山梨埼玉群馬、更に東京の一部は饂飩。蕎麦と饂飩を西と東で簡単に切り離すことができない。一方、四国愛媛香川は饂飩、長野が蕎麦に特化している。ここに寧ろ蕎麦と饂飩の市場を分ける理由そしてルーツがある。食文化は地域の育んだ歴史の変遷の中で醸造され熟成される。蕎麦には蕎麦汁、饂飩には饂飩出汁がセットになる。蕎麦の店は蕎麦汁、饂飩の店は出汁。蕎麦の店で饂飩と言われれば、蕎麦汁を、饂飩の店は饂飩出汁を出すしかない。東京だけでなく、蕎麦汁を饂飩に提供する店は東で圧倒的に多く、逆に大阪だけでなく、西で蕎麦に饂飩の出汁を提供する理由が分かる。蕎麦汁と饂飩出汁の違いこそが東と西が作り上げた食文化。お互い対抗しているかの如きだが、実際は深く交錯し、江戸の華として完成した。今に通じる美味を追求した世界に誇る食文化を生み出した。

蓼科の蕎麦の紅い花

蕎麦は言わずもがな、蕎麦切りを指す。蕎麦自体は元々お粥や蕎麦掻きとして食べていた。縄文時代に中国雲南の地から朝鮮経由で渡ってきた。島根県飯石郡頓原町から1万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では9,300年前、更に北海道でも5,000年前の花粉が出ている。饂飩の元となる小麦4世紀にやはり朝鮮半島経由で日本に伝来した。小麦は蕎麦に比べ新参者なことが分かる。しかし、もはや小麦は米に次ぐ第二の地位を得ている。饂飩、ラーメン、パン全て小麦からだ。中国語でも蕎麦は同じ漢字、荒地でもすぐ大きく育つ麦とされていた。ただ雑穀扱い。粟や稗と同じ。石臼が普及していなかった日本でもこの長い歴史にも拘らず、メジャーな食材にはなれなかった。数千年の時を超えて、メジャーへの道、蕎麦切りが誕生する。近世、戦国の世、江戸から遠く離れた木曽の定勝寺文書に記される。天正2年(1574)、武田信玄の時代だ。その頃はつなぎはなく、今で言う、十割蕎麦。蕎麦のつなぎを朝鮮の僧、元珍が奈良の東大寺に伝えたのは寛永年間(1624~1644)。朝鮮において冷麺が初めて書物に記されたのが1643年朝鮮王朝の時代、張維の渓谷集において。冷麺は蕎麦粉を澱粉や小麦粉をつなぎに使う。江戸まで蕎麦のつなぎを伝えたのは正に朝鮮通信使しか想像できない。何せ入鉄砲と出女の時代、誰が掻い潜って江戸へ蕎麦のつなぎを伝えたか、彼らは朝鮮より蕎麦粉とつなぎの小麦粉を持ってきて旅先で練って茹でて冷麺として食していた。足らなくなったら、現地調達していた。日本には蕎麦も小麦も既にあった。日本人の旅先案内人は作り方を教えてもらったに違いない。

つなぎのない蕎麦は香りはいいが、打つのが難しい。生一本では世渡りが出来ない。生蕎麦の難しさを物語っている。生蕎麦は高く付く。生蕎麦がいつの間にか幾楚者に代えられた理由が分かりそうだ。読めますか?

つなぎのない蕎麦は茹でず、蒸して食べる。せいろ(蒸籠)に今も蕎麦をのせて食べるのはこの痕跡。蒸すと柔らかくなり喉越しが生まれる。その頃、蕎麦汁も出汁もない、味噌ダレ。蒸した十割蕎麦を味噌ダレの浸して食べていたから、江戸の粋から程遠い。アッサリ、ツルツルッとはいかない。江戸の後期まで蕎麦は江戸で受け入れられず、饂飩の世界だったと言う。ただ、嬉々として食す人々がいた。それは蕎麦切り発祥の地、信濃からの出稼ぎ労働者であった。その時代、晩秋に群れて江戸に下ってくることから椋鳥と呼ばれ、川柳や狂歌では、図体も大きく、食事の量も半端ではなかったので、”大飯喰らい””でくのぼう”の象徴とされた。ただ、彼らは蕎麦の旨さを知っていた。信濃の荒れた土地でも大きく育つ蕎麦は宝だった。彼らは江戸に蕎麦の文化をつなぐ伝道師となった。江戸前三大蕎麦の一つ更科は彼らの誇り。さらに時代は下って、つけ麺を生み出したのが、長野県出身の東池袋の誇り今は亡き大勝軒山岸一雄氏だ。麺はもりが美味いのを信濃者は知っている。そば湯を飲む風習はまず信州で始まり、江戸時代中期の寛延(1748~51)の頃、江戸に広まったとされる。つまり信濃者は蕎麦の楽しみ方を知っていた。長野が今も蕎麦の文化を守っていることが分かる。秋、蓼科には蕎麦の花が咲き誇る。

