
旅が人の心を搔きたてるものは何なのか?命を賭してまでなぜ旅に出るのか?旅には何があるのか?
芭蕉は旅に生きる人々も旅に何かを求める人々も同じ旅人と言っている。生活するために旅するも精神的な救いを求めて旅するも同じ。旅は人にとって生きること。旅は人に糧を与え、時には財宝をも与えた。更に巡教の道ともなった。救いを求め、失なわれた何かを求め、現実を逃れるためのものであった。その中でいつしか美を見出し、真理を追究し、想像の世界を造りだした。旅は心を解き放つ手段となった。然るに得てして旅は苦行を強いる。芭蕉のおくのほそ道も述べている。古人も多く旅に死せるありと。古の旅は更に厳しいものであったろう。今でもけして全て安全な旅はない。
私にとって30代からの旅は正に生きる糧を得るためのものであった。世界中どこへでも行った。市場開拓という辛い一人旅だった。その中で健康は蝕まれていった。50歳で大病を患った。人生の旅の形を見直す契機になる。私の中で旅は形を変えた。自分のための旅をしようと。若かったころどこまでも自転車で走ったことを思い出した。ヘルメットのいらないパパチャリで家の周りをまず縦横無尽に走り始めた。それから川を辿り走り続けた。川沿いは走りやすく、堤があればそこに道があった。川を見つければ今でもそこに向かう。そこから四季の花々を楽しめる公園へ、或いは日帰り温泉へ向かう。温泉は体と心を自然に解き放つ。体が少しずつできてきてから山に向かうようになった。私が好きなのは旧道であって、更にその先の峠である。旧道は細く、車も入ってこない。まして峠は今やトンネルへと置き換えられている。峠は旅を続けるための山越えの道である。けして頂きではなく、山道をくねくねと、越えやすい低い山の尾根を目指したところである。古い峠には旅人の息遣いが感じられ、往来した人馬の足音が聞こえる。馬のいななき、峠の茶屋の呼び子の声、峠で一休みする旅人の姿が私には見える。山の国日本は峠の国である。正に峠という漢字は日本人が作った中国にはない独特の漢字である。日本人が誇れる国字である。人生の峠を越えた私にとって心地よい響きを感じる。峠という字は山を上る道が下る道になる所、うまく表している。
非効率とも思えるパパチャリに乗って川沿いを公園へ、或いは温泉に向かい、或いは旧道を走り峠を目指す。これが私のみつけた新しい旅の形となった。今は自転車もマウンテンバイクにグレードアップしてはいるが、私のライフスタイルとしてこの旅路を辿り続けていきたい。峠への誘いにも従って。
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