そもそも味噌ダレ饂飩の汁。蕎麦の文化は元々江戸にはなかった。武蔵は饂飩の文化。味噌で饂飩。これは今も甲州名物ほうとうに残っている。ほうとうは中国語の餺飥(ボートゥオ)から来ている。饂飩の元となる小麦粉で作った食べ物の意。奈良時代の楊氏漢語抄に既に記載されている。中国においては、南宋の朱翌が猗覺寮雜記に北方の人々は餺飥という麺を食すと記している。宋から禅宗の精進料理と共に13世紀餺飥は日本にやってきたと考えるのが自然。この餺飥はなんと!中華麺の元になった。の時代(1271〜1368)に鹹水を使い餺飥を作ることによって中華麺が生まれる。日本には鹹水がない。そして饂飩が生まれる。中国の水餃子の餛飩(フントゥン)が転じた。中国では饂飩餛飩も一緒のもの。麺状になったのは日本の南北朝以降であり、それまでは今の雲呑(ワンタン)同様、餡の入った水餃子として食していたからだ。今や雲呑は別物になっている。江戸では饂飩うんとんとも書いていたが、この名残。饂飩が記されているのは応永年間(1394~1428)に成立した庭訓往来になる。饂飩の成立が中国から禅宗と共に伝わった精進料理の成立と深く関わっていることが分かる。私は中国に駐在していた時、餛飩をよく食していた。スープは日本の出汁と一緒で美味い。海苔とネギが入っていて、すっきりさっぱりの味わい。中国には脂ぎったスープが多いが、これは全く違う。海鮮風味の旨みを味わうことができる。日本を懐かしんだが、寧ろこちらが元だったのだが。

蕎麦のつなぎは小麦粉。言わば饂飩蕎麦にツルツルっと粋な食べ方に繋げた。更に、つなぎがあれば饂飩打ちの要領で蕎麦は誰でも打てる。早く、安く上がる。小麦粉のつなぎを入れて打つようになるのは18世紀初頭、そして二八そばが登場するのは享保年間(1716~36)夜鷹そばが生まれ、江戸市中でそば屋の数が増えるのは、寛延(1748~51)から安永(1772~81)にかけて、夜鷹そばに対抗し風鈴そばも現れる。最盛期、江戸市中だけでも蕎麦屋は数千軒あったと言われる。小麦粉によって蕎麦切りは大衆のものになった。饂飩があって今の蕎麦を生んだ。

2020年の日本人のゲノム解析を見るとなんと近畿・四国に漢民族の渡来人の遺伝子が多い。彼らこそ小麦文化の担い手。1万年前、縄文人はを主食にし、稗、稷、蕎麦も食べていた。要は雑穀が中心だった。3千年前稲作が北東アジア人の移住と共に入ってきて弥生時代へと移っていく。1700年前、より広範囲な東アジア人が大和王権と共に小麦を中心に新たな食文化を日本に築いていった。古墳時代。小麦伝来と大和王権の設立が空白の150年と呼んでいる時期に重なる。不思議なことに縄文から弥生、そして古墳時代と移っていても大きな内戦の痕跡が残っていない。民族間の軋轢、紛争は起きず、最後に大和王権が鎮座する。内戦の記録は全て焼かれたとしても殺された人々の怨念、記憶、傷跡は残るはずだ。古事記では、伊弉諾、伊奘冉は淡路島から四国、隠岐九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で産んでいく。出雲、九州そして本州にも既に王権があり、四国から政権を樹立するのが道理。支えていたのは渡来人。驚いたことに今の日本人の遺伝子において渡来人由来が既に縄文、弥生人を凌駕している研究結果が出ている。関西や四国の言葉のアクセントも渡来人文化圏とほぼ重なっている。他の地域にはこのアクセントがない。正に関西弁の本筋。私が中国に駐在していた時、関西弁のイントネーションが中国では受け入れられることが羨ましかったことを思い出す。渡来人には溜池を作り、小麦を作る技術があった。これが一番の後ろ盾であった。更にこれが饂飩伝来につながっていく。饂飩の文化圏と渡来人の文化圏に繋がっていることに驚かされる。正に四国の愛媛香川が饂飩県になっている訳がわかる。小麦が表舞台に伸し上げたのは何と饂飩蕎麦の出現によるもので、それまでは日本人は即食べられる大麦を食していた。今の我々が麺を欲する理由が、縄文でも弥生でもない古墳時代に渡来した東アジア人のDNAにあることがこれで分かる。

小麦は更に蕎麦汁や出汁に繋がっていく。蕎麦汁あっての蕎麦であり、出汁あっての饂飩。蕎麦汁は濃口醤油白味醂、そして鰹節が基本。まず鰹節は安房に1781年に伝播され、白味醂1804年に流山で生まれ、濃口醤油文化文政年間(1804‐30)に銚子にて完成される。全て黒潮の流れ来る千葉県に当たる。濃口醤油が従来の醤油と違うのは小麦を麹として使っていることだ。熟成度、甘み、香りに大きな違いを生んでいる。つまり小麦蕎麦を美味くした。一方、饂飩の出汁は昆布いりこ(煮干し)、淡口醤油。昆布は17世紀の江戸時代、北海道から北前船で運ばれた。いりこは片口鰯で瀬戸内海で獲れた。淡口醤油は1666年兵庫瀧野で濃口醤油から生まれる。正に小麦麦麹の産物になる。関西の饂飩の出汁は蕎麦汁より早く完成している。関西の饂飩の出汁は飲むためのもので、東の蕎麦汁のように麺を着けて味わうものではない。私が三重に住んでいた時、饂飩だけでない、蕎麦を出汁で頂くと美味いことがわかった。蕎麦の味わい方がまず違う。もり蕎麦はで食べるものだが、出汁で食す蕎麦は風味で食すもので、蕎麦だけでなく出汁をも楽しむものになる。これもまた乙なもの

蕎麦自体は粥や蕎麦掻きとして1万年前の縄文時代から食べられてきた。饂飩は、4世紀に渡来人が持ってきた小麦から麺となるまで10世紀かかっている。蕎麦が麺になるまでは更に200年待たなくてはならない。即ち、蕎麦から蕎麦切りを生むまで約9,550年掛かっている。饂飩は17世紀に出汁が生まれ、西の饂飩文化が完成される。蕎麦は18世紀につなぎの小麦粉を使い二八蕎麦として、爆発的人気を得ることとなる。汁は出汁の効いた味噌だれだった。濃口醤油、白味醂が完成され、蕎麦汁が完成するのは19世紀になる。蕎麦が麺として一本立ちするのにつなぎ、出汁を含め、饂飩の力が必要だった。蕎麦は長い年月をかけやっとメジャーになった。9,800年掛かった。

うどんvsそばvsラーメンの2021年市場地図がまた面白い。ラーメンは日本においてメジャーになってまだ50年そこそこに過ぎないが、既に饂飩、蕎麦市場を凌駕している。特に東北、北海道、九州、中国地方と市場への侵食が激しい。饂飩:17,999件、蕎麦:18,978件、ラーメン:24,370件、これが店の数比較になる。短期間で市場を席巻しているには幾つか理由がある。1つは、ラーメンの饂飩や蕎麦にない魅力だ。まず汁の種類、醤油味噌から選べ。更に出汁の豊富さ。豚骨鶏がら煮干し。具も野菜チャーシュー味付き卵、ボリューム感で饂飩、蕎麦を圧倒する。東北においてもはや饂飩店をラーメン屋が食っている理由はここにあるのではないか。2つ目は元来、日本人の遺伝子の中に外来のものを自然に取り入れる性質があるということだろう。考えてみれば、天ぷらカツカレー、いつの間にか日本の料理に組み込んでいる。然ればラーメンは饂飩や蕎麦に置き換わるのであろうか、それはまずありえない。まず蕎麦、これは雑穀としての強みにある。”simple is best” 立ち食い蕎麦というコスパの良さもあるが、あっさりしていて胃もたれを起こさない健康食としての魅力もある。更に日本酒や焼酎との相性だ。江戸時代、江戸の街で蕎麦が流行ったのは白米中心による脚気の流行で蕎麦はその防止、しかも蕎麦と酒はセットだったようだ。食の歴史は贖えない。

面白いデータがある。バブルが弾けて以来、日本は景気の低迷に苦しみ、外食産業も1990年代末以降ほぼ低迷している。その中、うどんそば店だけは安定しながら、若干伸びている。これはコスパ重視に動いたと同時に、我々自身が原点回帰に向かっている。東日本大震災、コロナ禍を経て、更に我々は自らの身の丈に合った食生活に戻ろうとしている。江戸時代、白米中心の食生活で脚気に苦しみ蕎麦に回帰したように贅沢な食生活からやはり質素な蕎麦や饂飩に戻るべきと思い始めている。蕎麦は1万年、饂飩は1600年の歴史、先祖の食を作り上げた道を振り返り、大切にしなければならないと理解する時が来たことに間違いはない。

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